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しろみ茂平の話さんのプロフィール

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岡山県
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ブログタイトル
しろみ茂平の話
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/mobira
ブログ紹介文
「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末
更新頻度(1年)

198回 / 365日(平均3.8回/週)

ブログ村参加:2014/12/11

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しろみ茂平の話さん
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しろみ茂平の話
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しろみ茂平の話

しろみ茂平の話さんの新着記事

1件〜30件

  • 古城山公園の「満洲開拓殉難碑」

    満洲移民には義勇軍(土の兵士)や分村による開拓団、事業家など。ソ連が参戦後は難民化し、生き残った人は無一文で帰国した。古城山にある碑は昭和38年に除幕した。(右が「満州開拓殉難碑」、左は浩由大島開拓団の慰霊の碑2020.7.2)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報NO.116昭和38年9月30日古城山公園に満洲開拓殉難碑秋分の日に除幕式戦時中に市内大島地区や浅口郡などから満州開拓団として移住し、現地で死んだ人たちの霊を慰める「開拓碑」が、このほど古城山公園忠魂碑わきにできあがり、秋分の日の9月24日、遺家族や関係者が集まって除幕式がおこなわれました。この碑は昨年8月に結成された拓友会と満州開拓殉難碑建設委員会(委員長・笠岡市長)によって、有志に呼びかけ募金した一般寄付や県、市補助金の4...古城山公園の「満洲開拓殉難碑」

  • 笠岡西中体育館で、NHK”ふるさとの歌まつり”

    昭和46年9月に西中で「ふるさとの歌まつり」があった。管理人は社会人1年生で、まったく関心もなく、また笠岡に住んでもいなかった。番組自体は人気番組で、全国各地でリレー開催され、開催都市は”お祭り”ではあった。現在と比べると、いろいろ変化している。西中体育館・・・笠岡市民会館は無く、観閲講堂よりは広い序列・・・・・・千昌夫よりも小川知子が前にきている郵便番号700・・郵便番号はあるが、7桁でなく3桁岡山市丸の内・・現在は岡山市北区岡山市丸の内・・から引っ越してNHKは西口にある。それと、宮田輝アナウンサーは、その後参議院全国区に立候補して最高点で当選したが、史上最も「使い捨て」された議員として名を残した。気の毒だった。(笠岡西中体育館2020.4.9)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報NO.1...笠岡西中体育館で、NHK”ふるさとの歌まつり”

  • 関東大震災②日本史の汚点

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「大正デモクラシー」成田龍一著岩波新書2007年発行報道と記憶東京では新聞社が壊滅して新聞発行が不可能になる。9月5日ころから、被害の範囲がおおよそつかめた。虐殺事件震災直後、流言が飛び交った。「朝鮮人」に関するデマである。早くも9月1日午後3時、「社会主義者及び鮮人の放火多し」という流言があり、「不逞鮮人来襲すべし」「井水を飲み、菓子を食するは危険なり」とデマがひろまったという。東京の住民たちはデマを疑わず、地域ごとに自衛団を結成し、朝鮮人とみなすや、持っていた竹槍や鳶口により虐殺した。虐殺された朝鮮人は6.000人を越えると推定されている。近年では軍隊による朝鮮人の虐殺があったこともあきらかにされている。その他、甘粕正彦らの憲兵隊による、大杉栄・伊藤野枝他の虐殺があった...関東大震災②日本史の汚点

  • 関東大震災①震災と復興

    父が6歳の時、「関東大震災」があった。遠く離れた岡山県小田郡城見村茂平でも揺れ、家に近接する道にある常夜灯の宝珠が落ちて、家の庭に転がったそうだ。(写真中央の常夜灯の宝珠が落ちて、庭まで転がった。当時塀はなかった)震度は(抜粋)東京6大阪市4境港市4岡山市桑田町2広島市上八丁堀2島根県浜田1松山市3九州と北海道以外は揺れている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「大正デモクラシー」成田龍一著岩波新書2007年発行大地震と火災1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方を突如、大きな地震が襲った。建物も崩壊したが、とくにその後の火災が大きな被害をもたらした。1府6県、死者91.344人。そのうち火災によるものが75.953人。大半が火災であった。後藤新平と帝都復興山本権兵衛...関東大震災①震災と復興

