たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
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たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
【朗読】1984年 第二部/ジョージ・オーウェル※私的な内容になります。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。
宇宙全体で一番移動速度が速いのが光(高速)であるとして、それすらも揺らすのが振動であると思うので、だから人体の中に音を発生させる器官が在るというのは即ち…人間には、過去も未来も変えられる力があるのではないか?と、考えている。
この領域になってくると、芸術と宗教と医療の境目なんかはもう無くなってくる。
朗読(稽古)をしていると、『ヒトは海の生き物の一種なのだろうな』という体感を得る事がよくある。
物質というものは(人体も)振動によって微細に変化し続けているので、人形の顔が変化するという事も案外あり得るのではないか?
自分の中に歌い手(朗読する人)と、現場監督兼音質編集(DTMの人)が内在しているという不思議な感じ。
土地には、臍のような場所がある、その臍に気を合わせると、おそらくは土地全体の息吹のようなものを感じる仕組みが、人間には在るのだと思う。
立石剛氏の個展に連れて行ってもらった。
『何かやばそうなもの(なんらかのポスター等)を貼っとこうかなあ~?』と考えたことも多々ある。
自然の真っ只中に居るときというのは、案外、安らがないものなのである。
買い物ぐらいさせろ!と誰にともなく言いたい気分である。
…重視すべきは、言葉や文化の方である、そこに真の国籍が現れるような気がしている。(国という単位は実質もう無いのかなとも思うが。)
これで酒が飲めたら、多分本当に山奥に引っ込んで酒ばかり飲んで過ごしていそうな気がする。
山男に関して語られるのは、とにかく無口であるということだ…これに関して自分はとても親近感を覚える。
モテない奴ほどしつこいのにも、男女差は無いのかもしれぬ…。
【朗読】山の人生『二一 山姥をはじめとする山の物の怪』柳田國男※怖い話
全く関係ない話なのだが、山中の河辺に於いて怪異を見たことがある。
『木の子』の話が出るが…体感としてこれはよくわかる。
謎の情熱に駆られて洋裁をしている。
強いて言えば、母方の祖母の声が一番好きだ。
話は逸れるが、この苗字になってから、守られているという感覚がある
『他者評価に左右されるな!ビッグな漢になれ!!』と励まされた気がするので、オガタ、がんばります!!
【朗読】山の人生『一六 深山の婚姻』柳田國男※創作活動をされている方向け
マイナス評価が多いので課金制にしようかな?という話。
【朗読】山の人生『一五 神隠しにあったものは生きている』柳田國男
残された者たちが、漠然とした罪悪感から『神隠しにあったものは生きている!』と考えたくなるのも無理はない。
柳田國男の記述の通りならば、利口で運動神経の良い女性が、何か細工でもして、森の中で男と待ち合わせでもして駆け落ちしたのだろう…と察せられる。
時代が異なっていたならば、我が両親も呼ばわり山にて私の名を呼んだかもしれない。
この辺りは柳田國男の言う通り、狸が多い…夜に信号待ちをしている狸を見た!という話も現在進行形で行われている。
最後の、『下駄だの灸だのという近代生活にまで…』という一文にて、下駄の普及が江戸中期や、ともすると明治に入ってからということを初めて知った。
名古屋の秋葉大権現の怪異にて、神童(の青年?)が急逝して…という伝説を調べてみたけれどもたどり着かない。
それこそ柳田國男の体験談すらも説得力を持って朗読出来るのだから、まあ、良いとするか。
あの一瞬の奇妙な感じを今でも覚えている。
『高麦の頃』が農夫の繁忙期であるならば、『枯れ木のころ』…とでも名付けるべき秋冬シーズンは園芸好きにとっての繁忙期に当たるので、本当に人手不足。
地頭が『分類型』でない限り…柳田國男の書くものは、結構煩雑な文章だと私は思う。
つまり彼は不確定要素を愛しているのだ…
…だが柳田國男の言う母崇敬の風潮を日本文化に感じたことが無いので、関東では、この神道由来の御母崇敬文化はあまりないのかもしれない…。
私は前世(あるいは同時進行している別の状態)では、マタギなのかなあ?と夢想したりもする。
何故か、社会的に生きていた時よりも、厭世状態の今の方が実はだいぶ忙しい。
何が言いたいかというと… 誰でもサンカになれるという事だ。
ちょうど秋なので、山に行った時にでも山の人生を聴いたらどんな感じなのだろう?と夢想しながら朗読いたしました。
洋裁初心者故、まぐれ当たりみたいなところはあるが…というか最早なんで作れたのかもよくわかっていないが…これからはきちんと採寸して自分で完全自作ドレスを作ってみたいなあ。
もうしばらくしたら新たな『山の人生』をアップしたいと思います。
この世は兼ね合いなので、何かが動けば必ずこちらにも影響が出るし、私が動かないと決めた影響もまた、どこかに作用する
