「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
【表彰されます】神奈川県介護福祉士会主催の介護体験和歌に応募したところ、優秀作品になり、来月賞状授与と賞金(数千円か)と広報誌に載せるため写真撮りに来るそうです。お年寄りの皆さんとお祝いします。勿論、皆様ともありがとうございます。表彰
昨日朝日昇る前におばあさんが亡くなった。94歳だった。PŢ(リハビリの先生)がお別れの挨拶に行こうとしたら、号泣している声が聞こえて、中に入れなかったと報告受けた。私はその部屋の前に立つと、笑い声が聞こえていた。ドアをノックして入った。静かに眠っているご遺体のおでこに触れ、「あなたは立派に生きましたね。お疲れ様でした。ゆっくりおやすみ下さい。」と合掌し十字を切りました。本当に人生は泣いて笑って幕を閉じる人生芝居ですね。人生芝居
「日本より世界は広い。世界より宇宙は広い。宇宙より広いもの、それはイマジン(想像)。」(私)私達はそれを持っているのです。この先の生き方を想像しましょう。想像
如在(にょざい)の心とは「在(あ)るが、如(ごと)く」または、「そこにいるが如く」という意味です。常に誰かがそこにいるが如くに、行動をしなさいということです。これは西郷隆盛が座右の銘として『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人をとがめず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし』意味は、人を相手に仕事をするから、その人が見ていなければいいやとか、バレなければいいだろうとか、そういう気持ちが出てくるんだ。ゆえに「天を相手に仕事をしろ」と。天は常に見ているから、常に正しいことができると。それが、「如在の心」です。周りの人を責めるな、周りの人のせいにしたくなったら、自分の誠意が足りなかったと考えなさい。と述べています。仕事の心構えが違ってくるものです。如在の心
武士の言葉(葉隠)に「七息思案」(なないきしあん)があります。物事は七回の呼吸の内に判断せよ。という教えです。いつまでも煮えきらず優柔不断を戒めた言葉です。七回の呼吸も長いものです。瞬時に決断する事が大切との意味です。「溝(みぞ)をばずんと飛べ危うしと思えばはまるぞ。」(沢庵和尚)ちゅうちょする心を戒めています。It‘snowornever.(いまを逃すな)チャンスはそうないもの。サッカーでゴールキックするチャンスはそうないもの。それを逃すな!と言えば実感わくかも。私は直感を大切にしています。七息思案
後輩が昨日で退職した。新たな道を選んだのだ。私に聞かれた。この先、どうするのですかと。うーん高倉健が残した本「夢の途中」を思い出した。目が覚めても心に残る夢、それを残夢(ざんむ)というけど。夢の途中で、やり残した夢も残夢という。夢を追い続けたり、あきらめきれない夢を「見果てぬ夢」という。夢に背を向けてしまうと夢は終わる。夢も夢の終わりも自分が決めるもの。そこで答えた。「見果てぬ夢の途中さ!」無名な日本人にこんな人がいるとアピールできればいいな。何にもできないくせに夢だけはデカいと言われるかも。夢は枯れない。この先もだ。寝たきりになってもあきらめないぞ!あれに向かって奇跡を起こすまで。ブログを見る「夢は枯れない」
「風土とはその土地の特徴です。」日本の風土は四季がある事です。その地に根を育むのには、雨、風、太陽…が必要です。人もその風土によって育って来ました。私は最近、いつも以上に神の声を聞く事があります。「日本は地球の風土を守る唯一の国となる。」世界は日本によって救われるだろう!という声が聞こえます。何となく分かる気がしませんか?沢山の災難から復興した奇跡の国として世界は日本に救いを求めるだろう!この声はあらゆる神様からのメッセージです。皆様と共にそれを伝えるのが言葉の力です。ブログしか出来ない。それは地球は言葉から生まれたからです。感謝ブログを見る。「風土」
「願えば叶えられる』(私)年をとると物忘れが多くなる。大切な木彫りのお守りをなくしてしまった。気づいてから何度も神様にお願いした。昨日の朝、足元に転げ落ちた物に気づいて拾ったらあのお守りだった。なぜ?足元に転げ落ちるの。神様が見ていたので探してくれたようでした。私の小さな奇跡です。神様は願い事をいつも聞いているのだと皆様に告げなさいと私に教えてくれたのです。感謝願えば叶う