  • 笠岡駅の花売り娘

    笠岡駅の花売娘のことは、市内に住む高年齢層なら、ほとんどの人が知っている。しかし、それは新聞や広報誌での情報のため、実際に笠岡駅ホームで見たことがある人は・・・残念ながら会ったことがない。12月限定だったのだろうか?その間、毎日だったのだろうか?時間は、何時間くらい?昭和30年頃といえば、まだ花を召す余裕の人は限られているし、売る気ならば駅ホームで上下線を行き来するよりも、駅前に立った方が売れるような気がする。第一回目の時は、笠岡で全国初の試みは素晴らしい。それに学歴まで公表し、しかも高校でなく女学校であり、東京の舞踊学校、びっくりする。三回以降は掲載されていないので、たぶん昭和30・31・32年の三年間だったようだ。観光笠岡のイメージ向上に貢献したと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報N...笠岡駅の花売り娘

  • 「第五北川丸遭難事件」笠岡市始まっての恨事

    三原沖にある佐木島に「第五北川丸慰霊塔」がある。西日光・耕三寺からの花見を終えての帰航中の事故だった。(北川丸慰霊塔・佐木島向田2008.4.6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報NO.47昭和32年5月20日北川丸遭難者とご遺族の方へ・・・お役にたった「さざなみ号」運命の日、4月12日の北川丸沈没事故では本市関係の海難者25名中、十名の尊い犠牲者を出しました。死者、ご遺族の方々に謹んで哀悼申し上げます。市では、悲報とともに新造快速船”さざなみ号”を急派、遭難現場での海上連絡や輸送、ご遺家族のご弔慰問にあたりましたが、急潮や風波のため引揚作業は困難を極め、祈りも空しく本市はじまっての恨事となりました。さざなみ号は、牛窓造船所の建造で、建造費229万円、5屯、定員20名、進水は4月8日。(慰霊塔...「第五北川丸遭難事件」笠岡市始まっての恨事

  • 岡山県寄島高等学校

    高校の時、他校と掛け持ちの先生がいた。体育の先生と音楽の先生。体育の先生は同じ市内の高校だったが、音楽の先生は「今日は次に寄島高校がある」と言っていた。寄島町は県立高の場合、笠高・笠商・笠工が学区と思っていた。どんな学校だったのだろう?(寄島高校の手前記念碑、後方は体育館写真は2015.2.3)・・・・・・・・・・・「寄島町誌」寄島町役場昭和42年発行岡山県寄島高等学校寄島町ほか二か町村組合立定時制高等学校。この学校は女子のみを対象とした。男子全部と女子の或る者は倉敷・金光・鴨方・笠岡・福山の各高校に入学する。沿革大正12年4月寄島実科高等女学校認可(寄島西高小に併設)昭和18年4月岡山県寄島高等女学校に昇格、4年制となる。昭和23年4月学制改革により、岡山県寄島高等学校として新発足する。昭和27年4月寄島町・...岡山県寄島高等学校

  • 備中杜氏

    「寄島町誌」寄島町役場昭和42年発行備中杜氏のおこり本町には現在80名の杜氏がいて、備中杜氏を出す市町村中その数において第一位を占める。起源等について記録も無いが、岡山県工業試験場技師の研究によれば、古老杜氏より聞き及んだこととして、「備中南部海岸地帯は山が海岸まで迫り耕地の少ない僻地であった。農業のかたわら漁業に従事していた。冬季になれば職を探すことに苦心していた。元禄年間、通称忠吉は酒造技術を修得し、杜氏の職を得て、広島県忠海の酒造場を振り出しに各地で酒造技術者として就職していた。その後、浅野藤十は酒造家業の有望なことを認識し郷党青少年を教育して灘方面へ出稼ぎしていた。このように逐年酒造技術者の希望者は増加し、明治20年頃には約100名に達し備中杜氏の名称を冠した。大正年間には、1.000名以上となり、県内...備中杜氏

