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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

1件〜100件

  • 茂平のイナとり

    城見小学校の6年生に、昔ばなしを依頼されたので、話す内容を整理した。・・・・・イナとり茂平イナとりは9月第一日曜日と決まっていました。茂平の子供にとって、それはそれは楽しみな行事でした。用之江や大冝の子供も見に来ていました。何日も前からポンプ場から24時間排水のエンジン音が聞こえていました。ぽんぽんぽんぽん♪その音を聴きながら、わくわくしながら当日がくるのを持っていました。その日、主催者である茂平消防団は総出で、内海周辺に配置、入場料を徴収。茂平婦人会はお店を出していました。イナとりの人は、全員男性で、道具はウダで、まれに投網の人がいました。ウダは竹で編んだ円形の籠で、それを自転車に積んでやってくる。なぜか東西からでなく、北の方から来る人が多かった。府中、新市、井原方面からで、用之江の道と、野々浜の道はウ...茂平のイナとり

  • 赦す・・・・・

    渡辺錠太郎大将が、もし国の指導者であったなら、戦争はふせげたのではないか、という史家は少なくない。母はよく、「昭和11~12年頃がいちばんよかった」と話していたが、それは母個人の思いの他に、経済や暮らしの指標が有史以来頂点を示していることでもよくわかる。その昭和11年2月に「2.26事件」は起こった。翌年、昭和12年には「日中戦争」が始まった。渡辺大将が斃れたのは国家の悲劇のはじまりとなった。遺子・和子さんの人生テーマは「赦す」ことになった。(2.26事件)・・・・・雑誌「文藝春秋」2022年新年特別号「100年の100人」渡辺和子皇道派の親玉は赦さない保坂正康私が当時88才の渡辺さんに会ったのは2016年1月初め。著作『置かれた場所で咲きなさい』がベストセラーになっていた。父親の渡辺錠太郎(陸軍の教育総...赦す・・・・・

  • 彼の天井は見えない

    大リーグ・エンジェルスの大谷選手は、投げて・打って、日本とアメリアの両国の野球ファンを楽しませている。プロ野球の名監督とは、下位から上位の強豪チームにしたとか、優勝何回した、という監督に冠している。プロ野球100年で画期的な”二刀流”をファンの前に実行した栗山監督には、どういう称号がつくのだろう?10年ほど前、日本ハムが大谷選手を二刀流でプロ野球、次のステージのメジャーリーグを目指す方針を決めた瞬間から、マスメディアの非難と疑問の報道は、その一切が栗山監督に向かった。(2022.6.18山陽新聞)・・・・・雑誌「文藝春秋」2022年新年特別号「100年の100人」大谷翔平彼の天井は見えない栗山英樹元日本ハムファイターズ監督翔平とは二度と一緒に野球をやりたくない----。それが僕の今の正直な気持ちです。僕は...彼の天井は見えない

  • お玉ヶ池の千葉道場

    「お玉ヶ池の千葉道場」といえば、”天保水滸伝”の平手酒造や、♪剣をとっては日本一の、赤胴鈴之助をまっさきに思いうかぶが、残念ながら平手酒造は実在の剣士ではあるが、千葉道場とは縁がなく浪曲や講談や流行歌の作り話らしい。赤胴鈴之助は漫画雑誌「少年画報」の少年剣士。のちにラジオ、テレビ、映画にも。赤胴鈴之助の友達だった”さゆり”(←吉永小百合のデビュー作)も架空の人。道場に実在したのは、千葉周作先生だけということなる。・・・「歴史と旅」昭和55年6月号秋田書店剣術隆盛江戸の三大道場千葉道場幕末になると身分制度が崩れ、帯刀も武士の特権でなくなっていた。庶民の中にも帯刀する者があり、武芸を習うという風が生じてきた。そういう時代の要求によって、剣法道場が増え、道場は企業として経営され、入門者も本気で剣を習うという機運...お玉ヶ池の千葉道場

  • 箕作阮甫(みつくりげんぽ)

    場所・岡山県津山市西新町”重伝建・城東町並み”地区(箕作阮甫先生像)「街道をゆく36」司馬遼太郎朝日新聞社1992年発行作州津山(岡山県)に、箕作(みつくり)というめずらしい姓の家があり、代々秀才を出したことで知られる。稀姓ながら、たいていの百科事典に、すくなくともつぎの代表的な5人の名は出ている。年代順にならべると、箕作阮甫1799~1863箕作秋坪1825~86箕作麟祥(りんしょう)1846~97箕作佳吉1857~199箕作元八1862~1919その源流は作州津山藩の藩医箕作丈庵という人にあったようで、その子阮甫から名声が大いにあがった。阮甫は蘭学を学び、医家としての著作も少なくない。時代がなお啓蒙機だったから、手引書のような著作である。が、時代は阮甫の医学より語学の方を必要とした。天保10年(183...箕作阮甫(みつくりげんぽ)

  • 聖ディエゴ喜斎

    場所・岡山市北区天神町「土光敏夫先生記念苑」の向かい側に「聖ディエゴ喜斎記念聖堂」がある。聖堂前に石像が建つ。聖ディエゴ喜斎。(Wikipedia)ディエゴ喜斎(ディエゴきさい)現・岡山市北区生まれ。安土桃山時代の日本の商人、キリシタン。イエズス会員。日本二十六聖人の一人として磔刑に処せられて殉教、死後に聖人。俗名(日本名・本名)を市川喜佐衛門、ヤコボ喜斎と称される。三原市の三原城に「聖トマス小崎像」という殉教者の銅像があるが、同じ”二十六聖人”で、豊臣秀吉の命令で長崎まで道中引っ張られたのち磔となった。撮影日・2022年5月28日聖ディエゴ喜斎

  • 雷電為右衛門、象潟をゆく

    文化元年(1804)10月、雷電は滄桑之変を目の当たりにし、驚きながらも淡々と記している。その起伏の少ない文章は、象潟大地震の一級資料として、今も地震・津波の研究者、歴史学者、好角家等の役に立っている。小野竹喬「奥の細道句抄絵」~象潟や雨に西施がねぶの花~・・・・「雷電日記」小島貞二編ベースボールマガジン社1999年発行「雷電日記」による雷電の足跡は、現在の都道府県でいうならば、北海道と四国の愛媛・徳島・高知、九州の熊本・大分・宮崎・鹿児島をのぞいた全土におよんでいる。歩け歩けの江戸時代の旅。おどろくべき広範囲にわたる。文化元年(1804)文化元年2月、上州湯川に湯治を願いでたところお許しがでたので、2月19日江戸を出立した。途中、上州藤岡に巡業相撲に出向き、3月1日に場所を終えた。同国板鼻の宿では、3日...雷電為右衛門、象潟をゆく

  • ”無類力士”雷電為右衛門

    その相撲取りだけ禁止された技がある、というのは天下無双の力士であったことを証明している。でも江戸時代に想いをすれば、その時代の男性日本人の平均体格は(自分の推測だが)、身長155cm前後で体重50kg程度、力士は身長170cm前後で体重100kg弱程度に対し、雷電は身長197cmで体重160~170kg。これでは力士は大きな山を相手に相撲をとるようなものだ。この雷電は、巨人ではあるが、”大男総身に知恵が回り”、相撲とれば無敵、お殿様にはお気に入り、地方巡業は勧進元や会計まで手掛けた。最強力士でありながら、なぜか『横綱』の名簿には入っていない。作家・小島貞二さんによれば、横綱以上だったので横綱でない、ということのようだ。・・・・・「雷電日記」小島貞二編ベースボールマガジン社1999年発行史上最強の力士であり...”無類力士”雷電為右衛門

  • 「街道をゆく」占守島

    元帝国陸軍戦車兵の作家司馬遼太郎氏が、秋田空港から象潟へ向かって乗ったタクシーの運転手さんは、元・占守島の兵士だった。「街道をゆく29」司馬遼太郎朝日新聞社昭和62年発行秋田県散歩・占守島(しゅむすとう)空港で乗った個人タクシーの矢倉氏は、温厚で、えもいえぬ含羞がある。大正10年うまれで、私より二年先輩である。この年代はよく死んだ。「よく生き残りましたね」「はい」おだやかな表情である。「敗戦までおられたのは、どこですか」「占守島でございました」その島名をきいて、鼻の奥に硝煙がにおいたつ思いがした。「大へんなところにおられましたね」「はい」占守島というのは、日本領だった。戦前は千島国占守郡とよばれていた島である。このひらたい島は、カムチャッカ半島からかぞえると、千島列島第一島である。第二島が幌筵島である。「...「街道をゆく」占守島

  • 「悠久の大義」

    なぜ無謀な策が誕生したのか?どうして止められなかったのか?雑誌「歴史人」2022年6月号沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと「悠久の大義」昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊はレイテ島沖で5空母に大きな被害を与えた。特攻隊員との約束通りに、ただちに天皇陛下に報告された。天皇はびっくりしつつも、「かくまでやらせねばならぬということは、まことに遺憾であるが、しかしながら、よくやった」と言った。指揮官の大西瀧治郎中将としては、「もうやめよ」という言葉を期待していたようだが、「よくやった」といわれたら、体当たり特攻をやめるわけにはいかなくなった。特攻はその後、普通の攻撃法となっていくのである。・・戦争は殺し合いだが、運がなくて戦死することと、最初から死ぬために出撃することは違う。爆弾を命...「悠久の大義」

  • 沖縄戦

    雑誌「歴史人」2022年6月号沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと沖縄戦航空機による特攻は、その数なんと2.500を数えたという。人間魚雷の回天も沖縄戦に投入された。さらに人間ロケット桜花も使用された。こうした特攻攻撃で撃沈された船は、わずかに駆逐艦9隻。戦艦や空母などには、かすり傷しか与えることはできなかったが、アメリカ兵に対する精神的動揺は、相当なものがあったと考えてよいだろう。連合艦隊の超弩級戦艦大和もこのとき、海上特攻攻撃に使用されている。片道燃料だけを積んで、徳山湾を出港し沖縄へ向かった。海岸に乗り上げさせた後、あらんかぎりの砲弾を敵艦隊にお見舞いし、大打撃を与えようとする計画だった。だが、すでに制空・制海権を完全ににぎられていたため、計画自体が無謀なもので、九州の坊ノ岬...沖縄戦

  • 「進水式」のこと

    小学校の2年生の時だったと思うが、親戚に海運業の人がいて、進水式に招待された。茂平の漁船(1~2トン)しか知らないので、とてつもない巨大船に驚いた。茂平の船には飛び乗るが、この新造船にはハシゴを登って船に乗った。その時は、船から餅投げをした。気持ちがよかった。後にも先にも、船からの餅投げは、この時以来見たことすらない。造船所は「引野」にあり、その当時福山市引野町だったのか、深安郡引野村だったかわからない。「引野」は昔も今も、みんな「ひきの」としか呼ばない(町を付けないで呼ぶ)。造船所やアサリで有名だったが、今では、その場所を推測するのが不可能なほど変貌している。・・・・・撮影日・2017年12月18日場所・広島県尾道市瀬戸田町沢内海造船(株)瀬戸田工場名称・8.600総トン型旅客船兼自動車航送船「シルバー...「進水式」のこと

