最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
【朗読】玉藻の前⑾殺生石(完)※アナログとデジタル作業について
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
二人とも、欠点や矛盾を持った、ごく普通の人間なのである。 しかしそれでも二人の関係は、聖なるものなのです。
ほかの人の言うことはわからないけれども、ドストエフスキーの言いたいことだけはよくわかる。
「宇宙は試してくるなあ」とぼやいたら、『誰でもいつでも試されているよ』と知人に言われてなんとなくハッとする。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
【朗読】1984年 第二部/ジョージ・オーウェル※私的な内容になります。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。
宇宙全体で一番移動速度が速いのが光(高速)であるとして、それすらも揺らすのが振動であると思うので、だから人体の中に音を発生させる器官が在るというのは即ち…人間には、過去も未来も変えられる力があるのではないか?と、考えている。
この領域になってくると、芸術と宗教と医療の境目なんかはもう無くなってくる。
朗読(稽古)をしていると、『ヒトは海の生き物の一種なのだろうな』という体感を得る事がよくある。
物質というものは(人体も)振動によって微細に変化し続けているので、人形の顔が変化するという事も案外あり得るのではないか?
自分の中に歌い手(朗読する人)と、現場監督兼音質編集(DTMの人)が内在しているという不思議な感じ。
土地には、臍のような場所がある、その臍に気を合わせると、おそらくは土地全体の息吹のようなものを感じる仕組みが、人間には在るのだと思う。
立石剛氏の個展に連れて行ってもらった。
『何かやばそうなもの(なんらかのポスター等)を貼っとこうかなあ~?』と考えたことも多々ある。
自然の真っ只中に居るときというのは、案外、安らがないものなのである。
買い物ぐらいさせろ!と誰にともなく言いたい気分である。
…重視すべきは、言葉や文化の方である、そこに真の国籍が現れるような気がしている。(国という単位は実質もう無いのかなとも思うが。)
これで酒が飲めたら、多分本当に山奥に引っ込んで酒ばかり飲んで過ごしていそうな気がする。
山男に関して語られるのは、とにかく無口であるということだ…これに関して自分はとても親近感を覚える。
モテない奴ほどしつこいのにも、男女差は無いのかもしれぬ…。
【朗読】山の人生『二一 山姥をはじめとする山の物の怪』柳田國男※怖い話
全く関係ない話なのだが、山中の河辺に於いて怪異を見たことがある。
『木の子』の話が出るが…体感としてこれはよくわかる。
謎の情熱に駆られて洋裁をしている。
強いて言えば、母方の祖母の声が一番好きだ。
話は逸れるが、この苗字になってから、守られているという感覚がある
『他者評価に左右されるな!ビッグな漢になれ!!』と励まされた気がするので、オガタ、がんばります!!
【朗読】山の人生『一六 深山の婚姻』柳田國男※創作活動をされている方向け
マイナス評価が多いので課金制にしようかな?という話。
【朗読】山の人生『一五 神隠しにあったものは生きている』柳田國男
残された者たちが、漠然とした罪悪感から『神隠しにあったものは生きている!』と考えたくなるのも無理はない。
柳田國男の記述の通りならば、利口で運動神経の良い女性が、何か細工でもして、森の中で男と待ち合わせでもして駆け落ちしたのだろう…と察せられる。
時代が異なっていたならば、我が両親も呼ばわり山にて私の名を呼んだかもしれない。
この辺りは柳田國男の言う通り、狸が多い…夜に信号待ちをしている狸を見た!という話も現在進行形で行われている。
最後の、『下駄だの灸だのという近代生活にまで…』という一文にて、下駄の普及が江戸中期や、ともすると明治に入ってからということを初めて知った。
名古屋の秋葉大権現の怪異にて、神童(の青年?)が急逝して…という伝説を調べてみたけれどもたどり着かない。
それこそ柳田國男の体験談すらも説得力を持って朗読出来るのだから、まあ、良いとするか。
あの一瞬の奇妙な感じを今でも覚えている。
『高麦の頃』が農夫の繁忙期であるならば、『枯れ木のころ』…とでも名付けるべき秋冬シーズンは園芸好きにとっての繁忙期に当たるので、本当に人手不足。
