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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 満蒙開拓団 満蒙開拓青少年義勇軍

    「団塊の世代」と呼ばれるのは戦後のベビーブームで、昭和22~24年頃に生まれた世代。「軍国少年」「軍国少女」と呼ばれる世代は、たぶん、昭和ヒトケタ生まれだろう。学校にあがる頃、急に日本は神の国になった。世界に一つの神の国、強い国、世界三大大国、と学校で教えられて育った。初期の軍国少年は、進学先に海兵・陸士を目指し、中期・後期の軍国少年は、卒業待たず学校の途中で予科練や陸軍幼年学校を受験した。後期の軍国少年で、小学校を出て働いていた少年が”義勇軍”に誘われた。小学校を卒業し、地元で農業しながら青年学校に通う青年が勧誘の標的にされた。勧誘の言葉は、”五族協和””王道楽土””東洋平和”。学校出たばかりの貧しい農民である青年にとって、先生や村長さんから甘い言葉で大義名分で勧められると、皇国民として、その気になるの...満蒙開拓団満蒙開拓青少年義勇軍

  • 満蒙開拓団 分村移民

    大正時代に農家の長男に生まれたので、人生は決められたように農業いっぽんだった父には、たまに口癖的に話す言葉があった。「国が作れいゆうて作ったもんで、儲かったもんは何んもねえ」両親が手掛けたが、僅かの期間で止めた豚・ひつじ・養鶏・ミカンなどが代表と思える。だが、それは儲からないだけで済んだ。いちばん悲惨なのは、「国が行ってくれい」と言われて、行った先が満州だった農家の人。行って長くて数年、短くて数ヶ月で、昭和20年8月9日の未明、国から”棄民”となってしまった。棄民の状態になってからの、本土帰還までの絶望的な、生と死の日々は多くの人々によって語られ、伝えられているが、結果的に棄民の基になった勧誘者の言葉が聞こえない。県知事、村長、先生、議員等・・・仕事に忠実だったといえばいえるが、現地の情報を知らさず語らず...満蒙開拓団分村移民

  • 満洲国建国と「試験的移民期」

    「満蒙開拓団」は、農民家族ごと移民する「分村移民」と、未成人・青年による「青少年義勇軍」がある。時期的には、昭和11年までを「試験的移民期」で、昭和12年以後の「20ヶ年100万戸移住」移民がある。移民の勧誘は、国からのノルマ数があり、達成に苦慮したようだ。日米開戦後は「分村移民」と「義勇軍」とは同じ移民扱いに統一される。移民は終戦の年までつづいたが、ソ連の侵攻後は逆に国から棄てられ、さまざまな苦難と悲劇が生じた。・・・・・・・・「在郷軍人会」藤井忠俊岩波書店2009年発行満洲国建国つぎの大きなエポックは、またも突如として日本と中国の秩序関係をくずした「満洲国」の建国、すなわち中国からの分離である。日本陸軍が満洲の領有計画を修正したものの分離独立を強引にすすめた結果であった。その建国式典は1932(昭和7...満洲国建国と「試験的移民期」

  • 満州事変と爆弾三勇士

    36人が各3人1組となってで導火線の点いた爆弾かついで敵の鉄条網へ向かった。ところが、そのうちの1組が途中でこけた。それを見た隊長は、「戻るな!」と命令。それで戻れず3人は爆死した。その二日後の新聞記事。隊長「国の為に死んでくれ」隊員「皇軍万歳」と叫びつつ3人は壮烈無比なる戦死を遂げた。新聞と同時に国民は熱狂した。新聞、ラジオ、芝居、銅像、歌、玩具、雑誌、映画に、軍神であり英雄であり知らぬ人のない著名人となった。子どもたちは”三勇士ごっこ”で遊び、運動会では”三勇士競争”。・・・三人で爆弾をかかえた勇士のことは、(我が家では)戦後もつづいた。母はよほど感動していたのか、小学生である管理人に何度も同じ話を聞かせてくれた。・・・(Wikipedia)・・・「在郷軍人会」藤井忠俊岩波書店2009年発行爆弾三勇士...満州事変と爆弾三勇士

