chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
フォロー
住所
岡山県
出身
未設定
ブログ村参加

2014/12/11

  • 「今昔物語」美人に会った話 (京都府伏見稲荷)

    今昔物語には面白い話が多いが、「美人に会った話」もおもしろい。生活感がまるでなく、いつも恋や、歌を詠んで暮らしていたのだろうか?・・・旅の場所・京都府京都市伏見区「伏見稲荷大社」旅の日・2014年9月9日書名・今昔物語原作者・不明現代訳・「今昔物語宇治拾遺物語」世界文化社1975年発行・・・今昔物語・古山高麗雄稲荷詣に行き美人に会った話二月の初牛(はつうま)の日は、古来、上下を問わず京中の人々が、稲荷神社に、参詣して、人出で賑わうのである。近衛府の舎人どもも、稲荷神社に参詣に出かけた。中の社の近くまで来ると、参詣に来る人、参詣をおえて帰る人が行き交う中に、えも言えず美しく着飾った女に出会った。舎人たちは、みだらな戯言を言ったり、あるいは、身を屈めて、女の顔をのぞきこんだりす重方は元来、好色である。舎人たち...「今昔物語」美人に会った話(京都府伏見稲荷)

  • 彼のオートバイ、彼女の島 (岡山県白石島)

    この本のおわり、作者の「あとがき」がいい。ついでに書いておこう。瀬戸内海のどのあたりでもいいから、ほんのすこし船でいくだけで、いまの日本がどれだけひどい状態にあるかを、全身の痛みのようなかたちで感じとることができる。おなじテーマで、ぼくはまたひとつ、長い小説を書こうとしている。コオやミーヨと、どのくらいおもむきがちがってくるか、楽しみだ。著者「彼のオートバイ、彼女の島」片岡義男角川書店昭和52年発行・・・・片岡義男氏が瀬戸内海の島々の状況を憂い嘆いたのはもう47年も前のことだ。今の瀬戸内海では、島を一周しても人の声が聞こえない島が多い。洗濯ものが庭先に干してあるから住んでいる。テレビの音が聴こえるので住んでいる。猫がいるから人も住んでいる。それが現状だ。島から島へお嫁に行く「瀬戸の花嫁」はおそらく、広い瀬...彼のオートバイ、彼女の島(岡山県白石島)

  • 「東海道中膝栗毛」小田原 (神奈川県小田原)

    弥次さん・喜多さんの話はおもしろい。子どもから大人まで楽しめる。江戸時代に、発売とともに売り切れ・大人気だっというのもうなずける。江戸時代でも現代でも楽しめる話。この本の最大の参考書は、歌川広重の「東海道五十三次」。広重の絵画を見ながら、弥次喜多を読むと、楽しさが倍増し、なんとなくあの時代がわかったような気になる。小田原では、宿場の女中に色気をだし、風呂でやらかし、読者を安心(?)させる。・・・旅の場所・神奈川県小田原市旅の日・2015年7月8日書名・東海道中膝栗毛原作者・十返舎一九現代訳・「東海道中膝栗毛」世界文化社1976年発行・・・小田原宿引「あなたがたは、お泊りでございますか」弥次「貴様のところは奇麗か」宿引「さようでございます。この間建て直しました新宅でございます」弥次「女はいくたりある」宿引「...「東海道中膝栗毛」小田原(神奈川県小田原)

  • 「新選組始末記」島原の角屋 (京都市島原)

    「新選組始末記」は、作者・子母澤寛の取材の熱意と汗が伝わってくる作品だ。新選組と、その関係者への取材は、人間の寿命があり時間が限られる。大正末から昭和初期、日夜を惜しんでぎりぎり間に合ったと思える。この作品のおかげでその後、多くの新選組の作品が生まれた。・・・旅の場所・京都市下京区(島原大門・角屋)旅の日・2020年1月30日書名・「新選組始末記」著者・子母澤寛発行・中公文庫昭和52年発行・・・島原の角屋守護職会津侯、直々のお預りというので、京の町奉行与力同心も、新選組のする事については、良きにつけ、悪しきにつけ、見て見ぬふりをしているので、その勢力が強くなるに従って、芹沢鴨は、性来の乱暴狼藉をはじめて来る。世上これを「壬生浪士」といったが、蔭口には誰も「浪士」とは言わずただ「壬生浪壬生浪」といった。芹沢...「新選組始末記」島原の角屋(京都市島原)

  • 「平家物語」奈良炎上 (奈良県奈良市)

    1180年東大寺の伽藍が焼け、奈良の大仏は首から落ちた。清盛の命による平家の「南都焼き討ち」だが、その後、重源による東大寺復興や、「歌舞伎十八番」勧進帳もよく知られている。大仏はその後、1567年に松永秀久によって二度目の落首。現在の大仏様は、頭部が江戸時代、腹部が鎌倉時代、下部が奈良時代のもののようだ。・・・旅の場所・奈良県奈良市・奈良公園旅の日・2021年11月5日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」古川日出男河出書房新社2016年発行・・・奈良炎上「よし、南都も攻めてしまえ!」大将軍には頭の中将平重衡、副将軍には中宮の亮平通盛、すなわち入道清盛公の子息と甥でございます。この二人がつごう四万余騎を率いまして、奈良へ向かって出発しました。邀え撃たんとする興福寺の大衆は、老人もいれば若いのもいる...「平家物語」奈良炎上(奈良県奈良市)

  • 「平家物語」先帝身投げ (関門海峡・壇ノ浦)

    天皇制は長く続いているが、近現代でも危機は大きい。終戦時の危機は最大で、”ご聖断”の際、天皇自ら「自分のことはどうなってもよい」との発言が伝わる。昭和20年、21年、連合軍占領下で天皇制の存亡はなかばした。令和以降の危機も大きい。そもそも論であるが、天皇や将軍が男性であることが必須というなら、側室が要る。歴代の天皇や将軍や殿様は、正室の息子は少数派。天皇が二人いた時代もある。源平の戦い、南北朝の時代、源平の戦いでは”先帝身投”があり、平家方天皇の安徳天皇が崩御した。平家滅亡で、二人天皇は解消された。山口県下関市・・・旅の場所・福岡県北九州市門司~山口県下関市旅の日・2015年2月20日書名・平家物語原作者・未詳現代訳・「日本の古典⑦平家物語」瀬戸内晴美世界文化社1976年発行現代訳・「平家物語」長野常一現...「平家物語」先帝身投げ(関門海峡・壇ノ浦)

  • 城の崎にて (兵庫県城崎温泉)

    「城の崎にて」は、読者によっていろんな感想がわかれると思える。自分の感想は、東京に住む作者が「熱海」でも「草津」でもなく、わざわざ「城崎」という地に温泉療養に行ったこと。大正時代の「城崎」が、東京からどれほど遠方か。現在でも、京都・大阪から特急電車で3~4時間もかかる。それほど遠い城崎温泉だが、温泉情緒がすばらしい。温泉の街を流れる川、橋、柳、山。少し離れた海(日本海)。温泉は「外湯めぐり」も楽しいが、作者のように生き物観察も風情がある。「城崎」のことを「城の崎」と書いているのは、「少し作り話があります」というように感じるが、作者もそうだが、湯治客もまた「城崎温泉」のことをほめる人はいるが、けなす人はいない。いい温泉だと思う。・・・旅の場所・兵庫県豊岡市城崎温泉旅の日・2016年12月1日書名・城の崎にて...城の崎にて(兵庫県城崎温泉)

  • 若い人 (東京都二重橋前)

    子どもの頃、毎日のおやつは、ほぼ【ふかし芋】だった。それで母に、いったい「皇太子(現在の上皇さま)は、どんなものをおやつに食べているのか?」と問うと、母は「そうじゃなあ、リンゴのようなもんじゃろうかなあ」という返答で、自分も、そうじゃなあ、となんとなく納得した気持ちになった。そのことは昭和30年代で、普通の親子の会話だが、もし昭和10年代の会話で、うっかり巡査の耳にはいれば、不敬罪であると逮捕されていたかも知れない。・・・旅の場所・東京都千代田区・皇居外苑旅の日・2018年3月9日書名・若い人著者・石坂洋次郎発行・「日本現代文学全集35」講談社昭和44年発行(原作発行・1933年三田文学)・・・(管理人記・「不敬罪である」と軍から告訴されたのは、太字の箇所と思える)「若い人」宮城前で一同下車する。掃き淨め...若い人(東京都二重橋前)

  • 足摺岬 (高知県土佐清水市)

    「足摺岬」は二十歳くらいの時読んだ。当時、若者の読むべき本とか言われていた。他にもいろいろあった。新潮文庫などは大々的に「夏の100冊」とか称して宣伝して、読むのを脅迫(?)していた。今は、新潮社に限らず、ああいう宣伝がないのがさみしい。「足摺岬」を読んだ当時は、若者らしく本に共感した。年を経て今読むと、昭和初期の「大学は出たけれど」の暗い世相の方を強く感じる。・・・旅の場所・高知県土佐清水市足摺岬旅の日・2018.10.2書名・足摺岬著者・田宮虎彦発行・旺文社文庫昭和42年発行・・・「足摺岬」田宮虎彦それは、もう十七、八年も前のことになる。その時、私は自殺しようとしていた。なぜ、自殺しようと思いつめていたのであろうか。死のうとしたその時でも、理由ははっきりとは言えはしなかっただろう。何となく死にたかった...足摺岬(高知県土佐清水市)

  • 井上成美 (広島県江田島)

    軍や民の指導者としては、救いようもない狭さと時代遅れの思考レベルだった大日本帝国陸海軍の上層部の中にも、少数ではあるが、広く、長く日本を考える将官たちもいた。陸軍では2.26事件で斃れた渡辺錠太郎大将。海軍では、米内・山本・井上とうたわれた井上成美大将がその代表。井上大将の現実を見る目は鋭い。日米開戦前に、日本はアメリカに海上封鎖されたら何もできない(負ける)。日本はアメリカを海上封鎖することは出来ない。出来たとしてもアメリカはすべて国内自給できる。(負けない)今ならだれでも言えることを当時の日本で発想した軍人・政治家はいない。井上大将の言う通り、日本は封鎖され、負けた。・・・旅の場所・広島県江田島市江田島町元・海軍兵学校+古鷹山旅の日・2013年1月16日書名・井上成美著者・阿川弘之発行・新潮文庫平成4...井上成美(広島県江田島)

  • 金色夜叉 (静岡県熱海温泉)

    尾崎紅葉は小説に、ずいぶん大仰な題名、「金色夜叉」をつけ男女の主人公二人を熱海海岸で歩かせる。大衆演劇が顔負けの「死ぬ」の「生きる」の、と大げさなセリフを何度も繰り返させセリフが尽きると、体力で遣り込める。本も演劇も歌も、たいそうな人気があったんだろうな。明治・大正・昭和と。熱海海岸で二人の銅像を初めて見た時は驚いた。”婦女暴行”!これが文学作品の銅像か!?どこからみても暴行にしか見えなかった。また、それほど迫力満点の像ではあった。・・・旅の場所・静岡県熱海市東海岸町旅の日・2015年7月8日書名・「金色夜叉」著者・尾崎紅葉発行・岩波文庫1939年発行・・・(岩波文庫の表紙)「金色夜叉」尾崎紅葉貫一は蹈留りて海に向いて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添いて、気遣しげにその顔を差覗きぬ。「堪忍して下さいよ、皆...金色夜叉(静岡県熱海温泉)

  • 中将姫     (奈良県当麻寺)

