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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 梅干しを食べる

    梅干しは、もっとも身近な「食べ物」だった。おやつとして、竹の皮に挟んで吸う。その後で食べる。弁当として、弁当箱の真ん中にあるもの。握り飯に入れるもの。晩飯の食卓の中央に置いて、誰でも箸が届く、家族共通のおかず兼食後のお茶の友。今、「握り飯」はコンビニの代表食品であるが、梅干しには種がないようだ。ごま塩で握ってなく、海苔がついている。海苔は自分で巻いて食べる、新技法でおもしろい。「江戸の町くらし図鑑」江戸人文研究会廣済堂2018年発行梅干し梅干しは昔から身体によいとされてきた食品のひとつです。お弁当に梅干しを入れるのは、黄色ブドウ球菌、0-157の増殖を抑制するからです。梅干しを食べると元気になるのは、クエン酸の効果で、疲れの原因となる乳酸の発生を抑えるからです。疲労物質の乳酸はガンを増殖させる物質でもあり...梅干しを食べる

  • 豆腐を食べる

    「アゲにおとーふ」と言いながら、豆腐売りが茂平の家々をまわっていた。豆腐を買う家は、笊を持って道べりまで出て買う。お金か、または大豆と交換していた。すぐ近所に何故か「豆腐屋」と呼ばれる家があった。父に聞くと、昔は豆腐を作っていたので「豆腐屋」と呼んでいる、と話していた。農家にとって、豆腐汁とか、豆腐の入った料理はご馳走だった。「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」岡山県昭和58年発行豆腐煮た大豆を碾臼で挽き、それを豆腐袋にいれて絞ると、豆乳とオカラに分かれる。豆乳を豆腐箱・豆腐袋に入れて汁で固めると豆腐ができる。苦汁も自家製で、塩を甕の上において、塩からたれ落ち苦汁を使った。豆腐は大豆を収穫して、晩秋から節季にかけてたびたび作った。秋祭り・八日待ち・正月・旧二月一日や三月節供、あるいは葬式などでは必ずといっていいほど...豆腐を食べる

  • 里芋

    古代の主食だった「さと芋」は、どこの農家にも植えていた。どの道ばたからもサトイモの葉がよく見えていた。実を小さく切って、煮たものが食卓にのっていた。美味くも、不味くもない野菜だった。雨の翌朝は、葉っぱにできた大きな水たまり(水滴)が、ころころ動いたり、落ちたりするのが楽しかった。「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行さといもいねよりも古くから主食にされてきた野菜。さといもは、アフリカやオセアニアで主食となっている「たろいも」と同じ仲間です。日本へは中国を経由して伝わりました。縄文時代にはすでに食べられていて、いねよりも前から人々の主食だったと言われています。山に生えているやまいもに対して、人里で育てたのでさといもとよばれるようになりました。はじめに種いもを植えつけると、その上に「親いも」ができ、...里芋

  • 蜜柑(みかん)

    昭和35.36年頃の雑誌の写真記事に、人気絶頂の双子の歌手「こまどり姉妹」が炬燵に入って温州ミカンを食べていた。芸能人とか、お金持ちは、テレビを見ながらミカンを食べるんだな。うらやましいな、と思った。我が家にテレビはなかった。ミカンもなかった。日本経済は世界を驚かす成長が始まろうとしていた。国も農協や家の光やメディアを使い農家に、ミカンを奨励した。その頃、父母は山の段々畑にミカンを植えていった。笠岡湾の海に面し、笠岡湾には打瀬船や旅客船や貨物船が♪黒い煙を吐きながら・・・行き来していた。それは美しい風景だった。父母のミカン畑は茂平では多い方だった。いちばん本数が多かったかもしれない。だが、芸予諸島や愛媛のミカン畑とは、とても比較できない零細規模だった。父母は儲ける果物として植えたミカンだったが、実が成り出...蜜柑(みかん)

  • 姫井繁次

    場所・岡山県倉敷市茶屋町今では信じられないだろうが、家で飲む水も、工場で使う水も、昭和30年代は井戸水を使っていた。ところが井戸を掘っても、水量が少ない地域や、塩分が多くて飲めない地域も多くあった。水汲み仕事は大変だが、塩分の多い地域は、それに加え水を溜める仕事があった。都窪郡茶屋町は児島湾の新田で、塩辛い水しか湧かなかった。姫井繁次町長は水道を敷設すること、高梁川の水をつかうこと、それを大正時代に提唱し、実現させた町長さん。英傑町長だと思う。・・・記念碑本町は元来干拓地で適当な飲料水がないため町民は砂ごしの川水天水を用い後には井戸を掘ったり担い水を買いなどして飲料としたが飲料水確保の根本的な解決とならず、伝染病やジストマ患者が続出し町民の日常生活の不安は年とともに深刻になったのである大正中期姫井繁次氏は...姫井繁次

  • 2024年の桜・総集編

    今年の桜は、開花が一時停滞したので長期間に渡って花見が楽しめた。およそ100ヶ所の桜を、記録と備忘のため編集しページにした。2024年の花見・総集編作成日2024.4.13(kasaoka.sub.jp)(笠岡市「十一番町緑道公園」の桜)2024年の桜・総集編

  • 福山城の桜

    行った日・2024年4月10日場所・広島県福山市天気に誘われて、福山と笠岡の桜を観て回った。そのうち広島県の桜名所である「福山城」は特にきれいだった。桜はやはり、天気が必要だなと思った。福山市を代表する高層建築物。左から「アイネス福山」「アルファゲートタワー」「福山城」、いちばん高い建築物は?・・・「アイネス福山」のようだ。高さ101m。福山城の桜

  • 桜渓塾跡の桜

    場所・岡山県井原市芳井町簗瀬「桜渓塾跡公園」訪問日・2024年4月7日嘉永6年(1853年)に創立された、「興譲館」は、現在全国屈指の歴史を誇る高校であり、女子マラソンの強豪としても知られている。初代館長となった漢学者の阪谷朗廬は、それ以前、ここ”桜渓塾”で塾長を行っていた、桜渓塾(おうけいじゅく)嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が伯父山鳴大年、岳父山成直蔵の協力によって簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、青少年の人材育成のため大いに尽くしました。桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出し...桜渓塾跡の桜

  • スネコスリの井領堂

    場所・岡山県井原市七日市町訪問日・2024年4月7日岡山県を代表する桜の名所のひとつ、「井原堤」(いばらづつみ)。その井原堤から西へ進むと井領堂がある。(井原堤)江戸時代にはこの辺り、「スネコスリ」というお化けが出て街道を通行する旅人を困らせそうだ。「ふるさと探訪出部の史跡」いずえ地区まちおこし協議会平成30年発行いろんどう井領堂(大師堂)井領堂は、旧山陽道沿いの七日市町西の字井領(現アクティブライフ井原東側)に建てられた辻堂で、写真右側に「南無阿弥陀佛」と彫られた名号碑に「宝暦十一年(1761)己天三月吉祥日施主藤代幸左衛門」と刻されており、江戸時代の中頃には建立されていたことがわかる。当時の井領堂は田の脇の寂しい所で、夜には「スネコスリ」という犬の形をした化け物が出て、通行人のすねをこすると、とたんに...スネコスリの井領堂

  • 神護寺本堂の桜

    場所・岡山県笠岡市甲弩「神護寺」訪問日・2024年4月6日江戸時代後期以降の建築物は、笠岡ふきんでも、珍しくないが江戸時代中期・前期となると滅多にしか見ることが出来ない。まして、ここ神護寺の本堂は戦国時代の建造物。本堂の前に立つと、風雪に450年耐えて、神々しくさえ感じる。岡山県指定建造物神護寺本堂神護寺はもと神宮寺と呼ばれ、甲怒(弩)神社の別当寺として創建されたと考えられるが、その時期は明らかでない。室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得ていて、現本堂が永禄11年(1568)10月に、小田高清を大檀那として建立されたことを証する銘文が棟木に墨書されている。また寺内に、天正3年(1575)8月18日死去した高清の位牌が祀られている。戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。さらに本堂には棟札二枚があり、その一枚は天...神護寺本堂の桜

  • 頼山陽像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」川中島鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過わたる曉に見る千兵の大牙を擁するを遺恨なり十年一剣を磨き流星光底(りゅうせいこうてい)長蛇を逸す頼山陽の”川中島”は小学生の時に知っていた。漫画で知った。「赤胴鈴之助」で知った。赤胴鈴之助の師匠、お玉が池の「千葉道場」の千葉周作が吟じていた。〽べんせいしゅくしゅく千光寺公園のポンポン岩の前に銅像と説明看板がある。それを記す。頓山陽広島県竹原市の人、「日本外史」「日政記」などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。磐石坐す可く松拠る可し松翠缺くる処海光露わる六年重ねて来たる千光寺山紫水明指顏に在り萬瓦半ば...頼山陽像

  • 田能村竹田像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」田能村竹田先生は、滝廉太郎や広瀬中佐で有名な九州竹田の人。岡藩の藩医で画家。尾道と、どういう関係があるのかは不明。・・・(Wikipedia)田能村竹田たのむらちくでん田能村竹田は、江戸時代後期の南画家。幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜。通称は行蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。生年月日1777年7月14日死亡日1835年10月20日・・・文化庁「文化遺産オンライン」田能村竹田は岡藩々医田能村碵庵の次男であつて、兄の跡を継いで藩医を勤め、又藩学由学館の司業となり豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂に預つて功があつた。職を退いてからは、専ら詩画等の研鑚に心を潜...田能村竹田像

  • 妹尾正雄像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」千光寺公園の美術館下、三春滝桜の近くに銅像が建っている。画家のようだ。「妹尾正雄像」であり、像にその人の説明が書かれてあった。それを転記する。「妹尾正雄像」美術教育に打ち込むかたわら風景を題材にする油画を描き続け独自の境地をきりひらいた1912年12月20日福山市御幸町に生まれる1933年広島県師範学校卒1934年独立美術協会展初入選・尾道美術協会創設に関わる1949年広島県美術展創設に関わり審査員となる1953年広島県高等学校美術研究会を創設し20年間理事長1955年独立美術協会会員1992年広島文化賞・独立美術協会功労賞受賞1994年紺綬褒章1996年7月14日西久保町の自宅にて死去撮影日・2024年4月1日妹尾正雄像

  • 日本三大桜を見に千光寺公園に行く

    行った日・2024年4月1日行った所・広島県尾道市西土堂「千光寺公園」去年、(倉敷市)児島に日本三大桜を見に行った。たいへん綺麗だった。その後、何も児島まで行かなくても千光寺山に行けば、そこに三大桜があることを知った。それで、今年は三大桜を見に千光寺公園に行こうと思っていた。本当のことを言えば、満開の花見に生きたかった。けれども、開花が進まず(開花予報もハズレ)やむなく日本三大桜に変更した。尾道市立美術館の北側の下、そこに「三春滝桜」。「神代桜」は見つからなかった。ココ☟にあるはずだけど、なかった。観光ガイドさんに聞いてもわからなかった。「根尾谷薄墨桜」、尾道山荘の前。気品のある美しさだった。本日は全国的に快晴。雲一つない、いい天気だった。日本桜100選「千光寺の桜」、が満開でなく、咲き始めということだけ...日本三大桜を見に千光寺公園に行く

