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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

しろみ茂平の話さんの人気ランキング

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  • 悪霊島 (岡山県井原市)

    金田一耕助さんが大活躍する映画は多いが、「KADOKAWA映画」が特によく知られている。「獄門島」は、笠岡沖がモデルで映画も笠岡沖の六島で行われた。大原麗子が六島に来た。似たような題名で、「悪霊島」がある。鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい!「悪霊島」は、鷲羽山沖がモデルで、主役は鹿賀丈史(金田一耕助)。笠岡市西ノ浜を歩くシーンが映画に登場する。小説でも映画でも、重要な役目で神楽の一行が登場する。作者・横溝正史は、備中神楽のことをよく調べて物語に組み込んでいる。旅の場所・岡山県井原市青野町「葡萄浪漫大神楽」旅の日・2024.4.14書名・「悪霊島」著者・横溝正史発行・角川文庫昭和56年「悪霊島」横溝正史角川文庫昭和56年発行第十一章神楽太夫このへんの神楽はいつか三津木五郎もいっていたとおり、備中神楽とよばれてい...悪霊島(岡山県井原市)

  • てんやわんや (愛媛県宇和島市岩松)

    獅子文六の小説「てんやわんや」を読んでいたら、物語のモデルと言われる岩松町に行きたくなった。小説では、宇和島から岩松までバスで約2時間。現代では、40~50分もあれば行けるだろうと、思っていたが・・・ナント!20分もかからなかった。高速道路がトンネルを抜けると、すぐに岩松に着いた。これにはびっくりした。岩松の街は、岩松川沿いに静かにたたずむ南予の落ちついた町並みだった。昨年(令和5年12月15日)、岩松は”重伝建”に指定されたそうだ。おめでたいことだ。旅の場所・愛媛県宇和島市津島町岩松旅の日・2009.10.11書名・「てんやわんや」著者・獅子文六発行・新潮文庫昭和26年私は決心した。東京は危険な都会というべきである。薄暮、焼跡の場所で、突然真に突然、女から求婚されて、自若たる男性があったら、それは野蛮人...てんやわんや(愛媛県宇和島市岩松)

  • ~やわらかに柳青める北上の~ (岩手県渋谷村)

    ~やわらかに柳青める北上の~ (岩手県渋谷村)

    岩手県の「渋谷村」という地名は、石川啄木によって今でも日本有数の有名な村名のように思う。現在は県都・盛岡市の市域になっている。渋谷村に行くと、かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川啄木ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな啄木などの看板が目につく。だが、やはりこの歌がいいやわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに啄木この歌は、映画【北上夜曲】と名曲【北上夜曲】とも一体化している。〽匂い優しい白百合の濡れているよなあの瞳想い出すのは想い出すのは北上河原の月の夜旅の場所・岩手県盛岡市玉山区渋民「渋民公園」旅の日・2018年6月30日書名・「一握の砂」著者・石川啄木発行・「石川啄木」石川啄木筑摩書房1992年発行この日の北上川。岩手山は山頂が雲に隠れてしまった。渋民...~やわらかに柳青める北上の~(岩手県渋谷村)

  • 悪霊島 (岡山県井原市)

    悪霊島 (岡山県井原市)

    金田一耕助さんが大活躍する映画は多いが、「KADOKAWA映画」が特によく知られている。「獄門島」は、笠岡沖がモデルで映画も笠岡沖の六島で行われた。大原麗子が六島に来た。似たような題名で、「悪霊島」がある。鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい!「悪霊島」は、鷲羽山沖がモデルで、主役は鹿賀丈史(金田一耕助)。笠岡市西ノ浜を歩くシーンが映画に登場する。小説でも映画でも、重要な役目で神楽の一行が登場する。作者・横溝正史は、備中神楽のことをよく調べて物語に組み込んでいる。旅の場所・岡山県井原市青野町「葡萄浪漫大神楽」旅の日・2024.4.14書名・「悪霊島」著者・横溝正史発行・角川文庫昭和56年「悪霊島」横溝正史角川文庫昭和56年発行第十一章神楽太夫このへんの神楽はいつか三津木五郎もいっていたとおり、備中神楽とよばれてい...悪霊島(岡山県井原市)

