chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
フォロー
住所
岡山県
出身
未設定
ブログ村参加

2014/12/11

arrow_drop_down
  • 相方城の城門(現存する関ケ原以前の三城門)

    場所・広島県福山市新市町戸出「素盞嗚神社」訪問日・2023.11.29(相方城城門・西門)何年か前から”現存12天守”といった言葉ができたが、天守閣といっても弘前城や丸亀城は「御三階櫓」と呼ばれていたし、備中松山城に至っては櫓よりも小さく、大きな古民家といった感じ。天守閣や櫓と比べて地味な城門だが、広島県の芦田川の絶壁上に築かれた佐方城には、石垣の遺構が残り、城門は移されて残っている。昨日、イチョウを見に喧嘩祭で知られた「素盞嗚神社」に行き、併せて城門を見学してきた。相方城城門は関ケ原以前の城門では、日本に三つしか残らないうちの二つの城門であるそうだ。(相方城城門・西門)相方城城門当神社境内には、相方城の城門二棟と櫓一棟が伝えられている。櫓は、一九七〇年代に火災により消失した。城門二棟のうち、比較的保存状...相方城の城門(現存する関ケ原以前の三城門)

  • 御堂筋にWパレードを見に行った 2023.11.23

    7年前、広島の平和大通りに「広島カープ」の優勝パレードを見に行った。その日は快晴で、びっしり沿道を埋めたファンの熱気が楽しかった。それで、もう一度プロ野球の優勝パレードを見に行きたいものだと思っていた。(オリックス1号車のラ王)(オリックス1号車の、首位打者頓宮。備前市伊部のお隣さん山本由伸投手は欠席で残念)今年はオリックスと阪神のパレードがあると、兵庫県と大阪府から発表があったので、即(天気さえよければ)見に行こうと決めた。(オリックス2号車)(オリックス3号車)2023年11月23日の御堂筋の優勝パレードは天気にも恵まれ、風なく、温暖。名物の銀杏並木は紅葉真っ盛り。・・・(阪神1号車)御堂筋が真っ盛りなのはイチョウだけでなく、オリックスと阪神ファンの人の波もそうだった。人、人、人、・・・・・・。パレー...御堂筋にWパレードを見に行った2023.11.23

  • 新幹線のワゴン車

    無くなったもの・新幹線のワゴン車販売(但しJR東海の東海道新幹線「のぞみ」「ひかり」に限定)無くなった日時・2023年10月31日。撮影日・2023年11月23日(みずほ・岡山駅~新神戸駅間)岡山駅から新大阪根に、新幹線「みずほ」に乗っていたら後方からワゴン車が来た。あれ?新幹線のワゴン車販売は既に無くなったんではなかったかな?と思っていたら、前方の席の人が何か飲み物のようなものを買ってスマートホンで支払っている。家に帰って調べると、全ての新幹線でなく、JR東海の東海道新幹線「のぞみ」「ひかり」に限定だった。逆にいえば、ワゴン車販売を続けているのは、新幹線でも山陽・東北・上越・北陸などの一部の列車だけだそうで、北海道、九州ではすでに車内販売をやめている。20年ほど前は、ワゴン車が前から来るか、後ろから来る...新幹線のワゴン車

  • 松永のゲタリンピック

    場所・広島県福山市松永町無くなった日時・2019年9月15日(中止決定は2023.11.10)撮影日・2019年9月15日コロナで中断していた松永のゲタリンピックが、コロナが落ち着いた今年も開催されなかった。そして2023年11月10日、イベント自体の中止が発表された。中国新聞によると理由は経費節減で、「約30年の歴史に幕」だそうだ。お祭りはJR松永駅を降りると、すぐ目の前からはじまっていた。松永地区の高校生と福山大学の学生が主役のような感じで、若々しく楽しいイベントだった。お祭りが無くなるのは寂しいけれど、考えてみると「下駄」も「ぽっくり」も履く人を見ないし、松永湾名物・名所だった貯木場もすっかり縮小の様子になってしまった。松永のゲタリンピック

  • 笠岡でよお見る図柄ナンバープレート

    ご当地ナンバーとか、図柄ナンバーとか呼ばれている、デザイン付きのきれいなプレートナンバーを町中でよく見る。・・・笠岡では、下記の三つを特によく見る。カブトガニのカブニくん(笠岡市HPより)車でなく、単車のプレート。広島カープのカープ坊や(福山市HPより)福山や備後地区でなく、広島県全域のプレートだそうだ。鶴形山の「阿知の藤」、と思っていたが、それは間違い日本全国の花そういうことで、倉敷地域が対象でなく、北海道から沖縄まで日本全国が対象。・・・・・・・料金無地のプレートに比べ、(福山市の場合)車の前後2枚分で8.620円。それにプラス地方行政への寄付金が1.000円以上必要となる。・・・・・・・ところで、昨日福山市神辺町を運転していたら、前の車が今まで見たことのないナンバープレートをしていた。(番号は加工し...笠岡でよお見る図柄ナンバープレート

  • まごころの湯

    場所・広島県福山市千田町無くなった日時・2023年8月31日撮影日・2015年12月17日2023年11月8日、神辺の城跡と宿場町を歩き、程よく疲れたので「グランの湯」に行くと運悪く閉店日だった。(11月は8.9日が休日)それでは、と、まっさきに浮かんだのが千田の「まごころの湯」だったが、おお、そうだ、「まごころの湯」は2ヶ月前に閉店したんだ。「まごころの湯」は国道沿いにあり、料金も普通で、便利な温浴施設だった。2015年頃、大衆芝居も興行する「夢の湯」から、芝居を止めて「まごころの湯」で開業した。あらから8年ほどで今回の閉店となってしまった。・・・・「まごころの湯」から3~4km圏内に、「蔵王温泉ヘルス共和国Z」「西光寺温泉」「グランの湯」と計4つの湯があったが、残るのは「グランの湯」だけになった。まごころの湯

  • 醤油屋さんの倉庫

    場所・岡山県笠岡市吉田無くなった日・2023年11月初め撮影日・2014.6.14「醤油屋さんの倉庫」と呼ばれていた倉庫が、今月突然のように消えていた。すぐ前を旧・井笠鉄道が通り、その線路跡は現在県道笠岡・美星線となり、日常よく通っていた。存在感のある倉庫だった。「醤油屋さんの倉庫」は映画にも登場している。大映映画「花の講道館」で、当時日本一の美人と言われた山本富士子が、汽車で東京へ旅立つ長谷川一夫を泣きながら見送る娘役だった。この付近を山本富士子が歩き、山本富士子と、「醤油屋さんの倉庫」と、蒸気機関車が映画に登場している。吉田の名所がまた一つ消えた。醤油屋さんの倉庫

  • デパートの屋上遊園地

    福山の天満屋が、木造から白い四階建ての近代ビルに替わり「スワン」と呼ばれた。その屋上には福山駅からも、屋上に何か遊具のような、楽しそうな施設が見えていた。しかし農村育ちの管理人にとっては、遊具と言えば学校にあるブランコやギッタンバッタンしか知らなかったし、使ったこともなかった。とても天満屋の屋上で遊ぶという発想も願いもなかった。高校卒業の春、福山市の高校へ通う友と福山に遊びに行くと、”いつも普通”といった感じで、天満屋の屋上に行った。友は食堂に入り「オムライス」を注文した。その時、自分も真似をして「オムライス」と言った。それが生まれて初めて食べる「オムライス」だった。食堂のガラス窓から、すぐ前にメリーゴーランドなどが見えていた。・・・・当時全国の百貨店の、ほぼすべてに屋上遊園地はあったと思える。今は減って...デパートの屋上遊園地

  • 機関士

    城見小学生の時は、交通事故=踏切事故で、(つまり自動車事故はなかった。車がないので)校長先生の校庭での全員朝礼でも、ほぼ毎回踏切注意を言っていたような気がする。茂平の子どもは学校へ行くときと、帰るときと、最低でも二度踏切をわたる。当然のことだが、踏切小屋も遮断機も信号も、何もない。勿論のことだが、父兄や緑のおばさんのような大人の付き添いもない。踏切を待っていると、巨大な機関車が轟音と蒸気と煙を吐いて通るのは怖いほどだった。母もたまに「アメリカ屋の前の踏切を渡るのは気をつけにゃあいけん」と経験談を言っていた。その怖い踏切では、機関車の機関手と機関助手が見えた。凄いスピードで通り過ぎるが、近いので顔が見えた。機関手も機関助手も顔から汗が噴き出ていた。機関助手は、前と後ろに顔がピストンしていた。後ろを向いてスコ...機関士

  • 紙芝居屋

    茂平の観音堂の前に、紙芝居のおじさんが来ていた。料金は5円か10円だった。お金をわたすと棒がついた飴玉をくれた。それをねぶりなら、おじさんが話す紙芝居を見ていた。見物人は10人前後で、繁盛している様子はなかった。紙芝居は、物語の途中で終わり「つづきは次に来たときに」で終わりだった。紙芝居のおじさんは、話し方がとても上手で、特に顔の表情がおもしろかった。紙芝居よりも、おじさんの顔を見ている方がおもしろかった。紙芝居屋さんは特に興味もないし、見てみたい気もなかった。たぶん、代金が安いので親が金をくれたのだろう。興味がないと言うのは、「紙芝居」は小学生が見るものではない、と自分では思っていた。あれは、小学生になる前の園児や幼児が見るものと思っていた。実際、保育園では先生(保母さん)のする紙芝居は大きな楽しみだっ...紙芝居屋

  • 屋根の葺替

    小学校の一年生の時だったと思うが、屋根の葺き替えをした。近所の大人たちが来て、10人くらい、屋根に上って古い藁を取りはずした。その時は家の中から、青い空が見えた。すぐに、その個所に新しい藁を差し込んだ。大人たちの顔は古い藁の煤やほこりがついて、墨を服や手や顔だけでなく鼻の穴や、耳の穴まで塗ったように黒くなっていた。・・・(父の話)2003・5・18小麦藁を屋根にしとった。小麦でなきゃあつかえなんだ。細いし大けい。・・・家では、ご飯(麦飯)ように裸麦が多く、小麦はあまり作ってなかった。小麦粉やお菓子やパンやうどんとトリカエで使用する程度だった。従って小麦の藁は大事にして、屋根裏に保管していた。言ってみれば、麦藁のために小麦を作り、食用は副産物的だったのかもしれない。・・・「矢掛町史・民俗編」矢掛町昭和55年...屋根の葺替

  • 元帥閣下の忠魂碑

    忠魂碑は、明治・大正・昭和に全国の市町村に建立された。とは言え、その多くは昭和元年~昭和17.18年頃に集中している。そして揮毫者は?と言えば、そのほぼすべてが軍人で、地位が大将または中将だった人。市町村の在郷軍人会の役員が、そのコネなどで将官に依頼したものと思われる。今日散歩中に忠魂碑を見ると、揮毫者が”元帥”の忠魂碑があった。大日本帝国の軍人の位には、大元帥、元帥、大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、の将校がいたが、一般的には大将が最高位。元帥は、歴史の教科書に載るほど有名な人物。と思っていたが、よくみると「元帥陸軍大将正二位勲一等功一級伯爵奥保鞏」家に帰ってパソコンで見ると、(Wikipedia)奥保鞏(おくやすかた)弘化3年11月19日(1847年1月5日)~昭和5年(1930年...元帥閣下の忠魂碑

