仏さまには様々な真言があります。お不動さまにも何種類もの真言があります。真言を称えますが心の中は「お願いします」だけです。全ての仏さまに共通する真言は「お願いします」です。真言は《心言(しんごん)》ではないでしょうか。あなたもあなたの「心言」をつかまえ
「いろはにほへと…」の47文字に乗せて、ほとけの道をやさしく分かりやすく解説します。道に迷った時、悩んでいる時、何が幸せか分からなくなった時…ふと、このブログに立ち寄ってみてください。大分県大分市にあるお寺の住職がほぼ毎日更新中!
お不動さまは、上には如来に従い・下には衆生につかさどります。これは自分を捨て他に尽くすことを道案内としているのです。分からぬ不思議さが、お不動さまなのです。残念ながら仏さまの思いと人間の思いが異なる時があります。苦しみも違います。楽しさも違います。その
どのような・事でもとことん・やるが良し・そこを明王・じっと見ている
どんなことでも最後の最後まで、やることが大切です。それをお不動さまはじっと見ているのです。次々に出てくる全ての煩悩を焼き尽し、最後に大智火と為すのです。願って、直ぐに成就しなくても心配をする必要なしです。その時が峠です。それを越えれば後は下り坂になりま
特殊でなくて平凡で良い、人生は。これがお不動さまの教えです。見聞きすることの正解は、その時その時により違います。自分がこうありますから、他の人も正解はその時その時により違うのです。他人に耳をかたむけて、さらに心をかたむけるようになりましょう。それがお不
物事をするのに、誉められることを目安にしてはなりません。そうすることは、迷いです。得をすることを目標にしてはなりません。お不動さまはそう言う人を嫌います。そう言う心を嫌うのです。縁のある人なら全員が助かると言うのがお不動さまの願いなのです。お不動さまの
衆生が忍耐を心して、仕事に励むなら、お不動さまは更に励み、更に頑張り更に努力をします。人の為の努力に励む人、それをお不動さまと呼ぶのです。私たちもお不動さまになれます。ならなければ、所願・諸願は成就しません。多くの人を救い上げるために願って欲しいです。
最初のことを言いますと、お不動さまは大日如来の化身です。手を合わす私を見て、これを助けようと思えば、お不動さまに姿を変えるのです。初心を大切にし、大事にして始めるのです。恐ろしい姿をしながら、私たちを助けようとしてくれます。本当は、やさしい仏さまなので
好きで重要なことがあれば、論ずることなく、真剣に戦いぬきましょう。私たちのすべき道がたくさんあっても、お不動さまは、その中から一つを選び、大事に保ちながら、大切にするのです。それは即ち、私たちのすべきことを表しています。とにかく戦いましょう。一番の敵は
いずれをも・力あふれる・明王は・衆生済度に・骨身(ほねみ)くだきて
本日より「不動明王のいろは歌3」を始めます。 何事に対してもお不動さまは力いっぱい私たちに功徳を授けます。どのようなことがあっても骨身を砕いても、衆生を助けようとしているのです。また、助かる道を私に授けようとしているのです。道の案内がお不動さまの力なので
初参り・ん!そうだとも・そうだとも・我と其方(そなた)は・今年も一緒
仏さまが言ってくれました。「我とあなたは今年も一緒」だと。今年だけでなく、去年も、その前も守っていてくれたのです。知りませんでした。有り難いです。長い間、ありがとうございます。
私に修行を勧める仏さまは、お寺に居ます。そして、私を促す仏さまは、心の中に居られるのです。どちらかの仏さまが右手右足を守り、他は左の手足を守ってくれます。有り難いです。
千里の道も一歩からと言います。同じく、お百度の修行も一歩から始まります。してみると、今年の初参りも大切な一歩にあたるのではないでしょうか。仏さま、道案内を宜しくお願い致します。
初参り・文殊(もんじゅ)菩薩に・力借り・智慧にて開く・この一年(一念)を
智慧の文殊さまに力を貸していただき、今年の一年は価値あるものにしたいです。その為には、仏さまにすがる一念を充実したものでなければいけません。頼む一念を持ち応えたいものです。
観世音さまと『心経』の観自在菩薩は、同じ仏さまです。ですから助かりたい時には、心経を称えるのです。観音さまが言いました。共にすがりて、共に助かり、共に悟りの道を行き成仏するぞ、と。
初参り・笑(え)みに任せて・弁才天(べんざいてん)・縁がある故(ゆえ)・導き助(たす)く
笑顔で私たちに会ってくれます。優しい仏さまです。一人でも多くの人を助けようとしています。弁天さまとの縁を大切にすると、不思議と物が成り立ち、自分の物として仕上がって行くのです。
初参り・知るに優しき・地蔵尊(じぞうそん)・地獄極楽・全てで救う
お地蔵さまは不思議な仏さまです。地獄・餓鬼・畜生・・・の世界に居るのです。衆生を助ける為に、救い上げるために居るのです。今日も助ける為にあわただしく動き回っていると思います。
仏さまが私たちを導く教えは沢山あります。人間の数だけ教えはあると言っても言い過ぎではありません。一人一人の教えですから密教(真言宗)と言うのです。つかさどるのが大日如来です。
初参りは、眼を閉じて手を合せて下さい。閉じた目に仏さまが現れたら、それは妄想でも夢でもありません。本当の仏さまの姿です。心配しないで下さい。あわてなくてもいつかは見ますから。