    小学校にあがる頃、絵本を読むことはあったが、漫画も絵本も男子は侍で、女子はお姫様、とほぼ決まっていた。それで「中将姫」を知ることはなかった。中将姫の存在を知ったのは、二十代も後半の頃。講談社が戦前の絵本の復刻版が発売し宣伝し、その新聞広告で知った。大人になって児童の絵本を見ると、子どもの時とは違って、物語の解釈や絵のすばらしさに気づくことがあった。今でも図書館で絵本をめくることがある。・・・旅の場所・奈良県葛城市當麻・當麻寺(たいまでら)旅の日・2012年10月30日書名・ちゅうじょうひめ原作者・不明現代訳・小学館の絵本昭和40年発行・・・ちゅうじょうひめは、「こうしてしあわせになれたのも、やさしいほとけさまのおかげですもの。わたしは、ほとけさまがよろこんでくださるようなりっぱなにんげんになりましょう。」...中将姫  (奈良県当麻寺)

  • 出口のない海   (山口県徳山市)

    戦前の日本軍は何にも増して”勇ましさ”が優先した。その行きつく先は、戦果よりも、”死ぬ”方が優先された。魚雷に人を乗せた回天は、訓練中の殉死、親船もろとも戦死は数知れず伝えられ、戦果は何一つ報告されていない。旅の場所・山口県周南市大津島旅の日・2014年7月12日書名・出口のない海著者・横山秀夫発行・講談社2004年発行「出口のない海」人間魚雷・・・・・カイテン。だが、「甲標的」のように敵艦に向かって魚雷を発射するのではない。自らがその魚雷なのだ。爆薬を満載した改造魚雷に人が乗り込み、たったひとり暗い海の中を操縦し、敵の艦船の横腹めがけて搭乗員もろとも突っ込む。それは筆舌に尽くしがたい壮絶な特攻兵器だった。「でかい......」魚雷だ。形そのものは魚雷には違いない。だが、それは巨大な棺桶に見えた。鉄の棺桶...出口のない海 (山口県徳山市)

  • 婉という女 (高知県宿毛市)

    江戸時代の初期の四国・土佐藩家老”野中兼山”は、土佐藩の新田開発や港湾建設で有名な人だが、失脚後、一族が長期間幽閉されたのもよく知られている。幽閉されていたのは現在の宿毛市立宿毛小学校の校地。校地内には記念碑や多くの説明板が建ち、野中一族の功績や、一族の幽閉の史実を長く伝えていくという意思が伝わる。宿毛小学校の説明板。↓野中兼山一族の幽閉野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪(堤防)を築いたり、沖の島や山でおきた国境争いを解決しました。しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。そしてその直後、...婉という女(高知県宿毛市)

  • 林 譲治

    場所・高知県宿毛市桜町(市役所隣の公園)林譲治さんは高知県宿毛出身の政治家。翼賛選挙は非推薦で落選。戦後は吉田茂さんと縁戚もあり、党役員や衆院議長を務めた。【宿毛市HP】林譲治(はやしじょうじ)明治22年~昭和35年(1889年~1960年)-吉田内閣副総理-林譲治は林有造の次男で、戦前戦後を通じて中央政界で活躍しました。戦後、実父を宿毛にもつ吉田茂が第二次吉田内閣を組閣した際に副総理として入閣し、世間から「宿毛内閣」と呼ばれました。その後も衆議院議長、自民党幹事長などを歴任し、昭和34年には衆議院議員在職25年の永年在職議員として表彰されました。訪問日・2018.10.3林譲治

  • 「玉島ハーバーフェスティバル」に行く 2024.6.1

    日時:2024.6.1~6.2(行った日・6.1)名称:第10回玉島ハーバーフェスティバル場所:岡山県倉敷市乙島・玉島外貿1号埠頭特設会場晴れ過ぎない、おだやかな天気だったので玉島港(水島E地区)で開催のイベントに行った。「第10回玉島ハーバーフェスティバル」は初めての見物だった。イベントの場所がハーバーで、イベント名もハーバーなので、どんな催しだろうか?港の港湾関係の、作業船・大小の運搬船・警備船が見れるのか、コンテナーヤードやE地区の企業PRや商品説明、仕事の説明などあるのかな?イベントなので食物・物産市は間違いなくあるだろう。行ってみると、予想は外れて、国の安全、防災の安全、生活の安全を業務とする「自衛隊」「消防」「警察」の展示のイベントだった。メインは海上自衛隊の「くろべ」の来艦だった。「くろべ」...「玉島ハーバーフェスティバル」に行く2024.6.1

  • 銭形平次捕物控 (東京都神田明神)

    ”捕物帳”はどんな話もジャンルとしておもしろかった。最初は映画。明神下の銭形平次(長谷川一夫)や、黒門町の伝七(高田浩吉)。次にラジオ。松島トモ子の捕物帳。大人になって小説。平次、半七、佐七、伝七、その他。テレビでも、番組名に平次、半七、佐七、伝七の親分名が付いた。なかでも、テレビの長寿番組としても知られのが、「銭形平次」主役は大川橋蔵。舟木一夫の主題歌もよかった。東映の時代劇スターだった橋蔵の代表作となった。・・・旅の場所・東京都千代田区外神田神田明神旅の日・2022年7月10日書名・「銭形平次捕物控」著者・野村胡堂文春文庫2014年発行・・・BS12チャンネル2024.3.2金色の処女「平次、折入っての頼みだ。引受けてくれるか」銭形の平次は、相手の真意を測り兼ねて、そっと顔を上げました。二十四、五の苦...銭形平次捕物控(東京都神田明神)

  • 「平家物語」扇の的 (香川県屋島)

    屋島はかつて、四国を代表する観光名所だったが、近年は陰りがある。台地状の半島は源平時代は島で、現在もその名残りを容易に想像できる。屋島の展望台「談古嶺」から源平古戦場を望む。正面が五剣山(八栗寺)で、談古嶺と五剣山の間が古戦場。屋島の標高は、約300m。では、山を下って古戦場へ下りて行きます。・・・旅の場所・高松市屋島中町旅の日・2013年9月6日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」長野常一現代教養文庫1969年発行・・・屋島古戦場に着いた。早春の日はすでに傾いて、屋島の第一日目はあとわずかで暮れようとしている。源平両軍とも、負傷者の治療や戦死者の死骸のあとかたづけにいそがしい。沖の平家の船からも、陸の源氏の陣からも、細い数条の煙がゆるやかに立ち登っている。これは夕食のしたくをする煙と見える。そ...「平家物語」扇の的(香川県屋島)

  • 「太平記」児島高徳      (岡山県院庄) 

    ”ご当地ソング”というのがある。北島さぶちゃんやデューク・エイセスが多く歌った。戦前には大正・昭和初期に”新民謡”が流行した。他にも、童謡の「赤い靴」や「鞠と殿様」も、ご当地ソングにはいる。作州・院庄を舞台にした「忠義桜」は戦前、岡山県を代表する歌の一つだったが、敗戦によって、日本が神の国でなくなると、神を歌った「忠義桜」も唱和される事が無くなった。今はかすかに、記念碑的な歌として残っている。戦前の全国の女学校で人気、それも岡山県では特に人気の歌であった、というような事を母は話していたが、レコードが発売されたのは昭和16年。既に母は女学校を卒業している。忠義桜〽桜ほろ散る院庄遠き昔を偲ぶれば幹を削りて高徳が書いた至誠の詩(うた)がたみ天莫空勾践時非無茫蠡(~天勾践を空しゅうする莫れ時に茫蠡無きにしも非ず~...「太平記」児島高徳   (岡山県院庄) 

  • かぐや姫 (広島県竹原市)

    おとぎ話の人物は、自称を含め縁の地は多い。桃太郎さんは岡山・広島・香川に特に多い。浦島太郎さんは日本全国、北から南まで数え切れず。「かぐや姫」もまた、日本中に縁の地が多い。広島県竹原市は「かぐや姫」の縁の町の一つ。では、「竹原」と「かぐや姫」が何の関係があるのか?といえば、それがよく分からない。どうも”竹”原と、”竹から生れた”姫をこじつけたに過ぎないようだ。旅の場所・広島県竹原市本町(竹原重伝建保存地区)旅の日・2014.5.4「たけ祭」書名・竹取物語原作者・不明現代訳・「日本の古典3・竹取物語・伊勢物語」世界文化社1974年発行・・・かぐや姫と竹取の翁いまではもう遠い昔のこと。竹取の翁とよばれる人があった。野や山にはいって竹を取っては、さまざまなことに使っていた。竹取の翁のいつも取りにゆく竹の中に、根...かぐや姫(広島県竹原市)

  • エデンの海     (広島県忠海町)

    忠海高校出身の友人Kくんには、忠海の決まった自慢話があった。一つは学校のOB自慢、池田勇人首相とNHK政治討論会の司会者・唐島基智三さん。二つは「エデンの海」があり、鶴田浩二が映画ロケで来て馬で走った。たしかに首相を輩出した学校は、滅多にあるものではない。鶴田浩二が馬に乗って街を走るロケがあったことも、大いに自慢できる。忠海の街は、前に瀬戸内海、後ろに白滝山・黒滝山がそびえ、風光明媚な呉線沿いの湊町。市役所のある竹原も、重伝建の町並み、洋酒のニッカ、塩田跡など見どころが多い。・・・「エデンの海」は、小説の内容や時代背景が「青い山脈」と似ていている。何度も映画化されるのも、また似ている。女学生たちが敗戦によって「学徒動員」や「竹槍訓練」から解放され、次にマッカサーによって「女性が開放」された。その時代を非常...エデンの海  (広島県忠海町)

  • 野菊の墓 (東京都矢切の渡し)

    中学生の頃、”学習雑誌”があった。旺文社の「中学〇年生コース」小学館の「中学〇年生の友」女性用にはさらに「女学生の友」。そういう学習誌に「野菊の墓」はよく載っていた。「まさおさん」と「おたみさん」の話は、中学生の年代にぴったりのお話だった。金浦中学校では、各教室にラジオが置いてあり「名作」をラジオ放送する時、教室で全員聴いていた。そのなかに、もちろん「野菊の墓」もあった。悲しい純愛の物語だった。旅の場所・東京都葛飾区柴又旅の日・2018年8月7日作品名・野菊の墓作者・伊藤佐千夫発行・「名作文学6・野菊の墓ほか」学習研究社昭和53年発行映画「野菊の如き君なりき」後の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。幼いわけとは思うが何分にも忘れることができない。もう十年余も過ぎ去った昔のことであるから、こま...野菊の墓(東京都矢切の渡し)

  • 「平家物語」一の谷 (兵庫県神戸市)

    「鵯越の逆落とし」は、平家物語を知る以前小学校にあがる前後ごろから知っていた。近所の年上の子が話すのを何度も聞いていた。その後、パッチンや絵本や漫画にも鵯越の勇ましい義経の姿が出てきた。「鵯越」といえば義経。「逆落とし」といえば義経。ついでに言えば当時、「脳天逆落とし」といえば鉄人ルーテーズだった。平家打倒の若き英雄、源義経を代表するものは一の谷の”鵯越の逆落とし”、壇ノ浦での”八艘飛び”少年たちの話題になるのは、この二つの義経だった。旅の場所・兵庫県神戸市中央区下山手通生田神社旅の日・2021年11月4日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」長野常一現代教養文庫1969年発行義経は武蔵坊弁慶に命じて、この山の案内者を探しに行かせた。まもなく弁慶はひとりの老人をつれてきた。聞けばこの山の狩人だとい...「平家物語」一の谷(兵庫県神戸市)