  • 蛇捕り師・蛙捕り師・その他

    祖父は近所ではちょっと知られた、ハミの生の血を吸い込む名人だった。畑でハミ(まむし)を見つけると、殺して皮をむいて、血を吸っていたそうだ。その事を、母はよく話していたが、自分の同級生にも現場を見た人がいて話のタネになっていたみたいだ。祖父が血を吸った後は、家に持って帰り、父が串刺しにして干して、骨を粉にして飲んでいた。貴重な栄養源か健康源ではあったが、よその村からハミを捕りにきていた人はいなかった。(と思う)・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行蛇捕り師昭和初期、まだ結核が不治の病であった時は、蛇の生薬は貴重な薬剤で、薬屋に行けば、漢方薬としてマムシの干したものをガラス箱に入れて売っていた。マムシは焼酎につけて、鱗、皮を剥いで、天日に干して乾かす。それを粉砕して薬にする。強壮剤以外にも、肋...蛇捕り師・蛙捕り師・その他

  • Fly Over KASAOKA 2023「空のガーデン」を見に行く 2023.10.29

    場所・岡山県笠岡市カブト南町「笠岡ふれあい空港」今年も世界トップクラスのエアロバティックスパイロット室屋義秀選手が笠岡に着てくださった。室屋選手は天気快晴の、笠岡ふれあい空港の上空を何度も曲芸飛行をして、見せてくださった。ありがとう室屋義秀選手。FlyOverKASAOKA2023「空のガーデン」を見に行く2023.10.29

  • 「セルフレジ記念日」

    初めてのセルフレジペンと封筒を買いに100円ショップに行った。ついでにメモ用紙も買物篭に入れて清算口に行くと、そこにレジ嬢はいなかった。よく見ると、どの客もバーコードを読み取っていた。それで自分もバーコード処理をゆっくりとした。もっとも買物は100円*3点なので、すぐに終わった。330円支払って店を出た。無事に初めてのセルフレジは終わった。2023年10月28日は、俵万智さん風に言えば「セルフレジ記念日」となった。(ダイソー笠岡店)「セルフレジ記念日」

  • オール白石島ロケ映画『リゾートバイト』を見に行く

    重松清原作の『とんび』という映画は、岡山県内でのロケが多くテレビや新聞でロケ風景が紹介された。映画ロケの状況やロケ地が、映画の撮影中や、映画公開前、公開後も報道された。それは1年前のこと。ところが今年の『リゾートバイト』という映画は、オール岡山県内ロケだったが、いっさい報道されることはなかった。映画公開間近になって、はじめて笠岡市でロケしたことを知った。しかもオール笠岡市で、それもオール白石島。テレビの夕方の地方ニュースや、山陽新聞、中国新聞でも報道がなかった。では、いっさい岡山県や笠岡市の行政がかかわっていないのか・・・と言うと、そうではない。映画の冒頭シーンで、しっかりというか、抜け目なくというか、ちゃんと伊原木隆太岡山県知事が、白石島の信心深い農夫に扮して出演している。どうせなら、出演依頼は知事でな...オール白石島ロケ映画『リゾートバイト』を見に行く

  • 正寿場町の商家

    岡山県笠岡市笠岡・正寿場町撮影日・2023年10月26日正寿場町は古い家並みが残り、町歩きが味わい深い。お堂や祠が路地の傍に建っている。↑↓その正寿場の、県道沿いに残る古い商家が解体される。正面は健在だが、↑裏にまわると半分解体済↓。笠岡の古い建物がまたひとつ消えていく。正寿場町の商家

  • 古城昌治先生像

    場所・岡山県井原市井原町向町(母方の)祖父は農作業中にハミ(まむし)に噛まれ、「すぐに中央病院に行ったので助かった」と母がよく話していた。母にとって実父の命の恩人であり、管理人にとっても祖父の命の恩人でもある。それが井原の井原中央病院。2014年に井原中央病院は廃業になった。・・・・・・Web「井原歴史館」こじょうしょうじ古城昌治年代1884-1943(近代)活躍分野医師古城昌治は、小田郡小林村(現在の小田郡矢掛町小林)で生まれた。医師を志し東京に行き、日本医学(現在の日本医科大学)で開業医の資格を得て帰郷し井原で開業した。また、医師をしながら郡会議員、井原町長を務め、井原高等女学校(現在の井原高校)の運営や井原実業学校(現在の精研高校)の設立に尽力した。・・・撮影日・2015.9.2古城昌治先生像

  • 鍛冶屋

    学校の音楽時間に習う『村の鍛冶屋』〽暫時(しばし)も休まず槌打つ響飛び散る火花よはしる湯玉ふゐごの風さへ息をもつがず仕事に精出す村のかじ屋城見では大冝に「村の鍛冶屋」があった。同級生のTくんのお父さんが鍛冶屋をしていた。だからTくんのことを「鍛冶屋のTくん」と呼んでいた。自宅の作業場は小道からも丸見えで、Tくんのお父さんは「飛び散る火花」で「湯玉」の顔、歌とまったく同じ、いつも「仕事に精出す村のかじ屋」だった。(金光町史)・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行鍛冶屋昭和20年までは、どの村でも鍛冶屋が見られた。野鍛冶の場合、農業で使う馬の足にはめる蹄鉄を作ったり、農具の修理もした。刃先が欠けると、鍛冶屋はふいごの火で真っ赤に焼いて小槌で打ってもとに戻した。農業の衰退とともに野鍛冶の仕事は...鍛冶屋

  • 富山の薬売り

    遊んでいると、行李を風呂敷で包み、背負って歩く薬売りが通りすぎる。薬売りは家々を一軒づつ訪ねては、薬の補充や相談、金銭の授受を行っていた。薬売りを見ると、無性に「紙風船」が欲しくなる。家に帰ると、母が薬売りと話していて、それを見ていると・・・見ているのでなく、風船を催促している・・・風船をくれる。それが嬉しい。紙風船を持って飛ばして遊ぶ。しかし、男の子が風船を飛ばすのは二日と持たない。いわば、一日限りの紙風船の楽しみだった。・・・・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行富山の薬売り明治34年には富山市では8.000人近くが製薬と行商を行った。富山市の人口が約6万人の時代である。行商人は手甲脚絆の姿で年に1回か2回、薬品を行李に入れて、紺色の大風呂敷に包み、背負って売って歩いた。服用された薬...富山の薬売り

  • 「少年」「少女」

    少年少女雑誌は多かった。その頃、日本中に子どもが多かった。町も田舎も、どこを向いても子どもがいた。お金をだしてお遊ぶことは限られ、漫画雑誌の場合、年に何冊か買ってもらうのが大方だった。買った本は、何度も何度も繰り返して読む。1年間でも2年間でも。近所の子の家に行けば、そこに漫画雑誌がころがっている。それを読む、何回も読む。・・・漫画の本は大門駅前の小さな雑貨店まで買いに行っていた。その時というか、買いに行く道中は、嬉しかったし楽しかった。買って帰ると近所の子達が待っていて、皆で読んだ。「皆で読む」というのは、本誌が一冊あり、付録が5~6冊あった。だから同時に数人が買って帰ったばかりの新しい本を順番に回し読みをすることができた。たぶん、どこの村でも同じようにしたと思う。・・・・小学生当時は↓の漫画雑誌があっ...「少年」「少女」

  • 「小学〇年生」

    家から城見小学校まで1.5kmくらい距離があった。朝の通学には、およそ1時間くらいかかり、午後の下校には1時間20~30分かかっていた。つまり、学校には行きも帰りも、遊び遊びだった。下校は時間に制約がないので、途中の同級生の家の庭や縁側(えんだ)で遊んで帰っていた。そのうち優等生Aくんの家には「小学〇年生」の本があった。茂平の子どもの家、上級生や下級生、男の子や女の子の家でも、小学館の学習雑誌「小学●年生」はみたことがない。茂平では唯一の学習雑誌がAくんの家にあった。Aくんの家で読む「小学〇年生」は新鮮な感じがした。その訳は、まわりの家には少年・少女の漫画雑誌があふれていて、表紙と最初のグラビアページ以外は漫画一色だった。ところが「小学〇年生」には漫画のページが少なかった。その漫画も、真面目なストーリーで...「小学〇年生」

  • ノーパン喫茶

    昭和57年頃、福島県いわき市に住んでいた。その頃、雑誌や「週刊実話」等で”ノーパン喫茶”の流行が話題になっていた。ある日のこと、同僚と二人で外出中、時間調整(さぼり)で喫茶店に入ることにした。せっかくだから(?)、「話題のノーパン喫茶にはいろう」ということになった。お店に入ると、店内にはスタッフ(女の子)が5~6人、水着のような服装で立っていた。イスに座ると、そのうちの女性一人が水とメニューをもって注文をとりにくる。コーヒーを注文し、コーヒーを飲んで、店を出る。つまり、普通の喫茶店と同じで、違うのは女の子が露出していることと、コーヒーの値段が、純喫茶より少し高かった。それだけ。それだけと思ってしまったのは、コーヒーを飲みに喫茶店にはいったのか?ノーパン嬢を見るのが目的ではいったのか?そこが中途半端だった。...ノーパン喫茶

  • ダッコちゃん

    ダッコちゃんは日本中を席巻したことは間違いない。対象者は、10代後半の若い女性。対象地域は、大都会。全国展開したが、全国に普及した頃、突然のように消えてしまった。当時、家にテレビはなかったが、映画ニュースや雑誌のグラビアで、銀座を歩く女性のほとんどが片方の腕にダッコちゃんをつけて歩いているのを知っていた。その当時、茂平にも乗り合いバスが来るようになって1~2年経っていた。バスを待つ女性がダッコちゃんを腕につけていたが、場違いのような違和感を感じた。その理由は、既に東京の銀座では誰一人ダッコちゃんをもっている女性はいないと感じていたから。でも、それが、1960年の大流行ダッコちゃんを、この目で見た唯一のこととなった。・・・・・・「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行ダッコちゃん196...ダッコちゃん

  • 炭焼き(すみやき)

    父は学校を出た時分に、山の畑で「炭を作ってみたが、いいのはできなんだ」と話していた。たぶん、中国地方では「たたら製鉄」に必要な木炭作りのプロが、その技術を生かして「たたら製鉄後」の仕事に従事したのではないだろうか。家では木炭を「ケシズミ」と「カタズミ」と分けていて、お金で買った「カタズミ」は客がある時、火鉢に使うくらいで、大切に利用していた。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行炭焼き(すみやき)明治の中期以降、道路など交通網が整備され、炭の都市への販売が可能になった。木炭は薪に比べて、火が安定し、長持ちで、空気によって湿度を調整できるという利点があった。炭焼きを行うには、まず谷間に窯を作り、原木を伐採する。これを窯まで運搬し、大きさがばらばらな材木を直角に切って、表面を磨き、適当な大き...炭焼き(すみやき)

  • 浜仲仕

    (横浜港の沖仲士をかっこよく演じたトニーの「錆びた鎖」)・・・荷積・荷降・集荷等の作業は21世紀の今でも、人の手で大半が行われている。貨物船の場合は、陸揚げのためには、艀(はしけ)を利用しないと積荷が陸に上がらなかった。貨物船と艀の荷積・荷降をする仕事が”沖仲士”。船と陸の荷積・荷降をするのが”仲士”。それに加えて”浜仲士”がいた。たぶん、浜仲士とは、沖仲士と仲士を兼ねた仕事だったのだろう。・・・浜仲士笠岡市郷土館県指定・有形民俗文化財・笠岡港の力石(笠岡市郷土館の力石)江戸時代から昭和初期にかけて、笠岡港は瀬戸内海における海運の重要な拠点として栄えていた。港で物資を船に積み込んだり、荷揚げしたりする者は浜中仕と呼ばれ、かなりの人数が笠岡港で働いていた。彼らは東浜組と西浜組の二つのグループに分かれており、...浜仲仕