  • てんやわんや (愛媛県宇和島市岩松)

    てんやわんや (愛媛県宇和島市岩松)

    獅子文六の小説「てんやわんや」を読んでいたら、物語のモデルと言われる岩松町に行きたくなった。小説では、宇和島から岩松までバスで約2時間。現代では、40~50分もあれば行けるだろうと、思っていたが・・・ナント!20分もかからなかった。高速道路がトンネルを抜けると、すぐに岩松に着いた。これにはびっくりした。岩松の街は、岩松川沿いに静かにたたずむ南予の落ちついた町並みだった。昨年(令和5年12月15日)、岩松は”重伝建”に指定されたそうだ。おめでたいことだ。旅の場所・愛媛県宇和島市津島町岩松旅の日・2009.10.11書名・「てんやわんや」著者・獅子文六発行・新潮文庫昭和26年私は決心した。東京は危険な都会というべきである。薄暮、焼跡の場所で、突然真に突然、女から求婚されて、自若たる男性があったら、それは野蛮人...てんやわんや(愛媛県宇和島市岩松)

  • 高瀬舟 (京都市知恩院)

    高瀬舟 (京都市知恩院)

    いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人ひとりで乗った。有名な森鴎外の、有名な「高瀬舟」の、有名な名文・美文のところ。特に、”智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに”、の文章が好きで。(誰でもそうだろうが)いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。桜の季節になると、この文章を思い出し知恩院の桜、入相の鐘。それ...高瀬舟(京都市知恩院)

  • 梅干しを食べる

    梅干しを食べる

    梅干しは、もっとも身近な「食べ物」だった。おやつとして、竹の皮に挟んで吸う。その後で食べる。弁当として、弁当箱の真ん中にあるもの。握り飯に入れるもの。晩飯の食卓の中央に置いて、誰でも箸が届く、家族共通のおかず兼食後のお茶の友。今、「握り飯」はコンビニの代表食品であるが、梅干しには種がないようだ。ごま塩で握ってなく、海苔がついている。海苔は自分で巻いて食べる、新技法でおもしろい。「江戸の町くらし図鑑」江戸人文研究会廣済堂2018年発行梅干し梅干しは昔から身体によいとされてきた食品のひとつです。お弁当に梅干しを入れるのは、黄色ブドウ球菌、0-157の増殖を抑制するからです。梅干しを食べると元気になるのは、クエン酸の効果で、疲れの原因となる乳酸の発生を抑えるからです。疲労物質の乳酸はガンを増殖させる物質でもあり...梅干しを食べる

  • 豆腐を食べる

    豆腐を食べる

    「アゲにおとーふ」と言いながら、豆腐売りが茂平の家々をまわっていた。豆腐を買う家は、笊を持って道べりまで出て買う。お金か、または大豆と交換していた。すぐ近所に何故か「豆腐屋」と呼ばれる家があった。父に聞くと、昔は豆腐を作っていたので「豆腐屋」と呼んでいる、と話していた。農家にとって、豆腐汁とか、豆腐の入った料理はご馳走だった。「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」岡山県昭和58年発行豆腐煮た大豆を碾臼で挽き、それを豆腐袋にいれて絞ると、豆乳とオカラに分かれる。豆乳を豆腐箱・豆腐袋に入れて汁で固めると豆腐ができる。苦汁も自家製で、塩を甕の上において、塩からたれ落ち苦汁を使った。豆腐は大豆を収穫して、晩秋から節季にかけてたびたび作った。秋祭り・八日待ち・正月・旧二月一日や三月節供、あるいは葬式などでは必ずといっていいほど...豆腐を食べる

