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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 日比の大煙突

    場所・岡山県玉野市日比無くなった日・2026年3月(現在・解体撤去工事中)撮影日・2015年10月18日日比は岡山県を代表するハゲ山の町だった。江戸時代から明治の初め、塩田の薪のため、山の木々は採取された。塩田は石炭使用に変ったが、大正時代には精錬所が出来た。精錬所の煙突から出るばい煙は、ハゲ山に残った樹々を一層に枯れさせた。岡山県内でも雨量が少ない玉野市は、乾燥した山を山火事が襲った。いろんな条件が重なって、日比の山に緑の山はなく、はげ山の山頂には精錬所の巨大なエントツが建っていた。昭和40年代の終わりごろから道路脇に夾竹桃が植えられ、道には紅い花が咲くようになった。はげ山にも、木が植林され、見苦しかった風景は次第に緑が増えていった。・・・【山陽新聞】(備前欄)2025年6月26日「太郎煙突」お別れ近ず...日比の大煙突

  • 茂平新四国霊場

    子どもの頃から茂平の88ヶ所の存在は、道べりに碑が建っていたので知っていた。「ここは88ヶ所」と教えてくれる大人や子供もいた。しかしお詣りする姿は一度も、一人も、見たことはなかった。笠岡市内には二十余りの「88ヶ所霊場」があるが、「神島88ヶ所霊場」を除いてお遍路さんを見たことはない。今はその神島でも、見ることが少なくなった。お遍路さんの宿も減った。茂平の人々も、茂平に88ヶ所霊場があるのに、神島を巡礼した。小田郡誌によれば大正時代にすでにすたれている。父の話も同じで、村民の苦労して造ったであろう「茂平88ヶ所霊場」も20~30年の繁栄でおわったみたいだ。・・・「城見のあゆみ」・・・「小田郡誌」茂平新四国明治11年頃本村大字茂平に新四国八十八ヶ所の霊場を安置し一時巡拝者多数ありしも今日に於いては漸次頽廃し...茂平新四国霊場

  • 砂川のホタルと誘蛾灯

    ホタルかまんどーから砂川への道。その下の水路(溝)に蛍が飛んでいた。梅雨明け頃から蛍が飛び、夕方になると近所の子3~4人で、竹箒と小箱を持ってホタルを取りに出かけた。ホタルは飛ぶスピードが遅く、しかも低空を飛ぶので取るのが簡単だった。ホタルは”水ボタル”と呼ばれ、溝の水中で光るホタルがいた。この水ボタルは、目が光る蛇と似た光で、間違えて蛇を握る子が多かった。それで自分は空を飛ぶホタルしか取らなかった。取ったホタルは家に帰ると、蚊帳の中に放した。その光の中で寝ていたが、翌晩、そのホタルがいたためしがない。逃げたのだろうか、死んでいたのだろうか?学校に行くと、用之江の子は「源氏ボタル」を取ったと話していた。茂平には小さな「平家ボタル」しかいなかった。ちょっと悔しい思いで聞いていた。誘蛾灯砂川や西谷に誘蛾灯があ...砂川のホタルと誘蛾灯

  • つぼき(肥溜め)の話

    「つぼき」は農家は一つ、必ずもっていた。つまり150程度の「つぼき」が茂平にあった。匂うので・・・家から近くなく運ぶのに便利だから・・・家から遠くない微妙にむずかしい(?)距離の場所に「つぼき」はあった。「つぼき」には蓋をするつぼきと、蓋をしないつぼきがあった。たいていの「つぼき」には蓋がなかった。城見小学校からの帰り道沿いには「用之江」「茂平」で何ヶ所かあったが、道ともとれる場所に、二ヶ所のつぼきかあった。これが油断できなかった。学校に行く時はせっせと前に進むが、下校時は気が緩む。遊び遊びしながら学校から帰る。そうゆうとき、ゆだんをすると「つぼき」にはまる。はまったら悲惨である。顔を除くほぼ全身に、液と固形が混じったものが付く。こうなると、いっしょに遊んでいた子どもは皆離れる。ツボキの場所だけは心しての...つぼき(肥溜め)の話