  • 農民の食べもの、お殿様のご飯

    農村では、腹いっぱいに食えるようになったのは昭和35年(1960)前後のように思う。それまでは腹に通ればなんでもよかった。江戸時代の農民が食べたものと、たいして変わらないような気がする。・・・・・・農民の食べもの農民たちは土地にしばりつけられ、生産した米の半分以上は、年貢として藩へおさめ、残った米はほとんど換金や物々交換のために用いた。したがって平常は麦と雑穀が主食であった。『盆がきたなら、麦に米混ぜて、それにささげをぱらぱらと』という歌のように、ひきわり麦やよまし麦の麦飯を食べていた。副食物は香の物・にぼし・もろみ・大根・豆等の他、自家製の野菜であった。魚は干物・塩魚がおもで”ブエンモノ”とよばれる鮮魚は村祭りの食膳にのぼるくらいであった。川魚や貝類では、川や池のふな・どじょう・しじみ・からす貝などが食...農民の食べもの、お殿様のご飯

  • 犬養木堂⑥5.15事件後の国政

    (岡山市吉備津)木堂翁が亡くなって、軍国主義は歯止めが効かなくなった面がある一方木堂翁が軍人に阿て政権を取ったので、その付けが回った要因も大きい。清廉潔白な政治家で、多くの人々に慕われたのは間違いない。(笠岡市今井公民館)・・・・「日本の歴史20」岩波書店1976年発行斎藤内閣が成立し、この頃から「非常時」という言葉が一般化した。はじめは平時と戦時の中間とか、満州に戦時状態が存続する間とかの意味に用いられ、のちしだいにエスカレートしてゆく。概して軍部が、軍備を拡張するため、危機意識を高揚する必要上、ことさら喧伝したとみるべく、挙国一致内閣の出現を合理化し、軍部に軍拡とその予算先取権の口実を与え、インフレ財政を余儀なくさせ、無謀な「自主外交」を賛美し、侵略をも「暴支膺懲」の名の下に美化するにいたった。荒木陸...犬養木堂⑥5.15事件後の国政

  • 木堂翁の銅像出陣

    「目でみる岡山の昭和」蓬郷巌日本文教出版昭和62年発行金属類の非常回収昭和18年5月からは徹底的な非常回収が行われ、小さな物では鉄瓶、文鎮、金ボタンも供出が要請された。岡山県から供出された主なものは次の通り。警鐘台約1.200基銅像130基金属仏像25体梵鐘は数量不明。『木堂翁の銅像出陣一切をあげて敵米英に勝たんと迎えた19年の初めをかざり、吉備郡真金町吉備津神社神苑、岡山県が誇る憲政の偉人元首相木堂犬養毅氏の銅像もいよいよ敵撃滅の決戦へ応召することに決定した。この銅像は木堂顕彰会が彫塑会の泰斗朝倉文夫氏に依頼、昭和9年同所に建設し、そのまま吉備津神社へ寄付したものである。米英の野望をくじかんとアジアの一大防砦を唱えた先覚者もいよいよ巨弾となり敵米英に出陣することになったわけだ。「いやこれが犬養さんの心で...木堂翁の銅像出陣

  • お城の石垣

    石材と大坂城秀吉は、天下統一のため天正11年に、海陸交通の便利な大坂の地に居城を築こうと考えて大坂城の築城に着手した。秀吉は、まず西国30余国の大名に命じて、大きな石を運搬させようとしたので、日夜3万の人夫が使役されたと伝えられる。「大坂城誌」には、「普請の石材は御影・加茂・小豆島より殊に数多く取り寄せた」とある。天守閣や大手門の大石は小豆郡土庄町小瀬より採掘し、運んだものである。この採掘にあたり加藤清正・片桐且元・黒田孝高らが砕石奉行として来島した。大筏を組み、これを載せて大坂に運んだ。これらの石材を採ったあとの残石は、現在でも海岸近くの山中や、海辺に累々と横たわっていて、当時の壮観をしのぶことができる。当時、採石を運搬するには、大木のロクロをすえ、そのうえに採石をのせ、海岸に引きだしたという。(岡山市...お城の石垣

  • 金毘羅大権現は金刀比羅宮になった

    (金刀比羅宮=旧称・金毘羅大権現)「香川県の歴史」市原・山本共著山川出版社昭和46年発行明治元年、新政府は神仏混淆を禁止した。以後、廃仏毀釈の運動が全国におこるようになった。仲多度郡琴平の金毘羅大権現は金比羅宮と改められ、別当寺の金光院松尾寺の、その末寺とともに廃寺となった。金光院住職の名を改め社務職となり、社地を管理した。そして祭神を大物主神とし、すべての境内の仏式を廃し、神社として再出発した。白峯寺も危うく廃寺となるところであった。(白峯寺)神道もさかんになり、教派神道では天理教・金光教・黒住教・大社教などがさかえた。外国公使の強い抗議があり、明治6年政府は信教の自由を認めた。金毘羅大権現は金刀比羅宮になった

  • あれはサーカスだ

    子供の頃、サーカスを二度目たことある。4月の「福山とんど祭り」で二度見た、木下サーカスと三好サーカスだった。その頃、芝居の劇団よりは規模が大きな見世物小屋といった感じでみていた。木下サーカスはオートバイが地球儀の中で爆音を鳴らすので鼓膜が破れそうだった。三好サーカスは分福茶釜と同じ綱渡りの曲芸をよく覚えている。その芸は、自分と同じくらいの年齢の少女がしていた。あの子は学校に行っているのだろうか?人さらいに遭って、サーカスに連れてこさされたのだろうか?そのころ、茂平には時刻を知らせる放送塔ができて、その時々の流行歌を流していた。3ヶ月が半年ほど、マヒナスターズが歌う「番頭はんと丁稚どん」で、大村崑ちゃんの台詞がはいっていた。~おっ母ぁ、わてはお店をしくじって、サーカスにはいりました~社会の底辺を感じさせる悲...あれはサーカスだ

  • 四国遍路

    岡山県玉野や児島から、四国の屋島の背後に険しい連山が見える。それが、五剣山。あの山にいつか登りたいと思っていたが、今回琴平に行く便があったので登ってみた。五剣山は一つが崩落し、現在は”四剣山”の状態で、四国霊場の「八栗寺」より上は登山禁止になっていた。八栗寺のお遍路さんは、みな絵になるような服装と持物をバシッと決めてのお参りだったが、自家用車か観光バスで来て、そこからはケーブルカーで上り・下り。それが今風の巡礼なんだろうが、本来の修行というよりは、娯楽のように見えた。弘法大師は僧名を空海といい、774年善通寺市で生まれたと伝えられている。のち遣唐使に随行して入唐し、長安で研鑽につとめ、806年帰朝し真言宗を伝えた。八栗寺は、昔、大師がここにきて、焼き栗を八つ植えたところ、それがみな芽を出したので八栗寺の名...四国遍路

  • 高松城・丸亀城・岡山城・備中松山城・福山城の今

    日本100名城の、高松城・丸亀城・岡山城・備中松山城・福山城の現在。・・・・・・・・・高松城場所・香川県高松市訪問日・2022.5.29変化なし。香川県と高松市が天守閣復元を計画しているが、まだ文化庁の許可がでていない。・・・・・・・・・丸亀城場所・香川県丸亀市訪問日・2022.5.28西日本豪雨などが原因で、南西部の石垣が大規模に崩落した。現在復旧作業中。石垣工事の修復工事は2025年完了の予定。・・・・・・・・・岡山城場所・岡山県岡山市訪問日・2022.5.28「令和の大改修」工事中。公園の全域が立入禁止。「令和4年11月リニューアルオープンを予定しています」そうだ。”大改修”とは、耐震化、展示の一新、底壁の塗りなおし、を行っている。・・・・・・・・・備中松山城場所・岡山県高梁市訪問日・2022.5....高松城・丸亀城・岡山城・備中松山城・福山城の今

  • 秘境のターミナル駅、「備後落合駅」に行ってみた

    比婆山に登った後で麓の駅、備後落合駅に寄った。山あいの、冬は雪国の駅は、びっくりするほどの鉄道ファンがいた。しかし三本の列車が発車したホームには、ふたたび静寂そのものの風景に戻った。このターミナル駅は今、ターミナル機能だけでなく、鉄道そのものが廃止の対象となっている。盛時には200人が働いていたというこの駅も、そして県北の三大ターミナル駅である津山駅・新見駅・三次駅も、ほぼ同様な立場になっている。山の風景も,海の風景も美しいが、・・・このままいけば、100年後か200年後には東京を残して日本列島は沈没してしまうような思いがした。場所・広島県庄原市東城町日時・2022年5月18日午後2:30頃秘境のターミナル駅、「備後落合駅」に行ってみた

  • 新選組の谷三十郎

    新選組の池田屋にも乗り込んだ谷三十郎は、元備中松山藩士。三十郎は新選組の多くの例に洩れず、横死かつ頓死の死に方をしたようだ。その三十郎が現代に松山城主として蘇り、人気を博している。名を「さんじゅーろー」に変え、姿は猫に変え、全国(車のナンバーが全国版)から城主を見に来ていた。私は猫代が惜しくて(500円)、本物の代わりに、石を撫ぜてから去った。登城日・2022年5月19日新選組の谷三十郎

  • 「第55回 福山ばら祭 2022」に行った

    3年ぶりに開催の「福山ばら祭」に、3年ぶりに行ってみた。(2022.5.14)今年は広島FFと同じで、パレード無しでの開催だった。(緑町公園)パレードは無くても、結構楽しめた。そのうち、「ふくやま大道芸」を動画にした。↓(ばら公園)「第55回福山ばら祭2022」に行った

  • みかん輝く黄金の島、大長

    戦後の農政は、土地改革という歴史的大仕事があったが、それは占領時代のこと。独立後の日本農政は、豊富な予算をひたすら”稲作”と”農業土木”につぎ込んだだけ、という思いがする。昭和30年代の初頭、西日本の沿岸部を中心にミカン栽培が推進され、先進地の大長(おうちょう)は誰もが名を知る島となった。・・・・・・・・・・みかん輝く黄金の島、大長「島」斎藤潤みずわの出版2010年発行昭和30年代半ばに温州ミカン一箱が当時の金額で数千円した。小さな島から大阪市場へ直行するミカン専用船があった。王長は、黄金の島の異名をとった。「柑橘類は、やはり島が中心です。周囲が海で気温が下がりにくい、傾斜地が多く水が少ない、風が比較的当たりにくい、という条件が、栽培に適しているんです」水分はぎりぎりまで絞り最低限の量だけをパイプで点滴してやる...みかん輝く黄金の島、大長

