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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

  • 「誘蛾灯」は、初めて見た蛍光灯

    6月の楽しみは蛍狩りだった。暗くなると、竹ぼうきを持って田んぼ方面に出かけた。かまんどうの南側、砂川土手ふきんに蛍は多かった。砂川の”しんやん”の近くに誘蛾灯があった。ぼっけぃ明るかった。電球とは輝く光がちがった。白く光っていた。蛍光灯の下には四角形の器に水・薬品・油が混ざって、その中に蛾をはじめ昆虫や虫の死体が浮かんでいた。独特の匂いがしていた。茂平ではもう一ヶ所、西ノ谷にも誘蛾灯があったような気がする。中学生になって、父が勉強机に置く蛍光灯スタンドを買ってくれた。それが、我が家では蛍光灯の第一号だった。・・・「福山市引野町誌」ぎょうせい昭和61年発行メイ虫昭和15年農村電化の誘蛾灯(蛍光灯)が普及した。山峡のカンテラで、二化メイ虫(=ドウ虫=蛾)を駆除した。・・・「北川の民俗」北川の昔を訪ねる会202...「誘蛾灯」は、初めて見た蛍光灯

  • 麦飯

    ご飯とか、晩飯、朝飯という言葉は、イコール「麦飯」だった。茂平は農業・漁業の家で9割を占めていた。米のご飯を食べていた家は1~2軒あるか、ないかだったように思う。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行麦ご飯農家でご飯といえば麦飯が当たり前であった。どこの農家でも裸麦と小麦を栽培していた。食用の裸麦はコピンという品種で、ヤハズは麦稈真田用の裸麦で、この実は主に家畜の餌になった。米も麦も家で唐臼を踏んで、五分から七分程度まで搗いた。雨が降ると唐臼踏んで、子供も学校から帰ると臼を踏んだ。大正前後までは丸麦だったが、大正の後半から「ひしゃぎ麦」にと呼ばれる,押し麦が使われるようになった。昭和30年ごろまでに米飯が主体となった。・・・「美星町史」美星町昭和51年発行主食水田がかなりある地区でも、米を常食とする...麦飯

  • 美星高校

    場所・岡山県井原市美星町三山無くなった日・昭和61年分校廃止撮影日・2019年10月27日(美星ふるさと祭)”美星高校”は、自分の記憶にないので、どういう歴史の学校だったのだろう?と思っていたが「美星町史」に載っていたので転記する。・・・「美星町史」美星町昭和51年発行昭和18年青年学校が、現在の矢掛高校美星分校の地に設立され、昭和23年4月1日に岡山県立第一矢掛高等学校美星分校として衣替えし、農業、家庭の二課程をおく職業課程の高等学校として再発足した。その後、地域農業との結びつきを強めたこともあって、進学者は年々増加し、昭和27年10月には「美星高校」として独立した。さらに昭和29年6月1日、美星町の誕生に伴い「町立」となり、町民の教育優先の思想に支えられて、校舎等諸施設の整備が新町発足時の重点施策とし...美星高校

  • 山間部の人は魚を食べる機会が少ない、という本を見ることが多いが農山漁村に生まれ育った管理人が思うに、山村も漁村も大差はなかったと感じる。漁師は魚を売って生活するので、獲った魚は食べないで売る。管理人が食べていた魚は、雑魚の代表であるママカリ、(漁師の隣家からザルにいっぱい)母が行商の魚屋からたまに買うサバ、サンマくらい。山村の人よりも雑魚のママカリが多かった程度だ。(と思う)・・・「矢掛町史民俗編」矢掛町昭和55年発行魚正月ぶり、春のサワラ、イカ、秋祭りに食べるぐらい。間では月に二、三回程度であった。・・・・・・「成羽町史民俗編」成羽町平成3年発行魚肉のおかず海魚海魚では春は鰆の季節、山間部でも何軒かは鰆を買って、刺身や吸物にして、平素手伝ってもらう人をねぎらう風習もあり、鰆振舞と言った。祭りには、刺身の...魚

  • 米の飯

    米の飯を食べるのは年に2~3回で、麦の入っていないご飯に強いあこがれがあった。高校に入学する頃、やっと、家では麦飯から米の飯になった。米の飯はうれしかったが、いったん慣れてしまうと、あこがれていた程には美味しく感じなかった。高校卒業後、寮の食堂が外米(長い米)だった。食費は安かったけど、あれは美味くなかった。タイかどこか、東南アジアから輸入しているということだった。・・・米飯米の飯を食べたのは「正月三日に盆・祭り」それに節供や冠婚葬祭のときであった。「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行・・・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行米飯米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。米麦飯庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていた...米の飯

  • 美星町八日市

    場所・岡山県井原市美星町黒忠訪問日・2023.4.16美星町の八日市は山々がひろがる美星町に、突然のような商店街が出現する。江戸時代から三歳市で町並みを形成していたようだ。・・・・「岡山県史・自然風土」岡山県山陽新聞社昭和58年発行黒忠八日市黒忠八日市は、毎月八日、十八日、二十八日に市が立つ三歳市として、近郊農村の中心として栄えた。特に七月八日の盆市と、十二月十八日の暮の市とはともに大市であった。川上郡・小田郡・後月郡の境界にあたり、近くの村々はもちろんのこと、成羽・地頭・井原・矢掛など各方面からの交通路が早くから通じ、明治中期まで三斎市が立っていたのである。笠岡や西浜(ようすな)からは魚や塩、成羽・領家からアユ、井原から酒と餅などが搬入され、八日市は主として食べ物を扱い、市には、民家のおもてを借りて商い...美星町八日市

  • 高山市(こうやまいち)

    場所・岡山県高梁市川上町と井原市芳井町訪問日・2023年4月16日(日)”弥高つつじ祭り”が4年ぶりに開催された。つつじを見たあと、高山市(こうやまいち)を歩いた。地図を見るとわかるけど、高山市は「備中」「備後」二か国の、ほぼ中央に位置している。岡山県新見や、広島県東城の物資は高山市を中継地として繁栄した。吉備高原の山間部にあるこの町は、備後に接し、町内は川上郡・後月郡に分断され現在も岡山県高梁市と井原市に行政が分かれている。・・・「岡山県史・自然風土」岡山県山陽新聞社昭和58年発行高山市高山市には毎月己の日には市が立ち、特に春秋二度ずつの市は大にぎわいだった。牛市・魚市・藍市・煙草市が立ち、新見あたりでも「魚がほしけりゃ高山へ行け」と言われていたという。成羽川と小田川の分水嶺にあり、もとの高山市と三原村...高山市(こうやまいち)

  • 斎藤の「中華そば」

    父はたまに笠岡に行くことがあった。その時は”ふうまん”(=ふーまん・夫婦饅頭・大判焼)を土産に買って帰ってきた。既にふうまんは冷えていたが、小豆のあんこがなんとも美味かった。そして必ずのように「斎藤で支那そばを食べてきた」と言っていた。父の笠岡行は、子ども心に「ふうまん」と「斎藤の支邦そば」がセットになっていた。しかし「ふうまん」はわかるが、「支邦そば」はわからない。なんだろう「支邦そば」?、蕎麦、うどん、???何年か経つうちに「支邦そば」は「中華そば」と呼び名が変わってきた。「即席ラーメン」という商品が田舎でも見聞きしだした。その「ラーメン」という言葉は「中華そば」を意味することのようだった。麺の色が黄色らしい。高校生になって、クラスで笠岡の人がこっそりと、「昨日斎藤が保健所に、△△したので営業停止され...斎藤の「中華そば」

  • サツマイモ

    農家の母屋の床下に芋穴があった。スクモの中にサツマイモを入れていて、それを年中食べていた。ふかし芋は大人の間食、子供のおやつを代表するものだった。ふかし芋は戸棚に必ずあるもので、三食以外の腹の足しにしていた。焼き芋・天ぷら・あんころ・切り干し・混ぜ飯等でも食べた。笠岡には江戸時代”芋”代官がいて、昭和に”芋”博物館もあった。・・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行サツマイモサツマイモは大切なご飯の足しであった。納屋や下の間の下に穴を掘って芋床を作り、芋を山のように入れて、間にすくもを入れて保存した。特に戦時中にはサツマイモ、ジャガイモ、南瓜は人々の命を支えた大切な主食であった。「金光町史民俗編」金光町平成10年発行・・・・・「矢掛町史民俗編」矢掛町昭和55年発行サツマイモ米の代用によく食べた。また第...サツマイモ

  • おやつ・間食

    「おやつ」でまっ先に思い浮かべるのは、「ふかし芋」。家にあるおやつ。ふかし芋・はったいこ・炒り豆・吊るし柿・干しイチジク・あられ餅・柿・子供が自給するもの。びーびー・しーしー・ぽんぽん・ゆすらうめ・なつめ・ニッキ(にっけい)・どんがめ・さるきん・蜂の子・食用カエル・買う物飴玉・キャラメル・行商パンパン菓子・アイスキャンデー・・・・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行おやつ飴玉大きな飴玉は二銭した。お菓子を買って食べることはまれであった。大豆やソラ豆を煎ったもの氷餅を焼くアラレを煎るグミ、ユスラ、イタドリそら豆の塩ゆで・・・・「福山市引野町誌」引野町昭和61年発行間食ふかしいも焼き芋そらまめ、えんどう、など豆類を炒ったもの吊るし柿果物・・・「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行子供の間食春にはグイビや...おやつ・間食

  • パンと昭和

    パンは「アンパン」しか知らなかった。小学校の3~4年生のころ、「完全給食」と呼ばれる学校給食が始まってから「コッペパン」というパンを知った。給食がある日にはコッペパンを食べていた。人造バターでコッペパンを食べていたが、時折、小さく切ったほんとのバターが付いていた。バターは美味かった。中学2年生の時、何かの授業中「家で朝、パン食の人はいるか?」の問いに3人(クラスの生徒数57~58人中)が手を挙げた。日本人は家では「麦めし」か「米のめし」しか思ってなかったので、パン食の家がある事にびっくりした。3人のうち、1人は城見小学校の人だった。城見にもパン食がいることにまた驚いた。3人は「食パン」というものを焼いて食べているということだった。・・・「パンと昭和」小泉和子河出書房新社2017年発行終戦後の混乱期の学校給...パンと昭和

