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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 昆虫を食べる

    昆虫を食べたことはないが、年上の人は戦時中にバッタを「捕っていた」というようなことを言っていた。母の話だと、茂平は農村なのでバッタを食べるほどの食糧難ではなかった。飢えて食べたのか、害虫を取るのが子供の努めだったのか、学校か役場に供出したのかは不明。下記↓に出ているうち、タニシは美味かった。カエルのうち食用ガエルは飛び切り美味かった。いまでも、その美味を思い出すほど美味かった。「日本の風土食探訪市川健夫白水社2003年発行動物性食品としての昆虫現代日本人の多くは昆虫食と聞くだけで、「悪食」とか、「如何物」だと思っている。しかしかつて虫は貴重な動物性蛋白源であった。世界的にみても、東南アジアの山岳地帯、メラネシアのニューギニア、アフリカなど焼畑耕作を営む発展途上国では、昆虫が常食になっている。特に焼畑耕作の...昆虫を食べる

  • 間食・副食

    間食と副食の区分がよくわからないが、主食の補助としてみるとイモ、それも「ふかし芋」がまっさきに思い浮かぶ。「ふかし芋」はいつも戸棚にあったので、つまんで食べていた。たまに「おやき」をした。「はったい粉」も粉に水か湯をいれて簡単にでき、よく食べていたが、甘みがなくサッカリンをいれた。稀に砂糖をいれた「はったい粉」は、それはそれは美味かった。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行間食店で売っているお菓子といえば、煎餅やこんぺい糖飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。一般的なおやつは、大豆やソラ豆をコウラ(ほうろく)で煎ったもの、氷餅を焼いたり、あられを煎ったものであった。氷餅は正月餅と一緒にまたは寒の内に餅を搗き、のし餅に...間食・副食

  • "千鳥”大悟の生まれた北木島の丸岩に行く

    行った日・2024年3月30日行った所・岡山県笠岡市北木島町東京から長男が帰省している。会話にお笑い芸人”千鳥”のことが出たので、千鳥・大悟の生まれた丸岩に親子で行ってみることにした。北木島港に向かう、三洋汽船。北木島港から丸岩に向かう。外浅海(そとあざみ)の海岸。ここが丸岩。千鳥・大悟の生まれ育った海辺の村。(丸岩)正面に千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木小学校。(現在は統合して使用されていない)(大浦)千鳥・大悟が卒業した、笠岡市立北木中学校。残念ながら2~3年前に廃校になった。(大浦)北木島を代表する産業だった石材業。丁場と丁場湖が点在して残る。”石の島”として日本遺産に認定されている。(千ノ浜)今日は、風もない穏やかな天気の一日だった。少し期待していた、桜の開花は、本土よりも遅かった。それにしても..."千鳥”大悟の生まれた北木島の丸岩に行く

  • 柿を食べる

    秋に実が成るのに、なんで「冬柿」というのだろう?と不思議に思っていたが、それは「冬柿」ではなくて「富有柿(ふゆうがき)」だった。非常に残念ながら、家に富有柿の木は無かった。田舎の自給生活の村は、野菜や果物は、”トリカエ”で日常生活が成り立っていた。それで、近所の柿農家から富有柿がウチにくるのだが、それを待つのが苦しいくらい、もらった時はうれしかった。家に「渋柿」はあった。大きな西条柿の木が一本あった。竹の竿で枝を折って収穫し、皮をむいで、吊るし柿にしていた。吊るし柿は、冬になると白い砂糖がふきでるが、それを待てなかった。吊るして日が経つと渋みが消えて、甘くなった。毎年、吊るした縄から何個かを食べた。あの甘い西条柿はほんとに美味かった。(岡山県小田郡矢掛町小田・山ノ上2017.12.17)「江戸の食生活」原...柿を食べる

  • 嫁菓子をもらう

    「嫁どりがある」それを聞けば、茂平の子どもたちの心は踊った。【嫁菓子】嫁菓子が楽しみじゃった。ただでお菓子をもらえるから。(おじさん=父の弟の嫁どり=昭和31年)嫁どりは大きな娯楽だった。【嫁どり】嫁どりがあると言えば、楽しみなのは、①「嫁菓子」をもらえる、②「花嫁」を見れる。③「嫁入り道具」が見れる。①一番の楽しみは「嫁菓子」。嫁菓子は紙袋に2~3箱のお菓子が入っている。茂平の子どもは、お菓子を食べることはめったにない。②花嫁を見れる。頭にカツラを乗せ、白塗りで、しかも下を向いて歩く花嫁の顔は、皆同じ。しかし、「花嫁衣裳」の女性を見る。普段、農夫しか見ない茂平の子供にとっては大きな娯楽だった。③「嫁入り道具」を見る。これは正直、関心はなかった。自転車やミシンやタンス類を見ても感じることは何もなかった。大...嫁菓子をもらう