  • 井戸平左衛門

    場所・岡山県笠岡市笠岡井戸平左衛門は、”芋代官様”と今も笠岡市民に敬われている。薩摩芋の栽培は飢饉を救い、さらに人口増に寄与した(招いた)。他にも、日本全国には多くの、”芋代官”や”芋大名”がいるのだろう。・・・代官井戸平左衛門の像石見国大森代官として赴任して、享保17年(1732)から約1年間、笠岡代官を兼務した。領民を飢饉から救うために、数々の善政を行った名代官として知られる。この胸像は昭和30年に製作。白セメント製で、かつて代官所があった笠岡小学校の校庭に建てられていたものである。・・・井戸公園の説明版井戸平左衛門正明第14代笠岡代官(1721)さつま芋の栽培を広げて飢饉の窮乏から救った代官として有名。享保18年5月(1722)幕府の許可を待たずに官庫の食糧を放出した責任をとって自刃、また病死とも伝...井戸平左衛門

  • 産婆さん

    茂平の同級生Aくんのお母さんが産婆をしていた。Aくんのお母さんは、しゃんとした人だったので、他に婦人会の会長や茂平婦人消防団の団長などもされていた。茂平の人は大人も子どもも、”産婆さん”と感謝を込めて呼んでいた。産婆さんが、どれほど忙しかったかというと管理人が生まれた時、茂平だけでも相前後してHくんとT子さんが生まれた。産婆さん自身がゼロ歳児を育てながらの産婆業で、しかもAくんの上にはお姉さんが二人いた。ついでに言えば、当然ながら合間には農業もしていた。城見小学校の同級生60余人、そのほぼすべてを産婆さんが取り上げた。産婆さんの年齢は、管理人がお世話になった当時30歳前と思われる。今から思えば、信じられない神業で、母も当時のことを「産婆さんほど忙しい人はおらなんだ」と、よく話していた。・・・「鴨方町史」産...産婆さん

  • 瓦師

    城見小学校の通学路は、橋本屋の前の踏切を渡るのが学校から指定されていたが、5.6年生になると、帰り道はアメリカ屋の前の踏切をわたって帰ることがあった。その訳は、アメリア屋寄りの瓦屋に遊びに行っていたから。瓦屋での遊びは、仕事の邪魔にならないようにラジオを聴いた。瓦屋は、仕事場にラジオを置いて相撲中継を流していた。それを小学生たちも、「今日も栃錦は勝つだろうか?若乃花は呼び戻しで勝つかな?」それは当時の、日本人の多くが注目するところだった。用之江の瓦屋は、すぐ近くの田んぼからの土を原料にして、従業員2~3人で毎日瓦造りをしていた。昭和30年、家を新築した時、瓦は四国の菊間から船で茂平の港に着いた。その時の光景は今もよく覚えている。では用之江の瓦屋の販路はどの方面だったのだろう?長く城見の工場では、用之江の瓦...瓦師

  • 古本屋

    労働せずに、大学生が小銭を手にしようと思ったら、普通三つの方法があった。質屋へ腕時計等を預ける。本を古本屋に売る。パチンコに行って儲ける。このうち、質屋は、学生は夏休み前の帰省旅費に当てるため。で頻度は少ない。パチンコ店は、儲けるつもりで店に行き、損して出る。そういう訳で、一般的には古本屋となる。古本屋は、二通りの利用法があり、二通りともよく利用していた。本を安く買いに行き、本を高く売りに行くところだった。窮屈な店内は、本棚が天井まで届き、お店に使用人はなく店主さん一人で賄っていた。古本屋には本屋で味わえないアカデミックな雰囲気があった。店内には、なんともいえない古本の臭いがしていた。本を探す楽しみは、本屋とは違っていて、見つけた本に興奮することもあった。記憶をたどれば、社会人になってからは、本屋には行く...古本屋

  • 重要無形文化財「備中神楽」を見に行く 2023.10.7

    場所・岡山県笠岡市小平井・春日神社日時・2023年10月7日午後7時~午後11時春日神社の秋季大祭宵宮に神楽が奉納される。コロナで中断され4年振りの開催。晩飯を食べてから、歩いて春日神社に行った。・・・猿田彦の舞。・・・国譲り両神の舞。大国主の命の舞。鬼退治。・・・大蛇(おろち)退治午後10時ごろ、大蛇退治が始まった。素戔嗚尊の舞。大蛇を退治した。「大蛇を退治して宝剣を得たり。この剣こそ姉上天皇天照大神にささげ奉らん。」太鼓「おてがらにて候。」・・・午後11時過ぎ、神楽は終わった。あっという間の4時間だった。重要無形文化財「備中神楽」を見に行く2023.10.7

  • 五流尊瀧院「大権現大祭」を見に行く 2023.10.5

    場所・岡山県倉敷市児島林・五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)日時・2023年10月5日(木)13:00~・・・「新修倉敷市史第八巻自然・風土・民俗」倉敷市1996年発行五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)寺伝では、大宝元年(701)役行者が伊豆に流された時、行者の高弟である五大弟子が熊野本宮(和歌山県)の御神体を捧持して来て、林に熊野十二権現を祭祀し始めたことによって五流尊瀧院は創建されたという。承久の乱により、後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王が備前児島に流されてきたと『吾妻鑑』にみえる。この頼仁親王およびその子孫によって五流尊瀧院を筆頭とする五流修験が再興されたようである。・・・山伏たちが法螺貝の音とともに三重塔まえの護摩壇へ向かう。・・・高梁川流域デジタルアーカイブ護摩供養「五流尊瀧院の採燈大護摩」は、毎...五流尊瀧院「大権現大祭」を見に行く2023.10.5

  • 役行者

    場所・岡山県倉敷市林五流尊瀧院役行者(えんのぎょうじゃ)は、役小角とも呼ばれ、山伏の祖とされる。修験道と古代の呪術師で各地に伝説が残る謎が多い人。7~8世紀に大和を中心に活動したようだ。「鴨方町史・民俗編」鴨方町昭和60年発行山伏山上様(行者様)山上様とは、本来、奈良県吉野郡にある大峯山系の山上ヶ岳を意味するものであるが、普通は、修験道の開宗といわれる役小角(えんのおずぬ)を指す。鴨方町あたりからもこの山上ヶ岳に登拝する風習が、江戸時代には存在した。また、町内の各地に役小角を祭って山上様と称し、山上様の祭られている堂を山上堂(行者堂)ともいった。町内には、山上講をいまも続けている地区もある。・・・・・・「新修倉敷市史第八巻自然・風土・民俗」倉敷市1996年発行修験の里山伏の宗教を修験道(しゅげんどう)とい...役行者

  • 禅海和尚

    場所・大分県中津市本耶馬渓町曽木青の洞門・・・大分県HP青の洞門/禅海和尚天下の名勝・耶馬溪にあって羅漢寺とともに四季を通じて訪れる人の絶えないところであるが、ここには時の流れを超えて後世に語り継がれる物語がある。「江戸で人をあやめた禅海が、諸国巡礼の途中、この地で鎖渡しの難所に苦しむ人々を見て隧路開さくを決意。風雪にも、嘲笑にも屈することなく、大岩盤に挑むこと30年、ついに洞門を完成させる」。大正8年、菊池寛が小説「恩讐の彼方に」のモチーフにも使った禅僧海の物語である・・・「恩讐の彼方に」中央公論菊池寛心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の...禅海和尚

  • 屋上ビアガーデン

    ビアガーデンは楽しいが、自分から行ったことはない。一人で行くところでなく、二人でも行くところではない。最低三人は要るような気がする。行くのは誘われたり、会の行事等で利用していた。利用がいちばん多いのは福山駅屋上サントークのビアガーデン。飲酒運転が厳しくなってからは、お酒を外で飲むは駅から近い店が条件となった。独身のころ、鹿児島市の宇宿町というところに住んでいた時、夏の夜は毎晩、ビアガーデンに行っていた。宿舎の近くにビアガーデンがあった。近くといっても歩く距離でなく、車で5分くらいの距離。3~4人で車で行って、車で戻っていた。当時はまだ宿舎に冷房というものがない時代で、ビールを飲まないと寝られなかった(←ほんと)。宇宿町にあるそのお店は、小さな三階建てのビルで、その屋上に小さなビアガーデンがあった。ビアガー...屋上ビアガーデン

  • アイスキャンデー売り

    一年で一番暑い夏休みの盆の前後ごろ、茂平にも「アイスキャンデー屋」が来ていた。笛をピーピー吹きながら、自転車に旗をなびかせてやってきた。あの音が楽しかった、というか親に期待したい時だった。アイスキャンデー屋が来る2~3回に1回ほど、親がアイスキャンデーの金をくれた。おじさんが自転車を停める頃は、もう客(子ども)が先におじさんを待っていた。夏休みなので、親戚を訪ねている見慣れない子がきていて、大阪弁や東京弁を生で聞くことがあった。服装や、しぐさが茂平の子とは全く違っていた。その時は、茂平はほんとに日本の地の果てかと、みじめに思った。自転車の荷台に四角な木箱を置いていて、その中にアイスキャンデーが入っていた。お金を出して食べるおやつ類は、どれも、なにも、みなおいしかったが夏のアイスキャンデーは特においしかった...アイスキャンデー売り

  • かき氷

    かき氷ほど食べたいものはなかった。かき氷を食べる時ほど、うれしい時はなかった。わが人生で10回くらいだろうか?かき氷を食べたのは。大門駅前の店で5回くらい、笠岡駅前の店で3回くらい、茂平の番屋で2~3回くらい。真夏で、店内は開けっ放し。小さな扇風機がまわっていた。木製のテーブルとイスがあり、座ってから注文をする。「イチゴ」、というのが決まり。お店の人が氷機に行くと、「ガリガリ」という氷を締めて固定する音がする。次に、「シャリシャリ」と氷が切れてガラス容器に落ちる音がする。半分ぐらい氷の山ができると、ハンドルをゆっくりまわして、慎重に富士山の形に整える。氷の山が完成すると、真っ赤な液(シロップ)を氷の山頂に振りかけて完成。自分の前にあるイチゴのかき氷はさじで食べる。山の上から食べる、この時注意しないと山が崩...かき氷

  • 金魚売り

    金魚売りは夏に、毎年来ていた。天秤棒に担いで、一軒一軒歩いていた。その金魚売が家に来ると、なぜか嬉しい気分になった。金魚とガラス製金魚鉢を売っていた。金魚にも種類があり、だいたい、奇麗な金魚は高く、長持ちしない。メダカを大きくしたような金魚は安く、長持ちする。という、子供にもわかる傾向があった。出目金(でめきん)が一番人気で、一番高かった。では安価な金魚が長持ちするか?と言えば、そうでもなかった。たいてい、持って夏休みの終わりまでだった。親が買ってくれた金魚は、金魚鉢に入れ、まず裏の溜池に行き、そこでホテイ草を取ってきて金魚鉢に浮かべる。(エサは味噌汁に入れる)「ふ」。「ふ」を小さくちぎったり、そのまま水面に浮かべていた。金魚鉢の水は毎日、井戸水で取り換えていたが、日に2~3度取り換えたかと思えば、何もし...金魚売り