地頭が『分類型』でない限り…柳田國男の書くものは、結構煩雑な文章だと私は思う。
つまり彼は不確定要素を愛しているのだ…
…だが柳田國男の言う母崇敬の風潮を日本文化に感じたことが無いので、関東では、この神道由来の御母崇敬文化はあまりないのかもしれない…。
私は前世(あるいは同時進行している別の状態)では、マタギなのかなあ?と夢想したりもする。
何故か、社会的に生きていた時よりも、厭世状態の今の方が実はだいぶ忙しい。
何が言いたいかというと… 誰でもサンカになれるという事だ。
ちょうど秋なので、山に行った時にでも山の人生を聴いたらどんな感じなのだろう?と夢想しながら朗読いたしました。
洋裁初心者故、まぐれ当たりみたいなところはあるが…というか最早なんで作れたのかもよくわかっていないが…これからはきちんと採寸して自分で完全自作ドレスを作ってみたいなあ。
もうしばらくしたら新たな『山の人生』をアップしたいと思います。
この世は兼ね合いなので、何かが動けば必ずこちらにも影響が出るし、私が動かないと決めた影響もまた、どこかに作用する
おそらくは、この素人考えの縮小型紙、洋裁のプロに見つかったら大目玉をくらってしまうであろう。
全く私事になりますが…口下手な人間ほど朗読にハマるのではないか?と考えている。
本当に、現実的に私はこの書物に『日本語を深める』という意味で非常に助けられた。
伊邪那岐、伊邪那美の再和合の問題が、ほとんど個人個人の生き方にかかっているような口ぶりで語られるのが、他の神話との大きな違いであろう。
特に、ひふみ神示を読み始めてからは、呼吸に気を付けるようにしている。
龍音之巻は、3帖からまた霊界通信的な雰囲気で楽しげ?である。
私は、心理的には移動せずにいた方で、常に立ち止まっていた感覚があるので、実は今まで生きてきた年月の時間経過をあまり感じていない。
扶桑は…幻の大木、次の星座は宇宙空間…とすると今回の碧玉というのは地球なのかなあと思ったりもするが、それもひつくの神の言う所の『8通りのうちのひとつ』に過ぎないのだろう。
…いささか朗読趣味の開始が遅かった事を認めざるを得ない。
五十黙示録もやるので、別にこれが最後っていうわけではないのだが…お蔭様で、三十代最後のとても思い出深い?夏になりました。
この動画を聴いている方々がどのような方かは、私からは何もわからないのですが…ひと時の癒しになっていればよいなと思っています。
ひふみ神示はこのように、一見、有り体な中立論を述べているようにも取れてしまうが…それでも、保身故に何もしないという事だけは避けるようにという呼びかけだけは、終始一貫しているように思える。
『偶像崇拝はダメです!!』というメッセージって、今思うとすごく子供特有の正義感に合致するんだよなあ。
それにしても…夏場はずっと、ひふみ神示一色だった。(まだあるけど)
…とは言え、何となく、ひつくの神がちょっとお調子者っぽくも思えてくる。
聖典を読んだり、古代の神話世界を知るにつけ、自分の世界が広がる感覚があるので、ある意味では案外『本気で信じている』とも言える。
2020年以前から変わらぬ生活をしている人の醸し出す、どんな情報にも惑わされず(アンチになるわけでもなく)、何にも加担しない代わりに、他人に何も強要しない静かな気配には、何か一種の武道的なものを感じる。
ちなみに、この録音編集の一連の作業の中で、一番楽しいのはやはり朗読そのもの!…反して一番苦手なのはタイムテーブルづくり。
海に渦巻く大渦には、世間一般的な事象として善や悪に分類されるすべてが入り込んでいる…ような感覚で読み上げた。
現在の日本人のような…無宗教が良いという一種の洗脳を受けている人にとっては、この巻はちょっと受け入れがたい巻かもしれない。
この絵は、絵というよりも…現在作動中のプログラムのように感じられる。
だからこそ、日本人は、やはり…思うことがあったとしても、日本の地に足をつけていたほうが良いような気がします。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。
宇宙全体で一番移動速度が速いのが光(高速)であるとして、それすらも揺らすのが振動であると思うので、だから人体の中に音を発生させる器官が在るというのは即ち…人間には、過去も未来も変えられる力があるのではないか?と、考えている。
この領域になってくると、芸術と宗教と医療の境目なんかはもう無くなってくる。
朗読(稽古)をしていると、『ヒトは海の生き物の一種なのだろうな』という体感を得る事がよくある。