  • 砂の器 (島根県亀嵩)

    松下電器の松下幸之助さんが毎年、日本の納税額NO1を続けていた頃、作家部門のそれは松本清張さんだった。清張さんが書く推理小説はどれも皆、売れに売れ、読まれ、映画化もされた。清張さんは何かの本の中で、「小説よりも、映画の方が出来がいい作品が二つある」と語っていた。二つは覚えてないが、一つの方は「砂の器」だった。「砂の器」は本も売れ、映画も日本中の話題になるほど大ヒットした。奥出雲のズーズー弁も全国に知られるようになった。街角に立つ、「砂の器」映画ポスターが物悲しく、人々の興味をそそった。亀嵩駅(かめだけ)今西栄太郎は、「出雲のこんなところに、東北と同じズーズー弁が使われていようとは思われませんでした」今西はうれしさを押さえて言った。今度は、出雲から「亀」の字を探すのである。…すると、途中で、思わず息をのんだ...砂の器(島根県亀嵩)

  • 二十四の瞳 (香川県小豆島)

    小説「二十四の瞳」は、文学作品として有名だが、それよりも日本映画史上を代表する名画として「映画史」にも残る作品。映画の脚本は、ほぼ原作通り。小説を映画のために変えてなく、映画でも原作を味わえる。小豆島や瀬戸内海の風景が美しい。小石先生十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。小学校の生徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの本村...二十四の瞳(香川県小豆島)

  • 「ふくやま大道芸」を見に「福山ばら祭2024」に行く 2024.5.18

    名称・第57回福山ばら祭2024場所・広島県福山市中心部行った日・2024.5.18今年の「ばら祭」は5/18・5/19で、天気のいい方の5/18に見に行った。目的は「2024ふくやま大道芸」で、福山市街地中心部の17~18ヶ所が会場。そのうち15ヶ所を見て回った。今年も楽しいパフォーマンスを見ることが出来た。天気が良すぎて、真夏日となった。熱中症にならないよう、予定を変えて、早めに笠岡に帰った。そのため予定していた「ばら公園」と「緑町公園」には行かなかった。「ふくやま大道芸」を見に「福山ばら祭2024」に行く2024.5.18

  • 「平家物語」敦盛最期 (兵庫県神戸市)

    平家物語には、いくつもの”花”があるが、「敦盛の最期」も古くから多くの人の心に残る話となった。近代では歌に映画にドラマに、美少年が歌ったり演じたりした。古くは織田信長の幸若舞”敦盛”も有名。神戸の須磨寺にはたいそう立派な二人の銅像が建っている。旅の場所・兵庫県神戸市須磨区須磨寺町・須磨寺旅の日・2021年11月4日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」長野常一現代教養文庫1969年発行・・・「平家物語」熊谷熊谷次郎直実は、なんとかして平家方の大将に組みたいものと、波打ち際に馬を進めた。その熊谷の目の中に、大将とおぼしきひとりの武者の姿が映った。萌黄匂い(黄緑色)の鎧を着て、形打った甲の緒をしめ、黄金作りの太刀をはき、連銭葦毛の馬に乗って、沖の船へ泳ぎ着こうと、海へざっと打ち入れた武者の様子は、あっ...「平家物語」敦盛最期(兵庫県神戸市)

  • 「徒然草」仁和寺にある法師 (京都府・石清水八幡宮)

    数年前に旅行で、北海道の神威岬に行ったことがある。駐車場から岬まで、歩いて前に進むほどに景観に感動が増してきた。ついに岬まで行き満足感にひたりながらUターンして来た道を戻った。行きも帰りも見事な眺めに北海道に来たよかった。神威岬に来てよかった。そう思った。旅行から家に帰り復習をしていると、ガイド本と、景観が一致しない。神威岬の肝心な場所を見物していなかった。カメラで動画を残していたで見てみると、約半数以上の人が、同じように、肝心な場所を眺めないまま岬を去っていた。徒然草の有名な話、「仁和寺にある法師」は、たぶん誰でも二~三回は、同じような体験があるように思う。(仁和寺にある法師が見た八幡宮)旅の場所・京都府八幡市男山石清水八幡宮旅の日・2015年2月18日書名・徒然草原作者・吉田兼好現代訳・「徒然草・方丈...「徒然草」仁和寺にある法師(京都府・石清水八幡宮)

  • 「義経記」 弁慶義経に君臣の契約申す事  (京都市五条大橋)

    童謡「牛若丸」で有名な五条大橋。〽京の五条の橋の上大のおとこの弁慶は長い薙刀ふりあげて牛若めがけて切りかかる歌の他にも児童図書・絵本・漫画・紙芝居・映画・歌舞伎・絵画等、日本人なら知らぬ人はいないほど有名なお話し。「義経記」では、当日、弁慶は「五条」を出て、「堀河通」で牛若丸と出会い、「清水寺」で対決した。当時、五条に「五条大橋」は架かってなかったそうだ。・・・・旅の場所・京都市東山区五条通鴨川旅の日・2016年12月2日書名・「義経記」原作者・不詳現代訳・「義経記曽我物ほか」世界文化社1976年発行・・・訳者・井口樹生弁慶義経に君臣の契約申す事弁慶が考えたのには、およそ人の重宝は数を千揃えて持つものだ。奥州の秀衡は名馬を千疋、鎧を千領揃え持ち、肥前の国の松浦の太夫は胡籬千腰、弓千張揃え持っているという。...「義経記」弁慶義経に君臣の契約申す事 (京都市五条大橋)

  • 「好色五人女」お夏清十郎物語 (兵庫県室津港)

    お夏清十郎の舞台は姫路城下だが、清十郎の放蕩の始まりが室津港。お夏は「お夏狂乱」後は子細が不明だが、備前市片上にお墓がある。物語りは、歌舞伎に映画に舞台に今も大スターが演じつづけられている。主な役者に、水谷八重子、田中絹代、美空ひばり、大原麗子、大地喜和子、長谷川一夫、市川雷蔵などがいる。旅の場所・兵庫県たつの市御津町室津旅の日・2009年9月6日書名・「好色五人女」原作者・井原西鶴現代訳・「好色五人女」世界文化社1975年発行・・・・・・「好色五人女」世界文化社1975年発行お夏清十郎物語天下泰平の春の海に、財宝を積んだ船が碇をおろし、播磨の国室津は活気のある豊かな港町である。この町の造り酒屋で、和泉清左衛門という人物がいた。家業繁昌で、なんの不足もない身の上である。その上、清十郎というその息子は、生れ...「好色五人女」お夏清十郎物語(兵庫県室津港)

  • 五・一五事件(昭和7年5月15日)

    大統領や首相が暗殺されることは、世界でもたまにある。しかし国の首相が暗殺され、その犯人にたいして助命嘆願とか、求婚をする国民がいただろうか?残念ながら、それが昭和7年の日本であり、しかも一等国を自認する国民であった。いったい昭和7年とは、どんな時代だったのだろう。・・・「1億人の昭和史」毎日新聞1975年発行少壮軍人が前年に計画したクーデター「三月事件」と「十月事件」はともに未然に発覚したがこの年2月に井上準之助3月に團琢磨が”一人一殺”を唱える血盟団員の手で暗殺され5月15日陸海軍人が首相官邸を襲い犬養首相を殺害した・・・2023年4月1日岡山市北区吉備津・吉備津神社・・・とどめを刺された政党内閣血盟団事件の記憶もなまなましい五月一五日の白昼、四班にわかれた海将兵の一隊が、首相官邸、牧野内大臣邸、警視庁...五・一五事件(昭和7年5月15日)

  • 「芸北神楽」を見に『2024JFE西日本フェスタinふくやま』に行く 2024.5.12

    場所・広島県福山市大門町津之下名称・2024JFE西日本フェスタinふくやま日時・2024.5.129:30~16:00子どもの頃から、神楽(かぐら)=備中神楽だった。九州や出雲の神楽は、ひとまず置いといても、近くの広島県の「芸北神楽」は是非一度見てみたいものだと思っていた。毎年恒例の『JFE西日本フェスタinふくやま』で、芸北神楽の上演があり、見に行った。今日は雨予報だったが、一時の小雨ですんだ。神楽は午前10:10~10:50で、琴庄神楽団「八岐大蛇」。神楽の筋は神話の素戔嗚尊の大蛇退治で、備中神楽と同じだが演じ方はまったく別ものだった。芸北神楽は踊りが派手で、芝居よりも見栄えを重視しているように感じた。見て楽しい神楽。絵になる神楽。・・・「JFEフェスタ」は、以前の「鋼管祭り」の時より、毎年豪華なゲ...「芸北神楽」を見に『2024JFE西日本フェスタinふくやま』に行く2024.5.12

  • 「下天は夢か」桶狭間 (愛知県桶狭間)

    新聞小説は、たまに面白いのがある。津本陽の「下天は夢か」は、その代表小説。おもしろかった。毎朝、出勤する前に読んだ。ゆっくり読んだ。毎晩、帰宅後に二度目を読んだ。吞みながら読んだ。作者の津本陽は作家になる前、「神島化学」に勤めていた。それで、笠岡や神島のことを本や新聞によく書いていた。そういう親近感もあった。・・・「桶狭間の戦い」の場所は、伝えられている場所が二ヶ所ある。そのどちらもが市街地化していて、戦国時代の面影はまったくない、という事も知っている。知っていても、一度は訪ねてみたいと豊明市の「桶狭間」に行った。行ってみると、雨中に今川義元が討たれたのはここか。という満足を強く感じた。・・・旅の場所・愛知県豊明市栄町桶狭間古戦場伝説地旅の日・2014年10月11日書名・「下天は夢か」Ⅰ巻著者・津本陽発行...「下天は夢か」桶狭間(愛知県桶狭間)

  • 「宇治拾遺物語」中納言師時が法師の男根をあらためた事 (京都府宇治市)

    「宇治拾遺物語」は、日本やインドや中国の面白い話を編纂している。目的が「面白い話」なので、現代でも通用する面白い話が多い。古典であるが、童話の方で知られる「こぶとりじいさん」や、芥川龍之介の小説、「芋粥」の原典になっている。今は死語になりつつある”わいだん”(猥談・Y談)も多く、この”中納言師時が法師の男根をあらためた事”もソレで、少年少女にはちょっと話しにくいお話。旅の場所・京都府宇治市旅の日・2010.4.8書名・「宇治拾遺物語」原作者・不明現代訳・「今昔物語・宇治拾遺物語」世界文化社1975年発行訳者・野坂昭如中納言師時が法師の男根をあらためた事これも今は昔の話だが、中納言師時という方がいらした。その方のもとへ、ある時、しっ黒の墨染めの衣、丈みじかくまとい、山伏の用いる袈裟をかけ、大きな木練子の数珠...「宇治拾遺物語」中納言師時が法師の男根をあらためた事(京都府宇治市)

  • 「平家物語」祇王妓女 (京都市祇王寺 )

    白拍子(しらびょうし)は室町時代に消えた職種だが、静御前や祇王、祇女、仏御前によって時代を彩ったことが知られている。この有名な4人は、権力者に愛されたが、正妻でなく愛妾だったこと。しかも、わずか1~2年で棄てられたこと。そして年端もいかない年齢で人生を終えたように表舞台から消えて仏門に入ったこと。”春の夜の夢の如し”の「平家物語」を、一つに小さくまとめたような女性たちだ。旅の場所・京都府京都市右京区嵯峨鳥居本「祇王寺」旅の日・2014年11月21日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」長野常一現代教養文庫1969年発行・・・「平家物語」長野常一現代教養文庫1969年発行祇王妓女「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ......」この世に希望を失った三人の女は、ひたすら死んでからゆくという来世の幸福を祈る...「平家物語」祇王妓女(京都市祇王寺)

  • 自衛隊が学校のグラウンド拡張工事をする

    昭和30年代は、自衛隊が多くの学校の、校庭の拡張造成工事に従事した。昭和30年代は、自衛隊が国を護る緊急度が少なかった。時代は東西冷戦。日本が国境を接する国で、日本に攻め込む可能性がある国は、せいぜいソ連くらいだったが、そのソ連ともカニの漁獲量を競う程度の問題しかなかった。つまり、自衛隊は、国家を護る点では、ヒマだった。いっぽう学校は、生徒数も増え、学校も増え、校舎・校庭も拡大・拡張、プールも新設という時代だった。そこで自衛隊が出動した。・・・これは岡山県小田郡美星町の自衛隊の学校工事。どこの学校とは書かれてないが、同じ美星町で三校が、自衛隊にお世話になった。2024年4月28日・「芳井歴史民俗資料館」『美星町&芳井町写真で振り返る我が町の70年』自衛隊による学校運動場の拡張工事昭和37年(1962)7月...自衛隊が学校のグラウンド拡張工事をする

  • 笠岡工業高校がなくなる?