  • 浜子② ~朝は朝星、夜は夜星~

    岡山県の特産品であった藺草は、真夏にイ草を刈るが、その作業は「日本一の重労働」と言われていた。しかしイ草刈は10日間程度で終了する。同じく夏が盛りの塩田作業は、夏を挟んで春から秋までつづく。となれば浜子が「日本一の重労働」だったのだろうか?瀬戸内海海岸線の平地、そのほぼすべてが塩田だったが、その跡形は住宅地の中にポツンと堤防が残る程度で、意識してみないと見落とす。岡山平野のほぼすべて栽培されていたイ草に至っては、今では何一つ残らない。・・・「瀬戸内の風土と歴史」谷口澄夫山川出版社昭和53年発行十州同盟元禄頃から製塩業は異常な隆盛をみた。しかし生産過剰を招いた。売値が下がった。こうした塩田不況の対策として考案されたのが休浜法である。日が短く塩つきの悪い秋冬の間、塩田作業を休むことによって生産制限と経費の節減...浜子②~朝は朝星、夜は夜星~

  • 浜子① ~寄島塩田&野崎浜二十三番地~

    (JR松永駅前2012.1.7)管理人は農家に生まれ、「百姓にはなるな」(仕事はしんどく、収入は少ない)と言われて育った。隣の家は漁業だったが、これもしんどそうな仕事だった。当時瀬戸内海地方は塩田が盛んだったが、この仕事も重労働。日本経済を牽引していた繊維産業には「女工哀史」、黒いダイヤの炭鉱は命がけの重労働。学校に行くには踏切を渡らねばならなかったが、機関車にスコップで石炭をくべる乗務員からは汗が飛び散っていた。あの仕事もきつい。結局、思うに、高度経済成長以前の日本は、どの仕事も毎日10数時間働いても、一日三回麦飯を腹に通すのが精いっぱいだった。(青佐山お台場から寄島塩田跡地を見る。面影はまったく残っていない。浅口市寄島町2020.4.4)・・・「鴨方藩」藤尾隆志現代書館2021年発行塩田天保年間(18...浜子①~寄島塩田&野崎浜二十三番地~

  • 炭鉱夫

    戦前・戦後の日本経済を担っていた炭坑会社は、昭和35年政府の貿易自由化方針により、安価な石油や、安くて良質な海外炭に押され昭和30年代後半から昭和40年代全般に次々と閉山していった。・・・「昭和で失われたもの」伊藤嘉一創森社2015年発行「黒ダイヤ」の悲劇炭坑のガス爆発や落盤事故が続いた。体育館には煤けた炭坑マンの遺体が累々と並べられた。56年の北炭や59年の三井三池探鉱の事故では何百人もの命が失われた。閉山が相次いた。平成2年夕張炭鉱の閉山で、日本の炭鉱はすべて終わった。(福岡県田川市2017.2.14)(福岡県田川市2017.2.14)(文部省推薦映画「にあんちゃん」、城見小学校の講堂で生徒全員が見た)・・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行炭鉱夫石炭の採掘が本格化したのは明治時代に...炭鉱夫

  • 写真集「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発売された 2023.10.1

    「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発行された。・・・ページを開くと、いろんな笠岡の写真が満載。白石島。カブト東町のアッケシソウ。御嶽山の幻虹台。笠岡商業高校出身の千鳥のダイゴとノブ。笠岡市指定無形文化財。ユネスコ選定の「白石踊り」。岡山県指定、「大島の笠踊り」。「真鍋島の走り御輿」「北木島の流し雛」(上記は本の一部)・・・何回見ても見飽きない、笠岡の魅力満載の本であることは間違いなし。定価2.000円で発売された。写真集「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発売された2023.10.1

  • 「第75回吉備真備公弾琴祭」を見に行く 2023.9.30

    場所・岡山県倉敷市真備町妹・琴弾岩名称・第75回吉備真備公弾琴祭日時・2023.9.3017:00~20.30猿掛城の麓にある琴弾岩。この岩の名は、晩年を郷里で過ごした吉備真備が、中秋の名月の夜この岩で琴を弾いたという故事から名付けられた。真備町では郷土の偉人を偲び、”弾琴祭”(だんきんさい)を開催し今年で75回目。岩の前には小田川が流れ、名月は・・・残念ながら、薄曇りで見えず。しかし、琴と尺八の音色で祭は最高潮。琴弾岩での琴と尺八演奏の後は、小田川の河川敷の仮設ステージでソーラン節や太鼓等のショーがある。仮設ステージは呉妹地区の人たちによる出店で囲まれている。今年は、今を代表する時代小説作家の安部龍太郎先生が弾琴祭に参加された。写真中央、萌黄色の背広の人が、安部龍太郎先生。ステージのショーは午後8時半ま...「第75回吉備真備公弾琴祭」を見に行く2023.9.30

  • エスカレーターガール

    昭和40年代後半、百貨店がイケイケどんどんという時代があった。岡山には高島屋、倉敷には三越、福山には伊勢丹、広島にはそごうの進出が決まった。百貨店は元気がいい(経営に余裕)のでエスカレーターの昇降口に女性を配置した。それがエスカレーターガールで、役目はエレベーターガールと、ほぼ同じ。「何階でございます。何々売り場がございます」という案内ガール。この時代の小売業は百貨店vsスーパー(ダイエーや西友)の対決だったが、スーパーにエスカレーターガールはいなかった。エレベーターガールもいなかった。時代はその後、最初からエレベーターガールもスカレーターガールも置かなかったスーパーが、百貨店よりも先に市場から去った。大型店スーパーはほぼ壊滅、百貨店はお金持ち階級や企業相手に現状死守の状態。今の時代となっては、エレベータ...エスカレーターガール

  • ジュークボックス

    ジュークボックスは店舗の中に、今でいえば自販機のような感じで置かれていた。高さは自販機より低く、大人の身長の半分くらいで、目を下に向ければ、流行歌名が50~100曲くらい名札で並んでいた。自分の好きな曲が決まったら20円(くらいだったと思う)を投入し、曲のボタンを押す。曲が流れてくる。つまり一曲、3分間程度、20円で好きな曲を聴ける。周りの人は、無料で聴けてよろこぶ人もいるし、逆にうるさくて迷惑に感じる人もいる。利用の多いジュークボックスは、予約してから順番に時間がかかった。利用の多いジュークボックスは、こまめにレコードをヒット曲に交換していた。利用者は10代か20代の若者が多く、大人や子どもがジュークボックスの前で選曲している記憶はない。1970年頃がいちばん流行っていたような気がする。・・・「失われゆ...ジュークボックス

  • 風呂屋の三助

    10代、20代の頃、町の銭湯にはよく行っていた。いろんな銭湯にはいって、値段も、趣向も、少し違うのを楽しんでいた。しかし「三助」は見たことがない。サラシ姿で入浴客の背中を洗ってるのを見たことがない。思うに、家に風呂が無い人が銭湯に行くが、家に風呂が無い人は、「三助」の代金を払うほど生活に余裕はなかった。町の銭湯に、ほんとうに「三助」はいたのだろうか?・・・(TBS「時間ですよ」)・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行三助昭和30年代は銭湯1軒につき3~4人いたが、平成24年には全国で1人。三助の日常は、まず風呂を沸かす燃料の用意。薪から、昭和30年代は石炭になった。石炭ガラは舗装していない道の水たまりに入れて穴埋めした。午後になると、風呂を沸かす。風呂場の掃除。背中を洗うのは本来の仕事か...風呂屋の三助

  • 鋳掛屋(いかけや)

    日本の経済成長が始まると、それまでの生活様式だけでなく、モノに対する思考も変っていった。家にある鍋や釜やヤカンは、(何度も何度も何度も修理され、最後にはクズ屋に売られ、溶かされていたが)何かあると、新しいモノに買い換えられていき、古いモノは廃棄物となった。・・・(父の話)談・2002.10.14鋳掛屋鍋ややかんを直しにきょうた。してるようになってから来んようになった。蝙蝠傘を直す人もきょうた。・・・「金光町史」行商のほか、職人もたくさん回ってきた。鋳掛屋、桶屋、羅宇屋(らうや)、石屋、時計や洋傘の修理屋などが農閑期に家々を回っていた。・・・「昔のお仕事大図鑑」日本図書センター2020年発行鋳掛屋直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。鋳掛屋は,火を起こす...鋳掛屋(いかけや)

  • フラフープ

    フラフープというものが東京や大阪では子どもに大人気、というのは知っていたが見たことも、したこともなかった。やがて体に悪い(胃腸を圧迫する)という噂が流れ、東京や大阪ではすたれてきた、という頃茂平のような田舎でもフラフープを見ることができた。(たぶん生産過剰の売れ残りや、投げ売り品が地方に回ってきたのだろう)フラフープは男子よりも女子に人気があったようだ。二三度、借りてぐるぐる回してみたが、男の子にとっては、そう面白いおもちゃではなかった。茂平で見る頃には既に、身体に悪いのは噂でなく事実であることが日本中に知れわたっていて、子どものフラフープ遊びは短い期間で消えて行った。・・・「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行フラフープアメリカでの大ヒットを受け、日本に上陸。美容や健康への効果も...フラフープ

  • ダフ屋

    広島市民球場が原爆ドームの向かい側、基町にある頃広島カープの試合を年に1~2度見に行っていた。球場に入ろうとすると、見知らぬ男性から声がかかる。その男はぼそぼそ話すので、自分に言っているのか?それとも他の人へなのか?聞いてほしいような、聞かれては困るような話し方なので、何をいいたいのか?何を言っているのか?意味不明。目立たぬ、地味な服装で、灯りが一番届かぬ場所に立っていて、まさに”裏”という言葉が似合う男だった。そういう男が試合が始まる前、試合が始まってからも立っていた。「あれはダフ屋だよ」と同僚が言った。ダフ屋のことは知っていたので、あああれか、と男の仕事はすぐに理解できた。それからは、市民球場のダフ屋は、その場所へあたりまえにいる者、として普通に素通りするようになった。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永...ダフ屋

  • サーカス

    サーカスを学校で見に行ったという話は聞くが、自分は学校行事で見に行ったことはない。小学生の時、春に「福山とんど祭」で二度見た。三好サーカスと木下サーカスだった。場所は・・たぶん・・今のローズコム、福山中央公園だったような気がする。三好サーカスは興業場所を「三好サーカス」と染めた幕で囲んでいたので、今でも、その名をよく覚えている。自分と同じくらいの年齢の少女が綱渡りをしていた。それを見て、かわいそうで仕方が無かった。きっと「人さらいにあって、サーカスに売られてきた子だろう」と子供心に思い込んでいた。木下サーカスは地球儀のような球形のなかでオートバイが爆音でぐるぐるまわった。煙と音と排気の臭いがすごく、芸を楽しむという気はしなかった。農家の子が二度もサーカスを見ることが出来たのは、入場料が安かったから。親がも...サーカス

  • オート三輪 (棒型ハンドル)

