政治家の発言を聞いていると、政治と道徳は別次元のもののように思う。「道徳」は政治の世界を遥かに超越しているようだ。政治家は、「道義的責任」を問われることがある。「道義」は「道徳」を意味している。政治家の思考は、時には、我々の常識では測りがたい場合がある。法律的な罪は、泥棒、殺人、傷害、等明確だが、道徳的な罪は嘘つき、道義に反すること等形に表われない罪だ。事と次第によっては、「道徳」は政治にとっては、妨げになるのかもしれない。「道徳教育」の必要性を説くのなら、まずは政治家から襟を正すべきだ。我々市民が納得するには、「道義」に適ったものでなければならない。政治家の良識を期待していきたい。「政治」と「道徳」が遊離し過ぎると「悪政」になりかねない。湧永庭園にて政治と道徳は別次元の世界か・・・
優勝したり成功すれば、誰しも嬉しくなって、有頂天になり、舞い上がってしまう。それが普通の人間の姿だろう。目標を達成すれば有頂天になり、次第次第に慢心の落とし穴に嵌っていく。慢心は傲慢の入口であり、余程注意しないと、「傲慢不遜な人間」になり下ってしまう。「勝って兜の緒を締めよ」の戒めは、順調に事が運んでいる時こそ、慎重にかつ謙虚であるべき教訓だ。舞い上がってしまうと、周りが見えなくなり、次には奈落の苦難が、待ち受けている。有頂天は、慢心の始まりと心得ておいた方がよさそうだ。「人間万事塞翁が馬」の例えどおり、好事魔多しということだろう。戦艦大和の雄姿有頂天は、慢心の始まり・・・
毎朝、散歩に出かけると、犬と散歩している人達に出会う。よく観察していると、犬達は必ず、電柱毎に片足を挙げて小便していることに気付いた。思わず、「山椒大夫」の安寿・厨子王姉弟の事を想いだす。道に迷わないように、行く先々に小石を置いていく様と、重なるからだ。恐らく犬達は、自分たちのきた道を、本能的に印しているのだろう。人間にも、教えて貰わずとも、自然に備わった本能がある。これこそ、自然に備わった「恵み」なのだろうと、歩きながら考えた。「理性」こそ「本能」に優ると思われがちだが、与えられた「本能」には、底知れぬ力が秘められている。「直感」「虫の知らせ」等はその類なのかもしれない。旧家の座敷本能は、生れついて備わった恵み・・・
近年、個人情報の扱いには厳しい規制が布かれて、苦労することが度々ある。役場等の窓口で問い合わせると、「個人情報」に関しては、容易に教えてくれない。他方、同窓会名簿等各種名簿類は増える一方で、簡単に廃棄することも出来ずに苦慮している。恐らく、私に限らず、多くの人達が、悩んでいるのではないかと思われる。「個人情報」は、悪用されては困る。必要な時に、入手しにくい、簡単に処分もできないでは厄介な代物と云わざるを得ない。シュッレッダで破砕するには、余りにも分量が多すぎる。燃やすにも燃やせずに困り果てている。必要ある時には、「個人情報」は貴重な情報源だ。知りたくはあり、知られたくはないのが「個人情報」のようだ。広島・西条の酒蔵個人情報の扱いは厄介だ・・・
何気なく交わす言葉は「社交辞令」といって、軽い挨拶に終わりがちだ。伝えたい気持ちに心を込めて熱く語れば、相手の心に響く。国連のサミットで、「地球温暖化」を阻止しようと訴えたスウェーデンの少女グレタさんには情熱と訴求力があった。16歳の少女が、世界の首脳を前にして、「金や、経済」だけでなく、「地球環境」に配慮せよとの訴えは、首脳陣の心に響いたのではないか。彼女は一人で始めたというではないか。各国の首脳は、どのように応えるのか、楽しみである。他人に思いを伝えるには、溢れる情熱が大切だ。既成の政治家達も、学んでほしいと思った。言葉には、相手に響く「神様」のエネルギーが宿っている。可憐に清らかに心のこもった訴えには、迫力が・・・
