「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
『野火焼けども尽きず春風吹いてまた生ず』(白楽天)野火に焼かれても草の根は残り、春風が吹くと、また草の根は芽生えてくる。この歌の意味には、人生の逆境に遭って苦しみ悩む時もあるだろう。しかし、野焼きが一杯肥料を蓄えてくれるのと同じように、それを克服すると、いずれ芽生えて、花咲く時が来るとのエールの心が込められています。皆様にも花咲く時が来ますように祈念しています。花咲く時が来る
「門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」(一休禅師)正月になって門松を立てれば、また一つ年を取って、死に近づくのだということ。お年寄りは門松にはこのような思いを抱いているのでしょうね。お互いひとつ歳を頂きましょう。雪国の人は大変ですね。雪に埋もれませんようにお気をつけください。門松
「光が多い所では影も強くなる。」「金色は白と黄色と黒が含まれている…。」。ゲーテとカフカの文豪が述べた言葉です。カフカは絶望の人。ゲーテは希望の人。二人で「表と裏」「白と黒」を語っていたのです。人間には、明るい人も暗い人もそれぞれ反対の色を合わせ持っているのだ。光輝く金色だって、黒い色を持っている。そんな事を感じました。ゲーテも84歳まで生きたのですが、妻や子、兄弟、友人全てを亡くして絶望を味わっていたと言います。人生も同じ、希望と絶望を繰り返して生きていくものかもしれません。片方だけの人生などないと。良い年をお迎えください。光りと影
お酒の原酒は熟成しながら年に数%ずつ蒸発するという。天使におすそわけしているという意味で「天使の分け前」と呼ばれています。私達も天使に喜びの分け前を奉納できるよう努力しましょう。後ろ向きに生きていては奉納する気持ちすら湧きませんから。今年も二人の天使に随分と助けられました。私の喜ぶ顔が見たいからだって。笑顔も蒸発するんだね。天使の笑顔
いつも通う道に六地蔵があります。何故六地蔵があるのでしょうか。それは、仏教に六道輪廻という教えがありまして、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」があり、次は何処の世に行くか分からない。何処に行っても助けに行けるように六地蔵があるのです。だから、どの地にも六地蔵が祀られているのです。この慈愛に満ちた六地蔵を見るたびに年の瀬の昔話を思い出します。村に住む老夫婦がお正月のお餅を買いたくて、夜なべして作った笠を爺さんが町まで売りに出かけました。すると雪が降りだして来ました。道ばたに並んでいたお地蔵さんが、雪をかぶっていました。お爺さんは、お地蔵さんそれでは寒かろうにと売り物の笠を一つづつかぶせて行きました。五体にかぶせましたが、あと一つ足りませんでした。お爺さんは自分の手ぬぐいをとってかぶせてあげました。売る物が...六地蔵
年の瀬になるとたくさんの浮かばれない霊が私に寄って来るようです。時が止まり霊だけがスローモーションで歩く姿を見たりして驚いています。目だけが追いかけられるのです。すべての時が止まっています。その霊は手提げ袋を持って私の前を通り深く頭を下げて消えました。成仏したのかと思われます。浮かばれない霊との出会いが多くなる月です。私のできる力であなたを含めて皆様のご先祖様を癒したいと思っています。年の瀬の霊
国家資格を運営管理する介護福祉士会から介護の標語募集があり「秋祭り久し振りだねお母さんこんな介護の素敵体験」を投稿しました。普通が戻って来た喜びが溢れていると神奈川県から表彰されました。表彰されたよ
年の瀬、悩んでいる人達への皆様の温かいアドバイスに私も勇気を頂いています。一年を振り返ると「絶望は向こうから勝手にやって来るが、希望は自分が挑戦した上にしかやって来ない。」そう感じています。心にあいた大きな穴は、私はそのままにして置きます。振り返ると心の穴がたくさんできているものです。空海も一番弟子が亡くなった時、一晩中泣いていたそうです。松尾芭蕉も旅から帰ると母親が亡くなっていた。形見の白髪を握って朝まで泣いていたという。「心の穴は涙を流す井戸」なのです。さあ、涙を拭いて歩みましょう。涙の井戸