  • 行商人・金光町

    金光町に来ないが、茂平に来ていた行商人を思う浮かべると鍬と鎌の行商人”かまかいなー”の小父さん。「鎌を買いなー」と弁慶の七つ道具よろしく、全身に鍬と鎌を付けていた。鞆から来ていると聞いてた。屑鉄商人道に落ちた釘などを集めて、小父さんがくると売っていた。手にした天秤ばかりで計量し、5円ほどもらっていたような気がする。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行農山村の多くは、道も悪くて日用品を買うにも歩いて一日がかりの仕事になるところもあった。この不便さを補ってくれたのが行商である。魚売り、昆布売り、小間物売り、塩売り、油売り、金魚売りと季節に応じて行商が来ていた。玉島や笠岡から来ていた小間物売りは七段の引き出し付きの箱を天秤で担ぎ、草履履きで「ご用はありません...行商人・金光町

  • 行商人・大津野村野々浜

    行商人が来るのは楽しかった。たいていが徒歩で、天秤棒か風呂敷を背負っていた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行より転記福山や尾道から大きな荷を背負ったおばさんらが汽車に乗り、大門駅で降りては村内を売りに歩く。持ってくるのは干物やいりこ、鮮魚、野菜とかだ。引野や用之江の方からは呉服屋や雑貨屋が来る。行商人たちの荷の運び方は、自転車に積む者、籠に入れて背負う者、てんびん棒に下げる者など様々だった。この頃は行商人から買う方が多く、町に買い物に行く機会は少なかった。百姓の仕事が忙しい中で、汽車賃まで使って町に買い物に出るのはたいぎだが、行商人なら居ながらにして買える。行商人は、一軒一軒たずねていた。どこの家も良いお得意だし、その頃は家がまばらで大声をあげ...行商人・大津野村野々浜

  • 満蒙開拓団③浩良大島開拓団

    笠岡市史には「浩良大島開拓団」は昭和20年8月23日、博多に上陸。と記されているが、いかにいっても、8月14日に佳木斯を出発し8月23日博多上陸は無理がある。博多は昭和21年だろうか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「笠岡市史第三巻」平成8年ぎょうせい発行零細な農地と、低い生産性の苦悩で村長は「もっと多くの農業生産によって国家にご奉公せねばならぬ。急々にも300戸分村を満州に行うの要あり」昭和15年11月、分村決議をした。昭和16年1月16日、先遣部隊20名が満州東北部ソ連国境に近い佳木斯(じゃむす・ちゃむす)の北西に位置する所に出発した。昭和16年4月1日、「第十次浩良大島開拓団」とした。先遣隊20名は8名に減じた。昭和19年5月5日、国民学校ができた。生徒数高等科までで9人。赤痢が大流行した。後続の...満蒙開拓団③浩良大島開拓団

  • 満蒙開拓団②阜新芳井開拓団団長

    「満洲開拓回顧誌」小谷鉄雄編集ぎょうせい平成3年発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・元阜新芳井開拓団団長山本隆之第十三次阜新芳井開拓団の概要満蒙開拓団は昭和7年を第一次とし終戦の昭和20年第十四次をもって終末を告げた。芳井分村開拓団は昭和19年2月現地入植から、昭和20年8月15日終戦、収容所の生活を経て昭和21年5月14日現地を離れ、葫蘆島乗船、5月31日博多上陸、昭和21年6月2日芳井町に帰り、満洲開拓団としての集団生活は解かれたのである。昭和17年夏、1・芳井村分村が町会で分村移住が議決された。2・入植地も決定、開拓地400町歩確保、200世帯の分村開拓団を編成する。3・募集は芳井町を中心に、後月郡内から希望者を募集。4・できるだけ中堅青年および家族で結団する。5・本年中に、一部入植...満蒙開拓団②阜新芳井開拓団団長