おそらくは、この素人考えの縮小型紙、洋裁のプロに見つかったら大目玉をくらってしまうであろう。
全く私事になりますが…口下手な人間ほど朗読にハマるのではないか?と考えている。
本当に、現実的に私はこの書物に『日本語を深める』という意味で非常に助けられた。
伊邪那岐、伊邪那美の再和合の問題が、ほとんど個人個人の生き方にかかっているような口ぶりで語られるのが、他の神話との大きな違いであろう。
特に、ひふみ神示を読み始めてからは、呼吸に気を付けるようにしている。
龍音之巻は、3帖からまた霊界通信的な雰囲気で楽しげ?である。
私は、心理的には移動せずにいた方で、常に立ち止まっていた感覚があるので、実は今まで生きてきた年月の時間経過をあまり感じていない。
扶桑は…幻の大木、次の星座は宇宙空間…とすると今回の碧玉というのは地球なのかなあと思ったりもするが、それもひつくの神の言う所の『8通りのうちのひとつ』に過ぎないのだろう。
…いささか朗読趣味の開始が遅かった事を認めざるを得ない。
五十黙示録もやるので、別にこれが最後っていうわけではないのだが…お蔭様で、三十代最後のとても思い出深い?夏になりました。
この動画を聴いている方々がどのような方かは、私からは何もわからないのですが…ひと時の癒しになっていればよいなと思っています。
ひふみ神示はこのように、一見、有り体な中立論を述べているようにも取れてしまうが…それでも、保身故に何もしないという事だけは避けるようにという呼びかけだけは、終始一貫しているように思える。
『偶像崇拝はダメです!!』というメッセージって、今思うとすごく子供特有の正義感に合致するんだよなあ。
それにしても…夏場はずっと、ひふみ神示一色だった。(まだあるけど)
…とは言え、何となく、ひつくの神がちょっとお調子者っぽくも思えてくる。
聖典を読んだり、古代の神話世界を知るにつけ、自分の世界が広がる感覚があるので、ある意味では案外『本気で信じている』とも言える。
2020年以前から変わらぬ生活をしている人の醸し出す、どんな情報にも惑わされず(アンチになるわけでもなく)、何にも加担しない代わりに、他人に何も強要しない静かな気配には、何か一種の武道的なものを感じる。
ちなみに、この録音編集の一連の作業の中で、一番楽しいのはやはり朗読そのもの!…反して一番苦手なのはタイムテーブルづくり。
海に渦巻く大渦には、世間一般的な事象として善や悪に分類されるすべてが入り込んでいる…ような感覚で読み上げた。
現在の日本人のような…無宗教が良いという一種の洗脳を受けている人にとっては、この巻はちょっと受け入れがたい巻かもしれない。
この絵は、絵というよりも…現在作動中のプログラムのように感じられる。
だからこそ、日本人は、やはり…思うことがあったとしても、日本の地に足をつけていたほうが良いような気がします。
私は、せめて、朗読に於いては日本人の為になる作用を及ぼしたいと切に願っています。
「おつちに呼びかけよ」という言葉が出てくるが、本当にその通りだなと思う。
一見とっつきにくいが、読み込んでみると実はかなり解りやすく、死後や霊界といった不可思議な世界に対して、案外納得がいくのが面白い。
『荒の巻』のイメージは、雷の鳴り響く中で、大渦の最中で『吾は神に疑を問い』その答えを直接神から賜り、さらにそれが言葉として文になり、時空のなかで光り輝いており、それを読み上げることによって音の振動ですべての場所に神の答えが波紋として広がる…というような感じ。
岩はその浄化の只中に在って不動の力を発している。
突き詰めると、聖典と呼ばれるものが他の書物と異なっているのは、内外の共鳴現象の発生し易さ…という風にも言える。
ひふみ神示にしろ聖書にしろ、そのものを読んで自分自身の内に湧き上がることこそが、本当の、その時その時の、その人にとっての解釈や答えだと思っているのですよ。
『自分が世界のどの諸民族に生まれていても、同じように自分の民族の聖典を同胞のために読んだだろうし、一方で他の聖典にも興味を示していただろうな』と思うようになった。
ひふみ神示は『ノリながら読むこと』が重要だと個人的には思うので、『ノっているが声の広がりは抑えている』という状態を維持するのがなかなか難しい。
ひふみ神示を読んでいるときは、とにかく同胞たる日本人に元気になってほしいという気持ちが先行する。
キの巻には実際、桜という言葉が4回ほど繰り返されるので、日本人にとっての『木』であり『気』である桜をキの巻の背景画像とした次第です。
電流のせいか、録音機材にしろミシンにしろ、機械って生きているよなあと感じることが多々ある。
何やら私がゴミを拾う時に合わせて、動物が死んでくれたような気持にすらなる。
ひふみ神示は私の予想よりもずっと反響が多くて、どうせやるんならもっときちんとした形でひふみ神示を届けたいと思ったのです。
ひふみ神示の面白いところは、語り口がちょっとおどけているところだ。
もしこれを賃金労働に加算するのであれば相当無駄なコストがかかっているわけだが…
間違いがありましても、『この人はこう読んだのだな』と流していただければ幸いです。