    福山青果市場のオート三輪学校が終わって、用之江から茂平に帰っているとオート三輪が後ろからやってくる。オート三輪は茂平への峠道を越すのが能力いっぱいだった。それで同級生数人でトラックの後ろを押していた。峠道を登りきると、そのお礼に、トラックに乗せてくれた。一人か二人が前に乗り、運転手の隣の助手席。残りの人が荷台に乗った。助手席と荷台は、だいたい順番。どちらに乗っても楽しかった。嬉しかった。オート三輪は二日に一度くらい、福山から茂平の園芸場に果物を取りにきていた。3時前後に茂平にきて、30分後くらいに、果物を積んで福山に帰っていった。オート三輪に合うのは、下校中の楽しみだった。坂道をゆっくりと走って来る、「来たぞ、来たぞ」。3人~5人でトラックを押すと、トラックのスピードは気持ちぶん速くなる。走りながら押す、...オート三輪(棒型ハンドル)

  • 馬子(馬方)

    城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、道はもちろん未舗装だった。たまに荷馬車が通っていた。荷馬車は農協前で休憩することが多く、そこで水やカイバを食べ小休止していた。茂平や用之江に馬を飼う人はなく、荷馬車の馬を見ると、珍しいので、いつも馬見物をしてから去っていた。・・・茂平に馬を飼う人はなかったが、大冝に馬を飼っている人がいた。農耕とたまに運搬に使用してようだった。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行馬子(馬方)馬に荷物や人を乗せて商売する人。馬引き、馬子、馬追いともいう。馬を引いて人や荷物を運ぶ労働者。人足ともいう。馬は駄馬が多く、農業などで使う馬よりも質が悪かった。・・・馬子(馬方)

  • モーターグレーダーが国道2号線を直す

    城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、道はもちろん未舗装だった。たまにモーターグレーダーが通っていた。当時の城見小学校の生徒が目にするものでは、ずいぶん大きな車両で、「道直し」とか「道削り」と呼んでいた。この車両は”道直し”をする車で、道を直すために、”道を削って”いた。つまり国道2号線の路面の凸凹を削って、平に均しながら走行(自走)する工事車両。走行後にローラーが来て踏めば固まるが、ローラーが来ることはなかった。だから「道直し」の効果はほとんどなし。家庭から出るアサリの殻を水たまりに捨てる方が、まだ「道直し」の効果があった。そういうモーターグレーダーの「道直し」だったから、1~2年ほどして国道2号線で見ることはなくなった。城見小学校前の道路が舗装されるのは、それから5...モーターグレーダーが国道2号線を直す

  • 西日本縦断駅伝(下関~大阪)

    城見小学校の前を、国道2号線が通り、その道では下関から大阪までの駅伝大会が毎年開催されていた。全国大会なので、当然ながら国内トップレベルの選手たちが毎年、城見小学校の前を走っていた。下関から大阪に向かうコースで前日は福山市の中心付近がゴールで、朝に福山をスタートし午前10~11時頃、城見学校前を通った。全校生徒は駅伝ランナーが走ってくる20~30分前に校庭に集合した。そこで主催者の読売新聞の小旗をもらい、学校の下の国道2号線でやってくるであろう選手を待った。選手は今の駅伝と同じで、肩に襷をかけて走ってきた。47都道府県の選手が次々に来たり、間をあけて走り去っていった。旗を振って”がんばれー”、岡山県選手と広島県選手への声援が高かったような気がする。その頃、東北や九州は今でいう外国よりも遠い存在だった。小学...西日本縦断駅伝(下関~大阪)

  • ソノシート

    レコードは値段が高く、一枚300円くらいしていた。300円あれば、映画館に二度いける。斎藤の中華そばなら、5杯食べれる。それに対し「ソノシート」は安かった。薄い塩ビ板でぺらんぺらんなレコードだった。でも、音は普通にでるし、中高校生に人気があった。というより、中高校生でも買えた。レコードはレコード店に売っていたが、ソノシートは本屋で売っていた。一冊200~300円の本に、4~5枚のソノシートがはさげてあった。勁文社という会社の独断場だったが、次第に安物っぽくて、飽きられていった。・・・「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行ソノシートレコードよりも薄くてペラペラ。半透明な円盤。通常のレコードより音質は劣ったが、安価で大量生産向きだった。・・・・・・ソノシート

  • ひがさき踊り(鴨方町) 2023.9.23

    場所・岡山県浅口市鴨方町・長川寺名称・浅口市指定重要民俗無形文化財「ひがさき踊り」日時・2023.9.2314.00~14:30長川寺(ちょうせんじ)で「ひがさき踊り」があった。戦国武将・細川通董のお墓に、まず法要。その後で、本堂前で踊りが始まった。・・・「鴨方藩」藤尾隆志現代書館2021年発行ひがさき踊り浅口市鴨方町に伝わる踊りである。(同じく浅口市金光町に伝わる「ひがさき踊り」とは別のもの)この踊りは、貞享三年(1686)七月に、戦国時代に鴨方町を統治していた細川通董(ほそかわみちただ)の百年忌法要が菩提寺である長川寺で行われたのが起源とされている。旧七月の炎天下に細川家の遺臣の末裔たちが日傘を差して踊り、後に、踊りの型に傘を取り入れて踊るようになった。これが「日傘着踊り」の名の始まりといわれている。...ひがさき踊り(鴨方町)2023.9.23

  • パチンコ

    駅前といえば、田舎駅では「自転車置き場」と「食堂」があるのが当たり前で、町の駅では、それに加えて「パチンコ店」があった。初めての時は、パチンコ店は玉を打つのが難しかった。左右の客はみんな右手にレバー左手で玉入れ、(それを連続して打ちながら)口にはタバコ。自分にそのまねはできなかった。特に左手で玉を入れるに手間取った。何か肩身の狭い思いがした。おまけに、当然ながらおカネがみてる。それで、パチンコ店には行かなくなった。それから1~2年後経って、「玉は左手で入れなくても、皿に移すだけでいい」という話を聞いて、再び行くようになった。これは楽だった。打つだけでいい。タバコも手に持って吸える。音楽を聴きながら、ときには歌いながら打った。そのうちイスが設置され、さらに楽になった。パチンコ店を出る時、いつも目がぼーーーっ...パチンコ

  • 質屋

    金浦中学校の同級生に、「家が質屋」の人がいた。高校の同級生にも、「家が質屋」の人がいた。マンガにも、物語にも、テレビでもこっそり「着物」や「時計」や「カメラ」を質に入れて、当座の現金を手にするのは定番のストーリーだった。・・・学生時代、テープレコーダーが欲しかった。が、おカネがないので我慢をしていた。すると友人が、「質屋に行けば1.000~2.000円で買える」と教えてくれた。暖簾をくぐって質屋に入ると、テープレコーダーも2~3品展示されていた。質屋の主人と交渉して、たしか1.500円で買って帰った。しかし、「欲しい」と思っていた割には、これをしたい、ということが無くたまにラジオの流行歌を録音する程度で、使ったという記憶がほとんどない。使った記憶が少ないのは、商品が変わっていったのも大きな要因。買った(手...質屋

  • 成人映画館

    エロ映画と呼んでいた。笠岡では金星劇場。福山では御船町の映画館(大黒座の斜め向かい側)。街中にある映画館のポスターでも、エロ映画のポスターは目を引いた。どのエロ映画も、女性の肉体をおおげさに表現していた。特に笠岡のスサキ通りのスサキ橋手前の、金星劇場のポスターは目立った。人の行き来が多く、大人も、子どもも、みんな目にはいる。それが、笠岡に限らず当時の町の風景だった。(最初)エロ映画高校卒業した春に、初めてエロ映画を見に映画館に入った。映画は白黒映画だった。それが、途中何回かカラー映画に切り換わる。切り換わる時は、同時に音楽がいやらしい音や声に変るので、寝ていても気がつく。ポスターといやらしい音で勝負する映画で、見終えて、あほらしさだけが残った。(二度目)日活ロマンポルノ日活は普通の映画を止めて、”ロマンポ...成人映画館

  • 靴磨き

    「靴磨きをしてもらえば気分がええよ」と雑談中に友が言った。しかも、「安い」という。一回300円。300円なら、試しに一度、いい気分になってみようと思った。昭和40年代福山駅前の伏見町、駅と天満屋の間の路上に靴磨きの人が3~4人並んでいた。木のイスに座り、片足を台の上にのせる。すると路上に座ったままの靴磨きの人は、客の顔も見ることなしに、靴についたドロ・ホコリを払う。次に磨く、その次に靴墨でピカピカに仕上げくれる。両足分で約5分くらいだろうか?300円を払って去る。靴磨きと客の会話はいっさいない。会話があるのは、オプションで靴底に金具を取り付けてもらう時だけで、金具を付ければ、歩く時、路面を踏む音がする。今思えばあほらしいけど、それが当時の男性のおしゃれの一つだった。では、気分がいいというのは・・・ほんとう...靴磨き

  • 肥買船(肥船・糞船)

    近年まで、農家の食べ物は、麦や雑穀や芋を主食とし、おかずはコーコに梅干し、味噌汁、干魚。ところが町に住む人は、お米や魚や肉や野菜や果物を食べていた。食生活の違い(というか差は)あまりに大きく、食べる物が違えば、人糞も違うと、農家の人は信じ町の人たちの人糞を買い求めた。特に花街の人糞は相場がよかったようだ。・・・(父の話)人糞と牛糞の違い・町の人糞と田舎の人糞の違い(人糞と牛糞はどちらが良かったのか?)そりゃあ、人糞じゃ。食いもんが違う。窒素が違う。人間はええものを食べる。ええものを食べりゃあ、それだけ成分がようなる。人糞も。田舎よりは町の人のほうがええもんを食べるんで、町のひとのほうがええ肥になりょうた。(田舎の)梅干ばぁ食びょうるんじゃあ、ええうんこがでん。町の美味しいものを食びょうる人のほうがよぅ効く...肥買船(肥船・糞船)

  • 遣り手婆(やりてばばあ)

    昭和33年3月、公娼は廃止された。それから10年経った四国の道後温泉「松ヶ枝遊廓」に行くと、そこでは、売春防止法どこ吹く風の感じで、遊廓が現役で営業していた。行政が法に対して片目をつむることはよくあるが、両目をつむっていた。遣り手婆が、松ヶ枝遊廓街の左右から客を引いていた。”遣り手婆”と呼ばれるだけに、年齢は婆さんだった。不思議な感じがする空間だった。当時の道後温泉は、温泉と遊郭が一体となっての「道後温泉」だったので、松山市も振興のため目をつぶっていたのだろう。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永井良和他グラフィック社2020年発行遣り手婆遊廓の女性が、自ら客引きをすることは決してない。客の相手をするのは、遣り手婆が客を引き込んだあとからだ。店には、遣り手と呼ばれる高齢の女性がいる。店の前を行く男たちに遊んで...遣り手婆(やりてばばあ)

  • 文選工(ぶんせんこう)

    妻のおばが、井原市の自宅で文選工をしていた。福山市の学校(同業社だったかも)に半年間行って習ったそうだ。おばが、その仕事をしているのを見たことはない。すでに印刷方法が変わっていた。しかし、おばの家の玄関の横に、仕事場が長くそのままの状態だった。おば夫婦は、地域情報紙を発行する仕事をしていた。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行文選工(ぶんせんこう)原稿の文字通りに活字棚から鉛でできた活字を一字ずつ拾って、文選箱に収める仕事。一舜にして活字を探すのは熟練した職人の技だった。活版印刷の文選工の仕事は、主に二つの作業工程に分けられる。あらかじめ活字を選び出しておく「文選」。活字を原稿の順序に従って並べ、組版を作る「植字」。とくに文選は数千種類もある大型ラックに入れられた活字からすぐに選び出さ...文選工(ぶんせんこう)