  • 里芋

    里芋

    古代の主食だった「さと芋」は、どこの農家にも植えていた。どの道ばたからもサトイモの葉がよく見えていた。実を小さく切って、煮たものが食卓にのっていた。美味くも、不味くもない野菜だった。雨の翌朝は、葉っぱにできた大きな水たまり(水滴)が、ころころ動いたり、落ちたりするのが楽しかった。「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行さといもいねよりも古くから主食にされてきた野菜。さといもは、アフリカやオセアニアで主食となっている「たろいも」と同じ仲間です。日本へは中国を経由して伝わりました。縄文時代にはすでに食べられていて、いねよりも前から人々の主食だったと言われています。山に生えているやまいもに対して、人里で育てたのでさといもとよばれるようになりました。はじめに種いもを植えつけると、その上に「親いも」ができ、...里芋

  • 蜜柑(みかん)

    蜜柑(みかん)

    昭和35.36年頃の雑誌の写真記事に、人気絶頂の双子の歌手「こまどり姉妹」が炬燵に入って温州ミカンを食べていた。芸能人とか、お金持ちは、テレビを見ながらミカンを食べるんだな。うらやましいな、と思った。我が家にテレビはなかった。ミカンもなかった。日本経済は世界を驚かす成長が始まろうとしていた。国も農協や家の光やメディアを使い農家に、ミカンを奨励した。その頃、父母は山の段々畑にミカンを植えていった。笠岡湾の海に面し、笠岡湾には打瀬船や旅客船や貨物船が♪黒い煙を吐きながら・・・行き来していた。それは美しい風景だった。父母のミカン畑は茂平では多い方だった。いちばん本数が多かったかもしれない。だが、芸予諸島や愛媛のミカン畑とは、とても比較できない零細規模だった。父母は儲ける果物として植えたミカンだったが、実が成り出...蜜柑(みかん)

  • 姫井繁次

    姫井繁次

    場所・岡山県倉敷市茶屋町今では信じられないだろうが、家で飲む水も、工場で使う水も、昭和30年代は井戸水を使っていた。ところが井戸を掘っても、水量が少ない地域や、塩分が多くて飲めない地域も多くあった。水汲み仕事は大変だが、塩分の多い地域は、それに加え水を溜める仕事があった。都窪郡茶屋町は児島湾の新田で、塩辛い水しか湧かなかった。姫井繁次町長は水道を敷設すること、高梁川の水をつかうこと、それを大正時代に提唱し、実現させた町長さん。英傑町長だと思う。・・・記念碑本町は元来干拓地で適当な飲料水がないため町民は砂ごしの川水天水を用い後には井戸を掘ったり担い水を買いなどして飲料としたが飲料水確保の根本的な解決とならず、伝染病やジストマ患者が続出し町民の日常生活の不安は年とともに深刻になったのである大正中期姫井繁次氏は...姫井繁次

  • 2024年の桜・総集編

    2024年の桜・総集編

    今年の桜は、開花が一時停滞したので長期間に渡って花見が楽しめた。およそ100ヶ所の桜を、記録と備忘のため編集しページにした。2024年の花見・総集編作成日2024.4.13(kasaoka.sub.jp)(笠岡市「十一番町緑道公園」の桜)2024年の桜・総集編

  • 福山城の桜

    福山城の桜

    行った日・2024年4月10日場所・広島県福山市天気に誘われて、福山と笠岡の桜を観て回った。そのうち広島県の桜名所である「福山城」は特にきれいだった。桜はやはり、天気が必要だなと思った。福山市を代表する高層建築物。左から「アイネス福山」「アルファゲートタワー」「福山城」、いちばん高い建築物は?・・・「アイネス福山」のようだ。高さ101m。福山城の桜