「もしかして、君はひとりでも安心して過ごせるのは、ひとりじゃないからさ。」(私)ここには心が通じ合った力強い仲間がいるからさ。そして、たくさんの天使が舞っているから。君は安心して過ごせるのだよ。君の安心
私達は知らぬ間に「神との距離」を決めているようです。幸せいっぱいの時には神の事を忘れ、運の良い自分を褒めています。しかし、不運続きの時に厄払いとか運を授けて欲しいと願います。毎日何事もない日々への感謝と幸運の恵みを頂きたいとの願いを祈りましょう。そして、夢の途中で散って逝った人に再会できる喜びを伝えましょう。神との距離は近くて遠い背中合わせなのです。神との距離
今自分が手にしているもの(健康・知識・環境・情熱・反骨精神・趣味…)を最大限に活用し、自分のライフワークを持ち、世にアピールするという神から与えられた使命を続けることで、さ迷える多くの人を導き、生きる感動を与える力になると信じています。使命を持つ
人はみな悩みながら生きるものです。徳川家康だって、武田信玄にこてんぱんに敗(やぶ)れて、必死で逃げたといいます。その自画像を絵に描かせて、生涯の戒めにしたといいます。忠臣蔵の大石内蔵助も、はやる気持ちを抑えるようにと、寺の住職にさとされたといいます。討ち入り(12月14日)の前日、寺の住職に泣ける礼状を出していました。誰もが悩みながら生きていた証です。だから、あなたも悩むのは当たり前です。「人生は苦痛であり、人生は恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが、人間はいまでは人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。」(ドストエフスキー)「七転八倒」つまづいたりころんだりするのが人生。(禅語)悩まぬ人生などない。そう考えれば少し気が楽になりませんか。七転八倒
どんなものにも、染まったり、汚れたりしないという意味の言葉に不染汚(ふぜんな)があります。道元禅師の言葉です。批判や悪口、誉められたりけなされたり、金に貧乏に染まる。役人も長くすると役人に染まる。国会議員も肩書きに染まり、地位や名誉に染まる。人間はいろいろなものに汚れてしまいます。染まりも汚れもしない心、それが不染汚です。迷った時に思い出したい言葉です。不染汚
文明の発展は「貧しいひと」「弱い人」の数を増やしている。人間の欲望によって生み出されている貧困。「ラウダート・シ」(共に暮らす家)を大切に。(ローマ教皇)家とは世界、地球のこと。「いのち」こそ万人に平等に「神」から与えられた人間存在の根源であり、人間が他者の「いのち」を損なうことはどんな理由があっても許されない。いのちとはそれ程尊いものなのです。3年前に来日したローマ教皇の東京ドームで聴いた言葉です。お坊さんも沢山出席され宗教の範囲を超えた場に感激しました。ラウダート・シ
私は富士登山駅伝のスポーツ中継のため富士山には16回、個人的には1回登りました。「富士山は登ろうと心に決めた人だけが登っているのです。」「散歩がてらに、冷やかしに登ろうとする人は途中で断念して引き返します。」最後の登頂は風雨や雷雨や寒気や気圧で体調崩す人が多いからです。いまあなたが何か挑戦している事ありますか。リハビリも含めて何でも挑戦は大変な苦労と努力が必要です。「心に決めて」励みましょう。心に決める
「言葉は鏡のように自分自身を映し出す。」(私)心から出てくるものがその人となりをつくりあげます。ふとした時に、内面が明るみに出ます。気をつけないと。だって私達は神の子なのだから。神の子