    一学年で100人未満の生徒数の高校が、毎年、統廃合の対象校として新聞に載る。今年はついに「笠岡工業高校」が載った。笠岡工高は、昭和30年代末に笠岡商工から分離し、笠工となった。笠岡商工は、昭和20年代に笠岡高と同一校だったことがある。ということは、再び「笠岡商工」となり、その次は、大「笠岡」高校に戻っていくのだろうか?人が減る(生まない・出る・死ぬ)、学校が無くなる、市町村が消滅していく・・・この風景はさみしい。・・・【2024年5月2日・山陽新聞記事】ここポイント!岡山県教委による県立高校の再編は、歯止めのかからない少子化が最大の要因だ。「一定の教育水準を保つには再編整備は避けられない」との考えも一理ある。ただ、地域では統廃合による活力衰退への懸念が強い。エリアを支える人材の輩出という役割を担う高校は「...笠岡工業高校がなくなる?

  • 阪谷朗廬(さかたに ろうろ)

    場所・岡山県井原市芳井町吉井井原市を代表する偉人の一人、阪谷朗廬。井原市の歴史に欠かせない人物。今も多くの井原市民に敬愛されている。・・・【井原の文化財】井原市教育委員会平成12年発行阪谷朗廬(さかたにろうろ)1822年12月29日~1881年1月15日。阪谷朗廬は、現在の美星町に生まれた漢学者で、江戸で学び、現在の芳井町で塾を開いていた。その後、興譲館に招かれ、領内の子弟の教育を行った朗廬の名声は各地に広がり、遠くは九州地方からの入門者もあった。その後、広島藩、明治政府に招かれ要職を務めるとともに、森有礼、福沢諭吉の主催する明六社に漢学者としては唯一参加した。・・・【桜渓塾】の看板桜渓塾嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、青少年の人材育成のため大いに尽くしました。桜渓塾の...阪谷朗廬(さかたにろうろ)

  • 「宇治拾遺物語」信貴山の縁起にまつわる事 (奈良県信貴山)

    一度、奈良県の生駒山にある信貴山に行ってみたいものだと思っていた。大阪から電車とバスに乗り継ぎ、やっとのことで信貴山の「朝護孫子寺」に着いた。広大な境内は山頂に「信貴山城跡」、山門との間には、「本堂」をはじめ「千手院」「本坊」「成福院」「玉蔵院」他の伽藍が並んでいた。しかし圧倒的な印象を残したのは小さな建物「霊宝館」で、そこに展示された国宝「信貴山縁起絵巻」だった。鉢が空を飛び、米俵が舞い上がる、童子が大空を駆けめぐる。摩訶不思議なストーリーと躍動感。信貴山に来てよかった、そう思った。旅の場所・奈良県生駒郡平群町”信貴山”朝護孫子寺旅の日・2021年12月1日原作・宇治拾遺物語原作者・不明現代訳・「今昔物語宇治拾遺物語」世界文化社1975年発行信貴山の縁起にまつわる事これも昔の話だが、信濃の国に住む法師、...「宇治拾遺物語」信貴山の縁起にまつわる事(奈良県信貴山)

  • 土佐日記 (高知県南国市)

    現在、高知市から京都市に行くとしたら、何時間かかるか?飛行機で約4時間。自動車で約5時間。電車で約4時間。ところが、平安時代の偉い人の場合でさえ、航路を利用して、約2ヶ月かかっている。しかも、破天荒よる遭難、沈没。海賊による略奪。命からがらの旅である。これでも、これが、1000年前は一番安全な行程だったのだろう。高知県南国市には紀貫之が国司当時の跡が公園となっていて、古代「まほろば」の雰囲気がよく漂よっている。旅の場所・高知県南国市市比江国府史跡跡・紀貫之邸跡旅の日・2018年3月24日書名・土佐日記原作者・紀貫之現代訳・「義経記曽我物語ほか」世界文化社1976年発行(高知県南国市・国府跡)土佐日記西村亨男も書くという日記というものを、女のわたしも書いてみよう、というわけで筆をとったのです。ある年の十二月...土佐日記(高知県南国市)

  • 「お伽草子」一寸法師 (大阪市住吉大社)

    一寸法師は、親に半ば棄てられ、家出同然で京都に行った。三条の宰相に雇われ、背丈は小さいが姫に恋した。姫を手に入れるため謀をし、まんまと流浪の身に落とさせた。なかなか煮ても焼いても食えない「小男」で、自己の欲求のためには臆面もない行動をして結婚。そして昇進を果たし、家は末長く栄えた。それもこれも住吉大明神のご加護によるところ、だそうだ。旅の場所・大阪府大阪市住吉区住吉「住吉大社」旅の日・2021年12月1日書名・「お伽草子」著者・作者未詳現代訳・「日本の古典・お伽草子」世界文化社1976年発行「日本の古典・お伽草子」世界文化社1976年発行今を去ること、ほど遠からぬ頃、摂津の国は難波の里に、老人夫婦が住んでいた。この夫婦は四十の年まで子供に恵まれないのを、大そう悲しんで、住吉の大明神に参詣、「なにとぞ子供を...「お伽草子」一寸法師(大阪市住吉大社)

  • 「潮待ちの宿」追跡者 ( 岡山県笠岡市)

    人気作家の伊東潤先生が、笠岡を舞台にして小説を書いてくださった。それが「オール読物」に連載された”潮待ちの宿”。山奥の村から、湊町の小さな旅館に奉公に出された少女が主人公。少女の成長と、それを見守る笠岡の人々の日常風景の中の出来事を物語にしている。少女が歩いた湊、路地、坂道、神社、遊廓、寺小屋。そのすべてが管理人の想い出と重なり、自分で想像を膨らませながら楽しみに読んだ。伊東先生、ありがとうございました。旅の場所・岡山県笠岡市笠岡旅の日・2017年5月28日書名・「潮待ちの宿」追跡者著者・伊東潤発行・文芸春秋「オール読物」2017年6月号「潮待ちの宿」追跡者笠岡の春は、瀬戸内海の潮風と共にやってくる。潮の香りが街中まで漂ってくると、はるか沖合に真鯛の群れが到来する。それを狙って「鯛しばり網漁」の漁船が漕ぎ...「潮待ちの宿」追跡者(岡山県笠岡市)

  • 哲西の”太鼓田植”を観に行く 2024.5.3

    中国地方の、中国山地の麓の村々に伝わる囃し田植え。広島県は「花田植え」、岡山県では「太鼓田植え」と呼ばれる。天気がよければ見に行こうと思っていたら、最高の天気の日となった。新緑のドライブを兼ねて、往路は成羽川沿いを上り、復路は東城川(成羽川の広島県での名称)沿いを下って帰った。車窓風景が行程のすべてきれいだった。【新見市役所HP】哲西の太鼓田植〜よいとこまつり〜の開催哲西で太鼓田植を披露する新イベントが開催されます。太鼓田植は、岡山県指定重要無形民俗文化財に指定されており、「さげ」と呼ばれる男性が打つ太鼓に合わせて、田植歌が歌われ、「植え子」と呼ばれる花笠姿の早乙女が苗を植えていきます。能率を上げ、楽しく田植えを行うとともに、田の神を称え、五穀豊穣を願う共同作業の慣習として長く伝承され、当日は哲西町はやし...哲西の”太鼓田植”を観に行く2024.5.3

  • ~幾山河越え去り行かば~ (岡山県広島県・二本松の国境)

    若山牧水は中国山地の麓、備後と備中の国境の宿で、この歌を詠んだ。その宿も街道に沿った公園に再建されている。牧水二本松公園は岡山県側になるが、備後の東城から、国道182号線で約10分の距離。国道の北側を旧道が通り、今に往年を感じる町並みが残っている。公園を訪れる人は、文化教室で短歌を習う人の聖地になっているようで、老先生と老生徒が散策する姿を見ることがある。高校生の頃、カール・ブッセの「山のあなたの空とおく」の日本版のように感じていたが、今はブッセはブッセ、牧水は牧水と思えるようになった。「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」旅の場所・岡山県新見市哲西町大竹「牧水二本松公園」旅の日・2022年5月18日書名・「海の声」作者・若山牧水参考本・「若山牧水と哲西町」哲西町平成12年発行(広島県東...~幾山河越え去り行かば~(岡山県広島県・二本松の国境)

  • 「今昔物語」~平中が侍従の君に懸想した話~ (京都市・京都御苑)

    高校生の時、クラスにとびきり美人の同級生がいた。美人なので、その人に思いを打ち明けることは(絶望的な結果しかないので)思いも及ばず、ただ憧れの雲の上の存在の人であることで満足していた。ある日、国語(古文)の授業で「今昔物語」があり、男性の先生が、「今昔物語にはいろいろな説話が載ってあり、その一つをこれから紹介します。」それが「平中が侍従の君に懸想した話」だった。先生が授業中に密かに笑う声がおこった。男子生徒が2~3人、女子生徒も2~3人。途中で笑う声が1人、2人とさらに増えて行った。我が憧れの君からは笑い声が漏れなかった。当然だと思った。こういう話は彼女には縁のない、もともとあり得ないことだから、と至極納得し、かつほっとしていた。けれど、やはり、なにか、それも違うのでないかとも思った。あのとき、彼女の表情...「今昔物語」~平中が侍従の君に懸想した話~(京都市・京都御苑)

  • 「雨月物語」吉備津の釜 (岡山県吉備津神社)

    吉備津神社の、廻廊の側に「御竈殿」がある。独立した建物で、湯気が内から外に漏れている。この湯気は”鳴釜神事”のもので、釜から沸いた水蒸気で、釜に音が鳴り、それで吉兆を占っている。戦国時代には、既に「備中の吉備津宮に鳴釜」があると有名だったそうだ。令和時代の今日も、毎日この神事は行われ、神の祈祷・信託を受ける人が絶えない。上田秋成は、この神事を素材にした「雨月物語巻之三吉備津の釜」を残している。旅の場所・岡山県岡山市北区吉備津「吉備津神社」旅の日・2019年8月13日書名・雨月物語原作者・上田秋成現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著現代教養文庫1980年発行吉備の国賀夜部庭瀬の郷(岡山市庭瀬)に、井沢庄太夫という者があった。春に耕し、秋に刈り入れて、家豊かに暮らしていた。ひとり子の正太郎という者は、...「雨月物語」吉備津の釜(岡山県吉備津神社)