  • 神島天神祭り 2023.9.17

    場所・岡山県笠岡市神島・天神社(島の天神)名称・神島天神祭り神島天神祭りを見に行った。気温35度、9月17日では史上最高気温。今年の「御渡り」(海上渡御)は、見崎・寺間・神東の三地区。天気は、倒れそうな暑さだったが、そのぶん空も海も青く、華やかなお祭りとなった。神島天神祭り2023.9.17

  • 屎尿汲取り

    笠岡の高校に入学して、最初にびっくりしたのが、学校近く商店街を、肥たごを積んだ大八車だったか、リアカーだったかが、作業者数人と歩いていたこと。肥たごを数桶積んでいて、数人の男性がこぼれたり、はねたりしないように、慎重に前に進んでいた。その周辺は強い臭いが商店街にただよっていた。これが笠岡か、と思った。(これは笠岡が田舎という意味ではない。さすがに町には汲み取り車があるのだ、と感心した想い出である)高校3年生だった頃は、その記憶がないので、たぶんバキュームカーに変わっていたのだろう。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永井良和グラフィック社2020年発行汲取り1950年代までは、し尿処理場のない自治体もあり、農家と契約してし尿を集めていたケースもあった。トイレ水洗化が浸透して「臭い」と無縁の時代となって久しい。し...屎尿汲取り

  • DDT

    頭の髪にはシラミがいて、着物にはノミが何匹もいた時代。小学生女子にはシラミ退治のため、まっ白い粉を頭からふりかけられていた。男子は坊主頭で対象外、女子がやられる(?)のを見ていた。強力な合成殺虫剤DDTのブーム「食糧と人類」ルース・ドフリース日本経済新聞社2016年発行オーストリアの大学生ツァイドラーは1874年にDDTという化学物質を合成したが、20世紀後半、農業分野で大きな変化を引き起こすことになろうとは夢にも思っていなかった。DDTはイエバエ、シラミ、コロラドハムシに対してすばらしい効果を発揮した。1942年には商品化され、人類と病害虫との闘いに終わりを告げるという華々しい謳い文句とともに市販された。DDTの威力が証明されたのは第二次大戦中のことだ。菊を原料とする除虫菊剤が使われていたが、それが品不...DDT

  • ボウリング

    高校を卒業した春休み、福山の日本鋼管埋立のボーリング工事のアルバイトを一週間ほどした。それで、ボーリングとは穴掘りだと思っていた。それから3年ほど後には、ボーリングとは玉転がしを差し、突然のように日本全国にボウリング場ができ、テレビ番組もでき、スター選手もでた。笠岡にも井笠バスセンター、ABCホール、笠岡ボウルと三つのボウリング場ができた。自分専用の靴やボールを持っているのが自慢の人も何人かいた。ところが、異常なブームは1~2年で終わった。テレビ番組が終了すると、飽きられたようにボウリングブームも去っていった。「ダブル」とか「ストライク」という言葉も聞かなくなった。数少なくなったボウリング場だが、固定客(常連客)を中心に集客し営業を続けている。「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行...ボウリング

  • レコード店

    高校生だったある日、学校帰り同級生3~4人でスサキ通を歩いていた。レコード店から音楽が流れていた。「今、あの歌が流行っているんだ」その歌は、日本語ではなく外国語だったが、調子いい曲だった。「”アイドルを探せ”という歌だよ」と、一人の友が教えてくれた。そのまま、そのレコード店に入っていった。市内の高校生が10人ほど店内にいて、レコードを見たり、探していた。様子を見ていると、客‥と言っても、店内を歩いているだけ。しかもほぼ全員高校生・・・が、「これをかけて」とレコードを持っていくと、針を置いて曲を流してくれる。家に蓄音機もなく、レコードに関心はなかったが、それからは、そのレコード店の前をゆっくり歩くようになった。そのお店が「富士商工」。スサキ通りから斎藤の中華そば店に曲がる道の、また曲がるカドにあった。当時の...レコード店

  • 映画看板師

    金浦座の元館主のさんに話を聞いたことがあるが、元館主さんが言うには、(田舎の映画館とは)「ポスターを貼り替えるのが仕事のようじゃった」というお話だった。つまり、田舎の映画館は上映期間が普通1日、最大3日。したがって、日中は毎日自転車にポスターを積んで、毎日同じ場所(地域の辻や商店の前)に行き、ポスターを剥がして、新しいのに替える。これを毎日繰り返す。町の映画館は上映期間が普通一週間。期間が長いので映画館の切符売り場のまわりは、看板師が描いたスターや、ポスター絵で囲まれていた。もっとも、ポスターも金浦座同様、町の角に置かれていた。国鉄の大門駅前には福山の映画館のポスターが横一列に7~8館ぶん並び壮観だった。笠岡の隅田川沿いに映画館専用の絵師がいた。絵のサイズが巨大なので、道からよく見えるし、絵が道にはみ出し...映画看板師

  • 踏切番

    国鉄の大門駅から笠岡駅まで、踏切は10以上あった、ほとんどが無人踏切。今普通にある無人で遮断機が降りるのは大冝くらい。チンチン踏切と言って大冝名所の一つといえるほど、貴重な踏切だった。大きな踏切では”踏切小屋”があり、”踏切番”がいた。大門~笠岡間では、大門駅東(寺の前踏切)・笠岡駅西(西の浜踏切)に踏切小屋があった。吉浜土手にもあったかも知れない、記憶に自信がない。茂平の人が汽車に乗るには、全員が寺の前踏切をわたっていた。その踏切には南側に踏切小屋があった。踏切小屋には踏切番が一人いて、遊びに来ている子どもが二人くらいいつもいた。それを見ては、うらやましくて仕方がなかった。大門の子がらやましかった。ええなあ、ああいうところで遊べて。汽車が通るとき、踏切番は手動でハンドルをまわして踏切を降ろしていた。昭和...踏切番

  • 旅芸人一座

    旅芸人は茂平にも来ていた。番屋の隣の集会所(元小学校)に一座数人が泊まっていた。公演の前の日は、チンドン屋風に村を歩いて”芝居”があることを知らせていた。芝居は集会所と同じ敷地の”茂平ごらく場”で、廻りをゴザかなんかで囲み、木戸番を置いていた。芝居は髷物で、単純な筋だった。非日常を感じさせれば、それでよい、と一座も観客も思っていたようだ。公演は前日・公演・公演、の3日間だった。旅の一座が茂平に来る時・帰る時を見たことはないが、車ではない。ということは、荷車を押したり、引いたりつまり”伊豆の踊子”の一行と何ら変わらない旅姿だったのだろう。・・・「昭和の仕事」澤宮優弦書房2010年発行旅芸人ドサ回りの一座、いわゆる大衆演劇。全国を巡業して公演を行った。昭和10年代~昭和28年頃までが大衆演劇の黄金時代で、全国...旅芸人一座

  • 渡し船

    明治の中期に鉄道が敷設されるまでの日本は、人も物資も船便で移動が主だった。大は北前船から、中は高瀬舟、小は渡し舟。その後の変化は、鉄道が普及したが、道路工事が進展せず、昭和の初期までは、日本全国で「渡し船」が生活に利用された。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行渡し船の船頭渡し船の船頭は地域の農民で、先祖代々務める者が多かった。渡し船を対岸に到着させるのも難しく、独特の技術を要した。川に近代的な橋が架けられるに及んで、渡し船の役割は減り、徐々に廃業していった。・・・「新修倉敷市史第八巻」倉敷市1996年発行2013年10月2日倉敷市「水江の渡し」高梁川の渡し江戸時代の高梁川下流に橋は皆無であった。10年に1回の割合で洪水が発生し、架橋もその維持も非常に困難であった。現在目にするいろいろ...渡し船

  • バスの車掌

    バスとは「運転手」と「車掌」がいるのが、あたりまえで乗合バスには「運転手」と「車掌」、観光バスにも「運転手」と「車掌」(バスガイドと呼んでいた)がいた。高3の時、広島に行ってバスに乗ると、車掌がいなかった。乗る時小さな紙きれを手にして、降りる時運転手さんの前でお金を払った。「ワンマンバス」というそうで、これには、ほんと、びっくりした。それから1~2年すると、笠岡でも福山でも岡山でも、車掌さんのいる乗合バスは皆無へと変わった。・・・城見を通るバスは笠岡駅~福山駅で、大冝の為乗~新店(しんみせ)~アメリカ屋~加藤店がバス停だった(ように思う)。井笠バスの場合、車掌は男性だけだったが、女性の車掌さんもいた。たぶん、観光バス用にバスガイドさんを雇用したのが原因だと思う。その頃、歌が好きな女性、いい声をしている女性...バスの車掌

  • 「とんび」

    家では、祖母が真田を編む(組む)でいた。真田の仲買人が定期的に家に来ていた。真田を編むのは、おばあさん、こども、のイメージが強い。管理人が高校生の頃まで、仲買人が村々の得意先を一軒づつ立ち寄る風景が見られた。・・・「金光町周辺の民俗」岡山民族学会調査報告昭和46年発行真田を買い集める人を「とんび」と呼んだ。とんびは真田を集めて問屋へ運んだ。・・・「寄島町史」・・・「金光町周辺の民俗」岡山民俗会昭和46年発行この地方は、ハッカ、まゆ、米、真田の盛んな所であったので仲買人は多く出入りしていた。その中でも、麦稈真田の仲買人がよく知られている。真田を買い集めるひとの事を「とんび」と呼び、とんびは真田を集めて問屋へ運んだ。とんびは真田を組んでいる家に行き、「真田はないか」と尋ねる。寄島の人が多かった。柳こおりに二十...「とんび」

  • 「倉敷国際トライアスロン大会」を見に行く 2023.9.10

    児島へトライアスロンを見に行った。大会概要名称・第10回倉敷国際トライアスロン大会競技距離・Swim(1.5km)、Bike(40km)、Run(10km)場所・倉敷市児島地区(主会場:児島ボートレース場)日時・2023年09月10日(日)競技時間7:51~12:007時50分過ぎ、3レベル別に、3分起きに選手がスタートした。普段は競艇が走る水面を船でなく、人が泳ぐ。1.5km泳いだ選手たちは、児島ボート内の敷地に設けられた自転車置き場へと向かう。自転車は児島ボートから下津井漁港方面、さらに児島半島の山中へと40km走行する。アップダウンが多い。自転車の終盤は「風の道」。10km走は、児島ボートから児島小川の旧野崎邸を過ぎた付近で折り返し、最後は競艇場の観覧席に設けられた、赤い絨毯を踏んでのゴール。ゴール...「倉敷国際トライアスロン大会」を見に行く2023.9.10

  • 白石島フェリー航路(三洋)・運航休止

    場所・岡山県笠岡市笠岡~白石島航路廃止・2023年12月31日(予定)撮影日・2022年11月15日白石島に行くには、三つの定期航路がある。一・旅客船(笠岡~白石~北木~真鍋)二・フェリー(笠岡~白石)三・フェリー(笠岡~白石~北木)このうち、二・フェリー(笠岡~白石)の航路休止が三洋汽船から発表された。理由は、「利用者の減少や船の老朽化、燃油価格の高騰など」今年いっぱいで就航を廃止するそうだ。白石島は、瀬戸内海国立公園の景勝地であり、ユネスコ無形文化遺産「白石踊」もある。多くの人を呼び寄せる可能性が大の、魅力ある島。残る、一・旅客船(笠岡~白石~北木~真鍋)三・フェリー(笠岡~白石~北木)には船便の増など、多くの人を運んでほしいものだ。白石島フェリー航路(三洋)・運航休止

