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しろみ茂平の話さんのプロフィール

住所
岡山県
出身
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ブログタイトル
しろみ茂平の話
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/mobira
ブログ紹介文
「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末
更新頻度(1年)

776回 / 365日(平均14.9回/週)

ブログ村参加:2014/12/11

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しろみ茂平の話さん
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しろみ茂平の話
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しろみ茂平の話

しろみ茂平の話さんの新着記事

1件〜30件

  • 織田信長 (岐阜公園)

    場所・岐阜県岐阜市岐阜公園「若き日の織田信長像」管理人の趣味に”低山登山”があり、登山道がある山となれば「城跡」「信仰・霊場」が多い。岡山県・広島県を中心に山城には300~400城は登っていると思う。中でも、岐阜城への登城は山として、城として、しかも天下取りの城で、さすがに他の山城とは比較にならない存在感や歴史を思わせた。岐阜城跡は岐阜公園として整備され、長良川に接して、市民や観光客の憩いの場になっていた。「織田信長」土橋治重成美堂1972年発行岐阜城標高338mの金華山頂にあるこの城は、斎藤氏三代が居城としたころは稲葉山城といった。永禄10年(1567)ここに入城した信長が岐阜城と改称した。信長によって大改修を加えられた岐阜城は、当時、天下一の絢爛豪華を誇った山城であった。三層の天守閣をはじめ、各種の櫓が建ち...織田信長(岐阜公園)

  • 織田信長  (島原)

    場所・長崎県島原市城内島原城跡「若き日の織田信長」北村西望の作品。北村西望は地元長崎県出身の彫刻家、文化勲章受章、享年はなんと103歳。「室町期」山崎正和講談社文庫昭和60年発行織田信長青年期の信長がわざと愚純をよそおい、異様な風態でひとびとの耳目を驚かせたというのは、よく知られた逸話である。美濃の斎藤道三と初めて会見した時にも、彼はまず「かぶき者」よろしく、茶筅髪に虎の皮の袴という姿で現れ、いよいよ面会という瞬間に、一転して粛然たる正装で道三の前にたったといわれる。道三はこの青年が只者でないという印象を抱かされるわけだが、こうゆう自己演出のうまさは、信長の生涯にわたって発揮されている。島原城は壮大な城で、農民の築城の負担が島原の乱の原因になっているといわれる。来てみると、それが実感できた。撮影日・2012年5...織田信長(島原)

  • 浅井三姉妹

    場所・福井県福井市中央北ノ庄城跡製造・2010年(平成22年)浅尾三姉妹は、織田・豊臣・徳川すべてに婚姻関係があり、格好の時代小説素材で、主人公でも脇役でも、小説やドラマや大河ドラマに何度も登場している。「日本史探訪10」角川文庫昭和58年発行お市の方と淀殿戦国の世に散った美貌の母娘永井路子杉本苑子お市と長政の間に生まれた娘お茶茶が、のちの関白秀吉の妻淀殿となる。戦国の男たちの政争にまきこまれ、波瀾に満ちたこの母と子、お市と淀殿の生涯。永井政略結婚は、ある意味では自分の家、または国を背負って外国へ行くということです。要するに外交官です。女性大使として、相手の機嫌を損じないように、実家の不利にならないように、そして両家の間に戦争が起こらないように。それに妻としての勤めが加わる。それが大名社会の結婚だった。ばかでは...浅井三姉妹

  • 恩田木工

    場所・長野県長野市松代町松代藩政の立て直しと『硯日暮硯(ひぐらしすずり』で知られる、松代藩家老。(日立システムズ)「信州松代藩財政再建の立役者」~恩田木工~信州松代藩家老・恩田木工(おんだもく)が、疲弊した藩政の立て直しに着手したのは江戸中期の宝暦7年(1757年)。木工の政治手法は、人間の相互信頼の回復、誠実の追求であり、意識改革であった。政治の要諦は「民、信なくば立たず」、よって、まずは「隗より始めよ」である。木工は身内を集め「今後、自分はいっさい虚言を吐かない。食事は一汁一菜、衣服は新調せず木綿とする。妻とは離婚し、子供は勘当、雇い人は解雇、親戚とも縁を切る」と宣言。領民に耐乏生活を強いる立場にある者は、率先して身をつつしまなければならない。役目が果たせなければ切腹するほかない。「おまえ達にもその覚悟があ...恩田木工