  • 岡山空襲75年・父の話

    当時父は軍隊へ三度目のご奉公中で、本土決戦の要員か、岡山陸軍病院に詰めていた。子供が1.5人いた。(0.5人は母のお腹にいた)今日は岡山空襲75年で、語り継ぐことの報道がなされている。このブログにも、その1ページを添えよう。昭和20年6月29日の未明、岡山市は空襲で焦土に。死者1700人余。・・・・・・・・・・・・(父・茂平の実家にて)父の話・2000年12月3日茂平の実家に帰った時に空襲が空襲の時は、茂平に帰っていた。茂平に帰ったその日岡山空襲があった。すぐ帰れ(多分電報だろう)というのですぐニギリメシを作って、リュックを背負い汽車に乗った。汽車で帰ったが倉敷からさきは汽車は動いてなく。あるいて陸軍病院までいった。おじいちゃんは運が得かった。死んだ看護婦もいるし、兵舎は焼けてしもうた。残ったのは(自分が持って...岡山空襲75年・父の話

  • 米騒動⑧米騒動100年

    「米騒動100年」北日本新聞社編集局2018年発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おかかの叫び鍋割月(なべわりづき)かつて富山県東部の漁師町の人々は、夏をそう呼んだ。魚もほとんど揚がらない。からっぽの鍋を火にかけると割れてしまう。田畑を持たないその日暮らしの漁師にとって、一番苦しい時期だった。「夏は命が涸れる。餓死は当時、身近にあるものだった」。・・・以前から、この時期に米価が高騰すると、県東部では漁師一家をはじめとして下層社会の女性たちを中心に、米の安売りや、積み出し停止要求が幾度となく起きていた。いずれも哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかった。ところが「高岡新報」が報じて以降、全国に米騒動情報をリードした。・・・明治後期になると、都市人口の増加や、農村にまで米穀消費が拡大したことにより、日本...米騒動⑧米騒動100年

  • 米騒動⑦岩波新書

    「大正デモクラシー」成田龍一著岩波新書2007年発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1918年(大正7)夏に、富山県西水橋町、東水橋町、滑川町、魚津町など日本海沿岸の人口一万数千人の中小都市に暮らす女性たちが、船で積み出される米の阻止を図り、集団で役場や詰所に押し掛けた。男性たちは、北海道や樺太に遠洋漁業に出かけており、女性が行動の担い手になった。女性たちの動きを地元の『高岡新報』が伝え、さらに『大阪朝日新聞』「大阪毎日新聞』が、高岡新報による「女一揆」として報じた。発火点夏場の端境期で米が品薄であった。シベリア出兵のため米の買い占め、売り惜しみがなされた。「物価騰貴」「生活難」という言葉が、雑誌や新聞に飛び交った。大戦景気で一定の向上が見られたときに、生活の下降が余儀なくされる。連鎖反応8月8日、岡山...米騒動⑦岩波新書

  • 米騒動⑥小田郡笠岡町その4

    「笠岡史談第14号」昭和50年木下タイプ発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米騒動余聞笠岡の米騒動では篠井米店襲撃が知られているが、それより前、騒ぎ立てる民衆は、仁王堂・遍照寺の大師堂の前に何百人となく集合していた。米屋の暴利をつき、あそこへ行け!の野次の中で、土岐其らが演説していた。それ行け、という声で出陣、まず篠井店に行き、閉めていた入口を大八車で勢いをつけてやぶった。それから駅前の寺岡米問屋へ行ったが、米が無かったので、駅前・陸橋近くの内海米店へ向かった。ここで割り木を投げて入り込み、米をばらまいた。次に真入川筋の村上店に行ったが、うどん・米少々しかなく、話がついてあばれず、安売りですんだ。西浜の仲仕は笠岡町東の店々が得意先なので、大したことはしなかった。(芝勢氏談)米騒動⑥小田郡笠岡町その4

  • 米騒動⑤小田郡笠岡町その3

    「笠岡史談第13号」昭和50年木下タイプ発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(県警の禁止令で)では、その新聞に載らなかった事実を、古老に聞いてみよう。安那氏(77才)私が21才の時でした。西本町の篠井米店に、大勢押しかけているという事で、私も見物に行きました。笠岡でもいつかは騒動があるだろうと、半ば期待のようなものがあったのでしょう。今から思えば篠井さんも気の毒でした。ちょうど悪い時に、立派な家を新築したばかりで、群衆のねそみも強かったのかも知れません。檜の分厚い雨戸を閉めている処へ、二、三人が石を抱えて来て、ドカンドカンと投げつけて、何枚か壊してしまいました。見物人がだんだん増えて二百人にもなりましたでしょうか。時の笠岡警察署長が、白服にアゴ紐掛けた巡査を連れて駆けつけてきましたが、専ら低姿勢...米騒動⑤小田郡笠岡町その3

