好太王碑 丙申戦争:百済征伐 庚子戦争:新羅救援 甲辰戦争:倭軍撃退 好太王碑 『日本書紀』の言う皇太后の摂政期が六十余年にも及んだとか、彼女が百歳まで生きたなどという話が虚構であることは誰もが理解していますし、神功皇后の伝記が日本国内で完結している分にはそれでも問題ありません。しかし新羅征伐や百済との交流のように、他国との接点を骨子に据えるのであれば、やはり相手側もしくは第三者の史料と照合させることによって、その事実関係を検証しなければなりません。そこで朝鮮半島や大陸の文献の中から、この時代の日朝関係を記録した箇所を探してみると、唯一個々の時事の年代まで信用できる史料として、高句麗の好太王の…
その後の神功皇后 新羅再征 その後の神功皇后 『日本書紀』の年号によると、仲哀帝が崩じたのは在位九年の二月のことで、気長足姫は同年十月に新羅へ出兵し、十二月に筑紫で男子を出産すると、翌年二月に先帝の遺骸と共に豊浦を発ち、翌三月には忍熊王を討って王都に入りました。従ってこの年を以て神功皇后の摂政元年とします。尤もこれが西暦で何年に当たるかについては未だに解答はありません。そして翌二年の十一月に先帝を河内国の長野陵に葬ると、翌三年には誉田別皇子を太子に立て、大和の磐余に新都を造営したといいます。 摂政五年、新羅王が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣わして朝貢しました。これには先に人質となっていた…
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