  • 松浦隆信

    長崎県平戸市南蛮貿易を始めた、肥前の戦国武将。(Wikipedia)松浦隆信松浦氏の分家の一つである平戸松浦氏の生まれで平戸には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいた。隆信は大友義鎮に報告して、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。布教活動を許したので、1553年から1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。ポルトガル人が殺傷される事件もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。長崎港が本格開港されるに...松浦隆信

  • 松平春嶽

    場所・福井県福井市宝永3丁目製造・2007年(平成19年)"幕末四賢侯"として有名な越前のお殿様、松平慶永(春嶽)。「英傑の日本史」井沢元彦角川学芸出版平成22年発行松平春嶽当時もっとも優秀な大名の一人であった松平春嶽。越前福井藩主であった春嶽は、かつて一橋慶喜を将軍にしようと動いたが、大老井伊直弼の反撃にあって隠居に追い込まれた。しかし、直弼が桜田門の変によって暗殺されたおとで息を吹き返し、この年、幕府の政治総裁職という新しい職に就いた。ちなみにこの時、一橋慶喜は将軍後見職となっている。いわば幕閣では将軍家茂、慶喜に次ぐナンバー3ともいえた。この春嶽という人は、幕末四賢侯、つまり四人の名君の一人に数えられるほど優秀な人物であった。もともとは攘夷論者であったが、多くの人々の意見を聞くうちに、その考えを改めた。そ...松平春嶽

  • 中国地方の子守歌像

    場所・岡山県井原市高屋町子守歌の里高屋駅前妻は井原市下出部町の出で、井原市高屋町は隣町。その妻に、「(自分や妹・弟が)中国地方の子守歌を唄ってもらっていたか」聞いてみると、「まったくない。そもそもその歌を知り、高屋の歌であることを知ったのが20歳を過ぎてから」という返事だった。ついでに義母の話、「(子育てを終えて、いつか)テレビの番組で紹介されて初めて知った」。再び妻の話、「(井原市内の病院で出産した)病院の壁に「ブラームスの子守歌」と「中国地方の子守歌」が貼ってあった。それを見て、自分の子には中国地方の子守歌を唄うことがあった」。通称「高屋駅」は、正式名称は「子守唄の里高屋駅」。駅前には子守歌像もある。井原市内の文化祭や芸能祭、そのほかイベントにはよく行くが、「中国地方の子守歌」を唄ったり、演奏したり、会場へ...中国地方の子守歌像

  • 島原地方の子守歌像

    場所・長崎県島原市島原駅前長崎県には一度も行ったことが無かった。2012年に初めて行った。着いたのは島原だった。熊本港から船で島原港に行き、島原市に1泊、島原線に乗って去った。島原市は雲仙岳、島原城、温泉、湧水群、どれも興味深かった。なかでも、水路と武家屋敷は予想していたとおり趣があり、特に満足した。(島原武家屋敷)島原を去ろううと島原駅に行くと、駅前に赤ちゃんをおんぶした銅像が立っていた。〽おどみゃ島原のおどみゃ島原の梨の木育ちよ何の梨やら何の梨やら色気ナシばよしょうかいなはよ寝ろ泣かんでおろろんばい鬼の池久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるばい(正面に島原城天守閣、背後に雲仙普賢岳)民謡は、古くから伝わるので歌詞が方言で、ことがば難しい。この歌は五木の子守歌のように貧困の歌のようである。この”久助どん”とは...島原地方の子守歌像

  • 二十四の瞳 (映画村)