  • 米騒動④小田郡笠岡町その2

    「笠岡市史第三巻」笠岡市史編さん室編平成8年ぎょうせい発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡の米騒動については、正確な動きは分からない。『岡山県郡治誌』によると、8月13日午後8時ごろ、「笠岡町民は町内の寺院に集合して、その数600名700名に及び、警察署長の説諭に服さず、米商7戸を襲って米の廉売を強要して瓦礫を投げて表戸を破壊するなどの暴行をして午前5時に引き揚げた」とある。『岡山県警察史』にも、同一記事が載っている。『岡山県史近代Ⅱ」によると、8月13日午後12時「群衆約150名其家に押し寄せ、門戸を乱打して之を開かしめたるうえ、店内乱入し素麺・うどんの廉売を強要し、更に其肥料商を襲い白米の廉売及び金員の寄付を迫り之を承諾」させた。小田郡神島内村、同外村では、両村精錬所煙害地被害民が、米価高騰を機とし...米騒動④小田郡笠岡町その2

  • 米騒動③小田郡笠岡町その1

    「岡山県社会運動史第三巻」水野秋著8月13日夜、小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ、たまりかねたように内部から開き、主人が出て平身低頭した。その主人に語気鋭く、麦稈真田の仲買人を営む赤木佐太郎、通称「天神」と呼ばれるやくざ者が、廉売を要求した。怒りに燃える群衆に、すっかり呑み込まれ...米騒動③小田郡笠岡町その1

  • 米騒動②富山・京都・名古屋・阪神・田川~内閣退陣

    「大正時代」永沢道雄著光人社2005年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富山県の出来事は新聞に詳しく報道され、富山市や県内各地に伝染し、全国に波及してゆく。まっさきに反応したのは8月8日、岡山県真庭郡落合町。規模が大きく、深刻な衝撃をもたらしたのは、名古屋と関西の大都市での騒動である。京都8月10日夜、京都では”細民”層の死活問題となってきた。下京区柳原の住民が400人、「米屋をやっつけろ」と丸太やこん棒を手に押し出し、一行はみるみる千人近くふくらんだ。つぎつぎに米屋に押し込む。検事と警官隊が出動し、柳原町一帯は戦場のようになった。8月11日、西陣方面では、織物工ら2.000人が北野天満宮から「米を下げろ」と市中を練り歩いた。夜になると、あちこちの町で窮民がそれぞれ押し出し、混乱が全市に及んだ。...米騒動②富山・京都・名古屋・阪神・田川~内閣退陣

  • 米騒動①”富山の女一揆”

    「日本の歴史14巻いのちと日本帝国」小松裕著小学館2009年発行・・・・・・・・・・・「東京朝日新聞」の米騒動の初報は、1918年(大正7)8月5日である。「200名の女房連が米価高騰で大運動を起こす」という見出しで、富山県中新川軍西水橋町で起こった8月3日夜の騒動の模様を報道した。この報道を皮切りに、西水橋・東水橋・滑川町の騒動が連日とりあげられた。富山の米騒動を全国紙が詳しく報道したことが、米騒動の全国的拡大に大きな役割を果たした。8月9日には、名古屋・京都・大阪・兵庫・高松・愛媛でも騒動が発生、その後西日本を中心に軍隊を出動させて鎮圧にあたらざるをえないほどの激しい騒動となった。炭鉱や鉱山、工場でも賃金値上げと共に米価引き下げが要求され、ストライキが発生して、一部は暴動化した。舞鶴では海軍工廠の職工2.0...米騒動①”富山の女一揆”

  • おじいさんは、山へ柴刈りに②(燃料集め・野々浜むかし語り)