11月の言葉に恋染紅葉(こいそめもみじ)があります。また、11月の誕生色は紅葉の燃えるような赤です。「もみじ」は「揉(も)み出(い)ず」が変化したもので、色がもみ出されるという意味です。日中との寒暖の差が大きいほど紅は美しく鮮やかさを増すといいます。厳しさを乗り越え、それを肥やしにして鮮やかに色づく。人はその姿に心惹かれのです。あの人への恋しい思いが鮮やかに色づく…。素敵な言葉ですね。恋染紅葉
法然上人(ほうねんしょうにん)の言葉。「月影のいたらぬ里はそひなけれども眺(なが)むる人の心にぞ澄(す)む」この和歌の意味は、阿弥陀仏の慈悲で救われるのは、厳しい修行をした僧侶とか財力のある人だけでなく、すべての人が、平等に救われるものだと説いています。太陽はまぶしすぎますが、月の光はすべての人がゆったりと穏やかに眺められる。そんな月の光のような優しい心をもてば、いつもあなたは見守られている。この言葉を貴方に贈ります。月影の人
「五穀を食らわず、風を吸い露を飲み、雲気に乗じ、飛龍に御(ぎょ)して、而(しこう)して四海の外に遊ぶ。」(荘子)風をいっぱい吸い込んで雲に乗り、龍となってちっぽけな世間を飛び出していこう。まさにここはちっぽけな世間を飛び出した人ばかりです。四海の外なのです。のびのび生き生きと過ごしましょう。四海の外
「春は花秋は紅葉(もみじ)と散りはててたち隠るべきこのもともなし」(拾遺和歌集・よみ人しらず)春は花、秋は紅葉となって散りはててしまって、隠れるような木陰もないことだ。(二人いた子が春と秋に死んでしまった。)「このもと」とは、木の下と子の許(頼りになる子)を掛けた詞。春と秋にあいついで子を失った親の深い悲しみがにじみ出ています。私も次々に兄と弟を亡くし、古代人も辛い事を耐え忍んでいたのだとつい涙ぐんでしまいました。兄弟の分まで頑張らなくては。このもともなし
「人間は神ではないが、神の姿に似る事がある。」(私)それは人間らしい行動をした時に神の姿になるからです。神はその人に感謝の気持ちを伝えているのです。時々は神の姿になりますように。神の姿になる
「Easycome,easygo.」(簡単に手に入るものは、すぐ失う。)本当に価値あるものは、苦労して手に入れるものです。神が差し出すものに手軽に手に入るものはありません。もがき苦しんで手に入れる努力が必要なのです。その先に幸せが待っているという励ましの言葉です。うまい話に心奪われませんように。価値あるもの
チャンスメーカーという言葉があります。チャンスはつかむものではなく作るものだからです。「この世に生を受けたこと、そして生かされていること、それが最大のチャンス(好機)なんだ。チャンスはつかむものではなく挑戦して自ら作り出すものだから。チャンスは限りなく君の心の中にひそんでいるんだ。」(私)私はラストチャンスに挑戦して一歩一歩前進しています。(天使の力を借りて)チャンス
おみくじレクをやるので、何か言葉を考えて欲しいと頼まれた。★悲しみの数だけ、人は成長する。★すべての日が、それぞれの贈り物を持ってくる。★欠点は成長の種。★欠点をうまく使いこなせばいい。それが、魅力に変身させるからだ。★腐った木には彫刻はできない。役立つものは腐ってはいない。★誰とも争わない人を不争(ふそう)の人というんだ。★壁が横に倒れると、それは橋になる。★大切なものは目に見えない。★老いるということは、個性的になるチャンスなのだ。これを老いの恵みという。★みんな違っていて、みんないい。★昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。★不幸はね、貯まったら幸せと交換できるんだよ。★困難の無い人生は無難な人生。困難の有る人生は有り難い人生。★涙は人間の作る一番小さな海です。★...心に響く言葉
1.寛容2.祈り3.感謝4.心配するな(聖書・ルカ福音書)解釈すると・寛容とはあらゆる煩悩から解放すること。・祈り、感謝、心配するなは悲しみ(失敗、病気、挫折、災難、怪物のような苦しみ悲しみ)はすべて神様からの贈り物。すべてが神様が下さったものならば受け取ろうという気持ちになった時が喜びの鍵なんだと私は解釈しました。「苦しみは神様からの贈り物」(マザー・テレサ)皆様も今の苦しみから解放されますように。喜びの鍵