  • ジャニーズ事務所会見 2023.9.7

    テレビ放送”ジャニーズ事務所会見”日時・2023年9月7日午後2時~6時10分。テレビ東京以外の全テレビ局が中継する、「ジャニーズ会見」を見た。最初の45分間くらいは、見ていて、記者会見のやりとりが興味深かった。が、しかしその後はややマンネリで途中で見るのを止めた。見るのを止めた最大の理由は、「当事者」vs「当事者」の記者会見なので、質問の限界が見え透いていたこと。・・・今回のジャニーズ記者会見は2023年8月29日、ジャニーズ事務所の再発防止特別チームが調査報告書公表の記者会見しジャニーズの責任ジャニー氏が、「長期間にわたって広範に性加害を繰り返していた」。姉・藤島メリー氏が、「事実を隠蔽し続けた」。スタッフも「見て見ぬふり」し、長年にわたる被害の拡大を招いた。マスメディアの責任マスメディアの沈黙「多く...ジャニーズ事務所会見2023.9.7

  • 終戦(昭和20年9月2日)の頃

    1945年(昭和20年)9月2日。東京湾、アメリカ戦艦ミズーリの甲板。日本の降伏文書が連合国との間で交わされた。(Wikipedia)・・・(父)終戦後、すぐに茂平へ復員した父が驚いたのは「百姓でありながら、米(の保存量)がほとんどなかった」こと。(母)母が怖かったのは、伝染病。隣家から出て伝染。曾祖父が亡くなった。(家)祖母の妹が神戸で焼け出され帰郷。その母子3人が家に同居を始めた。家は4世代、9人、が同居となった。・・・「勝央町史」勝央町山陽印刷昭和59年発行戦後の混乱はじめて外国の占領下におかれ、やがて進駐してくる外国部隊についての恐怖感は相当なものであったようだ。「男子はキンを抜かれ、娘は慰安婦に供出させられる」などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。また「戦争に関係ある書...終戦(昭和20年9月2日)の頃

  • 関東大震災②日本史の汚点と復興

    国は「関東大震災の日」を「防災の日」と定め、災害対策をことこまかく国民に啓蒙している。そんなことより、東京一点集中の是正の方が大問題。東京で35.000.000人の人が被災したら全国民で助け合う限度を完全に超えている。40~50年前から言われているが、ずーーーっと逆行し続けている。・・・汚点「大正デモクラシー」成田龍一著岩波新書2007年発行報道と記憶東京では新聞社が壊滅して新聞発行が不可能になる。9月5日ころから、被害の範囲がおおよそつかめた。虐殺事件震災直後、流言が飛び交った。「朝鮮人」に関するデマである。早くも9月1日午後3時、「社会主義者及び鮮人の放火多し」という流言があり、「不逞鮮人来襲すべし」「井水を飲み、菓子を食するは危険なり」とデマがひろまったという。東京の住民たちはデマを疑わず、地域ごと...関東大震災②日本史の汚点と復興

  • 関東大震災①岡山県小田郡版

    父が6歳の時、「関東大震災」があった。遠く離れた岡山県小田郡城見村茂平でも揺れ、家に近接する道にある常夜灯の宝珠が落ちて、家の庭に転がったそうだ。(写真中央の常夜灯の宝珠が落ちて、庭まで転がった。当時塀はなかった)下記は、当時の笠岡町の女学生が校内新聞に載せたもの。・・・「笠岡高校七十年史」千鳥12号休暇もすんでいよいよ学校も始まり私らの気分もひきしまった9月1日、昼飯を済ませて姉と二階でお裁縫をしていると、一寸地震がいった。物おそれの姉は早くも下りた。しばらくして地震は止んで姉も上ってきた。翌朝日曜日なので内で勉強をしていると、べるを鳴らして号外号外と叫ぶ声が聞こえた。しばらくすると父が号外を手にして奥においでになって東京の地震のことをお話になった。皆の目は一様に父の方を見つめた。私は仲良しの従妹がどう...関東大震災①岡山県小田郡版

  • 「第30回笠岡路上観察発表会」

    今回で最後となる発表会が下記の要項で開催される。「第30回笠岡路上観察発表会」場所・笠岡市六番町笠岡市民会館(第一会議室)日時・2023年8月31日(木)~9月3日(日)午前10時~午後6時・・・出展数は65点そのうち、一部作品。(ダイヤモンド青佐)(太陽の広場)(笠岡駅前のイルミ)特集「笠岡市内の山」(古城山)(虚空蔵山)テーマ「笠岡市内の神輿」(茂平)(一番町)・・・出版「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」笠岡路上観察研究会2023年9月発行予定・・・「第30回笠岡路上観察発表会」

  • 伊勢大神楽

    笠岡市にも「伊勢大神楽」は回ってくるが、くる地区と、こない地区がある。毎年のほぼ決まった時期に、事前に葉書が届き、家々の玄関口や庭先で演じる。初穂料によって短時間に終わったり、長時間舞ったりする。・・・「旅の民俗シリーズ・生きる」旅の文化研究所2017年発行旅芸人かつては、芸人の旅も多かった。越後の角兵衛獅子、伊勢の太神楽、西宮のえびすかき、周防の猿まわし、筑前の琵琶法師など広く知られている。そのうち、太神楽と猿まわしは、移動(旅)のかたちを変えながらも現代に伝わっている。・・・・・・・「神楽と出会う本」三上敏視アルテス2009年発行伊勢大神楽獅子頭を奉じて移動する神楽のプロフェッショナル伊勢大神楽は「移動する神楽」で、今でも西日本を中心にほぼ一年中檀那場(だんなば)と呼ばれる村落を巡り、一軒一軒訪ね歩い...伊勢大神楽

  • 女衒(ぜげん)

    ”女衒”という言葉を知ったのは、父との会話が初めてだった。・・父の話・2002.9.15日中戦争・ペーの話(従軍慰安婦)(朝鮮人慰安婦は「連れていかれた」と言っているが?)そりゃあ無ぇ。「連れていかれた」んじゃぁ無ぇ、希望して来とるんじゃ。金になろう。(村とか家とかに)おったんじゃあなんにもならん。それじゃけいええかげん(お金が)貯まったら帰りょうた。嫁に行きょうた。あの時分不景気で金儲けはできなんだ。せいが1時間が300円。中国人などは50円ど。村で世話をするモンであんちゃん。女衒。女衒が「自分が行けい。」言うても、いう事を聞かんので「日本軍がこう言うて来とる。」「ご苦労せぃ。」と勝手に”日本軍”の名前を使ぅとる。・・・(島原駅前・2012.5.8)”女衒”という言葉は、明治・大正・昭和と日常の暮らしの...女衒(ぜげん)

  • 傷痍軍人

    昭和46.47.48年頃、広島の八丁堀、天満屋広島店の前に毎日、傷痍軍人がへたっていた。いつも白衣で、片足か、片腕か、片目の無い、傷痍軍人姿だった。二人組みで、一人は賽銭箱を前に、ひたすらお辞儀を繰り返す。一人はアコーディオンで、「戦友」のような、さみし気な軍歌を弾く。その哀れな感じの音が商店街にもよく響いていた。ところが、残業や飲み屋帰りの人が、黒塗りの高級車で帰っているのは、あの、歩けない足や、無い腕の傷痍軍人だろうと見破った噂がひろがった。それでも、噂を知らない人もいて、暫くは天満屋の前に座りつづけた。この街頭の傷痍軍人は、広島県の呉市、福山市にはいない。岡山県岡山市にもいない。たぶん、人口100万都市以上で成り立つ業だったのだろう。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永井良和他グラフィック社2020年発...傷痍軍人

  • エンヤコラ

    祖母の妹は、祖母に似ず美人だった。祖母に似ず上品な話し方をしていた。神戸で割と裕福な暮らしをしていたそうだが、神戸空襲で家族と家を失い、無一文、家無し状態となった。戦災後、茂平の実家に帰り、予科練帰りの子と二人仮住まいをしていた。その後、笠岡町営住宅に引っ越し、小さいながらも親一人・子一人で暮らしていた。妹を不憫と思った祖母は、内緒の品やお金を、孫(管理人の姉)に託して町営住宅まで、こっそり届けていた。ある日のこと、いつものように孫(管理人の姉)が町営住宅に物を届けに歩いていると、あの、きれいな祖母の妹がヨイトマケ姿で働いていた。孫(管理人の姉)は「見てはいけないものを見たようで、片目をつむって走り抜けた」と話していた。あるお盆の日、「おばちゃんは千原しのぶに似ているね」「わーっ、私、千原しのぶ大好き」ほ...エンヤコラ

  • 灯台守

    「喜びも悲しみも幾年月」の映画と歌が大人気の頃、婦人会の旅行で、母は”灯台”を見に行った。場所は市内の六島の灯台だったが、母の感想は、「遠くて、船が揺れて、上陸後は細い山道を登って」散々の旅行だったと話していた。・・・かつて同僚で、親が「海上保安部の灯台勤務」の人がいた。彼の話す転校等の移動は、今まで会った人の中で、一番すごかった。北海道から鹿児島県の南西諸島まで。裏日本・表日本、西日本・東日本、まさに、まんべんなく移動。居住地が、孤島か陸の孤島で、岬のとっさきは、どこも共通。学校は、中学生の途中から、親と離れて暮らした・・と言っていた。・・・(笠岡市六島の灯台)・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行灯台職員(灯台守)沖合の監視は、灯台職員の情報と連絡で、海上保安部が停船命令を出すので、...灯台守

  • 博労

    茂平の博労は、ますらおさんが一手に引き受けていた。ますらおさんは自転車に乗って、農家を訪問し、世間話と、牛の話と、必要に応じ牛の世話をしていた。村中で見かけるので、ますらおさんは村では有名人だった。一度、家の牛がお産をした時、ますらおさんが親牛に身を寄せて一体となって産まれるまで世話して姿を忘れられない。昭和35、36年頃テーラーが普及し、農家から牛が不要になった。その頃、ますらおさんも高齢で、牛の世話から身を引いた。今思い出しても、仕事ではあるが牛が大好きな顔した、ますらおさんだった。・・・「金光町周辺の民俗」岡山民俗会昭和46年発行博労(牛の仲買人)博労は、牛を飼育している家に出かけて、売買の話をする。両者の間で「なんぼう」と値をいいあう。話が成立したら「手を打つ」といって手打ちをしていた。手を売った...博労

  • 瞽女(ごぜ)

    瞽女は江戸時代末期まで、瀬戸内地方にもいたようだが、明治以降は東日本、特に越後が有名になった。昭和30年代で旅芸人としては消滅したが、現在は芸が伝承されている。・・・「失われゆく娯楽の図鑑」長瀬聡グラフィック社2022年発行瞽女瞽女(ごぜ)は、三味線を弾きながら、瞽女唄を歌い、全国を回る盲目の女性旅芸人の歴史的名称である。公的な福祉のない時代、目の不自由な女性たちの生活手段は灸、按摩、三味線など限られていた。当時の農村は娯楽が少なく、瞽女の興行は行く先々で歓迎された。・・・「瞽女(ごぜ)の世界を旅する」大山真人平凡社2023年発行ごぜとは、村々を門付けして歩く盲目の旅芸人をいう。江戸時代いは各地に存在したが、戦後廃れていく。最盛期、上越高田には17軒のごぜ屋敷があり、それぞれが組をつくり、越後や信州の村々...瞽女(ごぜ)