  • 昆虫を食べる

    昆虫を食べたことはないが、年上の人は戦時中にバッタを「捕っていた」というようなことを言っていた。母の話だと、茂平は農村なのでバッタを食べるほどの食糧難ではなかった。飢えて食べたのか、害虫を取るのが子供の努めだったのか、学校か役場に供出したのかは不明。下記↓に出ているうち、タニシは美味かった。カエルのうち食用ガエルは飛び切り美味かった。いまでも、その美味を思い出すほど美味かった。「日本の風土食探訪市川健夫白水社2003年発行動物性食品としての昆虫現代日本人の多くは昆虫食と聞くだけで、「悪食」とか、「如何物」だと思っている。しかしかつて虫は貴重な動物性蛋白源であった。世界的にみても、東南アジアの山岳地帯、メラネシアのニューギニア、アフリカなど焼畑耕作を営む発展途上国では、昆虫が常食になっている。特に焼畑耕作の...昆虫を食べる

  • 間食・副食

    間食と副食の区分がよくわからないが、主食の補助としてみるとイモ、それも「ふかし芋」がまっさきに思い浮かぶ。「ふかし芋」はいつも戸棚にあったので、つまんで食べていた。たまに「おやき」をした。「はったい粉」も粉に水か湯をいれて簡単にでき、よく食べていたが、甘みがなくサッカリンをいれた。稀に砂糖をいれた「はったい粉」は、それはそれは美味かった。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行間食店で売っているお菓子といえば、煎餅やこんぺい糖飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。一般的なおやつは、大豆やソラ豆をコウラ(ほうろく)で煎ったもの、氷餅を焼いたり、あられを煎ったものであった。氷餅は正月餅と一緒にまたは寒の内に餅を搗き、のし餅に...間食・副食

  • "千鳥”大悟の生まれた北木島の丸岩に行く

    行った日・2024年3月30日行った所・岡山県笠岡市北木島町東京から長男が帰省している。会話にお笑い芸人”千鳥”のことが出たので、千鳥・大悟の生まれた丸岩に親子で行ってみることにした。北木島港に向かう、三洋汽船。北木島港から丸岩に向かう。外浅海(そとあざみ)の海岸。ここが丸岩。千鳥・大悟の生まれ育った海辺の村。(丸岩)正面に千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木小学校。(現在は統合して使用されていない)(大浦)千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木中学校。残念ながら2~3年前に廃校になった。(大浦)北木島を代表する産業だった石材業。丁場と丁場湖が点在して残る。”石の島”として日本遺産に認定されている。(千ノ浜)今日は、風もない穏やかな天気の一日だった。少し期待していた、桜の開花は、本土よりも遅かった。それにしても..."千鳥”大悟の生まれた北木島の丸岩に行く

  • 柿を食べる

    秋に実が成るのに、なんで「冬柿」というのだろう?と不思議に思っていたが、それは「冬柿」ではなくて「富有柿(ふゆうがき)」だった。非常に残念ながら、家に富有柿の木は無かった。田舎の自給生活の村は、野菜や果物は、”トリカエ”で日常生活が成り立っていた。それで、近所の柿農家から富有柿がウチにくるのだが、それを待つのが苦しいくらい、もらった時はうれしかった。家に「渋柿」はあった。大きな西条柿の木が一本あった。竹の竿で枝を折って収穫し、皮をむいで、吊るし柿にしていた。吊るし柿は、冬になると白い砂糖がふきでるが、それを待てなかった。吊るして日が経つと渋みが消えて、甘くなった。毎年、吊るした縄から何個かを食べた。あの甘い西条柿はほんとに美味かった。(岡山県小田郡矢掛町小田・山ノ上2017.12.17)「江戸の食生活」原...柿を食べる

  • 嫁菓子をもらう

    「嫁どりがある」それを聞けば、茂平の子どもたちの心は踊った。【嫁菓子】嫁菓子が楽しみじゃった。ただでお菓子をもらえるから。(おじさん=父の弟の嫁どり=昭和31年)嫁どりは大きな娯楽だった。【嫁どり】嫁どりがあると言えば、楽しみなのは、①「嫁菓子」をもらえる、②「花嫁」を見れる。③「嫁入り道具」が見れる。①一番の楽しみは「嫁菓子」。嫁菓子は紙袋に2~3箱のお菓子が入っている。茂平の子どもは、お菓子を食べることはめったにない。②花嫁を見れる。頭にカツラを乗せ、白塗りで、しかも下を向いて歩く花嫁の顔は、皆同じ。しかし、「花嫁衣裳」の女性を見る。普段、農夫しか見ない茂平の子供にとっては大きな娯楽だった。③「嫁入り道具」を見る。これは正直、関心はなかった。自転車やミシンやタンス類を見ても感じることは何もなかった。大...嫁菓子をもらう

  • 子供の間食

    イモ・あられ・豆は、ほぼ年中あった。果物一家の生計を立てるものが、果物であったので、その傷もの・変形ものが夏の間食になった。・・・桃・葡萄・スイカ・ナシ瓜・枇杷・サトウキビ・ナンバ・イチジク・柿・ミカン・・・。野山のものビービー・シーシー・さるきん・野イチゴ・ナツメ・ニッケ・川・池のものトーチカ海のものツブ・ドンガメ家のものおやき・ハッタイコ・買うもの飴玉・アイスキャンデー・ニッケ紙・買えなかったものミルキー・・・不二家のペコちゃん・ポコちゃん。あれを食べるのは、憧れだったな。チョコレート・・・中学か高校生になって初めて食べた。(チューインガムのロッテがチョコレートを作りだした頃)「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行子供の間食冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フーム...子供の間食

  • 醤油を作る

    昭和32年前後まで、家で醤油を作っていた。土間に置いていたその木製の機械からは醤油がポットリポットリと落ちていた。それは茂平のどこの家も同じだった。(母の話)醤油つくりの話麹つくりがたいへんじゃった。めんどうなんじゃ。小麦を植え、大豆を植え。麹を作り。彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。唐臼で搗きょうた。実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。醤油を搾る麹を1年寝かして、塩と水をいれて、...醤油を作る

  • 2024花見の季節が始まった

    場所・岡山県笠岡市(個人邸宅)撮影日時・2024年3月27日笠岡の桜も、早いのは見ごろになった。今年の桜は、「城跡と桜」「鉄道と桜」「川と桜」を主に、花見を楽しみたいと思っている。その季節になってきた。楽しみだ。2024花見の季節が始まった

  • 味噌を作る

    農村の家の味噌汁は、「汁」であり「おかず」だった。汁よりも「具」が主役だった。イモや団子やアサリや河豚や麩や、いろんな野菜も入っていた。味噌汁を作るのは母であり、味噌を作るのは父母で、麹を作るのは母、大豆を作り、米を作るのも父母だった。味噌作りで購入品は塩だけ。味噌作りの日は天気のいい日で、餅を搗くのと同じように、父母は木臼で味噌をつくった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行味噌味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、大豆と塩を用いる。麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。麹を作るのに技術がいる。笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。吉備高...味噌を作る

  • 醤(ひしお)

    大冝に「ひしお」作りの上手な人がいて、秋になると「ひしお」を売って歩いていた。買った「ひしお」はおいしかった。全体、家で食べるものは自給品が原則だったが、(家で作ったり、穫れたりするものよりも)買って食べるものは、みな美味しく感じた。その季節は秋刀魚(サンマ)と重なり、サンマを七輪焼いては、醤(ひしお)を付けて食べていた。ひしおとサンマは、ほんに相性のいい食べ物だった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行醤速成味噌である。笠岡市吉田では裸麦を甑で蒸してハナを作り、塩、水をいれてかき混ぜる。蚕豆を入れると香ばしくておいしい。おかずにする。焼魚につけて食べる。「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行醤(ひしお)裸麦で麹を作り、甕に裸麦の麹五升と炒った大豆・塩二合を加え、水を入れてかきまぜる。麦飯につけ...醤(ひしお)

  • 豊臣秀吉公

    場所・大阪府大阪市中央区大阪城「大坂城公園」大阪城豊國神社太閤秀吉は、その前半部分は極めて魅力的な人物として知られ、天下取りの後は、下り坂を転げるように落ちて、そして死んだ。大人物であることは論を待たないが、信長と家康に比べると一段落ちるように感じられる。「歴史読本」’81-9号新人物往来社秀吉天下人の条件山本七平近代における「日本の治」を完成させた秀吉簡単にいえば秀吉の行き方は天下の人びとを、あらゆる意味において「安堵させる」ことであった。そしてそれが天皇、公卿、大名、武士、農民等々、すべての人の階級を超えた潜在的欲望であったがゆえに、順風満帆のような形で「天下人」となることができた。しかし、彼には信長のような独創性があったわけでなくその政策は基本的には信長のそれであった。ただ、彼は信長の独創的な人間に...豊臣秀吉公

  • 京セラドーム大阪で、人生初のドーム野球観戦した

    場所・大阪市「京セラドーム大阪」日時・2024.3.23午後2:00試合開始試合・プロ野球オープン戦阪神タイガーズvsオリックス・バファローズドーム球場の前を歩いたことは、福岡・東京・札幌の3球場経験あるが、残念ながらゲートの前でおしまい。昨日は生まれて初めて、ドームに入り野球観戦をした。さすがに、たまに行く広島ズームズームスタジアムや倉敷マスカットスタジアムとは規模が違いすぎた。球場規模が違うのと、空が閉ざされ、閉じられた空間の中に選手や観客がいて興奮度が高まった。応援は外野の応援席のみ、旗や太鼓が鳴らされたが、その席以外は声援や拍手やカンフーバットを叩いての応援で、両チームファンとも節度のとれた感じのいい応援だった。食ものは「いてまえバーガー」を食べた。名物にもかかわらず、おいしかった。試合は、前年度...京セラドーム大阪で、人生初のドーム野球観戦した

  • 新小田川が完成

    場所・岡山県倉敷市船穂町柳井原工事名・小田川と高梁川の合流点付け替え事業完成日・2024.3.23「2018西日本豪雨」で河川の堤防が決壊し、多大な被害が発生した高梁川支流の小田川は、高梁川への合流地点を川辺から水江に変更した。その完成式が昨日(2024.3.23)真備町であった。今回完成した新しい小田川は、大正時代までは「西高梁川」と呼ばれ大河だった。昭和・平成は、川でなく「柳井原貯水池」だった。令和6年、再び川に戻り、「小田川」となった。撮影日・2018.5.25地名・「柳井原貯水池」【山陽新聞記事】新小田川が完成

  • イチゴ

    昭和44年を最後に、父母は「米作り」を止めた。農家であるが、米を買って食べるようになった。その大きな背景に、①米の過剰や政府の減反政策(昭和47年開始)。②作業の機械化(田植え・稲刈り)で設備投資が必要。茂平は果物が盛んだが、稲作は自給用で小規模だった。稲作を止めた田んぼは、イチゴやイチジクに転換した。昭和50年代、茂平のイチゴは全盛期を迎えた。(父の話)昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。ハウスで栽培してから金になりだした。今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。作るのに手間がかかりすぎる。よそでも栽培が増えた。茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。のが原因だろう。2000年05月28日・・いちごは、農協がすすめた。パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。こんだ...イチゴ