久しぶりに「クール・ジャパン」を見せてもらった。この番組では、日本人でありながら、日本の素晴らしさと知恵には驚かされる。たまたま「テーマ」は「結ぶ」であった。外国の人達から、「ジャパニーズ・クール」を教わることが多い。外国へのアピールが番組の狙いだろうが、日本人にとっても教わることが多いのではないか。そんなことを思いつつ番組を楽しんでいる。日本人の物づくりの思慮深さと、凝り性にはいつもながら感心させられる。日本人は「物づくり」や「創造力」にたけた国民だと思った。。水上に浮ぶ厳島神社灯台下暗しか・・・
生きているうちには自然災害を初めとして、病苦に災難等が次から次へと襲ってくる。所謂「生・老・病・死」は誰しも避けられない宿命だ。それは何の予告も相談も無く、或る日突然襲ってくる。高齢になるに従って、その危険性は増してくる。いつ何が起きても、その備えと覚悟はしておかねばならない。友人との別れ際には、必ず挨拶代わりに、「或る日突然」に気を付けるように忠告している。その当人が、「或る日突然に大病」を発症してしまった。なんたる皮肉かと、自省している近頃だが、今なお、その言葉を別れの挨拶にし続けている。秋の雲は何処へ災難は、或る日突然にやってくる・・・
義理と人情は浪花節の世界だと思ってきた。豊かで喰うに困らない現代では、紙のように薄くなったと云われる。向こう三軒両隣・井戸端会議、味噌・醤油などの貸借等は、消え去ったしまった。他人の子でもも、悪さをすれば叱ってくれる、オジサンもオバサンモ居なくなってしまった。「隣は何する人ぞ」の無関心時代がやってきた。古いと云われてきた「義理・人情」は何処へ行ってしまったのか。しかしながら、僅かではあるが、日本人の心には「助け合う精神」は残っている。時代が進んでも、他人を大事にする心だけは残しておきたいものだ。義理・人情は現代にこそ貴重品に思えてならない。コスモスが諒を呼ぶ義理・人情は過去の遺物か・・・
現代に生きる我々は、日々、アクセク、あくせくしながら生きている。それほど、苦労と悩みの多い中で毎日を生きている。思い煩うことの何と多いいことか。しかし、今日の事は今日考え、明日の事まで思い煩うなというではないか。現在を全力で生き抜くことが肝腎だ。人間誰しも、明日の命は保障されてはいないのだ。それこそ「ケ・セラ・セラ」で、成るようにしか為らないのだ。取越し苦労はしないで、一日、一日をノビノビと、精一杯生きて行こうではないか。アクセクせず飄々として生きておれば、自ずと道は開けてくる。希望のご来光今日一日を精一杯生きる・・・
年とともに、感動する心が鈍くなっていく。子供の頃から青年期にかけては、美しい花を見ては感動し、自然の営みの素晴らしさに感激したものだ。ところが年を重ねるごとに、感じる心が鈍感になっていくようだ。年をとっても感受性は、残しておきたいものだ。美しさは、自然に優る者はない。自然は、「神様」から賜ったものだから・・・。心の自然体は、若さの象徴かもしれない。老いてなお、美しさに感動する心を持ち続けたいものだ。美しき哉バラ一輪、美しいものに感動する心を・・・
日韓関係が険悪になってきている。韓国の文大統領は、日本憎しで凝り固まっているようだ。本来大統領たるもの、冷静にかつ未来志向に立って難局に当るべきところだ。その立場にある大統領が、国民を煽って反日に向かっているように思えてならない。韓国国民を見ていて「教育」とは、恐ろしいものだと実感した。過去の重荷を何時まで持ち続けるのか、個人の歴史観を問いたい。国際社会で利害が対立するのは当然として、隣国同士の国民は、友好的でありたいものだ。暫くはドシャ降りが続きそうだが、「雨降って地固まる」でありたいものだ。こんなご時世では、相手の非を許す度量が欲しい。「水に流す」精神が時には必要だ。曖昧な妥協はしない方が、両国の将来にとっては友好なのかも知れない。戦争は憎しみから始まる。備北丘陵公園の秋坊主憎けりゃ、袈裟まで憎いか・・・