  • 子供の間食

    イモ・あられ・豆は、ほぼ年中あった。果物一家の生計を立てるものが、果物であったので、その傷もの・変形ものが夏の間食になった。・・・桃・葡萄・スイカ・ナシ瓜・枇杷・サトウキビ・ナンバ・イチジク・柿・ミカン・・・。野山のものビービー・シーシー・さるきん・野イチゴ・ナツメ・ニッケ・川・池のものトーチカ海のものツブ・ドンガメ家のものおやき・ハッタイコ・買うもの飴玉・アイスキャンデー・ニッケ紙・買えなかったものミルキー・・・不二家のペコちゃん・ポコちゃん。あれを食べるのは、憧れだったな。チョコレート・・・中学か高校生になって初めて食べた。(チューインガムのロッテがチョコレートを作りだした頃)「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行子供の間食冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フーム...子供の間食

  • 醤油を作る

    昭和32年前後まで、家で醤油を作っていた。土間に置いていたその木製の機械からは醤油がポットリポットリと落ちていた。それは茂平のどこの家も同じだった。(母の話)醤油つくりの話麹つくりがたいへんじゃった。めんどうなんじゃ。小麦を植え、大豆を植え。麹を作り。彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。唐臼で搗きょうた。実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。醤油を搾る麹を1年寝かして、塩と水をいれて、...醤油を作る

  • 2024花見の季節が始まった

    場所・岡山県笠岡市(個人邸宅)撮影日時・2024年3月27日笠岡の桜も、早いのは見ごろになった。今年の桜は、「城跡と桜」「鉄道と桜」「川と桜」を主に、花見を楽しみたいと思っている。その季節になってきた。楽しみだ。2024花見の季節が始まった

  • 味噌を作る

    農村の家の味噌汁は、「汁」であり「おかず」だった。汁よりも「具」が主役だった。イモや団子やアサリや河豚や麩や、いろんな野菜も入っていた。味噌汁を作るのは母であり、味噌を作るのは父母で、麹を作るのは母、大豆を作り、米を作るのも父母だった。味噌作りで購入品は塩だけ。味噌作りの日は天気のいい日で、餅を搗くのと同じように、父母は木臼で味噌をつくった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行味噌味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、大豆と塩を用いる。麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。麹を作るのに技術がいる。笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。吉備高...味噌を作る

  • 醤(ひしお)

    大冝に「ひしお」作りの上手な人がいて、秋になると「ひしお」を売って歩いていた。買った「ひしお」はおいしかった。全体、家で食べるものは自給品が原則だったが、(家で作ったり、穫れたりするものよりも)買って食べるものは、みな美味しく感じた。その季節は秋刀魚(サンマ)と重なり、サンマを七輪焼いては、醤(ひしお)を付けて食べていた。ひしおとサンマは、ほんに相性のいい食べ物だった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行醤速成味噌である。笠岡市吉田では裸麦を甑で蒸してハナを作り、塩、水をいれてかき混ぜる。蚕豆を入れると香ばしくておいしい。おかずにする。焼魚につけて食べる。「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行醤(ひしお)裸麦で麹を作り、甕に裸麦の麹五升と炒った大豆・塩二合を加え、水を入れてかきまぜる。麦飯につけ...醤(ひしお)

  • 豊臣秀吉公

    場所・大阪府大阪市中央区大阪城「大坂城公園」大阪城豊國神社太閤秀吉は、その前半部分は極めて魅力的な人物として知られ、天下取りの後は、下り坂を転げるように落ちて、そして死んだ。大人物であることは論を待たないが、信長と家康に比べると一段落ちるように感じられる。「歴史読本」’81-9号新人物往来社秀吉天下人の条件山本七平近代における「日本の治」を完成させた秀吉簡単にいえば秀吉の行き方は天下の人びとを、あらゆる意味において「安堵させる」ことであった。そしてそれが天皇、公卿、大名、武士、農民等々、すべての人の階級を超えた潜在的欲望であったがゆえに、順風満帆のような形で「天下人」となることができた。しかし、彼には信長のような独創性があったわけでなくその政策は基本的には信長のそれであった。ただ、彼は信長の独創的な人間に...豊臣秀吉公