  • 北前船

    (鞆港・2020年9月14日)「せとうち産業風土記」山陽新聞社昭和52年発行花形「北前船」寛文12年(1672)日本海から下関に入り大坂に至る「西回り航路」が開発されると、尾道、鞆、玉島、下津井、三蟠、牛窓などの各港は一段と活気を帯びて来た。その年の秋口、瀬戸内海の島々に巨大な白帆を見え隠れさせながら、千石船の一団が下津井港を目指して船足を速めていた。「うわーっ、来たぞ」。岸壁で出迎える港問屋、倉庫業者、はては髪結いから小間物屋まで、港中が色めき立った。北海道の松前、小樽を40~50日前に出発した「北前船」が初めてやってきたのだ。「瀬戸内海沿岸部は干拓の歴史そのものでもる。新田には有効な有機肥料が喉から手の出るほど欲しかった」。北前船が運んできた干鰯、羽ニシン、ニシンしめかすなどが人気を集め、江戸後期、下津井港...北前船

  • 高瀬舟

    岡山県三大河川の高梁川・旭川・吉井川には、どの川にも高瀬舟が運航していた。鉄道の開通に合わせるように姿を消した。(柵原ふれあい鉱山公園2022.4.6)↑の説明碑、高瀬舟(たかせぶね)柵原のある美作の国は山国でしたが、吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、経済活動が盛んでした。江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。高瀬舟は年貢米をはじめ、木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。この高瀬舟は、1992年に再現したものです。・・・・・・・・・・・・・目で見る岡山の昭和高梁川を遡る高瀬舟帆を揚げ、地を這うように引き綱を引いて河を遡っていた高瀬舟が、伯備線の開通でその姿を消した。(目で見る岡山の...高瀬舟

  • 銘仙のおしめ

    戦時中、”産めよ増やせよ国のため”の時代は母子ともに栄養失調の時代でもあった。出産祝いにもらって食べた、(漁師の隣家からの)魚がおいしかったことを母は何度も話していた。産まれる直前まで畑仕事をしていたのは、どこの農家の嫁も同じ。この時代に出産した母のことを思うと涙が出そうになる。「勝央町史」勝央町山陽印刷昭和59年発行お産「銘仙のおしめ」お姑さんにお湯を沸かせてもらうように頼み、産婦の腰を一生懸命こすりました。細い身体が骨ばっていて、この家の生活が全部この人の腰に乗っかかっている感じです。40歳近いご主人は、この6月召されて父母と子供5人それにお腹の胎児を残して沖縄に出征しているということでした。当時でも助産婦は妊婦に「栄養と休養を十分とるよう」などと、現実離れの指導をしたものです。逼迫した食糧事情に、農家とい...銘仙のおしめ

  • ゼロの文学

    軍国主義におもねれば別だが、作家にとって表現の自由を奪われたら、その時点で作家は成り立たない。岡山に疎開していた永井荷風が、終戦翌日の日記に記した”月佳なり”には新時代への期待や解放間がよく出ている。ゼロの文学新聞は戦争記事でうまった。男は国民服とゲートルをつけ、女性はモンペをはくことになった。そんななかで作家たちだけが自由を主張することはできない。徳田秋声の傑作『縮図』は、芸者に身を売った女の半生を軸とした小説であったが、時局をわきまえぬものとして新聞に連載中、中絶、作者は昭和18年に死んだ。谷崎潤一郎の『細雪』は中央公論に発表されたが、ただちに禁止された。永井荷風の『踊り子』は、発表の可能性のないまま、ひそかに書きつづけられた。・・・昭和20年8月15日戦争は終わった。文学の自由は復権した。荷風・白鳥・潤一...ゼロの文学

  • 朝顔の咲かない夏

    子どもの頃の夏休み、どこの家にも朝顔とヒマワリは咲いていた。花が終わると種をとり、それを翌年咲かせていた。それが毎年つづいていた。しかし朝顔の咲かない夏があった。昭和20年頃から24年頃までだろうか。季節感の回復昭和21年5.12天使人語日本の新緑や花の美しいのに、今さらながら目をみはるのである。つやつやしい柿若葉や欅、栗など木々の新芽、スクスクと伸びている麦の青さ、それに山吹やつつじなど、初夏の山河は美しい。目に青葉の句もおのずと口にのぼる。初がつおの方はまだ実感に至らぬが。花や緑も何年かぶりに接する心地がする。平和になって季節感をとりもどしたのである。五月といえば、去年の今頃はB29の絨毯爆撃がいよいよ烈しく、家を焼かれ、肉親と離れ、花や緑を賞するどころではなかった。本土決戦で敵を殲滅するとか、一億玉砕で国...朝顔の咲かない夏

  • 「少女たちの戦争」 にがく、酸い青春

    (昭和中期では)笠岡東中や大島中地区の人が、笠高・笠商・淳和に通学する時、笠岡工業生と対面する。ほぼ決まった時間に同じ場所で高校生同士が対面する。女学生はそこで工業生に恋心を持つことがある。その一瞬が、毎朝の喜びとトキめきで、吉田拓郎風にいえば♪あゝそれが青春、の時を過ごす。その一瞬以上の恋はなかった(と思うが、違うかも)。(昭和・戦時中では)↓人命が軽すぎた時代の青春。にがく、酸い青春新川和江「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行旧制の女学校の一年生の晩春の頃だったと思う。水戸の聯隊に入営していた兄に、月に一、二度、ぼた餅やちらしずしを重箱に詰め、母と一緒に面会に行くのである。水戸から聯隊行きのバスに乗るのだが、とある停留所を通過する時、長身の学生が路上に立っているのを見た。高等学校も高学年の学生である...「少女たちの戦争」にがく、酸い青春

  • 「少女たちの戦争」めぐり来る八月

    旧制女学校の、工場への動員は”軍服”と”兵器”に分かれるが、兵器に派遣された人たちは戦後も、何年かは口を閉ざしている。機密の呪縛や、造った物の使途への自責の念がつづいたようだ。めぐり来る八月津村節子「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行女学校に入学した年に太平洋戦争が始まり、旅行と言えるのは、三年生の夏の赤城山登山で、目的は心身の鍛錬である。体操服にもんぺをはき、杖にすがって、あえぎながらただ歩き、ただ登る。それでも山頂で写した写真は、日焼けした顔に白い歯をみせてみな笑っている。まだその時には、戦争に負けるなどとは思ってもいなかった。私たちの目標は、心身を鍛え、銃後の守りを固め、東洋平和のためのいくさに勝つことだけだった。軍国思想の教育が,真っ白な頭の中にたたき込まれていて、反戦思想など芽生える隙もなかっ...「少女たちの戦争」めぐり来る八月

  • 「少女たちの戦争」 子供の愛国心  

    為政者とは別として、また言われなくても、国を愛する、思う気持ちはだれにでもある、という話し。「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行子供の愛国心有吉佐和子紀元二千六百年(1940年)を、私はジャバ(ジャワ島)にある日本人学校で迎えた。前々から練習していたので、紀元節の当日には「紀元は二千六百年」と勢いよく奉祝歌を合唱することができた。日華事変が起こったばかり、大日本帝国は軍国主義的色彩を帯びて世界に冠たる日を夢みていた頃のことである。二百人余りの生徒たちは皆日本人で、先生たちももちろん日本人である。紀元節の二月十一日も灼熱の太陽が輝き、校長先生は壇上から校庭に居並んだ全校生徒に訓示をしていた。「皆さんは、大日本帝国の国民であることに誇りをもっていなければならない。日本人は世界第一級の国民なのだ。日本は一等国...「少女たちの戦争」子供の愛国心

  • 「少女たちの戦争」 スルメ

    黒柳トットちゃんは、スルメが欲しくて、旗をふったことをくやんだと書いている。「私だって、戦争に加担したんじゃないか」と。スルメ黒柳徹子「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行生まれて初めてスルメを食べたのは小学校の低学年、もうそのころは、だんだん戦争がひどくなり若い男の人は出征していく時代だった。駅が賑やかだったのは、千人針を手にした女の人も多かったけど、出征兵士を送るグループがいたことだった。駅の改札口の所に、出征する兵隊さんと、その家族が並ぶと、隣組の人たちとか、かっぽう前かけに、「在郷婦人会」というようなタスキをかけた女の人たちが、ぐるりと、とりまき「○○君、万歳!」と叫んで、手をあげた。兵隊さんや家族は「ありがとうございます」と、おじぎをし、兵隊さんは「行ってまいります!」と敬礼をし、「万歳!万歳!...「少女たちの戦争」スルメ

  • 「少女たちの戦争」公文書破棄

    海軍経理部にいた橋田壽賀子の終戦時の体験談。空襲・終戦・いさぎよく死のう橋田壽賀子「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行とにかくアメリカ兵が進駐してくる前に、重要書類を焼却せよという命令で、その日から、私たち下っ端職員は、総動員で書類を庭へ運び出し、三日三晩ほとんど寝ずに燃した。ギラギラと灼きつくような太陽の下を、重い書類を抱えて庭を往復し、目は煙で真っ赤に腫れあがった。頭の中は真空状態で、なにも考えられなかった。ただ、アメリカ兵がやってきたときは、いさぎよく死のうと覚悟を決めていたから、肉体的な苦しみにも耐えられたのではないかと思う。「少女たちの戦争」公文書破棄

  • 坊つちやん

    場所・愛媛県松山市・道後温泉本館前「星のあひびき」丸谷才一集英社2010年発行『坊つちやん』のことあの日本で一番有名な中篇小説を何十回目かにまた読んで、妙なことが頭に浮かんだ。坊つちやんに優しい「清(きよ)と云ふ下女」は坊つちやんの実の母なのではないかと思ったからである。そして、一体どうして今までこのことに気づかなかったのだろうと不思議な気さへした。さう思ふくらゐ、清が実の母なら話の辻褄が合ふのである。みんなが100年間そのことにちっとも思ひ当たらなかった、ここで考へてみる。まず作者の書き方に問題がある。老獪であり巧妙である。じつに上手に隠してゐる。漱石は頭がよいことになってゐる。事実、よかった。しかし作家としての彼はノイローゼ患者で、執筆はノイローゼの治療のための療法だった。もう一つ、伝記的な条件がある。漱石...坊つちやん

  • みんな軍国少女ですよ

    軍国少年や軍国少女のコアな世代は、およそ大正14年生~昭和4年生と思っている。周囲が軍事一色の時代に育ち、分別つくまもなく年少兵になったり、竹槍で本気で米兵を殺す(それ以外の世代は訓練に出る意識)愛国少女、いちばん時代にほんろうされれている。脚本家・橋田壽賀子は、その大正14年の生まれ。「渡る世間にやじ馬ばあさん」橋田壽賀子大和書房2021年発行太平洋戦争、死んでも忘れられない光景があるあの太平洋戦争の頃はみんな軍国少女ですよ。私なんかガチガチの軍国少女でした。聖戦だと言われていたから、日本はよい戦争をしているんだ、そう思っていました。鬼畜米英だとか、お国のためには我慢しなければならないということを、とことん教えられ洗脳されていましたから、食べる物がなくても、ちっともつらいとは思わなかった。いやお国のためなら死...みんな軍国少女ですよ