  • 茂平の港に来る船(糞船・祇園詣り・打瀬・瀬戸の花嫁)

    糞船昭和25年前後の数年間、茂平の波止に神戸から「糞船」と呼ばれる船が来ていた。茂平の農民に限ったことではないが、町の人の「人糞」や料亭街の「人糞」は人気が高かった。江戸時代の江戸周辺の農家では、江戸城大奥のものが”特上品”だった。(父の話2001)肥えを積んだ船が茂平に来ていた。神戸から来とった。船の真中辺に肥えを積んどった。それを金を出して買おとった。浜に入った船に荷車にニ盃積んでしんがいの畑の野つぼに移し、せえから、また船に行って買おて今度は他の畑にうつす。そわあなのは戦中から戦後まで3~4年続いたじゃろうか。(人糞肥料はどんな野菜や果物に適していたのか?)何ににも効きょうた。・・・「瀬戸内文化誌」宮本常一八坂書房2018年発行肥買い船讃岐の国は古くから人の充ち満ちた所であって、土地はすっかりひらけ...茂平の港に来る船(糞船・祇園詣り・打瀬・瀬戸の花嫁)

  • 初めて茂平にバスが来る

    現在の山陽本線が出来たのは明治24年頃だが、茂平には鉄道もバスもなく、町に行くには、徒歩か自転車で大門駅まで行く。大門駅から汽車に乗って「福山」か「笠岡」に行く。それが昭和33年頃まで続いた。昭和33年、井笠バスは「茂平行」⇔「笠岡駅行」の運行を開始した。その頃流行歌で「東京のバスガール」がヒットしていた。歌とは違って、「バスガール」でなく「バス兄さん」の車掌が多かった。バスはボンネット形で、狭い凸凹道をトコトコ走り、中村メイ子が歌う「田舎のバス」によく似ていた。茂平~笠岡間で1~2度ほど対向車が来た。その時は、たいていの場合ひともんちゃくあった。茂平園芸事務所で折り返し運転で、番屋のおばさんが切符を売りに来ていた。番屋のおばさんは冬の朝は一斗缶で火を焚き、運転手・車掌、客をもてなしていた。・・・何とかな...初めて茂平にバスが来る

  • 茂平小学校跡に関する事

    茂平に鳥飛小学校が存在したのは明治5年から大正3年までの42年間。用之江に現在の城見小学校が新築された時、鳥飛小学校は統合された。明治5年~明治39年は4年制度、明治40年~6年制度。自分の祖父は4年プラス高等科2年の就学で、高等科を出ていることとABCを書けることを自慢していた。その後、義務教育が6年制になると”高等科”は11.12才から、13.14才へと変わった。父が城見尋常小学校を卒業する昭和初期は、中学・実業・女学校に進学しない人は、ほぼ全員高等小学校へ進学。事実上義務教育は8年以上となっていた。・・・全国平均では、初め女子の就学率が低かった(明治8年で35%)が、明治38年には96%となっている。子どもの頃、茂平の近所に、文盲の老婆が2人いた。世間的には「幼いときに不運なことがあったのだろう」と...茂平小学校跡に関する事

  • 茂平小学校跡②ごらく場に旅芸人がやってくる

    戦前も旅芸人一座は茂平に来ていたと父は話していた。戦後も「ごらく場」が無くなるまで芝居の見世物が来ていた。4~5人程度の一座で、人情ものの芝居をしていたような記憶がある。歌や浪曲はしていなかった。芝居だけの一座。当時、茂平青年団が演芸会を行うことがあり、青年団は無料で、旅芸人は有料だったので、どうしても無料を見ることの方が多かった。・・・・・・姉の話・2002年1月6日筵で囲った旅芸人番屋の隣りの学校のところに来ていた。芝居があるときは旅芸人のおじさんが着物を着て、茂平の土手を回って、「夜に芝居があるよ。」と知らせてあるいていた。太鼓を叩いて。その後ろを小さな子供がごそごそついて歩いていた。おじいさんとおばあさんに連れられて、よう見に行っとった。まわりに筵がぶら下げて、入口作って。今日は少ないな、とか、多...茂平小学校跡②ごらく場に旅芸人がやってくる