「稽古とは、一より習い、十を知り、十よりかえる、もとのその一」(千利休)再び基本に戻り、心技体も初心を忘れてはならないということでしょうか。あらゆるスポーツや習い事も初めて教えて頂いた事をつい忘れてしまい自己流になってスランプになってしまう。人に教えたり、アドバイスされて気づくものです。人生も同じ、生まれて来た時は裸。無心に遊んだ子どもの心をいつまでも忘れてはならないと思います。「無欲とは、一より習い、十を知り、十よりかえる、もとのその無欲」(私)稽古と無欲
「心の表現とは、振り向く様をいう。それを見得(みえ)というのだ。」(初代市川團十郎)心の様は見得なのです。そして、心の様を発するのが言葉です。「心の表現とは見得と言葉なり。」(私)心の表現
私たちは常に心の波風とともに生きています。ときには嵐のように吹き荒れることもあるでしょう。世の中には思い通りにならないことはたくさんあります。思い通りにならないことがあるときこそ、他者を思いやり、これまでに受けたご恩を思い出して、周りの人や社会にお返しする気持ちを持ってみましょう。思いやる気持ちは心に平和をもたらします。これを「慈悲心」といいます。今までは自分に余裕がない時は人の悩み苦しみなど構っていられないと思っていました。しかし、それは神様から試されているのだと知ると、心に余裕が出て来てすべてが好転するのに気づきました。私への自戒の言葉です。慈悲心
コロナでなかなか東京に行く機会がなかった。葛飾柴又にいる姉の見舞いに日比谷線を使って北千住まで行き乗り換えて、亀有、金町、柴又まで行きました。寅さんの団子屋に寄って鰻屋で食事した。往復の車内で感じた事は、みんな背が高くなった。外国人が一緒に生活している。サラリーマンの会話が20年前の私の東京人とは違ってレベルが高すぎる。ただ、上司や仕事しない仲間の愚痴は変わらない。この人達も沢山の悩みがあるのだろうな。このサイト見て癒されたらいいのにと思いました。おわり東京人
「年をとると分かる。人の手は一つは自分を助けるため。一つは他人を助けるためにある。」(オードリ・ヘップバーン)昨日は姉が入っている葛飾柴又の老人施設にお見舞いに行って来た。前回は涙を流してくれたが、昨日は顔見てうなづかれ安心したようだった。別れ際に手を振る私に左手が反応して一生懸命に手を振る仕草が見えた。「年をとると気づく。人の手は病と戦っている人を導く手。もう一つはお互い頑張ろうねと力を出す魔法の手になると。」魔法の手
「何ごとにも人に抜きん出ようとすることはいい、けれどもな、人の一生はながいものだ、一足跳びに山の頂点へあがるのも、一歩、一歩としっかり登ってゆくのも、結局は同じことになるんだ。一足跳びにあがるより、一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉や、いろいろな風物を見ることができるし、それよりも一歩、一歩を確かめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力になるもの。」(山本周五郎・ながい坂)お年寄りに付き添って毎日一歩一歩励まして歩いています。一歩一歩
心はどこにある心は言葉の中にある。心を込めるとは相手を思う言葉です。熱き血潮の心とは燃える愛の言葉です。心とは発する炎の中にある。炎の心
あるご家族から頂いたおせんべいの袋に書かれていた。おせんべいの名前の由来には諸説がありますが、千利休の弟子「幸兵衛」という人が、小麦粉を用いた焼菓子を作ったことから、「千」の字をもらって「千幸兵衛(せんのこうべい)」と名乗り、それが「おせんべい」になったと言われています。お年寄りも私も、おせんべいは大好きです。皆さんとおせんべいの集いでもしたいですね。ひと休み、ひと休み。おせんべいの会
「生かされている意味知っとるか。どんな貧しくとも、どんなに辛く苦しくとも死ぬまで働かなきゃあいかん。働けばお粥もおも湯も吸えるじゃないか。神様がくれたこの体、死ぬまで働いてお返しするんや。」(戦後の復興の合言葉)私も働ける事に感謝して、神様にお返ししたいと思います。生かされている意味
「この地のどこまで行っても、世界の果てまで行っても、天の先まで行っても、難敵はいるが、友達がいる事を知るだろう。」(私)友達とは心許した人と生きる力を与えてくれた導きの言葉です。知るべき事