  • ハレの日の食べもの

    食べもの限定で「ハレの日」といえば、秋祭り、しか思い浮かばない。正月はハレの日であるが雑煮と重箱(おせち)で、ご馳走といった感じはしなかった。食べものに限れば、「ハレの日」は年に一度の秋祭りの一日だけだったように思う。ご馳走は、田植え時の「しろみて」もあったが、ハレの日とは言わない。運動会や遠足や学芸会の日は巻き寿司やキツネ寿司があった。結婚式(嫁どり)や棟上げは「ハレの日」だが、そのそも何十年に一・二度しかない。・・・・ハレの日・ハレの食事鮨県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。赤飯赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。餅正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用い...ハレの日の食べもの

  • 2023年岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市他の桜

    2023年3月20日~4月8日岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市広島県福山市の桜。今年は遠出をしなかったぶん、多くの花見ができた。2023年岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市他の桜

  • 2023年岡山県笠岡市の桜

    2023年3月24日~4月8日、笠岡市の桜を見た。今年は晴れの日が多く、よく花見ができた。2023年岡山県笠岡市の桜

  • たじり杏まつり2023

    場所・広島県福山市田尻町田尻の「杏まつり」が4年ぶりに開催された。鞆街道の田尻の手前の水呑(みのみ)では、同じく4年ぶりに「ふくやまマラソン」も重なって開催された。「たじり杏まつり」は、なんといっても地域住民によるイベントという雰囲気が好きだ。企業や行政のにおいがほとんどしない。そこが魅力で、晴れた日の「杏まつり」には参加している。今年は快晴の春の日で、4年ぶりのイベントを堪能することができた。「たじり杏まつり」リーフレット田尻町の杏は、現在長野県の千曲市に次いで日本第二位の位置を占めて、西日本はおろか関東のほうにまで名を馳せています。この杏は一朝一夕に出来たものではありません。天和元年(1681)北九州の大分県から円明寺住職が入村の時、杏の種を持ってこられ、寺の墓地に植え付けられたのが始まりとしています...たじり杏まつり2023

  • 「石の島」北木島

    あらゆる企業は、造る製品や製造方法が50年前と一変している。北木島の石材産業は、50年間に採石→採石+加工→輸入材加工→石材製品バイヤー?その間セメントの普及で石材需要が大幅に減った。墓石へのシフトや、工場の本土移転があった。懸命な企業努力は新聞等で報道される。今後はどのように変貌していくのだろうか。(猫岩・重ね岩)(大浦)・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行北木島岡山県笠岡市沖の北木島。海べりの村上石材を訪ねると、海面下75mの石切り場(丁場)に案内してくれた。鉄のはしごを下りかけると足がすくんだ。75mといえばビルでいうと25階建てである。4トンの石をウインチで巻き上げるところだった。地上のモニターで地底の様子を映し出しながら操作する。深くなりすぎて地底が見えなくなったのだ。石が建築材に使...「石の島」北木島

  • 笠岡の大仙様

    笠岡の大仙様はずいぶんにぎわっていた。それは昭和40年代までで、昭和50年代から次第にお参りの人が減っていった。画像・笠岡市笠岡・大仙院2023年3月15日・・・笠岡の大仙様「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行大仙参り葬儀のあくる日(翌日)、シアゲのあとに笠岡市の大仙院に参る。経木に戒名を書いてもらい水向け供養をし、線香を立てて拝む。また死者の着物を棚に供える。(胡麻屋)笠岡の大仙様は毎月旧24日が縁日で、市が立つが、お参りして、苗やタネを買う。縁日にはお参りの人々で賑やかだが、ことに正月と盆には、お参りする人々で溢れる。盆月には、ご本尊の手に結んだ善の綱が、本堂内さらに、水向け地蔵まで張り渡される。お参りの人々は、死者への小遣い銭を捻り銭として、この綱に結び付ける。この銭が死者に届くという。以前には...笠岡の大仙様

  • 「石の島」小与島

    JR瀬戸大橋線の車窓から小与島を見ると、切り残した花崗岩が海の中に突き出ている。遺跡の島の様相だ。瀬戸大橋の工事期間中、与島・小与島はレジャー・観光産業で新聞テレビの注目を浴び続けた。・・・瀬戸内の風土と歴史谷口・後藤・石田共著山川出版社昭和53年発行島にはいくつかの類型がある。第一のタイプ比較的水田耕作の盛んな島である。淡路島、周防大島の西部。第二のタイプ畑地とともにいくらかの水田をもつ島。あるいは畑のみの島。忽那島や生口島。第三のタイプ農耕の島に純漁村の付加している島。周防大島の安下庄や因島の箱崎。第四のタイプ帆船の船着場として賑わい、造船技術や水夫(かこ)が多い。安芸鹿老渡・御手洗・伊予安居島・岩城島・弓削島・備後田島・備前日比・牛窓・大多府等。第五のタイプ採石の島。防波堤・石垣の築造が各地でおこっ...「石の島」小与島

  • 「石の島」伊予大島

    しまなみ海道の「大島大橋」を伯方島から越智大島へ向かうと、正面に見えるのがカレイ山。カレイ山は標高が231mで、その山頂近くまで断続的に石切り場を見ることが出来る。(大島大橋=伯方島・越智大島2007.12.9)・・・一般財団法人今治地域地場産業振興センター伊予の銘石大島石大島石の採掘が本格的に始まったのは明治初期といわれており、江戸時代から美しく堅牢な石として知られていましたが、当時の採石技術の未熟さ、搬出の難しさなどから、一部の人のみが知る名石でした。しかし、昭和30年以降墓石用に需要が急増したのに伴い、搬出用、機械や採掘用の削岩機、ジェットバーナー(切削機)などの設備が導入され、生産は大きく増加しました。大島石の特徴(青磁の輝き、100年品質)石材の最高級とされる大島石は、花崗岩特有の雲母、石英、長...「石の島」伊予大島

  • 「石の島」犬島

    犬島は変遷が激しい島だ。最初、阪神築港への石の供給で栄え、次に、帯江銅山の精錬所で栄え、今は、ベネッセのアートで栄えている。(岡山市東区犬島2022.9.26)・・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行「石の島」犬島花崗岩地帯の瀬戸内海には「石の島」と形容される島が数多い。古くは島の段々畑から巨城の石垣、近代には建物や橋に瀬戸内海の石が求められた。犬島1899(明治32)年、大坂築港の採石ピーク時に、どこよりも早く削岩機が導入されていた。銅精錬所も活況にあふれ、港には劇場、料亭、旅館が並んだ。人口は五、六千人でにぎわった。丁場が海べり、大阪までの距離が近い。現在の丁場は一つ、作業員は三人。大坂城の石垣復元に犬島産が使用されている。「コンクリの時代になり、おまけに輸入ものが増えりゃあ、役目は済んだ」...「石の島」犬島

  • 緒方郁蔵(研堂)

    井原や芳井の人からも忘れ去られた偉人。場所・岡山県井原市芳井町・・・・「芳井町史」井原市史編纂室平成20年発行緒方郁蔵へ位階追贈後月郡簗瀬村出身で、緒方洪庵と義兄弟の盟約を結んだ医師緒方郁蔵は、明治4年7月9日病死した(享年58才)。大正7年になり郁蔵の遺族が2年後の7月に没後50年祭を計画するが、これを知った大阪府知事は、内務・文部両大臣宛てに大正7年9月23日付で「位階追贈」の内申を行った。この結果、翌8年11月15日「従五位」の追贈が決定した。両大臣宛ての「内申」には、郁蔵について次のような評価が記述されている。洋学を修め、医術を究めもって新式の治療を施し、あるいは諸生を教導し、各種の著述をなす等、学界に貢献せし」・・・・・・「岡山人じゃが2011」岡山ペンクラブ吉備人出版2011年発行井原生まれ、...緒方郁蔵(研堂)

  • 「石の島」黒髪島

    黒髪島は住民ゼロのため定期船はない。採石場で仕事をする人たちは、専用船で通勤しているようだ。黒髪島の南側には”回天”で有名な大津島がある。(Wikipedia)黒髪島山口県周南市の徳山港から南西方向に1.2kmの沖合いにある島。徳山港から船で渡ると、細長い仙島の南にほぼ円形のかたちで横たわっている。周囲が約16km。黒髪島は、「徳山みかげ」と呼ばれる御影石の採石で知られ、明治の当初から採石事業が行われ、1917年の国会議事堂の建設に当たっては、議事堂の腰部、中庭の外装、空堀の周辺などに使用されている。この事業は、黒髪石材が一手に行っている。島自体は、国有地である。(徳山→大津島航路から見る黒髪島2014.7.12)・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行黒髪島黒髪島の石も、倉橋島とともに国会議事堂...「石の島」黒髪島

  • 「石の島」倉橋島

    倉橋島はずいぶん大きな島で、音戸町と倉橋島町の二町から成っている。現在は呉市だが、呉の人も音戸町や江田島市への往来はあろうが、倉橋島町への機会は数ないと思える。しかし、そのぶん知られていない魅力の倉橋町が多いような気がする。・・・議院石(Wikipedia)議院石(ぎいんせき)は、広島県呉市倉橋島町納地区で産出される赤色や桜色系統の色彩の花崗岩。大正時代に国会議事堂の外装に使用されたことから「議院石」と称される。(呉市倉橋島町尾上2013.1.15)「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行石の島倉橋島国会議事堂は瀬戸内海の石からなる。外装の石垣は、広島県の倉橋島、山口県徳山沖の黒髪島。二階以上の外壁と衆参両院の玄関の大きな柱が倉橋島の「桜みかげ」と呼ばれる花崗岩。『議員石』というブランドで衆参両院議員会...「石の島」倉橋島

  • 除虫菊

    瀬戸内海の海辺りの地方では、昭和30年代まで盛んだった除虫菊。瀬戸内のどこでも見れた除虫菊も今では因島まで行かないと、その花を見ることはできない。(2011.5.13因島)・・・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行花咲く島々白いじゅうたん広島県因島市重井町五、六歳の頃、朝は五時起きで、乾燥作業を手伝った。こぎ落した花部分を、広げたムシロに敷き詰める。乾燥を早めるため、途中で花を裏返す。一家総出の仕事である。五月から六月の数週間は殺気立っていた。乾燥しすぎると、花が黒ずみ,等級が下がり買いたたかれた。麻袋に大きな農家では五、六十俵出した。ピークは1962(昭和37)年。当時の換金作物の代表格。天気次第で作柄が変わり、相場商品だった。化学合成されはじめると、メーカーは除虫菊をあてにしなくなった。19...除虫菊