  • 審判

    父は、中支の戦線で「刀で人は斬ったことはないが豚は斬った」と話していたが、その豚は現地人の家畜を泥棒したのに違いない。よく言われるように野戦では、最初の殺しは動揺するが、次からはなんとも感じなくなる。それでも、なんらかの負い目みたいなものを生きている限りは、背負っていたのだと思う。・・・・審判「武田泰淳全集第二巻」筑摩書房昭和46年発行私は終戦後の上海であった不幸な一青年の物語をしようと思う。この青年の不幸について考えることは、ひいては私たちすべてが共有している不幸について考えることであるような気がする。老教師の息子の二郎が現地復員した。私は老人から息子について何度も聞かされていた。私自身もその青年がこの家へもどってくるのを待ち望む気持ちになっていた。老人の自慢の息子はたしかに立派な青年であった。二郎は政治上の...審判

  • 硫黄島から生きて戻った日本兵

    硫黄島(いおうとう)には陸海軍合わせて約21.000の日本兵がいた。栗林中将が、硫黄島守備隊全員に配布した『敢闘ノ誓』はよく知られているが特に一・我等は敵10人を斃さざれば死すとも死せず一・我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさんは兵の行動にいかされた。昭和20年3月21日大本営は、「戦局ついに最後の関頭に直面し、17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行するとの打電。通爾後通信絶ゆ。この硫黄島守備隊の玉砕を、一億国民は模範とすへし。」と玉砕を発表した。実際にはおよそ1.000人の兵が生還した。どういう状況で、どういう人が帰還したのだろう。その一例。・・・・・森茂財閥御曹司は部下を投稿させたのか森茂中尉、30歳(戦死時)。全身傷だらけの森茂少尉が生き残り...硫黄島から生きて戻った日本兵

  • 千三年の鳥居松

    場所・岡山県笠岡市入田訪問日・2019年10月14日千三年の鳥居松なぜ「千三年の鳥居松」と呼ぶのか、その概略は『お代官様が領内視察をしていたとき大松に驚き「あの松の樹齢はいかほどじゃ」と尋ねると、庄屋のお供をしていた与七という男が即座に「今年でちょうど千三年になります」と答えた。「どうして判るのじゃ」「松は千年たつと逆葉(さかば)を打つと申します、ちょうど今より三年前に逆葉を打ちました」以来、土地の人は千三年の鳥居松と呼んでいた。国師神社の参道の端に切り株が祀ってある。千三年の松は、第二次世界大戦の終わりごろに木造の軍艦を造るという軍の命令で切り倒された。「陶山100選」陶山地区まちづくり協議会アド工房平成27年発行千三年の鳥居松

  • 政治家になる人

    たたきあげで政治家になる人は、いい意味でも悪い意味でも、たくましい。別の世界の人と思うことがある。・・・・おごりの春の片隅で「後列のひと」清武英利文芸春秋2021年発行竹岡和彦は、同志社大学時代は新左翼系学生運動の闘士であった。反対デモで捕まったこともある。ただし、思想的な根は浅い。のちに、「森下仁丹」社長で自民党参院議員だった森下泰を「師匠」と仰ぎ、同党の大阪府議会議員も務めている。・・・・1974年6月、森下の参院選挙運動が始まる。竹岡はビラを配り、ポスターを貼り、マイクを握る。間もなく騒ぎが持ち上がった。証紙を貼ったポスター以外に、事前運動用のものを貼り続け公職選挙法違反に問われようとしていた。貼ったのは森下仁丹社員だったが身代わりで自首し、肝心なところでは黙秘を貫いた。森下事務所に入って12年後、彼も候...政治家になる人

  • 五平太(ごへいだ)の煙

    小学生の時、日本の石炭産業は全盛期だったが、茂平で石炭を見たことは一度もない。ゴヘイダという言葉も知らない。城見小学校に行けば真冬の時に教員室に達磨ストーブがあり、石炭をくべていた。ストーブの隣にはバケツに入った石炭があった。手に取れば汚れるだけなので、木山捷平のように珍重するとか欲しいとか思ったことはない。茂平の子は踏切をわたらないと学校まで行けないので、機関車の真っ赤に燃え上がる釜、スコップで石炭をすくう、釜に投げ込む、飛び散る汗、を踏切の真下から見ていた。ゴヘイダの煙を身をもって体験することは何度もあった。大門~笠岡間には金崎トンネルがあり、真っ黒い煙が顔に、煤となって襲い込んできていた。・・・・・五平太(ごへいだ)の煙「小説を、映画を、鉄道が走る」川本三郎集英社2011年発行太宰治と親交のあった私小説作...五平太(ごへいだ)の煙

  • 「一六銀行って、知っている?」

    中学校のクラスにも、高校のクラスにも質屋の息子がいたが(息子と書くのは、女生徒の親までは知らないので)、その質屋のことを「しちや」・「ひちや」と呼ぶ人はいたが、「いちろく銀行」と言う人はいなかったような気がする・・・けど。「家計簿の中の昭和」澤地久枝文芸春秋2007年発行若い人に「一六銀行(いちろくぎんこう)って、知っている?」とたずねると、みんな首を横にふる。質屋(しちや)のことである。江戸時代から質屋はあり、日本だけでなくアメリカにもある。庶民の銀行が質屋だった。質草は、3ヶ月ごとの利上げをつづけていれば、流されない(所有権の移転はない)。元本と利息を払えば、もとの姿で手許にもどってくる。質屋の蔵は堅牢にできていて、預かった衣類に虫がつくこともないし、少々の火事にはビクともしない。客の秘密を守るのが質屋の歴...「一六銀行って、知っている?」

  • 楠池のほとり

    ~楠池を見ながら昔の話を~池の土手を歩いていたら、農夫さんから話かけられた。瀬戸内地方には星の数ほど溜池があるが、そのひとつひとつの池に、地域の人の思いが詰まっているような気がする。場所・岡山県笠岡市・楠池日時・2022.4.9・・・・この池に、ある人がハスを2~3植えました。その後繁殖して蓮根を掘るようになりました。地区の人だけでなく、遠方からも取りにきていました。池の水を抜いて、そのあとはポンプで抜いて干して、にぎやかにやっていました。いい時代でした。・・・・土手に桜を植えようと、みんなで桜を植えました。木は大きくなり、花もよく咲くようになりました。ところが、木の根が太くなって池の土手から水漏れがでるようになりました。植樹したころの人は、亡くなったり高齢化し、若い人は無関心が多いです。・・・・どこに田んぼに...楠池のほとり

  • 2022年の桜

    (西から)広島県尾道市・福山市、岡山県笠岡市・井原市・浅口市・総社市・倉敷市・岡山市・瀬戸内市・備前市・赤磐市・津山市、岡山県小田郡・浅口郡・和気郡・勝田郡・久米郡、の桜を見てまわった。今年は晴れの日がつづき、多くの桜を楽しめた。尾道・福山笠岡井原・浅口・小田倉敷・岡山・総社瀬戸内・備前・赤磐・津山・和気・勝田・久米2022年の桜

  • 奈良光枝のこと

    二十歳前後の頃、テレビ東京系の懐メロに奈良光枝が出ていた。それをいっしょに見ていた母は、「奈良光枝はそりゃあ美人じゃった」と見たことでもあるように話した。たしかに、テレビに映る奈良光枝は飛び切りの美人だった。・・・・藤原正彦先生の”あこがれの人”への思いは、ほぼ私たちの世代も似たようなもので、先生の思いは非常によくわかる。・・・・・・・・・奈良光枝のこと「始末に困る人」藤原正彦新潮社平成23年発行昭和21年に「或る夜の接吻」という映画が封切られた。日本初の接吻映画と宣伝されたが、私がよく見たところ主演の若原雅夫と奈良光枝は接吻していない。接吻をほのめかしているが絶対にしていないはずだ。私の奈良光枝は清純無垢でそんなふしだらをするような人間ではないのだ。私などとは根本的かつ本質的に違うのだ。奈良光枝を初めてテレビ...奈良光枝のこと

  • 「明日、仏さまにないやっとごわんど」

    陸軍特攻基地として知られる「万世飛行場」のはなし。・・・・・ある夜、ソヨは婦人会の女たちと、炊事場で出撃用のおにぎりを作っていた。出撃前日の青年が二階から降りてきた。倉田道次という少尉だった。「それは誰が食べるの」「みなさんが・・・・」奉仕隊の一人が小さな声で答え、もう一人が「あなたたちが,持っていくと、聞いています」と途切れ途切れに言った。倉田の声は穏やかだった。「もう遅いからそんなことをしないで、早くお帰り下さい。それを食べる時間には僕たちはもう生きていません・・・・・・」出撃後、二、三時間で彼らは沖縄の敵艦に突入するのだ。倉田はまだ二十二歳である。「だから作らなくてもいいよ。残った人たちに食べさせてあげて下さい」女たちは黙ってうつむき、ぽたり、ぽたりと涙がおにぎりに落ちた。それを見て倉田は「塩はいらないね...「明日、仏さまにないやっとごわんど」

  • 会社に行って鍋ややかんを修理する

    就職した会社はもともと、海軍呉鎮守府からの土木・建築の請負業だった。ところが、敗戦で海軍は無くなり、広島の本社は原爆で破滅し、無の状態のところにさらに復員兵が復職してきた。その時代をベテラン社員が話す中で、「会社に行っては鍋やヤカンを修理していた」ことをよく覚えている。どんな仕事なんだろう?少し参考になるような本があった。↓「少年時代」安野光雅山川出版社2015年発行戦後すぐのころはすることがないのでアルバイトをした。土建業の堀内組の堀内さんは、鍋の底に黒いものを塗って火にかけると、黒い方がはやく沸騰する。「それを実演販売して、鍋の底に塗る墨を売るのだ。あ、そういえば穴のあいた鍋を修繕するというのもあったなあ。ああ、あれは硫黄に墨を混ぜて型に入れて固めればいいんだ。熱した鍋の穴にあててこすると硫黄がとけて穴をふ...会社に行って鍋ややかんを修理する

  • 桧垣直右

    場所・岡山県玉野市築港桧垣は戦前の内務官僚知事だが、宇野港の開発功績者として新聞に名が載ることが、今でも時折ある。宇野港宇野港が世の注目をあびはじめたのは日清戦争後のことだ。国力増強、軍備拡張の観点から、時の海軍大臣西郷従道や第十一師団長乃木希典ら多くの要人が現地を視察し、その自然条件のよさから評価したが、すぐには実現せず、また1904(明治37)年宇野線敷設の仮免許がおりたときも見おくられ、翌々年起工式まで行われながら、県会と県知事の対立でもめ、けっきょく内務大臣の指示で強行され、1909(明治42)年に近代的な宇野港が完成した。「岡山県の歴史散歩」山川出版社1976年発行第8代岡山県知事桧垣直右宇野築港計画は、日露戦争中の明治37年県会で、当時の知事桧垣直右によって提案されたが、否決された。このため知事は翌...桧垣直右