初参り・夢に見たるぞ・仏菩薩(ぶつぼさつ)・されど行じて・眼をば覚(さま)さん
初夢が仏さまだったら、最高です。夢を夢で終わらせずに、自分で何かお行を決めて実践するのです。夢の内容を実際にあなたがすると、その夢は現実に姿を現すのです。心の目を覚ますのです。
初参り・帰命頂礼(きみょうちょうらい)・手を合わす・仏と心・結ぶ礼拝(らいはい)
身命をささげて三宝に帰依をすることです。三宝とは、仏法僧です。頂礼とは、頭を地面につけるまで頭を下げることです。最高の礼とされています。このような心で仏さまを拝みましょう。
初参り・済度(さいど)の清め・いただいて・寄って授かる・文殊の智慧か
文殊菩薩の智慧は、知恵でなく智慧なのです。私たちを助け、修行させ、仏の位まで成長させるのです。その為に、知恵ではなく智慧なのです。これを済度と言います。救い上げることです。
初参り・阿弥陀如来も・手を合わせ・助(たす)くる我を・迎えに来たぞ
阿弥陀さまも手を合せるのです。手を合せているその人を助けようと、手を合せるのです。有り難いことです。今を真剣に生きようとする人を救い上げてくれるのです。無量の力が有るからです。
初参り・天上天下(てんじょうてんげ)・釈迦如来・七歩(ほ)歩(ある)きて・唯我独尊(ゆいがどくそん)
お釈迦さまがこの世に生まれた時の言葉です。唯我独尊とは、素晴らしく恵まれた境地に私の如く皆を案内したいと言う事です。お釈迦さまに認められて、ご自分の言葉をあなたに授けたのです。
仏さまとの縁、他人や物事との縁・・・たくさんの縁があります。その縁を丸く収める努力が大切なのです。縁を「円」にするのです。丸くすると角が無くなり、怪我(けが)や過(あやま)ちも無くなるのです。
初参り・弘法大師・道開き・後生大事(ごしょうだいじ)の・歩き始める
弘法大師さまが、道を開いてくれます。そして今日から、あなたの生涯を共に歩いてくれます。苦しい時悲しい時も一緒に泣いてくれます。苦や難を押し倒す喜び嬉しさを授けてくれるのです。
初参り・不動明王・ここに居(お)る・そなたの手の中・心の中に
ご本尊さまの不動明王は、あなたの手の中、心の中に居ます。眼に見えるお不動さまは、仮の姿です。今年一年は、手と心を大事に使いましょう。全てがお不動さまの動きなのですから。
初参り・結縁(けちえん)結ぶ・喜びぞ・過去も来世も・不動は守る
今日と言う日は、二度とありません。その今日の日にお不動さまから結縁を結んでいただきました。現在・過去・未来の全てに渡り弟子として守って頂けるのです。本当に「おめでとうございます」
お釈迦さまが首を長くして待っています、あなたの来るのを。智慧を授けようとしています。知恵ではなく、智慧です。一年間はお寺はもちろん家に居ても願いましょう。仏教を始めた人です。
初参り・薬師如来が・呼んでいる・いつでも願え・何処(どこ)でも思え
薬師如来さまが待っていました。そして、呼んでいます。いつでも願い、何処からでも願えと。今年は、あなたが代表で選ばれました。あなたがお薬師さまに成って、多くの人を助けてあげて下さい。
初参り・倶利伽羅(くりから)さまに・手を合わし・不動自(みずか)ら・呼び寄せ招け
倶梨伽羅龍王さまが不動明王の剣に巻きついています。刀諠の如く、一切の災難や障害を打ち倒すのです。何にも負けない仏さまと思って良いのです。何でも成就する力あるからです。
何事も、暦の上の大安吉日にとらわれないで下さい。日・月・火・・のように、大安・赤口・先勝・・と続きます。仏さまとあなたの心で、毎日が大安となるのです。大安の日を作る努力が必要です。
福徳と言うものは、欲を出して得る物ではありません。ましてや、金銭だけが福徳でもありません。真実の福と徳を仏さまは授けてくれます。最後の最後に授かる福徳を大事にして下さい。
初参り・意思(石)の上にも・三念(年)ぞ・見つめ見直し・認める心
「石の上にも三年」と言いますが「意志の上にも三念」としました。三念とは、見つめる・見直す・認めることを言い、心を大切にします。三念とは、三つの今の心です。心・仏・衆生の無差別を言います。
善い方向に運ぶ。これを運が良いと言います。だとしたら、運ぶのは誰か?。神仏でなく、自分自身です。運ぶ努力が必要です。あなたの心の力が大切です。その心の力を養って、あなたを幸せに。
初参り・昔取ったる・杵柄(きねづか)を・思い出しては・仏力(ぶつりょく)招く
お正月のお餅です。杵の柄(手で握る部分)が必要です。柄が無ければ、お餅は搗(つ)けません。仏さまと私たちも同じです。そしてその力も大切です。お餅を搗く気持ちに成って、礼拝の手を叩きましょう。
楽にも苦あり。苦は楽の種。よく聞く言葉ですが、苦を心の畑に撒きましょう。その畑を耕しましょう。種に水を。そこまでしないと、苦は楽の種としての意味がありません。厳しい言葉です。
よく聞く言葉が「七転八起」です。八回起き上がることは大切ですが、ただ起きるのではなく前に一歩踏み出しましょう。それが大切です。仏さまが私たちを転がしているのかも知れません。
初参り・念仏唱え・仏呼び・思い浮かべる・念ずる阿弥陀(あみだ)
念仏と言えば、阿弥陀さまです。「南無阿弥陀仏」です。たいへん良い事です。が、念仏とは、今の心が仏なりとも読めます。あなたの今その心を仏さまに受取ってもらいましょう。本当の念仏です。