  • 北条早雲

    場所・岡山県井原市東江原町井原鉄道「早雲の里荏原駅」戦国時代、屈指の長寿の武将として知られる北条早雲。後北条氏の初代・北条早雲の生誕地である備中高越城の、いちばん近い駅でる”早雲の里江原駅”の駅前に、早雲の石像が建っている。(像の碑文)戦国の魁北条早雲は、永享4(1432)年、高越城主伊勢新九郎盛定の子として生まれ、新九郎と名乗った。備中伊勢氏は室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏の分流である。新九郎は青年期を荏原荘で過ごし武芸と学問を菩提寺法泉寺の古潤仁泉に学び、三十三歳で京に上り伊勢貞道の養子となり足利義視に仕え応仁の乱で伊勢に下る。その後妹の嫁ぎ先、駿河の守護今川家の内紛を収めた功によって駿河興国寺城主となった。その後堀越御所に足利茶々丸を攻め、またたく間に伊豆一国を平定、さらに版図を相模に拡...北条早雲

  • 青春歌謡映画は楽しい「わが愛を星に祈りて」

    昭和41年松竹「わが愛を星に祈りて」、映画は福山市船町の映画館で見た。上映開始と同時に、館内はうえーーーーんと泣き声の大合唱にはびっくりした。あんな経験は、その一度しかない。青春歌謡映画は楽しい「わが愛を星に祈りて」

  • 田植え唄

    農業をしていた両親は、昭和44年に最後の田植えと稲刈りをした。それ以降、農家でありながら米を作らなくなった。手植えから、機械化へ相当悩んだ・・・のでなく、いくらか悩んだようだ。機械化するほどには田んぼを所有していなかった。米あまり、米の自由化が叫ばれていた。で稲作を止めた。その田んぼは、イチゴとイチジク畑に変わった。・・・小学校では「田植え休み」が3日間あった。休みはうれしいが、そのぶん夏休みが少なかった。田植えは、子どもにとってはんぶん祭りきぶんだった。三軒共同で田植えをし、終わったら輪番で「しろみて」をしていた。ヒールにかまれる(平均日に2~3匹)のが嫌いだった。みんな、そうだろうけど。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行田植え唄美星町暑や苦しや手拭いほしやさまの浴衣の袖ほしや田植え時には子供...田植え唄

  • 臼挽き唄

    子供の頃、どこの家にも既に使用されなくなった石臼を、軒下や縁側や土間に保管していた。小学生の時、母方の祖父母宅で、祖母が「そば粉」を作って、蕎麦を作って食べさせてくれた。それが自分が見た、最後の臼挽きだった。・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行唐臼挽き唄唐臼挽きは夜なべ仕事で、娘がいる家には村の若衆たちが手伝いにきた。夜食には団子または大根飯が必ず出た。各地〽臼の軽さよ拍手のよさよ愛てかわすな明日の夜もわしとお前は臼ひき女ひいて回せば子ができる・・粉挽き唄石臼で屑米・麦・そば・豆など粉にしてよく食べた。とくに団子がよく用いられた。思い石臼をゴロリ、ゴロリと挽きながら、ゆっくりと歌うのである。笠岡市臼よ回え回えきりりとしゃんとここは道端ひとが聞く・・・米搗き唄米搗きは、はね杵を踏んで精米をした。一...臼挽き唄

  • 庭歌

    母の話2005・2・5みしろも今はいらんようになった。稲や麦や除虫菊や。干しつきょうた。何回も干すとこを変ようた。陽の照るトコと照らんトコと。うちらでもかみざのくちはじきかげるけえ、ひどいときゃ日にさんべんぐれい向きを変ようた。・・・「鴨方町史・民俗編」鴨方町昭和60年発行前庭前庭はカドと呼んでいる。カドには、籾など五穀を筵にひろげて干す。筵干しとかカド干しという。干しあがると、脱穀・調整作業をする。カドは筵干しの場であり、作業場・牛繋ぎ場・まき割り場・子供の遊び場である。また、苗床・温床をつくることもあった。昭和30年ごろから乾燥機で干すようになり、カドは庭園化して行く。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行麦打ち唄(唐竿で叩いて実を落とす作業)笠岡市唐竿叩きゃすりゃお手に豆ょ七つヨー夜は殿さに寝...庭歌

  • 青春歌謡映画は楽しい「十七歳のこの胸に」

    昭和39年東映「十七歳のこの胸に」。去年西郷輝彦さんが亡くなってすぐ、追悼の意を込めて作ったが、今でも淋しさを感じている。青春歌謡映画は楽しい「十七歳のこの胸に」

  • 吉舎(きさ)までユキワリイチゲを見にいった、その帰り道

    吉舎は遠いけど、一度その花を見たかったので遠征した。車で1時間40分くらいの距離。初めてみるユキワリイチゲは、思っていた通りの可憐で、春を感じる清楚な花だった。(吉舎)花の形を実際に目で見て知ったので、笠岡の手前の井原まで帰ってきたとき、井原でも咲くといわれる場所に寄ってみた。すると、吉舎よりも多くのユキワリイチゲが咲いていた。わざわざ遠くまで行かなくても、近くに、より多くのユキワリイチゲがあった。(井原)日時・2023年3月7日場所・広島県吉舎町安田・岡山県井原市芳井吉舎(きさ)までユキワリイチゲを見にいった、その帰り道

  • さなだ組みの唄

    真田組みは、老女と子供の手仕事であったように思う。家では祖母が真田を組んでいた。母は一度も真田をしていない。←真田をする暇がなかった。仲買人が大冝からと、吉浜から来ていた。管理人が高校生になるころ、真田は無くなったような気がする。・・・・父の話・2000・6・17裸麦の穂をそろようた。先は先で取り、中は中でとりょうた。上の細いとこと、真中辺を切る。麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。今はだれもしょうらん。麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。(笠岡市立城見小...さなだ組みの唄

  • 三郎島の話

    三郎島の峠で、農夫の方がひと休みしていた。三郎島の話を聞いた。日時・2023年3月3日浅口市寄島町三郎・・・・イノシシはまだおらんけど、タヌキがいる。タヌキは何でも食べる。芋もダイコンも食べられてしまう。イノシシは柵を飛び越えるが、タヌキは柵の下をとおてくる。(防護柵が別ということと、島の畑にその費用はあわない)仕事は朝する、誰ぁれも昼からはしない。そしたら、それを知っとる外国人が一人でなく集団で来てミカンを盗ってしまう。見つけた人が言うと、「オカネナラハラウヨ」と言う。何んも悪いことをしょうると思うておらん。人がおってもなめとるなあ。ここらは山じゃあなく、全部畑だった。しだいに畑をせんようになってあの桜のまわりも手入れがまわらんようになってきている。通学船(学校船)ワシが小学生の頃は、干たら歩いて行きょ...三郎島の話

  • 山唄・柴刈り唄

    桃太郎さんのお話で有名な、”おじいさんは山へ柴刈りに・・・”子どもの頃は、よく山へ行った。松葉集め・やくべ木集め・柴刈り、その三つの記憶が混在して区別できない。薪にしたのか肥料にしたのか牛のエサだったのかも、遠い昔となってよくわからない。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行山唄・柴刈り唄秋の彼岸になると柴刈りが始まる。柴は牛の厩に入れられて敷き草にされ、それが厩肥になる。また堆肥にされたり、そのまま切って田に入れて肥料になる。金肥は魚肥か菜種粕ぐらいでわずかなものであり、肥料の中心は柴(堆肥・厩肥)と人糞尿・灰であった。反当り200肥は入れた方がよいとされ、五反百姓では少なくとも、延べ20日間の柴刈りをしなければならない。柴刈りは朝から晩までの仕事なので弁当持ちで行き、鎌はすぐに切れなくなるので、...山唄・柴刈り唄

  • 笠岡の「しめ縄」

    一年ほど前、幼なじみのHくんから、お宮の”しめ縄”の伝承で苦慮している話を聞いた。それで笠岡市内の神社のしめ縄を見て歩いた。各地区で共通しているのが、村祭りの2週間ほど前に、しめ縄を作ること。共通してないのが、しめ縄の形状。ほかに、地域人口の減少等で、しめ縄が無い神社、化繊のしめ縄の神社もあった。笠岡の「しめ縄」

  • 三月三日 雛祭り

    子どもの頃、女の子の家で「ひな祭り」を祝うことはあったかもしれないが、雛人形がある家は、城見にはどの家にもなかった。管理人の家では行事も何もなかった。念のため、姉に確認した。「家では何もしていない。よその家の雛飾りも一度も見たことはない」しかし、楽しかった思い出はある。城見保育所では、先生(保母さん)が千代紙でお雛様を折って壁に飾っていた。そして小学校と合同の学芸会で”今日は楽しいひな祭り・・”を歌っていた。それだけで、じゅうぶん楽しい「ひな祭り」だった。・・・・・・雛祭り「岡山県史」春の節供は雛祭り・女の節供・桃の節供などと呼び、旧暦三月三日の行事である。古くは上巳の節供といって、三月の初めの己の日に、厄難を人形に負わせて、川や海に流し送る水辺の行事であった。後にはもとの意味が忘れられて、人形を飾って、...三月三日雛祭り

  • 「奥の細道」を行く

    笠岡市名誉市民の小野竹喬画伯の代表作の一つに、“奥の細道句抄絵”があり、何年か前に「竹喬美術館」で特別展があった。その時、作品に大きな感動を受け、自分も一度、画伯のように芭蕉の場所に行ってみたいと思った。芭蕉の道を、何回かにわけてまわった。今回その写真を整理してみた。「奥の細道」を行く

  • 白石踊り

    「白石踊り」は笠岡市を代表する文化財であり、最大の観光資源でもあったが、残念ながら行政が長期間、全くの無力だった。過疎化や少子化で、踊りが絶えることを危惧してやっと行政も(守ることに)腰をあげた。高校生や有志の市民が積極的に参加している。そもそも「白石踊り」は、阿波の徳島の「阿波踊り」に負けない魅せる力があると、いつも思っている。昨年はユネスコの文化遺産委に登録された。・・・リーフレット「おいでよ白石島」白石踊源平水島合戦で戦死した人々の霊を慰めるために始まったと伝えられる白石踊。8月14日から16日にかけて月明かりの下、深夜まで踊ります。一つの音頭と大太鼓の音に合わせて、男踊・女踊・娘踊・奴踊など十数種類の異なる踊りを同時に踊ります。一つの輪の中で混然一体となって雄壮活発・豪華絢爛に踊られる姿は、優雅で...白石踊り