  • 桜渓塾跡の桜

    桜渓塾跡の桜

    場所・岡山県井原市芳井町簗瀬「桜渓塾跡公園」訪問日・2024年4月7日嘉永6年(1853年)に創立された、「興譲館」は、現在全国屈指の歴史を誇る高校であり、女子マラソンの強豪としても知られている。初代館長となった漢学者の阪谷朗廬は、それ以前、ここ”桜渓塾”で塾長を行っていた、桜渓塾(おうけいじゅく)嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が伯父山鳴大年、岳父山成直蔵の協力によって簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、青少年の人材育成のため大いに尽くしました。桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出し...桜渓塾跡の桜

  • スネコスリの井領堂

    スネコスリの井領堂

    場所・岡山県井原市七日市町訪問日・2024年4月7日岡山県を代表する桜の名所のひとつ、「井原堤」(いばらづつみ)。その井原堤から西へ進むと井領堂がある。(井原堤)江戸時代にはこの辺り、「スネコスリ」というお化けが出て街道を通行する旅人を困らせそうだ。「ふるさと探訪出部の史跡」いずえ地区まちおこし協議会平成30年発行いろんどう井領堂(大師堂)井領堂は、旧山陽道沿いの七日市町西の字井領(現アクティブライフ井原東側)に建てられた辻堂で、写真右側に「南無阿弥陀佛」と彫られた名号碑に「宝暦十一年(1761)己天三月吉祥日施主藤代幸左衛門」と刻されており、江戸時代の中頃には建立されていたことがわかる。当時の井領堂は田の脇の寂しい所で、夜には「スネコスリ」という犬の形をした化け物が出て、通行人のすねをこすると、とたんに...スネコスリの井領堂

  • 神護寺本堂の桜

    神護寺本堂の桜

    場所・岡山県笠岡市甲弩「神護寺」訪問日・2024年4月6日江戸時代後期以降の建築物は、笠岡ふきんでも、珍しくないが江戸時代中期・前期となると滅多にしか見ることが出来ない。まして、ここ神護寺の本堂は戦国時代の建造物。本堂の前に立つと、風雪に450年耐えて、神々しくさえ感じる。岡山県指定建造物神護寺本堂神護寺はもと神宮寺と呼ばれ、甲怒(弩)神社の別当寺として創建されたと考えられるが、その時期は明らかでない。室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得ていて、現本堂が永禄11年(1568)10月に、小田高清を大檀那として建立されたことを証する銘文が棟木に墨書されている。また寺内に、天正3年(1575)8月18日死去した高清の位牌が祀られている。戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。さらに本堂には棟札二枚があり、その一枚は天...神護寺本堂の桜

  • 頼山陽像

    頼山陽像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」川中島鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過わたる曉に見る千兵の大牙を擁するを遺恨なり十年一剣を磨き流星光底(りゅうせいこうてい)長蛇を逸す頼山陽の”川中島”は小学生の時に知っていた。漫画で知った。「赤胴鈴之助」で知った。赤胴鈴之助の師匠、お玉が池の「千葉道場」の千葉周作が吟じていた。〽べんせいしゅくしゅく千光寺公園のポンポン岩の前に銅像と説明看板がある。それを記す。頓山陽広島県竹原市の人、「日本外史」「日政記」などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。磐石坐す可く松拠る可し松翠缺くる処海光露わる六年重ねて来たる千光寺山紫水明指顏に在り萬瓦半ば...頼山陽像

  • 田能村竹田像

    田能村竹田像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」田能村竹田先生は、滝廉太郎や広瀬中佐で有名な九州竹田の人。岡藩の藩医で画家。尾道と、どういう関係があるのかは不明。・・・(Wikipedia)田能村竹田たのむらちくでん田能村竹田は、江戸時代後期の南画家。幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜。通称は行蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。生年月日1777年7月14日死亡日1835年10月20日・・・文化庁「文化遺産オンライン」田能村竹田は岡藩々医田能村碵庵の次男であつて、兄の跡を継いで藩医を勤め、又藩学由学館の司業となり豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂に預つて功があつた。職を退いてからは、専ら詩画等の研鑚に心を潜...田能村竹田像