医者殺しと呼ばれる果物があります。「寝る前のリンゴで医者がやせ細り」(イギリスの諺)就寝前にリンゴを1個食べるのは、イギリス人の健康法です。寝る前にリンゴを1個食べると、身体が丈夫になり、医者は患者不足で収入が無くなってしまうという意味です。リンゴはイギリスの特産物。ほぼ近い緯度の青森もリンゴ産地ですね。日本でも「医者殺し」といわれています。心も体もリフレッシュして元気に冬の寒さを乗り切りましょう。医者殺しという果物
「月天心(つきてんしん)」冬の月はひときわ天高く輝けています。天心とは天の中心のこと。もうひとつの意味は天の心。冴え渡った空から月の光りは優しく見守ってくれる眼差しといいます。月と地球を結ぶ線に自分が立っているんだと教えてくれているのです。自分も「宇宙の家」に生きている事を実感します。(私のこのメッセージを記憶に留めて下さい。)月天心
愛について鎌倉時代の僧侶無住が説いた言葉を紹介します。『愛は事(じ)なり』です。はて事とは何でしょうか?事とは「同事の心」のこととあります。同事の心とは、自分の立場を捨てて『相手と同じ境遇になって協調できる心』のことです。例えば、体の不自由なお年寄りに対して同じ目線になって接する心ということです。『愛とは相手に合わせる力』をいいます。自分のことを押し付けてしまっては愛とは言えないのです。愛とは与える事と言った人がいました。まだまだ愛が足りないと反省しております。愛されたければ愛しましょう!相手を思いやる気持ちが愛なのですから。愛は事なり
「一生とはこの世に生を得て生きることではない。」(私)亡くなるという言葉はない。それは、何千年も生きる力を与えられているから。「あなたが好む地、心が和む地、空気、風、樹木、山、丘、海があなたの生地です。」そこで、出会った人に今も出会っているのです。私もあなたもずっと生きているのです。それを分かりなさいと聞こえています。皆様もきっと感じていると思います。今出会っている皆様に古代からお世話されたお礼を申し上げます。あの時から迷惑ばかり掛けていましたから。2000年のお礼の言葉です。一生
神は人に「創造力」という才能を授けてくれました。しかし、人は自分たちを破壊するものを創ってしまった。人は言葉に限らず「分かり易いもの」に飛びつきがちです。本当に思っていることは、簡単には言葉になりません。あらゆる苦汁の体験から出ているからです。私は弱い人、貧しい人、見捨てられた人、病に苦しむ人、生きる力を失っている人に言葉を発信して来ました。しかし、朝に夕に見えない人(亡くなった人)の声を聴く事が多くなりました。その人達にも勇気を与える言葉を意識して発信しなくてはと思っています。何故なら、そのような人達もこの場を見ているからです。「死んでも生きる」からと。皆様にもその気持ちを持って頂けたらと思います。死んでも生きる
昨日の朝、出勤途中道幅狭い坂道で、私は自転車を降りて坂を登っていたら、10メーター先に薄茶のロングコートを着た50代の女性が歩いて来た。道幅狭いし左は高い石垣右は車道で車が絶え間なく走っていた。私は石垣側に寄って彼女が通る道幅を確保して通り過ぎるまで立ち止まって目線を下にずらした。しかし、彼女が通り過ぎないので顔上げると彼女は消えていた。50メーターある道に逃げ隠れる所はない。彼女はさまよう霊なのか。私に見て欲しい!との願いか。それを感じて成仏する祈りをしました。左の通勤ルート①はイエスの光りを浴びた所。昨日はルート②を通っていた。貴婦人に合掌朝の霊
『冠は心に在る。頭にはない。ダイヤモンドやインド石で飾ってもなければ目に見えもしない。わたしのは「満足」という冠だ!』(シェクースピア・ヘンリー四世より)『君の路を行きつくとよき満足がある。しかし初めに満足する者は先へ進まない。』(リュッケルト・ドイツの詩人)冠は心にあるいい言葉ですね。皆様の心に冠が見えます。心の冠