  • 糸引き唄

    綿花を近年よく見る。趣味で家庭菜園で栽培し、白い綿を観賞したり、それを手芸に使ったり、そして糸車で糸を紡いだりしている。明治頃までの農家は、畑で綿花を栽培する。収穫する。糸を紡ぐ。機織りで布にする。着物に編む。紺屋に出す以外は、そのすべてを自作していた。・・・・「岡山県史民俗1」岡山県昭和58年発行糸引き車で(糸車)で撚りをかけながら糸に引いた。右手で車を回し、左手でシノから糸を引きだし撚りをかけて糸にした。夜なべでアンドンの下で毎夜糸引きをしたものという。手引きは普通は太くて不揃いだった。織るとゴツゴツした厚地の手織り木綿になった。糸引きは根気のいる仕事で夜なべは眠いから娘たちは糸車とシノを持ち娘宿に集まって糸紡ぎ唄を歌って糸引きをした。・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行製糸唄機織りは昭和初...糸引き唄

  • 機織り唄

    「明治30年代の生まれなら機織りの経験者」なら、祖母は機織りをしていたことになる。父が「家に保管していた」と話していたが、その道具は祖母や曾祖母が使っていたものだろう。・・・機織り「岡山県史民俗1」岡山県昭和58年発行大正頃までは、機織りは女の仕事であった。各戸に機があって、女たちは晴着から普段着・仕事着はもちろん、布団・蚊帳に前掛け・手拭いに至るまで、一切の衣料を織り出したものである。明治30年代までに生まれた女の人は、ほとんど機織りの経験者である。秋の収穫がすむと、春の彼岸まで、寒い時期は明けても暮れても、糸引きと機織りだった。高機で、一日一反織るのは難しい。どんな縞にするかで、どの糸が、いくらくらいいるか決まった。その計算を縞算用といい、難しいものだった。ええ綿と悪い綿により分けた。ええのは糸にひき...機織り唄

  • そうめん掛け場唄

    素麺の三大産地は「播州」「奈良」「小豆島」だが、近辺では小坂(鴨方)尾坂(笠岡)矢掛の三カ所が三大産地といわれている。管理人は自称・素麺道1級だが、食べるのは、いつも地元の素麺と決まっている。・・・「鴨方町史・民俗編」鴨方町昭和60年発行素麺製粉この地方では小麦粉を製造するために水車が利用された。最盛期の明治末ごろには、杉谷川沿いに60カ所あまりが階段状に並び、コットン、コットンと音をたてて稼働していた。近隣からも製粉にしてもらう人々が、小麦を持って来ていた。大正2年電気を動力とする自家製粉へ変化した。昭和38年以降は、自家製粉の小麦粉から、大手製粉会社の小麦粉を使用し現在に至っている。素麺作り素麺作りは、12月から3月まで行われる。以前は、4月1日からは杉谷川の用水を農業用水として利用するため、この期日...そうめん掛け場唄

  • 池普請団地子唄

    昭和14年の西日本大旱ばつで、翌昭和15年には多くのため池が新たに造られた。笠岡市では新山の奥山池の作業者から直接聞いたことがあるが、野々浜の森池の話と内容がほぼ同じだった。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行池普請団地子唄第二次大戦後まではほとんど手による作業で、機械は使われず池を築く—堤防を築くのは人海戦術で行われた。土を固める作業—築堤の中心作業であるが、これは団地子(だんじこ)と呼ばれる女性の力によった。溜め池作りは冬の仕事で、赤い腰巻、赤だすきの腰からげ、頭は手拭であねさんかぶり、手甲掛けという姿の団地子が、音頭取りが上下に動かすザイヒあわせて囃しながら杵を打つ作業が続けられる。10~30人くらいまでが一つの集団となって作業する。ショコ踏み唄〽朝も早よからよーコーラショ弁当箱下げて工事通...池普請団地子唄

  • 青春歌謡映画は楽しい「絶唱」

    昭和41年日活映画「絶唱」青春歌謡映画は楽しい「絶唱」

  • 智頭宿

    智頭町を訪れた。今も”智頭往来”の面影を残し、山々に囲まれ、千代川が流れる町。(備前橋から見る千代川)(備前街道では雪かきをしていた)・・・「鳥取県の歴史」山中寿夫山川出版社昭和45年発行智頭宿藩主の参勤交代の道筋で、智頭往来の要点でもあった智頭町は、鳥取を出発した藩主の宿泊地となったところで、本陣がおかれていた。馬や人足を用意しておく規定であったが、冬季積雪のため交通路がふさがれたときには、智頭町に駐在していた代官の命令で、百姓をあつめて雪をかきのぞき、道をあけることになっていた。また智頭は、備前街道の分岐点で、交通上の要所であったから、商内市が月に6回、五・十の日にひらかれていた。・・・(智頭往来、このような大きな商家が並ぶ)(「西河克己映画記念館」)西河克己監督は名作「絶唱」を始め、数々の日活青春映...智頭宿

  • 木山捷平

    近くに住むおば(父の妹)と、木山捷平は共通部分がある。戦時中に満州に行き、戦後の満州で生死をさまよったこと。・・・・「木山捷平の世界」定金恒次岡山文庫平成4年発行渡満昭和19年12月28日満州国の首都新京へ着任。日本国内よりははるかに自由気ままな新天地での生活を味わう。翌、昭和20年8月12日現地召集を受けて即日入隊。その後、昭和21年7月14日引き揚げの途に着くまでの約一年間、生死の間をさまよいながら難民生活を続ける。文字通り極限状態の生活であった。みさお夫人によれば、捷平は「敗戦後の長春での一年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた。」と語ったという。飢えて死に凍えて死なん日もあらんされど我は人は殺さじ帰国昭和21年8月23日引揚船から佐世保に上陸した捷平は、翌日夜郷里笠岡にたどり着く。みさお夫...木山捷平

  • 大砂塵

    砂丘を歩いていたら大砂塵に出遭った。ぼのすごい量の砂と風が身体に吹きつけた。その後で、鳥取砂丘では初めて「風紋」を見ることができた。※”ジャニーギター”で有名な西部劇とは関係ありません。撮影日・2023年2月21日(鳥取県)大砂塵

  • 笠岡港小唄

    個人的な思いを言えば、”笠岡港小唄”が、いちばん笠岡らしさを感じる。♪えヽ可愛い笠岡忘らりょか特にあの部分がいい。・・・・「笠岡港小唄」山田定男作詞西條八十補作平川英夫作編曲唄久保幸江鶴田六郎コロンビアオーケストラ三味線豊吉一、明日は出船とうち明けられてつのる思いの浜千鳥乙女十八涙を染めて花も散ります古城山えヽ可愛い笠岡忘らりょかサ二、海の銀座は日本にひとつ一度おいでよ涼み船島の娘の小粋な踊り月に眺めて島めぐりえヽ可愛い笠岡忘らりょかサ三、恋のとも網すげなくきって君は出てゆく時雨舟休石には名残りを惜しみ秋の燕もとまるのにえヽ可愛い笠岡忘らりょかサ四、景色うつくし人情は優しのびる笠岡よい港泊るひと夜がつい妻なれば浮気ゃさせぬとむかい船えヽ可愛い笠岡忘らりょかサ・・・撮影日・2014.4.6笠岡港小唄

  • ヤットーサノサ

    笠岡市用之江の盆踊り歌。・・・・「城見のあゆみ」城見地区まちづくり協議会2017年発行ヤットーサノサ用之江地区で古くから継承され、決まった歌詞はなく時勢に合わせた音頭で楽しく踊ります。現在歌われている音頭の歌詞の一部を紹介します。この音頭は、備後地方で発祥し、その流れをくんでいるといわれています。〽口説く文句は何よと聞けばドッコイショ用之江盆唄歴史でまいろ〽わしが生まれた用之江村はドッコイショ瀬戸内はるか山里で〽昔しや備中小田郡と呼ばれドッコイショ備後福山とお国の境〽畑耕し田んぼを耕しドッコイショいも麦お米果物つくり〽貧しい中にも絆があってドッコイショ向こう三軒ヤレ両となり〽じいもばあさんも子どもも交じりドッコイショ秋は豊作ヤレ氏子の祭り・・・撮影日・2018年3月31日(場所・用之江)ヤットーサノサ

  • 生江浜から片島のお祖母ちゃんちに行く

    笠岡市民会館で「笠岡市美術展」が2/17~2/19で開催中。会場で旧知のJさんに会った。Jさんは古写真を見ながら次のような話をした。(赤い矢印が神島⇔片島渡船)「母親は片島から生江浜に嫁に来ていた。それで夏休みなど片島に何度も遊びに行っている。生江浜の家から歩いて吉浜土手に行く、吉浜土手からバスに乗って笠岡駅に行く、笠岡駅からバスに乗って横島フェリー乗場に行く、横島フェリー乗場からフェリーに乗って神島フェリー乗場に行く、神島フェリー乗場から歩いて神島渡船場へ行く、神島渡船場から渡し船に乗って片島渡船場に行く。片島渡船場でお祖母ちゃんが出迎えしてくれた。楽しみは、お祖父さんが魚の美味いのを食べさせてくれた。夏休みでは、必ず(島の北側の)海水浴場に行っていた。」・・・・・・・・・・・・・・・・徒歩以外に、船便...生江浜から片島のお祖母ちゃんちに行く

  • 青春歌謡映画は楽しい「あの雲に歌おう」

    昭和40年正月映画・東映「あの雲に歌おう」青春歌謡映画は楽しい「あの雲に歌おう」

  • 馬子歌

    茂平の道茂平の道は、(たぶん)昭和の初めまでは牛と荷車が通れる幅の道しかなかったと思う。しかし、それは平地のことで、山道は人しか通れない。荷物は持つか、背負うか、天秤棒とヘードラ。孤立した村だった。昭和の初め頃、用之江から茂平港まで4輪車が通れる、というより、どうにか入れる幅になった。それで、やっと荷車が用之江とつながった。馬子も来れる道幅になった。昭和40年代に野々浜と車道が繋がった。大冝と生江浜への道は消滅した。(自然に戻った)昭和32.34年頃、バスが茂平に来るようになったが、園芸組合までで、それ以南は道幅が狭いので終始点となった。馬子がいて、馬子唄が伝わる地域は、今でいう国道が村を通る便利な地域だったように感じる。・・・・想像もできないような細い、曲がりくねった道しかなかったころは、物資の運搬も人...馬子歌

  • 民謡とは

    ・・・・・・・・・・・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行消えていく民謡民謡という言葉は比較的新しく、第二次大戦後に定着した言葉である。それまでは「俗謡」「俚謡(りよう)」という言葉が使われていた。民謡に対する態度は、その時代の民謡感を反映して冷たいものである。例えば、明治42年『和気郡史』、「大抵、鄭声(ていせい)淫猥の曲、士君子の口にするを恥ずべく、聞くに堪えざるもの多し」大正5年の『中津井村史』、「大抵淫猥野卑ノ曲ニシテ聞クニ堪エザルモノ多シ」大正12発行の『久米郡誌』は「作業謡も色々あって田植え唄、籾摺り唄、木挽き唄、地搗唄、餅搗唄、遠路工夫の唄などがあるが、何れも多くは野卑である」などと記している。どれをとっても言葉の使い方まで同一で、どこかに模範にすべき文章があり、それをそのまま記した...民謡とは