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「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。改心の情
ここにいる人達は生きる力を授かり、命のリンク(絆の輪)を持つのです。悩める人達を救いましょう。(私の天使より)命のリンク
私達の体はボディ、スピリット、マインドの三つからできています。ボディとは肉体、スピリットとは魂、マインドとは心。肉体と魂が活動するときに味わう感情、思い、感覚などを感じる機能をマインドといいます。心が穏やかな気持ちでいるとき、心は大きく開いています。これを心理学では「オープン・ハート」と呼ぶそうです。心を開くと物事に対して、優しい気持ちで接し、たくさんの事を受け入れる事ができるといいます。反対に憎しみや、恐怖を感じているときは心を閉じてしまいます。心を閉ざすと益々憎しみが増大してしまいます。オープン・ハートに一番大切なことは愛の注入といいます。愛は無限の力がある。愛されてる貴方はオープン・ハート!愛の注入
毎日お別れする人が続いています。なぜでしょうか?「桜咲き花散る里に帰ろうか」そんな気がしました。皆さん全身の病と戦っていたのですね。最後まで書道を楽しみにしていた顔が忘れられません。書道教師と介護士と言葉の伝道師をしていて良かったです。お別れ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
「万法帰一(ばんぼういちにきす)」苦しみや悲しみは絶対に続かない。という意味です。本当に辛くても辛抱していると周りが助けてくれるものですね。不思議と実感しています。苦しみ悲しみ
「人と神が出会うのは苦難に耐えている時」(私)神はいつもいるわけではない。困って苦しんでいる時に神は現れるものだ。昨日は神の存在を知った。奇跡のような事をしてくれた。感謝しています。神の存在
川面(かわも)の月。ゆったりと大河を流れる川。急流になって谷間を流れる川。月は流されずいつも川面に映っている。月はあなたの心です。流されることのない不動の心あなたはあなたでいいのです。(私)どんな世間の波がたとうとも、自分は流されない不動なのだ。あなたはあなたなのだから。少しの波でも心動揺する私です。こうなりたいと思って日々努力しています。川面の月
「道に迷うことこそ道を知ることだ。」(東アフリカの諺)「人生に迷うことこそ人生を知ることだ。迷わぬ者に悟りはない。」(私)本当に迷ってばかりです。申し訳ない。迷う
日本でつくられた言葉に「躾(しつけ)」があります。身につく美しさと書いて躾。長い間の行いで無意識に身についた姿をいいます。日本人の美意識です。世界に誇れるひとつです。ここもそんな美意識を育てています。躾
一昨日看取りの人が亡くなった。水だけを良く欲しがっていた。イエスも十字架で「私はのどが渇いた」と発言されたことを知りマザーテレサは泣いたといいます。たしか、誰か布にワインを湿らせて唇に付けたと聞いた。そこから浮かんだ言葉です。「渇いた者へ」生きるのに渇いた者はここに来なさい。誰でも心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになるから。(私の天使の言葉より)渇いた者へ
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所もまほろばという安らぎの場所です。まほろば
「仏教は二利(自利、利他・じりりた)に尽きます」(空海)唐留学から帰国した際の空海の報告書の言葉です。自分が修行して、悟りを得ること(自利)と、他の人の救済のために尽くすこと(利他)の二つを完全に行うのが理想で、自利と利他は相反するものではなく、大きな輪のようにつながっているのです。自分の幸福も他人の幸福も一つの輪の中にあると述べています。宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と述べています。ボランテイアや介護現場では、人を手助けすることで、実は自分が救われていたと気づくものです。幸せを考えたくなったら自分にできる「利他」の行いからやってみて下さい。空海の言う自利利他は幸福の始まりのキーワードです。幸せのキーワード