  • 大豆を作る

    祖父の言うことは同じ言葉(せりふ)が多かった。その代表的なことばは、「豆で貧乏しますように」いつも、そのあとに、「人間は金(かね)を持つよりも、マメなのがいちばん好い」祖父は、そのことを実践した。お金はほどほど、身体は豆(マメ)で、笠岡市二番目の長寿で亡くなった。大豆は食べるにも、人生訓にも大切なようだ。「金光町史民俗編」金光町平成10年発行どこの家でも大豆は田植え後の田の畦に播いた。こうしておくと陰になり草が生えなかった。稲刈り時分に収穫して、乾燥保存し、味噌や醤の原料に、そして煎っておやつにもした。「岡山たべもの歳時記」鶴藤鹿忠岡山文庫平成10年発行大豆の用途大豆は、骨のない肉といわれ、重要な蛋白源である。炒り豆、枝豆、黄な粉、ウチゴ(ウチゴドウフ、キドウフ)、ゴジル(呉汁)、大豆飯、豆腐、おから、油...大豆を作る

  • 「福山古墳ロードA」を歩く

    場所・広島県福山市駅家町日時・2024年3月19日人柱・お糸さんの伝説でも有名な、駅家の「服部大池」。その大池の駐車場からスタートして「福山古墳ロードA」を歩いた。最初に、「熊野神社」。この神社社殿は横穴式古墳の巨石の上に鎮座している。古墳名は、「権現古墳」。次に本日の主目的である、国史跡「二子塚(ふたごづか)古墳」。長さ73m、幅68m、高さ41m、周溝ありの前方後円墳。吉備王国の古墳だが、古代吉備国は現在広島県と岡山県に分かれ、そのためか、王国の研究までも両県共同を感じないのが残念。最明寺にある、「最明寺板碑(さいみょうじいたび)」。高さは約1.8m、幅は75cm、厚さは約10cm。室町時代の板碑。春の天気はおだやかで、古墳めぐりが楽しめた。「福山古墳ロードA」を歩く

  • お茶を作る・お茶を飲む

    水落に茶畑があった。そこから茶を摘んで帰り、蒸したり、干したりしてお茶にしていた。金のヤカンから(茶飲みでなく、ご飯の)お椀に注いで飲んでいた。村の寄合など、よその人が来る時は購入した茶葉を使っていた。その時は急須を使い、炭も購入したカタズミを使っていた。(父の話)茶畑何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。昔はみんな、そうしょうた。2000・5・14「岡山ふだんの食事」鶴藤鹿忠岡山文庫平成12年発行茶江戸時代末期に国民的飲料になった。畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。「鴨方町史」たいていの家では、畑のギシなどに茶樹を植えており、自給する。「岡山県史第15巻民俗...お茶を作る・お茶を飲む

  • なすび

    夏休み時期を代表する野菜だった。夏休みの朝は、両親は果物の収穫で畑に行って留守だった。たいてい冷えた味噌汁をご飯にかけた「汁かけ」を毎朝食べていた。汁かけで足らない時は、さえんからナスビを取ってきて、塩もみににしておかずにしていた。ナスビの塩もみは、子どもでも簡単にでき、出来あがるまで1分。便利な野菜だった。(父の話)なすびたいがい自家用としてつくりょうた。だいしょう早く出せば金になりょうた。温室で早ぅ出して売ったこともある。じゃけどあれも肥をぼっこうせんとええのができんのじゃ。朝、農協へもっていくにも手間がかかるし、重たぁばぁ。えっと銭にもららなんだ、それで止めた。2002.8.5父がナスビを商品として温室栽培をしていたのは、たぶん昭和50年頃と思われる。稲作を止め、田んぼはトウガキ畑やイチゴ畑に変わっ...なすび

  • トコロテンを作る

    夏休み、大潮の干潮のとき、茂平の苫無(とまんし)の磯でテングサを採って遊ぶことがあった。家に持って帰り釜で焚いた。海草がドロドロに溶けるまで炊く。溶けても、さらに炊く。時は真夏。汗びっしょり。しかし、このあとに楽しみが待っている。アルミの弁当箱に移し注いで、待つこと1時間くらいか?トコロテンが固まってくる。これが楽しい!固まりがおわると、食べる。トコロテンは温い。暑い夏に、熱いトコロテンは美味くない。子供が食べ残したトコロテンは、夕食(バンメシ)に父や祖父が「うまい、うまい」といって食べる。夕食の頃には、トコロテンは冷えてはいないが、時間が経っていて温くはなかった。子どもにとって、(管理人にとっては)トコロテンは固まるのが面白い子どもの遊びだった。●ところてんてんぐさは、夏の暑い日でもよく固まるから、羊か...トコロテンを作る

  • イチジク

    茂平のイチジクには他所にない特徴があった。二種類のイチジクを栽培していた。江戸時代に中国からはいった赤トーガキ。(東洋)明治時代に欧州からはいった白トーガキ。(西洋)赤トーガキは、生食で出荷。白トーガキは、干しイチジクに加工して出荷。白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。(父の話)白トウガキは何処の家もうえていたのではない。赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。2000年08月01日(父の話)イチジクこれの寿命...イチジク

  • 「ペイペイ使えます。」 2024ふくやまマラソン・ふれあい広場

    場所・広島県福山市水呑町・竹ヶ端運動公園「ふれあい広場」日時・2024年3月17日「第42回ふくやまマラソン」(福山通運ローズスタジアム)福山マラソンのイベント会場では太鼓やダンスがあり、多くの選手や家族などでにぎわっていた。その会場には屋台村があり、ある一つの屋台に「ペイペイ使えます。」の幟があった。ほかの屋台にはなかった。(ふれあい広場)”露店は現金払い”と、自分の頭が決め込んでいたので、この「ペイペイ払いOK」には驚いた。自分にとっては、初めて見たものだが、都会のイベントでは露店でもぺいぺい払いが普及しているのだろうか?「ペイペイ使えます。」2024ふくやまマラソン・ふれあい広場

  • 梨を作る

    果物どころ茂平で、梨が栽培されていたことは知らなかった。梨やリンゴは、やや寒冷地が適しているというイメージがあった。今でも地図をみると、瀬戸内海に面した茂平で梨、・・・という感じがでてこない。戦前の茂平では、桃よりも梨が代表する果物だった。(父の話)梨は「20世紀」と「はかた」を植えていた。どうめんの畑で「はかた」も20世紀に近い感じの樹だ。これは早う出る。盆の前にでるんで、これじゃぁよう儲けた。水をしなくてはいけないので、梨畑には必ず池が必要であった。つるべは一人で汲み上げていた。つるべで水を汲み上げていた。つるべでやると時間ばっかりかかっていた。発動機ができて流すだけになって楽になった。2000年05月28日・・・「はかた」の後に「20世紀」を出荷する。味は20世紀のほうがエエ。ほれで他所(他県)でも...梨を作る

  • 枇杷(びわ)

    果物どころ茂平で、最初に出るのが枇杷だった。田植え時のシロミテで食べていた。枇杷が終わると、桃の早生が成り、それからは、すべての果物が成熟し、出荷していた。枇杷は実は大きく、皮は向きやすく、食べやすかった。甘い実と、すっぱい汁と、真ん中に大きなサネがあった。(父の話)枇杷は品種がひどう変わらん。新しいのは「ながさき早稲」ゆうのが出来ただけ。早うできるのが。2000・12・17枇杷は(木の)寿命が長い。今でもちょびっとつくりょうるが値がエエ。2000・1・9「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行枇杷日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。「くだもの」ポプラ社2009年発行びわ枇杷・バラ科ビワ属原産地は中国で、あたたかい地域で栽培されます。皮は手でむ...枇杷(びわ)

  • 鯨(くじら)を食べる

    クジラ肉は、肉屋でなく魚屋の商品。茂平には西浜(ようすな)の”しょうやん”がごつい自転車の荷台に積んで、売って歩いた。しょうやんは魚の行商なので、木箱に氷をいれ、その中に魚を置いていた。だが、しょうやんの持ってくる半分は、魚でなくクジラ肉だった。その理由は、魚よりもクジラ肉が安いこと。自給自足の農村の家計では、お金を出して食べ物を買うことは、どの家も最小限にしていた。クジラ肉はしわかった。食べものというより噛むものと思う程だった。小学校の4年生頃になって、「完全給食」というのが始まった。この給食にもまた、クジラ肉がよく出た。二度に一度くらい出た。後年になって、それは”くじらの竜田揚げ”という料理であると知った。・・・昭和30年代はクジラの全盛期であったように思う。野球は大洋ホエールズの「大洋漁業」。赤胴鈴...鯨(くじら)を食べる

  • 笠岡の中学校の制服が変わる

    笠岡の中学校の制服がやっと変わるそうだ。今日(2024.3.15)の山陽新聞に載っている。中学生を見たびに、この制服はいったい、いつまでつづくのだろう?いつもそう思いながら見ていた。今の制服ができた頃の中学生は、頭にシラミ、顔や手にイボ・ヒビ・ニキビ、身体に蚤(ノミ)、腹に蟯虫や回虫、ハラはいつもすきっ腹。そういう時代から身につけている服。いくらなんでも,制服は変えなければいい、というものではない。変えない理由は、なにもなく、だらだらつづいたのだろう。四半世紀前、男子生徒の髪の毛もそうだった。だらだらと、坊主頭を強制してきたが、各地で裁判が起こりそうになって、急に長髪を認めた。笠岡市に限ったことでないが、教育関係者は、時代への対応があまりに遅いように思う。・・・山陽新聞2024年3月15日笠岡市内の公立8...笠岡の中学校の制服が変わる

  • 葡萄酒を作る

    ものごころがついた時から、父は葡萄の季節の恒例のように「葡萄酒」を造っていた。父の造る葡萄酒は子供も飲むことがあった。お祭りや行事の時、祝いの日に飲んでいた。甘酒を飲む感じで、アルコール分が少なかった。酒好きの祖父は、焼酎と共に、父の葡萄酒も毎日のように飲んでいた。時代が高度経済成長期になり、安全な飲食や、納税(当時とごさん10.5.3と呼ばれていた)が求められる時代となり、それが茂平の農家にもおしよせた。茂平名産の珍菓・干しイチジクは保健所から禁止され、葡萄農家は税法違反で捕まった。・・・(父の話)葡萄酒で捕まる(密造していた葡萄酒が・・・・密造の意識は無いが・・・)長ぅおぃといたら醗酵してき、アルコール度が高おなってくる。そしたら罰金くうた。3000円じゃったけぃのう?!作ったのは隠しとったんじゃじゃ...葡萄酒を作る