  • 木挽き唄

    (鳥取県智頭町2007.4.14)・・・・・・・・・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行木挽き唄切り倒された木を大鋸で挽いて、板や用材にするのが木挽き職である。重労働で、「木挽き米の飯一升食うて、鋸の屑ほど糞たれた」と歌われるが、それほど食べないと力は出なかった。久米南町〽何が因果で木挽きをヨー習うた花の盛りを山小屋で花の盛りを山小屋に住めどヤレ小判並べて女郎を買う・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行木挽き歌広島県は中央部以北は大部分が山地である。中でも、比婆・双三・世羅・山県・佐伯の各郡は奥深く樹木の鬱蒼と茂った山々が連なっている。かような山地の生活は、農業よりはむしろ林業関係が多く、木を切り、炭を焼く仕事が主であった。したがって生活の歌として最も多いのが木挽き歌である。高田...木挽き唄

  • 筏流し歌

    (東城川2022.11.3広島県東城町)・・・・「岡山県史民俗Ⅰ」岡山県昭和58年発行林業中国山地などの木材は筏流しで、岡山などの都市の問屋へ出された。伐採した木材をキンマ(木馬)または修羅でゾロビキといって運び、木材にトッカンを打ち込んで、馬や雄牛にひかせ、または、人がのって小川まで出す。そして筏流しをする。すなわち一本ずつ管流しをし、大きい川まで出ると、筏師が筏にくんで乗り、川下りした。・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行筏流し歌東城川は水量豊富で、ダムもなかったため、川の利用が盛んに行われた。油木町の手入(てにゅう)までは、舟が玉島から高梁を経てのぼり、筏はさらにその上流の浜栄が出発点であった。そのころ、舟も筏も、東城から玉島まで三日ほどかかったそうである。比婆郡〽何の因果で筏乗...筏流し歌

  • 茶作り唄・茶摘み歌

    (高知県高岡郡津野町の茶畑2018年10月1日)・・・「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行茶たいていの家では、畑のぎしなどに茶樹を植えており、自給する。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行茶作り唄茶摘みは若い女で、近隣の村から口減らしをかねてやってきていた。女工部屋にごろ寝で泊り、茶摘みの期間中働く、村の若衆には「茶の木が仲人した」結果、茶摘み女を嫁にした人も相当あった。茶摘みは朝、夜が明けるとすぐに出て行き、日が暮れるまで一日中摘む。日の長い茶摘み時期に、遅くまで働かせていた。一番茶は竹べらで摘み、二番茶からは鎌で芽を刈っていた。摘んだ茶は手でもんで煎茶にしていたが、大正9年に茶の機械が導入され、すべて機械もみにとって代わられた。茶もみ作業は、高温多湿の部屋の中でする大変な仕事であった。美作町...茶作り唄・茶摘み歌

  • 「聖バレンタインデー」

    ”バレンタインデー”という言葉も行事も30才ころまで、まったく知らなかった。ある時、他業種の独身女性から「上司(妻帯者)にチョコレートをあげたら、顔を紅くして喜んだ」という会話を耳にした。彼女はその上司を、いくらかおちょくるような言い方だった。それで、”バレンタインデー”という日があることは知った。その日は、女性から男性へ愛の告白をしてもいい日、だそうだ。だが自分にも、自分の勤務先にも縁のない行事だった。それから数年してから、急にその行事は有名になった。スーパーに行けば、いちばんいい置き場に、チョコレートが山と積まれるようになった。そして自分にもチョコレートが届くようになった。自分に届くようになった時は、すでに”義理チョコ”全盛の時代で、おまけに”ホワイトデー”があり、同等または倍相当のお返しチョコが必要...「聖バレンタインデー」

  • 茶もみ

    父の話(2000・5・14)何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。昔はみんな、そうしょうた。撮影日・2014年10月9日(静岡県榛原郡金谷町)・・・茂平水落の山畑の一角に茶を植えていた。摘んで籠にいれて家に持ち帰り、母が手もみをして天日で干していた。そのお茶の味は、不味かった。小学校の先生が授業で、「昔はお茶を飲まず白湯(さゆ)を飲んでいて、身分の上の人や、病気になった人がお茶を飲んでいた」話を聞き、不味くてもお茶を飲めるのはありがたいことだと思っていた。常会や来客がある時のみ、買った茶を使用していた。・・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行茶もみ歌農家で飲む茶はほとんど自家製であった。夏も近ずく八十八夜ごろ、畑の一隅に植えた茶の木...茶もみ

  • 青春歌謡映画は楽しい「北国の街」

    昭和40年日活映画「北国の街」青春歌謡映画は楽しい「北国の街」

  • 青春歌謡映画は楽しい「君たちがいて僕がいた」

    昭和39年東映映画「君たちがいて僕がいた」青春歌謡映画は楽しい「君たちがいて僕がいた」

  • 建国記念の日

    「建国記念の日」は制定(昭和41年)当時も、現在も賛否があるが、あまり大きな問題になっていないのは「紀元節」時代から現在まで、生活とのつながりがないからだろうか?父母の時代・・・「紀元節」、重要な学校行事。管理人の時代・・・「紀元節」も「建国記念の日」もなかった。(平日だった)子の時代・・・「建国記念の日」、休日。・・・・義母の話談・2022.2.6(義母は昭和5年12月生まれ。後月郡芳井町にある分校と本校に通った。分校には御真影も教育勅語もなかった、ようだ)紀元節の日は、分校でなく本校に行っていた。3時間かけて(遊びながら儀式が始まる時間までに)本校に行っていた。その日は1時間くらいで終わり、終わるとすぐ家に帰っていた。・・・・「福山市史・下巻」学校行事の変化昭和初年までの学校行事は、入学・卒業式のほか...建国記念の日

  • 櫓歌(茂平)

    管理人の家に農船があった。三軒で一つの船を共有していた。その船は、島から島へではなく本土から島へでもなく本土から本土(茂平から茂平)へ、農作物を積んで運搬していた。ギッチラギッチラと櫓を漕いでいたが、唄はなかった。(昭和42年3月茂平)・・・・・・・・・・・茂平に農船の唄がないので、代わりに広島県の農船の歌を載せる。・・・・・・・・・・・広島県「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行櫓歌「櫓歌」の農家の歌である。瀬戸内海では大小の島々には田圃や蜜柑畑が開かれていて、それらの所有主である農家では、その島とは違った別の個所で生活しているため、田畑の世話をするのに伝馬船を漕いで往復しなければならないからである。豊田郡東野町〽ヤーレ押せ押せ船頭も水主もヨーイうたひのぼらぬノーヤレこの瀬戸はヨヤッサノノマ...櫓歌(茂平)

  • 櫓歌

    櫓を漕ぐ唄には、海の香りがする。手拭を、鉢巻か、ほおかぶりに頭に巻いた姿。顔には、海に生きる厳しさが漂っていた。・・・「瀬戸内の民俗史」沖浦和光岩波新書1998年発行1946年にスペインのマドリード市の歴史アカデミアの書庫で、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』が自筆のまま発見された。第一級の貴重な資料である。34年間も日本に滞在したフロイスは何回か瀬戸内海を航行している。日本の船は、「肋骨材と甲板がない」「布製の帆がない(藁の帆である)」「漕ぐ必要がある」「碇は鉄でない(木である)」「昼だけ航行する(夜間はできない)」「天気晴朗でないと航行しない」「水夫はほとんど、いつも歌っている」・・・・・・広島県「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行櫓歌船を漕ぐ場合を考えると、川と海がある。川の場合は「船...櫓歌

  • おちょろ船

    この本↓には、港の繁栄の必須条件の一つとして”茶屋”を述べているが、たしかに、古い港町には必ずのように遊廓跡がある。危険と長旅と男性だけの世界なので、そうゆうことになるのか。そういえば戦時中にも聯隊のいるところ、従軍慰安婦がいた。何かと共通している。・・・「瀬戸内の民俗史」沖浦和光岩波新書1998年発行おちょろ船沖乗り航路を突っ走る大型帆船が増えてくると、どうしても芸予諸島の島々に風待ち・潮待ち港が必要になってきた。海岸沿いをはしる「地乗り」航路は安全だが、日数がかかった。「沖乗り」を通れば、二倍近く速くなる。元禄期のころから北前船の数が急増した。文化年間に御手洗港に波止が完成した。近世の瀬戸内では、各地から船と人が集まる港の繁栄を維持するうえで、どうしても必要なのは問屋・茶屋・芝居小屋の三点セットだった...おちょろ船

  • 備中神楽

    備中神楽は古い芸能にしては、今も盛んに受け継がれている。日本人の心にしみる芸能に感じる。大衆性・娯楽性にも優れているのだろう。・・・・・「流域をたどる歴史・中国四国編」ぎょうせい昭和54年発行備中神楽は「神殿神楽」とともに、新しい芸能色の濃い「神代神楽(じんだいかぐら)」が大衆に親しまれ、今日まで備中神楽のすべてを保存してきた。神殿神楽「神殿」と呼ぶ舞台がつくられ神代神楽大衆性、娯楽性が強い。素朴さの中に郷土芸能として高いものを伝承している。創案した西林国橋の功績と考えられる。国橋は川上郡成羽町の神官で文化文政の頃(1804~1830)当時の卑俗な神楽を憂いて、記紀などの古典を参酌して、神代神楽の改正や創案をした。この国橋のつくった備中神楽(神代神楽)が、現在まで村々で行われている。神殿神楽のことを荒神神...備中神楽

  • 備中神楽「国譲り」大国主命の舞

    歌舞伎とか神楽は、筋を知ったうえで見ないと、ほぼ「猫に小判」状態になる。しかし神楽のうち、大国主(だいこくさん)の”福の種まき”だけは万人が楽しめる。神楽のお面、舞、衣装、太鼓、台詞を楽しみながら、種まきが始まるのを今か今かと待つ時間もいい。現在は、お祭り以外に地域イベントに備中神楽の出演が多く、「福の種まき」をいつも楽しみにしている。・・・備中神楽「国譲り」大国主命の舞「そも舞い出でし翁は、この国の主(あるじ)大国主の命なり。われを祭る輩(ともがら)には福徳幸いを授くるなり。また手向かうものあるときは、この打ち出の小槌広鉾両種の威徳をもって打ち固め、世を安国としずめるなり。」「いよいよ尊信するとあるならば、これより中津国のかまど巡りなさばやと存じ候。」「いそぎようやく清々しき神殿に着いたと覚えたり。しば...備中神楽「国譲り」大国主命の舞