あと数日の命。看取りの可愛いおばあさん。神田の生まれと自慢していた。しかし、母親からいつもあんたはぐずだと叱られてばかり。妹はチャキチャキの神田っ子。私はだめだ。何やってもノロマ。今何考えているの?「いい思い出ばかり思い出しているよ。」僕なんかいい思い出なんてないよ。「私もそうだよ少ししかないいい思い出を何度も何度も思い出しているよ。」そうなんだね。だけどね悪い思い出もいい思い出になるんだよ。だからすべて思い出していいんだよ。「そうだね」と笑ってくれました。(もうすぐお別れだね)いい思い出
朝の散歩中に竹やぶからうぐいすの鳴く声がしました。平安時代前期の『古今和歌集』より、『世にふれば言のはしげき呉竹(くれたけ)の憂(う)き節ごとにうぐいすぞ鳴く』憂(う)き節とは辛いこと、悲しいこと。長く生きていると、いろいろと嫌な事が聞こえて来て、そうした、辛い折々を嘆くようにうぐいすが鳴いている。(詠み人知らず)今でも同感する歌です。古代の人も同じように感じて過ごしていたのだと分かると自分だけでないと元気が出ます。私は竹の節を人生の節と呼んでいます。この節が強い竹を作っているのです。人生もそうです。辛い節目があるから強くなっていくのです。異動で明日から職場を離れる人からの相談を受けました。新たなチャンスだと思って前向きにいけば次のステップアップになると励ましました。勇気が出たと帰っていきました。皆様も人...うぐいす
人は重荷を背負って坂道を行くがごとし。(徳川家康)私は毎日10キロのリュック背負って出掛けてる。墨や絵筆や半紙が結構重いから。50年続けたら120トン。「私の人生120トン雨の日も長靴はいて120トン雪の日も足跡残して120トン風の日も帽子飛ばされ120トン心の重さだ120トン泣いて笑って120トンソーレソレソレ120トン」120トン
古典の中に、「静中の静、楽処の楽は真実ではない」という言葉があります。静かな環境の中での、静かな心は本当の静かさではない。騒がしい環境の中で、心を静かにすることができて始めて本当の心境という。また、楽しい環境の中での楽しい心は本当の楽しさとは言えず、苦しい中で心を楽しくすることができて、本当の心境だと言えようという意味の言葉です。皆様も今までの自粛生活の苦難の中でも小さな楽しみを見つけて来ましたね。私は物を補修する楽しみを見つけました。苦しい、悲しい、体中痛い毎日の中で楽しみを見つけた時、この言葉が浮かんで来ました。苦中の楽
「人間は死を約束された動物である。人は死んでもその人の影響は消えない。自分は何を残せるだろうか。」聖路加病院故日野原先生生きる力になる言葉をたくさん残した!と自信もっていいましょう。何を残すか
私の作った言葉です。「不幸無感」Idon'tfeelittobeunhappy.(自分を不幸だと思わないこと。)幸福や不幸は心のもちようで変わるもの。不幸にならないためには不幸と感じないことです。不幸無感(ふこうむかん)皆様に届きますように。不幸にならない
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所も、まほろばという安らぎの家でありますように。まほろばの家
蛍は遠い故郷を思い出させてくれます。ある古典の中から素敵な言葉を思い出しました。《恋の蛍》です。「あまひこよ雲のまがきにことづてん恋のほたるは燃えてはてぬべし」(平祐挙・たいらのすけたか)「恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身をこがす」鳴かない蛍は光ることで想いを表し、まるで身を焦がしているようだ。なんと素敵でロマンチックな言葉でしょう。私なら「燃え尽きて夜空をこがす遠(とお)花火鳴かぬ蛍も身をこがす」遠くに見える花火は音は聞こえないが夜空を焦がしている。暗闇を音もなく1匹の小さな蛍がほんのり照らす姿は秘めた思いで身を焦がし、みんなの願いを叶える光明蛍のようだ。私もそんな蛍になろう。蛍になる
今朝の新聞記事より、日本外科学会定期学術集会の「人にない武器をどう身につけるのか?」というテーマに特別講演を行った元プロ野球選手の松井秀喜さんは元巨人監督の長嶋茂雄さんから誰にも負けない素振りの武器を作ってもらったと披露して、医療関係者1500人を沸かせました。私の武器は誰にも負けない鈍感でドジ。努力しなくて身につけた。皆様の武器はどう身につけましたか。あなたの武器は
