このまえさぁ メジロ売ってる おじさんがいたの それって 違法じゃん! うんうん それでさ わたし 全部くださいって 買ってきたの え!? (違法だと知ってて 買うわけ? 飼いたいわけ?) そしてさ 家に帰って みんな逃がしてやったよ 最近知り合った方との会話です。 昔は小鳥を捕まえて飼うのは よくあることでした。 そのおじさんも その感覚だったのかもしれませんね。
「これでいい」を「これがいい」に絞っていくと 身の回りがすっきりしてきました。 本も わたしは 友人のように思っていますので 明るい人 愉しい人 元気が出る人 背筋をすくっと伸ばしてくれる人たちが 並んでいる本棚は 表紙を見るだけで わくわくします。 どうしても必要なもの以外は 好きな人・物・事と 暮らしていきたいと思っています。
「これで いい」を 「これが いい」に していくこと まずは 右開きの冷蔵庫を 左開きに買い換えました。
フェアトレードの 無農薬・無化学肥料の生豆が届く。 「遠い所から はるばる ようこそいらっしゃいました」 と 袋を開ける。 「具合が悪い子がいたら教えてよ。 土にかえろうね」 と 言いつつハンドピックする。 「長旅の垢を落とそうね~」と 丁寧に水浴びをさせる。 土鍋焙煎を経て 仕上げの焙煎所に入る時 ボールに入った 200g弱の豆たちや 焙煎所の器具に語りかける。 「おはようございます! 今日も人の体と心を癒す 美味しい珈琲をつくりましょう。 よろしくお願いします。 この珈琲は その価値を知り 感謝して頂く人のもとに届けられます。 わたしたちは この珈琲により 健康になり 愉快で 豊かな 人生…
ある日 本屋で立ち読みしていて 思った 目に見える わたしも 本の表紙のようなものではなかろうか 中には いろんな物語が詰まってる 日常の他愛もない話であったり フィクションであったり コメディやミステリー 時にはホラーであったりするかもしれない 客は 表面の 玉葱の皮よりも薄っぺらい わたしを見て 手に取るかどうかを決める はたして わたしは 選ばれるだろうか わたしの 中身を反映するような 表紙であるだろうか それとも 奇をてらったり 客受けするような装飾で 後で がっかりされるような存在だろうか
正しい人 より 愉しい人 と いたいなぁ と 思うことがあります。 愉しい人というのは 人を楽しませてくれる人 という意味ではなくて 何かしら 見出しては ウキウキしたり 夢中になったり 自分自身と居心地よく 過ごしている人のことです。 そういう人の傍にいると わたしも くつろげるのです。
まだまだ寒い日が続きますね。 こんな時は焚火が一番です。 使い終わった誕生日のローソクに マッチでシュッ!と火をつけて 薪の真ん中に立てた トイレットペーパーの芯の中にそっと入れると しばらくして 勢いよく火が昇ります。 着火剤もガスバーナーも要りません。
知り合いのバスガイドさんが言いました。 「99%サービスが良くても 最後の1%が悪ければ お客さんは満足しない」 彼女は 今日も完璧な接客を目指して頑張っています。 わたしが観光客だったらどうだろう。 行き届いたサービスと 心地よい歌声 分かりやすい景勝地の説明 明るい笑顔 ところが最後に通路を行くとき わたしが手にしていた珈琲を引っ掛けて服にこぼしてしまったら・・・・・? いつまでも服のシミを気にして 旅の思い出を台無しにしてしまうでしょうか。 十個褒められても 一個けなされれば そればっかりを気にしてしまう時もあります。 なぜ こんなにも いやなことばかりに 目を向け続けてしまうのでしょう…
立て続けに 病で 兄と姉を亡くしました。 でも あまりに忙しくて 涙が出ませんでした。 冗談は言えるのに 涙は出ないのです。 わたしは 冷たいのだろうか? 心が固くなってしまったのだろうか? と 疑い始めたとき 「宙わたる教室」というドラマを観ました。 定時制高校生たちが 科学実験を通して成長していく物語です。 幾多の困難や妨害を乗り越え 研究発表にこぎ着けた最終回で 涙があふれてきました。 静かに とめどなく 気持ちのいい涙が流れていきました。 心が とけていったようでした。
怒っていると 「まあ いいじゃないか」と すぐになだめに入る人がいます。 怒るには 怒る理由があるのです。 「まあ いいじゃないか」と言った人は 寛容さを示していい気分かもしれませんが 中途半端に収められた人は 灰を掛けられた炭火のように いつまでもくすぶってしまいます。 仲に入るなら しっかり気持ちを聞いてあげる 思いやりがほしいものです。 「まあ いいじゃないか」「まあ いいさ」は 怒った本人が最後に言うものです。
タケコさんは スーパーの鮮魚売り場で 娘さんに「おいしいお魚の見分け方を教えて」と お願いされたそうです。 するとタケコさんは お魚をじっくり見回して 「こ~やってぇ 見つめていくとぉ お魚が自分から わたしだよ わたし食べごろよ」って 教えてくれるんだよ。 と言ったそうです。 その話を聞いて わたしは果物でもやってみました。 やたら手にとってボコボコひっくり返さなくても じ~っと見つめていると 向こうから わたしわたしって 手招きされているような気がしました。
歌仲間のミツコさんは 御年90歳。 コンサート後の打ち上げで なみなみと注がれたワイングラスを手に語ります。 「免許更新に行ったら 合格だって! あと三年は乗れるわ。 そしたら わたしね 今度は赤い車に乗りたいって思ってるの。 ねえ 知ってる? 赤い車は事故が少ないんだってよ」 いやはや・・・・・運転があまり好きじゃなくって 早く免許返納したいなぁと思っていた わたしは びっくりこいたのでありました。 「すいてるとこだと 100キロ近く飛ばしたこともあるのよ・・・おほほ」 ちなみに わたしの姉は 78歳で免許返納し 「これでもう事故を起こす心配がなくなった」と ほっとしておりました。