初参り・ついた餅(もち)より・心持ち(餅)・仏に頼む・気持ちが大事
初参りをしたなら、お家でお餅をいただきましょう。お寺にお参りをしたら、多くの心持ちをいただき、仏さまに頼んだら大切な気持ちをいただきましょう。そして、答えは『もちろん』です。
初参り・袖(そで)擦(す)り合うも・多生(たしょう)の縁・振れ合うもあり・他生の縁も
袖が擦り合おうと振れ合おうと、多生の縁か他生の縁となるのです。自分一人だけでなく、多くの人の幸せを望むことが大切だと言うのです。聞きなれた言葉なら、実行すべきですね。
初参り・礼儀に満(み)たば・富み栄え・楽をいただき・微笑む力
落ち着いて初参りをすれば、礼儀を正しく保てます。その心でやれば何もかもが富み栄えるのです。一言で言えば楽となるのです。そして、自然と微笑みが湧きでます。礼儀は有り難いことです。
初参りすると、全てが大吉と成ります。暦には色々なことを書いていますが、仏さまをお参りすると大吉に成るのです。要は、あなたの心です。摩訶不思議(まかふしぎ)という力をいただくのです。
初参り・読み聞きするは・般若(はんにゃ)なり・道を開きて・案内(あない)するなり
お正月の『般若心経』は、大切な物です。唱えるのは当然ですが、聴くだけでも大きな功徳があるそうです。その人その人のこれから歩こうとする道が開くのです。その道の案内は仏さまがします。
初参り・門松(かどまつ)立てて・仏呼び・神を招いて・福ぞ来るか
門松は、神や仏さまに家の入口を教える為の物です。神や仏さまは服を持ってきます。帰りには家の災難を持って帰ります。福を呼び難を弾くとは、この事を言うのです。玄関を美しくしていよう。
初参り・渡りに船が・要(い)る如(ごと)く・船頭(せんどう)仏ぞ・客は我(われ)なり
川を渡るには船が要ります。舟の扱いを知っている船頭さんが要ります。苦しみと言う川を渡る船で、船頭さんは仏さまです。その船に乗り、楽・成就と言う岸に着けてもらうのです。
初参り・恩を知りては・手を合わす・神も仏も・その手を拝(おが)む
初参りはこちらが努力をし苦労しているようですが、実は仏さまが参らせるために様々な力や方法を私たちに与えてくれてるのです。初参りは願いを言う前に、先ずお礼を言うべきだと思います。
初参り・瑠璃(るり)をいただく・薬師(やくし)さま・体も心も・病(やまい)を無くす
薬師さまは、薬師瑠璃光如来と言います。別名が大医王仏です。そして左手には薬壷(やくつぼ)を持つか摩尼宝珠(まにほうじゅ)を持ちます。多くの功徳がありますが、病気、心の病気平癒を願いたいです。
初参り・幣(ぬさ)を納めて・祈るかな・神は始める・御幣(ごへい)の中で
大切な願いごとを品物として納めます。それを幣と言うのです。主に神さまなのですが、不動明王は神仏両方に通じる仏さまです。大切な、あなたの願いを納めるのが大切だと思います。
初参り・両手に剣(つるぎ)・索(なわ)を持つ・不動の親を・心に住ます
右に剣、左に索を持つお不動さまは、私たちの親です。無条件で私たちを愛してくれる、親です。その親が心の中に住んでいます。親だから優しく誉める時もあるし、厳しくしかる時もあるのです。
初参り・誓(ちか)うぞ神や・仏さま・日日(にちにち)合わす・その手の中で
初参りの時の願いごとを、神さまや仏さまは決して忘れません。私たちが忘れても覚えています。しかも、それは毎日のことです。神仏の心にそうように日々手を合わす事だけは忘れないで下さい。
今日と言う日は、二度とありません。一年三六五日全てが、一生で一度だけの日なのです。今日一日を大切にと思う心を、仏さまは待っています。その心に力を与えるのです。
弁才天・弁財天のことです。足を運びましょう。その時手を合せると悪(あ)しきことを運び、幸福や特別なことができるのです。もっと言うと不可能なことを可能にしてくれるのが、弁天さまです。
手を合わす時に、本心で手を合わして願うと、仏さまの思いをいただけます。それと同時に、自分自身の心がはっきりと見え始めます。そのことを、悟りを開くと言うのです。
あらゆる人が、あらゆることに努力をします。が、仏さまはなかなか動いてくれません。力ではなく、念ずることで動かすのです。あなたの心に合わせて動いてくれるのです。
初参り・計(はか)り知れない・大師さま・今も生きつつ・我らを守る
とにかく有り難く、不思議な力を持ち、今も活きているとしか思えない弘法大師さまです。お四国に、高野山に、心の中でお参りを。修行大師がお寺に来ています。今年最初の挨拶をして下さい。
初参り・論に負けても・行には勝てよ・さらに行じて・悟りを目指せ
理論・屁理屈には、負けても良いのです。しかし、仏さまにすがるお行だけは負けないようにして下さい。勝ちましょう。勝ってもやめずにさらにお行を。さらに努力をすることが悟りなのです。
本日より、「初参りのいろは歌1」をはじめます。沢山・色々なことを願って下さい。お正月です、大丈夫です。自分の事だけでなく、多くの人のことも願って下さい。人の為にすがるのが、お不動さまは一番好きなのです。お不動さまへのお年玉を。
最後に言うのが、般若心経の「心」は、呪であるということです。最後の「羯諦羯諦・波羅羯諦・波羅僧羯諦・菩提娑婆訶」の出てくる前に、般若波羅蜜多呪とありました。これが「般若呪」なのです。「般若心」です。現在の玄奘(げんじょう)訳の「心経」の前に、羅什(らじ