「草木の苦しみ悲しみを、人は知らず。」(沢庵)栗や柿の身に苦しみや悲しみがあることを人は知らない。しかし、なんらかのサインを出しているものだ。水が欲しいとか、枯れて倒れそうだとか。草も同じである。また、草木も人は苦しみも悲しみもあるとは思っていないだろう。このように、他人の事は見えないものであると沢庵和尚は述べています。そのためには、どうしたらよいのかと、常に考えていた人でした。「聖人は苦を喜びといいます。」成長するための力となるからでしょうか。振り返れば皆様も、今年は何かと苦しみ悲しみに堪え忍んできたかと思います。それが、孟宗竹のように、太い節になったのです。倒れない強い人間に育ったのです。強い心になったあなたの言葉には力があることでしょう。「生きる力になれば」私達の永遠のテーマです。苦を喜ぶ心
【悩み相談】「自分の持っている才能は他者に伝える役目がある。」(私)全ての人は神から与えられた才がある。それを生かす義務がある。私は「悩み相談」です。来る人は生きている人だけではありません。心残りで亡くなった人もいます。聞こえない振りしたり、無視していると、尻をつねる、背中を押される、足を蹴飛ばされる…。「長女は賢いが、弟は頼りないから心配だと長女に伝えてくれ」。「娘が心配、子どもを病で亡くし、旦那とは離婚し不幸続きだから見守っていると伝えて」…。伝えると「そうだ!そうだ!」「頑張って○○ちゃん!」ホットしたのかお礼も言わずに立ち去ってしまう。(成仏したのか)ここも「悩み相談の家」たくさんのエネルギーを頂いて皆様の才を伝えましょう。悩み相談
「介護では何でも出来ることを自力で出来るといいます。しかし、この世は人に頼りながら生きることを自力という。」(私)この世は一人では生きていけません。頼り頼られながら生きるもの。自分では出来ないことを助けてもらい、自分が出来ないことで人を助ける。生きるための力、それを自力というのです。愚かな戦争や、災害で苦しむ人に希望の道を探して助けることが自力へのサポートです。この場もそうです。自力
「介護では何でも出来ることを自力で出来るといいます。しかし、この世は人に頼りながら生きることを自力という。」(私)この世は一人では生きていけません。頼り頼られながら生きるもの。自分では出来ないことを助けてもらい、自分が出来ることで人を助ける。生きるための力、それを自力というのです。愚かな戦争や、災害で苦しむ人に希望の道を探して助けることが自力へのサポートです。この場もそうです。自力
さりげなく咲いては散る民草(たみくさ・庶民)。歴史に名を残すこともないが、誰かの心に思い出を残す民草が好き。「民草や旅の終わりはさりげなく」(私)人は雑草のように生き、人知れず散るのが良いと思っているよ。たくさんの人を送って感じた言葉。神様だけは民草を見ていますからね。民草
イチョウの木は恐竜の時代から唯一生きている木といいます。室町時代に中国から渡って来たという。東京都の木、東大のマークにも使われています。街並みの街路樹にも使われています。ぎんなんをよく拾って炒めて食べました。沼津の御用邸に行った時、昭和天皇が朝食にぎんなんを召し上がっている写真を見ました。この場が生命力ある「銀杏の木」になるよう皆様と共に育てて行きましょう。銀杏の木
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「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。改心の情
ここにいる人達は生きる力を授かり、命のリンク(絆の輪)を持つのです。悩める人達を救いましょう。(私の天使より)命のリンク
私達の体はボディ、スピリット、マインドの三つからできています。ボディとは肉体、スピリットとは魂、マインドとは心。肉体と魂が活動するときに味わう感情、思い、感覚などを感じる機能をマインドといいます。心が穏やかな気持ちでいるとき、心は大きく開いています。これを心理学では「オープン・ハート」と呼ぶそうです。心を開くと物事に対して、優しい気持ちで接し、たくさんの事を受け入れる事ができるといいます。反対に憎しみや、恐怖を感じているときは心を閉じてしまいます。心を閉ざすと益々憎しみが増大してしまいます。オープン・ハートに一番大切なことは愛の注入といいます。愛は無限の力がある。愛されてる貴方はオープン・ハート!愛の注入