デジタルによる情報革命、人工知能、自動運転等、最近の情報革命は人類史上、第2次ルネサンスかもしれない。老いればその進化には追尾し難いものがある。今は「情報化時代」の真っ只中にある。時代の流れに追いつくのが至難の業になってきている。ここ数年間は、時代を画する「新ルネッサンス」と云われるかもしれない。老人にとっては、大変革期を迎えているのだ。若い人達は難なく、これを受け容れて楽しんでいるようだ。スマホはまさに、動くコンピュータであり、情報源でもある。嵌り過ぎると、人間らしさを無くす危険性も孕んでいる。「進化」はもっと緩やかにならないものか・・・。人間性を無くして、誰のための文化かと思いたくなる。急激な生活の大変化に、乗り遅れそうだ。ここらでチョイと一休みデジタル革命は、新ルネッサンスの幕開きか・・・
このところ、あおり運転、児童虐待などの事件が続発している。テレビを見ていて、何とかならないものかと苛立つ。現代社会は、人々は何時も苛立っており、事件・事故の原因になっているようだ。厳罰に処することは難しいという。法律はどうしても、事件・事故を後追いすることになってしまう。法律の柔軟な応用で、当面は防止する以外に方法はないという。事件が起こるたびに、そんなことを考えてしまう。余りにも恐ろしく、悲しい事件・事故が多すぎて、嘆かわし過ぎる。残暑にもめげず法の後追い・・・
スポーツの世界を初めとして、全てがゲーム化してきているように思えてならない。スポーツは元々遊びだったものを、一定のルールを設けて発展してきたものだ。最近盛んになった競技を見ていると、まさに、「お遊び」のように思えてならない。「お遊び」が若い人達の間で競技=ゲームにまでなったのだ。我々人間の生活を顧みると、人生も「ゲーム化」してきているのではないかと、不図、思ったりする。人生のゲーム化も結構だが、一度しかない人生、遊び精神でなく、もっと真剣に生きて行きたい。どのように真剣になれるのか、それが課題のように思う。折角頂いた命だ、愁いの残らない命を全うしたいと願っている。コスモスの季節人生はゲームか・・・
病気をすると大勢の人が励まして下さる。半病人にも関わらず、このところ、励ます側に回ることが多い。それだけ老いてきた証拠かもしれない、人を励ますということは、己は大丈夫な証かもしれない。人を慰めることは、自分を慰めることになるのかもしれない。そして人間は互いに寄り添いながら生きていくのだろう。半病人が、人を励ます資格はないが、励ます側であって欲しい。支え合ってこそが、人生なのかも知れない。宮島の渚にて他人を励ますことは、己を励ますこと・・・
過日、女優・故樹木希林さんの「特別番組」が放映された。2時間に及ぶ超大作だった。今、書店ではベストセラーになっており、興味を持って拝見した。彼女の生き様は「おごらず、人と比べず、面白がって平気で生きる」ことに共感した人が多かったのではないか。凡人は、世間体を気にしながら、小心翼々として生きている。平凡な人達は、感じるところがあったと思う。それほどユニークで世間離れしていたからだ。希林さんは独特のキャラクターの持ち主で、真似る事は難しい。人間生まれてきたからには、それぞれ与えられた役割がある。それを見事に成し遂げられたのだろう。考えさせられる番組であった。自分らしく与えられた命を貫き通したいものだ。青海島の遊覧船女優・故樹希希林さんの生き方は・・・
時間経過が年々早くなっていくようだ。目が覚めて起きたと思ったら、もう就寝時になっている。一日が飛ぶ鳥のように過去っていく。あっという間に一年がたってしまう。チコちゃんによると、ものに感じる心が薄れ、好奇心が無くなるとのことだ。確かに子供の頃には、早く来い来いお正月と願ったものだ。残り少ない人生も、あっという間に終わるのだろう。「終わり良ければすべて良し」いうが、後顧の憂いを残さぬようにしたいものだ。まだまだ、好奇心と情熱は失いたくはない。悠々とした持ち時間にしたい。湧永庭園入口時の経つのが早くなった・・・