  • 「雨月物語」白峯 (香川県白峯寺)

    本州と四国が一番接近しているのが、児島半島の岡山県児島・玉野ふきんと、香川県坂出市の五色台。五色台とは紅峯・黄峯・青峯・黒峯・白峯の五つの山の総称。玉野市渋川海水浴場からは、眼前に台地状の400~500mの山々が見える。修業の旅をつづけていた西行法師は、1168年の秋、その渋川から讃岐の白峯の麓に渡ったと伝えられる。白峯は、上田秋成の「雨月物語」の冒頭の物語として有名。四国88ヶ所霊場81番白峯寺には、第75代天皇・崇徳天皇のお墓があり、参道は西行の道として整備されている。旅の場所・香川県坂出市青海町「白峯寺」(しろみねじ)旅の日・2009.10.25書名・雨月物語原作者・上田秋成現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著現代教養文庫1980年発行雨月物語卷之一白峯逢坂の関の番士に通行を許され、東国への...「雨月物語」白峯(香川県白峯寺)

  • 「半七捕物帳」川越次郎兵衛 (埼玉県川越)

    岡本綺堂の「半七捕物帳」のファンで、光文社から発行されている全集を持っている。ストーリーが面白く、江戸時代の江戸の町の描写が興味深い。「川越次郎兵衛」では、巻頭で川越までのアクセスを書いている。江戸時代は人も物資も舟便の利用が多かったが、小説では陸便が圧倒的に多い。「川越」は町の名のとおり、湊町として発展・繁栄していた様子を半七老人が語っている。旅の場所・埼玉県川越市幸町・川越商家”重伝建地区”旅の日・2022.7.13書名・「半七捕物帳」川越次郎兵衛著者・岡本綺堂発行・光文社昭和61年発行「半七捕物帳」川越次郎兵衛四月の日曜と祭日、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江...「半七捕物帳」川越次郎兵衛(埼玉県川越)

  • 燃えよ剣 (北海道函館市)

    小説や映画やテレビや漫画に出る新選組はかっこいいが、実態は組織の内部粛清に力点がおかれた、ならずもの集団のような意味合いを感じる。新選組副隊長だった土方歳三は、司馬遼太郎によって「どかた」さんから「ひじかた」さんと認知され彼は彼なりに時代と大義と殉じた人間として、再評価されている。旅の場所・北海道函館市五稜郭町・五稜郭旅の日・2017年7月29日書名・燃えよ剣著者・司馬遼太郎発行・新潮文庫昭和47年五稜郭歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった。この男がわずか一個大隊でまもっていた二股のは、十数日にわたって微塵もゆるがず、押しよせる官軍がことごとく撃退された。歳三の生涯でもっとも楽しい期間の一つだったろう。兵も、この喧嘩師の下で嬉々として働いた。歳三は、死んだ。それから六日後に五稜郭は降伏、開城した...燃えよ剣(北海道函館市)

  • 尋三の春      (岡山県笠岡市)

    小三の春古城山への遠足は、笠岡周辺の小学校にとって定番中の定番の場所だった。管理人は城見小学校の、小三の遠足で古城山に行った。城見小学校の校門を出て、当時の国道二号線を歩いて笠岡に行った。約10キロ足らずの距離。途中、吉浜や金浦では遠足の列が来るのを待っている家があった。生徒の親類の家で、おばあさんかおばさんが立っていた。そして生徒に菓子袋を渡した。遠足の持物はお菓子は一つと決まっていたが、その子たちは二つになる。それがうらやましかった。城山に登れば、お猿さんがいて楽しかった。織の中で飛んだり、跳ねたり、食べたり、の姿がたまらなく面白かった。かかれないようにエサをやるのも面白かった。帰り道はバスだった。貸切りの井笠バスに乗って小学校まで帰った。バスの運転手さんは飛ばした。古城山から城見小学校まで、信号はひ...尋三の春   (岡山県笠岡市)

  • 坊ちゃん     (愛媛県ターナー島)

    愛媛県の松山沖に大小の島々が浮かび、それを中島諸島と呼んでいる。その中島諸島の興居島(ごごしま)は、いちばん松山から近い島で三津浜港の目の前にある。興居島は今、ミカンや船踊りで有名だが、伊予富士という名山でも知られる。フェリーで興居島に向かうと、「あれがターナー島か」とすぐに気づくほどに、たしかに名画を思い浮かばせる無人島がある。旅の場所・愛媛県松山市興居島旅の日・2011.7.14書名・坊ちゃん著者・夏目漱石発行・集英社文庫1991年君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。向う側を見ると青嶋が浮いている。よく見ると石と松ばかりだ。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと言ってる。野だは...坊ちゃん  (愛媛県ターナー島)

  • 坊ちゃん     (愛媛県道後温泉)

    広島県に行けば(備後よりも特に安芸)、みんな生まれながらの広島カープファンで、カープの悪口は滅多なことでは言えない。鹿児島県に行けば、みんな♪西郷隆盛おいらの兄貴、で西郷どんの悪口はご法度。そして、愛媛県の松山に行けば「坊ちゃん」を市民みんな愛している。松山は「坊ちゃんの町」で、お城も温泉も、坊ちゃんとのからみを抜きには語れない。だが作者の漱石先生は、坊ちゃんほどに愛されていない。なぜなら、物語では温泉以外は見るほどのものはないといいきっている。無理もない。旅の場所・愛媛県松山市道後温泉旅の日・2022年5月18日書名・坊ちゃん著者・夏目漱石発行・集英社文庫1991年「乗り込んでみるとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭で...坊ちゃん  (愛媛県道後温泉)

  • ~やわらかに柳青める北上の~ (岩手県渋谷村)

    岩手県の「渋谷村」という地名は、石川啄木によって今でも日本有数の有名な村名のように思う。現在は県都・盛岡市の市域になっている。渋谷村に行くと、かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川啄木ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな啄木などの看板が目につく。だが、やはりこの歌がいいやわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに啄木この歌は、映画【北上夜曲】と名曲【北上夜曲】とも一体化している。〽匂い優しい白百合の濡れているよなあの瞳想い出すのは想い出すのは北上河原の月の夜旅の場所・岩手県盛岡市玉山区渋民「渋民公園」旅の日・2018年6月30日書名・「一握の砂」著者・石川啄木発行・「石川啄木」石川啄木筑摩書房1992年発行この日の北上川。岩手山は山頂が雲に隠れてしまった。渋民...~やわらかに柳青める北上の~(岩手県渋谷村)

  • 悪霊島 (岡山県井原市)

    金田一耕助さんが大活躍する映画は多いが、「KADOKAWA映画」が特によく知られている。「獄門島」は、笠岡沖がモデルで映画も笠岡沖の六島で行われた。大原麗子が六島に来た。似たような題名で、「悪霊島」がある。鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい!「悪霊島」は、鷲羽山沖がモデルで、主役は鹿賀丈史(金田一耕助)。笠岡市西ノ浜を歩くシーンが映画に登場する。小説でも映画でも、重要な役目で神楽の一行が登場する。作者・横溝正史は、備中神楽のことをよく調べて物語に組み込んでいる。旅の場所・岡山県井原市青野町「葡萄浪漫大神楽」旅の日・2024.4.14書名・「悪霊島」著者・横溝正史発行・角川文庫昭和56年「悪霊島」横溝正史角川文庫昭和56年発行第十一章神楽太夫このへんの神楽はいつか三津木五郎もいっていたとおり、備中神楽とよばれてい...悪霊島(岡山県井原市)

  • てんやわんや (愛媛県宇和島市岩松)

    獅子文六の小説「てんやわんや」を読んでいたら、物語のモデルと言われる岩松町に行きたくなった。小説では、宇和島から岩松までバスで約2時間。現代では、40~50分もあれば行けるだろうと、思っていたが・・・ナント!20分もかからなかった。高速道路がトンネルを抜けると、すぐに岩松に着いた。これにはびっくりした。岩松の街は、岩松川沿いに静かにたたずむ南予の落ちついた町並みだった。昨年(令和5年12月15日)、岩松は”重伝建”に指定されたそうだ。おめでたいことだ。旅の場所・愛媛県宇和島市津島町岩松旅の日・2009.10.11書名・「てんやわんや」著者・獅子文六発行・新潮文庫昭和26年私は決心した。東京は危険な都会というべきである。薄暮、焼跡の場所で、突然真に突然、女から求婚されて、自若たる男性があったら、それは野蛮人...てんやわんや(愛媛県宇和島市岩松)

  • 高瀬舟 (京都市知恩院)

    いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人ひとりで乗った。有名な森鴎外の、有名な「高瀬舟」の、有名な名文・美文のところ。特に、”智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに”、の文章が好きで。(誰でもそうだろうが)いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。桜の季節になると、この文章を思い出し知恩院の桜、入相の鐘。それ...高瀬舟(京都市知恩院)

  • 梅干しを食べる

    梅干しは、もっとも身近な「食べ物」だった。おやつとして、竹の皮に挟んで吸う。その後で食べる。弁当として、弁当箱の真ん中にあるもの。握り飯に入れるもの。晩飯の食卓の中央に置いて、誰でも箸が届く、家族共通のおかず兼食後のお茶の友。今、「握り飯」はコンビニの代表食品であるが、梅干しには種がないようだ。ごま塩で握ってなく、海苔がついている。海苔は自分で巻いて食べる、新技法でおもしろい。「江戸の町くらし図鑑」江戸人文研究会廣済堂2018年発行梅干し梅干しは昔から身体によいとされてきた食品のひとつです。お弁当に梅干しを入れるのは、黄色ブドウ球菌、0-157の増殖を抑制するからです。梅干しを食べると元気になるのは、クエン酸の効果で、疲れの原因となる乳酸の発生を抑えるからです。疲労物質の乳酸はガンを増殖させる物質でもあり...梅干しを食べる

  • 豆腐を食べる

    「アゲにおとーふ」と言いながら、豆腐売りが茂平の家々をまわっていた。豆腐を買う家は、笊を持って道べりまで出て買う。お金か、または大豆と交換していた。すぐ近所に何故か「豆腐屋」と呼ばれる家があった。父に聞くと、昔は豆腐を作っていたので「豆腐屋」と呼んでいる、と話していた。農家にとって、豆腐汁とか、豆腐の入った料理はご馳走だった。「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」岡山県昭和58年発行豆腐煮た大豆を碾臼で挽き、それを豆腐袋にいれて絞ると、豆乳とオカラに分かれる。豆乳を豆腐箱・豆腐袋に入れて汁で固めると豆腐ができる。苦汁も自家製で、塩を甕の上において、塩からたれ落ち苦汁を使った。豆腐は大豆を収穫して、晩秋から節季にかけてたびたび作った。秋祭り・八日待ち・正月・旧二月一日や三月節供、あるいは葬式などでは必ずといっていいほど...豆腐を食べる

  • 里芋

    古代の主食だった「さと芋」は、どこの農家にも植えていた。どの道ばたからもサトイモの葉がよく見えていた。実を小さく切って、煮たものが食卓にのっていた。美味くも、不味くもない野菜だった。雨の翌朝は、葉っぱにできた大きな水たまり(水滴)が、ころころ動いたり、落ちたりするのが楽しかった。「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行さといもいねよりも古くから主食にされてきた野菜。さといもは、アフリカやオセアニアで主食となっている「たろいも」と同じ仲間です。日本へは中国を経由して伝わりました。縄文時代にはすでに食べられていて、いねよりも前から人々の主食だったと言われています。山に生えているやまいもに対して、人里で育てたのでさといもとよばれるようになりました。はじめに種いもを植えつけると、その上に「親いも」ができ、...里芋