  • サラダを食べる

    学校を卒業した姉は、仕事と花嫁修業を同時に始めた。福山駅近くの料理学校に、仕事の帰りに、週1回通った。そのおさらいで、日曜日に、習った料理を家で作った。その時に、初めて「サラダ」というものを食べた。初めての料理だったので名も知らなかったが、「サラダ」という名を知った。じつは、そのとき「サラダ」よりも「マヨネーズ」の方が珍しかった。というのは、姉は「サラダ」を作るよりも、「マヨネーズ」を作る方に時間や手間暇を要した。卵を泡立てる姉に、「何をしょうるん?」「マヨエーズをつくりょん」で、その日「サラダ」と「マヨネーズ」を同時に知って、同時に食べる日となった。それは、高校三年生の時だった。そのから数年した後、「ドレッシング」という調味料を知った。日本は急成長していた。「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社20...サラダを食べる

  • じゃがいも

    ジャガイモは、もちろん栽培していたが、何か印象が薄いというか弱い。サツマイモや里芋にくらべ地味。サラダを食べるようになってから、やっとジャガイモが思い浮かぶ。「三度芋」とか「弘法芋」とか呼んで収穫し、ヘードラを担いで運搬していたが、あのジャガイモを母は何の料理に使っていたのだろう?「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行じゃがいも日本には、江戸時代にジャガタラ(今のインドネシアの首都ジャカルタ)からやって来たオランダ人によって伝わりました。美しい花をつけるので、当初は見て楽しむための植物だったようです。明治時代に、北海道の川田龍吉男爵という人がイギリスやアメリカから取り寄せたいもを作ったのがきっかけで、その後、北海道に栽培が広がりました。日本ではじゃがいもの品種改良がさかんに行われています。ポテト...じゃがいも

  • 葡萄(ぶどう)を食べる

    岡山駅で「マスカット娘」がいて青い粒の葡萄を売っているのは知っていた。青い葡萄のマスカットを食べてみたいものだと、夢であこがれていた。家では、葡萄を栽培していたので、その葡萄をよく食べた。キャンベルとデラウェアを主に作っていた。そのどちらも好きだった。デラウエアが「種なしぶどう」に変ったが、食べてみると、種があった。「種小さいぶどう」が正しい?父が毎年葡萄酒を作っていたが、いつの年か(昭和40年代)に捕まって(茂平の葡萄農家全員)からは葡萄酒を造るのを止めた。・・・・「江戸の食生活」原田信男岩波書店2003年発行甲州葡萄先の『広益国産考』は、蜜柑に続いて葡萄を挙げ、「ぶどうは甲州より作りて多く江戸へ出しふ事おびたし。わづかの屋敷内に作りても相応に益となるものなり」と記している。もともと葡萄には薬効があり、...葡萄(ぶどう)を食べる

  • 葡萄(ぶどう)を作る

    ブドウ作りはすっかり変わった。粒が大きくなり、傘つきから、今はハウス栽培が主流。昭和40・50年代にタバコ畑からブドウ畑に変わったケースが多いように感じる。父母が作っていたブドウは、零細で、傘なし、キャンベルとデラウェアが主だった。・・・ブドウ作りは手間がかかるのか?手伝うことが多かった。冬は袋作り(桃・枇杷・葡萄)。春のデラウエアのジベレリンに漬ける。夏秋の集荷前の房から悪い粒を落とす作業。葡萄畑に行くと、棚で栽培しているので中腰になる。手伝いが終わると、いつも腰がいたくなっていた。(父の話)・・・・葡萄はよう(品種が)変わる。2000・12・17・・・茂平の葡萄は「きゃん」と「デラ」がおもじゃった。ネオマスカット(茂平には)なんぼかネオマスを植えとった人がおるけど、ようなかった。コールマンまぁさんがコ...葡萄(ぶどう)を作る

  • こんにゃく

    日々の食事、茂平でコンニャクを食べことはなかった。そもそも海辺の村・茂平にはコンニャク芋を栽培する農家が無かった。高原ともいえる、(後月郡の)母方の祖父母に行くと、コンニャクが出た。そのコンニャクは硬く固まったところと、ゆるいのが混じったコンニャクだった。おいしいと思ったことはないが、くにゃくにゃして面白い食べ物だと思った。祖母のやさしさを感じる食べ物だった。グルメ時代の現代では、健康食品としてもてはやされているが、かつてコンニャク芋は食用ではなくて、大日本帝国の重要資源として軍部から徴用された。そのコンニャク芋は風船爆弾の原料となり、アメリカ本土への爆撃に使用された。「岡山県史・民族Ⅰ」昭和58年山陽新聞社出版コンニャク山地の村々では自給用に畑で栽培している。長年栽培していると病気がつきやすい。・・・・...こんにゃく

  • ママカリを食べる

    隣のウチは漁師だった。隣のおばあさんは、よくひなたぼっこをしていた。たまに、隣のおばあさんは、ウチに来る時があった。そういう時、決して「こんにちわ」とか挨拶することはなかった。隣のおばあさんは、わらじを履いていたので、足音すらしなかった。(聞こえなかった)家の玄関は開きっぱなし。入ると土間が台所までつづく。道同然にウチの中に入っていった。隣のおばあさんは、台所で止まり、ママカリを山盛り入れた笊を置いて、だまって帰る。それがあってから数日間、我が家の食卓はママカリ一色の日々がつづいた。朝もママカリ、昼もママカリ、夜もママカリ、翌朝もママカリ、翌昼もママカリ、翌夜もママカリ、翌々朝もママカリ、翌々昼もママカリ、翌々夜もママカリ。・・・・・づううっとつづいた。ママカリは、あんまり「おいしくて、おまんま(ママ)を...ママカリを食べる

  • 蜂の子

    捕獲したり、摘み取ったりの、遊びを兼ねた「おやつ」や「食材」は数多くあった。山でマツタケを探すのも、海でアサリを掘るのも、食べものというよりは”遊び”の面が強かった。スリルがある遊びで、おやつにもなる、とえば「ハチの巣」を落とすこと。落とした巣から蜂の子を取り出して口に入れる。噛まずに飲み込む。栄養があると子どもたちも知っいた。生物学者だった昭和天皇も食べていたそうだ。(下記↓の「日本の風土食探訪」)・・・蜂の巣を軒下から地上に落とすのはスリルがあった。男の子3~5人での遊び。たいていの場合、まんの悪い人が1人蜂に刺される、というキョーテイ遊び。長い竹の棒を2本ほど用意し、それを、針の巣が軒から落ちるまでつつく。まわりはハチが数匹飛んでいる。そして子どもめがけて刺しに飛んでくる。このスリル感がなんともいえ...蜂の子

  • 「Vリーグ笠岡大会」岡山シーガルズvs東レアローズを見に行く

    場所・岡山県笠岡市平成町「笠岡総合体育館」日時・2024年3月10日13:00試合開始中学生の時、体育の授業で先生が「今日はバレー!」男子生徒全員、「バレー???」「なんで男がバレーするん???」バレーと言えば女性が短いスカートで、つま先で立ち、脚を横か上の方にあげて、踊る。それしか思い浮かばなかった。東京オリンピックで、日紡貝塚を中心とした女子バレーが金メダルを取ってからは、すっかり日本人の人気スポーツとなった。昨日と今日は「Vリーグ笠岡大会」がある。一度見物したい。応援したい。と思っていたので見にいった。入場の際、紙風船二個をもらう。それをふくらまして叩いて音を出しての応援。熱気がすごく、2018年に観光旅行で見物した”青森ねぶた”を思いうかべた。あの時、「ラッセラーラッセラー」の盛りあがりがすごかっ...「Vリーグ笠岡大会」岡山シーガルズvs東レアローズを見に行く

  • セブンイレブンハートインJR笠岡駅店

    場所・岡山県笠岡市笠岡・JR笠岡駅構内駅内移転・最終営業日・2024.3.6撮影日・2024.3.4セブンイレブンハートインJR笠岡駅店は無くなったのではなくて、駅内移転。笠岡駅の待合所にあった「セブンイレブンハートイン」は2024年3月6日で終了した。同じ日に、同じ駅構内に移転した。今日(2024.3.10)笠岡駅に行ったら移転していた。元の店は厚い壁で隠されていた。セブンイレブンハートインJR笠岡駅店

  • おさふねサービスエリア

    場所・岡山県瀬戸内市長船町長船全館建て替えの為・最終営業日・2024.5.6撮影日・2022.4.24「おさふねサービスエリア」は、無くなるのでなく、全館建替えする。国道2号線沿いで、岡山県で一番有名なドライブインが「おさふねサービスエリア」。新幹線を見る。吉井川を眺める。温泉に入る。食事をする。土産物を買う。ドライブ休憩する。で、人気のドライブイン。その大きなドライブイン「長船サービスエリア」が全館建替え工事をするそうだ。リニューアルオープン時期は未定。新しい「おさふねサービスエリア」は楽しみだ。笠岡からはちょっと遠いので、たびたびの訪問はできないが、再開を期待して待つ。おさふねサービスエリア

  • トウモロコシ

    笠岡や岡山県・広島県では、トウモロコシのことを「ナンバ」と言う。ナンバは子供のおやつだった。サトウキビやユスラウメやビービーと同じで、親が子の「おやつ」ために植えていた。食べ方は今と同じで、茹でたのを、実の部分だけ丸かじりしていた。見た目も美味そうで、ナンバが嫌いな子はいなかった。小学校の高学年か、中学生になった頃、学校で「トウモロコシは穀物で、飼料である」と習ったが、飼料の意味が理解できなかった。牛や馬やニワトリは、家から出た物、作った物を食べていたから。その頃、父が養鶏を始めた。そのエサを、農協で紙袋を何袋か購入するようになった。紙袋を閉じた糸を抜くと、ナンバと粉が混ざったものが出てきた。それでやっと、”飼料”を理解出来るようになった。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行トウモロコシ米・麦とと...トウモロコシ

  • サツマイモを作る

    芋畑で掘った芋はヘードラで荷車に運んだ。ヘードラがもっとも運んだ物は芋類だった。(ヘードラ「城見のあゆみ」から)サツマイモは、あまりに日常過ぎた作物だった。そして、それを食べて「おいしい」と思って食べたことは今まで一度もない。うまいと思ったのは、鹿児島のいも焼酎だけだ。(鹿児島県鹿屋で「薩摩大海」、あれを毎晩飲んでいた)・・・「日本食物史」江原・石川・東四柳吉川弘文館2009年発行さつまいもは、コロンブスがアメリカ大陸からスペインに持ち帰ったとされ、日本には、慶長11年(1606)に琉球へ伝わったものが、宝永2年(1705)に薩摩に伝わる。・・・「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行さつまいも飢饉のときに人々の命を救った暑い気候を好み、やせた土地で育つのが特徴のさつまいもは、17世紀の初めに中国...サツマイモを作る