  • 備中神楽「大蛇(おろち)退治」

    記憶が薄れているが、母方の祖父母の神社で神楽を見にいった。まだ小学1.2年生の頃で、眠いのを我慢して見ていたが、大きな蛇がでて動き出すと、こわさに我慢できず祖父母宅に戻った。朝起きて母に聞くと「殺された」という返事だった。・・・・「備中神楽」山根堅一岡山文庫昭和47年発行大蛇(おろち)退治大蛇退治は、素戔嗚の尊の「幕掛かり」の舞からはじまる。”稲田姫大蛇の口をのがれたりその謀略(たばかり)か酒ぞかしこき”太鼓は急テンポに力一ぱい高鳴る。尊は幕へ近づいて大蛇の動静をうかがう。幕の中では大蛇がピーピーとうなり声をたててうごめく。尊は幣を投げつけて、さらに幕に近づく。緊迫感のみなぎる場面である。大蛇の動きにぱっと飛びすさりざま、刀を抜き放って、ひとしきり力強く舞った後、幕内へ一時身を隠す。やがて大蛇は、かま首を...備中神楽「大蛇(おろち)退治」

  • 石切り唄

    石切山は良質な石、積み出し港が近い、という条件が必要だったので瀬戸内地方は”石の島”が多かった。セメントや輸入石材によって市場を狭められた。・・・・・・・・・・・・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行石切り唄石工は左手にタガネ右手にノミを持って岩塊にいどみ、力をふるって穴をあける。穴は浅いのは一尺から深いのは一尺二、三尺。これに火薬を装填する。穴の直径は六分五厘ときまっていた。力感あふれる歌である。石工歌呉市吉浦吉浦町上地区から良質の花崗岩が出る。ここに石工が集まり定着してしまった。彼らが仕事に際してうたったのが「石工歌」(いしくうた)である。〽可愛がられて寝た夜もござる泣いた明かした夜もござる〽うるめ島には霞がかかるわたしゃあんたに気がかかる・・石堀り歌安芸郡蒲刈町〽わたしゃこのごろ衒...石切り唄

  • 石切り唄(北木島)

    初めて北木島に行ったのは、高校1年生の夏休み、中学校の同級生と三人で”楠の浜”にキャンプにいった。笠岡から北木島の楠港に着いてキャンプ場まで歩いて行って、帰りも楠港から笠岡に帰った。広い北木島の楠しか見なかったが、それでも北木島がいかに栄えているかは、感じることが出来た。・・・今、楠は限りなく”限界集落”そのものになっている。石切り唄は、日本全国ありそうだが(地元優先で)笠岡市北木島をまず記載する。もっとも笠岡市だけでも北木島・白石島・高島と産地は多い。以前読んだ本には、福山城の石垣は北木島よりも白石島や高島の方が多いというように記憶している。・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行石切り唄瀬戸内海の島々は花崗岩の産地で、石大工と呼ばれる職人によって支えられてきた。岡山県では笠岡市の北木島・白石島が...石切り唄(北木島)

  • 節分

    子どもの頃、父が枡を手にして炒った大豆を投げていた。「鬼は外」の豆は、庭(カド)に投げる。「福は内」の豆は、畳の間に投げる。畳の豆は拾って食べていたが、カドに投げた豆はそのままだった。縁起物なので楽しく食べていた。”恵方巻き”という言葉は、十数年前に初めて知った。↓「鴨方町史」「岡山県史」にも、一文字もないので、平成時代になって始まったものだろう。神社・寺院の行事ではなかったが、いつのまにか寺社になったことも不思議だ。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行節分立春の前日を節分と呼ぶのが通例である。正月と同じように、立春を年の初めと考えるところから、大晦日と節分には混交した感覚が多い。笠岡市真鍋島では大晦日にも節分にも豆を撒く。寄島町では節分に豆を撒いてから麦藁舟を海に流すという。この日は婚礼が多い。...節分

  • 芸備線の存廃問題

    (芸備線・備後落合駅)JR西日本は赤字路線の切り捨て方針を邁進している。他にも、去年の12月ごろ、笠岡駅が無人化された。便数が減って、昼は1時間1本という時間帯がある。車両も通勤通学の時間を除き3車両編成が多い。不便になった。(芸備線・備後落合駅)JRは在来線は切り捨てるが、新幹線は新設している。長崎や北陸や函館・札幌など。利権がからめば国も政治家も本気になる。地方は国家から見捨てられているように、思う時がある。芸備線・小奴可駅ふきん↑↓芸備線撮影日・2021.4.26芸備線の存廃問題

  • 瀬戸の花嫁 (戦前の結婚園)

    城見小学校の同級生は、当時兄弟が多く、従兄妹まで気にするとは少なかったが、学校内に従兄妹同士が多かった。茂平の子どもも、同じヒラで遊び、ましてや用之江や大冝に行くということは少なかった。交通事情も悪い時代は、結婚相手も、狭いというか(今では)近距離に住む人との結婚が多かった。・・・「岡山県史第16巻民族Ⅱ」岡山県山陽新聞社昭和58年発行備中町の北部、西山地方の通婚園は、北は哲西町、西は広島県の東城町などとの交流が深く、この方面との縁組が多い。平川でも県境に接している関係から広島県神石郡の油木・豊松などとの縁組が目立って多い。吉井川・旭川・高梁川流域なども、昔は高瀬舟によって関連を持つ川筋との縁組もかなりあった。笠岡市真鍋島などの笠岡諸島は、昔から島内婚が多く、しかも同じ部落の縁組が多い。たとえば白石島でも...瀬戸の花嫁(戦前の結婚園)

  • 音戸の舟唄

    笠岡市にも渡船があったが、昭和40年前後すべて無くなった。生江浜⇔金崎片島⇔神島横島⇔神島高島⇔神島小飛島⇔大飛島呉の音戸渡船も、呉市HP、に令和3年10月31日をもって廃止となりました。ヤーレー船頭可愛や音戸の瀬戸でヨー一丈五尺のヤーレノー艪がしわるヨーヤーレー船頭可愛いと沖行く船にヨー瀬戸の瀬戸の女郎衆がヤーレノー袖濡らすヨーヤーレー泣いてくれるな出船の時にゃヨー沖で艪櫂(ろかい)のヤーレノー手が渋るヨーヤーレー浮いた鴎の夫婦の仲をヨー情け知らずのヤーレノー伝馬船ヨーヤーレー安芸の宮島廻れば七里ヨー浦は七浦ヤーレノー七恵比寿ヨーヤーレーここは音戸の瀬戸清盛塚のヨー岩に渦潮ヤーレノードンとぶち当たるヨー・・・・たいへんな労作である、「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行に”音戸の舟歌”が記載...音戸の舟唄

  • 呉音頭

    就職し、最初の赴任地が呉だった。会社の業績がうなぎ上り(当時は、ほぼすべての会社がそう)だったこともあり、週に何度も飲み屋に行った、仕事の名目で、すべて会社持ち。その時に”呉音頭”を覚えた。何度も聴いていたので三味線の音色と唄は、今でもよく覚えている。(軍港)(住んでいた宮原通8丁目の寮に行くと、寮は無く公園になっていた)・・・【呉市HP】「呉音頭」詞:島川光栄氏作曲:杵屋七峰氏呉が見たさに逢いたさにちょいと音戸の瀬戸あけて千艘(ぞ)万艘と呉はよいとこ千艘(ぞ)万艘と船が来るハヨイヨイヨイヤサノヨーイヤナー(両城町200階段)投げた碇(いかり)が重とうて一夜二夜じゃ揚がりゃせぬせめて麗女(うるめ)と呉はよいとこせめて麗女(うるめ)と七夜まで(略)花の中から歌がする春は桜の平原へ月も浮かれて呉はよいとこ月も...呉音頭

  • 笠岡港ぶし

    ”笠岡港ぶし”は民謡ではないが、郷土歌謡なので載せる。しかも”野口雨情”大先生の作品なので載さないわけにはいかない。もっとも、曲の方は聴いたこともない。下記の「岡山の歌謡」という本で、初めて知った。・・・笠岡港ぶし野口雨情作詞あいに来るときゃ笠岡は港聞かれりゃ魚釣り舟遊びというておいでよわたしゃ待つ身でままならぬ「岡山の歌謡」英玲二岡山文庫昭和45年発行・・・撮影日・2022.11.20笠岡港ぶし

  • はねおどり歌

    民謡よりも、踊りが有名な「はねおどり」広島県無形文化財。踊は素朴でありながら、豪快な感じもする。元は、「虫送り」と「雨乞い」だそうだ。↓・・・【福山市HP】はねおどりこの踊りは古くから旧沼隈郡一円と旧深安郡南部及び駅家町万能倉で踊られたもので,その原形は農村行事の「虫送り」「雨乞い」に求めることができる。江戸時代,水野勝成が福山城主となり,この踊りがすこぶる勇壮で活気に満ち,士気を鼓舞するとしてこれを奨励し,各村々に鉦鼓を給付,雨乞い,虫送り,祭りなどの諸行事で行なわせたと伝えられ,このころから盛んになった。はねおどり歌沼隈郡沼隈町『はねおどり』は沼隈郡沼隈町に残る県指定の無形文化財である。白地の浴衣に白い鉢巻き、黒の手甲と黒い脚絆、わらじを穿いた若い衆が、大胴という大太鼓をからだの前面に吊るし、それを打...はねおどり歌

  • 笠神社の祭り唄

    笠岡の笠神社の祭り唄。お御輿をロープでぐるぐる巻きしているのが珍しい。・・・・「新笠岡天満宮記」かさおか町の昔を知る会笠岡地区まちづくり協議会平成29年発行(歌詞は膨大なため、抜粋した)〽見たかナ聞いたか吉津のとんどハ上はナ鶴亀五葉の松〽見たかななぁ聞いたか笠岡神輿はよ中はなぁ槍で外は麻〽古城のナ山から町の灯見ればヨ祭りナ祭で夜が更ける〽一人米つくあの水車誰を待つやらくるくると〽俺とお前は卵の仲よ俺が白身できみを抱く〽俺とナお前とは羽織の紐ダヨ固くナ結んで胸に抱く〽下の松茸何見て伸びる上のあけびを見て伸びる〽嫁になあするなら笠岡娘よありゃ色わなあ黒いがこれさえおめじょうず〽歌はひばりか遍路の鈴かよかすみたなびくこうのしま〽三十路女とお寺の鐘は突けば突くほど味が出る〽出船入船数ある中に私待つ船ただ一つ〽色気...笠神社の祭り唄