    茂平は果物どころで、クドにくべる木は果物の木で、剪定や老木を割り木にしていた。木を割るのは祖父の仕事だった。父が山から丸太をもって帰るのは、シイタケの栽培用くらいだった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行より転記燃料集め日々の炊事の燃料は、木の葉や薪を使い、それをどの家も自給自足していた。持ち山がある家は、わが山の木で割り木をたくさんこしらえた。しかし、持ち山が無いものが大方だから、毎日山へ入って木の葉、それも重に松葉を集めた、昔の女の重要な仕事で、山に入らぬ日は無かった。風が吹いたと言えば、次の朝には夜も明けぬうちから起き出していったもんだ。だから、その頃はどの山もきれいだった。はるばる沖山から茂平にかけて在った大きな山まで取りに行く。野々浜の他に津之下の者もこ...おじいさんは、山へ柴刈りに②(燃料集め・野々浜むかし語り)

  • おじいさんは、山へ柴刈りに(燃料集め・金光町史)

    むかしむかし、おじいさんは山へ・・・、おばあさんは川へ・・・(桃太郎)茂平では川の洗濯を見たのは、おしめ。山への柴刈りは、ほぼ全ての家庭で昭和30年代の中頃まで続いた。日常風景だった。・・・・・・・・・・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行山仕事山仕事は、麦播きの終わった12月から、麦の手入れが始まる3月ごろまでの冬の仕事である。この間に1年分の焚き物を確保し、一部は売りに出した。自由採取林野に所有権はあるが、次の物は慣習として、自由に採取しても叱られることはなかった。落ちている松かさ、枯れ枝を集めたり、シャシャキ、ワラビ、ゼンマイ、木の実。コノハナデ松の落ち葉を木の葉(このは)とかマツゴという、自由採取のところもある。共有林では、風が吹いたら女の人は誘い合って掻きに行った。炊きつけに便利で売る...おじいさんは、山へ柴刈りに(燃料集め・金光町史)

  • 天皇制の内なる危機(一夫一婦制)

    令和天皇に子がいるが、天皇を継承できない。明治天皇も大正天皇も側室の子だった。令和天皇には側室は不可能であるから、実子(愛子内親王)が継ぐのが普通だと思うし、それがグローバルスタンダートとも思う。21世紀の世に、子がいて継承できない制度が存在するのは日本の皇室典範くらいであろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「日本の歴史14巻いのちと日本帝国」小松裕著小学館2009年発行皇太子裕仁(のちの昭和天皇)は、1921年のヨーロッパ外遊でイギリスやオランダなどの皇室のありように、大きな影響を受けて帰ってきた。皇太子は女官制度の改革に取り組む。生まれた子供は里子に出さず自分の手もとで育てたい、一夫一婦制への強い意思があった。天皇家が一夫一婦制を採用することになると、当然後継ぎの問題が出てくる。①男...天皇制の内なる危機(一夫一婦制)

  • 明治45年7月29日から大正元年7月30日へ

    「大正時代」永沢道雄著光人社2005年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・明治天皇は明治45年(1912)7月29日、午後10時43分、永眠した。59歳。死去は2時間ずらして、30日午前0時43分と発表された。30日、嘉仁親王は第123代の皇位に就いた。31歳。明宮(はるのみや)嘉仁親王、のちの大正天皇は明治天皇の第三皇子で、明治12年生まれ。生母は柳原愛子。正妻の美子皇后(昭憲皇太后)は子宝に恵まれなかった。明治天皇は五人の側室により15人の皇子、皇女をもうけた。しかし成人に達した皇子は嘉仁親王ただ一人で、10歳で皇太子となった。男子5人のうち4人が夭折し、女子は10人のうち4人しか成人しなかった。9月13日明治天皇の葬儀がおこなわれた。この日乃木希典が夫人とともに殉死した。明治45年7月29日から大正元年7月30日へ