  • 京セラドーム大阪で、人生初のドーム野球観戦した

    場所・大阪市「京セラドーム大阪」日時・2024.3.23午後2:00試合開始試合・プロ野球オープン戦阪神タイガーズvsオリックス・バファローズドーム球場の前を歩いたことは、福岡・東京・札幌の3球場経験あるが、残念ながらゲートの前でおしまい。昨日は生まれて初めて、ドームに入り野球観戦をした。さすがに、たまに行く広島ズームズームスタジアムや倉敷マスカットスタジアムとは規模が違いすぎた。球場規模が違うのと、空が閉ざされ、閉じられた空間の中に選手や観客がいて興奮度が高まった。応援は外野の応援席のみ、旗や太鼓が鳴らされたが、その席以外は声援や拍手やカンフーバットを叩いての応援で、両チームファンとも節度のとれた感じのいい応援だった。食ものは「いてまえバーガー」を食べた。名物にもかかわらず、おいしかった。試合は、前年度...京セラドーム大阪で、人生初のドーム野球観戦した

  • 新小田川が完成

    場所・岡山県倉敷市船穂町柳井原工事名・小田川と高梁川の合流点付け替え事業完成日・2024.3.23「2018西日本豪雨」で河川の堤防が決壊し、多大な被害が発生した高梁川支流の小田川は、高梁川への合流地点を川辺から水江に変更した。その完成式が昨日(2024.3.23)真備町であった。今回完成した新しい小田川は、大正時代までは「西高梁川」と呼ばれ大河だった。昭和・平成は、川でなく「柳井原貯水池」だった。令和6年、再び川に戻り、「小田川」となった。撮影日・2018.5.25地名・「柳井原貯水池」【山陽新聞記事】新小田川が完成

  • イチゴ

    昭和44年を最後に、父母は「米作り」を止めた。農家であるが、米を買って食べるようになった。その大きな背景に、①米の過剰や政府の減反政策(昭和47年開始)。②作業の機械化(田植え・稲刈り)で設備投資が必要。茂平は果物が盛んだが、稲作は自給用で小規模だった。稲作を止めた田んぼは、イチゴやイチジクに転換した。昭和50年代、茂平のイチゴは全盛期を迎えた。(父の話)昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。ハウスで栽培してから金になりだした。今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。作るのに手間がかかりすぎる。よそでも栽培が増えた。茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。のが原因だろう。2000年05月28日・・いちごは、農協がすすめた。パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。こんだ...イチゴ

  • 大豆を作る

    祖父の言うことは同じ言葉(せりふ)が多かった。その代表的なことばは、「豆で貧乏しますように」いつも、そのあとに、「人間は金(かね)を持つよりも、マメなのがいちばん好い」祖父は、そのことを実践した。お金はほどほど、身体は豆(マメ)で、笠岡市二番目の長寿で亡くなった。大豆は食べるにも、人生訓にも大切なようだ。「金光町史民俗編」金光町平成10年発行どこの家でも大豆は田植え後の田の畦に播いた。こうしておくと陰になり草が生えなかった。稲刈り時分に収穫して、乾燥保存し、味噌や醤の原料に、そして煎っておやつにもした。「岡山たべもの歳時記」鶴藤鹿忠岡山文庫平成10年発行大豆の用途大豆は、骨のない肉といわれ、重要な蛋白源である。炒り豆、枝豆、黄な粉、ウチゴ(ウチゴドウフ、キドウフ)、ゴジル(呉汁)、大豆飯、豆腐、おから、油...大豆を作る

  • 「福山古墳ロードA」を歩く

    場所・広島県福山市駅家町日時・2024年3月19日人柱・お糸さんの伝説でも有名な、駅家の「服部大池」。その大池の駐車場からスタートして「福山古墳ロードA」を歩いた。最初に、「熊野神社」。この神社社殿は横穴式古墳の巨石の上に鎮座している。古墳名は、「権現古墳」。次に本日の主目的である、国史跡「二子塚(ふたごづか)古墳」。長さ73m、幅68m、高さ41m、周溝ありの前方後円墳。吉備王国の古墳だが、古代吉備国は現在広島県と岡山県に分かれ、そのためか、王国の研究までも両県共同を感じないのが残念。最明寺にある、「最明寺板碑(さいみょうじいたび)」。高さは約1.8m、幅は75cm、厚さは約10cm。室町時代の板碑。春の天気はおだやかで、古墳めぐりが楽しめた。「福山古墳ロードA」を歩く

