最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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人は内面から来るもので汚されも清められもするのだ。そして内面から来る光が外部にも影響をもたらす。顔には、人を癒す力があるのだ…。マスクだらけの世の中になってみてようやくこれに気付いた次第だ。少々荒治療ではあったが…。
異教徒(ノーマスク)の隣人を愛せる人がこんなにたくさん居るなんて
なんだか今は、深い物語の中を生きているみたいだ。凄い人というのは案外沢山いて、分け隔てなく愛を注いでいる。
散文詩【白い布を崇める教団ってタイトルで展覧会に出品したんだけど案の定、没だったな】
それでもここまで、喉元まで、刃物の代わりに10円足らずの白い布切れを突き付けられて、YesかNoかハッキリしなくちゃならないところまで、歴史ってものが全世界の個人に迫ってくる地点に今居るってのは、ある意味とても重要な時代に生きているとも言える。
まったく分かり合えない、血を分けた愛すべき異邦人たち。
ヨナが水の中に居る時に『地の貫の木はいつも私の上にあった』という表記があり、何だか古事記の『根の国』みたいだなあと感じる。つまりヨナは三日三晩仮死状態にあったということだと感覚的にわかる。つまりヨナはよみがえり(蘇りというよりかは黄泉帰り)したのだ。
こういった…生身で、リアルに満ち溢れる心、愛のようなものに接すると、世に溢れかえっている世論というものがいかに嘘かわかる。嘘に対して我々は怒り、嘘に対して虚無感を覚えているのだ、嘘に対して、心底無駄なエネルギーを使わされている。
子供から老人に風邪がうつり老人が死ぬ・それは特段不幸な事なんかじゃない、次の時期への移行を促されているに過ぎないのだ。
ひと月も経たないうちにみんな野放図に摘んでしまい、ついに団地内ではその花が絶滅した。
『ワクチン接種をしたりマスクをきちんとつけていれば、その科学的真偽はともかく、従うという意向を見せることで世の中が正常化する』 これって… 『原子爆弾を落とせば原住民が戦意を無くし、世界が正常化する』 という(屁)理屈に見事にぴったり当てはまるんだよなあ…。 右に倣え思想で権威や科学(めいたもの)を基準に世界を均一化しようとすればするほど人間は狂ってゆく。
マスク着用に於ける風邪予防というのは、健康な人に杖歩行を強制したり、睡眠を削ってまで健康体操を強要するような素っ頓狂なものだ。
森は動物の墓所なのだ。森は彼岸なのだ…。
この種の災厄の元は、ウイルスというよりも疎外感、劣等感だろうなと私は感じている。だとすると私もこの災厄に加担した一人である事は、否定できない。
【衛生概念】コロナ感染飛沫が汚いというのならば先ずは虫歯や歯垢を完全に綺麗にしてから物を言えという話。
ワクチンパスポートなんていう馬鹿げたシロモノをこさえるくらいならば【口腔パスポート】を作ったほうが理にかなっている。虫歯や歯垢ゼロを目指した方が口腔内が清潔に保たれるし、何よりこれは物理的な話であるので、飛沫恐怖症の方々にだって納得していただけるだろう。
ゴミ拾いは嫌な事ではない。ゴミ拾いは私にはボランティア活動ではなく鍛錬趣味である。もっとゴミ拾いの良さ、身体動作の稽古になるなどのメリットも伝わればいいなあ。
だからなるべくボランティアという言葉は使わないようにしている、本当に気が向いた時にやるだけで、しかもそれは個人的にやっている趣味なのだ、ゴミ拾いは一つの趣味なのだというポーズを貫くことに決めている。
花は人間世界の波を特段感じずに咲いている、ポンポネッラというのは『ポンポン咲いて行く』みたいなそのままの意味の品種名。来年も咲いてくれると思う。疫病が終わろうが到来しようが、こいつはポンポン咲いて行くんだから。
何となく、『健康』を体現してくれているように感じている。
世界の誰もが自分の幸福を追求し、それをコンスタントに実現出来ていたら…世界平和というものが訪れるのだと私は感じている。
果たしてすばらしい青の世界は実現するだろうか?今の時点で言うとそれは植物販売業者の側にかかっている、頼むからはやく発送してくれ…。
おそらく河川全体の方でも私を愛してくれている、言うまでも無く河川は誰でも愛している、終わらない不眠を抱える人のことも、不織布をせっせとこさえている工場も、それを風に吹き飛ばしてしまう人間のことも、全ての生き物の事も。
よく、『何かに乗りうつられた』とか『悪魔が俺に指図した』等と、傍目には嘯いているようにしか見えない言い訳をする殺人者や小児性愛加害者が居るが、私には彼らが…彼らなりに精一杯本音を言っているのが実はすごく『理解できる』、理解出来てしまうのだ…接してきたから。
街の明かりもそうだけれど、離れて観ると何もかもが美しい、雷も然り。だから今こうして過ごしている毎日に、死後、と呼ばれる状態…あるいは夢見の状態で舞い降りたなら、何気なく自分が毎日やっている動作の中に神秘を見るのかもしれない。
だから花壇やゴミ拾いというと静かで地味でいかにも、中高年の趣味という感じがするのだが、実は非常に…一種の攻撃性?も含んでいる行為だと実感している。攻撃というと誰かを傷つけているような響きがあるが、例えて言うならばそれは鳥の力強い羽ばたきや、水しぶきのようなもの。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
「宇宙は試してくるなあ」とぼやいたら、『誰でもいつでも試されているよ』と知人に言われてなんとなくハッとする。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。