すべてのことに感謝できたらいいなぁ とは思いますが 気持ち良く歌った後に「下手くそ」 とか言われると さすがにムッとします。 「この人はわたしがもっと上手になるように 𠮟咤激励してくれてるんだ」 なんて 思い込もうとしても無理があります。 そんな時は すぐに 気持ちを別のほうにむけます。 「ああ よく聞こえる耳があってありがたいな~」とか 「青空が気持ちいいな~ それを見上げる目があって ありがたいな~」とかの 確実に感謝できることを探します。 わたしの仕事はわたしの機嫌をとって いい気分でいることです。
不用品を家族や友人に送るときに ついつい詰め込むのに夢中になって 手元に置こうかどうしようかと迷っているけれど 相手が喜びそうだから「えいっ!」と 気前よく手放したものの 相手にとっては どうでもよくって 適当に処分されてしまい ショックを受けるということがあります だから よくよく吟味して 未練のないものを 送るようになりました
I 'm proud of me. 最近 よく 胸に手を当てながら この言葉を つぶやいています。 I 'm proud of myself. でも いいかもしれません。 今日 自分らしく生きられた とか 朗らかだった 優しかった 思いを素直に伝えられた 愉快に踊っていた などなど・・・・。 時には 頭を なでなでしながら 自分を誇らしく思うのです。
脅さないでください こんなことをしていたら ダメになるよ とか そんなことをしていたら 痛い目に遭うよ とか 恐れると 緊張します 緊張すると ミスります ミスると ますます緊張して 負のループに ハマってしまいます それより こうすれば 素敵になるよ とか ああすれば もっと元気になれるよ とか 言ってあげてください わたしたちは 恐れて縮こまるのではなく 喜んで 前進するために 生まれてきたのですから
イヤなことがあったら まず リラックスすることを考えよう イヤなことの衝撃で 硬くなった体と心をほぐすんだ 海を眺めたり 花の香りをかいだり 好きな音楽を聴いたり そうやってほぐれてきたら 自分に言うんだ たとえ 世界中の人に 嫌われているかのように思えても わたしはわたしの味方 親友だよって わたしはわたしを見捨てない 絶対 絶対 見捨てない
「医者に 原因不明と言われたら 治る見込みがあるってことなんだよ」と 気功の先生が言っていました。 とりあえず渡される 痛み止めや うつの薬をもらって どれだけの人が しょんぼりと病院を後にしたことでしょう。 まるで自分が小さなことで 騒ぎ立てているように思えたり 世の中には戦争や飢餓で 苦しんでいる人がいるんだ これくらいなんてことない と無理に自分を𠮟咤激励しようとしたり なんて いじらしい なんと 健気で 愛おしい人たちでしょう! もう充分です。 あなたの痛みは 比べうるものではなく あなたにとっての一大事です。 ただでさえ苦しいのに 自分を責めるなんぞ もってのほかです。 「辛いね。 …
ガムをあげたら けんかして 涙ぐんでた 子の機嫌が直った 一瞬一瞬に生きてる 好奇心の赴くままに 手放して もう忘れてる もう 次に向かってる それでいいのだ
洗濯物を干していると 強い日差しがきつく 太陽に 「しばらく 和らいでくださ~い」と お願いしました。 すると 間もなく雲に隠れ しかも 見事な後光がさしたのです。 もう 嬉しくて たくさん 「ありがとう」を言いました。 奇跡は毎日起こります。 それに 感謝するか それを あたりまえととるかは 自分次第です。
昨日はわたしの誕生日でした。 それをきっかけに やめたことがあります。 それは 本人が望まない限り 人の誤りを正さない ということです。 自分のことはさておき 誤字 脱字 言い間違い 誰がどこで何をしたの 思い違い 勘違い が気になると すぐに辞書を引いたりして 正さずにはおれませんでした。 自分の気が済むように というより 家族や友だちがよそで恥をかかないように という思いが大きかったです。 自分が言われると 「ありがとう 勉強になりました」と 感謝もするのですが せっかく大事な話をしていても 水を差されて 何だか不消化に終わる時もあります。 これからは ささいな間違いはスルーして 相手が伝…
椅子から立ち上がるとき 階段をのぼるとき 重たい物を持ち上げるとき やりたくないことを やらねばならぬとき ついつい 「ヨイショ」 が 漏れてしまいます 試しに「ヨイショ」を 「ヨッシャー!」に変えてみました 力が湧いてきました
ドラマの中の 小さな販売店で 客が 三本入りのアスパラを あれこれ手に取って品定めしていると 奥から店主がやってきて 「どれも おんなじだよ。 最初に手にしたもの買いな」 という場面がありました。 それを観て 友人が 桃に ちょっと指をかけたとき 店のおじさんが「さわるんじゃない!」 と大声で𠮟ったのを 思い出しました。 随分気まずい雰囲気になりましたが 店の人にしてみれば 大事な売り物を 乱雑に扱う客も多くて つい いらだってしまうのでしょう。 わたしの恩師が 子どもたちに 言い聞かせている方法を 教えてくださいました。 「お母さん。 どれがおいしいかって どうやったらわかるの?」 と聞く子…
筋トレをしていると ついつい 顔がこわばってしまう おっと! わたしにとって 一番大切な筋肉を 鍛えなきゃ マスクをしててもスマイル 表情筋UP!!
二人の人に親切にする 「お礼は 私ではなく あなたも 二人の人に親切にしてください」 そう言うと その二人がまた 同じことをするので 二人が四人に 四人が八人に・・・ そうすると またたくまに 世界は住みよい場所になる そういう映画もあったなぁ ペイ・フォワード 親切の先送り
おはようございます 新しい朝を迎えることができました ありがとうございます わたしのからだは 朝の清々しい光で覆われています その光を通すと 良いものしか入ってきません 良いものしか出ていきません わたしの血管は通り良き管です どこにも詰まりはありません その中には 喜びと感謝と 新鮮な酸素を含んだ血液が 元気よく流れています わたしの声は 小鳥のように軽やかで美しい そして気高い 会場の隅々まで 聴く人の耳と心に 心地よく響きます わたしはこの星を 平和で豊かで愉快にするために 生まれてきました 今日も最高の自分を発揮して 世の中に貢献します!