  • お茶を作る・お茶を飲む

    水落に茶畑があった。そこから茶を摘んで帰り、蒸したり、干したりしてお茶にしていた。金のヤカンから(茶飲みでなく、ご飯の)お椀に注いで飲んでいた。村の寄合など、よその人が来る時は購入した茶葉を使っていた。その時は急須を使い、炭も購入したカタズミを使っていた。(父の話)茶畑何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。昔はみんな、そうしょうた。2000・5・14「岡山ふだんの食事」鶴藤鹿忠岡山文庫平成12年発行茶江戸時代末期に国民的飲料になった。畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。「鴨方町史」たいていの家では、畑のギシなどに茶樹を植えており、自給する。「岡山県史第15巻民俗...お茶を作る・お茶を飲む

  • なすび

    夏休み時期を代表する野菜だった。夏休みの朝は、両親は果物の収穫で畑に行って留守だった。たいてい冷えた味噌汁をご飯にかけた「汁かけ」を毎朝食べていた。汁かけで足らない時は、さえんからナスビを取ってきて、塩もみににしておかずにしていた。ナスビの塩もみは、子どもでも簡単にでき、出来あがるまで1分。便利な野菜だった。(父の話)なすびたいがい自家用としてつくりょうた。だいしょう早く出せば金になりょうた。温室で早ぅ出して売ったこともある。じゃけどあれも肥をぼっこうせんとええのができんのじゃ。朝、農協へもっていくにも手間がかかるし、重たぁばぁ。えっと銭にもららなんだ、それで止めた。2002.8.5父がナスビを商品として温室栽培をしていたのは、たぶん昭和50年頃と思われる。稲作を止め、田んぼはトウガキ畑やイチゴ畑に変わっ...なすび

  • トコロテンを作る

    夏休み、大潮の干潮のとき、茂平の苫無(とまんし)の磯でテングサを採って遊ぶことがあった。家に持って帰り釜で焚いた。海草がドロドロに溶けるまで炊く。溶けても、さらに炊く。時は真夏。汗びっしょり。しかし、このあとに楽しみが待っている。アルミの弁当箱に移し注いで、待つこと1時間くらいか?トコロテンが固まってくる。これが楽しい!固まりがおわると、食べる。トコロテンは温い。暑い夏に、熱いトコロテンは美味くない。子供が食べ残したトコロテンは、夕食(バンメシ)に父や祖父が「うまい、うまい」といって食べる。夕食の頃には、トコロテンは冷えてはいないが、時間が経っていて温くはなかった。子どもにとって、(管理人にとっては)トコロテンは固まるのが面白い子どもの遊びだった。●ところてんてんぐさは、夏の暑い日でもよく固まるから、羊か...トコロテンを作る

  • イチジク

    茂平のイチジクには他所にない特徴があった。二種類のイチジクを栽培していた。江戸時代に中国からはいった赤トーガキ。(東洋)明治時代に欧州からはいった白トーガキ。(西洋)赤トーガキは、生食で出荷。白トーガキは、干しイチジクに加工して出荷。白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。(父の話)白トウガキは何処の家もうえていたのではない。赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。2000年08月01日(父の話)イチジクこれの寿命...イチジク

  • 「ペイペイ使えます。」 2024ふくやまマラソン・ふれあい広場

    場所・広島県福山市水呑町・竹ヶ端運動公園「ふれあい広場」日時・2024年3月17日「第42回ふくやまマラソン」(福山通運ローズスタジアム)福山マラソンのイベント会場では太鼓やダンスがあり、多くの選手や家族などでにぎわっていた。その会場には屋台村があり、ある一つの屋台に「ペイペイ使えます。」の幟があった。ほかの屋台にはなかった。(ふれあい広場)”露店は現金払い”と、自分の頭が決め込んでいたので、この「ペイペイ払いOK」には驚いた。自分にとっては、初めて見たものだが、都会のイベントでは露店でもぺいぺい払いが普及しているのだろうか?「ペイペイ使えます。」2024ふくやまマラソン・ふれあい広場

