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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 珍しい地神、「社稷」 (茂平の新土手)

    ”地神”と刻まれた円形の石碑は全国無数の村々に存在しているが、”社稷”と刻まれた地神は珍しい。大正時代の末期に数基建てられたようだ。地神が建てられたのは江戸末期から明治末で、社稷は地神建立の最期を飾るもののようだ。なお備中備後は五角形の地神が多いのがこの地方の特色となっている。・・・「城見のあゆみ」城見地区まち協2017年発行地神(社稷)「社稷」は「しゃしょく」と読みます。「稷」は穀物の神を意味する言葉でした。土地とそこから収穫される作物が国家の基礎であるという考え方です。「地神」として、あるいは木や石の5角柱に農耕に関わる5柱の神の名を刻んで丁寧に祀ったのです。春には、その年の豊作を祈念し、秋には、収穫を感謝する祈りをささげるわけです。「社稷」として祀るのもその1つの形なのですが、極めて少ないのです。聞...珍しい地神、「社稷」(茂平の新土手)

  • 茂平の自然災害②関東大震災ほか

    大正12年・関東大震災「笠岡高校70年史」という本には、大12年の関東大震災の時、笠岡の町がそうとう揺れた思い出が載っている。当時父は幼かったが、茂平も揺れて家の庭に常夜灯の宝珠の部分が転がり落ちてきたそうだ。父の話・2000年11月23日落ちてきた夜燈の石七つの時じゃ。小学校へあがるときじゃ。おべえとる。その時に夜燈の石が道に落ちそしてウチの庭(カド)に落ちてきた。そわぁに揺れたんじゃ。土台基礎はしゃんとしていたがテッペンはのせとけただけなんで、落ちた。他に茂平に被害は無かった。昭和14年・備中日照りその年、茂平では八幡様で雨乞いの祈祷して火を焚いたそうだ。山口では、ため池の工事が始まった。「奥山池」(奥山池は昭和18年に完成した。笠岡市山口2020.4.11)・・「城見のあゆみ」城見地区まち協2017...茂平の自然災害②関東大震災ほか

  • 茂平の自然災害①茂平の堤防が決壊した

    茂平の自然災害で最大のものは、明治17年の堤防が決壊し海水が流れ込んだことだろう。隣の大津野村は死者5名、茂平は犠牲者はでなかったようだ。2021年6月28日・当ブログ子供の頃、祖母は「昔堤防が切れて海水が流れ込んだ」ことを何度も話していた。昔というのは、祖母が若いころ経験した事だろうと思っていた。祖母は明治28年に茂平で生まれた。堤防が決壊したのは明治17年の事で、未曾有の出来事を祖母は自分の親や近所のおじさんたちから聞かされていたのだろう。山陽新聞に明治17年の水島の決壊記事が載った。記事を読むと140年前の、茂平の先人たちが体験した恐怖が蘇るようだ。・・・2021年6月18日山陽新聞・文化欄「温故知災・苦難の歴史に学ぶ」「福田新田の悲劇---高潮の猛威」堤防決壊、次々と家屋漂流福田新田旧5ヶ村(現在...茂平の自然災害①茂平の堤防が決壊した

  • EXPO 2025 大阪・関西万博 (大阪市此花区夢洲)

    日時・2025年6月30日(月)前回の大阪万博の時、日本経済は毎年20%成長し、暮らしの向上が眼で見える変化をしていた。将来に対して国民は明るい希望しかなかった。昭和元禄の頂点と万博開催は重なった。全レコード会社は共作の「〽今日は~今日は~」を社の第一人者が歌を歌って発売。全盛期を迎えた週刊誌は、毎週グラビアでミニスカート姿のコンパニオンを紹介した。多くの国民が熱にうなされたように大阪へ万博を見に行った。自分も二度(か三度)見にいった。一度開門時に行き、スタートダッシュのすさまじさに唖然呆然したのをよく覚えている。会場が暑かった。食べ物売り場が少なく困った。(若かったけど)疲れた。さて今回はどうか?日本人口は減少、経済は停滞、相対的な国際国力は低下。万博も開催することの意義から問われ、今は”赤字”になるか...EXPO2025大阪・関西万博(大阪市此花区夢洲)

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