    場所・香川県小豆島町田浦二十四の瞳映画村戦後の日本人にとって、じつは国民こそが軍を支持していたという事実を忘れてしまいたい。戦争では日本国民こそが被害者だったと主張する反戦映画が盛んに作られ、そこには相手側のことは描かれなかった。その意味でもっとも見事な表現が、1954年木下恵介監督の「二十四の瞳」にある。最初楽園のような生活描写にあてられていて、これが素晴らしい。まもなく学校が軍国調になってくるとそれが嫌な先生は教師を辞職してしまう。そして戦後、生活のため復職した先生は往時を回顧してすっかり感傷的になる。教え子たちが何人も戦死していたからである。戦後に日本では、「二十四の瞳」に限らず、戦争を反省した映画がたくさん作られた。その主流を占めていたのは戦争では日本人自身もひどいめにあったから、もう戦争は嫌だ、という...二十四の瞳(映画村)

  • 横綱・琴桜

    場所・鳥取県倉吉市東仲町二所一門の大横綱の大鵬さんから、「さくら、さくら」とかわいがられ、猛稽古で横綱になった琴桜。遅咲きで、比較的短命の横綱だったが、立ち合いの”ぶちかまし”で押し出す相撲は”猛牛”と呼ばれた。この猛牛は名とは正反対に、容ぼうが温厚で知的な雰囲気のお相撲さんだった。以下は、【倉吉市のHP】前佐渡ヶ嶽親方(第53代横綱「琴櫻」)は倉吉出身で、その偉業を称え銅像が造られました。郷土をこよなく愛し、春恒例の「桜ずもう」には佐渡ヶ嶽部屋の力士とともに参加しており、名誉市民に選ばれています。1940年11月26日生鳥取県東伯郡倉吉町鍛治町出身身長182cm、体重150kg倉吉町の借家地で、警察官の子として生まれました。警察官の父より柔道を仕込まれ、中学生では段位を認めてもらうほどの腕前でした。勧誘され、...横綱・琴桜

  • 孝子像(笹川良一)

    場所・岡山県倉敷市児島児島競艇場「孝養の像」戦後は競艇と寄付金活動で有名な笹川良一氏の像。特にTVCMの大相撲高見山との、『戸締まり用心、火の用心』『一日一善』は有名。寄附の分野では、岡山県の旧衆議院2区の選挙区内には「B&G海洋センター」のプールが、ほぼ全市町村にある。誘致には加藤六月さんが尽力したと噂される。母82歳で59歳の息子が背負って金毘羅詣りの像。多分、全国のボート場にはすべて、この像は立っているのだろう。「世界は一家、人類は皆兄弟」撮影日・2018年2月17日孝子像(笹川良一)

  • 堀泰一朗

    場所・岡山県笠岡市笠岡古乃美教「白雲大社」応神山の麓に赤い大きな鳥居が見える。春には桜やツツジが咲き誇り、秋の紅葉もなかなかの名所。そこが古乃美教の白雲大社。開祖は、堀泰一朗(ほり・たいいちろう)で、以下は古乃美教のHPの開祖の紹介。堀泰一朗大先生が一代で築いた。明治30年(1897)9月26日、新潟県新井町(現、新井市)に命を授かり、生まれながらにして優れた霊的能力を持ちながらも、幼少時から幾多の辛苦に見舞われ、その苦難を悉く乗り越えた。その時、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)より、『創(はつ)の代に還せよとの大御心を体して起てよ。汝、神の名に於いて為さんとしても成らざるもの無し。汝の与えるものは神も与え、汝の取らんとするものは神も又取らん。もし汝の力を問う者あらば答えよ。上に天なし、地に底なし、広さを問...堀泰一朗