心経に・すがる最後の・言葉ゆえ・幸せに向かい・菩提娑婆訶(ボーディスヴァーハー))
菩提は、悟りの智慧なのです。菩提薩埵が省略されて、菩薩となりました。娑婆訶は、こんなにめでたいことがあろうか。ああ、幸せだと言う意味です。真言の意味も重要です。が、意味を知ることに気を取られたら、それはもう本当の真言の意味をとらえたとは言えないのです。
心経に・赤心(せきしん)こめて・呼びかける・皆で一緒に・波羅僧羯諦(パーラ サン ガーテー)
ここでまた言います「みんなで一緒に行こう」と。(観自在)菩薩が全ての人たちに言うのです。「さあ共に行こう」と。これを聞いた他の人たち(一般・優婆塞・優婆夷・比丘・比丘尼)も思いました。「さあ行こう。みんなで一緒に行こう」と。この境地に気が付いた菩薩さま
心経に・もう一度だけ・唱えるぞ・さあ行ってみるぞ・波羅羯諦(パーラ ガーテー)
行こう・往こうに、波羅を付けて「一緒に行こう」「さあ行こう」と他の人を誘っているのです。自分だけではなく多くの人に呼びかけています。ガーテーとしか言えなかった人が、パーラをつけることができたのは、すごい成長なのです。そして、これは人間の世界を離れて安智
心経に・ひたすら我を・誘(さそ)うもの・行こう羯諦(ガーテー)・羯諦往(い)こう
真言の意味は「行こう」そして「往こう」です。双方とも「いこう」と読みます。真の幸せとは、決して近づいてこないから、こちらから歩いて行って近づかないといけないのです。悟りを開き、心の幸せになると言う目的を持って、行ずるのです。それを「行こう」と言ったので
それ故、その智慧の完成を表す呪が、ここにあります。般若波羅蜜多呪なのです。般若は、悟りを得る真実の智慧です。波羅蜜多は、完成を表します。そして、渡(度)ることを表すのです。ですから、到彼岸、彼岸に至ることを表します。度も到彼岸も、悟りを表す言葉です。波
心経に・真実不虚の・教え説く・真言唱える・霊気(れいき)味わう
自分の中にある苦しみの種を取り除くために真言があるのです。般若心経の真言を通じて本当の真実と言うものを知るのです。そうして見つけた真実を信ずるのです。それは、仏さまを信じることでもあるのです。ですから、仏さまを信じている人は、すでに真の真言を唱えている
心経に・観れば一切(すべて)の・苦しみや・迷いを除く・呪の力かな
「能除一切苦」です。般若心経の初めに「度一切苦厄」とありますが、それと同じ一切苦です。苦とは心身に受ける悩みや思い通りに成らぬ、不安を表したものです。ここで言うことは、般若心経は、何が無くても全ての苦しみ・悩み・不安を除くことができることを説いているの
心経に・明暗分ける・無等々(むとうどう)呪・比べることなく・ただひたすらに
さらに他と比べることができない優れた悟りへ向かう呪文のことです。四種類の「呪」を言いましたが、これは①在家一般の人②在家であるが優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)③出家であるが比丘(びく)・比丘尼(びくに)④菩薩の「呪」ではないかと思います。四つの呪
心経に・唯一無二(ゆいいつむに)なる・無上呪・この上なきこと・授ける真言
最高で、これ以上を比較して見ることができない呪文のことです。仏さまや菩薩さまの動き・働きを表す言葉です。ですが、仏教の言いたいこととは全てが一致しないものがあるのです。このあたりに成ると、ただ仏さまに救いを求めるより、自分の力で、行じて助かる道を切り開
太陽が出た時の、ご来光のように、光り輝くような呪文のことです。つまり、偉大なる明智の真言なのです。この場所で言う「大明呪」という言葉は、『ん』の項目でも出てきます。般若の心を表す「呪」であると言うことです。理屈や理論で攻めるなら、さまざまな呪を上げて、
阿耨多羅三藐三菩提を得て、般若波羅蜜多を知ることができます。故に、今の心の状態を表すために「呪」を使います。大神呪とは、大いなる呪文のことです。呪文とは真言のことです。陀羅尼(だらに)とも言います。真実を語る言葉です。つまり、仏さまの言葉なのです。人間
これも梵語です。「アヌッタラー(無上)サムヤク(正しいこと)サンボーディヒ(完全な悟り)」です。つまりこの上ない偉大な悟りを開くことです。涅槃の境地で無いと味わえないかも知れません。漢字では、その本当の意味を伝えられないから、原語のままで伝えているので
心経に・諦念(ていねん)された・仏さま・三世に渡り・諸仏とぞ言う
今までのことを完全に体得した人を、仏さまと言います。そう言う人が、過去・現在・未来の三世にいるのです。私が生まれる前の仏さまは過去の仏さまです。生きている間の仏さまが現在念じている仏さまです。未来が我々自身の仏さまです。決して死んだ後の仏さまではありま
心経に・偉い悟りを・こうも言う・究竟涅槃(くきょうねはん)ぞ・悟り完成
究竟とは、物事の極みを尽くすことです。つまり、永遠に、しかも終りのない目標や目的に向かって努力をし続けることが大切です。こう言う状態を悟りと言うのです。迷いの無い安らかさに満ちた、いわゆる本当の幸せに至ることができるのです。身の回りのことを自分にとらわ