  • 田村占義

    場所・岡山県浅口市鴨方町鴨方長川寺鴨方の長川寺に胸像があった。氏のことは知らないので、墓碑から転記する。昭和24年果物出荷組合を創立し遥南園芸農業協同組合及び遥南園芸園芸農業出荷組合の名称にて昭和53年迄30年間殆ど組合長として、この運営に当たり郷土産業のため献身努力せり太平洋戦争中海軍参謀及び陸軍参謀として奮戦す従五位勲四等海軍中佐田村占義(浅口市鴨方町)撮影日・2022.3.21田村占義

  • ズロースのはじめ

    ズロースは白木屋百貨店の火災がきっかけである、という本や新聞記事がよくあるが、実際はどうなんだろう?母は火災前の、昭和6年頃にお腰からズロースに変わり、おばも火災前の、昭和5年頃には既にズロースをはいてる。なお、父方と母方の祖母とも、一生お腰のまま過ごしている。少なくとも白木屋の火災は、いわれているほどには関係ないように思える。ズボンやスカートの普及とも関係がいくらかある。たぶん、昭和になってから女性はズロースをはき始め、戦時中からズボンを履くようになったのであろう。昭和は、食べる物が激変したが、着るものも一変した。・・・・・(昭和7年、白木屋の火事)「隅っこの昭和」出久根達郎角川書店平成18年発行ズロース日本女性にズロースが普及するきっかけは、昭和7(1932)年12月16日の、日本橋の白木屋デパートの火災、...ズロースのはじめ

  • 万代常閑

    場所・岡山県備前市西片上真光寺三重塔と万代常閑像。万代常閑(もずじょうかん)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)1675-1712江戸時代前期の医師。延宝3年生まれ。備前岡山藩医。万代家11代常閑。家伝の妙薬「反魂丹(はんごんたん)」を富山藩につたえ,富山売薬の祖とあおがれた。天和(てんな)3年(1683)富山藩主前田正甫(まさとし)に薬を献上したこと,あるいは正甫の家臣を常閑が長崎で治療したことが機縁という。正徳(しょうとく)2年11月20日死去。38歳。姓は「まんだい」ともよむ。じつは、境内でなく国道2号線の歩道に建っている。撮影日・2022年4月5日万代常閑

  • 浮田佐平

    場所・岡山県津山市山下鶴山公園(津山城跡)城跡に建つ「浮田佐平翁像」、戦前は胸像でなく全身の像だったが、供出されたそうだ。浮田佐平うきだ-さへい1867-1939明治-昭和時代前期の実業家。慶応3年10月25日生まれ。家業の製糸業をつぎ,機械製糸の導入など改良と近代化につとめ,大正元年浮田製糸を設立。植林業,果樹園経営,奥津峡の観光開発なども手がけた。また,津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」をおこした。昭和14年2月1日死去。73歳。美作(みまさか)(岡山県)出身。デジタル版日本人名大辞典撮影日・2022年4月6日浮田佐平

  • 津山城の桜 (岡山県津山市山下・鶴山公園)

    登城日・2022年4月5日(夜桜)、6日(午前)石垣の見事さで有名な津山城。天守閣の再建が期待されるが、地元でその議論はないようだ。備中櫓が再建したので区切りかな?「日本100名城」と「さくら100選」の双方に指定されている。津山城の桜(岡山県津山市山下・鶴山公園)

  • 足守陣屋の桜  (岡山県岡山市北区足守)

    登城日・2022年3月30日足守陣屋石垣と水堀宮路山南麓に構えられた陣屋は御屋敷と呼ばれ、南、西辺にはL字状に石垣と水堀が廻らされていた。秀吉の正室北政所の実の兄である木下家定は、慶長6年(1601)足守に石高二万五千石を与えられた。足守陣屋は、現在の足守小学校の北隣にあたる位置にあった。「よみがえる日本の城5」学研2004年発行足守陣屋の桜(岡山県岡山市北区足守)

  • 備中高松城の桜  (岡山県岡山市北区高松)

    登城日・2022年3月30日あまりに有名な”高松城水攻め”、この城は、戦国のむかし、本丸のほか二の丸・三の丸・池の下丸があり、ふだんは橋で結ばれて、いざという時は橋を切っておとすようになっていた。周囲はふかい沼地、まことに要害の城だった。この城としての長所を逆手にとったのが、秀吉の軍師黒田官兵衛孝高である。近郷の百姓を動員し、土嚢一俵の運搬に銭100文と米一升をあたえ約2.6kmの大堤防をわずか12日で完成し、足守川を堰き止めた。ときは梅雨、みるみるうちに増水し、城は泥酔の中に孤立した。(岡山県の歴史散歩山川出版社1976年発行)浮き世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して備中高松城の桜(岡山県岡山市北区高松)

  • 富田茶臼山城の桜  (岡山県備前市西片上・茶臼山公園)

    登城日・2022年4月5日備前市の桜の名所。茶臼山公園に「茶臼山城跡」という標識が建っている他は、城跡であることは実感できない。展望はすばらしく、片上湾と桜の眺めがいい。登城口は山麓の葛坂峠で、そこでは戦国時代に宇喜多氏と浦上氏の合戦があったそうだ。富田茶臼山城の桜(岡山県備前市西片上・茶臼山公園)

  • 周匝茶臼山城の桜  (岡山県赤磐市周匝・吉井城山公園)

    登城日・2022年4月5日旧吉井町周匝の茶臼山城は、天空の城の趣があり、それに加え春に桜が咲くと一層見事な景観となる。戦国時代の山城で土塁や空堀遺構が残っている。城は江戸時代初期に廃城になったが、周匝の町には陣屋が置かれ、町は水運の要所として栄えてきた。山頂には展望台を兼ねた模擬天守があり、吉井川の清流をゆったりと眺めることができる。天守閣横の装置では、ボタンを押すと「吉井川詩情」という五木ひろしの歌声が流れる。吉井川は四国の清流のように、静かな自然に囲まれ、見ているだけで心が安らぐ。周匝茶臼山城の桜(岡山県赤磐市周匝・吉井城山公園)

  • 尾道城跡の桜  (広島県尾道市・千光寺公園)

    登城日・2022年4月2日千光寺公園の西端、この写真のほぼ中央くらいの位置に「尾道城」があった。岡山城や福山城の天守閣が再建されるころ、尾道城は再建でなく新たに築城された。尾道城には刀剣や鎧が展示されていたが、(たぶん)10年ほどで落城した。そのご立入禁止が40年ほど続いたが、痛みや崩落も懸念されて、耐震で危険ということで1~2年前解体された。今年その尾道城天守閣跡に展望台が完成した。天守閣はなくなったけど、石垣は昔(といっても江戸時代でなく昭和40年頃の)変わらず遺構を利用している。尾道城跡の桜(広島県尾道市・千光寺公園)

  • 因島水軍城の桜  (広島県尾道市因島中庄町)

    登城日・2022年4月2日因島村上水軍の資料を展示した城風の記念館。10年ほど前訪れた時、桜の季節に再訪問したいと思った。今回やっと、丘の上に建つ模擬天守と桜、菜の花を眺めることができた。因島水軍のお城として知られる青影城は、島内の道路標識が増えていた。因島水軍城の桜(広島県尾道市因島中庄町)

  • イチゴを作る(茂平の苺)  

    茂平のイチゴ(父の話)茂平のいちごは甘くて評価が高かった、茂平のイチゴは昭和50年代が全盛期ではなかっただろうか?昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。ハウスで栽培してから金になりだした。今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。作るのに手間がかかりすぎる。よそでも栽培が増えた。茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。のが原因だろう。2000年05月28日・・・・・それにしても茂平のイチゴは茂平でしか作れない味があった。消費者の購入スタイルの変化に押されたように感じる。いちごは、農協がすすめた。パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。こんだぁ、毎年金が農協にはいる。農協が取り替えてそれで払おてくれた。今は、一時に比べ半分くらいになった。(茂平のいちごは)手間がかかる。骨が折れ...イチゴを作る(茂平の苺)

  • ハレの日の食べもの  

    ハレの日・ハレの食事鮨県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。赤飯赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。餅正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用いる。自分の家で食べる米の餅はなるべく倹約をして黍餅や粟餅を多く用いるようにした。柏餅カシワともいう。米の粉の団子の中に餡をいれる。木の葉につつむ。5月5日の節句に作る。甑で蒸すことが多いが、羽釜の底に簀の子をいれて蒸気で蒸すこともある。清酒正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。甘酒笠岡地方では、旧1月11日の鍬ぞめにはカドに並べた農具や門松に甘酒を少しずつ供え、人も飲んだ。「岡山の...ハレの日の食べもの

  • 進駐軍のパイナップル 

    進駐軍のパイナップルこれは敗戦当時、福山市入船町で国民学校の生徒であった義兄(姉の夫)の話。福山に進駐軍が来た時、そこからカンズメのパイナップルをもらった。それを食べた。食べたら、こんなに世の中においしいものがあるとは知らなんだ。ものすごく美味しかった。それからパイナップルが好きになった。チョコレートも貰って食べた事がある。アメリカ産のを。甘いのを。マッカーサー様のおかげでその後も今の日本を築いてくれた。ナマのパイナップルも好きだが今でもカンズメのパイナップルの方が好きでよく買う。2002・1・3・・・・・・第二次大戦の敗戦国のドイツやイタリアでは、国民も兵も飢餓になることはなかった。日本だけが飢餓になった。・・・・・・ララ物資敗戦直後の日本人にとって、アメリカはまず第一にジープであり、第二にコーラであり、そし...進駐軍のパイナップル

  • イチジクを作る 

    茂平に平成の頃より、「イチジクの里・茂平」の絵看板が国道沿いに掲げられた。土壌が適しているのと、明治以来の研究熱心な伝統栽培で、味覚への近隣地域の人気・評価は高い。・・・(父の話)イチジクこれの寿命は長い。えださえ切ってやっとればいつまでも大丈夫だ。茂平のイチジクは色も違う、味も違う。新涯が主でちょっとだけ塩分を含んだ土地なんで、糖度がよそのより良い。・・・2000・5・14栽培方法?何も今と変わっていない。予防の薬が良うなった。薬がかわっただけじゃ。2000・9・10・・・いちじくはなんもせんでええ。ほっぽりなげじゃ。冬の選定、(ありすぎる)葉っぱを落とす。予防する(桃などにくらべ回数がすくない)。あとはほっとく。楽でゼニになる。2001・2・11・・・・・イチジクの栽培冬に剪定をして。肥をして。肥は昔神戸か...イチジクを作る