人の必要に応えているうちに 心が疲れてきた なので 気が乗らないのに ホイホイ引き受けるのを 減らそうと思う そして 引き受けると決めたからには こっちの責任なので グダグダ言わずに やる! けれど 言われるがままにやっていると 利用された気持ちになったり つまらなくなったりするので 相手の必要を満たすだけでなく 相手の必要に盛る この出来事を通して 自分の ステップアップにつなげるんだ! という気合いを込めてやる そうやって 人の必要に ちょっとずつ ちょっとずつ 盛っていくと いつのまにか もっと大きな必要に 応えられる人間に なっているかもしれない
早朝 砂浜を歩いてきました。 人がいないので 後ろ向きでも歩けます。 歩きながら考えました。 後ろ向きでも 進んでる。 冥土(あっち)に向かって 進んでる。 あっちに行ったら 互いに 経験を語り合うんだろうな 足裏の砂の感触 夜明けの橙(だいだい) こんなに 悲しいことがあったよ とか こんなに嬉しいことがあったよ とか 良いも悪いもない わたしの生きた証を スクリーンに映し出して 「おつかれさま わたし」 って 言うのかもね。
わたしの地域のスーパーでは 一部のカウンターで 購入した食品の袋詰めをしてくれます。 自分でやったら とても 1枚の袋に 入りそうにない数でも ものの見事に しかも 崩れないように 行儀よく入れてくれます。 その手際の良さに わたしは 毎回 感心するのです。 それで 「すごいですねー!」とか 「うわ~、きれい!」とか 「こんなに入っちゃうんだ!」とかの 感嘆符を発します。 初めは 機械的に 「いらっしゃいませ~」と言っていた レジの人も 人間に戻ったような 照れ笑いをします。 その笑顔を見て わたしも更に嬉しくなります。 わたしは ほめおしみ をしません。
自分が充実していたら 人を責めてる暇はない 自分が愉しんでいたら 人の粗探しなんか しようとも思わない
読み聞かせボランティアに参加しようと 図書館を訪れた時のことです。 駐車場の入口にチェーンがしてあって その前に車が一台停まっていました。 「え? なになに? 何なの?」と チェーンにぶら下がっている札を見ると なんと臨時休館とのこと。 せっかく いいことしようと 意気込んできたのに! と めっちゃがっかりしました。 「あ~あ! なんっでよ~!!」と 頭を抱えて大げさに嘆きました。 すると こちらも多分当てが外れたであろう 隣の車のおじさんが クスッ! と笑ったんです。 それを聞いて すっかり機嫌の良くなったわたしは 元気に帰路に着きました。 とさ。
自分を大切にするって わたしがわたしの子どもだったら わたしがわたしの親友だったら と 考えると うまくいくような気がします。 ただ甘やかすだけでなく 将来を見据えた助言や たとえ世界中の人が敵対しても わたしは味方だよって 言ってあげられます。
わたしの朝一番の贅沢は 小鳥のさえずりで目を覚ますことです。 澄んだ 軽やかで 美しい 高い音が大好きです。 ソプラノなので 真似てみたりもします。 ところが 日が昇るにつれ 鳩の低く くぐもった声が混じってきます。 わたしは それが 好きではありません。 聞きたくないなぁ と思うと なおさら 聞こえてくるものです。 すると なんと 「フウフ ハ ナカヨシ」 「フウフ ハ ナカヨシ」 「夫婦 は 仲良し」 と 聞こえてきました。 ありゃりゃ! 確かに 鳩さん夫婦は仲良しですものね。 鳩の声も まあいっかぁ となりました。
わたしは 結構おせっかいで 「こりゃあ いい!」 と思うと すぐさま 人に 伝えたくなってしまうのです。 でも ある時 ストレートな物言いをする友人に 「あんたが 今まで薦めたので 良かったのは パン教室だけじゃん」 と言われて 考えました。 わたしは 人の役に立つことで 自分の価値を 示そうとしていたのかもしれない と。 自分がまず満たされ 輝くことによって 他人が憧れ 聴いてくるまで 待っててもいいんだ。 急いで 十分な結果や 効果が得られてないものまで 人に薦めることは もうやめよう。 かえって 軽んじられるだけだ と。 まず自分! 自分が心地よく 機嫌よく 過ごすことが先 なんだね。
花粉症のおかげで 雨の日が好きになりました。 かと言って 晴の日が嫌いになるわけではなく もともと好きなものは好きなのです。 声を張り上げる場所がないおかげで 早朝の海岸に行きました。 折よく風は海に向かって流れ 気持ち良く歌うことができました。 そして なんと 日の出とともに 虹が立ち上がってくる瞬間も 観ることができました。 歳を経たおかげで 誰彼構わず 気軽に声を掛けることが できるようになりました。 そうやって 方向音痴な私は たくさんの親切な人々に出会い 助けていただきました。 誰かや 何かの「せいで」 と考えると 嫌なことでも 「おかげで」に変えると いいこともあるのかな と思いま…
人嫌いというわけではなく むしろ誰にでも声をかけられるし 仲良くもなれます。 ですが なぜか「つるむ」ということが ありません。 いつも一緒にいる友だちを見て うらやましく思うこともありました。 仲間がほしいなぁ と思ったり。 でも もう 自分は そういう者なんだと あきらめました。 いろんな先生にもついてきました。 学校の先生 空手の先生 合気道の先生 スピリチャルの師 などなど。 これも もういいかな。 生徒でいるのにも 飽きてきましたし 競い合うのも しんどい。 今は 声楽の先生だけです。 こればっかりは 自分ひとりでは うまくいきませんから。 自分を 生涯修理が必要な ポンコツと観るの…
好きな言葉は 寛容と無垢です。 愛はよくわからないし 謙遜という言葉は あまり好きではありません。 意見が違っても この地球に生きる仲間として 受け入れることはできます。 無垢であればなおさら 未知の生き物を 発見したかのように その存在を 面白がることもできるのです。
わたしは 自らに 問いかける 不安があるの? 不安って 未来のことだよね だったら 未来に預けよう そして 今 ここで できることを やろう 今ここで 自分をなぐさめ 励まし 元気にするために 楽しいことを探そう 落ち込んでいる友だちがいたら そうしてきたように 自分にもそうしよう 全力で応援しよう だって さ 今の自分が 未来につながっているのだもの フレー フレー わ・た・し!!