遠離一切とは、全てのまちがった思いや考えを、遠くに離れさせてしまうことです。顛倒夢想とは、全てをまちがった判断をせず、正しくつかみ取ることです。あなただけが真正面から物事を見ているのではありません。物事を斜めに見たり、逆さに見ているかも知れないのです。
罫礙が無くなれば、変な執着も無くなります。そして、ついには恐怖心も無くなってしまうのです。逆を言えば、財産や名誉などが無くなれば、それらを失う恐怖心も無くなるのです。失うと言う怖さも無くなってしまいます。あらゆる欲から解放され、恐怖心が無くなるのです。
心経に・罫礙(けいげ)もなくて・心にも・罫礙無き故・悟りに至る
心無罫礙です。罫は、引っかかることです。礙は、疑いの心を持つことです。故に心無罫礙は、こだわる心や疑いの心が心から無くなることです。心で思うことを邪魔するものが無く、自由に心が働くことなのです。こうして本来の素直な心に成れば、いかなる物からも妨げられな
菩提薩埵は「ボーディサットバ」です。菩薩でもあります。つまり悟りを開いた人なのです。この人たちが「六波羅蜜」の実践ができるのです。六波羅蜜とは、①布施:与えること②持戒:戒律を守ること③忍辱:苦難に耐え忍ぶこと④精進:真実の道を実践すること⑤禅定:精神
心経に・やり遂げたるは・修行だが・それまた無にして・無所得(えるところなし)
修行を重ねて得た物までも、否定をするのです。いや、修行それさえも否定しているのです。何事も否定することが、仏教に通じるし、般若心経に通じると思うのです。その思いさえ、否定するのです。動き続けろ、歩き続けよ。止まるな動けと言うのが、教えの基本なんです。流
悟りを開いた人までが、不安になります。知恵を超え、智慧に至った者さえ、取得したことを否定するのです。悟りを開いて得た解脱まで、否定をするのです。何にも残さず、ただ否定をし、否定した物までも、否定するのです。これは私たちが眼を覚ますまで、否定を続けること
心経に・およばぬ心・四諦(したい)して・苦集滅道の・悟りの言葉
「四諦」と言うのがあります。①苦(苦しむこと)②集(苦しみの原因)③滅(苦しみが無くなること)④道(苦しみを無くすための修行の方法)も無いのです。この四諦の教えは仏教には一番必要なものと思うが、それも必要が無いと言うのです。必要が無いとは、こだわる必要
心経に・述べる報じるは・老死なり・また受け持つは・老死尽なり
歳を取ればやがて死にます。年齢に関係なく、人は死にます。故に言えることは、その日その日を大切にすることなのです。一日一日を大事に生きて行くことが、大切なのです。その日に出会った人も、大切にしなければいけません。十二因縁とは、その日を自他ともに生かして行
心経に・一度出たかな・乃至とは・これにて説くは・流転(るてん)還滅(げんめつ)
今度の「乃至」は幅が広いです。①無明無知の後、②行潜在的形成力・③識・④名色・⑤六処・⑥触・⑦受・⑧愛・⑨取・⑩有・⑪生、そして、⑫老死へ続くのです。十二に分けているのです。これを『十二縁起(えんぎ)』『十二因縁(いんねん)』と言います。また無明尽から
無無明は「乃至」を経て無老死につながります。そして逆の、無無明尽は「乃至」を経て無老死尽につながります。無明とは修行の上で根本的な無知なのです。愚かさ・迷い・煩悩でもあります。無明尽とは無明が尽きて無くなることです。二つのことを同時に説くのは、つまり無
何度も繰り返しますが、ここの六根・六境・六識をとらえて欲しいです。私たちの心の働きを細かく説明している所なのです。説明だと思わずに、自分の心の働き、そして、それの良し悪しをもう一度落ち着いて考えて欲しいのです。心の働きを永遠不変のものだと思ってしまうこ
心経に・楽なる言葉・乃至(ないし)なり・言葉を避けて・心にぞ説く
無眼界・乃至・無意識界の「乃至」です。つまり、耳界・鼻界・舌界・身界も「無」であると言う部分なのです。省略をしていることも、重要な場所であるのです。文字に表れて無いことを心に思い続け、身体で行ずることが「般若の智慧」なのです。文章に書いてないことを、心
六根と六境でとらえたものをより具体的に心に描き認識をしてもらうために眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界を加え、「六識(ろくしき)」としました。が、これらも幻想なのです。永遠不変のものは無いのです。変化を続けています。このように、般若心経では六根・六境
心経に・願わしいかな・法(のり)の道・色(しき)、声(しょう)、香(こう)と・味(あじ)と触(ふ)れ合い
見る・聞く・香る等の対象が、色声香味触法です。これらを「六境(ろっきょう)」と言います。眼で色を見て、耳で声を聞いて、鼻で香りを臭いで、舌で味わい、身に触れて物を知るのです。それらが心(意)の中に、何かを感じさせるのです。形を作り出すが、実体はないので
心経に・ついに来たのか・この私・眼(め)、耳(みみ)、鼻(はな)、舌(した)・身(み)、意(こころ)無なり
眼耳鼻舌身意を「六根(ろっこん)」と言います。これらの実体が無なのです。無いのではなく「無」なのです。見たり・聞いたり・匂いを嗅いだり・味わったり・触れたり・思いを描いたりする時の心の働きが、実体としては無なのです。無いことではありません。仏教ではこの
心経に・素知らぬことも・空の中・一切すべて・悉(ことごと)く空