  • 茂平名産「干しイチジク」を作る

    干しイチジクは、まさに”珍菓”だった。おいしい程でもない、が不味くもない。お菓子がない時代の役割を、わずかではあるが果たしていたように、今思う。・・・・(実家にて)(父の話)始まりはカタヤマのおじいさんが始めたのが、明治の中ごろじゃろう。干しイチジクは茂平では2軒、ウチとカタヤマにあつめそこから金浦にある神戸屋に出荷していた。「こうべや」は、普段は八百屋をしとった。こうべやにはウチとカタヤマが契約しとった。「こうべや」は言うとけば箱を持ってきてくれて、取りに来て、持っていんで、そうやってまた来て。農協はとおさず直接取引きであった。おいしければよう売れとった。相場のよい年もあった。昔から(自分の子供の時から)ホシイチジクはつずいていたが、硫黄のことで突然なくなってしまった。無花果は捕ったその日に硫黄炉にいれて一晩...茂平名産「干しイチジク」を作る

  • 麦を作る③小麦粉

    小麦小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。小麦粉を水に溶いて作る食品は、うどん、そうめん、ほうとうなど。焼く、煮る、ゆでる、という方法があり豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。「食の人類学」佐藤洋一郎中公新書2016年発行・・・・・(父の話)はったい粉(煎粉・いりこ)どこ...麦を作る③小麦粉

  • ママカリはもう食べたくない

    「ママカリ」は、おいしいので隣家から飯を借りる、という話が年に1~2度新聞に載ることがる。今朝もそうだった。かつては、おいしいと思う人も、いたのだろう。好き好きだから。魚が減った今では、おいしいと思う人も多いだろう。身近な魚でなくなったから。ママカリは雑魚で、子供の時、朝昼晩、それも毎日のように季節によっては食べた。あれだけ食べると、もうほしくはない。・・・・・ままかり(母の話)焼く、酢ズケ、・・・すぐ食べるときにゃぁ。どうにもぎょうさんある時にゃぁ・・・・ぬかずけ。ぬかずけ、米のヌカに塩をいれて。ヌカの甘味がぢょうた。長しゅうもちょうた。一月も二月も。ままかりも、つなしもそうしょうた。おからに漬ければそっちのほうがよかったが、おからは金を出さにゃあ買えんけぇ。2000・12・17・・・・・ままかりといかなごま...ママカリはもう食べたくない

  • ちょんまげを切る

    高祖母(ひいひい祖母さん)は弘化3年(1846)生まれ。戦時中の昭和18年に亡くなった。その長男(管理人の曾祖父)は元治元年(1864)生まれで、終戦直後の何もないとき(昭和20年11月)、伝染病で死んだ。ちょんまげも、そう遠くない昔のことのように思える。「その時歴史が動いた」NHK取材班KTC中央出版2005年発行グッドバイちょんまげ700年以上の伝統を誇り、当時の日本人にとっては魂も同然だったちょんまげ。「このままでは日本は、西洋列強の属国になってしまう」不平等条約を幕府から引き継いだ明治新政府の中で、長州出身の木戸孝允は強い危機感をもっていた。木戸の狙いは、明治天皇を中心とする近代国家を確立することであったが、改革は思わぬところでつまずいた。人々の頭の上にはちょんまげがあった。このちょんまげが問題だったの...ちょんまげを切る

  • 山陽新幹線岡山開通50周年 

    2022年3月15日は、山陽新幹線が開通して50周年だった。テレビニュースを見ながら、それを思い出していた。が、何も思い出せなかった。その程度のニュースでは、たぶん関心がなかったのだろう。当時の日本経済は日の出の勢いだった。5年間くらいで日本経済は、規模が倍増し、年々目に見える生活の変化があった。ネットで1972年を検索すると、沖縄が米領から日本へ復帰した。田中内閣が誕生し、ベストセラーは「日本列島改造論」。岡山駅が開業の頃、鉄道工事は西へ西へと延びていた。人々の関心は岡山でなく福岡開業の方だった。街も山も海も開発一辺倒の時代だった。・・・・・・・岡山開業のセレモニーに写る岡山県知事は武徳さん。この半年後に知事を退いた。小学校の大先輩・武徳さんが県知事をしていた8年は、県境の村に生まれ育った管理人が、”岡山県民...山陽新幹線岡山開通50周年

  • かぼちゃ(南瓜)を作る

    戦後、砂糖がなかった。甘い物に飢えていた。ナンキンを食べると、ちょぼっとだけ甘く感じた。・・・・・・・・・(父の話)昔から作りょうた。植えて、肥をすりゃあ出来きょうた。ようけぃ出来りゃぁ出しょうた。ぼっこう相場はようならん、じゃけいみんな、そう植えりゃえせん。談・2002年8月5日・・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行カボチャ南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。日本には16世紀に渡来した。一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。・・・・・かぼちゃ(南瓜)を作る

  • 「夢の万能薬」ペニシリン

    注射=ペニシリン、とも感じるほど、ペニシリンは名を馳せていた。昭和20年代、30年代、「病気で注射した」と言えばペニシリンしかイメージできなかった。・・・・・「昭和二万日の全記録6」講談社1990年発行人命を救ったペニシリン昭和20年9月、アメリカから大量のペニシリンが空輸されてきた。同年暮れ、幣原喜重郎首相が肺炎にかかった。GHQの軍医長が駆けつけてペニシリンを射った。その効果は強力だった。それまで、ペニシリンは庶民の手に届かない高価で貴重な薬であり、闇で一本一万円したこともある。GHQの指導で森永薬品や東洋レーヨンで製造。ペニシリンは、肺炎、中耳炎、破傷風、結膜炎、性病など細菌性の病気に効き、副作用もほとんどない「夢の万能薬」といわれた。昭和21年に3.930円していたものが昭和23年には513円まで下がっ...「夢の万能薬」ペニシリン

  • コレラで死ぬ

    東大戸の木野山様明治9年を皮切りに猛威をふるったコレラ病は一大惨事を巻き起こし、この病業を免れようとする人々が昼夜の別なく参拝し、ご分霊の請待も相次ぎ格別のご神威の発揚がありました。当地方でも疫病が流行し実業家・高橋律太翁が高梁から分霊を請待してこの地に神社を建立されました。人々はご利益を願って次々氏子になり現在も祀られています。「大井の史跡・石碑・3」大井文化探訪の会2022年発行・・・・・(笠岡市東大戸・木野山神社2022.3.19)「大井文化探訪の会」のウオーキング大会に参加、木野山神社を訪れた。・・・・・・「生きることの近世史」塚本学平凡社2001年発行コレラと戦争蒸気船は「文明」とともにコレラを全世界に広げたのであった。安政5年8月、江戸では1町に多い所では百余人、少ない町でも五、六十人の死者が出た。...コレラで死ぬ

  • 結核で死ぬ

    ”結核”と”伝染病”は、「地震・雷・火事親父」なんかより、ずっと恐れられていた。・・・・・戦争中、国民はほとんど栄養失調になってしまっていた。結核が感染しても無理をするもんじゃけえ、こじらせて本当の肺結核に移行してしまった。ほとんどの家に一人や二人はいた。結核にかかると、皆死んでいった。病人は、納戸の隅に寝ている。そうなったら、あと二、三か月たったら死ぬ。その頃にならんと医者を呼びにこん。「梶島山のくらし・戦前戦後編」福山市・梶島山のくらしを記録する会2012年発行・・・・・瀧廉太郎の生涯1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツにあるライプツィヒ音楽院に留学。わずか2ヶ月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされ、1903年(明治36年)6月29日大分市稲荷...結核で死ぬ

  • 斎藤の「中華そば」

    父はたまに笠岡に行くことがあった。その時は”ふうまん”(=ふーまん・夫婦饅頭・大判焼)を土産に買って帰ってきた。既にふうまんは冷えていたが、小豆のあんこがなんとも美味かった。そして必ずのように「斎藤で支那そばを食べてきた」と言っていた。父の笠岡行は、子ども心に「ふうまん」と「斎藤の支邦そば」がセットになっていた。しかし「ふうまん」はわかるが、「支邦そば」はわからない。なんだろう「支邦そば」?、蕎麦、うどん、???何年か経つうちに「支邦そば」は「中華そば」と呼び名が変わってきた。「即席ラーメン」という商品が田舎でも見聞きしだした。その「ラーメン」という言葉は「中華そば」を意味することのようだった。麺の色が黄色らしい。高校生になって、クラスで笠岡の人がこっそりと、「昨日斎藤が保健所に、△△したので営業停止された」と...斎藤の「中華そば」

  • トマトを作る

    小学校の2年生の頃、神島の親類に行ったとき、庭から野菜の匂いがした。あれの匂いはトマトだ。トマトが熟れているのが見えた。それが生のトマトを見た初めてだった。田舎では昭和30年代前半までトマトは自給作物の外だった。作っていなかった。新品種で匂いが弱くなり、甘みが増した。それで一挙に普及した。今では家製菜園の王さま、生でガブリ食いもおいしい。・・・・(父の話)トマト作って箱へ詰めて出しょうた。(何年か出荷したのか?加工用だろうか)共同で市場へ出しとった。下のみのるさん方の家、あそこで(家が建つ前に)共同で変わったものをつくりょうた。池もあるし。(トマトは)作ったものをみんなに配りょうたが,食ようらなんだ。それで市場へ出しょうた。今はみんなトマトを食べるが。(トマトの出荷は昭和10年前後の話と思える。田舎では昭和30...トマトを作る

  • スイカを食べる

    冷えたスイカを食べる時があった。冷えたスイカは美味しかった。それはお盆の時。盆の来客用にスイカを一個か二個、井戸で冷やしていた。タライに井戸水とスイカを入れて1晩以上かけて冷やしていた。客が揃った頃を見計らい、母が包丁で真っ二つに切る。この時、見る方も少し緊張する。そのわけは、稀に熟れていない、または逆に盛りが過ぎてスカスカの場合があるから。更に等分に小さく切って盆にもって客に出す。そのスイカを食べる。冷えたスイカはうまい。うまかった。(スイカを食べる・松竹映画「馬鹿っちょ出船」都はるみ)・・・・普段は冷えてないスイカ、というより熱いスイカを食べていた。形の悪いスイカを、おやつ代わりで食べていた。水よりは少し腹が太るし、それに甘みもある。スイカの種はカドに向かって吹き飛ばし、食べくさしは牛のエサ箱にほうり込んで...スイカを食べる

  • スイカを作る

    スイカ中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、わが国の呼称はこの漢名によるものである。中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。「岡山の作物文化誌」臼井英治岡山文庫平成18年発行・・・・・茂平もスイカ栽培は盛んだった。ちょっとした衝撃で果実に割れが生じるので、収穫時では家族総出でリレーして荷車まで運んでいた。運搬時も、ゆっくりと家に持って帰り、その後農協の園芸事務所まで持ち込みしていた。後年、母はモグラの災害に悩まされた。どの方法か忘れたがモグラを撃退に成功した。ところが、次に更なる難敵が空から現われた。「今日は早いが、明...スイカを作る