  • 茂平小学校跡①映画史上空前のヒット作、感動と興奮の新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」を見に行く

    映画を見るのは、福山・笠岡の映画館、城見小学校、茂平集会所の三通りあった。福山では、「とんど祭り」に行った際に、映画館で見て帰るとか。小学校は、文部省推薦の映画、例えば「路傍の石」や「にあんちゃん」のような教育映画。さっぱり面白くない映画。講堂に暗幕を貼って暗くしていた。茂平集会所には、金浦座が出張してくる。夜上映、一夜限り。回数は月に1~2度程度。上映日の二日ほど前に、青木と農協と吉本にポスターを貼っていた。木戸銭は入口に”りょうやん”が座っていて、一人一人の顔を見ながらお金を受け取っていた。二本立てで、たいてい先にチャンバラ・アクション、後に恋愛・現代劇を上映するパターンだった。当時の婦人は上映開始の頃は家事と、世間の目があり、外出できなかったから。映画は東京や大阪で上映して約1年後に茂平に廻っていた...茂平小学校跡①映画史上空前のヒット作、感動と興奮の新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」を見に行く

  • 昭和46年・東宝映画「激動の昭和史 沖縄決戦」 (NHKBS・2025年6月22日放送)

    昭和20年8月、誰が見ても日本の敗戦はわかりきっていたが、それでも、それを認めない人がいて。しかもそれが国家の最高指導者たちなので始末が悪かった。全国民の悲劇になる寸前、天皇の”ご聖断”で敗戦・終戦となった。それがなかったなら、日本は”一億総玉砕”に突き進んでいたか、その途中で、天皇制を含む国体崩壊による国民内部からの終戦であったであろう。つまり天皇”ご聖断”がなかった場合、沖縄に次いで、鹿児島県志布志宮崎県海岸高知県海岸からアメリカの海兵隊が上陸してくる。(戦艦大和が沖縄へ向かう)(実名が出て、びっくりした。「きけわだつみの声」にただ1名いる学校の先輩。学徒出陣、海軍の飛行機乗りで戦死)それは沖縄で起きたことと、ほぼ同じか、洞窟がないので沖縄以上の悲惨な戦闘となったかも知れない。戦車隊にいた司馬遼太郎が...昭和46年・東宝映画「激動の昭和史沖縄決戦」(NHKBS・2025年6月22日放送)

  • 「浅口まるごと産業祭」 (岡山県浅口市鴨方町・ビッグハット)

    日時・2025年6月22日明治・大正の浅口郡は、現在の倉敷市水島・西阿知・中島・連島・船穂・玉島浅口市浅口郡里庄町笠岡市大島今日の「浅口まるごと産業祭」でいう「浅口」は、浅口市浅口郡里庄町の1市1町。今日は「ふるさとかもがたプラザ」(ビッグハット)で産業祭。この地域の特産品のうち食品は、寄島町の牡蠣や魚やお酒。鴨方町のソーメンやパン。里庄町はフリーズドライの「味噌汁」、「ケーキ」。自分の目的はソーメンを買う、こと。自称”ソーメン道1級”のソーメン好きだったが、去年くらいからソーメンを食べる回数が減ってきた。今年は買う量も少な目、”ソーメン道1級”も名乗るのが恥ずかしくなった。・・・【浅口市HP】〈出展者〉浅口市・里庄町62社ブース※特産品やグッズ販売、グルメコーナー、体験コーナーなど〈グルメコーナー〉手延...「浅口まるごと産業祭」(岡山県浅口市鴨方町・ビッグハット)

  • ”ミスタージャイアンツ 勝利の旗”