毎日お別れする人が続いています。なぜでしょうか?「桜咲き花散る里に帰ろうか」そんな気がしました。皆さん全身の病と戦っていたのですね。最後まで書道を楽しみにしていた顔が忘れられません。書道教師と介護士と言葉の伝道師をしていて良かったです。お別れ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
「万法帰一(ばんぼういちにきす)」苦しみや悲しみは絶対に続かない。という意味です。本当に辛くても辛抱していると周りが助けてくれるものですね。不思議と実感しています。苦しみ悲しみ
「人と神が出会うのは苦難に耐えている時」(私)神はいつもいるわけではない。困って苦しんでいる時に神は現れるものだ。昨日は神の存在を知った。奇跡のような事をしてくれた。感謝しています。神の存在
川面(かわも)の月。ゆったりと大河を流れる川。急流になって谷間を流れる川。月は流されずいつも川面に映っている。月はあなたの心です。流されることのない不動の心あなたはあなたでいいのです。(私)どんな世間の波がたとうとも、自分は流されない不動なのだ。あなたはあなたなのだから。少しの波でも心動揺する私です。こうなりたいと思って日々努力しています。川面の月
「道に迷うことこそ道を知ることだ。」(東アフリカの諺)「人生に迷うことこそ人生を知ることだ。迷わぬ者に悟りはない。」(私)本当に迷ってばかりです。申し訳ない。迷う
日本でつくられた言葉に「躾(しつけ)」があります。身につく美しさと書いて躾。長い間の行いで無意識に身についた姿をいいます。日本人の美意識です。世界に誇れるひとつです。ここもそんな美意識を育てています。躾
一昨日看取りの人が亡くなった。水だけを良く欲しがっていた。イエスも十字架で「私はのどが渇いた」と発言されたことを知りマザーテレサは泣いたといいます。たしか、誰か布にワインを湿らせて唇に付けたと聞いた。そこから浮かんだ言葉です。「渇いた者へ」生きるのに渇いた者はここに来なさい。誰でも心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになるから。(私の天使の言葉より)渇いた者へ
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所もまほろばという安らぎの場所です。まほろば
「仏教は二利(自利、利他・じりりた)に尽きます」(空海)唐留学から帰国した際の空海の報告書の言葉です。自分が修行して、悟りを得ること(自利)と、他の人の救済のために尽くすこと(利他)の二つを完全に行うのが理想で、自利と利他は相反するものではなく、大きな輪のようにつながっているのです。自分の幸福も他人の幸福も一つの輪の中にあると述べています。宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と述べています。ボランテイアや介護現場では、人を手助けすることで、実は自分が救われていたと気づくものです。幸せを考えたくなったら自分にできる「利他」の行いからやってみて下さい。空海の言う自利利他は幸福の始まりのキーワードです。幸せのキーワード
あと数日の命。看取りの可愛いおばあさん。神田の生まれと自慢していた。しかし、母親からいつもあんたはぐずだと叱られてばかり。妹はチャキチャキの神田っ子。私はだめだ。何やってもノロマ。今何考えているの?「いい思い出ばかり思い出しているよ。」僕なんかいい思い出なんてないよ。「私もそうだよ少ししかないいい思い出を何度も何度も思い出しているよ。」そうなんだね。だけどね悪い思い出もいい思い出になるんだよ。だからすべて思い出していいんだよ。「そうだね」と笑ってくれました。(もうすぐお別れだね)いい思い出