  • 中小路宗城像・中小路宗康像

    場所・京都市長岡京市天神長岡天満宮宗城さんと宗康さんは親子であり、現在の神社の整備に、親子とも多大な貢献があったそうだ。(長岡京市観光協会)長岡天満宮ご祭神は,学問の神様として有名な菅原道真公です。道真公が太宰府へ左遷される途中,かつて在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだこの地に立ち寄り,都を振り返って名残を惜しんだ事から「見返り天神」とも呼ばれています。太宰府にお供した3人が別れ際に戴いた道真公自作の木像をご神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと云われています。撮影日・2015年2月18日中小路宗城像・中小路宗康像

  • 中平善之丞

    場所・高知県高岡郡津野町高野制作・濱田浩蔵設置・昭和60年中平善之丞は、江戸中期の大庄屋で、農民を救おうとしたが、藩は打首にした。義民。津野町は、高知県のたいへん奥深い村。中平善之進1709~1757困窮する農民を助けるため自ら藩庁に窮状を訴えたが捕えられ、宝暦7年に打首となった(「津野山騒動」)。義に倒れた彼の精神は郷土に生き、明治維新の志士たちに影響を与えた。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行(Wikipedia)中平善之丞なかひらぜんのじょう宝永6年(1709年)~宝暦7年7月26日(1757年)は、江戸時代中期の一揆指導者。経歴・人物土佐高岡郡津野山郷の北川庄屋の長男として生まれる。その後元文3年(1738年)高岡郡梼原村の庄屋・中平弥左衛門の養子となり、のち家督を継ぐ。宝暦2年(1752年)土...中平善之丞

  • みよし観音

    場所・兵庫県神戸市灘区(六甲山上)東京オリンピックがあった年に、神戸で小型飛行機の墜落事故があったそうだ。「日東航空おやしお号墜落事故」で、乗員・乗客10名のうち2名が亡くなり、そのうちの1名が美代子さんという名のスチュワーデスだった。美代子さんは懸命に救助活動をしていたが、爆発により死亡した。像の建立は交通遺児の会が発起して、有名人の森繁久彌・吉永小百合も賛同し、石原慎太郎は碑文を寄せている。美代子さんがなまって「みよし」と呼ばれ、みよし観音になったとある。撮影日・2016年12月3日みよし観音

  • オランダ橋の外国人

    場所・長崎県平戸市幸橋(オランダ橋)幸橋(オランダ橋)その昔、城と城下町との往来は船であった。1669年(寛文9)第29代鎮信が、そこに木橋を架け幸橋と呼ばれた。1702年(元禄15)、これを石橋に改架した。これを別名「オランダ橋」という。(ほっこりHirado)平戸の平戸城は、観光平戸の代表する建物だが、その平戸城と城下に架かる橋は、平戸を代表する文化財。重厚感たっぷりに、今も現役の橋として利用されている。その橋の近くの手すりに外人像が乗っかている、橋の名称にちなんでオランダ人をイメージしているのだろう。(たぶん)(松浦史料博物館)天文19年(1550年)のポルトガル船の来港を皮切りに、平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)はこれを歓迎し、ポルトガルとの南蛮貿易を積極的に推進。鉄砲や大砲、火薬、生糸、絹織物、香...オランダ橋の外国人

  • 親鸞

    場所・京都府京都市東山区五条橋東大谷本廟あの時代の90歳は、今でいえば110歳くらいだろうか?すべてにおいて、常人とはスケールがまるっきり違っている。親鸞鎌倉時代の初期から中期には、六つの宗教が、それぞれ三つの救いをひっさげて宗教活動をおこす。つまり、念仏(なむあみだぶつ)と、禅と、題目(なんみょうほうれんげっきょう)の三つの救いを説く。念仏によって幸福になれるのだという立場が、法然・親鸞・一遍。禅は栄西、道元。題目による救いは日蓮がとく。この6人の教祖の流れから浄土宗、真宗、自宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が形成される。叡山というのは鎌倉仏教の母体になっています。親鸞は叡山で一介の役僧を20年間いやというほど体験する。関東でも20年、農民の中で生活している。越後で7年。越後で結婚する。最期まで責任を持つ、納得のい...親鸞