  • サツマイモを食べる

    サツマイモのフカシイモは間食の代表というより、大代表だった。おやつといえば、フカシイモ。腹が減ったといえば、フカシイモだった。フカシイモは戸棚の皿に、”商品切れ”という状況は一度もなかった。大人も子どもも、おやつ・副食・常備食・よーめしで、家族の必需品だった。イモは、どこの家にも穴を掘った芋床に保存していた。・・・まんが雑誌の漫画に「焼き芋」を買う、町の少女がいた。町の人は、お金を出してまで、焼き芋を買うのだろうか?それを食べて「おいしー」というのは本当だろうか?ちょっとしたカルチャーショックのようなものを感じた。「矢掛町史」矢掛町昭和55年発行畑どころでは米の代用によく食べた。また、第二次大戦中、砂糖の代用にイモヨウカン、イモアメを作った。サツマイモの利用法には、フカシイモイモ粥煮つけイモイモ飯揚げイモ...サツマイモを食べる

  • お産の食事

    女性の出産は、長く母親も生まれる子も、双方とも生死を掛けた面があった。そのため、さまざまな禁忌が存在し妊婦の負担を一層増していた。さらに、田舎の農家の嫁は、農業をしながら大家族の雑用までこなしの半奴隷状態。お産となれば、”産まれる間際まで仕事をしていると安産”という言い伝えか、実態かで、(「ぎりぎりまで畑にいた」と母も言っていた)体力、気力とも限界での出産だったようだ。「鴨方町史」鴨方町昭和60年発行お産妊娠中には日常生活の上で、さまざまな忌み慎しむことがあった。妊婦が死人に触ったり、葬式に出会ったとき、最初に手を当てた同じところに黒アザや青アザのある子が生まれ、火事を見ると赤アザのある子が生まれるという。これは町内はもちろん、県下でも広くいわれている俗信で、これを防ぐには、常に帯の間か懐に鏡を表に向けて...お産の食事

  • 砂糖を食べる

    小学校の時、校長先生が「虫歯の日」などの朝礼で、甘い物を食べると、虫歯になるからほどほどに、というような話をしていた。しかし、校長先生にいわれなくても、砂糖がはいった甘い物を食べることはほとんどなかった。ナンキンやサツマイモが戦時中、砂糖の代わりの役目をしたというけど、砂糖は高価で、庶民は高度経済誌長期が始まるまで、ずっと砂糖はもったいないモノでり、贈答品であったような気がする。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行砂糖江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。紋日のほかはほとんど用いなかったものである。「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行砂糖たいていの家で、子供の間食用にサトウキビを植えていた。軸を噛み、甘い汁を...砂糖を食べる

  • おかゆ・おじや・雑炊

    雑炊母が留守の時、父がご飯を作る時があった。その時は、いつも”雑炊”だった。「兵隊では、いつも雑炊じゃった」というようなことを言っていた。今思えば、外地での自炊の食事のことだろう。父のつくる雑炊は美味かった。母のつくる雑炊よりも美味かった。その理由ははっきりしていた。母がつくるのは、残りものを使用していた。麦飯も、中に入れる野菜類も、すべて残りもので、腐る前のものを再度煮たものだった。お粥お粥は、誰か風邪をひいたとき、母がつくっていた。病人食だった。・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行雑炊ゾウスイ、ゾウシイという。オジヤは現代風で上品な呼び名である。羽釜に2~3合の米と水を一杯いれ、野菜を沢山いれる。団子や餅をいれれば団子雑炊という。大根が多ければ大根雑炊という。粥白粥水文の多少によって...おかゆ・おじや・雑炊

  • 笠岡大仙院の三月、”春大仙”に行く 2024.3.4

    小学6年生の秋だったと思う、土曜日の午後バスに乗って母が笠岡の大仙さんに連れて行ってくれたことがあった。その日、笠岡の商店街は大仙さんで大にぎわい。商店街はぎゅうぎゅうで歩くのもままならないほど人が多かった。田舎からお詣りに笠岡に来た人は、、お詣りと共に、町で乾物や茶わんなどを買って帰るのが目的だった。笠岡で買い物をして帰るバスに乗ると、夕方になっていて駅前の旅館のネオンが見えていた。きらきら、光ったり止んだりしていた。それを見ながら、ああ笠岡は町じゃなあ、と思った。だが、そのネオンは今思うに、小さな蛍光灯がちかちかしてるだけだった。それでも当時は楽しかった。洲崎橋から大仙橋の間には、呉服・刃物・乾物・菓子・植木などの商人が連らねていたが、今年になってそれも絶えた。3月の「春大仙」はにぎやかといわれ、その...笠岡大仙院の三月、”春大仙”に行く2024.3.4

  • 米(こめ)

    大門駅から岡山駅まで汽車で行けば、金光駅ふきんから岡山駅の一つ手前の庭瀬駅まで、ずっとイ草が続いていた。イ草の後で稲を植える二毛作が岡山平野の、ほぼすべての水田だった。二毛作しないと農家は生活していけなかった。今、岡山平野からイ草は全滅し、水田の多くは農地から商業・工場・学校・住宅などに変わり、残った水田は半年間寝ている。「最新日本の農業図鑑」八木宏典ナツメ社2021年発行日本の米米は主食であると共に、酒や醤油、味噌、酢などの原材料。うるち米ともち米に分けられる。ごはんはうるち米で、餅やおこわはもち米。今から2500~2600年前、縄文時代晩期に大陸から伝わり北九州から広まったという説が有力だ。食糧管理法(1942~)不足する米を国民に平等に分配する目的で食管法が制定された。米の過剰(1971~)農村と都...米(こめ)

  • 白米を食べる

    いつも麦飯だった。お米の飯を食べるのは憧れだった。「白いご飯を食いたいものじゃ」と思っていた。高校生になった頃、ウチも米の飯になった。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行コメ(米)日本では縄文時代の終わりから稲作がはじまった。現在にいたるまで多品種の米が作られています。丸みがあるジャポニカ種と、細長いインディカ種があります。うるち米ともち米に分かれます。精米後、時間と共に酸化するので、精米したてのものがよい。・・・「江戸の町くらし図鑑」江戸人文研究会廣済堂2018年発行江戸では何故白米を食べるのか。江戸では武家も庶民も白米を食べておりました。しかし、流通段階では玄米ですので、白米しかなかった、という単純な理由ではありません。玄米より白米の方が、香りが良くて、柔らかいので、美味しいという理由はありま...白米を食べる

  • 「ひな祭り」の食べ物

    「北木島の流し雛」2023.4.22岡山県笠岡市北木島町)「雛祭り」という行事は、城見保育所の園児の時に知った。保育所の先生が千代紙で作った右大臣・左大臣を教室の壁に貼って、♪今日はうれしいひな祭り・・・を歌ってくれた。だが、それ以外の「ひな祭り」は、茂平にも、城見にもなかった。町の商家や玩具屋では雛飾りがあったり、白酒を飲む家があったのかも知らないが、町に行くことはなかった。女の子の祭で、家には姉がいた。以前、姉に聞くと、飾り・食べ物・祝等、家でも近所の子の家でもまったくなかった、と予想通りの返答があった。強いて言えば、母が手製の「あられ」を食べていたが、それは「雛あられ」ではなくて、普段のおやつとして食べていた。ひな祭りの源流昭和33年3月3日~天声人語~荒垣秀雄ひな祭りは元は流しびなという戸外の行事...「ひな祭り」の食べ物

  • 縄文人の食べるもの

    縄文人の食べ物は、山の幸や海の幸を謳歌していたようだ。広い国土に人口がたったの3万。農耕が始まり人口は推定30万人になったようだ。・・・「日本の風土食探訪市川健夫白水社2003年発行縄文人の食生活木の実が主食だった縄文人縄文人は海辺に住んでいた人びとを除くと食物摂取量の六割までが、野生植物であった。縄文時代における主食は山栗・鬼胡桃・どんぐり(小楢・水楢の実)などの堅果類(ナッツ)であった。このような木の実は、西日本の椎や樫の樹に代表される照葉樹林帯より、東日本のブナ・ミズナラ帯が豊かであった。そこで縄文の大遺跡は青森市の三内丸山遺跡、長野県茅野市の尖石遺跡のように、撫・水楢に代表される東日本の夏緑林地帯に存在している。縄文時代日本列島でもっとも人口が多かったのは、温暖な気候で木の実の生産が多かった縄文中...縄文人の食べるもの

  • はみ(蝮)を食べる

    はみは怖かった。噛まれると死ぬとも言われていた。だが怖いもの見たさに、ハミがいると素通りせずに長い棒切れで叩いて遊んでいた。その頃(小学生の頃)毎年、庭の軒先にハミを棒差しして干していた。よく干したら、父が粉にして煎じて飲んでいた。飲むと力がつくと父は言っていた。後年、実はそれは、祖父の残りものであることを母から聞いて知った。祖父は畑でつかまえたハミを、その場で皮を剥いで血を吸っていたそうだ。血を吸ったハミを父に渡し、父は骨を煎じていたに過ぎなかった。その話を母から聞いて・・・・間もなくして、笠岡湾干拓地の農地でハミに遭遇した。その時、小学4.5年生だった長男と畑にいて見つけた。ハミは塒(とぐろ)を巻いてこっちを見つめていた。長男に、「動かずにハミをじっと見ていて」(←にらみ合うとハミはじっとしている。こ...はみ(蝮)を食べる

  • レンコン

    家の食事に使う材料で、野菜の場合、それは全て自家用で作ったもの。または近所の農家とトリカエで交換したもの。お金を使っての野菜の食材はなかった。それは、ほとんどすべての日本の農家にいえること。ウチに蓮やレンコンはなかった。どこかの農家からもらったのだろう、レンコンは比較的よく食卓にあがった。食べるのは酢レンコンで、揚げたりはなかった。だから、レンコンと言えば酸っぱいものという思いがある。(父の話)レンコンレンコンは植えたことがあるが、ええ白いのが成らんのじゃ。「おきのた」や「ししゅうだ」に植えてみたけど、ドロの質が悪いんじゃ。じゃけいできたやつが茶色なんじゃ。茶色じゃ町の人は嫌うし、売れん。真っ白ぅなりゃあええんじゃが。茂平にゃ土地が悪い。茂平でも「大東田」の真ん中へんでは白いのができる。この辺じゃ、引野に...レンコン

  • 食用油・酢・ソース

    文部省唱歌「おぼろ月夜」は小学生が6年になると、すぐに習う歌。作った人は”文部省”だったが、今は”作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一”に訂正されている。小学生当時に好きな歌だったが、野辺一面に咲く菜の花は見たことが無い。城見地区では、田んぼのゲシに雑草の感じで咲く程度の春の花だった。ただし、季節感のある花だった。(「去り行く笠岡生まれ出ずる笠岡」笠岡路上観察研究会2023年発行)菜種油は、江戸時代には灯油や食用油で使用されたようだが、近代になっても高価だったのか?家庭で油を使った料理はほとんどなかった。調味料は塩・醤油・味噌。油は少々、酢は柑橘類代用、ソースは稀、ケチャップ・マヨネーズ・ドレッシング等は、見たこともなかった。「岡山県史・民族Ⅰ」昭和58年山陽新聞社出版菜種明治末期ごろが最盛期で、以後漸減し昭和...食用油・酢・ソース