週に一回「空(くう)の日」 というのを設けています。 その日は 固形物を一切食べません。 お腹がすくので「クゥ~」っとなります。 パソコンも開きません。 情報もカットです。 何を取り入れるかより 何を抜くか に 専念する日。 翌日 なかなか「いい感じ」です。 一週間分の滓を除いて リセットされた気分になります。
自家焙煎を始めて十余年になります。 これまで 沢山の方々が 焙煎方法を習いたいとやってきましたが 一人として続いていません。 しばらく続いた人でも めんどくさくて だんだん手を抜くようになってきます。 ので もう 教えるのはやめにしました。 YouTubeで いくらでも やっているので そちらで学んでくださいと言っています。 わたしは 珈琲を薬膳と捉えています。 味の云々や バリスタ世界一とかの話には あまり興味がありません。 わたしが第一に気にするのは 健康な豆かどうかです。 口に入るもので 珈琲ほど農薬を使うものはないそうです。 ならば 無農薬 無化学肥料の豆にこだわりたいです。 そして …
徒歩30分ほどの所に 海浜公園があります。 早朝 周りに人がいないのを確認して 浜辺で歌いました。 家では ご近所の手前 声を張り上げて 練習することが なかなかできません。 その点 浜辺では 風も 海に向かって吹いているので 申し分なく オペラのアリアを二曲 歌い上げることができました。 気持ち良く 浜辺を後にして 階段を上がり公園に向かうと 「ちょっと ちょっと」と 年配のご婦人に手招きされました。 何だろう?と 近づいていくと 「あなた 若い頃から 声楽をやっていたの?」 驚いて 「え~! 聞こえたんですか?! お騒がせしました」 と 早朝の 静かな散歩を邪魔したことをあやまると 「騒が…
ごちゃごちゃも 子どもにとっては 宝探しになるのかもしれない 白一色の家では 子どもは育たないというから
人に合わせるのではなく 自分に合わせる 自分の心に寄り添う もう食べたくない と思ったら 食べない とりあえず乾杯! もいいけれど もう飲みたくない 苦い と思ったら 飲まない 出されたものは 全部残さず食べなさい の呪縛から解かれて 途中でも止めてみる もったいないのは 食べ過ぎ 飲み過ぎで 自分の身体の調子を崩すこと よく味わって 食べる 飲む 自分の心と体が喜んでいるか それが基準
別に聞かれてない 「助けて」なんても言われてない 大きなお世話をして 疲れきるのはよそう ちまちまと人や家族の機嫌をとる それも一種の承認欲求 嫌われるのが 怖いだけかもしれないよ 気づきをもっと 自分と人と世界の ためになることに使おう 空を見上げよう 高く高く生きるんだ
このところ 夜中に 蚊が やってきます なるべく 殺虫剤を使いたくないので 暗闇の中 パチリ! パチリ! と 格闘することになります ほとほと疲れ果てた 三日目の晩 また ブ~ン・・・・・・・・・ その時です こんな小さな蚊の羽音が聞こえる! わたしは なんて 幸せなんだろう そう思ったのです 心から イヤなのは イヤなんですけど
「すみません」って 言葉が多いなぁ なにも 悪いこと していないのに 「ありがとう」だけで いいんだよね
会ったとたんに 「太った?」とか 「瘦せた?」とかって言うの それより 「最近どう?」 「何か楽しいことあった?」とか 「わたしね 面白いの見つけたんだよ」とか わくわくするような話で 始めようよ
ゆるす前に 認めないと 傷ついたことを それを 受け止め 慰めてからの 話でしょ 傷つけた人を きれいごとで いいよ いいよ なんでも感謝だよ と ゆるして 付き合い続けるんじゃない 「わたしは 他の人に 絶対 あんなことをしない」 と 決心するんだ 自分の 肥やしにして 思いやりの花を 咲かせるんだ
「感謝する」は 言えるけど 「感謝しなさい」は 言えない 「許す」は 言えるけど 「許しなさい」は 言えない 待つしかないんだ その思いが 自然に芽生えるまで 「愛する」という言葉 欧米人ならまだしも わたしにはハードルが高い ましてや 見知らぬ「隣人を愛せよ」 なんて言われても 困る 「思いやる」「尊重する」なら 言いやすい そして 人として 「思いやりなさい」「尊重しなさい」も 言いやすい
「感謝しなさい」って 言うけれど 感謝は 内から湧くもので 強要されて 出せるもんじゃない 「ありがとうは?」って 礼儀として 子どもに 言わせたりはするけれど 「感謝しなさい」は なんか 押しつけがましくて 言えないなぁ
愛から出て 愛に還るのだから その間も 愛しかない 太陽のように あたたかい光が 分け隔てなく 注がれている 物事の背後にある 愛を見抜け わたしを責める要素など 微塵もない あるはずがない 責めや裁きの光など ありはしないのだ ただ 心地よく 光を浴びよう そして気づくんだ 自分が愛されていることに この出来事を通して さらに癒され 輝けることに
息子の描いた絵 声楽はレガートが全てだと言われます。 もちろん 曲によっては しゃべるように あるいは 怒鳴るように ぶった切って歌う演出もありますが 本来は 跳躍ではなく 声帯の伸縮で 低い音から高い音まで 観客に途切れを感じさせないように歌うのが いいとされています。 日々の生活も いきなりの成功や 到達ではなく コツコツコツコツ 積み上げていくものでしょう。 今日という一粒 今日という一点が連なって 人生という線になっていくのでしょう。 世の中に厳しい言葉 聞きたくない言葉 が 溢れているのなら それを 上回るような 優しい言葉 元気の出る言葉 を 綴っていこうと 始めたブログでした。 …
紙袋が 風に舞って 風をはらんで まるで いたちのように 通りを這っていった 袋がなければ 風の存在に 気づきようもない 「結果を出しなさい」とよく言われます。 まるで結果が全てであるかのように。 世の中でただ一つ確かなこと それは わたしたち全員がいつかは 死んでしまうということです。 それでは わたしたちの人生は みんな失敗なのでしょうか。 癌ステージ4の兄と話をしました。 兄は一日おきの透析も受けています。 受けるまでは随分心配もしていましたが 四時間ベッドにいる間 テレビを見たり 看護師さんたちと話をしたり 「弁当が出るんだけど ちゃんと栄養管理されていて しかも うまいんだ」とニコニ…
必ず 一言 付け加えずにおれないひとがいます。 「今年は庭先のゴーヤーが豊作だった」 「あーそー」 「30個くらいもとれたかなぁ」 「それって 豊作なの?」 「コンサートの歌良かったよ」 「ありがとう」 「二番目のはね」 「あの子優秀だってよ」 「ふ~ん」 「水泳でもこの前一番になったんだって」 「でも 心がね」 いらんこと言って その場の空気を悪くしたり 人に不愉快な思いをさせたりするくらいなら 「あーそー」とか「ふ~ん」とかで 終わってほしいものです。
言葉の力 言葉の与える安らぎ 成長するにつれて 言葉の意味が違ってきたりする より深まる 深いレベルにまで届く 頭で受けている時は 本当の影響はない しかし 貼ってるだけでもいいさ じわじわ 沁みこんでくから 要は 捨ててしまわないこと 今は わからなくても 信じて 辛抱強く 握ってみること (宇宙への)信頼はあなたを笑わせる ホーキング博士の この言葉が好きです。
人なつっこいのはいい でも 人に好かれようとするな 自分の気持ちを「かもしれない」と表現する はっきりせんか はっきり! 人は人 自分が充実するのが先 自分が充実しとったら 人のことは気にならなくなる 批判ばかりしとる人は 自分に不満なんや 文句言ってる暇があったら 何ができるか考えようと思うこの頃であります。 時は秋 うだうだしている時間がもったいない! 芸術でしょ。 スポーツでしょ。 畑だって忙しいし やりたい事 いっぱいじゃん!!