  • カレーの市民

    場所・岡山県倉敷市倉敷美観地区「大原美術館」ブロンズ作者ロダン像高200cmロダンの名作『カレーの市民』、6人のうちのジャン・デール。英仏100年戦争のフランス、カレー市の義民。大原美術館の入り口右側に建っている。このロダンの像があることに寄って、大原美術館へ入館する際のモードが一層あがる。撮影日・2019年11月22日カレーの市民

  • 徳川家康 (駿府城)

    場所・静岡県静岡市駿府城跡「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。勝つことばかりを知りて負くることを知らざる害その身に至る。おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」東照宮御遺訓「近世の日本」高尾一彦講談社現代新書昭和51年発行徳川家康関ケ原の戦い秀吉は朝鮮侵略の最中に死んだ。誇大な妄想におちいった専制君主が死ねば、朝鮮侵略が妄想の産物であることはだれの目にもあきらかだったから、いそぎ撤兵することになった。日本の政治的課題は、秀吉のなきあとの天下統一を、だれがつぐかであった。この時点で政局を担当していたのは、秀吉の長老の大名たる五大老である。つなわち、徳川・前田・宇喜多...徳川家康(駿府城)

  • 徳川家康 (浜松城)

    場所・静岡県浜松市浜松城跡”出世城”として知られる浜松城。家康はこの地を引馬から浜松と改め、この城を拠点にして五か国の大大名となった。「家康最後の勝利者」土橋治重成美堂昭和57年発行信康自刃「武田勝頼は勢力が落ちたといっても、四か国を領有するわれらの大敵。信長公とは一戦を交えるどころか、その後ろ盾がなくては、徳川は家をたてていくことさえできぬ」信康は21歳、築山殿は37歳で死んだ。五か国の大名になる本能寺の変の後、甲斐と中、南信濃を手に入れることができた。五か国のその石高は140万石にのぼった。小牧長久手秀吉は光秀を滅ぼした後、柴田勝家を敗死させ、丹羽長秀を逼塞させた。さらに滝川一益を降伏させた。二男の信雄が家康に泣きついた来た。合戦は池田恒興父子、森長可が戦死した。対陣が長くなり、両軍は引いた。後に頼山陽が「...徳川家康(浜松城)

  • 家康公・竹千代像ベンチ (岡崎)

    場所・愛知県岡崎市康生町岡崎公園家康は、天文11年(1542)、三河の土豪・松平氏の宗家8代目目に当たる岡崎城主・松平広忠の長男として生まれた。信長は8歳秀吉は5歳であった。母は三河刈谷城主・水野忠政の娘で於大(おだい)といった。家康3歳の時、於大の父・忠政が病死。その子信元が跡を継ぐ。この信元が西の隣国・織田信秀と友好関係を結んだ。於大を離縁し、実家に追い返した。なさけない話だが、それほど今川と松平には力関係に差があった。はるか後年、今度は自分も信長に脅されて妻と長男を棄てるのである。「家康に訊け」加藤廣新潮社2019年発行岡崎市公式サイト「岡崎公園」家康公・竹千代像ベンチ徳川家康公はここ岡崎で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、...家康公・竹千代像ベンチ(岡崎)

  • 源義経対平知盛像

    場所・山口県下関市みもすそ川町みもすそ川公園建立・2004年(平成16年)敗戦を悟った平知盛が、碇の綱を体に巻きつけて入水しようとする「碇潜」(いかりかずき)と、敵の攻撃を華麗にかわす義経の「八艘飛び」のシーン。宙に舞う義経の甲冑や、怒れる知盛の表情など、見どころ満載な銅像である。「日本の銅像完全名鑑」平知盛見るべきほどのことは見つ午後3時、関門海峡の潮の流れが変わった。朝のうち、平家方有利のちに展開していた戦いは、これを境に一変する。潮に乗って疾風のように寄せる源氏の白旗。今や平家の敗色は明らかであった。新中納言知盛の卿、小舟に乗って御所の御船に参り、「世のな中、今はかうと見えて候。見苦しからむ物ども、みな海へ入れさせたまへ」とて、艫(ともへ)に走り回り、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。女...源義経対平知盛像