  • 水菓子

    管理人は果物作りが盛んな、岡山県小田郡城見村茂平の農家に生まれた。父母は桃を主に、葡萄・枇杷・イチジクを栽培し生計を立てていた。米や麦、野菜類は作ってはいたが、自給用やトリカエ用で、売ることはなかった。学校の教科書で、日本人は明治になって牛肉を食べ始めたと習ったがウチで牛肉を食べることはなかった。食べる肉といえば、ウチではニワトリ、学校給食ではクジラだった。父母が作っていた果物はいったい、茂平で、そして日本で、いつごろから作られ、食べられていたのだろうか。「五穀豊穣」を建国以来の国是としてきた日本では、意外と新しく明治中期の祖父母や曾祖父母の頃から。でもなぜ、リンゴや桃の果物が明治に始まったことをおしえないのだろう?「日本の農業4果物をそだてる」長谷川美典岩崎書店2010年発行果樹の話庭先果樹という言葉も...水菓子

  • 金田一耕助さん

    場所・岡山県倉敷市真備町岡田「大池ふるさと公園」今では金田一耕助さんと言えば、日本全国知らぬ人もいないくらい有名だが、あれは1976年(昭和51年)の角川映画「犬神家の一族」が宣伝費をかけてブームを作ったから。それまでの「金田一さん」と言えば耕助さんでなく、三省堂の国語辞書で有名な金田一「京助」さん。しかも、当時は野球の金田正一(かねやん)投手が活躍していて、「金田一京助」博士は「金田一京助」ではなくて「金田一京助」であると子供たちは信じていた。吉備郡真備町岡田は横溝正史が疎開し、そこで名探偵・金田一耕助さんを執筆した。横溝が疎開した岡田はその後、倉敷市のベッドタウン化して変貌が極まり、同行した妻は、かつて岡田で働いていたのだが、何一つ思い出せなかった。今はかつての面影を探すように「金田一耕助の小路」が整...金田一耕助さん

  • 「野崎家塩業歴史館」を見学する

    場所・岡山県倉敷市児島味野「旧野崎家住宅」行った日・2024.2.15江戸時代に開発された新田では、瀬戸内地方は、”入浜式塩田”と”綿作”が盛んであった。綿作は綿花の輸入自由化で明治30年頃、突然に衰退し、入浜式塩田は流下式化で昭和30年頃、一気に消滅した。岡山県も海辺で東西に塩田が連なっていたが、特に有名なのが江戸時代後期の児島半島の野﨑武左衛門で「塩田王」と呼ばれた。現在旧宅は国の重要文化財で、邸内に「野崎家塩業歴史館」がある。館内に入浜式塩田の製法が展示されてたので、備忘のため記事にした。①沼井堀り毎朝沼井堀りから始まる。この仕事がいちばんきついといわれる。②土振り掘った砂をひろげる。③浜引き砂をかきまぜる。④砂寄せ。写真にも写るが、この仕事は女性が多い。⑤すくい込み集めた砂を沼井に入れる。⑥はなえ...「野崎家塩業歴史館」を見学する

  • 「野崎家のお雛様展」を見る

    場所・岡山県倉敷市児島味野「旧野崎家住宅」行った日・2024.2.1520年ぶりに「野崎家」の見物に訪れたら、雛飾りの展示会をしていた。(国の重要文化財「旧野崎家住宅」蔵の展示室に入ると、大富豪にしかありえないお雛様が並んでいた。山陽新聞2024.2.17華やかな雛人形200点旧野崎家住宅で展示倉敷市児島味野の製塩業で財を成した旧家に伝わる人形や雛道具を集めた「野崎家のお雛様展」が開かれている。気品あふれる「享保雛」など華やかな人形が来場者の目を楽しませている。4月7日まで。明治期を中心とした約200点を展示している。高さ約80センチの享保雛は、野崎家3代目の武吉郎(1848~1925)に旧岡山藩主の池田家から贈られた逸品。京都の名工が手がけたとされる洋装の大礼服をまとった「明治天皇雛」、布で立体感を出し...「野崎家のお雛様展」を見る

  • 西山公のトイレ

    西山公が住む西山荘のトイレは杉が使われていたそうだ。(岡山県井原市・田中苑の「西山公」2023.11.2)杉の葉っぱは、酒屋さんの軒先の杉玉が知られているが、鮮魚やおせち料理でも見る。そしてトイレにも使用された↓が、それは黄門様の西山荘限定だったのだろうか?それとも高位の武家や大店の商家にも普及していたのだろうか?・・・「トイレの考古学」大田区立郷土博物館東京美術平成9年発行スギ植物との関係で忘れられないトイレに、徳川光圀が隠居した西山荘(茨城県常陸太田市)の小使用トイレがあります。ここでは、熨斗(のし)の形をした小便器が部屋の隅に備え付けられています。熨斗の形は上の方が直角になっていますが、この部分が部屋の角に合わせて置いてあるので、便器を跨(また)いで用を足すことになります。そこで、周りに小便が跳ねる...西山公のトイレ

  • 表町の時計台

    場所・岡山市北区表町三丁目撤去工事・2024.2.20~2.23撮影日・2016.8.6岡山の表町(おもてちょう)商店街にある時計台が無くなると夕方のテレビニュースで放送があった。表町には北と南に、二つの時計台があり、今回報道されたのは「南の時計台」。西大寺町と千日前が交わるところ、普段人通りの少ない表町南部の商店街。新しい市民会館の「岡山芸術創造劇場ハレノワ」が2023年9月完成したので、戦前の通りのにぎわいを復興させようと行政が力を入れている地区。他にも市は、路面電車の路線延長を検討している。・・・山陽新聞記事2024.2.10「見守ってくれてありがとう」「ずっと忘れない」。イベントスペースの整備に伴い、撤去が決まった岡山市表町商店街南部の時計台。半世紀以上の歴史に幕を下ろす地域のシンボルに感謝を伝え...表町の時計台

  • 星島二郎

    場所・岡山県倉敷市下津井吹上星島二郎先生は岡山県内有数の大庄屋に生まれ、東京帝大を卒業後法曹界はいり、その後政治家へ転じた。戦前~戦中~戦後、およそ46年間衆議院議員を努めた。その間、昭和17年の”翼賛選挙”を非推薦で当選した。昭和26年の”サンフランシス条約”で、日本の独立に立ち会った。昭和33年に”衆議院議長”に就任した。その風貌は”賢人”そのものだった。「ライシャワーの日本史」エドウィン・O・ライシャワー文芸春秋1986年発行1951年9月8日、平和条約がサンフランシスコで調印された。48ヶ国が対日平和条約に署名したが、日本に隣する二つの大国、中華人民共和国とソ連は、これに参加しなかった。中国に次ぐ多数の人口をかかえるインドもまた、講和会議に欠席した。平和条約によって、日本はこれらの地域の領土権をす...星島二郎

  • 鈴木三重吉文学碑

    場所・広島市中区大手町(元安川左岸)児童文学『赤い鳥』で有名な鈴木三重吉。先生は広島市の原爆ドームの東隣の地(現・エディオン本店の場所)に生まれ、東京帝大を卒業後教育者となり、夏目漱石の門下生として小説も書いていたが、後に児童文学に転向した。銅像は広島県御調(みつぎ)出身の圓鍔勝三さんの作。・・・鈴木三重吉(Wikipedia)鈴木三重吉(すずきみえきち、1882年〈明治15年〉9月29日-1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。・・・児童雑誌「赤い鳥」105年名作を世に業績しのぶ毎日新聞Web2023.7.31児童雑誌「赤い鳥」105年名作を世に業績しのぶ「赤い鳥」は1918年7月創刊。明治期以降の教訓的なおとぎ話とは異なり、芸術的価...鈴木三重吉文学碑

  • 「斎藤のラーメンは汁に指を入れたまま・・・」客に出す

    戦後の笠岡では、”斎藤”といえば、それは中華そばを意味していた。支邦そば、中華そば、ラーメンと40年間ほど笠岡の中央でお店を出していた。昭和が終わる頃、斎藤ラーメンもお店を終い、以後は現在まで笠岡ラーメンの超有名な”伝説の店”となった。「斎藤のラーメンは指を汁に入れたまま・・・」客に出す今から数年前のこと、雑談中に、年齢からみて実食の経験はないであろう方から「斎藤のラーメンはどんぶりの汁に指がはいったままテーブルに置いてたんですよね」という話が出た。そうだった。思い出した。”斎藤”に行くと、いつも、という程ではないが、置く時に、よく汁に指をつっこんでいた。でもそれは、見慣れてきた光景だった。小学校の脱脂粉乳をアルミに注ぐ先生や生徒は、注ぐ方も受け取る方も、指が粉乳に浸かっていた。それは毎日毎日の日常風景だ...「斎藤のラーメンは汁に指を入れたまま・・・」客に出す

  • 笠岡高校、笠岡工業、笠岡商業の倍率

    山陽新聞に岡山県立高校の予想倍率(最終)が載っている。それを見ると笠岡市内の県立三高校のうち、笠高・笠工は大幅に定員割れ。笠商のみ定員以上の受検者がいることになる。笠岡市の住民として非常にさみしさを感じる。新聞記事の理由に「卒業見込み者も減少」していることをあげているが、そもそも定員数が十分減っている。われわれの当時は一校で現在の三校合わせた定員数だった。ということは、現在は定員割れですんでいるが、いずれ三校統合の話も出てくるのだろうな。いよいよさみしい。・・・山陽新聞2024年1月26日金曜日県県版県立全日制高平均競争率1.05倍岡山県教委は25日、今春の県内中学校の卒業見込み者を対象にした進学調査結果(最終10日現在)を発表した。県立全日制高校50校の平均競争率は1.05倍と低下。卒業見込み者も減少に...笠岡高校、笠岡工業、笠岡商業の倍率

  • 新制大学発足

    大日本帝国の崩壊で、用なしとなった師団や聯隊の広大な跡地の多くは新制大学の校地となった。・・・(岡山大学・2018.11.11)・・・「岡山県教育史・続編」岡山県教育委員会昭和49年発行岡山総合大中国総合大学誘致運動昭和22年12月中旬、第1回中央陳情の際、文部省はCIEの示唆のもとに新学制による国立総合大学を全国に十一校設立する意向をもっていることが明らかにされた。それによれば、11校のうち、7校は従来の帝国大学をそのまま移行し、ほかに金沢、熊本と中国、四国に各一枚程度認める模様で、中国では広島、岡山、松江が有力視されているということであった。この結果、従来の岡山総合大学設立運動は、中国総合大学誘致運動へと発展し、六高誘致のときと同様、広島県としのぎをけずることとなった。23年1月、岡山総合大学設立期成...新制大学発足

  • 草戸稲荷の「節分豆まき」

    場所・広島県福山市草戸町「草戸稲荷神社」節分豆まき日時・2024年2月3日11:00~11:15今年の「節分豆まき」は何処の寺社に行こうかと、いろいろ検討した。寒いので温泉と併せ、国宝明王院とも併せ、草戸稲荷に行くことにした。まず、国宝「明王院」にお詣り。次に「草戸稲荷神社」にお詣り。午前11時00分、草戸稲荷の豆まき始まった.午前11時00分、草戸稲荷の豆まき始まった。豆は”雨あられ”に投げまくられた・・・のではなくて、ゆっくりと、じっくりと本日の参拝者の動向を確かめながら、遠くへ、そして真下へと投げられた。普通は数分で終わるが、草戸稲荷の豆まきは15分間だった。境内は”興奮のるつぼ”を、15分間楽しむことできた。この後で、本庄のスーパー銭湯「ゆらら」に寄ってからおうちに帰った。草戸稲荷の「節分豆まき」