「道とは遠くからははっきり見えるけれど近づいたら消えた幻のようなもの。」「晴れた天気に外に出たら急に雨が降る。喜びの歌がまだ終わらない内に悲しみの歌が聞こえて来る。それを道と呼ぶのだ。」(私)退院して来たお年寄りを喜びの拍手で迎えた。その時、心臓が苦しいと、救急車で搬送されたおばあさんが亡くなった。「喜びも悲しみも同時にあるのが道なのだ。」すべてが幻のように去っていく。今の時期を「土(つち)休み」という。春の花が枯れたから、夏の花を植えましょう。土を休めてから。素敵な言葉です。土も生きているのだ。仕事を変える時、迷った時、人も休みましょう。ひと(人)休みひと休み。土やすみ
万葉集に「涙で曇り目も見えぬ」という歌がたくさんあります。空の雲でなく、目の雲を指しているのです。日本人は涙好きな国民と言われています。涙の語源を調べると、「な」は泣く。「み」は水。「だ」は垂れる。泣くと水が垂れてくる。そこから、涙ができたようです。「瞳の中にも空がある澄みきった空がある晴れ渡った空がある時折涙雲になり涙の雨が降るそのあとはまぶしい空がやってくる涙雲のあとは瞳の空が晴れ輝きを取り戻すのだ。」もう少ししたら晴れますから頑張りましょう。泣いてるあなたへの励ましの言葉です。涙雲
仏教の目的は『成仏』。すなわち「仏に成る」ことです。その方法の一つに「行い」「言葉」「考え方」という三つの活動において、仏さまの真似をするというものがあります。「皆が手伝ってくれたから無事に行事ができた」とか、「落ち込んでいた時に掛けてくれた言葉で頑張れた」とか、「上司の冷静な考え方があったから、窮地を乗り越えられた」といった経験ありませんか。「みんなが健(すこ)やかになれる」ような活動を通して、私たちは少しずつ仏さまに成っていきます。「行い」「言葉」「考え方」のどれか一つで結構です。「こんなとき仏さまならこうするんじゃないかな」そんなことを意識してその日を送ることができたならば、その一日はいつもと少し違った一日になるかもしれません。(真言宗・長寿院住職)素敵な説法ですね。このお話の根本にあるのは、思いや...神の子
14日間飲まず食わず。最期に残した言葉。耳元で『良く頑張ったねお疲れ様僕のこと忘れないでね』すると「忘れぬものか」と言って亡くなりました。この言葉を発する力に感動して涙が出ました。「生涯最期の言葉」皆様と共有しましょう。ありがとうの言葉返しで。忘れぬものか
「命は鉛筆さ思い出書き残して減っていくんだ」「体の重さはみんな違うけど命の重さはみんな一緒魂の重さだって一緒なんだ」「母さんがいない里帰りはつまらないふる里って母さんのことなんだ」「人に言えない苦労が本当の苦労さそれがあったから今の自分がいるんだな」「幸せって苦労した分しか来ないんだよ」「泣いた涙は人を思う優しさになるんだね」「死ぬことは誰かの心に生きることなんだ」皆さんもいろんな悩み抱えているでしょうね。みんな一緒ですよ。心配しないでお互い力あわせて生きましょう。私達がそばにいますからね。そばにいるよ
あわてるな、落ち着きなさい。という意味の「且緩々(しゃかんかん)」。若いお坊さんが、師匠に対し、矢継ぎ早に質問攻めにして疑問をすべて解消し、早く悟ろうと思ったら、「且緩々」と言われた。『どの道も、急いで極めることはできません。まずはお茶でも飲んで落ち着きなさい』。という時に使います。人生も同じです、ふと立ち止まって、これで良いのかとゆっくり考える時間が必要ですね。「且緩々」緊張した人を見たらこの言葉を掛けてみましょう。まずは一服
昨日緊急出勤のため7:00に家を出た。道路から離れた道をチャリで行くと竹やぶが燃えているのを発見。人がいるようないないような?風が吹く朝、すると消防車がやって来て道路に止まり隊員があたりを走り始めていた。私は掛けより竹やぶが火事と伝えた。わき道の奥だから分からないと思ったから。私はその場を去った。帰りに現場に行ったら竹やぶが綺麗な更地に変わっていた。地面は水の跡が染み込んでいた。きっと誰かがたき火(焼き畑)をして竹やぶに火が回り通報したのだと思った。外車の並ぶ販売店の裏だから大事にならないで良かったです。神のお告げか不思議な火事