  • アーサー像

    場所・兵庫県神戸市灘区六甲山町この像は「アーサー像」と呼ばれ、英国人「アーサー・ヘスケス・グルーム氏之像」が正式名の像。アーサー・ヘスケス・グルーム氏は”六甲山を開いた開祖”とか、日本にゴルフを始めて持ち込んだ人と紹介される。神戸市では、市の功労にちなんで毎年”グルーム祭り”を開催しているそうだ。(Wikipedia)アーサー・ヘスケス・グルーム1846~1918は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイングランド出身の実業家。六甲山の開発と景観保護に力を注いだ。にぎわう六甲山、ゴルフ場ふきん。2016年12月3日アーサー像

  • 函館四天王像

    場所・北海道函館市元町函館の旧市街地の高台に”元町公園”があり、そこにはペリー提督によって、函館が開港し、北海道の開発と、国際都市化の新しい時代の開拓者4人の像がある。(Wikipedia)元町公園函館山山麓にある基坂の突当りに位置し、函館港を一望することができる。1869年(明治2年)に蝦夷地が北海道と改称し、箱館も「函館」となった。江戸幕府が箱館奉行所を設置した場所であり、旧北海道庁函館支庁庁舎には開拓使函館支庁、函館県庁、北海道庁函館支庁が置かれ、政治の中心地であった場所でもある。元町公園を含む函館西部地区の町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」「函館市西部地区歴史的まちなみ保存環境美化促進地区」に選定されている。【函館市公式観光情報】(向かって左から)今井市右衛門(石川県能登出身)1836~188718...函館四天王像

  • 一松 定吉

    場所・大分県杵築市大字南杵築一松会館城下町・杵築は坂・海・城・川の街並みが素晴らしい。武家屋敷が並ぶ高台に旧一松(ひとつまつ)邸がある。一松定吉先生は、大阪で法曹・政治を長くつづけた。昭和17年の、いわゆる”翼賛選挙”では、非推薦の当選者になった。(Wikipedia)一松定吉1875年、大分県西国東郡美和村(現・豊後高田市)に生まれる。明治法律学校(現・明治大学)を卒業し長崎、大分、横浜、大阪などでの検事を経て、大審院検事をつとめる。1920年、弁護士に転じる。1928年、大阪1区から第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で出馬し初当選、1947年の第23回衆議院議員総選挙まで連続8回当選を果す。第1次吉田内閣の国務・逓信大臣、片山内閣の厚生大臣、芦田内閣の建設大臣、日本進歩党の幹事長等を歴任した。1949...一松定吉

  • 帆足萬里

    場所・大分県速見郡日出町日出城跡大分県には江戸時代、小藩が多くあり、2万5千国の日出藩から帆足万里という傑出した人が出た。(ひじまち観光情報公式サイト)豊後三賢のひとり帆足萬里(1778~1852)帆足萬里(ほあしばんり)は、三浦梅園(みうらばいえん)・廣瀬淡窓(ひろせたんそう)とともに「豊後の三賢」と称された日出藩時代の儒学者で、教育者として多くの子弟を育て、また政治家としても大いに手腕をふるいました。彼は、安永7年(1778)、日出藩の家老・帆足通文の三男として、日出城下三の丸に生まれました。豊岡小浦の脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研鑽に努め、十数部の蘭書を読みこなすなどして、経済、物理、医学、天文などの各分野に通じていました。萬里の学識は西欧の諸学者に比肩するものであったといわれま...帆足萬里