  • 蜜柑(みかん)

    昭和35.36年頃の雑誌の写真記事に、人気絶頂の双子の歌手「こまどり姉妹」が炬燵に入って温州ミカンを食べていた。芸能人とか、お金持ちは、テレビを見ながらミカンを食べるんだな。うらやましいな、と思った。我が家にテレビはなかった。ミカンもなかった。日本経済は世界を驚かす成長が始まろうとしていた。国も農協や家の光やメディアを使い農家に、ミカンを奨励した。その頃、父母は山の段々畑にミカンを植えていった。笠岡湾の海に面し、笠岡湾には打瀬船や旅客船や貨物船が♪黒い煙を吐きながら・・・行き来していた。それは美しい風景だった。父母のミカン畑は茂平では多い方だった。いちばん本数が多かったかもしれない。だが、芸予諸島や愛媛のミカン畑とは、とても比較できない零細規模だった。父母は儲ける果物として植えたミカンだったが、実が成り出...蜜柑(みかん)

  • 姫井繁次

    場所・岡山県倉敷市茶屋町今では信じられないだろうが、家で飲む水も、工場で使う水も、昭和30年代は井戸水を使っていた。ところが井戸を掘っても、水量が少ない地域や、塩分が多くて飲めない地域も多くあった。水汲み仕事は大変だが、塩分の多い地域は、それに加え水を溜める仕事があった。都窪郡茶屋町は児島湾の新田で、塩辛い水しか湧かなかった。姫井繁次町長は水道を敷設すること、高梁川の水をつかうこと、それを大正時代に提唱し、実現させた町長さん。英傑町長だと思う。・・・記念碑本町は元来干拓地で適当な飲料水がないため町民は砂ごしの川水天水を用い後には井戸を掘ったり担い水を買いなどして飲料としたが飲料水確保の根本的な解決とならず、伝染病やジストマ患者が続出し町民の日常生活の不安は年とともに深刻になったのである大正中期姫井繁次氏は...姫井繁次

  • 2024年の桜・総集編

    今年の桜は、開花が一時停滞したので長期間に渡って花見が楽しめた。およそ100ヶ所の桜を、記録と備忘のため編集しページにした。2024年の花見・総集編作成日2024.4.13(kasaoka.sub.jp)(笠岡市「十一番町緑道公園」の桜)2024年の桜・総集編

  • 福山城の桜

    行った日・2024年4月10日場所・広島県福山市天気に誘われて、福山と笠岡の桜を観て回った。そのうち広島県の桜名所である「福山城」は特にきれいだった。桜はやはり、天気が必要だなと思った。福山市を代表する高層建築物。左から「アイネス福山」「アルファゲートタワー」「福山城」、いちばん高い建築物は?・・・「アイネス福山」のようだ。高さ101m。福山城の桜

  • 桜渓塾跡の桜

    場所・岡山県井原市芳井町簗瀬「桜渓塾跡公園」訪問日・2024年4月7日嘉永6年(1853年)に創立された、「興譲館」は、現在全国屈指の歴史を誇る高校であり、女子マラソンの強豪としても知られている。初代館長となった漢学者の阪谷朗廬は、それ以前、ここ”桜渓塾”で塾長を行っていた、桜渓塾(おうけいじゅく)嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が伯父山鳴大年、岳父山成直蔵の協力によって簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、青少年の人材育成のため大いに尽くしました。桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出し...桜渓塾跡の桜

  • スネコスリの井領堂

    場所・岡山県井原市七日市町訪問日・2024年4月7日岡山県を代表する桜の名所のひとつ、「井原堤」(いばらづつみ)。その井原堤から西へ進むと井領堂がある。(井原堤)江戸時代にはこの辺り、「スネコスリ」というお化けが出て街道を通行する旅人を困らせそうだ。「ふるさと探訪出部の史跡」いずえ地区まちおこし協議会平成30年発行いろんどう井領堂(大師堂)井領堂は、旧山陽道沿いの七日市町西の字井領(現アクティブライフ井原東側)に建てられた辻堂で、写真右側に「南無阿弥陀佛」と彫られた名号碑に「宝暦十一年(1761)己天三月吉祥日施主藤代幸左衛門」と刻されており、江戸時代の中頃には建立されていたことがわかる。当時の井領堂は田の脇の寂しい所で、夜には「スネコスリ」という犬の形をした化け物が出て、通行人のすねをこすると、とたんに...スネコスリの井領堂

  • 神護寺本堂の桜

    場所・岡山県笠岡市甲弩「神護寺」訪問日・2024年4月6日江戸時代後期以降の建築物は、笠岡ふきんでも、珍しくないが江戸時代中期・前期となると滅多にしか見ることが出来ない。まして、ここ神護寺の本堂は戦国時代の建造物。本堂の前に立つと、風雪に450年耐えて、神々しくさえ感じる。岡山県指定建造物神護寺本堂神護寺はもと神宮寺と呼ばれ、甲怒(弩)神社の別当寺として創建されたと考えられるが、その時期は明らかでない。室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得ていて、現本堂が永禄11年(1568)10月に、小田高清を大檀那として建立されたことを証する銘文が棟木に墨書されている。また寺内に、天正3年(1575)8月18日死去した高清の位牌が祀られている。戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。さらに本堂には棟札二枚があり、その一枚は天...神護寺本堂の桜

  • 頼山陽像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」川中島鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過わたる曉に見る千兵の大牙を擁するを遺恨なり十年一剣を磨き流星光底(りゅうせいこうてい)長蛇を逸す頼山陽の”川中島”は小学生の時に知っていた。漫画で知った。「赤胴鈴之助」で知った。赤胴鈴之助の師匠、お玉が池の「千葉道場」の千葉周作が吟じていた。〽べんせいしゅくしゅく千光寺公園のポンポン岩の前に銅像と説明看板がある。それを記す。頓山陽広島県竹原市の人、「日本外史」「日政記」などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。磐石坐す可く松拠る可し松翠缺くる処海光露わる六年重ねて来たる千光寺山紫水明指顏に在り萬瓦半ば...頼山陽像

  • 田能村竹田像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」田能村竹田先生は、滝廉太郎や広瀬中佐で有名な九州竹田の人。岡藩の藩医で画家。尾道と、どういう関係があるのかは不明。・・・(Wikipedia)田能村竹田たのむらちくでん田能村竹田は、江戸時代後期の南画家。幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜。通称は行蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。生年月日1777年7月14日死亡日1835年10月20日・・・文化庁「文化遺産オンライン」田能村竹田は岡藩々医田能村碵庵の次男であつて、兄の跡を継いで藩医を勤め、又藩学由学館の司業となり豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂に預つて功があつた。職を退いてからは、専ら詩画等の研鑚に心を潜...田能村竹田像

  • 妹尾正雄像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」千光寺公園の美術館下、三春滝桜の近くに銅像が建っている。画家のようだ。「妹尾正雄像」であり、像にその人の説明が書かれてあった。それを転記する。「妹尾正雄像」美術教育に打ち込むかたわら風景を題材にする油画を描き続け独自の境地をきりひらいた1912年12月20日福山市御幸町に生まれる1933年広島県師範学校卒1934年独立美術協会展初入選・尾道美術協会創設に関わる1949年広島県美術展創設に関わり審査員となる1953年広島県高等学校美術研究会を創設し20年間理事長1955年独立美術協会会員1992年広島文化賞・独立美術協会功労賞受賞1994年紺綬褒章1996年7月14日西久保町の自宅にて死去撮影日・2024年4月1日妹尾正雄像

  • 日本三大桜を見に千光寺公園に行く

    行った日・2024年4月1日行った所・広島県尾道市西土堂「千光寺公園」去年、(倉敷市)児島に日本三大桜を見に行った。たいへん綺麗だった。その後、何も児島まで行かなくても千光寺山に行けば、そこに三大桜があることを知った。それで、今年は三大桜を見に千光寺公園に行こうと思っていた。本当のことを言えば、満開の花見に生きたかった。けれども、開花が進まず(開花予報もハズレ)やむなく日本三大桜に変更した。尾道市立美術館の北側の下、そこに「三春滝桜」。「神代桜」は見つからなかった。ココ☟にあるはずだけど、なかった。観光ガイドさんに聞いてもわからなかった。「根尾谷薄墨桜」、尾道山荘の前。気品のある美しさだった。本日は全国的に快晴。雲一つない、いい天気だった。日本桜100選「千光寺の桜」、が満開でなく、咲き始めということだけ...日本三大桜を見に千光寺公園に行く

  • 昆虫を食べる

    昆虫を食べたことはないが、年上の人は戦時中にバッタを「捕っていた」というようなことを言っていた。母の話だと、茂平は農村なのでバッタを食べるほどの食糧難ではなかった。飢えて食べたのか、害虫を取るのが子供の努めだったのか、学校か役場に供出したのかは不明。下記↓に出ているうち、タニシは美味かった。カエルのうち食用ガエルは飛び切り美味かった。いまでも、その美味を思い出すほど美味かった。「日本の風土食探訪市川健夫白水社2003年発行動物性食品としての昆虫現代日本人の多くは昆虫食と聞くだけで、「悪食」とか、「如何物」だと思っている。しかしかつて虫は貴重な動物性蛋白源であった。世界的にみても、東南アジアの山岳地帯、メラネシアのニューギニア、アフリカなど焼畑耕作を営む発展途上国では、昆虫が常食になっている。特に焼畑耕作の...昆虫を食べる

  • 間食・副食

    間食と副食の区分がよくわからないが、主食の補助としてみるとイモ、それも「ふかし芋」がまっさきに思い浮かぶ。「ふかし芋」はいつも戸棚にあったので、つまんで食べていた。たまに「おやき」をした。「はったい粉」も粉に水か湯をいれて簡単にでき、よく食べていたが、甘みがなくサッカリンをいれた。稀に砂糖をいれた「はったい粉」は、それはそれは美味かった。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行間食店で売っているお菓子といえば、煎餅やこんぺい糖飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。一般的なおやつは、大豆やソラ豆をコウラ(ほうろく)で煎ったもの、氷餅を焼いたり、あられを煎ったものであった。氷餅は正月餅と一緒にまたは寒の内に餅を搗き、のし餅に...間食・副食

  • "千鳥”大悟の生まれた北木島の丸岩に行く

    行った日・2024年3月30日行った所・岡山県笠岡市北木島町東京から長男が帰省している。会話にお笑い芸人”千鳥”のことが出たので、千鳥・大悟の生まれた丸岩に親子で行ってみることにした。北木島港に向かう、三洋汽船。北木島港から丸岩に向かう。外浅海(そとあざみ)の海岸。ここが丸岩。千鳥・大悟の生まれ育った海辺の村。(丸岩)正面に千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木小学校。(現在は統合して使用されていない)(大浦)千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木中学校。残念ながら2~3年前に廃校になった。(大浦)北木島を代表する産業だった石材業。丁場と丁場湖が点在して残る。”石の島”として日本遺産に認定されている。(千ノ浜)今日は、風もない穏やかな天気の一日だった。少し期待していた、桜の開花は、本土よりも遅かった。それにしても..."千鳥”大悟の生まれた北木島の丸岩に行く