先日「後悔しない」という記事をUPしましたが 実は 一つだけ 後悔していることがあります。 2017回も演じられた森光子さんの 「放浪記」を一度も観に行かなかったことです。 カーテンコールで森は、 長い時間をかけて観客全員に手を差し伸べて、 感謝の思いを伝えた。 森が80歳を過ぎて始めた演出だ。 「何とも言えず、涙が出そうでした。 隅々のお客様にまで伝わるように、ずーっと。 幕がおりて、ほっとされて、 一番疲れていらっしゃるときですよね。 でもそうほっとしてもいられない、 それをやらねばならない。 主役の辛さですよね。 導いてくださったお客様を大事にするということ」 久しぶりに森の楽屋を訪ねた…
くじけそうなとき 意識を天に向けなさい 向け続けなさい 良いことを思いなさい 気高くありなさい 母の89歳の誕生日に 柴田トヨさんの 「くじけないで」という詩集をプレゼントしました。 柴田さんは90歳から詩作を始め 98歳で処女詩集を出された方です。 残念ながら 母は90歳直前で亡くなってしまいました。 遺品整理をしていると 母のベッドの引き出しに 詩集がありました。 母は寝る前に必ず本を読む人でした。 わたしがプレゼントした包装のまま その上から さらに 丁寧にビニールで包んでありました。 母は 大事にしすぎるあまり ついに 読まず仕舞いしてしまったのでしょう。 もしかしたら「くじけそうなと…
すべてを目的のための手段と捉え 自分と人を役に立つか立たないかで見 リハーサルと後悔を繰り返し 決して現在(いま)にいない 追い立てられ くつろぐことがない ああ ただ感謝して ただただ感謝して 生きてりゃいいのに よく スピリチュアル系の本かなんかで 「ギリギリのところで 救いの手が差し伸べられた」 とか「その時は悪い事が起こったと思ったが 後になって それによって助けられていたんだと知った」とか 書いてありますが わたしは常々「それなら何で 最初から助けてくれないんだろう? そうしたら ひやひや ドキドキ 無駄な心配をしなくて済むのに」と 疑問に思っていました。 ある朝 フワッと思い浮かん…
誰彼の問題ではない 単なるエネルギーの爆発だ 発散しろ サンドバッグを叩け! 発達障害を持ったお子さんを育てている友人がいます。 何かにつけて 奇声を発したり 怒りをぶつけたりするそうです。 なので サンドバッグを 買いました。 二人で思いっきり叩き合っていると いい汗をかいて 時折笑いも出てくるようになったそうです。 楽しい気持ちが湧いてきたので 次は 太鼓叩いてみようかなと言っています。
「後悔しない生き方をしなさい」とよく言われます。 「後で悔やまないようにこれをやっておこう」とか 「そんなことして あるいは しないで 後悔しない?」とか。 その言葉って どこか 押しつけがましいというか 圧迫感があります。 なので わたしは 初めから 「後悔しない!」と決めました。 その時その時で 私にできることを 選んでいるのです。 最善ではなかったとしても それが その時 わたしにできる事だったのです。 後悔しても その時を取り戻すことはできません。 ならば くよくよして時間を無駄にすることなく また 今 に集中しようと思うのです。
笑い顔っていいなぁ その人の 子ども心が ぽろりと出てきたようだ 笑い顔は美しい 笑い顔は若々しい 初コンサートで 何十年ぶりかのお化粧 皆に教えられたとおり マスカラやカーラーもとりあえず揃えました。 さて いざ 練習してみると 老眼で 目元が見えません。 まさか眼鏡をかけて引くわけにもいかず なんとか 眼鏡の下から こわごわラインしてみましたが 拡大鏡で 目元を確認すると ずれてます。 何度か挑戦してあきらめ 結局 おしろいと口紅だけですますことにしました。 「笑顔が最高のお化粧!」と自分に言い聞かせました。
私は、幼い頃の数年間を祖父母の元で暮らしました。 その頃、祖母は、母親とはまた違った 祖母なりのしつけをしてくれました。 その中でとても印象に残っていることがあります。 それは、眠る前のお祈りでした。 必ず眠りに入る前に、 手を合わせて神様に挨拶をしてから寝なさいと、 教えられたのです。 幼い私にとって、神様と聞いて思い浮かんだのは、 若くして亡くなった父でした。 それで毎晩、今日あった出来事の反省や 失敗したと思うことなどを父に話しかけて、 最後は手を合わせて「おやすみなさい」と 挨拶するのを習慣にしていました。 小さな子どものことですから、 面倒な日や眠くてたまらないときなどは、 申し訳程…
コンサートが終わって それぞれ 花束やらプレゼントやらを頂きました。 リハーサルの際に 先生とピアニストの方への花束 そして まったく無給で すべての準備をしてくださった先生への謝礼も 出そうと言う人がいました。 「他では皆やっているのよ」との言葉に 出演者一同は頷きました。 本番終了間際に 申し合わせた人が 花束贈呈。 そして お客さんがはけた後に 謝礼金を先生に渡そうとすると 先生は 固辞なさいましたが まだ 人がいたことと 渡す人の押しの強さに いったんは受け取られました。 それが土曜日。 日曜日はみなゆっくり休んで 月曜日の朝 先生からラインメールが送られてきました。 「おはようござい…
おはようございまっす! 自分を閉じこめておくことは 宝物を土の中に埋めるようなものだ 自分に深く沈潜するときと 他との関わりで学ぶこと 自分を生かすこと バランス バランス・・・・・・ 今回のコンサートで 自分の中の新しいエネルギーを感じました。 初めての舞台で随分大変な思いをしましたが 先生の「もう いつ出ても大丈夫」という言葉に 押し出されるようでした。 わたしは チャンスが与えられたら とにかく 挑んでみようと思っています。 チャンスを与えた存在が それを成就させる力も与えてくれると 信じているからです。 たとえ 自分の思い通りの結果にならなくても そこには わたしの成長を促す何かが き…
人の毒にやられるな 平和の道を行け 恨みをためて 孤立するな 傷つくのを恐れて 心を閉ざすな 幸せだな~って思った方が勝ち 笑ったほうが得 苦しみの原因を探るより 感謝なことを数える方が楽しい