朝の散歩中に竹やぶからうぐいすの鳴く声がしました。平安時代前期の『古今和歌集』より、『世にふれば言のはしげき呉竹(くれたけ)の憂(う)き節ごとにうぐいすぞ鳴く』憂(う)き節とは辛いこと、悲しいこと。長く生きていると、いろいろと嫌な事が聞こえて来て、そうした、辛い折々を嘆くようにうぐいすが鳴いている。(詠み人知らず)今でも同感する歌です。古代の人も同じように感じて過ごしていたのだと分かると自分だけでないと元気が出ます。私は竹の節を人生の節と呼んでいます。この節が強い竹を作っているのです。人生もそうです。辛い節目があるから強くなっていくのです。異動で明日から職場を離れる人からの相談を受けました。新たなチャンスだと思って前向きにいけば次のステップアップになると励ましました。勇気が出たと帰っていきました。皆様も人...うぐいす
人は重荷を背負って坂道を行くがごとし。(徳川家康)私は毎日10キロのリュック背負って出掛けてる。墨や絵筆や半紙が結構重いから。50年続けたら120トン。「私の人生120トン雨の日も長靴はいて120トン雪の日も足跡残して120トン風の日も帽子飛ばされ120トン心の重さだ120トン泣いて笑って120トンソーレソレソレ120トン」120トン
古典の中に、「静中の静、楽処の楽は真実ではない」という言葉があります。静かな環境の中での、静かな心は本当の静かさではない。騒がしい環境の中で、心を静かにすることができて始めて本当の心境という。また、楽しい環境の中での楽しい心は本当の楽しさとは言えず、苦しい中で心を楽しくすることができて、本当の心境だと言えようという意味の言葉です。皆様も今までの自粛生活の苦難の中でも小さな楽しみを見つけて来ましたね。私は物を補修する楽しみを見つけました。苦しい、悲しい、体中痛い毎日の中で楽しみを見つけた時、この言葉が浮かんで来ました。苦中の楽
「人間は死を約束された動物である。人は死んでもその人の影響は消えない。自分は何を残せるだろうか。」聖路加病院故日野原先生生きる力になる言葉をたくさん残した!と自信もっていいましょう。何を残すか
私の作った言葉です。「不幸無感」Idon'tfeelittobeunhappy.(自分を不幸だと思わないこと。)幸福や不幸は心のもちようで変わるもの。不幸にならないためには不幸と感じないことです。不幸無感(ふこうむかん)皆様に届きますように。不幸にならない
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所も、まほろばという安らぎの家でありますように。まほろばの家
蛍は遠い故郷を思い出させてくれます。ある古典の中から素敵な言葉を思い出しました。《恋の蛍》です。「あまひこよ雲のまがきにことづてん恋のほたるは燃えてはてぬべし」(平祐挙・たいらのすけたか)「恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身をこがす」鳴かない蛍は光ることで想いを表し、まるで身を焦がしているようだ。なんと素敵でロマンチックな言葉でしょう。私なら「燃え尽きて夜空をこがす遠(とお)花火鳴かぬ蛍も身をこがす」遠くに見える花火は音は聞こえないが夜空を焦がしている。暗闇を音もなく1匹の小さな蛍がほんのり照らす姿は秘めた思いで身を焦がし、みんなの願いを叶える光明蛍のようだ。私もそんな蛍になろう。蛍になる
今朝の新聞記事より、日本外科学会定期学術集会の「人にない武器をどう身につけるのか?」というテーマに特別講演を行った元プロ野球選手の松井秀喜さんは元巨人監督の長嶋茂雄さんから誰にも負けない素振りの武器を作ってもらったと披露して、医療関係者1500人を沸かせました。私の武器は誰にも負けない鈍感でドジ。努力しなくて身につけた。皆様の武器はどう身につけましたか。あなたの武器は
「道とは遠くからははっきり見えるけれど近づいたら消えた幻のようなもの。」「晴れた天気に外に出たら急に雨が降る。喜びの歌がまだ終わらない内に悲しみの歌が聞こえて来る。それを道と呼ぶのだ。」(私)退院して来たお年寄りを喜びの拍手で迎えた。その時、心臓が苦しいと、救急車で搬送されたおばあさんが亡くなった。「喜びも悲しみも同時にあるのが道なのだ。」すべてが幻のように去っていく。今の時期を「土(つち)休み」という。春の花が枯れたから、夏の花を植えましょう。土を休めてから。素敵な言葉です。土も生きているのだ。仕事を変える時、迷った時、人も休みましょう。ひと(人)休みひと休み。土やすみ