  • 妹尾正雄像

    妹尾正雄像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」千光寺公園の美術館下、三春滝桜の近くに銅像が建っている。画家のようだ。「妹尾正雄像」であり、像にその人の説明が書かれてあった。それを転記する。「妹尾正雄像」美術教育に打ち込むかたわら風景を題材にする油画を描き続け独自の境地をきりひらいた1912年12月20日福山市御幸町に生まれる1933年広島県師範学校卒1934年独立美術協会展初入選・尾道美術協会創設に関わる1949年広島県美術展創設に関わり審査員となる1953年広島県高等学校美術研究会を創設し20年間理事長1955年独立美術協会会員1992年広島文化賞・独立美術協会功労賞受賞1994年紺綬褒章1996年7月14日西久保町の自宅にて死去撮影日・2024年4月1日妹尾正雄像

  • 日本三大桜を見に千光寺公園に行く

    日本三大桜を見に千光寺公園に行く

    行った日・2024年4月1日行った所・広島県尾道市西土堂「千光寺公園」去年、(倉敷市)児島に日本三大桜を見に行った。たいへん綺麗だった。その後、何も児島まで行かなくても千光寺山に行けば、そこに三大桜があることを知った。それで、今年は三大桜を見に千光寺公園に行こうと思っていた。本当のことを言えば、満開の花見に生きたかった。けれども、開花が進まず(開花予報もハズレ)やむなく日本三大桜に変更した。尾道市立美術館の北側の下、そこに「三春滝桜」。「神代桜」は見つからなかった。ココ☟にあるはずだけど、なかった。観光ガイドさんに聞いてもわからなかった。「根尾谷薄墨桜」、尾道山荘の前。気品のある美しさだった。本日は全国的に快晴。雲一つない、いい天気だった。日本桜100選「千光寺の桜」、が満開でなく、咲き始めということだけ...日本三大桜を見に千光寺公園に行く

  • 昆虫を食べる

    昆虫を食べる

    昆虫を食べたことはないが、年上の人は戦時中にバッタを「捕っていた」というようなことを言っていた。母の話だと、茂平は農村なのでバッタを食べるほどの食糧難ではなかった。飢えて食べたのか、害虫を取るのが子供の努めだったのか、学校か役場に供出したのかは不明。下記↓に出ているうち、タニシは美味かった。カエルのうち食用ガエルは飛び切り美味かった。いまでも、その美味を思い出すほど美味かった。「日本の風土食探訪市川健夫白水社2003年発行動物性食品としての昆虫現代日本人の多くは昆虫食と聞くだけで、「悪食」とか、「如何物」だと思っている。しかしかつて虫は貴重な動物性蛋白源であった。世界的にみても、東南アジアの山岳地帯、メラネシアのニューギニア、アフリカなど焼畑耕作を営む発展途上国では、昆虫が常食になっている。特に焼畑耕作の...昆虫を食べる

  • 間食・副食

    間食・副食

    間食と副食の区分がよくわからないが、主食の補助としてみるとイモ、それも「ふかし芋」がまっさきに思い浮かぶ。「ふかし芋」はいつも戸棚にあったので、つまんで食べていた。たまに「おやき」をした。「はったい粉」も粉に水か湯をいれて簡単にでき、よく食べていたが、甘みがなくサッカリンをいれた。稀に砂糖をいれた「はったい粉」は、それはそれは美味かった。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行間食店で売っているお菓子といえば、煎餅やこんぺい糖飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。一般的なおやつは、大豆やソラ豆をコウラ(ほうろく)で煎ったもの、氷餅を焼いたり、あられを煎ったものであった。氷餅は正月餅と一緒にまたは寒の内に餅を搗き、のし餅に...間食・副食

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