八十路を超して大病を2回続けると、死について真剣に考えるようになる。この大病を乗り越えたのだと思えば、未だ生かしてもらっていると、謙虚な気持ちになれる。しかし「死」は、何の相談もなく、或る日突然襲って来る。常に「死ぬ覚悟」をしておかねばならない。普段は「死」を恐怖と考えがちだが、当然なことと思う。生きていることに、感謝の念が沸々と湧いてくるようになった。然し世の中の不条理と不正を見ると、血の気が騒ぐのは生きている証拠だろうか。昨日はバスの待合所で、脳梗塞を体験した人達と、話す機会があり、苦労を話し合った。お互いに励まし合いながら別れたが、世に病んで困っている人が如何に多いか、を知ることとなった。外出できただけで「ありがたい」と思った。「寝たきり」だけにはなりたくない・・・。嫁入らず観音生と死の狭間にあって・・・
幼児虐待が立て続きに起きている。痛ましくて、可哀いそうでならない。これは個人の問題でもあるが、社会の問題でもある。事件が起きてから、後追いが続いており、やるせない気持ちになってしまう。行政・児童相談所の対応には、事務的の姿勢に思えてならない。虐待する親は、「シツケ」と云い逃れ、母親は暴力を畏れて、止められないでいる。教育せねばならぬのは親の方ではないか。哀れなのは幼児であり、悲惨極まりない。何としても社会問題として、それを防がなければならない。子供は未来を背負っていく「宝物」であることを忘れないでほしい・・・。色々なサボテン幼児虐待が続く、ゆゆしき事態だ・・・
入院中は、看護士の皆さんが代わる代わる交替で面倒を見て下さる。入院生活の生活は懇切・丁寧だが、転倒などの危険行為には、厳しく注意される。身動きできない時には、ナース・コールによってすべての場面でサポートしてくれる。深夜、仮眠中にも関わらず、快く支援して下さったのには、頭が下がった。患者の我儘にも耐えつつ、彼等には、ナイチンゲール精神が徹底されているのだろう。患者の生活全般について、看護士は責任を持ち、医師との報連相は確実に行われている。退院の決定権は、看護士にあるようだ。常日頃から、患者の生活を注意深く観察しているからだ。看護士さんのアドバイスで、早期に退院させてもらえた。(終わり)ハス開いて医療について(4)
医療について私は、若い頃から思うところがあった。外科的治療は西洋医学、慢性疾患には東洋医学が優れていると思ってきた。それは私の思い込みに過ぎなかった。いざ手術となると、想像とは全く違っていた。私の思いと希望とは全く違っていた。すべてがお任せの世界だった。完全に医師の独壇場の世界だった。セカンド・オピニオンの制度があるとはいえ、主治医に頼りにする以外に選択肢はなかった。「Q・O・L(生活優先)」をお願いするのがやっとだった。患者の立場は弱いことを痛感した。私は幸いなことに素晴らしい関係者にめぐり合った。手術後6カ月になるが、今はただ素直に指示に従うのみだ。生殺与奪の権は、完全に医師が握っている。医師の責任は重大なのだ。≪以下続く≫青海島海岸にて医療について(3)・・・
1950年の頃、医療システムの開発に関わったことがある。その頃、病院に約3年間常駐して、病院の姿をジックリ観察することができた。医師達は中々頑迷固陋で、システム開発には消極的だった。データ入力が医師や看護婦や医療従事者に可能か、心配したものだ。今回の入院で一番驚いたのは、軽くそれを熟していることだった。ドクターは患者と向き合って、患者の表情、問診、聴診、打診等で九割は診察できるという。しかし昨今では、パソコン相手の診療になってきている。診療の相手はあくまで人間であることが、忘れがちになっているようだ。人間を中心とした医療システムであって欲しい。コンピュータシステムは補助ツールであることを忘れずに・・・。≪以下続く≫アマランサス全開医療について(2)・・・