万葉集に「涙で曇り目も見えぬ」という歌がたくさんあります。空の雲でなく、目の雲を指しているのです。日本人は涙好きな国民と言われています。涙の語源を調べると、「な」は泣く。「み」は水。「だ」は垂れる。泣くと水が垂れてくる。そこから、涙ができたようです。「瞳の中にも空がある澄みきった空がある晴れ渡った空がある時折涙雲になり涙の雨が降るそのあとはまぶしい空がやってくる涙雲のあとは瞳の空が晴れ輝きを取り戻すのだ。」もう少ししたら晴れますから頑張りましょう。泣いてるあなたへの励ましの言葉です。涙雲
仏教の目的は『成仏』。すなわち「仏に成る」ことです。その方法の一つに「行い」「言葉」「考え方」という三つの活動において、仏さまの真似をするというものがあります。「皆が手伝ってくれたから無事に行事ができた」とか、「落ち込んでいた時に掛けてくれた言葉で頑張れた」とか、「上司の冷静な考え方があったから、窮地を乗り越えられた」といった経験ありませんか。「みんなが健(すこ)やかになれる」ような活動を通して、私たちは少しずつ仏さまに成っていきます。「行い」「言葉」「考え方」のどれか一つで結構です。「こんなとき仏さまならこうするんじゃないかな」そんなことを意識してその日を送ることができたならば、その一日はいつもと少し違った一日になるかもしれません。(真言宗・長寿院住職)素敵な説法ですね。このお話の根本にあるのは、思いや...神の子
14日間飲まず食わず。最期に残した言葉。耳元で『良く頑張ったねお疲れ様僕のこと忘れないでね』すると「忘れぬものか」と言って亡くなりました。この言葉を発する力に感動して涙が出ました。「生涯最期の言葉」皆様と共有しましょう。ありがとうの言葉返しで。忘れぬものか
「命は鉛筆さ思い出書き残して減っていくんだ」「体の重さはみんな違うけど命の重さはみんな一緒魂の重さだって一緒なんだ」「母さんがいない里帰りはつまらないふる里って母さんのことなんだ」「人に言えない苦労が本当の苦労さそれがあったから今の自分がいるんだな」「幸せって苦労した分しか来ないんだよ」「泣いた涙は人を思う優しさになるんだね」「死ぬことは誰かの心に生きることなんだ」皆さんもいろんな悩み抱えているでしょうね。みんな一緒ですよ。心配しないでお互い力あわせて生きましょう。私達がそばにいますからね。そばにいるよ
あわてるな、落ち着きなさい。という意味の「且緩々(しゃかんかん)」。若いお坊さんが、師匠に対し、矢継ぎ早に質問攻めにして疑問をすべて解消し、早く悟ろうと思ったら、「且緩々」と言われた。『どの道も、急いで極めることはできません。まずはお茶でも飲んで落ち着きなさい』。という時に使います。人生も同じです、ふと立ち止まって、これで良いのかとゆっくり考える時間が必要ですね。「且緩々」緊張した人を見たらこの言葉を掛けてみましょう。まずは一服
昨日緊急出勤のため7:00に家を出た。道路から離れた道をチャリで行くと竹やぶが燃えているのを発見。人がいるようないないような?風が吹く朝、すると消防車がやって来て道路に止まり隊員があたりを走り始めていた。私は掛けより竹やぶが火事と伝えた。わき道の奥だから分からないと思ったから。私はその場を去った。帰りに現場に行ったら竹やぶが綺麗な更地に変わっていた。地面は水の跡が染み込んでいた。きっと誰かがたき火(焼き畑)をして竹やぶに火が回り通報したのだと思った。外車の並ぶ販売店の裏だから大事にならないで良かったです。神のお告げか不思議な火事