  • 昭和6年満州事変起こる、昭和7年上海事変起こる

    昭和の初期、「不景気」「娘の身売り」など社会不安の中、「満州事変」は起こり、海軍は陸軍に遅れずと「上海事変」を起こした。戦勝の報道に、国民は興奮し旗行列・提灯行列で迎合した。以後は一貫して太平洋戦争へと戦争の一本道。”15年戦争”の始まりであった。・・・「教養人の日本史・5」現代教養文庫社会思想社昭和42年発行満州事変起こる「(昭和6年9月)18日の夜は降るような星空であった。河本は自らレールに小型爆薬を装置して点火した。時刻は10時過ぎ、轟然たる爆発音と共に切断されたレールと枕木が飛散した。こうして柳条溝事件にはじまる「十五年戦争」の幕は落とされた。・・・「落日燃ゆ」城山三郎新潮社昭和49年発行関東軍の独走ぶりに、政府はもちろん、西園寺公爵あたりも、「実に今日は困った状態になった」「実に困った実情である...昭和6年満州事変起こる、昭和7年上海事変起こる

  • 不要作物の作付制限

    古来より日本人は五穀を食べてきたが、明治維新後洋風化が進み、肉や野菜や果物も食べるようになった。ところが日中戦争の勃発後より食糧が不足してきた。国家総動員法等により、農家に作物制限が行われた。農家は”食糧生産物”のみ耕作して、それ以外は作付けしてはいけないことになった。作っていいものは、稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆。果物も、養蚕も、野菜も、家の自給以外は作れないようになった。不思議に思うことがある。果物農家が、国から「果物」作りを禁止されると死活問題となるが父母も、祖父母も、隣近所のおじさん・おばさんも、その事についての話すのを耳にしたことがない。何故だろう?昭和14年~20年頃、管理人の家で耕作していたと思えるうち、主要なものは、(太字は作付け統制や禁止)米・麦・黍除虫菊・薄荷梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄...不要作物の作付制限

  • 「平家物語」厳島御幸 (広島県宮島)

    高倉天皇は後白河天皇の第7皇子で、8歳で高倉天皇となり、20歳で天皇退位。上皇となった。21歳、高倉上皇は崩御した。実父(後白河法皇)や義父(清盛)が命じるような感じで天皇になり、そして退位した。宮島訪問は、高倉上皇の短い人生の最期の表舞台となった。・・・旅の場所・広島県廿日市市宮島町旅の日・2023年6月10日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」古川日出男河出書房新社2016年発行・・・厳島御幸---三歳の新帝誕生治承四年正月一日。鳥羽殿には参賀に参る人がありません。入道相国が朝臣の参賀を許さず、後白河法皇もまた気兼ねなさっていたからです。二月二十一日。高倉天皇はべつにこれといったご病気でもいらっしゃらなかったのに無理にご退位させ申して、春宮が皇位を継がれたのでした。もちろん入道相国の、「すべ...「平家物語」厳島御幸(広島県宮島)

  • 「平家物語」富士川の戦い (静岡県富士川)

    斎藤実盛(さねもり)といえば、岡山県では「実盛さま」と呼ばれ、田んぼの虫送り行事で知られる。奥の細道では、芭蕉の句も有名。【むざんやな甲の下のきりぎりす】元はと言えば、斎藤実盛は平家物語に多く登場する。富士川の戦いでも、主役をつとめていると言っていい。・・・旅の場所・静岡県富士川旅の日・2022年7月9日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」長野常一現代教養文庫1969年発行・・・富士川その日の暮れ方、平家の陣の前を、急ぎ足で西の方へ行く下男の男があった。怪しいと見て、平家の兵はこの男を捕え、侍大将忠清の前へひっ立てて来た。すぐに尋問がはじまる。「そちはどこの何者か。」「はい、常陸(今の茨城県)の源氏、佐竹太郎殿の下男でございます。」「して、どこへ行く。」「はい、都へ参ります。」「時に、そちは鎌倉...「平家物語」富士川の戦い(静岡県富士川)

  • 風林火山 (長野県川中島)