空中無色無受想行識の部分です。空と言う思想が成就すれば、色受想行識にとらわれなくなります。実はそれが悟りなのです。苦悩から逃げ出す方法が悟りなのです。苦悩なことを苦悩だと思わなくなれば、それが悟りの境地にあることなのです。それを完成させた人が成仏したこ
心経に・霊光(れいこう)たなびく・教えあり・不増不減は・仏の姿
この世の中、私たちのすることでは増える物も無いし、減る物も無いのです。お家の庭に花を植えると、花の数は増えるが、使える土地の面積は減ります。大きな仕事は、収入も増えるが支出が増えます。だから収入も減ることになるのです。良いことがあれば、苦労も増えるので
心経に・他の垢(く)と浄(じょう)は・私には・不垢不浄なる・仏の心
存在する全ての物が、汚れることも無く、清まることでも無いのです。我々人間は身の周りの物体の、清いか汚いかを気にします。が、自分の心はどのようにあるかと言うことについて考えているでしょうか?。いや、考えても「自分の心は清い」と思うではないでしょうか。そう
あらゆる物に実体が無いと言うのが、空相の本体です。本来の本当の姿なのです。だから、生ずることも無く、また滅することも無いのです。花の種から芽が出て、花が咲き、その花が散りて種になるのです。このことも、不生不滅であるからなのです。また苦しい病気やケガも同
心経に・彼方(かなた)拡がる・諸法なり・されどこれまた・空相なるか
心経の中に「亦復如是」とあります。色の後に続く「受想行識」も同じように「空」であると言っているのです。それを受けて「諸法空相」とまで再度言っているのです。私たちの思いで作り出した物が、全て真実のようにとらわれるが、それらは錯覚をしているだけなのです。実
心経に・我の心が・作り出す・正しい認識(しき)に・道なる判断(さだめ)
色受想行識の「識」です。残念ながら自分だけの都合や経験から、自分の考えを作り出しそれが正しくて、他の人の思いや考え、言っていることは間違っているという考えまで起こしてしまいます。そのように自分中心に物事を考えてしまうのです。しかも、間違いなく正しいと思
心経に・行(おこな)い起こす・意志がある・嬉し楽しい・辛く悲しい
色受想行識の「行」です。自分が嬉しく楽しいことには行動を起こすのです。が、辛く苦しいことは止めてしまうのです。他の人に対しては、どうでしょうか。他の人が嬉しく楽しむことを、あなたは行ずるべきなのです。それが仏さまの教えなのです。他の人が苦しむことからは
心経に・類推(るいすい)なるを・想いつつ・廻(めぐ)らす気持ち・想像なるか
色受想行識の「想」です。自分の実際の経験によって、自分の心に浮かぶ観念であります。あるいは、経験したことから想像して心に思うことです。それはある意味では、身勝手なことを信じてしまうということなのです。そして、実はこれが苦しみや悩みの元となっているのです
心経に・抜かぬ思いに・眼を開き・感じ覚(さと)るを・受(じゅ)する心か
色受想行識の「受」です。五蘊皆空の五蘊の二番目です。生きて行く中で、身体の働きで心が受ける苦や楽の感覚です。見る・聞く・匂う・味わう・触れるという感覚を受けることです。物事を感受することです。このことも、思い通りにならないことから、不安や苦しみが起きて
「空は即ち是れ色」と言うことです。あなたが形を見る時は、心が込められているからです。心が無いと、物はあっても見えないのです。見えてないのです。一緒に同じ景色を見ても、二人で見たものが違うことってありますね。一方は見ているのに他方には見えなかったと言うこ
「色は即ち是れ空」なのです。つまり、色即是空は、代表的な心経の言葉です。が、分っているようで分ってないのが、この言葉ではないでしょうか。むしろ、分らないのが分りかけているのです。物体には心が込められていますが、形しか見ていないのです。自分に心があるよう
心経に・どんでん返し・見るなれば・空と色とは・また不異(ことなら)ず
「空は色と異ならず」です。一方通行ではありません。逆も同じことが言えるのです。空不異色とでたら色不異空と。上りと下りの両方を言わねばならないのです。空なるものは形が無いと思い込んだらダメです。難しく言うと、色は空を形に表したものです。花の無い種を見て、
心経に・変化変化の・色と空・不異なる故に・永久(とわ)にもあらず
「色は空に異ならず」です。眼に見える物質には決まった形があると思い込むが実は全てが変化をし不変の実体は無いのです。庭に撒いた種も、いつまでも種のままにあるのではなく、やがて芽を出し、花も咲かせます。そして、やがて枯れて種となります。が、それをくりかえす
心経に・ほめてうやまう・舎利子さま・衆生のために・道を開かん
舎利子とは、仏教を開いたお釈迦さまの十大弟子の一人です。この方が弟子の中でも智慧に勝れていたのです。まさに般若(智慧)波羅蜜多を体得された人なのです。ただ難しい教えを説くだけでなく、誰でもが真剣になれば、仏さまの教えを体得すれば、悟りの岸たる彼岸に至る
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仏さまには様々な真言があります。お不動さまにも何種類もの真言があります。真言を称えますが心の中は「お願いします」だけです。全ての仏さまに共通する真言は「お願いします」です。真言は《心言(しんごん)》ではないでしょうか。あなたもあなたの「心言」をつかまえ