「神の国は君たちの中にあるんだよ」(聖書ルカ17-21)神の国はいつ来るのかとパリサイ人に尋ねられた時、イエスは答えて言われた言葉。神の国とは、神の思いが実現するところ。それは、夢のような特別の場所にあるのではなく、私たちの中にもうすでにあるんだよ。苦しむ人、悲しむ人、助けを求める人に自分ができることをしていくこと。お互いのあやまちを許し、受け入れてそれぞれみんな中にいる神の存在に気づくこと。その時そこにもう神の国はあるんだよというメッセージです。空海も同じような事を言ってました。「仏は外にいるのではなく、丹田(たんでん)にいる」と。丹田とはへそ下で気力が集中する所です。神の国はあなたの中にあるのです。神の国
施設のカウンターに飾られている日本人形。彼女が私がケアマネになって戻って来たことに感謝している夢を見ました。「私の頭にかぶせている帽子は可愛いくないから取って欲しい!」翌日行ってとりました。笑ってくれました。髪を撫でると願いが叶うと教えてくれました。足元にそれを書きました。誰かが撫でたのでしょうか?髪が茶色になったり、前髪が数本伸びてきました。気のせいかな?魂が宿っている人形です。不思議なことだと感じて報告しました。みんな導きで今があるのだと納得して受け入れましょう。少しは気が楽になりますように。導きの今がある
今年も桜が咲いて私達を楽しませてくれました。桜の絨毯ができました。川面には花筏(はないかだ)となって桜の花びらが流れて行きました。「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)咲こうとも散ろうともどんな桜も愛すべき桜なのです。桜を命に変えると「散る命残る命も散る命」どんな命も愛すべき命なのです。桜は痛み苦しみ乗り越えて精一杯生きよと教えています。残る命を精一杯生きましょう。残る命
再び皆様へ「刃物は物を切る言葉は心を斬る暖房は体を温める言葉は心を温める薬は病を治す言葉は全てを癒す言葉は生きる勇気の道標(みちしるべ)しかし、沈黙と傾聴を忘れてはならない言葉の力信じて共に歩もう。」言葉の力
この時期、樹木希林さんの会話を思い出しました。「死ぬときぐらい好きにさせてよ」「生きるのも日常、死んでいくのも日常」晩年の希林さんがたどり着いた境地に「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」(良寛)「裏から始まるところがすごい。年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。こうありたい」また、良寛の次の句も好んだ。「散る桜残る桜も散る桜」誰にも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。という意味に「そう考えると心強いわね。でも、死ぬことは誰かの心の中で生き続けることなんじゃないかしら」お釈迦様の弟子の一人に提婆逹多(だいばだった)がいる。釈迦にたてつき、困らせるので、みんなが彼を遠ざけた。だが釈迦は「役立つ人だけがいいので...生と死
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。四体の心
「人は神によって生命を与えられ、あらゆる人の愛を受け育まれる。」しかし、「人間は愚かな生き物。日々誘惑に惑わされ、悪や欲に染まってしまうこともある。そのまま悪の道を行く人もいる。」「弱い人間は日々我を顧み生んでくれた神に喜ばれる生き方をして終わりたいものだ。」(自戒の言葉)誘惑の罠
人生は順風満帆ばかりではない。明日の希望もなく苦難の日々ばかりで、逃げたくなる事もある。「成長とは華やかな地上だけではない。地下にだって根を生やす事も成長というのだ。」足踏みしたって、かかとは減るのだから。いま辛い人は地上に出る前に、強い根を生やしていると思えばいい。私は人生の2/3はそうだった。地下の女神が見守っていますよ。地下の女神
「無事に生きる」という言葉があります。禅語では不要なことに振り回されないこととあります。不要とは「三毒」のことです。1.何でもむさぼるように欲しがる欲望。2.ささいなことで怒ること。3.道徳心や常識にかけた愚かさのこと。この三毒を出せば何事にも振り回されなくて、無事に過ごせると説いています。皆様には関係ない言葉ですね。三毒