  • 天声人語 【昭和63年】

    天声人語【昭和63年】青函連絡船最終便1988(昭和63)年3・15連絡船がなくなったことを、いずれは悔いる時がくるかもしれないが、今はただ、これも時の流れだと思うほかはない。・・・コウノトリ人口繁殖成功1988(昭和63)年4・7昔は浅草でも青山でも、たくさんのコウノトリが寺の屋根や松に巣を作っていたそうだ。松とツルの絵は、実はツルではなくてコウノトリの場合が多い、という話をきいた。やがて受難の時代がくる。白くて大きな鳥だったのが災いして、狩猟の評的にされた。巣を作る松が減り、農薬汚染がひろがった。それがコウノトリ激減の理由にあげられている。今は日本で生まれたコウノトリは一羽もいない。だからこそ、飼育者たちは祈りながら、ヒナ誕生を待った。こんど卵を産んだ夫婦は、中国のハルビン動物園からやってきた。三月の...天声人語【昭和63年】

  • 天声人語 【昭和62年】

    天声人語【昭和62年】『平凡』廃刊1987(昭和62)年9・28ひところは大衆娯楽雑誌の世界に君臨していた月刊誌『平凡』と『週刊平凡』が廃刊になる。萩本欣一が「悲しいよ、悔しいよ」といっている。欣ちゃんはこの雑誌を読み、芸能人を身近に感じ、自分でもやれると思うようになってこの世界に入った。敗戦の年に誕生した『平凡』はたちまち百万部を超えた。7S、つまりスター、スクリーン、ステージ、ソング、スポーツ、セックスを扱って売れた。一九五九(昭和三十四年)に生まれた「週刊平凡」は7Sに1Tを加えた。テレビである。当時テレビは急成長期にあった。五十九年の普及率は一割強だが、六十五年には八割を超える。テレビの急成長は次々に人気ものを生み、人気ものを追った「週刊平凡」もまた、急成長した。この雑誌のおもしろさは異種交配にあ...天声人語【昭和62年】

  •  天声人語 【昭和61年】

    「天声人語」辰濃和男朝日文庫新自由クラブ解散8・13『瘦我慢の説』を書いた福沢諭吉翁だったら、新自由クラブ解散の報をきいてたぶんこう書いただろう。新自クごとき小党は大政党に抗してその勢いを維持するよりも、大政党に合併することこそ安楽なるべけれどもなおその独立を張り続けたるは小党の痩我慢にして、我慢のときにゆらぐことありたりといえども、一応は党の栄誉を保ちたれりというべし。しかるにここに遺憾なるは自民圧勝の余波をうけし新自クにこと起こりて、不幸にもこお大切なる痩我慢の大義を害しつつたることなり。そもそも新自ク結党の趣旨は荒野にありて日本の政治の蘇生を願う一粒の麦たらんとし、腐敗政治の打破を志すにあり、金権政治を断たんとするには痩我慢の主義によらざるべからず。されどこの遇直なる初志を貫きえぬまま、時勢を見はか... 天声人語【昭和61年】

  • 天声人語 【昭和25年】

    ・・・元号廃止と紀元考「天声人語」昭和25年2・14荒垣秀雄元号を今年いっぱいで廃止しようとの法案が参議院の文部委員会で練られている。来年から二十世紀の後半期に入るのだから時期としてちょうどよいのだろう。日本には元号と神武紀元と西暦の三つが雑居していて、世界史の理解に大きな妨げとなっている。元号は大化の改新で西暦六四五年に初めて採用され、天皇一世に八回も改元があったこともある。明治いらい皇室典範で一世一元とされて今日に至ったが、天皇とともに年代を起算することは、豊臣時代、徳川時代などと支配者の名によって歴史を分類することと共にもうやめてもよかろう。紀元の起こりは、明治五年十一月、その年を紀元二五三三年としたものだそうだが、神武紀元に大きなサバをよんでいることは今さらいうまでもなく、これも名実ともに速やかに...天声人語【昭和25年】

  • 備中杜氏

    「寄島町誌」寄島町役場昭和42年発行備中杜氏のおこり本町には現在80名の杜氏がいて、備中杜氏を出す市町村中その数において第一位を占める。起源等について記録も無いが、岡山県工業試験場技師の研究によれば、古老杜氏より聞き及んだこととして、「備中南部海岸地帯は山が海岸まで迫り耕地の少ない僻地であった。農業のかたわら漁業に従事していた。冬季になれば職を探すことに苦心していた。元禄年間、通称忠吉は酒造技術を修得し、杜氏の職を得て、広島県忠海の酒造場を振り出しに各地で酒造技術者として就職していた。その後、浅野藤十は酒造家業の有望なことを認識し郷党青少年を教育して灘方面へ出稼ぎしていた。このように逐年酒造技術者の希望者は増加し、明治20年頃には約100名に達し備中杜氏の名称を冠した。大正年間には、1.000名以上となり...備中杜氏

  • 天声人語 【昭和21年】~四等国~ほか

    進駐軍の占領政策で、天皇制護持は補償されたが、敗戦による民主制天皇の誕生には、昭和21年当時、手探り状態であったのが読み取れる。・・・「天声人語」昭和21年・・・昭和21年1・1焦土日本建国以来かくも悲惨な、かくも深刻な新年はいまだかつてなきところ、満州事変の直後、内田康哉外相によって無考えに放言せられた焦土外交なるものは、その直後松岡洋右外相の放胆無比な仕上げにあって、ついに文字通り国を挙げて焦土と化してしまうのであった。この沈痛な昭和21年の初頭に当たって、君民相互の信頼と敬愛とを提唱し、単なる神話、伝説に即する現御神(あらみかみ)などの架空的観念を排する画期的詔書の渙発を見る。まさに科学的日本への一発条たるべきものであろう。・・・「天声人語」昭和21(1946)年1・6四等国昨年9月2日降伏調印によ...天声人語【昭和21年】~四等国~ほか

  • 墨ぬり教科書の頃

    敗戦後の軍国主義一掃の学校現場は、国民生活の衣食住、そのすべてが不足した中で行われていった。・・・「福山市引野町誌」引野町誌編纂委員会ぎょうせい昭和61年発行墨ぬり教科書昭和20年9月文部省は教科書の全部削除・一部削除・取り扱い注意を示した。ただし、これは「国語」科のみだった。20年12月GHQは、修身・日本歴史・地理の即時停止と教科書の全面回収という極めて厳しいものだった。文部省はこれを受けて指令を通達した。これが「墨ぬり教科書」であり、翌昭和22年に暫定教科書ができるまで使用された。◎削除・修正の例「海軍のにいさん」「菊の花」「神だな」「にいさんの入営」「金しくんしょう」「病院のへいたいさん」「支那の子ども」修正「センチノニイサン」「オクニノタメニ」を「兄さん、しっかり、元気ではたらけと」と修正するよ...墨ぬり教科書の頃

  • 写真を隠す、銅像を隠す、忠魂碑を隠す、鳥居を隠す

    終戦直後は食糧難に代表されるが、あわてふためく行為も多々あった。家には、天皇皇后の写真を額に入れて飾っていた。その額は、「戦後の一時、取り外して押入れの一番奥に隠していた」と祖母が話していた。「これを見られたらアメリカに捕まる」のが、その理由だった。そんな理由で、戦争直後に、いろんな物が焼かれたり、壊されたり、隠された。廃却されたものは戻らないが、隠されたものの多くは数年後に復活されたものが多い。笠岡市内では学校の校庭の地中から石の鳥居がでたり、和気清麻呂像が民家に隠されたりしたが、福山市の備後護国神社鳥居も興味深い。(2021.9.29福山市草戸町)・・・「福山市多治米町誌」新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解...写真を隠す、銅像を隠す、忠魂碑を隠す、鳥居を隠す

  • 塩飢饉

    茂平の苫無の松林の西側(内海=うちうみ)に沿って、塩田跡が残っていた。「戦争が終わって2~3年ほど、ここで塩を作っていた」という話だった。茂平の塩田は入浜式の塩田ではなくて、「安寿と厨子王」の、安寿がしていた桶で汐汲みの”揚浜式”の製塩だった。戦中から戦後の一時期は、原始時代に戻ったようなことを、大真面目に、そして一途にして、その日の生活をやりくりしていた時代だった。・・・「岡山の女性と暮らし戦前・戦中の歩み」岡山女性史研究会編山陽新聞社2000発行自家製塩の奨励塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一...塩飢饉

  • 天声人語 【昭和20年】~以徳報怨(徳をもって恨みに報いる)演説~ほか

    図書館から文庫本「天声人語」を借りた。その時代が、感じられて興味深い。・・・昭和20年の「天声人語」天声人語昭和20(1945)年9・12お役所仕事アメリカの進駐軍は、たった2日間で、横浜の桟橋から、厚木の飛行場まで、ガソリン油送管をひいてしまった。代々木練兵場の幕営にしても、一夜のうちに機械力を駆使して、街路ができ、キャンプが設営され、井戸が掘られ、浄水装置までつくられた。司令部における士官たちの執務ぶりでも、手紙ひとつがきても、すぐ速記者に口述してタイプを打たせ、上官の署名を得てただちに発送されるなど、水の流れるように事務がさばかれてゆく。また日米間の交渉的なことでも、こちらの言い分を正当と認めれば、遅滞なく命令に移されて、てきぱきと処理される。わがお役所仕事は、お役所仕事の効率があがらないということ...天声人語【昭和20年】~以徳報怨(徳をもって恨みに報いる)演説~ほか

  • 「兵隊盃」

    城見村出身の偉人、加藤六月代議士は終戦後、小さな”盃”をコツコツと蒐集していた。その盃には、日の丸や凱旋が描かれていて、軍人の戦勝や退役の際の記念品だった。戦後は廃棄物同様に扱われ、哀れんだ六月さんは、それを”兵隊盃”と呼んだ。・・・「兵隊盃」序にかえて加藤六月私が「兵隊盃」を蒐集するようになったのは、昭和24.25年頃である。郷土の星島二郎先生の門下生となって、修業しはじめたころでもある。当時の食糧事情はひどく、食べ物、そして着る物、せわしい日々、やみくもに生きてきた。そんな時に戦災で焼け残った街角に時折、骨董品をみかけた。岡山市の骨董品店でのことである。片隅に日の丸と軍旗をあしらった小さな盃が埃にまみれ雑然と積み上げられていた。この時、胸をついた不思議な感情は今でも忘れることはできない。何かしら哀れと...「兵隊盃」

  • 靖国神社

    場所・東京都訪問日・2011.9.9靖国神社(Wikipedia)靖国神社は、東京都千代田区九段北にある神社。慶応4年(1868年)以降、戊辰戦争・明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設である招魂社創立の動きが各地で起きた。それらを背景に明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。全国にある護国神社と深い関わりがある。戦時歌謡の「九段の母」では、〽上野駅から九段までかってしらないじれったさ杖をたよりに一日がかりせがれきたぞや会いにきた上野駅から九段坂まで、徒歩で4kmほどある。「せがれ」が22才とすれば、「九段の母」は44、45才前後。今では、信じられないが、その年齢で「杖をたより」で「一...靖国神社

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、しろみ茂平の話さんをフォローしませんか?

ハンドル名
しろみ茂平の話さん
ブログタイトル
しろみ茂平の話
フォロー
しろみ茂平の話

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用