  • 黒塗り教科書②川口小百年

    「川口小学校百年史」川口小学校正文社昭和63年発行より転記G・H・Q指令全国で昭和22年12月末に4.340人の教職員が不適格者として追放された。神道に関しては、神社参拝、祭式、鳥居の教材などすべてが禁止された。教科書は、終身・歴史・地理の授業即停止、教科書の廃棄。更に、国語・算数などの教科書の不適当な箇所を示して、教育現場の各学校に、削除あるいは修正を命じた。そこで児童は、その示されたヶ所を墨で塗って使用した。これが所謂「黒塗り教科書」である。削除修正例削除海軍のにいさん・菊の花・神だな・にいさんの入営・金しくんしょう・支那の子ども修正センチノニイサン→ニイサンオクニノタメニシッカリ→シッカリ黒塗り教科書②川口小百年

  • 戦後の大津野・・・「ふる里のあゆみ」②

    「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館昭和52年発行昭和20年8月15日終戦隊内にありし御真影、軍人勅語其の他貴重な書類全部を焼棄せり。昭和20年11月1日米軍先遣隊10名飛行場に来る。翌2日、1.200名来り駐屯す。かつての大津野は、田が1300ヘクタール、畑が1900ヘクタールで農家平均耕作面積は50アールという零細農家であった。作付品目は全く多彩であった。除虫菊、はっか、麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。葉たばこの栽培も盛んで枢要な収入源。盛夏に、部落中一致団結して全家族があたった。甘藷、馬鈴薯の生産も盛んで特に、甘藷は戦後の食糧難時代貢献したものである。特産物としては大津野大根の沢庵漬があり、福山、尾道、呉、広...戦後の大津野・・・「ふる里のあゆみ」②

  • 野々浜の森池ができる頃

    「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館昭和52年発行・・・・・・・・・・・・・昭和12年8月27日午後11時本村に70名の充員召集令状来る。昭和14年村内の旱魃5月田植えの際はかなり池の貯水もあり、田植えも完了せるに、其の後天候引き続き旱天にて遂に出穂期にも降雨なく、肥料は殆ど全部に渉り施肥ずみなりしも出穂せず。野々浜、河口池掛及び其の他少々の収穫を得たり。全村にて91町歩の免租地を出せり。故に全村にて食料を一か年完全に食する家僅かに数戸なり。対策として土木事業即ち、池の修繕にて就労す。男一人1円20銭~1円30銭女一人80銭~90銭野々浜森池は此の年新たに築造されしと聞く。・・・・「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行森池昭和14年頃から工事が始まった。毎日50人位の地元の人が、朝の8時から晩の5時ごろま...野々浜の森池ができる頃

  • 大正15年12月

    おじ(父の弟)は、本当は昭和元年生まれだったそうだ。本人談。しかし城見村のような田舎でも、天皇崩御のため、出生届ははばかられた様子だ。(同級生に昭和元年生まれはいなく、昭和2年元旦生まれが多い)「大正時代」永沢道雄著光人社2005年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大正10年(1921)裕仁皇太子が摂政になってから、大正天皇は事実上の廃帝で、公式の行事にはいっさいでなかった。皇太子の”人気”が高まり国民との一体感が醸成されていった。大正13年頃はもう、おそらく「あー」「うー」と声を出される程度だった。大正14年5月の時は、もう歩行もできず。大正15年、12月16日から宮内省は逐次発表にふみきる。永井荷風は天皇の容体をつげる号外に暗然とする。毎日の飲食物や排泄物のいかんまで、なぜ詳報の必要があるの...大正15年12月

  • 池の水、全部抜く②金光町

    金光町史では毎年の行事のように書かれている。茂平でいえば「イナとり」と似ている部分が多い。・・・・・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行溜め池と漁撈金光町は、備中ひでりに対応するために灌漑用の溜め池が多く築かれた。溜め池の築造者はいずれも地元の庄屋である。横池秋の稲刈り前に溜池を干して魚とりをする。水の少なくなった溜め池で魚を突いたり、魚をたたき切ったり、網ですくって補採する。魚取りに使うテダマ網にも大小があり、大きいのは径70~80センチ、柄の長さ1.5m、網目30目ぐらい、自製の場合が多い。魚とりには、昔は触れ(通知・しらせ)を出していたが、現在はクチコミで、金光町近在の人が集まってくる。町民各自が漁具を持ってくる。池水を抜く9月上旬には溜め池から流れ出る溝川に網を張ったり、溝川にドジョウ網...池の水、全部抜く②金光町

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