  • シイタケを作る

    かつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、子どもの私もかり出された。ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。「岡山の作物文化誌」臼井英治岡山文庫平成18年発行・・・・・(父の話)何処の家にもちいとずつつくりょうた。売らずに、自分の自給ように。たべりょうじゃ。今年も作ってうえときゃなあいけん。へぇ原木がのうなりだした。談・2000・12・17・・・・・シイタケ(椎茸)香り高く風味もよい。日本特産のキノコ。...シイタケを作る

  • 鶏を飼う

    かつて民家では2~3羽の地鶏を放ち飼したものである。夜になると鳥屋にはいってねたのである。一羽は必ず雄鶏を飼い、自然交配で孵化させた。一番ドリが鳴いた、二番ドリが鳴いたで、などで仕事に出かけた。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行ニワトリ・・・・・最初縁側の下で飼っていた。次、昭和30年頃に養鶏場を作り養鶏を始めた。その次、養鶏場ではゲージ飼いに変わった。昭和35年頃。養鶏をやめて、その場所は農具倉庫になった。昭和40年頃だったかな。・・・・(父の話)(縁側の下の)ニワトリコメの糠と、麦の食べれんいなげなの、コメも。5~6羽飼ようた。貯まったら売りょうた。・・(鶏小屋の)ニワトリ小屋を建って、大部屋で一階と二階で飼ようた。新しい頃で卵をよう産んだ。いっぺんに(建設費の)元がとれた。相場がえかった。・・...鶏を飼う

  • 雑穀をつくる

    正月と旧正月の餅つきには、黍餅を2~3臼搗いていた。黍餅は色も香りもよかったが、硬くなるの早かった。黍は餅以外で食べた思い出はない。・・・・・「岡山県史・民族Ⅰ」昭和58年山陽新聞社出版より雑穀黍(きび)黍には稲黍と高黍がある。普通黍といえば稲黍をさす。夏黍と秋黍にわけられる。二回収穫できる。春蒔は8月、夏蒔は10月に収穫する。昭和40年ごろから栽培しなくなった。小豆栽培の時期によって、夏小豆、秋小豆、中間型がある。雨年は不作である、雨年はササゲの方がよい。手間のかからない作物である。赤飯、アンコなど小豆は必需品であった。小豆相場といわれるように、値段の相違は著しい。小豆、ササゲ、除虫菊、藺草などはとくに相場の変動が激しく、投機的ともいわれた。大豆大豆は夏大豆・秋大豆・中間大豆とあり。吉備高原では葉タバコを栽培...雑穀をつくる

  • 「砂に消えた涙」

    「砂に消えた涙」は、なにか乙女ごころを上手く表現しているなと高校生の時に思った。曲も感傷ムードがある洋楽で、歌唱力に定評があった弘田三枝子が歌いヒットした。・・・・・砂に消えた涙訳詞・漣健二青い月の光を浴びながら私は砂の中に愛の形見をみんなうずめて泣いたのひとりっきりでア、ア、ア、あなたが私にくれた愛の手紙恋の日記それのひとつひとつのものがいつわりのプレゼント白い波の打ちよせる海辺で私は砂の中に恋の想い出みんなうずめて泣いたのひとりっきりで・・・・・・飯田久彦(チャコちゃん)や坂本九(キュウちゃん)や弘田三枝子(パンチのミコ)の歌う歌の詞は、そのほとんどが漣健二だった。洋楽は漣健二がいないと成り立たない、と思えるほど有名な訳詞家だった。洋楽を聴く初め頃、森山佳代子の「月影のナポリ」という曲があった。まだ小学生だ...「砂に消えた涙」

  • 林芙美子の戦争協力

    日中戦争(1932~1945)には、多くの文化人や芸能人、歌手も力士も、軍の要請で慰問等に訪れている。作詞家・作家の、なかにし礼氏は、著作のなかで林芙美子の行動が許せないと書いているが、作家として調子に乗りすぎて表現しているに加え、人間としての感性を疑っているからだろう。なかにし氏も言うように「沈黙の余地」があったのはちがいない。・・・・・・「生きるということ」なかにし礼毎日新聞出版2015年発行林芙美子の戦争協力をいま考える林芙美子(1903~1951)は自らの貧しい生活体験を赤裸につづった日記体の小説『放浪記』(1930)の成功で一躍売れっ子作家になった。しかし文壇では貧乏を売り物にする素人小説家などと陰口をたたかれ、なんとか一発、世間をあっと言わせるようなものを書きたいと切歯扼腕する思いでもあった。そこで...林芙美子の戦争協力

  • 白い脚の記憶

    白い脚の記憶「歴史の温もり」安岡章太郎歴史文集講談社2013年発行戦時中、外地に従軍していた慰安婦には軍が関与していた、とそんなことが最近になって言い出されたのは何なのか私は不思議な心持ちになる。だいたい軍の関与なしに従軍慰安婦なるものが存在するわけは有り得ないではないか------。私が軍隊で行っていたのは、旧満州のソ連国境に近い孫呉だが、そこでも師団司令部の近くに慰安所があって、営門に「満州第何百何十何部隊」とした大きな標札が出ており、誰の眼にもそれが軍の関与する施設であることは明らかだった。もっとも、私たち初年兵は演習のないときは、内務班に居残って、古兵の下着の洗濯や靴磨きなんかにコキ使われるだけだった。土堤のうえを吹き抜ける川風は、サラリとして快い。私たちは草原に腰を下ろして、爽涼の気分を満喫していた。...白い脚の記憶

  • モモを作る

    私は3人兄弟だが、3人とも、両親の”桃”作りによって学校へ行くことができた。桃の花が咲く頃の茂平は、ほんとうにきれいだった。花が終わって、桃に実が成ると、西の峠道は野々浜から、北の峠道は用之江から、袋掛けの婦人部隊が茂平に歩いて来ていた。・・・・(2021年茂平)・・・・・モモ岡山のモモの栽培は、明治になって国が勧業政策を進める中で本格化していった。はじめ天津桃や上海桃が県南を中心に広がった。この中で進取の篤農家によって新しい品種が育成され、後の「桃の名産地岡山」への一歩をふみ出す。明治28年、小山益太の「金桃」、明治31年、長尾円澄の「土用水密」、明治354年、大久保重五郎の「白桃」などが次々に発表された。特に「白桃」は味が良いうえに日持ちがよく、遠隔地輸送が可能なことから市場性が高まり、栽培が広まった。さら...モモを作る

  • 「貧乏人は米を食え」の方が正しかった

    白いおコメのご飯を食べるのは、貧しい日本人にとって長年の夢だった。私も、そうだった、「コメのメシが食いたい!」と思っていた。池田勇人大蔵大臣の「貧乏人は麦を食え」は政治史に残るほど有名だが、ところが母の論では、「貧乏人は米を食え」の方が安くつくそうだ。・・・・畑作江戸時代農家は米でなく、麦を主食にしていたといわれる。野菜は栽培が難しく、一部の権力者しか口にできない嗜好品だった。長期保存ができないので、各地で気候条件などに合ったものが独自の発展をした。工芸作物は長期保存が可能なため、早くから全国各地に流通し、一大産地も誕生した。「最新日本の農業図鑑」八木宏典ナツメ社2021年発行麦飯(母の話)だいたい7:3くれいなら食べられる。ボニ・正月・祭りが米の飯。家を建てるとき(昭和35年頃)、たましまん(玉島の母の実弟)...「貧乏人は米を食え」の方が正しかった

  • こうこ・コーコ(沢庵漬)を作る

    ・・・・・沢庵漬けコーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、四斗樽につめる。毎年秋に、四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。「吉永町史」吉永町史刊行委員会編吉永町昭和59年発行・・・・・漬物庶民にとっては極めて重要なおかずであった。「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行・・・・・沢庵漬笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適...こうこ・コーコ(沢庵漬)を作る

  • ダイコンを作る

    ダイコン(大根)日本の冬野菜の代表各「日本書紀」にも記されて、古くから食されています。ダイコンの葉には栄養が豊富です。もっとも多いのが「青首ダイコン」で、生のまま浅漬やサラダ、大根おろし、おでんや煮込み、など万能に使える。全国各地に在来種があり、土地ならではの漬物などもあります。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行・・・・・(父の話)大根ええかげん大きょうなったら抜いて干しょうた。”浸け大根”にしょうた。ウチで食べるんと市場へ出すんと両方。ちょっとやおうなった時、いろうてみて、「おっ、こりゃぁもうしゃあねぃ。」思うたら市場へ出しょうた。(天日棹のを)降れぇて、そうやって市場へ出しょうた。大根は生食より漬物が主じゃった。ようけいできても、それしかしょうがねぃ。「葉っぱ」も半分くらい切って、買う人がおるんで...ダイコンを作る

  • プーチン氏は料理を食べたか

    2016年12月、安倍晋三首相(当時)がロシアのプーチン大統領と同じ風呂に入り、その二人の友好関係でもって歯舞・色丹の2島を返還、という事前の報道があった。ところが、実際は遅刻して風呂には入らず、島は返還ならず、国民として、ずいぶんなめられた思いがした。このとき既に、プーチン大統領は”暗殺”をずいぶん恐れていたようだ。・・・・・「人生の醍醐味」曽野綾子産経新聞社2017年発行晩餐会---プーチン氏は料理を食べたか後日の報道で私は、大谷山荘のその夜のメニューも知った。前菜に蟹の甲羅盛り、御椀は甘鯛に蓮根。向付はとらふぐの刺身、伊勢海老焼き〆洗い。焼き物はのど黒、土地の和牛。揚げ物は鮟鱇の唐揚げと慈姑の素揚げ。以下略。とにかく心のこもったごちそうであることはよくわかる。しかし同じ週の「ニューズウィーク日本版」十二月...プーチン氏は料理を食べたか

  • リンゴを作る

    子供の頃、母に「皇太子(現・上皇)はどんなものをオヤツに食べとるんじゃろう?」、と聞くと「リンゴやこじゃろうかな」という返事だった。その当時、わが家にオヤツはなかった。要るのなら芋でも食べておけ、という感じでふかし芋が常に戸棚の中にあった。リンゴは都会の上流家庭で食べる物と、その頃は思っていたが同じようにバナナもリンゴも今では庶民の食べものになった。茂平でリンゴが栽培されていたとは知らなかった。母の話にリンゴがでたことはないので、少量だったのか、早く見切りをつけたのだろう。・・・・(父の話)りんごリンゴはウチ等にも植えとったがエエことは無ぇ。売りょうたけど,相場が良くねぇし、病気はくるし。ウチにはうつろの畑に植えとった。”青い”リンゴじゃ。大きさは普通。赤い大きいのは出来なんだ、やっぱり温度の関係じゃろう。寒い...リンゴを作る