    第二次世界大戦中、皇居や大本営や政府機関を、東京から日本本土の中央部分に移転することが決まった。その工事は完成をみないうちに終戦となった。今は一部が「松代大本営跡象山地下壕」として一般公開されている。信玄と謙信の川中島の戦いの場所は、その「松代大本営跡」と数キロと離れていない。つまり、信玄と謙信の両雄は、日本の中央部分で華々しく戦ったともいえ、戦国時代を代表する合戦として現在まで語り継がれている。・・・旅の場所・長野県長野市小島田町「川中島古戦場」旅の日・2014年7月19日書名・風林火山著者・井上靖発行・新潮社2006年発行・・・信玄の本隊一万は予定通り十八日に古府を出発すると、二十日に大門峠を越え、南信の部隊三千を加え、二十一日に腰越に到着、その夜は上田に宿営した。海津城からの急便は次々に到着した。謙...風林火山(長野県川中島)

  • 昭和13年「国家総動員法」兵隊さんのおかげです

    昭和12年7月、日中戦争勃発。昭和12年11月、大本営が設立。昭和13年4月、国家総動員法が成立。議会の承認なしで、人も経済も物資も調達が可能になった。内閣は軍部の代行機関ともいえる存在になった。・・・・「ニイタカヤマノボレ1208」和歌森太郎他岩崎書店1995年発行昭和13年「国家総動員法」♪兵隊さんのおかげです〽兵隊さんよありがとう兵隊さんよありがとう1938年(昭和13年)の4月に、すべてを戦争のためにさしだすことをきめた「国家総動員法」がでてから、国民の生活をしばる法律や規則がたくさんできました。中国との戦争が長びき、はたらきてと物資が、どんどん戦争につかわれていたからでした。まず、綿製品をつくったり売ったりすることが制限されました。もめんのかわりに人造せんいのステーブル=ファイバーが「代用品」と...昭和13年「国家総動員法」兵隊さんのおかげです

  • 昭和12年【国民精神総動員運動】が始まる

    昭和6年(1931)の満州事変で、戦時心理が国民に植え付けられ、昭和12年(1937)の盧溝橋事件で、”国民精神総動員”となり、以後昭和20年まで戦時体制がつづいていった。・・・「福山市史下巻」福山市史編纂会昭和53年発行国民精神総動員運動日中戦争開始後、近衛内閣が起こした戦争協力の教化運動として有名な国民精神総動員運動は、県下では昭和12年(1937)10月13日からの第一回国民精神総動員運動週間でスタートを切った。そして、その後さままざな強調週間が設定され、「一億の心に染めよ日章旗」などという標語を選定するなど、多彩な行事が繰りひろげられた。この運動は、「学校生徒児童勿論、男女青年団員、婦人会員、其他一般民衆」を対象とし、市町村長・学校長・青年団長・婦人会長を推進者として、思想面だけでなく、衣食住に至...昭和12年【国民精神総動員運動】が始まる

  • 兵の見送りと帰還

    岡山県小田郡城見村の場合は、城見小学校で村民あげて”ばんざーい”。小学校から村境(岡山県城見村・広島県大津野村)まで祝出征の行列。濃い親族のみ、そのまま大門駅まで送っていく。帰還兵の時は、出迎えもなく、儀式もなく、静かに自宅へ帰っていた。・・・・「在郷軍人会」藤井忠俊岩波書店2009年発行日中戦争における出征歓送には専門集団が出現した。国防婦人会である。その組織は、いわゆる“非常時の時代に軍隊支援ボランティアとしてつくられた。日中戦争を意識したほどではないが、出征、帰還等軍隊移動の歓送迎、奉仕のために駅と港に出動することが多かった。それは、ことさら意味が深く考えられるわけでもなく、歓送される軍側からは、その世話を兵士が喜ぶという意味で歓迎された。逆に主体となった主婦層からは、社会奉仕のために家から出る機会...兵の見送りと帰還

  • 徐州戦争「麦と兵隊」

    徐州戦争には日本軍約200.000、中国軍400.000~500.000が参加したと言われる。従軍した日本兵は〽行けど進めど麦また麦の・・・の大平原を幾日も歩きつづけた。「麦畑は何処まで行っても尽きない。岩と岩の間をも限なく開墾して麦畑を作り。間に高粱や芋や葫などを植えている。山の絶頂にこちらを見ている人影がある。望遠鏡で見ると土民である。」作者・火野葦平は徐州戦争従軍中に、現地で小林秀雄さんから”芥川賞”を渡されている。その芥川賞作家でさえ、「麦と兵隊」で中国人を土民と表現している。後世の民としてはすこしつらい。(侵略戦争事態もそうだが)当時少年たちに人気の「のらくろ」では、兵隊になったのらくろが南洋に出兵し、現地人を「蛮公」「蛮人」と呼んでいる。1930年代の日本人は、国民全体が普通に異常の様相だ。・...徐州戦争「麦と兵隊」