ほめてるのか けなしてるのか わからない人がいます。 こっちがどんなに頑張って成果をあげても 素直にほめることができずに 必ず 一言 皮肉や 毒を含んだような物言いをしてしまうのです。 そういう人に関わると 100人の人の褒め言葉も 一瞬で吹き飛んでしまうことがあります。 もともと 自分をしっかり受け入れ 大切に思う気持ちが少ないと すぐに ネガティブ状態に陥ってしまうのです。 そんな人のことを思って 一分でも無駄にしないでおこう! とわたしは決めました。 そして 長年の経験から そういう人は 自分自身が満たされていないのだと知りました。 だから それは こちらの問題ではなく その人自身の問題…
昨日は200名収容の 教会ホールでのコンサートでした。 コロナの影響もあって 空席も設けましたが まずまずの入りでした。 わたしは初コンサートとあって 前日 全然眠れませんでした。 でも 以前 自分のブログにあげた カーネギー著「道は開ける」にあった言葉 「全然眠れなくったって平気だぞ。 くよくよさえしなければ 横になっているだけで 体は休めるんだ」と言い聞かせ ホールに向かいました。 それにわたしは 本番に強いのです。 小学校の時 まったく出来なかった逆上がりが 年一回のテストの時だけ出来ました。 空手の時は 誰もの予想を覆して わたしより上級のロシアの選手に勝ちましたし 合気道の全国大会で…
判断をなくし ただ ひたすら観察する 心の傷から 反応しない 癒し? ほっておけ しょっちゅう いじくるから 悪化するんだ 筋トレを始めました。 30分でチャチャっと終わるやつです。 せっかちなわたしには 合っていると思いました。 けれど 普段の生活では できるだけ 一呼吸置くようにしています。 今日は人生初の大舞台でのコンサートですが 応援に来て下さる方々にも 注意しておきました。 特にクラシック歌曲は 演奏が終了したと思っても すぐに反応しないで 一呼吸おいてから 拍手して欲しいと。 曲の途中にもかかわらず 終わったと思って 目一杯 善意の拍手をしてくれる人がいるのです。 結構 長い歌 多…
自由はいい 自由は生来のもの 無くせぬ渇望だ自由は躍動 自由は創造 自由こそが本来の自分の源わがままは 自由とは違う 自由とは似て非なるものだわがままは 自分を追いつめる 卑しくする 他人を座布団にして居心地悪いわがままな人は子どもっぽく 真の自由人は大人になる あの~ お断りしておきますが このブログ内に書かれていることは 基本的に 現在 あるいは 将来の わたし個人を𠮟咤激励するものであります。 これまでに 何度か ご自分に文句を言われたかのような 怒りとも 叫びともとれる反応がありました。 コメントを含めて ブログ構成と認識しておりますので わたしの意図に反するコメントはUP致しません。…
アメリカ農村の 素朴な風景を描き続けた ”モーゼス おばあさん”。 彼女は70代から絵を描き始め 101歳で亡くなるまでに 訳1600点の作品を遺しました。 すでに年老いていたグランマ・モーゼスが、 なぜこれほど多くの作品を 描くことができたのだろう? 絵を描くことがなによりも好きだったからだ。 モーゼスの生きがいは絵を描くことにあり、 毎日絵筆を持ち、創作活動に没頭することにあった。 「昔はもっとゆっくり時代が過ぎていたのに、 この忙しさは私には性が合いません。 それに昔は、人々は人生をもっと楽しんでいました。 少なくとも私にはそう思えます。 思い返してみると、私の生涯は、 一生懸命働いた一…
あなたが 他の人に ほめられようが けなされようが それは どーでもいいことです。あなた自身が 充実してるかどうかが 大事なんだと思います。 幸せですか? 昨日 ご近所の方が 救急搬送されました。 喉頭癌をわずらっています。 ストレッチャーに移される際に 手を上げて何やら話してらっしゃったので なんとか大丈夫そうです。 食べ物を分け合ったり 駐車場の件で ちょっとしたトラブルがあったり いいことも そうでないことも 色々ありますし 噂話もあれこれですが 遠ざかるサイレンの音を聞くと ただただ 無事を祈るばかりです。
嫌な人が現れ続けるのは 自分の中の嫌な部分から目を背けているから オセロのように 自分が黒けりゃ 周り中黒に変えていくし 白けりゃ 白に変えていく イライラしてたら 周り中敵だらけになっちゃうし 機嫌がよけりゃ お友だち 手前勝手な しょーもない奴 なのよね わたしって でも 手前勝ってだからこそ この人生 テメェで なんとかできるんじゃねぇか?って 思うわけよ
叱られている子より それを見ても 知らんぷりしている子のほうが 気がかり 樹木希林さんの本で 9月1日に登校するのが辛い子が 沢山いることを知りました。 夏休みが終わって 学校が始まるのが嫌だというのです。 友だちと会える!学ぶ楽しさ!にワクワクする。 ・・・であるはずの学校が どうしてこうなってしまったのでしょう。
アメリカズゴッドタレントに登場してきた 13歳のコートニー・ハドウィンは 笑顔の向こうで恐れているように見えました。 ですから 審査員の女性も 緊張を和らげるようなアドバイスをしたのでしょう。 しかし いったん音楽が鳴り出すと リズムに合わせて肩が上下し 口を開いた瞬間 信じられないような歌声を披露するのです。 あっけにとられる審査員たち 驚嘆の言葉 客席の興奮。 まるで 音楽に憑依されているかのようでした。 小さな魂のわたしたちは しばしば 恐れます。 でも わたしたちの 中心には たとえ気づかなくても 宇宙や大いなる魂と繋がるソースがあって 自分らしくあるとき 豊かなエネルギーチャージがな…
私が 幸せであることに こだわらなくていい 誰かが 幸せなら 幸せの目盛りは 満たされているもの 幸せって 考えてない時に そっと 訪れるもの かもしれませんね。