  • 柿を食べる

    秋に実が成るのに、なんで「冬柿」というのだろう?と不思議に思っていたが、それは「冬柿」ではなくて「富有柿(ふゆうがき)」だった。非常に残念ながら、家に富有柿の木は無かった。田舎の自給生活の村は、野菜や果物は、”トリカエ”で日常生活が成り立っていた。それで、近所の柿農家から富有柿がウチにくるのだが、それを待つのが苦しいくらい、もらった時はうれしかった。家に「渋柿」はあった。大きな西条柿の木が一本あった。竹の竿で枝を折って収穫し、皮をむいで、吊るし柿にしていた。吊るし柿は、冬になると白い砂糖がふきでるが、それを待てなかった。吊るして日が経つと渋みが消えて、甘くなった。毎年、吊るした縄から何個かを食べた。あの甘い西条柿はほんとに美味かった。(岡山県小田郡矢掛町小田・山ノ上2017.12.17)「江戸の食生活」原...柿を食べる

  • 嫁菓子をもらう

    「嫁どりがある」それを聞けば、茂平の子どもたちの心は踊った。【嫁菓子】嫁菓子が楽しみじゃった。ただでお菓子をもらえるから。(おじさん=父の弟の嫁どり=昭和31年)嫁どりは大きな娯楽だった。【嫁どり】嫁どりがあると言えば、楽しみなのは、①「嫁菓子」をもらえる、②「花嫁」を見れる。③「嫁入り道具」が見れる。①一番の楽しみは「嫁菓子」。嫁菓子は紙袋に2~3箱のお菓子が入っている。茂平の子どもは、お菓子を食べることはめったにない。②花嫁を見れる。頭にカツラを乗せ、白塗りで、しかも下を向いて歩く花嫁の顔は、皆同じ。しかし、「花嫁衣裳」の女性を見る。普段、農夫しか見ない茂平の子供にとっては大きな娯楽だった。③「嫁入り道具」を見る。これは正直、関心はなかった。自転車やミシンやタンス類を見ても感じることは何もなかった。大...嫁菓子をもらう

  • 子供の間食

    イモ・あられ・豆は、ほぼ年中あった。果物一家の生計を立てるものが、果物であったので、その傷もの・変形ものが夏の間食になった。・・・桃・葡萄・スイカ・ナシ瓜・枇杷・サトウキビ・ナンバ・イチジク・柿・ミカン・・・。野山のものビービー・シーシー・さるきん・野イチゴ・ナツメ・ニッケ・川・池のものトーチカ海のものツブ・ドンガメ家のものおやき・ハッタイコ・買うもの飴玉・アイスキャンデー・ニッケ紙・買えなかったものミルキー・・・不二家のペコちゃん・ポコちゃん。あれを食べるのは、憧れだったな。チョコレート・・・中学か高校生になって初めて食べた。(チューインガムのロッテがチョコレートを作りだした頃)「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行子供の間食冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フーム...子供の間食

  • 醤油を作る

    昭和32年前後まで、家で醤油を作っていた。土間に置いていたその木製の機械からは醤油がポットリポットリと落ちていた。それは茂平のどこの家も同じだった。(母の話)醤油つくりの話麹つくりがたいへんじゃった。めんどうなんじゃ。小麦を植え、大豆を植え。麹を作り。彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。唐臼で搗きょうた。実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。醤油を搾る麹を1年寝かして、塩と水をいれて、...醤油を作る

  • 2024花見の季節が始まった

    場所・岡山県笠岡市(個人邸宅)撮影日時・2024年3月27日笠岡の桜も、早いのは見ごろになった。今年の桜は、「城跡と桜」「鉄道と桜」「川と桜」を主に、花見を楽しみたいと思っている。その季節になってきた。楽しみだ。2024花見の季節が始まった

  • 味噌を作る

    農村の家の味噌汁は、「汁」であり「おかず」だった。汁よりも「具」が主役だった。イモや団子やアサリや河豚や麩や、いろんな野菜も入っていた。味噌汁を作るのは母であり、味噌を作るのは父母で、麹を作るのは母、大豆を作り、米を作るのも父母だった。味噌作りで購入品は塩だけ。味噌作りの日は天気のいい日で、餅を搗くのと同じように、父母は木臼で味噌をつくった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行味噌味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、大豆と塩を用いる。麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。麹を作るのに技術がいる。笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。吉備高...味噌を作る

  • 醤(ひしお)

    大冝に「ひしお」作りの上手な人がいて、秋になると「ひしお」を売って歩いていた。買った「ひしお」はおいしかった。全体、家で食べるものは自給品が原則だったが、(家で作ったり、穫れたりするものよりも)買って食べるものは、みな美味しく感じた。その季節は秋刀魚(サンマ)と重なり、サンマを七輪焼いては、醤(ひしお)を付けて食べていた。ひしおとサンマは、ほんに相性のいい食べ物だった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行醤速成味噌である。笠岡市吉田では裸麦を甑で蒸してハナを作り、塩、水をいれてかき混ぜる。蚕豆を入れると香ばしくておいしい。おかずにする。焼魚につけて食べる。「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行醤(ひしお)裸麦で麹を作り、甕に裸麦の麹五升と炒った大豆・塩二合を加え、水を入れてかきまぜる。麦飯につけ...醤(ひしお)

  • 豊臣秀吉公

    場所・大阪府大阪市中央区大阪城「大坂城公園」大阪城豊國神社太閤秀吉は、その前半部分は極めて魅力的な人物として知られ、天下取りの後は、下り坂を転げるように落ちて、そして死んだ。大人物であることは論を待たないが、信長と家康に比べると一段落ちるように感じられる。「歴史読本」’81-9号新人物往来社秀吉天下人の条件山本七平近代における「日本の治」を完成させた秀吉簡単にいえば秀吉の行き方は天下の人びとを、あらゆる意味において「安堵させる」ことであった。そしてそれが天皇、公卿、大名、武士、農民等々、すべての人の階級を超えた潜在的欲望であったがゆえに、順風満帆のような形で「天下人」となることができた。しかし、彼には信長のような独創性があったわけでなくその政策は基本的には信長のそれであった。ただ、彼は信長の独創的な人間に...豊臣秀吉公

  • 京セラドーム大阪で、人生初のドーム野球観戦した

    場所・大阪市「京セラドーム大阪」日時・2024.3.23午後2:00試合開始試合・プロ野球オープン戦阪神タイガーズvsオリックス・バファローズドーム球場の前を歩いたことは、福岡・東京・札幌の3球場経験あるが、残念ながらゲートの前でおしまい。昨日は生まれて初めて、ドームに入り野球観戦をした。さすがに、たまに行く広島ズームズームスタジアムや倉敷マスカットスタジアムとは規模が違いすぎた。球場規模が違うのと、空が閉ざされ、閉じられた空間の中に選手や観客がいて興奮度が高まった。応援は外野の応援席のみ、旗や太鼓が鳴らされたが、その席以外は声援や拍手やカンフーバットを叩いての応援で、両チームファンとも節度のとれた感じのいい応援だった。食ものは「いてまえバーガー」を食べた。名物にもかかわらず、おいしかった。試合は、前年度...京セラドーム大阪で、人生初のドーム野球観戦した

  • 新小田川が完成

    場所・岡山県倉敷市船穂町柳井原工事名・小田川と高梁川の合流点付け替え事業完成日・2024.3.23「2018西日本豪雨」で河川の堤防が決壊し、多大な被害が発生した高梁川支流の小田川は、高梁川への合流地点を川辺から水江に変更した。その完成式が昨日(2024.3.23)真備町であった。今回完成した新しい小田川は、大正時代までは「西高梁川」と呼ばれ大河だった。昭和・平成は、川でなく「柳井原貯水池」だった。令和6年、再び川に戻り、「小田川」となった。撮影日・2018.5.25地名・「柳井原貯水池」【山陽新聞記事】新小田川が完成

  • イチゴ

    昭和44年を最後に、父母は「米作り」を止めた。農家であるが、米を買って食べるようになった。その大きな背景に、①米の過剰や政府の減反政策(昭和47年開始)。②作業の機械化(田植え・稲刈り)で設備投資が必要。茂平は果物が盛んだが、稲作は自給用で小規模だった。稲作を止めた田んぼは、イチゴやイチジクに転換した。昭和50年代、茂平のイチゴは全盛期を迎えた。(父の話)昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。ハウスで栽培してから金になりだした。今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。作るのに手間がかかりすぎる。よそでも栽培が増えた。茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。のが原因だろう。2000年05月28日・・いちごは、農協がすすめた。パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。こんだ...イチゴ

  • 大豆を作る

    祖父の言うことは同じ言葉(せりふ)が多かった。その代表的なことばは、「豆で貧乏しますように」いつも、そのあとに、「人間は金(かね)を持つよりも、マメなのがいちばん好い」祖父は、そのことを実践した。お金はほどほど、身体は豆(マメ)で、笠岡市二番目の長寿で亡くなった。大豆は食べるにも、人生訓にも大切なようだ。「金光町史民俗編」金光町平成10年発行どこの家でも大豆は田植え後の田の畦に播いた。こうしておくと陰になり草が生えなかった。稲刈り時分に収穫して、乾燥保存し、味噌や醤の原料に、そして煎っておやつにもした。「岡山たべもの歳時記」鶴藤鹿忠岡山文庫平成10年発行大豆の用途大豆は、骨のない肉といわれ、重要な蛋白源である。炒り豆、枝豆、黄な粉、ウチゴ(ウチゴドウフ、キドウフ)、ゴジル(呉汁)、大豆飯、豆腐、おから、油...大豆を作る

  • 「福山古墳ロードA」を歩く

    場所・広島県福山市駅家町日時・2024年3月19日人柱・お糸さんの伝説でも有名な、駅家の「服部大池」。その大池の駐車場からスタートして「福山古墳ロードA」を歩いた。最初に、「熊野神社」。この神社社殿は横穴式古墳の巨石の上に鎮座している。古墳名は、「権現古墳」。次に本日の主目的である、国史跡「二子塚(ふたごづか)古墳」。長さ73m、幅68m、高さ41m、周溝ありの前方後円墳。吉備王国の古墳だが、古代吉備国は現在広島県と岡山県に分かれ、そのためか、王国の研究までも両県共同を感じないのが残念。最明寺にある、「最明寺板碑(さいみょうじいたび)」。高さは約1.8m、幅は75cm、厚さは約10cm。室町時代の板碑。春の天気はおだやかで、古墳めぐりが楽しめた。「福山古墳ロードA」を歩く

  • お茶を作る・お茶を飲む

    水落に茶畑があった。そこから茶を摘んで帰り、蒸したり、干したりしてお茶にしていた。金のヤカンから(茶飲みでなく、ご飯の)お椀に注いで飲んでいた。村の寄合など、よその人が来る時は購入した茶葉を使っていた。その時は急須を使い、炭も購入したカタズミを使っていた。(父の話)茶畑何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。昔はみんな、そうしょうた。2000・5・14「岡山ふだんの食事」鶴藤鹿忠岡山文庫平成12年発行茶江戸時代末期に国民的飲料になった。畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。「鴨方町史」たいていの家では、畑のギシなどに茶樹を植えており、自給する。「岡山県史第15巻民俗...お茶を作る・お茶を飲む