  • サツマイモを作る

    笠岡市役所の敷地内に長く「芋博物館」があった。その当時、日本で唯一か世界で一つの「イモ博物館」と呼ばれていた。江戸時代は飢饉時の主食になり、戦中戦後の配給時代は、町の人の主食となった。管理人にとっては、いちばんよく食べたオヤツとなった。・・・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行薩摩芋サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。笠岡市には芋博物館があった。・・・・・・サツマイモ(薩摩芋・甘藷)原産地・メキシコ、ガテマラアメリカからヨーロッパに渡り、日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行・・・・・サツマ芋サツマ芋・イモ・琉球芋・...サツマイモを作る

  • ウサギを飼う・ヤギを飼う

    茂平の水門から波止の土手にかけて、ヤギを繋いで草を食べさしている家が何軒かあった。家にヤギは飼っていなかったが、裏の〇〇さん方から、「今日はよく出た」と言って持ってきてくれることがあり、楽しみだった。ウサギは小学生の時、一度飼っていた。丸々と大きく育ってから売った。300円か500円で売った。その頃、少年雑誌の「漫画王」とか「少年」が50円か60円くらいで、子どもにとっては大金だった。父の話は戦前のことと思える。・・・・・ウサギ自家で肉を消費するため、ほとんどの家は小屋を作って、あるいは縁側の下に飼育場所を作ってウサギを飼っていた。飼養羽数はおおむね五羽程度、自家繁殖させるため雄雌の両方を含むのが一般的であった。ウサギには屑米や屑大豆をエサとして与え、肉が必要になると屠殺した。戦時中は、軍人の首巻の原料とするた...ウサギを飼う・ヤギを飼う

  • 豚を飼う

    子供の頃、家では豚を飼っていた。しかしすぐに羊に変わった。その羊も1年くらい飼って止めた。ブタも羊も、父の言う「国がつくれと言って、儲かったもんはねえ」に当てはまるもののようだ。・・・・・・「物語・食の文化」北岡正三郎中公新書2011年発行豚肉食用だけブタは乳を与えず、毛の利用もなく、労役や運搬の役にも立たず、ひたすら食用の為に飼育されてきた。非常な雑食性でごみや残飯をあさって飼われた。ブタの利点は食肉生産の高い効率で、植物性の餌を肉に変える速度と効率はすべての家畜の中で最大である。餌に含まれるエネルギーの35%を肉に換える。第二次世界大戦後は都市近郊での残飯による養豚を経て地方での大量飼育が始まった。価格が安く牛肉の代替材料になるほか、トンカツや、ハム・ソーセージなどの加工品も戦後大きく消費が伸びた。さらに中...豚を飼う

  • 羊(ひつじ)を飼う

    羊を二年間ほど飼育していた。三年とはつづいてない。二匹か一匹、多分一匹。家の裏に子屋をつくり飼っていた。おおきなバリカンで毛を刈取っていた。父は補助で、専門家がしていた。飼っていた羊は死んだ。羊の肉を食べた。隣近所に分けても更にその量は多かった。乏しい時代ではあったが、その肉はまずいもので、無くなるまで来る日も来る日も羊の肉を食べた。昭和32年前後の事。・・・・・(父の話)終戦後、国の政策でもあり飼うた。肉は臭かった。肉はまだ鯨のほうがよかった。鯨は刺身にもなるが、羊はくさい。馬のほうがまだよい。2000・1・9(母の話)一匹飼ようた。毛糸を取るためじゃった。毛糸がなかなか無かったけぇ。刈るのは一年に一回しかできょうらなんだ。2001年6月17日・・・・「岡山県中央町誌(民俗編)」ヒツジ戦後、衣料品の自給・増産...羊(ひつじ)を飼う

  • 「東日本大震災11年 それぞれの3.11企画展」

    場所・岡山県笠岡市吉田・吉田文化会館行った日・2022年3月11日東日本大震災から11年、吉田文化会館で開催中の「東日本大震災11年それぞれの3.11企画展」を見に行った。文化会館には、笠岡市関係者が復興応援に行った宮城県南三陸町での活動写真が多く展示されていた。・・・・・家に帰ってテレビを見ていたら午後2時46分、現地での黙祷のライブになった。場所は「南三陸町」。テレビでデーブ・スペクターさんだったと思うが、もう気安く「想定外」言わないようにしてほしい旨の発言があった。自分もそう思う。福島県いわき市にいる時、東電の原発には二度入った。構内に入ると、必ず原発の安全をモニターで見なければならないが、そのモニター画面は、地球の最後がもしあろうとも、原発だけは大丈夫である、というPRだった。「想定外」を言えば許される...「東日本大震災11年それぞれの3.11企画展」

  • 塩屋埼灯台

    テレビニュースを見ていたら塩屋埼灯台が出た。かつて3年間住んだ福島県いわき市で、一番好きだったのが塩屋埼灯台と麓の薄磯海岸だった。海、砂浜、海鳥、灯台。瀬戸内海とは別ものの魅力が尽きなかった。2011.3.11「東日本大震災」の記憶や復興途上のニュースだった。5年前、いわき市の友が笠岡を訪問してくれた。その友は塩屋崎灯台の真下の豊間の人だったが、震災時「墓石だけ残ってありました」と話し、その次の言葉は友からも私からも出なった。テレビでは今も、鉄とセメントによる復興と復旧はすすんでいるようだ。ところで、「東日本大震災」の名称は変えた方がいい。(仮称)「東日本大震災・東電原発災害」、その理由は、復旧の妨げになっているのは原発事故の方だ。先の大戦の呼び名も、何度か変わりながら「アジア・太平洋戦争」に落ち着いた。その方...塩屋埼灯台

  • 乳当

    中学校の3年生,学校の運動会で、クラスメートの女子が100m走で先頭を走っていた、が、その子は乳房が大きくて左右に揺れていた。大きくて気の毒じゃなあ、と思った。我われの同級生の女子は、いつごろブラジャーを知って、いつごろから使用したのだろう。・・・・・乳当「今は昔のこんなこと」佐藤愛子文春文庫2007年発行乳当私が女学校の五年(十七歳)の時、教室で体操着に着替えていると、隣で着替えていた親友のM子がヒソヒソ声でいいに来た。「ちょっと、ちょっと、見てごらん。Kさんチチアテしてはる・・・・」その時初めて私はチチアテなるものがあることを知ったのである。私には四歳上の姉がいたにもかかわらず、我が家にはそんなシロモノはなかったのだ。クラスにはKさんのようにチチアテを常用している人は何人かはいたのかもしれないが、おチチの大...乳当

  • 源平藤戸合戦ゆかりの御崎神社

    御崎神社は、このふきんから佐々木盛綱が海をわたっての先陣をのり入れたと伝わる”乗り出し岩”の近くにある。御崎神社で盛綱は必勝祈願をしている。老母の嘆きで有名な笹無山からも近い。今日は源平合戦をしのぶ史跡が目的でなく、花を見に来た。天城の枝垂れ梅と、倉敷川千本桜。千本桜は、三分咲き程度。枝垂れ梅は満開。(倉敷川千本桜)2年前の前回もそうだった。(前回は桜の方が満開、梅は散っていた)二兎を追っても一兎も得ない諺があるが、2回とも一兎は得ることができた。場所・倉敷市天城・有城撮影日・2022年3月9日源平藤戸合戦ゆかりの御崎神社

  • 良妻賢母

    佐藤愛子さんの言う時代(戦前戦中の女学生)は、まだ良かったのかもしれない。戦前が女学生だった母は、同級生の半分は再婚している、とよく話していた。『貞婦二夫に見え』ていたのだ。生きるためには二夫に見えざるを得ない時代もあった。・・・・・「今は昔のこんなこと」佐藤愛子文春文庫2007年発行良妻賢母戦前戦中の女学生であった私は、学問知識よりも淑徳に重きを置く校風の女学校教育を受けた。その女学校の校長先生は、生徒が更に勉学の道に入ることに反対だった。大学や専門学校に行くくらいなら、マッサージや介護を習った方がいいという意見だった。それらは結婚後、舅や姑に尽くすとき役に立つからである。私たちが教示された第一の美徳は「率直従順」だった。女というものは他家に嫁いで親に従い夫に尽くし、子を産み育てて一家の繁栄に献身するものであ...良妻賢母

  • 野獣民族アメリカ  ~雑誌「主婦の友」~

    「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社2017年発行・・・昭和18年9月号口絵少年飛行兵となったわが子を、誇らしい気持ちで見送る母。心配や恐怖などはみじんも描かれない。・・・昭和19年、作家の大佛次郎の著書『敗戦日記』に、『主婦之友』についての記述があります。「各頁毎に「アメリカ人を生かしておくな」「米兵をぶち殺せ」と大きな活字で入れてある。我が国第一発行のいい女の雑誌が、これで恥ずかしくないのか」メディアはみなそうだったとはいえ、狂気の時代の狂気のアジテーション。戦後は手のひらを返したような民主主義的な記事。阿古さんはこう話します。「当時の主婦は夫しだい、時代しだいで変わらざるをえませんでした。いかに現実を受け入れ、適応できるかも主婦に必要な能力の一つでした」・・・・・管理人記・阿古さんの言葉を借りての言...野獣民族アメリカ~雑誌「主婦の友」~

  • 夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日  ~雑誌「主婦の友」~

    「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社2017年発行夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日夫はサラリーマンで、朝家を出て夕方まで帰らず。妻は自分の裁量で家事をこなします。当時の女性にとっては、夢の暮らし。お見合いや家どうしの約束で結婚を決めた当時、未婚女性は「箱入り」にされ、自由を制限されていました。でも、理解と収入のある夫と結婚して「主婦」になれば、旅行やスポーツも楽しめます。当時の記事には、山登り、海水浴、スキー、テニス・・・レジャー記事が満載。まさに「青春」だったのです。昭和6年20歳前後の若い花嫁と、サラリーマンの夫。「朝はクリームと粉(おしろい)で簡単にお化粧」「朝食はパンと紅茶、果物」「小鳥を飼う」などリッチな感じ。「買い出しは御用聞きにまかせる」「寝る前には家計簿」などは、大正時代から『主婦之...夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日~雑誌「主婦の友」~

  • 『主婦』の誕生  ~雑誌「主婦の友」~

    母は・・・日本中で半分を占める・・・農業・家事・母だった。職業欄があれば「農業」と記したであろう。「主婦」とは呼べない、呼ばない。「主婦」とは町に住む、上流家庭の奥様をそう呼んだようだ。・・・・良家でなく、普通の庶民の子女が「主婦」になる方法は、属国の満州で生活すれば可能だった。・・・・・・・・「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社2017年発行『主婦』の誕生大正時代以前の日本には、今でいう「主婦」は存在しませんでした。女性は男性といっしょに農作業や家業をし、男性が休んでいる間に、食事を作り洗濯をしました。雑誌『主婦の友』が創刊されたのは大正6年でした。女学校に通う「ハイカラさん」も急増し、若い女性たちは読書を楽しみ、新しい知識を求めたのです。しかし当時、テレビはもちろんラジオもなく、新聞や雑誌は男性目線の...『主婦』の誕生~雑誌「主婦の友」~

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