  • 梨を作る

    果物どころ茂平で、梨が栽培されていたことは知らなかった。梨やリンゴは、やや寒冷地が適しているというイメージがあった。今でも地図をみると、瀬戸内海に面した茂平で梨、・・・という感じがでてこない。戦前の茂平では、桃よりも梨が代表する果物だった。(父の話)梨は「20世紀」と「はかた」を植えていた。どうめんの畑で「はかた」も20世紀に近い感じの樹だ。これは早う出る。盆の前にでるんで、これじゃぁよう儲けた。水をしなくてはいけないので、梨畑には必ず池が必要であった。つるべは一人で汲み上げていた。つるべで水を汲み上げていた。つるべでやると時間ばっかりかかっていた。発動機ができて流すだけになって楽になった。2000年05月28日・・・「はかた」の後に「20世紀」を出荷する。味は20世紀のほうがエエ。ほれで他所(他県)でも...梨を作る

  • 枇杷(びわ)

    果物どころ茂平で、最初に出るのが枇杷だった。田植え時のシロミテで食べていた。枇杷が終わると、桃の早生が成り、それからは、すべての果物が成熟し、出荷していた。枇杷は実は大きく、皮は向きやすく、食べやすかった。甘い実と、すっぱい汁と、真ん中に大きなサネがあった。(父の話)枇杷は品種がひどう変わらん。新しいのは「ながさき早稲」ゆうのが出来ただけ。早うできるのが。2000・12・17枇杷は(木の)寿命が長い。今でもちょびっとつくりょうるが値がエエ。2000・1・9「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行枇杷日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。「くだもの」ポプラ社2009年発行びわ枇杷・バラ科ビワ属原産地は中国で、あたたかい地域で栽培されます。皮は手でむ...枇杷(びわ)

  • 鯨(くじら)を食べる

    クジラ肉は、肉屋でなく魚屋の商品。茂平には西浜(ようすな)の”しょうやん”がごつい自転車の荷台に積んで、売って歩いた。しょうやんは魚の行商なので、木箱に氷をいれ、その中に魚を置いていた。だが、しょうやんの持ってくる半分は、魚でなくクジラ肉だった。その理由は、魚よりもクジラ肉が安いこと。自給自足の農村の家計では、お金を出して食べ物を買うことは、どの家も最小限にしていた。クジラ肉はしわかった。食べものというより噛むものと思う程だった。小学校の4年生頃になって、「完全給食」というのが始まった。この給食にもまた、クジラ肉がよく出た。二度に一度くらい出た。後年になって、それは”くじらの竜田揚げ”という料理であると知った。・・・昭和30年代はクジラの全盛期であったように思う。野球は大洋ホエールズの「大洋漁業」。赤胴鈴...鯨(くじら)を食べる

  • 笠岡の中学校の制服が変わる

    笠岡の中学校の制服がやっと変わるそうだ。今日(2024.3.15)の山陽新聞に載っている。中学生を見たびに、この制服はいったい、いつまでつづくのだろう?いつもそう思いながら見ていた。今の制服ができた頃の中学生は、頭にシラミ、顔や手にイボ・ヒビ・ニキビ、身体に蚤(ノミ)、腹に蟯虫や回虫、ハラはいつもすきっ腹。そういう時代から身につけている服。いくらなんでも,制服は変えなければいい、というものではない。変えない理由は、なにもなく、だらだらつづいたのだろう。四半世紀前、男子生徒の髪の毛もそうだった。だらだらと、坊主頭を強制してきたが、各地で裁判が起こりそうになって、急に長髪を認めた。笠岡市に限ったことでないが、教育関係者は、時代への対応があまりに遅いように思う。・・・山陽新聞2024年3月15日笠岡市内の公立8...笠岡の中学校の制服が変わる

  • 葡萄酒を作る

    ものごころがついた時から、父は葡萄の季節の恒例のように「葡萄酒」を造っていた。父の造る葡萄酒は子供も飲むことがあった。お祭りや行事の時、祝いの日に飲んでいた。甘酒を飲む感じで、アルコール分が少なかった。酒好きの祖父は、焼酎と共に、父の葡萄酒も毎日のように飲んでいた。時代が高度経済成長期になり、安全な飲食や、納税(当時とごさん10.5.3と呼ばれていた)が求められる時代となり、それが茂平の農家にもおしよせた。茂平名産の珍菓・干しイチジクは保健所から禁止され、葡萄農家は税法違反で捕まった。・・・(父の話)葡萄酒で捕まる(密造していた葡萄酒が・・・・密造の意識は無いが・・・)長ぅおぃといたら醗酵してき、アルコール度が高おなってくる。そしたら罰金くうた。3000円じゃったけぃのう?!作ったのは隠しとったんじゃじゃ...葡萄酒を作る