何となく漠然とわかったのが『自分を含めてすべて神の分けみたま』なのだなという事だ。
あなはち、しきまきや、くにつ罪…つまり、禁忌やマイナスを祝詞に込めるという、ひふみ神示特有の概念は、サンタムエルテ信仰に似ていると思う。
本当の意味で何事もない世の中などというモノは、かつて存在した試しがなく、これからもそうでしょうから。
今、これを読んでいる方のなかで、方言を喋っている方が居るのであれば、それはとても幸福な事なのですよと言いたい気分です。
私は、岡本天明氏というのは、画家的才能というよりも…音感が優れていたのではないか?と思う。
そういうわけで、ひふみ神示全文朗読は、個人的には一人の日本人として、すべての日本人に宛てて読みました。
あんなクソ音質動画を人様に聴かせてしまい、まことに申し訳ございません。
今年は梅雨がきちんと来ているので植物たちは元気そう。
話は逸れるが、江戸時代が舞台の作品を読むと、ほんの一時、浅草橋近辺に住んでいた時の光景を思い出す。
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たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。
宇宙全体で一番移動速度が速いのが光(高速)であるとして、それすらも揺らすのが振動であると思うので、だから人体の中に音を発生させる器官が在るというのは即ち…人間には、過去も未来も変えられる力があるのではないか?と、考えている。
この領域になってくると、芸術と宗教と医療の境目なんかはもう無くなってくる。
朗読(稽古)をしていると、『ヒトは海の生き物の一種なのだろうな』という体感を得る事がよくある。
物質というものは(人体も)振動によって微細に変化し続けているので、人形の顔が変化するという事も案外あり得るのではないか?
自分の中に歌い手(朗読する人)と、現場監督兼音質編集(DTMの人)が内在しているという不思議な感じ。
土地には、臍のような場所がある、その臍に気を合わせると、おそらくは土地全体の息吹のようなものを感じる仕組みが、人間には在るのだと思う。
立石剛氏の個展に連れて行ってもらった。
『何かやばそうなもの(なんらかのポスター等)を貼っとこうかなあ~?』と考えたことも多々ある。
3月から4月半ばまでほぼ毎日この収穫があった事を思うと意外と侮れない。
主の愛した弟子の様子なども、強烈なイエスキリストのファンが完全な思い込みで自分自身を弟子の中に登場させたような感じで、それが悪い事というよりも、かえってその方が、一連の物語の確信に近づくには、都合がよかったようにも思われる。
つまり盲人は沢山居て、一人きりでシロアムの池に行って目を洗っているのだ。
皮肉でありながらも、イエスはその実…この皮肉を即座に理解するパリサイ派だからこそ、自分の意思と行動と矛盾とを『誰よりも素早く』理解できるのもまたパリサイ派であると、暗に手を差し伸べているのだと感じます。
少なくとも1章の聖母マリアの唄なんかは、ミュージカルの域なので、ルカには音楽的な才能があるのではないかと思われる。
自分で作った野菜を食べ、しかもその際の野菜系 生ごみを肥料にし、循環させると異様に気分がいい。
あとペテロの言った『私は三つの小屋を建てましょう…』のくだりだが、モーセ、エリヤ、キリストの三つの小屋という形式の教会を、この記述の割に見たことが無いのだが…世界の何処かにはあるのだろうか?
・7章「どんな食物でも清いものとされた」 とあるが、これに関しては「どんな自然物でも清いものとされた」「自然の(神の)恩寵によって育った食物はどんなものでも清いとされた」が適切な訳かと思われる
洋裁は、日常を愛することが目的の趣味であり…おそらくは、服の完成如何は二の次なのである。
聖書は幼少期は禁書だったので、このようなものを朗読している自分が不思議でもある。
エーデルワイスには天使の謂れがあるので使用した。マタイによる福音書のシンボル→天使→天使の謂れのある花→エーデルワイスという感じ。
ちょっとゴタゴタしたが、何はともあれ『コレデドンドハレ!』という言葉を以て、遠野物語朗読を締め括るなり。
いやはや、まさに当時同年代だった柳田國男氏と、本当に心の声が重なった気がいたします。
芸事の敵は野暮と野次である。
遠野物語を、これを書いた時の柳田國男と同年代のうちに読んでおきたい気持ちが以前からあり、30代のうちに朗読出来たので嬉しい。
なんだか声量が増えて音が割れ気味なので、コンプかけないならマイクから(あと指三本分くらい)離れて録音すればよかった…と、今更後悔。
【民族という一単位に対して語られる神の言葉】という神おろし現象は、ひとつの民族が危機的状況に陥ると現われる【集合的無意識】の発現なのではないか?ということだ。
日本語の喪失…これが日本民族全体に生じている欠落感の正体だと思うのです。
ちなみに私にとって聖書、ひふみ神示、遠野物語や山の人生は、民族の息吹という点ではほとんど同じものである
音が悪いならやり直せばいいじゃない? …と思うかもしれません。 ですが…。