  • 南京占領

    父が所属する部隊が漢口を占領し、日本国内では”武漢三鎮陥落祝賀”の旗行列や提灯行列が行われた。その一ヶ月後、上海から上陸した部隊は首都・南京を占領した。この時も、日本中で祝賀の行列が行われた。この戦で、中国江南地帯に発達しているクリークでの戦線に苦慮した日本兵は、南京へ入城後、開放感から軍規が乱れ、多くの子女を殺害したとされる。この情報は世界中へ流され、日本国民だけが知らなかった。戦後になって知り、指揮官は東京裁判で死刑になった。・・・・「昭和史4・大陸の戦火」平成7年研秀出版戦勝にわく国内南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝気分の美酒に酔った。浮かれたのである。陥落発表は12月13日だった。しかし国民は待ちきれなかった。新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。・・・・全国民は今か今かと「陥落」の二字に...南京占領

  • 生きている兵隊② 「生きている兵隊」事件

    昭和13年著作の、石川達三の「生きてゐる兵隊」は、軍の検閲にかかるのは氏も確信していたことだろう。それでも書いたのは、それは作家として氏の矜持であったように思える。大きな権力の前に、自己の保身を微塵だに感じさせない作品。”東洋平和のために戦う正義の皇軍”と、国内が統一世論の時代に発表された稀有な本。・・・「在郷軍人会」藤井忠俊岩波書店2009年発行戦場の軍紀戦場における徴発その時食糧の補給が続かない時に日本軍はえてして末端の小部隊、時には分隊単位に食糧の調達をさせていたことが知られる。その時の調達は「微発」という用語で語られ、伝えられた。そしてほとんどは強制を伴った行為であった。この行為を軍紀違反にしたかどうかの確固とした事例が見出せない。これは軍上層部でも十分に意識されていないようである。ここで無名の兵...生きている兵隊②「生きている兵隊」事件

  • 生きている兵隊 (中国・無錫市)

    日中戦争に参加派遣された作家は多い。応召兵として実戦参加の火野葦平。中央公論の派遣記者、石川達三。内閣の「ペン部隊」だった、菊池寛・吉川英治・尾崎士郎ほか20人。なかでも林芙美子は、「漢口(武漢市)一番乗り」で有名。火野葦平の「麦と兵隊」は、父の体験談とほぼ同じ。読みながら父を思う。石川達三は、その時見たこと聞いたことを小説にしていて、現実のように思わす。林芙美子さんはあおったり、美化した。戦後批判されたが、それは当然だろう。・・・旅の場所・中国・無錫旅の日・2016年3月11日書名・「生きている兵隊」著者・石川達三発行・日本現代文学全集35講談社昭和44年発行(初本は昭和13年)・・・・・その夜のうちに友軍は、三方の城門を突破して城内になだれ込んだ。城門の上に立てられた日章旗は雨にぬれてびたびたと鳴った...生きている兵隊(中国・無錫市)

  • 日中戦争 「弱いシナ」と「暴支膺懲」

    日中戦争の発生原因を調べても、どうもその理由がよくわからない。なんとなく始まった”事変”であり、終わりのない”戦争”だった。開戦理由を強いて言えば、”日本軍の面目”と、”暴支膺懲”、この二つにいきつくように思う。どちらも日本人・日本軍が、中国に対する優越感と蔑視から来るもので、今からみると、歴史上の日本の汚点。亡き父は、「日本は中国で悪いことをしてきただけじゃあない」と言っていたが、その言葉から悪いことをしていた意識はあったようだ。父がいう、良いこととは、日本軍が道路を造ったことで、もちろん中国の為に建設したのではなく、日本軍のため。道路は持って日本には帰れない。・・・「岡山県史第12巻近代」岡山県平成元年発行日中戦争と郷土部隊盧溝橋での銃声に始まる事件は、事前の謀略によって引き起こされたものではなく、い...日中戦争「弱いシナ」と「暴支膺懲」