  • 佐藤義亮

    場所・秋田県仙北市角館町「新潮社記念文学館」新潮社の創業者・佐藤義亮氏が、この町の生まれ。こうゆう古都からこのような文化人が出るのもふさわしい、と思ったりもする。(Wikipedia)佐藤義亮明治11年(1878年)~昭和26年(1951年)73歳没出身・秋田県仙北郡角館町新潮社の創立者。雑誌「新潮」を発行した。(新潮社のHPより)佐藤義亮さんをご存知でしょうか?佐藤義亮さんは、新潮社を創立するにあたって、「自らの気持ちに反する書物を世に出すことは死んでもするな!」と語っておられます。これ、経営理念そのものですね。ビジネスの現場では時に理不尽な要求があったりします。中には脅し文句や豪華な見返りの代わりに自分達に都合の良い記事を書くように迫られることもあるでしょう。しかし、佐藤義亮さんはこれらの要求に決して屈しな...佐藤義亮

  • 岡山県知事・三木行治(桃太郎知事)

    場所・岡山県倉敷市福田町古新田水島緑地福田公園・三木行治園ブロンズ作者富永直樹像高350cm台高80cm昭和63年12月岡山市出身(明治36~昭和39年)選挙での岡山県知事は、西岡・三木・加藤・長野・石井・伊原木と6人いるが、”桃太郎知事”と呼ばれたのが三木知事。なぜ桃太郎知事と呼ばれたんだろうなあ?大手饅頭知事ならわかる。「岡山の歴史」柴田一岡山文庫昭和49年発行三木行治岡山県知事(昭和26~39年)在任中水島臨海工業地帯の開発に努め「名知事」と謳われた。昭和26年第2回県知事選で西岡知事を破って当選したのが三木行治である。”私なき献身”と”清潔”さでひたむきな情熱を注ぎつづけた13年余りの県政のねらいは、農業県であった岡山県を一挙に工業県に飛躍させることであった。「わが国の今後のあり方が、その多くを工業力に...岡山県知事・三木行治(桃太郎知事)

  • 菅原道真 (徳島)

    場所・徳島県徳島市眉山町天神山眉山天神社菅原道真公を祀った神社数は、万を超えるから、その銅像も全国に多々あるはず。このブログでは、徳島市の眉山ロープウェイ駅前にある菅公像を代表して載せる。天神様八百万の神々のうち、天神様ほど日本人に親しまれた神様は珍しい。天満天神。この神様の正体こそ、平安王朝の花開いた9世紀の末から10世紀初めにかけて、たぐいまれな才能を持ちながら、悲劇的な最後を遂げねばならなかった文人政治家、菅原道真である。道真は儒学の学者の家柄で、血筋を受けて、少年時代から当代随一の秀才という呼びこえが高く、官僚として順調な出世コースを歩いた。昌泰2年(899)55歳の道真は、右大臣右大将となり、ライバル藤原時平は左大臣・左大将になる。昌泰4年、道真57歳、太宰府へ左遷。延喜3年(903)59歳の人生を閉...菅原道真(徳島)

  • 浦島太郎 (鳥羽)

    場所・三重県鳥羽市鳥羽港(鳥羽湾めぐり観光船)浦島太郎は、絵本と童謡で、誰でも知っている。子どもの時には、海の中の竜宮城へ行って、呼吸はできるんだろうか?玉手箱を開けると若者が老人になる、その”変身”ぶりに驚いたり、めでたし・めでたしで終わらないので、最後がすっきりしなかったり。隣の市(といっても、海を隔てた)、香川県三豊市も浦島太郎伝説で有名。荘内半島の先端ふきんをドライブすると、浦島太郎の物語の雰囲気を感じる。今も静かな浜辺の漁村は、時代の変化をあまり感じさせない魅力がある。ここ三重県の鳥羽市では、観光船の船主に、飾りで浦島太郎がついている。デッキには乙姫様やタイやヒラメもいる。浦島太郎伝説は鳥羽市にはないはずだが、こと鳥羽観光に、少しでも役に立つとなれば利用したという感じ。見て違和感はない。撮影日・201...浦島太郎(鳥羽)

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