  • 中庄の「倉敷高校」

    笠岡で「かさこう」と言えば、「笠岡高校」と「笠岡工業高校」の二つある。話の内容で”笠高”と、”笠工”とを聞き分ける。慎重な人は”千鳥”と、”工業”と言葉を使い分ける。岡山県で「くらこう」と言えば、倉工だったが、今は「倉敷工業」「倉敷高校」が並ぶ。以前は「岡山日大」高校だったので、まぎらわしくなかったんだけど。ちなみに倉敷の娘婿は倉敷高校を「くらしき」と呼んでいる。これはこれで意味する幅が広くて、聞く方も一寸悩む。・・・・ベビーブーマーとか団塊の世代と呼ばれる世代が、高校に入学する頃、日本全国に高校や高専が新設されていった。・・・・「岡山県教育史(昭和31年~50年)」岡山県教育委員会創文社平成三年発行昭和38年をピークとする高校生急増と昭和41年からの急減の時期においては、公私立及び私立相互間における募集...中庄の「倉敷高校」

  • 岡山県西大寺市の「西大寺女子高校」

    かつて、同僚に西大寺女子高出身の人がいた。その人は、聞きも問いもしないのに「うちは西大寺女子高をでとる・・」と何度も言っていたので、今もその言葉と人を忘れない。当時、西大寺市の女子中学生の進学の大半は西大寺高校か、西大寺女子高のどちらか二つに一つのようだった。それから数十年経ち、西大寺市はとうに岡山市西大寺になり、「西大寺女子高」もまた新聞等で見ることがなくなった。あの”西大寺女子高”は今、どうなっているのだろう。・・・・・「岡山県教育史(昭和31年~50年)」岡山県教育委員会創文社平成三年発行新設、移転、校名変更昭和35年から新設校が次々に誕生した。昭和35年1月、西大寺市に西大寺女子高等学校が認可された。市長・市議長も発起人の学校法人金山学園が普通化女子高校として開校した。昭和38年定時制課程を併設し...岡山県西大寺市の「西大寺女子高校」

  • 高瀬舟歌(吉井川)

    吉井川の高瀬舟は、河川舟運の開発者として有名な”角倉了以”のモデルにもなった。現在でも、その流れを見ていると理想的な舟運の河川であるように感じる。(柵原ふれあい鉱山公園)高瀬舟(たかせぶね)柵原のある美作の国は山国でしたが、吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、経済活動が盛んでした。江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。高瀬舟は年貢米をはじめ、木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。この高瀬舟は、1992年に再現したものです。・・・高瀬舟「加茂町史」古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。なかでも年貢米の...高瀬舟歌(吉井川)

  • 塩田・浜子唄

    昭和30年頃まで、瀬戸内各県の沿岸部で行われていた入浜式塩田。山波・松永・大門・笠岡・寄島などの跡地は、住宅団地や商業・工場となり、面影すらない。もし現地案内人がいても「ココが汐入川であった」、という名残を見せるにとどまるだろう。(「広島県の民謡」から)「寄島風土記」昭和61年発行天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。万牙(まんが)浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。力と技術を要するので素人には引けない。塩を撒く長い柄の小さな木の酌で中溝の海水を塩田に撒く。満便に撒くので熟練した技術を要する作業である。沼井堀り沼...塩田・浜子唄

  • 塩田・沼井叩き歌

    昭和45年頃、国鉄の松永駅に列車が停まると、駅の北側にはイ草の田んぼが広がり、駅の南側には放ったままの入浜式塩田が海に向かってのびていた。岡山県の児島小川ふきんには、流下式塩田の枝条架(しじょうか)が広大にひろがっていた。「瀬戸大橋」の付帯工事とは、あの塩田跡の救済事業じゃあないか、と思ったりもした。・・・(江戸時代初期の新田開発の大功労者・本庄重政)(浜子の像・JR松永駅前写真左側が沼井)・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行沼井叩き歌福山市松永町「沼井」(ぬい)というのは塩田の中に切ってある四角の井戸のような形のもので、ここに塩のついた砂を知れる。夏、塩田を開始する前に、その沼井の側を粘土で五寸幅ぐらいに塗り固めて、塩水が漏らぬようにする。その粘土をバイ木という板で叩く作業が「沼井叩...塩田・沼井叩き歌

  • とんど(福山市)

    小学生の時、春休みの楽しみは福山の「とんど」を見に行くことだった。福山の「とんど」は「桜祭り」を兼ねていた。福山駅におりたら、まず福山城に行って桜を見て、それから街を歩いた。大相撲「福山場所」があり、通り町の商店に力士は分散して泊っていた。”ふんどし担ぎ”と呼ばれる幕下以下のお相撲さんが、商店街を闊歩していた。たいていサーカスも興行してた。屋根はなく、青天でのサーカスだったような気がするが、記憶違いかもしれない。映画館に入ってチャンバラ映画を見て、帰るのが「とんど」見物のパターンだった。・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行とんど福山市「とんど」というのは左義長、つまり正月に用いた七五三縄(しめなわ)の類を燃やす行事である。福山では、今から三百三十年ほど前、水野侯が城主となった時、七五三...とんど(福山市)

  • たたら唄

    かつて中国地方の山間部の大産業であった製鉄は大正時代頃までつづけられた。「たたら」が有名だが、「かんな流し」や「燃料炭」の作業も負けず厳しい。言ってしまえば、先人の日常の仕事や暮らしは山に住もうと、里に住もうと、町に住もうと皆食べて生きることだけで精一杯だった。・・・明治初年において新庄村は「山はわいていた」。根雨の近藤氏が経営していた。農家出身の「鉄山者」が伯耆・備中・備後から妻同伴で来ていた。狭い山間のたたら集落も炭材の枯渇とともに廃墟となっていった。急速にでき、急速に消えていくのが常である。鉱山者の多くは九州の八幡あるいは大阪の鉄工所へと移動していった。「瀬戸内の風土と歴史」山川出版社昭和53年発行・・・・・・・製鉄業の発展は、近世封建社会では領主の統制下でだけ許された。領主統制下におくことは、無制...たたら唄

  • 下津井節

    母方の祖父母の家には蓄音機があった。レコードを乗せてから、手でぐるぐる回し、針を置けば歌が始まった。針がちびるから、と蓄音機を聴いた記憶は少ないが、数枚だけあったレコードの一枚は「下津井節」だった。♪下津井港はヨー、は意味がわかるが、そこ以外の歌詞の意味はまったくわからなかった。当時人気・実力ともナンバーワンの三橋美智也のレコードだった。・・・下津井「岡山県の歴史散歩」山川出版社1976年発行下津井の町は、下津井城の城下町としてつくられたが、その後、北前船の積荷のつみおろし、讃岐の金毘羅権現と瑜伽権現をむすぶ客船の潮待ちの港、としてさかえた。祇園宮の下の白壁・なまこ壁の土蔵、明かり障子にべんがら格子の家並みは、かつての遊郭のあたり。威勢のよい下津井節とはうらはらに、薄幸な遊女のかなしいすがたをしのばせてい...下津井節

  • 高瀬舟唄(旭川)

    岡山県三大河川の吉井川・旭川・高梁川と、その支流には、大正末ごろまで高瀬舟が運航していたが、鉄道にとって代わられた。本格的なトラック陸送が始まったのは昭和30年代のなかば頃からだろうか。(鉄道と高梁川2019.4.9建部・福渡)「旭町史」旭町平成9年発行明治の全盛期には370隻が就航していた。明治31年の中国鉄道(現津山線)の開通で打撃を受けたが、それでも大正末年まで就航尾はつづき、昭和3年頃運航はなくなった。船頭2人を乗せる小型船(ヒセン)と、船頭3人で貨物のみを積む大型船(オーブネ)とがあった。ヒセンも岡山方面への旅などに利用されていた。船大工は落合と福渡にいた。下り荷(岡山方面へ)米・麦・大豆・木炭・割り木、こんにゃく、鉱石。上り荷(帰り)酒・雑貨・酢・醤油・塩・砂糖・肥料など。下り2700~280...高瀬舟唄(旭川)

  • 高瀬舟唄(高梁川)

    歌詞の下品さが、この仕事のつらさを、よく示している。(高梁川2022.5.9新見市)・・・「流域をたどる歴史六」豊田・藤岡・大藤編ぎょうせい昭和54年発行川船による物資輸送としての欠陥は、河川の流水量の不安定による川船就航の制限、流域水田への灌漑用水確保のため農業用水井堰を閉鎖することである。このために高瀬船就航は多くの制約をうけた。春船と秋船高梁川の高瀬船は、春船は旧正月より湛井井堰がしめきられる5月末日頃までである。秋船は湛井井堰が開かれる旧9月下旬より旧12月31日までである。春船の最初の出船をハツフネ、秋船の最期の船をオトフネという。一年を二区分にした高瀬船の運航方法は、全国河川でもとられた方法だと思う。川堀り高瀬船が冬季に安全迅速に運航できるには、たえず河川水路の管理および維持を図らねばならなか...高瀬舟唄(高梁川)

  • 「大原美術館」には入れなかった

    「平日5日間限定・倉敷市内の民間文化観光施設が無料公開」で、今日も倉敷美観地区に行った。混んだらいけないと、最初に大原美術館に行くと!(午前9時43分)早くも長い列が出来ていた。待って入るか?あきらめようか?少し悩んであきらめた。料金払えば、いつでも見れるからと。今日は「大原邸」「大橋家」「考古館」の3館に入館、見学した。入館の際、年齢と住所(都市のみ)を記入するが、それを見てみると倉敷市が多く、次に岡山市や笠岡、総社、玉野となっている。美観地区を歩く人も観光客よりも、住民や”無料公開”目的の人の方が多く感じた。今回の無料公開の目的にはさまざまな目的があるようだが、市民や県民が滅多には入らない施設に気軽に入館でき、施設内部の展示物や、建築物そのものを内部見学することができ満足した。感謝します。撮影日・20...「大原美術館」には入れなかった