  • 昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件

    日本国家と国民が戦争体制となった”盧溝橋事件”。ライシャワー博士は「第二次世界大戦の発端」と書かれているが、西洋史中心の世界史が将来、五大陸化されると、1937(昭和12)年7月7日が「第二次世界大戦の開始日」になるかもしれない。・・・「ライシャワーの日本史」文芸春秋社1986年発行第二次世界大戦第二次世界大戦は、その発端は1937年の日中の衝突にある。日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思い込みがあった。日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。・・・「太平洋戦争」世界文化社昭和42年発行昭和12年(1937)7月7日、日本...昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件

  • 花と龍  (福岡県若松港)

    著者・火野葦平は、本名・玉井勝則さんで、この本に「勝則」として登場する。父の名は玉井金五郎氏で、本名で登場し、小説の主人公。小説には人も会社も、ほぼ実名で書かれていて、若松港の生の歴史を見るようだ。洞海湾は製鉄、石炭が集約する日本を代表する繁栄地だった。主人公の金五郎は沖仲士の労働条件向上に義侠心をもって闘った。そんな父のことを火野葦平は書き残し、伝えたかったのだろう。小説には親族で、アフガニスタンで亡くなられた故・中村哲氏家族も登場している。中村さんにも洞海湾の金五郎と同じ血が流れているのだろう。・・・旅の場所・福岡県北九州市若松区旅の日・2015年2月20日書名・花と龍著者・火野葦平発行・岩波文庫2006年発行・・・その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、「実二、実二、腹が立ツ...花と龍 (福岡県若松港)

  • 新札発行 2024.7.3

    生活費(固定費)は、ほぼ銀行の自動引き落としで払っている。ネット通販は、ビザカードで銀行引き落としで払っている。問題は、町で買い物や食事をする時。現金とペイペイとICOCAの三つを使い分けている。これがめんどくさい。できればペイペイ(またはスマホ)一本で済ませたい。財布を持つて歩くのもめんどくさい。今日から新札が流通する。新札が出ると、あっという間に旧札は見なくなるので、あるうちに写真で写して記録しておこう。・・・旧札(204.7.2まで発行)(管理人手持ちのお札)上の写真は、↑1.000円札、5.000円札、10.000円札を重ねた写真で、縦は同じ、横は1.000円札より5.000円札が長く、5.000円札より1.000円札が長い)裏面・・・新札(2024.7.3から新規発行)(政府広報オンラインのお札...新札発行2024.7.3

  • 「国史」神武天皇 (岡山県笠岡市)

    笠岡諸島の高島は、映画「釣りバカ日誌」で浜ちゃん・スーさんのロケ地になったほどに、瀬戸内海に浮かぶきれな小島。本土からは料金180円での8分間の船旅で到着する。かつては石材産業が盛んで、今は漁業やリゾート・ペンションが人気の島。高島が一番沸いたのは、皇紀2600年記念祝賀の前。初代天皇が数年間滞在した”高島”で注目された。騒ぎは一瞬で終わり、敗戦によって更に忘れ去られた。・・・旅の場所・岡山県笠岡市高島旅の日・2020年11月30日書名・国定教科書「尋常小学国史上巻」著者・文部省発行・1934~1940資料・「ニイタカヤマノボレ1208」岩崎書店1995年発行・・・・・「尋常小学国史上巻」(小学校五年用)第二神武天皇瓊瓊杵尊から神武天皇の御時にいたるまでは、御代々、日向においでになって、わが国を治めになっ...「国史」神武天皇(岡山県笠岡市)

  • 「国史」天照大神 (岡山県備中神楽)

    戦前の小学生でも、神話をほんとの話とは思っていない、ただ先生の授業を黙って聞いていたのだろう。たぶん、そのことに触れるのはタブー。疑問を感じないことにする。先生も質問を受けない・答えない。おしえる方も、ほんのいくらか抵抗があったことだろう。でも信じていた人がいたかもしれない。今でも皇紀を信じる人がいるから。そういう人たちは「天皇陛下のご先祖は天照大臣(女性)である」ことは、まさか知らないはないだろうな。(画像はすべて素戔鳴尊です)・・・旅の場所・岡山県笠岡市甲弩”備中神楽”旅の日・2023年10月15日書名・国定教科書「尋常小学国史上巻」著者・文部省発行・1934~1940資料・「ニイタカヤマノボレ1208」岩崎書店1995年発行・・・「尋常小学国史上巻」(小学校五年用)第一天照大神天皇陛下の御先祖を、天...「国史」天照大神(岡山県備中神楽)

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