  • 新制高校発足

    中等学校の大半が「高等学校」に転換(昇格?)した。(県立学校)男子校だった中学校・商業学校・工業学校・農学校は”男女共学”になった。女子校だった高等女学校も”男女共学”となった。・・・「笠商70年史」笠岡商業高校昭和46年発行新制高等学校への歩み吉岡「私は笠商女子第一期生です。昭和25年の入学で総合制高等学校時代でした。吸江・千鳥校舎をもつ大規模な学校でした。」森山「今まで男子ばかりの学校に女性がはじめてはいったわけですから男子生徒が喜んだ。」吉岡「それはもう物珍しい存在でした。あの桜並木のなだらかな坂道を登りながら、校門にはいるまで恥しい思いで顔があげられなかったのを壊しく思い出します。共学になったと言っても女子は少数で50名くらいでしたから先生や上級生にずいぶんたいせつにされたり、モテたりしたものでし...新制高校発足

  • 新制中学校発足

    明治26年生まれの祖父は、平成4年に98才で亡くなったが、中学校のことを死ぬまで「中学」とは言わなかった。死ぬまで「新中」(しんちゅう)と呼んでいた。祖父にとって中学校とは、分限者とか支配層の子弟に限定された学校であったのだろう。昭和22年に誕生した「新制中学校」は、”初等学校”か”中等学校”かで議論があり衣・食・住、そのすべてが不足した時代に設立された。・・・新制中学校の発足とその悩み中学校発足までの経過昭和22年4月1日施行の学校教育法により、新制中学校が設置された。文部省では、これに先立って同年2月、地方長官あてに「新制度実施準備の案内」を送り、ただちに、新制中学校の設立にとりかかるよう指示した。新制度を円滑に実施するため、市町村部および県単位に、民主的に選ばれた人々によって「新学制実施準備協議会」...新制中学校発足

  • (新教育制度の)小学校発足

    占領下の小学校制度・設置・管理小学校の制度昭和22年3月、「学校教育法」が制定され、これに基づいて新学制が発足した。新学制と小学校新学制は民主主義の理念に基づく教育の機会均等の実現を目指すものであり、小学校は中学校とともに昭和22年4月から発足した。その名称も「国民学校」から明治以来国民から親しまれて来た「小学校」に改称された。小学校の修業年限については、学校教育法で、「小学校の修業年限は6年とする」と規定された。民衆的性格をもって存在した国民学校高等科(二年)を初等教育から切り離して、中等教育段階に編成したことにより、新制の小学校はすべての国民のための共通の基礎課程として性格づけられたのである。「学校の歴史第2巻小学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行・・・「岡山県教育史・続編」岡山県教育委員会昭和...(新教育制度の)小学校発足

  • 小学校再開

    「戦争の中の子どもたち」福山市引野学区まちづくり推進委員会2015年発行小学校の授業は、戦争が終わると再開されることになった。しかし、校舎も机も椅子も焼けてしまった。そのため、学年ごとに分かれた分散授業が、各集落のクラブ(会館)や神社を利用して始められた。教員室は学校に最も近かった不動里のクラブが当てられた。教員は毎朝ここに集まり、打ち合わせの後、各地区の教室に向かった。授業後、再び不動里のクラブに帰り、反省会をやるという日課であった。村にとっても当面する最も重要な課題は、小学校校舎の再建問題であった。村内の有志が農業会の二階に集まり、総会を開き、その課題を話し合った。その結果、村民から起債を募り、それをもって再建しようという意見が大勢であった。たちまち三十万円の起債が集まった。(深安)郡や県からの補助は...小学校再開

  • 学徒動員解除

    戦争が終わったので、戦や空襲で命を落とす恐れは兵も市民もなくなったが、食糧難は、敗戦後さらに悪化していった。・・・〇8月15日終戦全員早退してラジオ玉音をきく。〇2学期より4年生水島動員より解除され、敷紡の友とも一緒になり、授業始まる〇吉田山、西大戸の山と開墾と授業とが半々位。教科書もなくザラ紙の洋半紙に先生が印刷したものを使用す。英語の授業も再び始まる「笠岡高校70年史」「笠岡高校70年史」笠岡高校昭和47年発行・・「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行平時教育体制への復帰戦時下の中等学校では戦時学徒動員が行われ、戦争の末期には学校の授業は停止されていた。学徒動員の解除戦後の教育は戦時下の体制から平時の体制に切り換えることから始められた。文部省および厚生省は昭和20年8...学徒動員解除

  • 韓国 犬肉食 禁止へ

    新聞に韓国の「犬肉食禁止」記事が載った。人類にとって身近な食べ物だったが、急速なペット化で地球上から消滅しつつある。・・・2024年1月10日山陽新聞【ソウル共同】韓国犬肉食禁止へ韓国国会は9日、食用を目的とした犬の飼育や食肉処理、料理の提供などを禁じる法案を可決した。違反者には懲役や罰金を科し、関連業者の廃業と転業を支援する。罰則などは3年間猶予するが、韓国で長く続いてきた犬肉食の習慣は2027年には終わらせる。近年犬をペットとして飼う人が増え、動物愛護の観点から食用に反対する声が強まっていた。韓国では犬肉のスープ「補身湯」が夏のスタミナ料理として知られるが、近年は食べる人が減っているとされる。愛犬家の金建希氏が食用反対を訴えているほか、革新系の保守系の尹錫悦大統領の妻で了文在寅前大統領も動物愛好家とし...韓国犬肉食禁止へ

  • 学徒動員【学徒出陣】

    はるかなる山河に昭和18年秋、戦局の悪化にともなって文科系大学生への徴兵猶予が停止され、全国で臨時徴兵検査が実施された。10月21日、冷雨の明治神宮競技場で出陣学徒の壮行会が行なわれ、数万の角帽・学生服姿の隊列が分列行進した。トラックの上にはねかえる泥のしぶきをうけながら、自分たちの運命をひとりひとり噛みしめるように、誰も黙々と行進するだけであった。東大経済学部の一学生は、その真情を書き遺した。「いよいよ自分も出陣、徴兵猶予の恩典がなくなり、まさに学徒出陣の時は来た。自分は命が惜しい、しかしそれがすべてではないことはもちろんだ。自分の先輩も、またこれから自分も、また自分の後輩も戦いに臨んで死んでいく。いったい死とは何だろうか。大義のための大義なんて何だ。痴者の寝言にすぎない。」かれらはペンを銃にかえ、教師...学徒動員【学徒出陣】

  • 学徒動員(中学校)

    勇しくなければ日本人でなかった、その時代の旧制中学の話。・・・「金光学園百年のあゆみ」金光学園平成6年発行軍事教練の想い出当時中学生の服装は、カーキ色の学生服で、登下校時と教練の時はゲートル(巻脚絆)の着用だった。帽子は今と同じ黒に白線二本、昭和15年入学生は、カーキ色に白線二本のもの昭和16年以降の入学生は国防色のいわゆる戦闘帽を被るようになった。教練の授業は二時間続きで週三回、合計六時間。教練に係る教官の職員室は、運動場に最も近い位置にあって、体育の先生と同室で、「生徒監(せいとかん)」と言い、入室時には「〇年〇組〇〇〇〇、入ってよろしいでありますか?」と蛮声を張りあげ、中から「入ってヨーシー」と教官の許可がなければ入室できなかった。教練の時、一・二先生はも木銃を、三年生は二二式銃を、四五年生が三八銃...学徒動員(中学校)

  • 学徒動員(実業学校)

    工業学校が異状とも思えるほどに加熱した時代が昭和時代に二度あった。一度目は昭和17.18年頃。戦時で軍事関連の”工業”生産優先、その逆に”商い”は不要扱いされた。笠岡商業学校は、笠岡商業工業学校へ転換。福山工業は科を新設。(おじの話)「その時、城見小学校から成績が比較的良い子が4人、福山工業に受けに行ったが、4人ともすべった」そうだ。4人の内の1人は、大きくなって国会議員になり、大臣に数回任命された。二度目は昭和38、39年頃。新産業都市が全国に誕生し、学制が6・3・3・4制度の中に6・3・5の「国立高専」が誕生した。初期高専は、金浦中学校の成績一番でも合格は?状態。その工業ブームの中で笠岡工業高校が誕生し、福山には福山電波高校ができた。・・・「笠商百周年記念誌」笠岡商業高等学校平成14年発行・・・「学校...学徒動員(実業学校)

  • 学徒動員(高等女学校)

    大戦末期、女学校の高学年(4・5年生)は家を離れて工場へ、2・3年生は家から近郊の工場や学校工場へ、1年生は食糧増産、が多いようだ。小学生(小国民)は集団や縁故で、町を離れて疎開した生徒がいるが、中等学校の年齢では、その行為は”非国民”となるのであろう。誰一人いない。(報国隊分列)「笠岡高校70年史」笠岡高校昭和47年発行・・・「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行戦局の激化と学徒動員昭和18年6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、「有事即応」の態勢を確立するため、中等学校3年以上に戦技訓練・特技訓練・防空訓練等の徹底強化を図り、また食糧増産、国防施設の建設、緊要物資の生産、輸送力増強等に学生生徒を動員するものとし。翌昭和19年に入ると戦局は極度に悪化し、政...学徒動員(高等女学校)

  • 学徒動員(青年学校)

    青年学校は戦後まで全国に存在していたが、もはや幻の学校と化している。国が法律で決めた義務教育の学校だったが、戦時で生まれ、戦時が終わると消えていった。今、数少ない卒業生が世を去りつつあり、あと数年もすると、「青年学校」が存在したことさえ消えてしまうだろう。・・・・・・「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行小学校の校門には、高等小学校、実業補習学校、青年訓練所の三つの看板がかかげられ、青年は書類上、高小卒・補習学校後期二年卒のかたちで教練以外の時数を消化し、さらに青年訓練所二年在所によって教練の時数をこなしたと説明されるものもあれば、青年訓練所だけの籍をもって普通学科、職業学科は、補習学校と併せて行うと説明されるものもあるといったように、教育制度体系に混乱の種子を落した。青...学徒動員(青年学校)

  • 学徒動員(国民学校)

    ・・・「岡山県教育史・続編」岡山県教育委員会昭和49年発行軍隊的規律15,16年ごろから児童・生徒は二列縦隊にならび、上級生の引率のもとに通学するようになった。教師に対しては一せいに挙手の礼を行い、職員室に出入りするときは、氏名を名乗り、命令を受けたら必ず復唱していた。女子の学校でも、体育に武道(薙刀)が採用され、体操も教練式で閲兵、分列なども男子と変わらなかった。国民学校も女子に武道(薙刀)を指導するようになり、男女の閲兵、分列行軍演習など、中等学校と変わらないようになった。・・・「学校の歴史第2巻小学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行戦時期の小学校と国民学校昭和13年以降、勤労奉仕作業がひろく行われるようになった。学校内では、学校園、教材園、家畜舎(鶏や兎、豚、牛など)の運営等に教師も児童も一致...学徒動員(国民学校)