要点はこうだ 心配するな 以上! 兵庫に住む息子が コロナに感染したとのこと。 日頃 身体表現を生業とする息子にとって また 喘息持ちの彼にとって さぞかし苦しいことだろうと思います。 でも メールは あっさりしたもの。 母親への気遣いなんでしょう。 そうね。 心配したって仕方ないもんね。 何か美味しいものでも 送ってやりましょう。
翻訳者によって 出来上がった本は 全く違う印象になる ということを よく感じます。 「赤毛のアン」は村岡花子さんが好きです。 そして「奇跡の道」は 田中百合子さんのが しっくりきます。 推薦者のコオさんが 「おそらくどんな翻訳にも存在するはずの 間違いがまったくない」ことに驚き 百合子さんに直接伺ったところ 「コオさん、あれは翻訳ではないのです」 「わたしがまず英語で声を出して読んだ後、 心を鎮めてイエズスに祈ります。 わたしはこの文章をどんな日本語にしたら 良いのでしょうか?」 「その答えをわたしは書きとっていったのです」 (帯文より)という答えが返ってきたそうです。 イエスキリストを兄と呼…
幸せになりたかったら 幸せの種を蒔こう そして いちいち 土をほじくって 確かめたりせずに 神がそれを育ててくれると信じて 待ってみよう 誕生日が来るたびに さあ 新しい一年の始まりだ! 今年は何しよう?と思うのです。 身体のメンテナンスとしては ヨガと筋トレ。 心のメンテナンスとしては 月並みかもしれませんが 一日一善。 これは 自分に対しても です。 大きなことでなくていいのです。 玄関先の掃き掃除をするとか 宅配の人に冷たいものを差し上げるとか ちょっと面倒だけど 自分も人も気持ちのいいことしてみます。 わたしの知り合いに 70代で 過酷なヘルパー生活をしている人がいますが 「もう 忙し…
余分な力を抜けば 浮かび上がるよ 朝起きた時 鏡に映る顔を見て 「おはよ~」と挨拶します。 一番に出会う人です。 神秘家の自画像では 首から下しか描かれませんでした。 わたしたちは 自分の顔を 直に見ることなど出来ないからです。 この認識が 神秘家の悟りとなったそうです。 鏡の女性に言います。「お誕生日おめでとう」
あなたが明るく 自信に満ちて輝けば それは 周りにも影響していく もうすぐコンサートです。 わたしらしく おそれず おもねず うたがわず ステージに立ちたいと思っています。
若い頃 ある牧師さんのお宅へ お邪魔したことがあります。 沢山の方が食卓についておられましたが 出された食事は お茶碗一杯のご飯に 缶詰のポークが一枚載っただけの物でした。 それを ゆっくり大事に頂きながら 笑顔で語る牧師さんのお話に聞き入っていました。 そして 帰るころには ほんとに不思議なのですが 心もお腹も いっぱいでした。
メールの方が 本音で言える。 そうでしょうか? むしろ 思い込みによって 互いの距離を 広げていきやしないか。 仮想現実。 できるだけ 会って 話したい。 声が聞きたい。 温もりを感じていたい。 どんな姿であれ 生身のあなたに接していたいと思うのです。
エネルギーの拡大を感じるか それを 選ぶと わくわくするか 迷いはつきものです。 楽しい迷いならいいのですが 大抵は 胃の当たりがキュッとなったりします。 義理人情で選択すると 心が重たい感じがします。 恩を売るとか 着るとか いう言葉が わたしは好きではありません。 昔掛けた恩を始終持ち出しては 「恩を仇で返した」とか「恩知らず」とか いう人がいますが そんな人の所へ 喜んで行く人がいるでしょうか。 「しかたないから」「とりあえず」といった 訪問になってしまうのではないでしょうか。 自分の好きでやったこと。 その人が好きだから 会いたいから行く そういう関係性を持ちたいものです。
私が今日まで生きてきて、 自分で一番トクしたなと思うのはね、 言葉で言うと、不器量と言うか、 不細工だったことなんですよ。 私は、普通だと思ってるんだけども、 他人(ひと)がそういうふうに見るから、 ああ、そうなんだなあと思って見ているうちに、 器量よしばっかり集まる芸能界に 入っちゃったんですよ(笑)。 今でこそ、役の広がりが出てきましたけど、 昔はお手伝いさんまでも、 器量よしがやったわけですからね(笑)。 ま、だから、自分が不器量だということに 早目に気がつかされちゃってね。 それでね、案外自分としては、 男を見誤らないできたという確信があるんですよ。 要するに、見誤らないというのは、 …
早朝 或いは 午前2時や3時の場合もありますが 大学ノート四枚ほど 手書きでバ~っと書きます。 不安とともに目覚めてしまった時などは その不安を書きまくります。 わたしのノートだから 誰はばかることもなく 書きたいことが書けます。 大抵は 書いているうちに 癒しが起こります。 自己免疫機能が働いてくるようです。 暗闇の中 スポットライトを頼りに書き始め 窓辺に薄明かりが指す頃には 心のもやもやもだいぶ晴れてきます。 夕方は夕方で 一日のうちに降り積もった鬱憤を 書きつづる事もあります。 しかし 朝のカタルシスの後だと その必要もなく 従って ほとんど朝ノートだけで済んでいます。 ありがたいこと…
コンサート このタイトルに決めるのに 詩人の芝憲子さんと 作曲家の池辺晋一郎さんとの間で ひと悶着あったそうです。 芝さんは「叫ぶ」という大仰な表現がどうも……。 池辺さんは「叫ぶというのは 心の叫びであって 決して 大声で歌うという意味ではありません」と 説得なさったそうです。(お二人の対談より) 大声に頼らずとも 沢山の方々が 声を合わせて歌う姿には 感動を禁じえません。 県外からいらした方もいて 沖縄の現状を憂うる心に打たれました。
重すぎると思ったら 小分けにすることだ 問題は小さなうちに 気になることは すぐに 処理する クヨクヨするたちなら チマチマ手を打つしかない 将来に対して漠然とした不安やってきたら 今日できることを コツコツやるしかないな と思っています。 喜びを感じるのは 今 しかないのですから 何か 楽しいことはないかと探します。 今の自分が 将来の自分を創るのですから。