面白くないこと、辛いがやらなければならぬこと。面倒くさい事柄はたくさんあります。実践をしなければなりません。その時にお不動さまは、その物事を楽しいものに変えてくれるのです。そうすると、私たちも楽しい物事と観じ始めるのです。お不動さまの授けると言うことは
あなたの目の前に起こった事柄。それに全力を掛けましょう。すると仏さま、特に不動明王は道を開いてくれます。願うのも大切ですが、実際に努力を始めなければ何にもならないと思います。願うとは、実践の有ることなのです。その時が来るのを一番待って下さるのがお不動さ
お不動さまがそばに居てくれる時に、油断をしないこと。遠くに離れると一生懸命に真言をあげるが、近くに居る時はついつい油断をしてしまいます。いつも心しておきましょう。心を安定させるとお不動さまに近くではなく、お不動さまの中に、そしてお不動さまを抱えている時
不動明王にも、表と裏があります。高照院のお寺ではお不動さまの裏を拝むことができます。あなたにも、表と裏がありますが、それは体の表と裏、心の表と裏があるのです。ですので、心に恐怖感・危機感があっても、反対の裏表を考えれば良いのです。動き回ることが、落ち着
在家とは今日までのことです。お不動さまを知ったその日から、あなたは弟子入りしました。別に出家をしたと言うことではなく、弟子になったのです。弟子である以上、自分が助かる前に他の人を救い上げるのです。その努力をするのです。あなたは自分で助かる努力をしなくと
今のこと・今日のことを真剣に頼みましょう。そうすると、明日が素晴らしいものになります。明日は何でもできる者となり、多くの人を喜ばす者となるぞと思って下さい。人に尽くすと言う意味で『王』になるのです。言葉の遊びですが、明日の王が明王です。他人に尽くすこと
何でもが、出遅れてしまったと思う心は、心配しないで下さい。遅れたから不動明王とゆっくりと話せるのです。お不動さまとああではない、こうでもないと話し合ってみて下さい。ゆっくりと一つ一つを教えてくれます。お不動さまと話し合う心を持つことが大切。ただ願う心よ
自分の思いや考えを持つことは、良いことです。それがお不動さまを離れる方向に進むと、ダメです。お不動さまから心を離してしまうと、非常に残念ですが、だめです。お不動さまに甘えることが大切です。何もせず甘えるのではなく、苦労や努力をしながら支えてもらうことが
これはやり直した方が良いぞとか、別のことのほうが良いようにある…と思ったら、先ずは止めて見ることです。もう一度考え直すのです。どうするかは、あなた任せです。やめても良いし、一休みしたことが良い結果を生むのです。いったん停止をして、仏さまを思い浮かべるこ
お不動さまは自分の足もとを大切にします。そして、私たちの足もとも護ってくれるのです。心が落ち着き、何事が起きても緊張をしない時は、お不動さまの心の状態です。有難く思うのです。そしてその時が、一番お不動さまが動く時でもあるのです。言葉の遊びですが「足を動
お不動さまは、負ける人を助けます。人に対して負けるのです。しかしその時の心は「この人は仏さまだ」と思い負けることが大切です。素直な心を持つことを、負けると表現しました。形の上では負けるのです。それでも自分どうりになったら、「選んだこの道は正しいのだ」と
お不動さまの身の回りは、誰でもが浄めましょう。他人がしていても遠慮することなく、したければあなたがしましょう。いつも初心でいるのです。あなたの目に映ったことは、お不動さまがあなたに見せたことです。お不動さまがあなたにして欲しいと思ったことなのです。お不
一つで良いです、仏さまに信から念じることをしましょう。念佛を唱えるのも良し、心経を唱えるのも良し、掃除をするも良し、花の水を替えるも良し・・・仏さまの身の回りを清めることなら何でも良いのです。やって見ましょう。何故なら、仏さまを喜ばせればその喜びがあな
別に唱えようと言う気が無いのに、念佛が口から出ます。何をしてても。お不動さまはそれを聞くのが一番の楽しみです。それを聞き喜び勇むのです。念ずるを意識しながらの念佛より、さらに重要な念佛なのです。仏さまが楽しみに待っている念佛なのです。念佛の独り言が出る
派手にすることなくおとなしく人を導くようになりましょう。その人に言う必要もありません。その人の面倒を見ることもいりません。ただ黙って行じるのです。行じることでお不動さまがその人を助けてくれたなら、あなたの心の思いがお不動さまに通じていることが分かります
ここに選ばねばならぬ道があります。きつい近道とらくな遠道です。らくな近道などありません。そして、きつい遠道もあります。これから逃れることはできません。のがれた時は道を捨てた時です。せめてお不動さまに頼んだ時は、きつい遠道からきつい近道を選んでもらうので
どのようになるか分からなくても、心にあるものを創り出して下さい。単に作り出すのではなく、創り出すのです。心を込めて作るのです。性根を入れて作るのです。その中にお不動さまを押し込むのです。お不動さまもそれを知ると中に入ってくれると思います。作る気持ちを創
顔を伏せるな前を見なさい。譬えうまくいかずにつらく悲しい時でも。前を見ましょう。上を見ましょう。しかも、楽しげな笑顔で。その時に見るものがお不動さまです。大きな岩も、お不動さまです。きれいな花も、お不動さまです。花を見て笑い、人と会っては笑うのです。す