  • なすび

    夏休み時期を代表する野菜だった。夏休みの朝は、両親は果物の収穫で畑に行って留守だった。たいてい冷えた味噌汁をご飯にかけた「汁かけ」を毎朝食べていた。汁かけで足らない時は、さえんからナスビを取ってきて、塩もみににしておかずにしていた。ナスビの塩もみは、子どもでも簡単にでき、出来あがるまで1分。便利な野菜だった。(父の話)なすびたいがい自家用としてつくりょうた。だいしょう早く出せば金になりょうた。温室で早ぅ出して売ったこともある。じゃけどあれも肥をぼっこうせんとええのができんのじゃ。朝、農協へもっていくにも手間がかかるし、重たぁばぁ。えっと銭にもららなんだ、それで止めた。2002.8.5父がナスビを商品として温室栽培をしていたのは、たぶん昭和50年頃と思われる。稲作を止め、田んぼはトウガキ畑やイチゴ畑に変わっ...なすび

  • トコロテンを作る

    夏休み、大潮の干潮のとき、茂平の苫無(とまんし)の磯でテングサを採って遊ぶことがあった。家に持って帰り釜で焚いた。海草がドロドロに溶けるまで炊く。溶けても、さらに炊く。時は真夏。汗びっしょり。しかし、このあとに楽しみが待っている。アルミの弁当箱に移し注いで、待つこと1時間くらいか?トコロテンが固まってくる。これが楽しい!固まりがおわると、食べる。トコロテンは温い。暑い夏に、熱いトコロテンは美味くない。子供が食べ残したトコロテンは、夕食(バンメシ)に父や祖父が「うまい、うまい」といって食べる。夕食の頃には、トコロテンは冷えてはいないが、時間が経っていて温くはなかった。子どもにとって、(管理人にとっては)トコロテンは固まるのが面白い子どもの遊びだった。●ところてんてんぐさは、夏の暑い日でもよく固まるから、羊か...トコロテンを作る

  • イチジク

    茂平のイチジクには他所にない特徴があった。二種類のイチジクを栽培していた。江戸時代に中国からはいった赤トーガキ。(東洋)明治時代に欧州からはいった白トーガキ。(西洋)赤トーガキは、生食で出荷。白トーガキは、干しイチジクに加工して出荷。白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。(父の話)白トウガキは何処の家もうえていたのではない。赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。2000年08月01日(父の話)イチジクこれの寿命...イチジク

  • 「ペイペイ使えます。」 2024ふくやまマラソン・ふれあい広場

    場所・広島県福山市水呑町・竹ヶ端運動公園「ふれあい広場」日時・2024年3月17日「第42回ふくやまマラソン」(福山通運ローズスタジアム)福山マラソンのイベント会場では太鼓やダンスがあり、多くの選手や家族などでにぎわっていた。その会場には屋台村があり、ある一つの屋台に「ペイペイ使えます。」の幟があった。ほかの屋台にはなかった。(ふれあい広場)”露店は現金払い”と、自分の頭が決め込んでいたので、この「ペイペイ払いOK」には驚いた。自分にとっては、初めて見たものだが、都会のイベントでは露店でもぺいぺい払いが普及しているのだろうか?「ペイペイ使えます。」2024ふくやまマラソン・ふれあい広場

  • 梨を作る

    果物どころ茂平で、梨が栽培されていたことは知らなかった。梨やリンゴは、やや寒冷地が適しているというイメージがあった。今でも地図をみると、瀬戸内海に面した茂平で梨、・・・という感じがでてこない。戦前の茂平では、桃よりも梨が代表する果物だった。(父の話)梨は「20世紀」と「はかた」を植えていた。どうめんの畑で「はかた」も20世紀に近い感じの樹だ。これは早う出る。盆の前にでるんで、これじゃぁよう儲けた。水をしなくてはいけないので、梨畑には必ず池が必要であった。つるべは一人で汲み上げていた。つるべで水を汲み上げていた。つるべでやると時間ばっかりかかっていた。発動機ができて流すだけになって楽になった。2000年05月28日・・・「はかた」の後に「20世紀」を出荷する。味は20世紀のほうがエエ。ほれで他所(他県)でも...梨を作る

  • 枇杷(びわ)

    果物どころ茂平で、最初に出るのが枇杷だった。田植え時のシロミテで食べていた。枇杷が終わると、桃の早生が成り、それからは、すべての果物が成熟し、出荷していた。枇杷は実は大きく、皮は向きやすく、食べやすかった。甘い実と、すっぱい汁と、真ん中に大きなサネがあった。(父の話)枇杷は品種がひどう変わらん。新しいのは「ながさき早稲」ゆうのが出来ただけ。早うできるのが。2000・12・17枇杷は(木の)寿命が長い。今でもちょびっとつくりょうるが値がエエ。2000・1・9「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行枇杷日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。「くだもの」ポプラ社2009年発行びわ枇杷・バラ科ビワ属原産地は中国で、あたたかい地域で栽培されます。皮は手でむ...枇杷(びわ)

  • 鯨(くじら)を食べる

    クジラ肉は、肉屋でなく魚屋の商品。茂平には西浜(ようすな)の”しょうやん”がごつい自転車の荷台に積んで、売って歩いた。しょうやんは魚の行商なので、木箱に氷をいれ、その中に魚を置いていた。だが、しょうやんの持ってくる半分は、魚でなくクジラ肉だった。その理由は、魚よりもクジラ肉が安いこと。自給自足の農村の家計では、お金を出して食べ物を買うことは、どの家も最小限にしていた。クジラ肉はしわかった。食べものというより噛むものと思う程だった。小学校の4年生頃になって、「完全給食」というのが始まった。この給食にもまた、クジラ肉がよく出た。二度に一度くらい出た。後年になって、それは”くじらの竜田揚げ”という料理であると知った。・・・昭和30年代はクジラの全盛期であったように思う。野球は大洋ホエールズの「大洋漁業」。赤胴鈴...鯨(くじら)を食べる

  • 笠岡の中学校の制服が変わる

    笠岡の中学校の制服がやっと変わるそうだ。今日(2024.3.15)の山陽新聞に載っている。中学生を見たびに、この制服はいったい、いつまでつづくのだろう?いつもそう思いながら見ていた。今の制服ができた頃の中学生は、頭にシラミ、顔や手にイボ・ヒビ・ニキビ、身体に蚤(ノミ)、腹に蟯虫や回虫、ハラはいつもすきっ腹。そういう時代から身につけている服。いくらなんでも,制服は変えなければいい、というものではない。変えない理由は、なにもなく、だらだらつづいたのだろう。四半世紀前、男子生徒の髪の毛もそうだった。だらだらと、坊主頭を強制してきたが、各地で裁判が起こりそうになって、急に長髪を認めた。笠岡市に限ったことでないが、教育関係者は、時代への対応があまりに遅いように思う。・・・山陽新聞2024年3月15日笠岡市内の公立8...笠岡の中学校の制服が変わる

  • 葡萄酒を作る

    ものごころがついた時から、父は葡萄の季節の恒例のように「葡萄酒」を造っていた。父の造る葡萄酒は子供も飲むことがあった。お祭りや行事の時、祝いの日に飲んでいた。甘酒を飲む感じで、アルコール分が少なかった。酒好きの祖父は、焼酎と共に、父の葡萄酒も毎日のように飲んでいた。時代が高度経済成長期になり、安全な飲食や、納税(当時とごさん10.5.3と呼ばれていた)が求められる時代となり、それが茂平の農家にもおしよせた。茂平名産の珍菓・干しイチジクは保健所から禁止され、葡萄農家は税法違反で捕まった。・・・(父の話)葡萄酒で捕まる(密造していた葡萄酒が・・・・密造の意識は無いが・・・)長ぅおぃといたら醗酵してき、アルコール度が高おなってくる。そしたら罰金くうた。3000円じゃったけぃのう?!作ったのは隠しとったんじゃじゃ...葡萄酒を作る

  • サラダを食べる

    学校を卒業した姉は、仕事と花嫁修業を同時に始めた。福山駅近くの料理学校に、仕事の帰りに、週1回通った。そのおさらいで、日曜日に、習った料理を家で作った。その時に、初めて「サラダ」というものを食べた。初めての料理だったので名も知らなかったが、「サラダ」という名を知った。じつは、そのとき「サラダ」よりも「マヨネーズ」の方が珍しかった。というのは、姉は「サラダ」を作るよりも、「マヨネーズ」を作る方に時間や手間暇を要した。卵を泡立てる姉に、「何をしょうるん?」「マヨエーズをつくりょん」で、その日「サラダ」と「マヨネーズ」を同時に知って、同時に食べる日となった。それは、高校三年生の時だった。そのから数年した後、「ドレッシング」という調味料を知った。日本は急成長していた。「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社20...サラダを食べる

  • じゃがいも

    ジャガイモは、もちろん栽培していたが、何か印象が薄いというか弱い。サツマイモや里芋にくらべ地味。サラダを食べるようになってから、やっとジャガイモが思い浮かぶ。「三度芋」とか「弘法芋」とか呼んで収穫し、ヘードラを担いで運搬していたが、あのジャガイモを母は何の料理に使っていたのだろう?「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行じゃがいも日本には、江戸時代にジャガタラ(今のインドネシアの首都ジャカルタ)からやって来たオランダ人によって伝わりました。美しい花をつけるので、当初は見て楽しむための植物だったようです。明治時代に、北海道の川田龍吉男爵という人がイギリスやアメリカから取り寄せたいもを作ったのがきっかけで、その後、北海道に栽培が広がりました。日本ではじゃがいもの品種改良がさかんに行われています。ポテト...じゃがいも

  • 葡萄(ぶどう)を食べる

    岡山駅で「マスカット娘」がいて青い粒の葡萄を売っているのは知っていた。青い葡萄のマスカットを食べてみたいものだと、夢であこがれていた。家では、葡萄を栽培していたので、その葡萄をよく食べた。キャンベルとデラウェアを主に作っていた。そのどちらも好きだった。デラウエアが「種なしぶどう」に変ったが、食べてみると、種があった。「種小さいぶどう」が正しい?父が毎年葡萄酒を作っていたが、いつの年か(昭和40年代)に捕まって(茂平の葡萄農家全員)からは葡萄酒を造るのを止めた。・・・・「江戸の食生活」原田信男岩波書店2003年発行甲州葡萄先の『広益国産考』は、蜜柑に続いて葡萄を挙げ、「ぶどうは甲州より作りて多く江戸へ出しふ事おびたし。わづかの屋敷内に作りても相応に益となるものなり」と記している。もともと葡萄には薬効があり、...葡萄(ぶどう)を食べる

  • 葡萄(ぶどう)を作る

    ブドウ作りはすっかり変わった。粒が大きくなり、傘つきから、今はハウス栽培が主流。昭和40・50年代にタバコ畑からブドウ畑に変わったケースが多いように感じる。父母が作っていたブドウは、零細で、傘なし、キャンベルとデラウェアが主だった。・・・ブドウ作りは手間がかかるのか?手伝うことが多かった。冬は袋作り(桃・枇杷・葡萄)。春のデラウエアのジベレリンに漬ける。夏秋の集荷前の房から悪い粒を落とす作業。葡萄畑に行くと、棚で栽培しているので中腰になる。手伝いが終わると、いつも腰がいたくなっていた。(父の話)・・・・葡萄はよう(品種が)変わる。2000・12・17・・・茂平の葡萄は「きゃん」と「デラ」がおもじゃった。ネオマスカット(茂平には)なんぼかネオマスを植えとった人がおるけど、ようなかった。コールマンまぁさんがコ...葡萄(ぶどう)を作る

ブログリーダー」を活用して、しろみ茂平の話さんをフォローしませんか?

ハンドル名
しろみ茂平の話さん
ブログタイトル
しろみ茂平の話
フォロー
しろみ茂平の話

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用