最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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多少なりとも土いじりをする人間にとって質のいい落ち葉ほどの宝はそうそうない。どうかエルドラドが私に開かれたままでありますように…。
…犬嫌い、猫嫌い、男嫌い、女嫌い…等々は基本的に数分間でだいぶ軽減されるという事だ。
もう名前すら忘れたが、当時本当の事を言ってくれた医師に感謝している。
山奥に住んで居て完全な人間社会嫌いでネットも見ない…そのような人物の心のうちというのは、こんな風に与太話をこさえてあれこれ思案したりしない分、案外澄み切っているのかもしれない。
だから、損をする覚悟で、もう少し周囲を見回してみることを自分に課している。 私の臆病は死ぬまでには治るだろうか…臆病を治した方が犯罪被害に遭う確率も減りそうだし直したいのだが。
幸福の在り方としてわかりやすいのは自己実現を筆頭に、富や相思相愛といったものだが… この地味な幸福の味も、もっと多くの人に広めたいものだと、私は思って居る。
人間関係の質というものが、実は他人やすれ違う人との関係性にも多く依り、さらに言うと草木や虫すらもそれに含まれるのだということを、私はここ半年でかなり学ばせてもらっている。
個人で自分の行動を選ぶことくらいは、神様も許してくれるだろうし、全ての自然現象は取捨選択の集合的結果として世に現れているような気がする。夢というものも、この世の一つの結果として構築されている一つの世界なのだろうか…?そうだったら面白いなあ。
生きるということは 神様がたった一瞬触れていてくれること だけど生き続けては駄目 死ぬのは神様の元へ還る事 だから殺しては駄目
※この記事は、避難民の人が可哀そうとか、そういう当たり前の倫理観は度外視して好き放題に書かれています、悪しからず。
暑さや湿気にもめげずに育っている。この植物を調べると猫除けと記されてあったりもするが、庭には猫もやって来るのであんまりは意味ない。
こういう虫の糞も土に還ったらいい働きをするだろう。虫および虫の糞を見ているとダイレクトに『土の元だな』と感じる。
青空文庫を朗読【織田君の死】太宰治
ワクチンやコロナといった現象は、内なる女性原理への問いかけなのではないか?
コロナについては、死んでも文句ナシ、ワクチン拒否、ワクチン強要拒否、だけどワクチンが体質に合う人も必ず居るので、反ワクチン派ではないものの、ワクチンが体質に合うかどうかを判断する遺伝子キットみたいなものが先ず普及すべきなんじゃないのか?あるいはコロナに弱いかどうかの個人体質を測る検査が先なのではないか?という意見である。
その日は元々つきまといを受けていた曜日であり、それを回避するためにゴミ拾いを延期し、花壇手入れに充てていたので、花一輪でつきまといと接触せずに居られるのであれば御の字かもしれない…ひょっとすると花が身代わりになってくれたのかもしれない。
無論、死亡予防ワクチンを打ったすべての人間が死亡し、その中の何割かは副反応による死を迎えていたのだが、死亡予防ワクチンを「勇気を出して打った」「死ぬ事による他者への迷惑を顧みて先んじて打った」素晴らしい人たちとして、副反応による死者は丁重に祀られ、奉られ、副反応予防ワクチンと共にワクチン接種死亡者は崇高な自己犠牲の手本として英霊と崇められた。
タチアオイの一番上のつぼみが花開いたら梅雨が明けると言われているが、今年は、一番上のつぼみが開いても梅雨が始まらなかった。
蛇の抜け殻は何となく、木に吊るしておいた。
私も、つきまとわれるからといってそのつきまとい野郎を殲滅しないでやるの同様、ウイルスも、雑菌も、雑草も、共存したほうが互いの為になると思って居る。 概念上の敵が居なくとも、生命は常に闘っているし、私はその状態を肯定する。
以前は怖かったし苦手でしかなかった『知らない人との交流』が、今は好ましいとさえ感じられるのが、私には嬉しい、平和という感覚はこういうものであると今は判る。
鬼蜘蛛『welcome to my house.』
ゴミ拾い中に特定人物に待ち伏せ行為+つきまとい行為をされるようになったので、そのルートは知人に同伴してもらいながら歩くようにし始めた。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
「宇宙は試してくるなあ」とぼやいたら、『誰でもいつでも試されているよ』と知人に言われてなんとなくハッとする。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。