    昭和30年代は、プロ野球も大相撲もプロレスも隆盛を極めた。活躍すればすぐに、漫画になり、歌になり、映画になった。雑誌やラジオで活躍を知る国民は、スクリーンで動く姿に狂喜した。管理人の記憶だと、最初の映画はプレレスの「力道山」。世界一強いと言われた。ほぼ日本人全員が、「リキは世界一強い」と思っていた。映画は”怒涛の男力道山物語”天才少女歌手だった美空ひばりが出演。次は相撲の大関・若ノ花。”土俵の鬼若ノ花物語”人気大関・若ノ花が全勝中に、長男が事故死。この悲劇で大相撲と若ノ花の人気は天に昇る状態となった。当時、日活を代表するスターだった北原三枝が映画で若ノ花夫人で副主演。裕ちゃんもちょい役で出ているみたいだ。その次は日本シリーズ4勝の稲尾和久投手。「神様・仏様・稲尾様」、その興奮が冷めないうちに即時映画化され...”ミスタージャイアンツ勝利の旗”

  • 村上三島

    場所・愛媛県今治市上浦町井口「村上三島記念館」大三島は大きな島なので、二つの町があり島の東側が広島県に接する「上浦町」、西側が大山祇神社がある「大三島町」。現代書家を代表する村上三島さんも上浦町で生まれ育った人。三島さんは書道の発展や交流にも尽力され、功績があった。(右側が三島さん)館内は、「文化勲章」が展示され、「部屋」が再現され、道具類も置かれている。展示作品の数は多く、書道好きの方は必見のミュージアム。・・・【今治市HP】村上三島について村上三島(本名正一)は、大正元年(1912)8月25日愛媛県越智郡瀬戸崎村(現:今治市上浦町)に生まれました。幼少の頃両親とともに大阪府三島郡吹田町(現:吹田市)に移りました。号三島は、生まれ故郷の大三島(上浦町)と三島郡という二つの地名に由来し、故郷への思いを物語...村上三島

  • 曽我梶松

    場所・愛媛県今治市上浦町井口「村上三島記念館」写真中央が「曽我梶松之像」。上浦町出身で旧内務省の人。官選知事の時代に福岡県知事等を歴任したが、戦後”公職追放”された。・・・データベース『えひめの記憶』曽我梶松(そがかじまつ)明治29年~昭和43年(1896~1968)昭和戦時下の三重・熊本・福岡県知事。明治29年3月24日,越智郡顔戸崎村(現上浦町)で曽我保太郎の四男に生まれた。愛媛県師範学校・東京高等師範学校を卒業して岡山県師範学校教諭に奉職したが,やがて京都帝国大学経済学部に入学,大正12年卒業した。在学中文官高等試験に合格,愛知県郡長・事務官を振り出しに,昭和17年10月三重県知事に就任した。昭和18年7月には東北地方行政協議会参事官になり,農商務省生活物資局長を経て,昭和19年8月熊本県知事,20...曽我梶松

  • 先田通夫

    場所・愛媛県今治市上浦町井口「村上三島記念館」愛媛県大三島にある「村上三島記念館」の前に、3人の胸像がある。最初の胸像は「先田通夫之像」。初めて聞く名だったので、調べてみると氏の名は「さきだみちお」と読むそうで、元・愛媛県越智郡上浦町長元・愛媛県議会議員、元県議会議長元・上浦町名誉町民地元の上浦町と愛媛県政に尽力された方だった。訪問日・2025年5月31日先田通夫

  • 大山祇神社の一人角力(御田植祭) (愛媛県今治市大三島町宮浦)

    日時・2025年5月31日大相撲は、ここ4~5日新聞テレビで新横綱「大の里」の誕生、大横綱「白鵬」の協会脱会、で騒がれている。四国の大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)では昨日、「一人角力」があった。大相撲に負けないほどの手に汗握る熱戦を見ることができた。角力は「精霊」が勝った。精霊が勝った年は豊作間違いないそうで、現在、国の備蓄米を放出する政府にとっても、それを買い求める国民にとっても良いニュースとなった。・・・相撲のあと、斎田で田植えがあった。大三島に住む16人の早乙女たちが、昔ながらの田植えを行った。大山祇神社の一人角力(御田植祭)(愛媛県今治市大三島町宮浦)

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