  • サラダを食べる

    学校を卒業した姉は、仕事と花嫁修業を同時に始めた。福山駅近くの料理学校に、仕事の帰りに、週1回通った。そのおさらいで、日曜日に、習った料理を家で作った。その時に、初めて「サラダ」というものを食べた。初めての料理だったので名も知らなかったが、「サラダ」という名を知った。じつは、そのとき「サラダ」よりも「マヨネーズ」の方が珍しかった。というのは、姉は「サラダ」を作るよりも、「マヨネーズ」を作る方に時間や手間暇を要した。卵を泡立てる姉に、「何をしょうるん?」「マヨエーズをつくりょん」で、その日「サラダ」と「マヨネーズ」を同時に知って、同時に食べる日となった。それは、高校三年生の時だった。そのから数年した後、「ドレッシング」という調味料を知った。日本は急成長していた。「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社20...サラダを食べる

  • じゃがいも

    ジャガイモは、もちろん栽培していたが、何か印象が薄いというか弱い。サツマイモや里芋にくらべ地味。サラダを食べるようになってから、やっとジャガイモが思い浮かぶ。「三度芋」とか「弘法芋」とか呼んで収穫し、ヘードラを担いで運搬していたが、あのジャガイモを母は何の料理に使っていたのだろう?「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行じゃがいも日本には、江戸時代にジャガタラ(今のインドネシアの首都ジャカルタ)からやって来たオランダ人によって伝わりました。美しい花をつけるので、当初は見て楽しむための植物だったようです。明治時代に、北海道の川田龍吉男爵という人がイギリスやアメリカから取り寄せたいもを作ったのがきっかけで、その後、北海道に栽培が広がりました。日本ではじゃがいもの品種改良がさかんに行われています。ポテト...じゃがいも

  • 葡萄(ぶどう)を食べる

    岡山駅で「マスカット娘」がいて青い粒の葡萄を売っているのは知っていた。青い葡萄のマスカットを食べてみたいものだと、夢であこがれていた。家では、葡萄を栽培していたので、その葡萄をよく食べた。キャンベルとデラウェアを主に作っていた。そのどちらも好きだった。デラウエアが「種なしぶどう」に変ったが、食べてみると、種があった。「種小さいぶどう」が正しい?父が毎年葡萄酒を作っていたが、いつの年か(昭和40年代)に捕まって(茂平の葡萄農家全員)からは葡萄酒を造るのを止めた。・・・・「江戸の食生活」原田信男岩波書店2003年発行甲州葡萄先の『広益国産考』は、蜜柑に続いて葡萄を挙げ、「ぶどうは甲州より作りて多く江戸へ出しふ事おびたし。わづかの屋敷内に作りても相応に益となるものなり」と記している。もともと葡萄には薬効があり、...葡萄(ぶどう)を食べる

  • 葡萄(ぶどう)を作る

    ブドウ作りはすっかり変わった。粒が大きくなり、傘つきから、今はハウス栽培が主流。昭和40・50年代にタバコ畑からブドウ畑に変わったケースが多いように感じる。父母が作っていたブドウは、零細で、傘なし、キャンベルとデラウェアが主だった。・・・ブドウ作りは手間がかかるのか?手伝うことが多かった。冬は袋作り(桃・枇杷・葡萄)。春のデラウエアのジベレリンに漬ける。夏秋の集荷前の房から悪い粒を落とす作業。葡萄畑に行くと、棚で栽培しているので中腰になる。手伝いが終わると、いつも腰がいたくなっていた。(父の話)・・・・葡萄はよう(品種が)変わる。2000・12・17・・・茂平の葡萄は「きゃん」と「デラ」がおもじゃった。ネオマスカット(茂平には)なんぼかネオマスを植えとった人がおるけど、ようなかった。コールマンまぁさんがコ...葡萄(ぶどう)を作る

  • こんにゃく

    日々の食事、茂平でコンニャクを食べことはなかった。そもそも海辺の村・茂平にはコンニャク芋を栽培する農家が無かった。高原ともいえる、(後月郡の)母方の祖父母に行くと、コンニャクが出た。そのコンニャクは硬く固まったところと、ゆるいのが混じったコンニャクだった。おいしいと思ったことはないが、くにゃくにゃして面白い食べ物だと思った。祖母のやさしさを感じる食べ物だった。グルメ時代の現代では、健康食品としてもてはやされているが、かつてコンニャク芋は食用ではなくて、大日本帝国の重要資源として軍部から徴用された。そのコンニャク芋は風船爆弾の原料となり、アメリカ本土への爆撃に使用された。「岡山県史・民族Ⅰ」昭和58年山陽新聞社出版コンニャク山地の村々では自給用に畑で栽培している。長年栽培していると病気がつきやすい。・・・・...こんにゃく