「神の国は君たちの中にあるんだよ」(聖書ルカ17-21)神の国はいつ来るのかとパリサイ人に尋ねられた時、イエスは答えて言われた言葉。神の国とは、神の思いが実現するところ。それは、夢のような特別の場所にあるのではなく、私たちの中にもうすでにあるんだよ。苦しむ人、悲しむ人、助けを求める人に自分ができることをしていくこと。お互いのあやまちを許し、受け入れてそれぞれみんな中にいる神の存在に気づくこと。その時そこにもう神の国はあるんだよというメッセージです。空海も同じような事を言ってました。「仏は外にいるのではなく、丹田(たんでん)にいる」と。丹田とはへそ下で気力が集中する所です。神の国はあなたの中にあるのです。神の国
施設のカウンターに飾られている日本人形。彼女が私がケアマネになって戻って来たことに感謝している夢を見ました。「私の頭にかぶせている帽子は可愛いくないから取って欲しい!」翌日行ってとりました。笑ってくれました。髪を撫でると願いが叶うと教えてくれました。足元にそれを書きました。誰かが撫でたのでしょうか?髪が茶色になったり、前髪が数本伸びてきました。気のせいかな?魂が宿っている人形です。不思議なことだと感じて報告しました。みんな導きで今があるのだと納得して受け入れましょう。少しは気が楽になりますように。導きの今がある
今年も桜が咲いて私達を楽しませてくれました。桜の絨毯ができました。川面には花筏(はないかだ)となって桜の花びらが流れて行きました。「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)咲こうとも散ろうともどんな桜も愛すべき桜なのです。桜を命に変えると「散る命残る命も散る命」どんな命も愛すべき命なのです。桜は痛み苦しみ乗り越えて精一杯生きよと教えています。残る命を精一杯生きましょう。残る命
再び皆様へ「刃物は物を切る言葉は心を斬る暖房は体を温める言葉は心を温める薬は病を治す言葉は全てを癒す言葉は生きる勇気の道標(みちしるべ)しかし、沈黙と傾聴を忘れてはならない言葉の力信じて共に歩もう。」言葉の力
この時期、樹木希林さんの会話を思い出しました。「死ぬときぐらい好きにさせてよ」「生きるのも日常、死んでいくのも日常」晩年の希林さんがたどり着いた境地に「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」(良寛)「裏から始まるところがすごい。年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。こうありたい」また、良寛の次の句も好んだ。「散る桜残る桜も散る桜」誰にも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。という意味に「そう考えると心強いわね。でも、死ぬことは誰かの心の中で生き続けることなんじゃないかしら」お釈迦様の弟子の一人に提婆逹多(だいばだった)がいる。釈迦にたてつき、困らせるので、みんなが彼を遠ざけた。だが釈迦は「役立つ人だけがいいので...生と死
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。四体の心
「人は神によって生命を与えられ、あらゆる人の愛を受け育まれる。」しかし、「人間は愚かな生き物。日々誘惑に惑わされ、悪や欲に染まってしまうこともある。そのまま悪の道を行く人もいる。」「弱い人間は日々我を顧み生んでくれた神に喜ばれる生き方をして終わりたいものだ。」(自戒の言葉)誘惑の罠
人生は順風満帆ばかりではない。明日の希望もなく苦難の日々ばかりで、逃げたくなる事もある。「成長とは華やかな地上だけではない。地下にだって根を生やす事も成長というのだ。」足踏みしたって、かかとは減るのだから。いま辛い人は地上に出る前に、強い根を生やしていると思えばいい。私は人生の2/3はそうだった。地下の女神が見守っていますよ。地下の女神
「無事に生きる」という言葉があります。禅語では不要なことに振り回されないこととあります。不要とは「三毒」のことです。1.何でもむさぼるように欲しがる欲望。2.ささいなことで怒ること。3.道徳心や常識にかけた愚かさのこと。この三毒を出せば何事にも振り回されなくて、無事に過ごせると説いています。皆様には関係ない言葉ですね。三毒