  • 国民学校発足

    国民学校発足昭和16.4.1国民学校令施行により,笠岡町男子国民学校・笠岡町女子国民学校と改称。昭和16.9.15粗食訓練をし,麦飯を食べることを奨励。昭和16.12.8米英に対し,宣戦布告の詔書渙発,帝国必勝祈念のため,全児童笠神社へ参拝。「笠岡小百年史」・・・「教育の歴史」横須賀薫河出書房新社2008年発行昭和16年(1941)「国民学校令」が公布され、明治以来広く市民に親しまれてきた小学校の名称が「国民学校」に改められた。国民学校令の第一条に「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とあり、この目的に向かって教育内容も大きく変革していった。国民学校は初等科六年、高等科二年とし、その上に一年の特修科を認めた。初等科の教科は国民科、理数科、体鍊科及び芸能科で改め...国民学校発足

  • 昭和の尋常小学校・その2

    「尋常小学校ものがたり」竹内途夫福武書店1991年発行大きくなったら軍人になろう。そしてせめて金筋一本の下士官になって、恩給がつくまで死に物狂いでがんばろうと心ひそかに思ったものである。軍隊には夢があった。食うこと、着ること、住むことの心配がないだけでなく、金持ちも貧乏人もなかったし、大学出も尋常出も一緒だった。初めは二等兵でも、一年たてば一等兵になれたし、成績次第では上等兵だって夢ではなかった。再役を志願して下士官にでもなれば、もうしめたもので、苦しても百姓の辛さに比べたら、どんなことでも辛抱できると思った。伍長、軍曹と進んで、曹長になればどえらい出世だ。師範学校師範学校で教育を受ける生徒には、不況の当時にあってはどれをとっても垂涎の的ともいえる、いくつかの特典があった。それは学資の支給、教員免許状の附...昭和の尋常小学校・その2

  • 昭和の尋常小学校

    (笠岡市立大井小学校100周年記念誌)・・・・・・・・・・・・・・奉安殿「尋常小学校ものがたり」竹内途夫福武書店1991年発行白砂青松の中の奉安殿天皇陛下と皇后陛下の御真影を奉安する建物を、奉安殿と呼んでいた。運動場の東側に隣接した水田を埋めたてた敷地に、建坪三坪ぐらいの鉄筋コンクリート造りで建てられ、その頃では珍しかった手動式の鉄のレャッターがついたモダンなものだった。この奉安殿は村の部落の酒造家が、千円という大金を投じて建立寄贈したものと聞かされていた。敷地は、周囲に土塁を巡らし、土塁の上には榊に似た木の生垣が設けてあった。内庭には石英の白砂が一面に敷き詰められ、植え込みの黒松の翠がこれに映えて、運動場の賑わいをよそに、森厳幽寂とまではいかなくても、いかに神々しい別世界を作っていた。ふだんはこの聖域に...昭和の尋常小学校

  • 結核で死ぬ

    母はたまに女学校時代の同級生で、自分よりも頭も容姿も良い人が、何人も「結核で若い時に死んでしまった」と、ぽろりと話すことがあった。気の毒なという意味と、美人でなくてもよいことがある、と思っていたのかもしれない。それは自分への慰めだけでなく、美人は早く死ぬと信じていたようにも感じた。しかし実際は、容姿に関係なく”不治の病”で若くして、男性も女性も死んでいった。・・・「尋常小学校ものがたり」竹内途夫福武書店1991年発行「ハイビョウ」を恐れる子供たち都会に出ていった少年少女たちは、中途で胸を結核に冒される者が多かった。その頃の奉公人は、いったん発病したら最後、すぐ解雇されて親元に帰されるのがおちだった。今のように、雇い主が役に立たなくなった病人を、長いこと面倒を見てくれる時代ではなかった。いわゆる社会保障や福...結核で死ぬ

  • 実業学校

    昭和の初期、父の4人兄弟の学歴。①父(農家の長男)尋常小→神辺実業学校②おじ(農家の次男)尋常小→福山工業学校③おば(農家の長女)尋常高等小学校→増川高等女学校④おじ(農家の三男)尋常小→笠岡商業学校管理人が城見小学生の時、家族の調査表に親の学歴の欄があり、「高小」「神辺実業」が多かった。「笠岡商業」は稀、田舎では笠商は最高学歴の感じで、ほとんどが「高小」卒または「神辺」卒だった。おばは高等小学校を卒業しているが、「(笠岡)女学校に行きたかったが、おばあさん(母親)が行かしてくれなんだ。高小の時に、行ってもいいと言われたが、同級生に遅れて入るのは抵抗があり(県外の)増川に行った。」と話していた。増川には3年生で入学となる。(相撲部・昭和5年「創立90周年記念誌」笠岡商業高等学校平成3年発行・・・「学校の歴...実業学校

  • 日本一早い豆まき【福まき】に行く 2024.1.7

    場所・広島県福山市丸之内日時・2024年1月7日日本一早いのか、どうかは不明だが自称「日本一早い豆まき」に”福”を求めて行った。今年は蜜を避けて、1回の定員600名で、3.000名定員の10:30、11:30、12:30、13:30、15:00と5回の豆まきがあった。会場の福山城には10時前に着いたが既に2回目の券になっていたので参加せず、「とんど」の見物を楽しんでから去った。日本一早い豆まき【福まき】に行く2024.1.7

  • 「田舎のバス」

    城見小学生の時、学校帰りにバスを見ると「田舎のバス」をみんなで歌った。田舎のバスは、ほんとに・・・オンボロぐるまだった。ほんとに・・・タイヤはツギだらけだと思った。ほんとに・・・窓は閉まらない。これは汽車もそう。ほんとに・・・デコボコ道をほんとに・・・ガタゴト走っていた。・・・「田舎のバス」〽田舎のバスはオンボロぐるまタイヤはツギだらけ窓は閉まらないそれでもお客さん我慢をしてるよそれはわたしが美人だかあら田舎のバスはオンボロぐるまデコボコ道をガタゴト走る「皆さま、毎度ご乗車くださいまして有難うございす。早速ですが、只今から乗車券のお切らせを願います。アンレマしょうがねー牛だなー・・・」田舎のバスはオンボロぐるまデコボコ道をガタゴト走る・・・城見を走るバスは東西に、笠岡駅前⇔福山駅前、の路線だった。用之江と...「田舎のバス」

  • 「女学校と女学生」女学生文化

    ”皇国の処女””良妻賢母”など、高等女学校の指針は片ぐるしさを感じるが、進学を前提としない学校生活は、自由な勉強や青春があったようにも思える。・・・「女学校と女学生」稲垣恭子中公文庫2007年発行高等女学校高等女学校は、1899(明治32)年の高等女学校令によって、男子の旧制中学校に対応する形で、「女子須要(しゅよう)ナル高等普通教育」を行なう中等教育機関として制度化された学校である。「国語」や「外国語」、「歴史」「数学」などの一般教育科目に「家事」「裁縫」等女子特有の科目を加えたカリキュラムが設定され、女学生はそこで尋常小学校を卒業してから三~五年の間を過ごしたのである。・・1899(明治32)年には、女子の尋常小学校への就学率がまだ60パーセントほどであったが、高等女学校令によって各道府県に最低一校の...「女学校と女学生」女学生文化

  • 母の学歴

    女学校には制服があった。制服を着て通学していた。靴も今の運動靴と同じようなのじゃった。小学校の服装?・・・・なにゅう着ていっとったんじゃろう。おもいだせん。おばあさんが雨の日に織ってくりょうた。それを着ていっとった。卒業式の時町長と医者の子が洋服を着て来た(母の話)2001年1月2日(元・義之尋常高等小学校現・井原市立西江原小学校写真・2022.3.30)・・・西江原の小学校は城見より大きく二クラスあった。同級生は100人ちょっといた。クラスは女性だけのクラス、でそれが6年間ずっといっしょだった。(男女別のクラスだった)青い目のお人形昭和初期、有名な「青い目をしたお人形」がアメリカから日本の小学校に送られてきているが西江原小学校にも、それはあったのか?知らん。みたことは無い。2001年1月2日・・・昭和2...母の学歴

  • 父の学歴

    学校には藁草履に皮を張っていた。草履は自家製、皮を張るのも自家製。皮は竹の皮で、ゴム草履などは想像もできない。家では藁ぞうりをはいとった。着物は文字どうり着物。洋服ではない。男は帽子をかぶり、女はない。一年時は着物で二年から洋服を着ていった。三年になってもきてくるのはおったが。女は着物のままが多い。遠足遠足はバス・汽車というのはなかった。すべてあるいていって、歩いて帰ってくる。修学旅行?そんなもんはない。行き先は茂平のさらやま、吉浜の天神さん、笠岡の城山など。(父の話)2000年06月14日(大正12年頃の父)・・・・・・・・・・・・・・・・・大正13年城見尋常高等小学校1年大正14年城見尋常高等小学校2年大正15年城見尋常高等小学校3年昭和2年城見尋常高等小学校4年昭和3年城見尋常高等小学校5年昭和4年...父の学歴

  • 中学校への進学

    戦前は東京や大阪を除いて、ほとんどが農山漁村でしかも、その長男となれば親の職を継ぐのが生まれた時からほぼ決まっていた。中学校へは立志者や金持ちに限られ、しかも男性限定。城見村では、城見小学校から毎年2~3人の中学進学者がいたようだ。その進学先は福山中(ふくちゅう・誠之館)または金光中学(こんちゅう)。地域の県立中学校だった矢掛中学や、距離的に近い興譲館には進学してない。これは大門駅から通えるのは福山中と金光中しかなかったからだろう。城見小学校から中学校へ進学した人は、その多くの人が目指すのは海兵・陸士、師範学校。高等学校は次に大学という前提なので、貧しい城見村の親ではいかすことができなかった。・・・元・福山中学「広島県福山誠之館高等学校第八回卒業記念昭和三十一年三月」・・・岡山中学難関を突破して入学した生...中学校への進学

  • 第六高等学校

    「一高→東大」というのが長く日本の超エリート指導者層だったが、年月を経て「いっこうとうだい」という言葉も、最近は聞かなくなった。旧制第六高等学校が、1900年(明治33年)3月に岡山県岡山市に設立された。略称は「六高」(ろっこう)。戦前の岡山県民の誇りの学校が「六高」と「岡山医大」。(撮影日・2013年10月14日岡山駅前)六高生は大変なエリートで、肩で風を切るのは当たり前。富士製鉄の社長だった永野重雄さんは、柔道部員で警官を旭川に投げ込んだことを自慢していた。それは六高生にとっては岡山市では、大目に見てもらえる範囲の行動だった。・・・第六高等学校の設置明治31年12月第十三回帝国議会で高等学校増設の声がおこった。当時高等学校は、第一高等学校(東京)二高(仙台)三高(京都)四高(金沢)五高(熊本)のほかに...第六高等学校

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