自分に向いたことか向かぬことかを考えずに始めましょう。止まること振り向くことなく、前に進むのです。お不動さまに念じたその心のままに、前へと進むのです。後はお不動さまにまかせましょう。まかせるとは何もしないでいる事ではありません。あなたも進むのです。あな
お不動さまは、上には如来に従い・下には衆生につかさどります。これは自分を捨て他に尽くすことを道案内としているのです。分からぬ不思議さが、お不動さまなのです。残念ながら仏さまの思いと人間の思いが異なる時があります。苦しみも違います。楽しさも違います。その
どんなことでも最後の最後まで、やることが大切です。それをお不動さまはじっと見ているのです。次々に出てくる全ての煩悩を焼き尽し、最後に大智火と為すのです。願って、直ぐに成就しなくても心配をする必要なしです。その時が峠です。それを越えれば後は下り坂になりま
特殊でなくて平凡で良い、人生は。これがお不動さまの教えです。見聞きすることの正解は、その時その時により違います。自分がこうありますから、他の人も正解はその時その時により違うのです。他人に耳をかたむけて、さらに心をかたむけるようになりましょう。それがお不
物事をするのに、誉められることを目安にしてはなりません。そうすることは、迷いです。得をすることを目標にしてはなりません。お不動さまはそう言う人を嫌います。そう言う心を嫌うのです。縁のある人なら全員が助かると言うのがお不動さまの願いなのです。お不動さまの
衆生が忍耐を心して、仕事に励むなら、お不動さまは更に励み、更に頑張り更に努力をします。人の為の努力に励む人、それをお不動さまと呼ぶのです。私たちもお不動さまになれます。ならなければ、所願・諸願は成就しません。多くの人を救い上げるために願って欲しいです。
最初のことを言いますと、お不動さまは大日如来の化身です。手を合わす私を見て、これを助けようと思えば、お不動さまに姿を変えるのです。初心を大切にし、大事にして始めるのです。恐ろしい姿をしながら、私たちを助けようとしてくれます。本当は、やさしい仏さまなので
好きで重要なことがあれば、論ずることなく、真剣に戦いぬきましょう。私たちのすべき道がたくさんあっても、お不動さまは、その中から一つを選び、大事に保ちながら、大切にするのです。それは即ち、私たちのすべきことを表しています。とにかく戦いましょう。一番の敵は
本日より「不動明王のいろは歌3」を始めます。 何事に対してもお不動さまは力いっぱい私たちに功徳を授けます。どのようなことがあっても骨身を砕いても、衆生を助けようとしているのです。また、助かる道を私に授けようとしているのです。道の案内がお不動さまの力なので
仏さまが言ってくれました。「我とあなたは今年も一緒」だと。今年だけでなく、去年も、その前も守っていてくれたのです。知りませんでした。有り難いです。長い間、ありがとうございます。
私に修行を勧める仏さまは、お寺に居ます。そして、私を促す仏さまは、心の中に居られるのです。どちらかの仏さまが右手右足を守り、他は左の手足を守ってくれます。有り難いです。
千里の道も一歩からと言います。同じく、お百度の修行も一歩から始まります。してみると、今年の初参りも大切な一歩にあたるのではないでしょうか。仏さま、道案内を宜しくお願い致します。
智慧の文殊さまに力を貸していただき、今年の一年は価値あるものにしたいです。その為には、仏さまにすがる一念を充実したものでなければいけません。頼む一念を持ち応えたいものです。
観世音さまと『心経』の観自在菩薩は、同じ仏さまです。ですから助かりたい時には、心経を称えるのです。観音さまが言いました。共にすがりて、共に助かり、共に悟りの道を行き成仏するぞ、と。
笑顔で私たちに会ってくれます。優しい仏さまです。一人でも多くの人を助けようとしています。弁天さまとの縁を大切にすると、不思議と物が成り立ち、自分の物として仕上がって行くのです。
お地蔵さまは不思議な仏さまです。地獄・餓鬼・畜生・・・の世界に居るのです。衆生を助ける為に、救い上げるために居るのです。今日も助ける為にあわただしく動き回っていると思います。
仏さまが私たちを導く教えは沢山あります。人間の数だけ教えはあると言っても言い過ぎではありません。一人一人の教えですから密教(真言宗)と言うのです。つかさどるのが大日如来です。
初参りは、眼を閉じて手を合せて下さい。閉じた目に仏さまが現れたら、それは妄想でも夢でもありません。本当の仏さまの姿です。心配しないで下さい。あわてなくてもいつかは見ますから。
初夢が仏さまだったら、最高です。夢を夢で終わらせずに、自分で何かお行を決めて実践するのです。夢の内容を実際にあなたがすると、その夢は現実に姿を現すのです。心の目を覚ますのです。
身命をささげて三宝に帰依をすることです。三宝とは、仏法僧です。頂礼とは、頭を地面につけるまで頭を下げることです。最高の礼とされています。このような心で仏さまを拝みましょう。
文殊菩薩の智慧は、知恵でなく智慧なのです。私たちを助け、修行させ、仏の位まで成長させるのです。その為に、知恵ではなく智慧なのです。これを済度と言います。救い上げることです。