夫くんが仕事についている時には 家のことは ほとんど わたしの仕事でした。 年金生活に入ってからは 家にいることも多く 小さな不満が 積もってきました。 それを 我慢しているうちに どんどん募って来て しまいには爆発し 怒鳴ってしまったりします。 それで ストレスを溜めないよう 小さなうちから 言いたいことは言うようにしました。 例えば 「牛乳パックはちゃんと開いてから乾かして」 みたいなことです。 自分でやる分には些細なことですが いつもいつも 人の後処理ばかりさせられるのは 嫌なものです。 いちいち言うのが嫌だから 自分でやった方がかえって「楽」と やってしまいがちですが 子どもと同じで …
自分の優しさに ふたをすることによって 一番傷つくのは 自分 ご近所の方から 北海道から送られてきたという トウモロコシを頂きました。 みずみずしくて いかにも うまそうです。 お礼に 庭先にぶら下がっている ゴーヤーを差し上げました。 こういう関わりが とても 楽しいのです。
同じことして 違う結果 期待すな! 自生えのゴーヤーが 二つ芽を出して グングン伸びてきました。 あまりに近くて せっかく立てた二本の竹も 奪い合うかに見えました。 ところが です。 同じ竹に向かっていたものの 奥の方のゴーヤーが その竹に到達する寸前で 立ち枯れたのです。 お陰で 前のゴーヤーは すくすく成長することができました。 これはもう 「奥さま」がお譲りになったとしか思えません。 植物にも 伝達し合うものがある。 と聞いたことがあります。 それはそれは見事な引き際でした。 今年のゴーヤーは豊作でした。 農家のサブローおじさんに教えて頂いた方法で 丁寧に育てたからです。 脇から出てくる…
「愛とペーソス」チャップリンの映画にも 通じるような 味わいがあります。 ハッピーエンドではなく 小さな幸せや 悲しみなどの日常を さりげなく描いています。 目元に引いた線一本で 様々な表情や年齢を 表現することの巧みさに 驚かされます。 この本を 娘が 90歳の祖母にプレゼントしました。 まさしく 世代を超えて愛される絵本だと思います。
勘違いしちゃいけないよ 欲が満たされたから 幸せな訳じゃないんだ 欲が満たされた その一瞬だけ 欲の晴れ間ができる すると 本来の至福が かいま見えるんだ 若い頃は 色々試して いろんなものをゲットするのが嬉しかったけれど 今は 管理するのも難儀ということもあって 少しの物を 大事にするのが好きになりました。 人付き合いも そうかもしれません。
アイロンもあてず 化粧もせず ごめん 笑顔 持ってくからさ ごめん 好きで お化粧しないのだけど なんとなく 気後れするような時もありました。 歳をとればとるほど 思います。 「笑顔」こそ 最高の身だしなみだと。
自立とは 自分の価値を 人の評価に依らないこと この頃は 歌うことが 楽しくてしょうがありません。 さすが 世紀をまたいで受け継がれてきた クラシック歌曲です。 どんなに 練習しても 飽きるという事がありません。 やってもやっても 課題が浮き上がってくるのです。 プロになるわけではなく ステージに立つ機会も滅多にありません。 それでも いいではありませんか。 かの岡本太郎氏は ド下手でも 堂々と大声張り上げて歌うので 皆が 喜んで カラオケに誘ったそうです。 「歌に関して言えば、 私達はみんな死ぬまで、学生なのよ」 マリア・カラス
娘一家が コロナ感染し 親子五人が 自宅療養になりました。 その際に たくさんの人が 玄関先に 食べ物を届けてくれたりしました。 その中には あることがきっかけで 気まずい関係になった方もおられました。 お陰様で 外に出られるようになったときには その方との仲も修復されました。 悪いことばかりでは ないのですね。 絵は やんちゃばかりして 親に心配かけていた 友人の息子さんが 美容師になって 里帰りしてきた時のものです。
体を動かすこと 新鮮な空気を 目一杯入れること くよくよ悩まない 心配しない にたらにたら 笑っている ただ しあわせでいる 今日も一日 ごくろうさま おやすみしゃんめんまたねてしかく 先日 筋力測定をしたら 思いのほか低いのに ガッカリしました。 動いるようで あんがい バランス良く動かしてないんですね。 ま 知った時が やり時だということで また 今日から 意識して 整えていきたいと思います。
体を 守って守って 十年長生きしたからって それが なんだと言うの? その間 生きてる間 楽しめたか 充実した人生であったか どれだけ笑ったか 人を笑わせたか じゃないの? と 自分に言ってみる。
不眠症について悩むことは、 不眠症そのもの以上に害がある。 たとえば、私のクラスの受講生だった ニュージャージー州リッジフィールド・パークの アイラ・サンドナーは、慢性不眠症のために 自殺寸前にまで追いつめられた。 彼は私にこう語った。 「実のところ、 気が狂ってしまうのではないかと思いました。 問題は以前の私が熟睡していたことでした。 私は目覚まし時計が鳴っても目が覚めず、 朝はよく遅刻していました。 私はそれを苦にしました。(中略) 私は友人に相談しました。 すると一人が、 眠る前に目覚まし時計に注意を集中してみろ と教えてくれました。 それが不眠症のはじまりでした! その呪われた目覚まし…
相手の甘えを引き出すような 誤った愛情を注がぬこと 自分が好かれるためではなく 真に 相手のためになることだけを考える 心身脱落 自我滅却は ただ 座禅のみにあらず 利他の思いもまたそれなり 孫には ついつい甘くなってしまいがちです。 何なんでしょうね。 子育ての時には 結構厳しかったりもしたのですが・・・・。 しつけは親に任せられる 安心感からかもしれませんね。 わたしの身近なおばあちゃんでは お金をバンバンあげる人。 自分の好みの物を押しつけて それが愛情だと(たぶん)思っている人。 反面 甘いものも しっかり管理して 毅然としている人。 などがいます。 誰だって孫には好かれたいですよね。…
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