  • ママカリを食べる

    隣のウチは漁師だった。隣のおばあさんは、よくひなたぼっこをしていた。たまに、隣のおばあさんは、ウチに来る時があった。そういう時、決して「こんにちわ」とか挨拶することはなかった。隣のおばあさんは、わらじを履いていたので、足音すらしなかった。(聞こえなかった)家の玄関は開きっぱなし。入ると土間が台所までつづく。道同然にウチの中に入っていった。隣のおばあさんは、台所で止まり、ママカリを山盛り入れた笊を置いて、だまって帰る。それがあってから数日間、我が家の食卓はママカリ一色の日々がつづいた。朝もママカリ、昼もママカリ、夜もママカリ、翌朝もママカリ、翌昼もママカリ、翌夜もママカリ、翌々朝もママカリ、翌々昼もママカリ、翌々夜もママカリ。・・・・・づううっとつづいた。ママカリは、あんまり「おいしくて、おまんま(ママ)を...ママカリを食べる

  • 蜂の子

    捕獲したり、摘み取ったりの、遊びを兼ねた「おやつ」や「食材」は数多くあった。山でマツタケを探すのも、海でアサリを掘るのも、食べものというよりは”遊び”の面が強かった。スリルがある遊びで、おやつにもなる、とえば「ハチの巣」を落とすこと。落とした巣から蜂の子を取り出して口に入れる。噛まずに飲み込む。栄養があると子どもたちも知っいた。生物学者だった昭和天皇も食べていたそうだ。(下記↓の「日本の風土食探訪」)・・・蜂の巣を軒下から地上に落とすのはスリルがあった。男の子3~5人での遊び。たいていの場合、まんの悪い人が1人蜂に刺される、というキョーテイ遊び。長い竹の棒を2本ほど用意し、それを、針の巣が軒から落ちるまでつつく。まわりはハチが数匹飛んでいる。そして子どもめがけて刺しに飛んでくる。このスリル感がなんともいえ...蜂の子

  • 「Vリーグ笠岡大会」岡山シーガルズvs東レアローズを見に行く

    場所・岡山県笠岡市平成町「笠岡総合体育館」日時・2024年3月10日13:00試合開始中学生の時、体育の授業で先生が「今日はバレー!」男子生徒全員、「バレー???」「なんで男がバレーするん???」バレーと言えば女性が短いスカートで、つま先で立ち、脚を横か上の方にあげて、踊る。それしか思い浮かばなかった。東京オリンピックで、日紡貝塚を中心とした女子バレーが金メダルを取ってからは、すっかり日本人の人気スポーツとなった。昨日と今日は「Vリーグ笠岡大会」がある。一度見物したい。応援したい。と思っていたので見にいった。入場の際、紙風船二個をもらう。それをふくらまして叩いて音を出しての応援。熱気がすごく、2018年に観光旅行で見物した”青森ねぶた”を思いうかべた。あの時、「ラッセラーラッセラー」の盛りあがりがすごかっ...「Vリーグ笠岡大会」岡山シーガルズvs東レアローズを見に行く

  • セブンイレブンハートインJR笠岡駅店

    場所・岡山県笠岡市笠岡・JR笠岡駅構内駅内移転・最終営業日・2024.3.6撮影日・2024.3.4セブンイレブンハートインJR笠岡駅店は無くなったのではなくて、駅内移転。笠岡駅の待合所にあった「セブンイレブンハートイン」は2024年3月6日で終了した。同じ日に、同じ駅構内に移転した。今日(2024.3.10)笠岡駅に行ったら移転していた。元の店は厚い壁で隠されていた。セブンイレブンハートインJR笠岡駅店

  • おさふねサービスエリア

    場所・岡山県瀬戸内市長船町長船全館建て替えの為・最終営業日・2024.5.6撮影日・2022.4.24「おさふねサービスエリア」は、無くなるのでなく、全館建替えする。国道2号線沿いで、岡山県で一番有名なドライブインが「おさふねサービスエリア」。新幹線を見る。吉井川を眺める。温泉に入る。食事をする。土産物を買う。ドライブ休憩する。で、人気のドライブイン。その大きなドライブイン「長船サービスエリア」が全館建替え工事をするそうだ。リニューアルオープン時期は未定。新しい「おさふねサービスエリア」は楽しみだ。笠岡からはちょっと遠いので、たびたびの訪問はできないが、再開を期待して待つ。おさふねサービスエリア