  • 「平日5日間限定 倉敷市内の民間文化観光施設が無料公開されます」が始まった

    2023年1月16日~20日までの5日間、倉敷の美術館・博物館の無料公開が始まった。倉敷考古館、きび美ミュージアム、倉敷民藝館、倉紡記念館、倉敷貯金箱博物館、日本郷土玩具館、大原美術館、国芳館、いがらしゆみこ美術館に入った。列が出来ていたのは、「大原美術館」「倉敷民藝館」くらいだった(待ち時間は10分程度)が、どの館内も多くの人がいた。そして普段と違う入館者数に、施設の係員の方も戸惑っていた。昨日入館したのは9館だったが、やはり「大原美術館」が展示物の良質とも抜けていた。明日も倉敷に行って他の施設に入館するが、大原美術館だけは再び入館する予定。・・・なお大原美術館は通常の入館料1.500円だが、4月から2.000円に値上がりするそうだ。撮影日・2023.1.17倉敷美観地区「平日5日間限定倉敷市内の民間文化観光施設が無料公開されます」が始まった

  • 中国地方の子守歌

    中国地方の子守唄妻は井原市の生まれでその妻に、「(自分や妹・弟が)中国地方の子守歌を唄ってもらっていたか」聞いてみると、「まったくない。そもそもその歌を知り、高屋の歌であることを知ったのが20歳を過ぎてから」という返事だった。ついでに義母の話、「(子育てを終えて、いつか)テレビの番組で紹介されて初めて知った」。再び妻の話、「(井原市内の病院で出産した)病院の壁に「ブラームスの子守歌」と「中国地方の子守歌」が貼ってあった。それを見て、自分の子には中国地方の子守歌を唄うことがあった」。・・・・「矢掛町史民俗編」矢掛町昭和55年発行「子供のねかせ唄」「子供のねかせ唄」は「中国地方の子守唄」として全国的に有名なものである。矢掛から井原地方にかけて歌われた本歌を昭和3年井原市高屋の上野耐之が山田耕筰の前で歌い、先生...中国地方の子守歌

  • 金光町の「子守り唄」

    金光町の「子守り唄」少年時代、姉が幼い妹や弟をおんぶする姿は日常風景だった。どこからか”子守り”の少女がきて、住まわせる家もあった。それはお金持ちの家という訳でなく、母親が少し病弱とか、篤農家で手が足りない、という感じの家だった。雇われてきた”子守り”の少女は、やはり寂しそうな顔をしていて、気の毒な感じがした。いつのまにか見なくなり、家人の世間話で「ありゃあいんだんじゃ」というケースが多かった。遠方からでなく現在の福山市東部から来た人が多いような気がした。・・「日本の子守唄」西舘好子游学社2018年発行全国には何万という子守唄があります。赤ちゃんを寝かしつける目的で歌われる唄ですから複雑で難解というものはありません。しかし、歌う人は百人百様、歌詞は無限にあり、意味も不明というものが多く見られます。・・・(...金光町の「子守り唄」

  • 島原地方の子守歌

    島原地方の子守唄島原の駅前に「島原の子守唄」の銅像がある。この歌には”女衒”(ぜげん)がでてくる。貧しい農村国家だった日本では、長く(昭和20代ごろまで)職業「女衒」の人が日本中に存在していた。「食べる」、そのことがすべてに優先する時代だった。「日本の子守唄」西舘好子游学社2018年発行島原の子守歌島原地方俗謡作詞:宮崎康平おどみゃ島原のおどみゃ島原のなしの木育ちよ何のなしやら何のなしやら色気なしばよショーカイナはよ寝ろ泣かんでオロロンバイ鬼の池ん久助どんの連れんこらるるばい・・島原の梨の木のある家で育った私は色気もない、ないない尽くしの毎日です。泣かないで、早く寝て、寝ないと人買いが連れにきますよ。・・帰りにゃ寄っちょくれんか帰りにゃ寄っちょくれんかあばら家じゃけんど唐芋飯や粟ん飯唐芋飯や粟ん飯唐芋飯や...島原地方の子守歌

  • 五木の子守唄

    五木の子守唄すっかり過去のことで、それが小学校だったか、中学校だったか、それとも高校の時だったか思い出せない。音楽の授業で、みんなで「五木の子守唄」を歌った。おだやかな、ゆっくりとした曲だったが、先生が黒板に歌詞を書いて、その意味を説明した。曲の良さは別にしてこんな悲しいことが歌われているのかと、すこし衝撃を受けたのをよく覚えている。「日本の子守唄」西舘好子游学社2018年発行熊本県子守奉公の辛い現実【五木の子守唄】子守唄といえば「五木の子守唄」が筆頭にあがります。九州熊本県球磨郡五木村は江戸時代から、子守奉公に同県南部の人吉や近郊の都市に娘を輩出することで有名でした。貧しさからの口減らしで、今では、児童虐待に問われそうな状況の中で、彼女たちはいわば盆までのお勤めと騙されて奉公に行くのですから辛いのは当然...五木の子守唄

  •   ”福山城築城400年記念 時代行列・福山とんど祭り”

    場所・広島県・福山市中央公園~通り町~福山城日時・2023年1月9日”福山城築城400年記念”のファイナルイベントが”時代行列・福山とんど祭り”。従来の「とんど」に加えて、「時代行列」が同時開催された。イベント規模としては、「ばら祭り」とは比較にもならなかったが、時代行列はおもしろかった。福山出身の歴史上の偉人や有名人が行列したが、自分が知らない福山の偉人が多くいた。逆に、いてもよかったのでは、という偉人・有名人もいた。関藤藤陰、宮沢喜一、世良公則(ツイスト)などがそう。 ”福山城築城400年記念時代行列・福山とんど祭り”

  • 2023福山消防出初式

    場所・広島県福山市草戸町芦田川左岸河川敷日時・2023年1月8日福山の出初式を見に行った。「まとい・はしご乗り」車の衝突事故。防災ヘリが救出。高層ビルで火災発生。最後は一斉放水で終わった。見て楽しいだけでなく、日常の消防署員や消防団員が、いかにご苦労されているか、感謝の気持ちを強くした。2023福山消防出初式

  • 鞆シーサイドホテル

    場所・広島県福山市鞆町閉館日・2019年3月31日撮影日・2021年10月2日鞆の「シーサイドホテル」が閉館しているとは知らなかった。去年の11月、ホテルの前を歩いたが、何も気がつかなかった。建物の老朽化が原因で閉館したそうだが、確かにホテルが出来てから数十年経ち、古い感じはしていた。しかし、鞆の街の真ん中、海岸線に白い高層ビルとして、長く鞆の浦のランドマークだっただけに、残念だ。現在は「免疫アップサロン」というお店が、美容・健康施設で使用しているみたいだ。鞆シーサイドホテル

  • そごう呉店

    場所・広島県呉市西中央無くなった日・2023年解体撤去予定撮影日・2012年2月10日広島県の”坂の街”といえば、まっさきに「尾道」を連想するが、「呉」も坂の街。灰ヶ峰や休山(やすみやま)に向かって市街地が伸びている。呉市は戦時中、(福岡市や広島市を抜いて)神戸以西で最大人口を擁したが、軍事都市だったため、戦後は出遅れた。長く百貨店が無い都市であった。市民念願の”そごう”デパートが出来たのが平成2年で、当初から低迷し、平成25年に閉店し、百貨店の無い街に戻った。土地は呉市が所有している。建物を解体し、新たに複合ビルを建築するそうだ。2023年1月4日中国新聞呉・東広島版呉市のJR呉駅周辺再開発がようやく動き出す。今年は閉店から10年がたつ旧そごう呉店を解体。跡地には商業施設やマンションが入る複合ビルが20...そごう呉店

  • ダイヤモンド青佐

    2023年元旦のダイヤモンド青佐場所・岡山県笠岡市笠岡古城山公園今年も、初日は”ダイヤモンド青佐”と決め古城山公園に行った。雲が少し邪魔したが、少しですんだ。綺麗な初日を拝むことができた。日時・2023.1.1am7:33頃注記・青佐山(おうさやま)は笠岡市大島と浅口市寄島町の境界線上にあり、標高249m。ダイヤモンド青佐

  • 高杉晋作立志像

    場所・山口県萩市南古萩町”萩城城下町”奇兵隊を創設し、幕府軍と戦い、歴史に名を残した高杉晋作。銅像は、残念ながら下関市長府のものと比べると・・・薄い。蛤御門の変元治元年(1864)七月十九日、長州軍は敗退した。この敗戦によって藩主敬親父子は朝敵の汚名を着せられ、つづいて第一次の長州征伐となる。幕府は数十藩の兵を催して長州を包囲し、総督徳川慶勝は十一月、広島に到着した。このとき長州藩内には保守恭順派と主戦派の争いが起こり、恭順派は幕軍の要求するままに、蛤御門の変の責任者として益田親施・福原元嶽・国司親相の三家老に自刃を命じてその首級を徳川総督の実検にそなえた。徳川総督は降伏の条件が満たされ、大坂へ引き揚げた。このとき高杉晋作は兵を下関であげ、主戦派も呼応し、恭順派を破った。その後の藩政は高杉晋作・木戸孝允・...高杉晋作立志像

  • 香登一里塚

    場所・岡山県備前市香登「大内神社」境内一里塚は4キロごと道の左右にあったが、その大半が壊されていて、道べりに石碑が一本「一里塚跡」と建つのが大方である。壊された時代も、理由も、事情も古い時代の事でもないのに資料が残されていない。一里塚は、軽んじられていたのだろう。壊した石を、住宅や段々畑や河川の石積に転用したように思う。香登一里塚市指定文化財昭和四十六年十月六日指定一里塚は、江戸時代に街道の一里(約四キロ)ごとに造られた塚で、榎や松などが植えられていた。香登一里塚は、近世山陽道の道沿いに南北一対造られたもので、北塚は、当神社の境内に往時の姿をしのばせている。北塚は、南北長七メートル、東西幅五メートル、南側の高さ一・八メートルで、周囲は石積みで囲まれている。市内に一里塚で当時の面影が残っているのは、この北塚...香登一里塚

  • 第六高等学校 (旧制)跡地

    場所・岡山県岡山市中区古京町・岡山県立岡山朝日高校「六高」跡地に訪問したいと思っていたが、なかなか機会がなかった。初めての訪問だったが、学校を巡らせた石積は見応えがあった。第六高等学校(旧制)(Wikipedia)第六高等学校(六高)創立1900年3月29日所在地岡山県岡山市古京町初代校長酒井佐保廃止1950年3月後身校岡山大学旧制第六高等学校(きゅうせいだいろくこうとうがっこう)は、1900年(明治33年)3月に岡山県岡山市に設立された官立旧制高等学校。略称は「六高」(ろっこう)。概要1886年-87年の高等中学校7校(うち5校がナンバースクール)の設立後、高等学校令に基づき新規に設立された旧制高校としては最初のものである。文科・理科からなる修業年限3年の高等科を設置し、卒業生の進学先は東京・京都の両帝...第六高等学校(旧制)跡地

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