入院してみて、医師との出会いが如何に大切かを実感した。脳梗塞で入院した時のことだった。朝、目覚めると、体が軟体動物のようにグニャグニャになって、全く自由が利かなった。立てず、座れず、這えない状態だった。すぐに救急車を手配し、近くの医院で点滴をしてもらいつつ、総合病院へ即入院することとなった。その際の医師の迅速な処置と手配によって、脳梗塞の後遺症から免れることができた。我が友人は、ドクターヘリで緊急輸送されたが、時間的ロスで半身不随のの言語失調症になってしまったと聞く。初動がいかに大切かを物語っている。医師の的確な判断と迅速な措置が生死を決めるということだ。今に至っても、つくづく思うのは、「幸運」だったのだと思う。ドクターの的確な措置に心から感謝している。普段から、医師との良好な信頼関係を築いておくことが必要だ。...医療について(1)・・・
散歩していて、痩せ細った貧相な古木を見かけると、我が身のようで侘しくなる。樹木には移動が不可能なため、植えられた場所で生きて行き以外にない。人間も老化が進めばれば、行動の自由が狭くなっていく。まして、自動車の運転免許証を返納した身では、猶更不便で窮屈である。チョットした買い物一つにしても、不便この上ない。つくづく自動車による移動のありがたさが身に浸みて堪えた。自動車は依然として保有し続けているが、移動は子供達や人様のお世話になっている。友人・知人を見ていると、歩けない寝たきりの老人にとっては、さぞ情けない事だろう。交通事故を起こさずに済むと思えば、我慢のしどころかも知れない。そんな思いに浸りながら、朝の散歩に出掛けることにしよう。ベレー帽カボチャ免許証を返納して・・・
「日々是新たなり」を座右の銘にしている人達を多く見受ける。元気な頃には、人の人生感として、軽く見過ごしていた。大手術をして散歩できるようになって、初めて重く受け止めることができるようになった。よくぞ生き延びたのだと思うと、実感が湧いてくる。本気で来る日も、来る日も今日一日を新たな気持ちで生き抜こうと思う。命あるのを感謝したくなる。今あるは「神の恵み」と感謝したくなる。今日一日を感謝しつつ、過ごしたく思う昨今である。忘れ勿草の可憐さよ「日々是新なり」は達観の境地か・・・
世界に目を向けると、争い事が絶えない。G-7、国連の出番だと思いきや、調停不能に陥っている。G-7に至っては、話合いは纏らずに、共同宣言も出せない始末だ。G-20の方に調整機能が移行した感さえあるのは、どうしたことか。各国が「自国優先」を主張しすぎる所為ではないか。お互いに協調すべきは協力し、譲り合う精神が必要ではないか。国際機関の調整能力が問われている。自己主張し合う機関では、纏まりがつかない。先進国の強引な国益重視には、ハドメが要る様に思えてならない。日中、米中、地球環境問題等も早くまとめて欲しいものだ。先進国のリーダーシップを問いたい。行楽の秋G-7、国連は機能不全に・・・
人間関係は、最も基本になるのが家庭にある。家庭に不和があると、とりまく社会にも影響する。その最たるものが、国家間の争い事だろう。間違えば戦争にまで発展してしまう。各家庭が和やかで穏やかだったならば、争い事は少なくなるだろう。世界平和は、その延長線上にあると思う。国家間に相手国を思い遣る互譲の精神があれば、争い事が少なくなる。以前、「私が変われば、世界は変わる」と云ったが、「家庭が変われば、世界が平和になる」と云えるのではないか。個人主義が過ぎれば、家庭崩壊につながりかねない。自国の都合ばかり主張すれば、世界は乱れる。全体の調和が大切だ。世界平和の原点は家庭にあるのではないか。ザビエル教会(山口)世界平和は家庭から・・・
言論の自由が保障されてから、西欧並にディベートが盛んになってきた。激論は結構だが、喧嘩にならないことが求められる。勝負あったと判断した時には、引き際が肝腎だ。相手に逃げ道を残しておくことだ。若気の至りで、相手を徹底的にノックアウトするまで追い詰めるのは、愚の骨頂だ。ディベートも、「見極める」余力が、後々に遺恨を残さないために配慮が大切だ。日韓関係は何時収束するのか、香港の騒乱はどのような決着になるのか、注視したい。いずれにしても、早く矛を収めてもらいたい。政治が絡むと落ち着く先が見えにくい。戦争だけは避けてもらいたい。天守閣無き跡の寂しさ議論はすべし、争いにならぬように・・・
横浜市長がカジノへ立候補する発言があった。地元の有力者が猛烈な勢いで反発しているという。山下公園界隈にカジノを誘致する計画らしい。山下公園は「中華街」「横浜球場」近辺にある。市民にとっては格好の「憩いの場」である。地元では、公園の環境、港湾労働者を守る観点から、猛反対だ。誘致の理由は、市の財政見通しにあるという。金銭目的なら、全て容認されると思っているのか。カジノは、賭博場の誘致を意味する。折角の素晴らしい環境も一挙にダメにしてしまう。青少年のためにも、反対運動を応援したい。元横浜の住民としても・・・。横浜には、文明開化の頃の素晴らしい遺産が存在しているのだ。道頓堀の名物横浜のカジノ誘致について・・・
眼鏡をかけていているにもかかわらず、眼鏡を探す。日頃よく見られる光景である。置き場所を忘れたかと、つい思ってしまう。心はコロコロと変わるから、先刻までの意識が途切れてしまう。二階に上がってから、目的を忘れてしまって、考え込んでしまう時がある。これは老化の始まりか、心が散漫になった証拠か。若い頃にもあったように記憶している。ご多分にもれず、ボーッとして生きてきた証拠だろう。確かに心が他所を向いておれば、見ていても見えず、聴こえていても聞こえないのだろう。「心ここにあらずんば、見え℃も見えず、聞けども聞こえず」の格言は的を射ているようだ。そんなことを繰り返す昨今である。一瞬の輝き心ここに非ずんば・・・
永田町でまたまた不祥事が発生した。厚労省の政務次官の「口利き疑惑」によるものだ。「説明責任」も果たさないで、辞任したという。議員秘書の忠告にも拘らず、口利きの見返りの報酬を受けたという。この報道を聞いて、永田町には同様な議員が多数いるのだろうと思わざるを得ない。発覚するのは、氷山の一角ではないかと疑いたくなる。議員諸氏の質的低下と、人間性まで疑いたくなってしまう。青雲の志をもって国会議員になったのだろうが、その志は何処へ行ってしまったのだろう。いくら立派な理念を掲げても、彼には原罪が存在し、誘惑に負けてしまったのか。録音テープでは、反省の色が微塵も見えてこないのだが・・・。説明責任を聞きたい。津和野にて人間には、原罪が・・・
米・ソの冷戦終結により軍縮の機運が高まり、平和共存の時代が到来したかに見えた。ところが俄かに怪しくなってきた、今度は米・中の覇権争いの様相が濃厚になってきた。他方、ロシアが淡々とソ連時代の栄光を狙っている。中距離ミサイルの開発・核兵器の小型化・人工知能の戦争への導入等、軍拡のオンパレードになってきた。核拡散も大問題だ。核の非保有国でも、次々と開発が進む。平和の鳩は、どこへ飛び去ったのか。米・中の覇権争いから、北東アジアの緊張状態、イラン制裁問題、中東問題等争いごとの種は尽きない。戦いの準備が着々と進むなか、平和な世界はドンドンと退いていく。再び軍拡競争の時代が始まったのか、憂鬱な毎日だ。人類、何処まで争いごとが好きなのか、問いたい。戦争は、憎しみから始まる。水中に花咲く軍縮から軍拡競争の時代に・・・
「ブログリーダー」を活用して、ningenrasikuさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。