  • トウモロコシ

    笠岡や岡山県・広島県では、トウモロコシのことを「ナンバ」と言う。ナンバは子供のおやつだった。サトウキビやユスラウメやビービーと同じで、親が子の「おやつ」ために植えていた。食べ方は今と同じで、茹でたのを、実の部分だけ丸かじりしていた。見た目も美味そうで、ナンバが嫌いな子はいなかった。小学校の高学年か、中学生になった頃、学校で「トウモロコシは穀物で、飼料である」と習ったが、飼料の意味が理解できなかった。牛や馬やニワトリは、家から出た物、作った物を食べていたから。その頃、父が養鶏を始めた。そのエサを、農協で紙袋を何袋か購入するようになった。紙袋を閉じた糸を抜くと、ナンバと粉が混ざったものが出てきた。それでやっと、”飼料”を理解出来るようになった。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行トウモロコシ米・麦とと...トウモロコシ

  • サツマイモを作る

    芋畑で掘った芋はヘードラで荷車に運んだ。ヘードラがもっとも運んだ物は芋類だった。(ヘードラ「城見のあゆみ」から)サツマイモは、あまりに日常過ぎた作物だった。そして、それを食べて「おいしい」と思って食べたことは今まで一度もない。うまいと思ったのは、鹿児島のいも焼酎だけだ。(鹿児島県鹿屋で「薩摩大海」、あれを毎晩飲んでいた)・・・「日本食物史」江原・石川・東四柳吉川弘文館2009年発行さつまいもは、コロンブスがアメリカ大陸からスペインに持ち帰ったとされ、日本には、慶長11年(1606)に琉球へ伝わったものが、宝永2年(1705)に薩摩に伝わる。・・・「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行さつまいも飢饉のときに人々の命を救った暑い気候を好み、やせた土地で育つのが特徴のさつまいもは、17世紀の初めに中国...サツマイモを作る

  • サツマイモを食べる

    サツマイモのフカシイモは間食の代表というより、大代表だった。おやつといえば、フカシイモ。腹が減ったといえば、フカシイモだった。フカシイモは戸棚の皿に、”商品切れ”という状況は一度もなかった。大人も子どもも、おやつ・副食・常備食・よーめしで、家族の必需品だった。イモは、どこの家にも穴を掘った芋床に保存していた。・・・まんが雑誌の漫画に「焼き芋」を買う、町の少女がいた。町の人は、お金を出してまで、焼き芋を買うのだろうか?それを食べて「おいしー」というのは本当だろうか?ちょっとしたカルチャーショックのようなものを感じた。「矢掛町史」矢掛町昭和55年発行畑どころでは米の代用によく食べた。また、第二次大戦中、砂糖の代用にイモヨウカン、イモアメを作った。サツマイモの利用法には、フカシイモイモ粥煮つけイモイモ飯揚げイモ...サツマイモを食べる

  • お産の食事

    女性の出産は、長く母親も生まれる子も、双方とも生死を掛けた面があった。そのため、さまざまな禁忌が存在し妊婦の負担を一層増していた。さらに、田舎の農家の嫁は、農業をしながら大家族の雑用までこなしの半奴隷状態。お産となれば、”産まれる間際まで仕事をしていると安産”という言い伝えか、実態かで、(「ぎりぎりまで畑にいた」と母も言っていた)体力、気力とも限界での出産だったようだ。「鴨方町史」鴨方町昭和60年発行お産妊娠中には日常生活の上で、さまざまな忌み慎しむことがあった。妊婦が死人に触ったり、葬式に出会ったとき、最初に手を当てた同じところに黒アザや青アザのある子が生まれ、火事を見ると赤アザのある子が生まれるという。これは町内はもちろん、県下でも広くいわれている俗信で、これを防ぐには、常に帯の間か懐に鏡を表に向けて...お産の食事

  • 砂糖を食べる

    小学校の時、校長先生が「虫歯の日」などの朝礼で、甘い物を食べると、虫歯になるからほどほどに、というような話をしていた。しかし、校長先生にいわれなくても、砂糖がはいった甘い物を食べることはほとんどなかった。ナンキンやサツマイモが戦時中、砂糖の代わりの役目をしたというけど、砂糖は高価で、庶民は高度経済誌長期が始まるまで、ずっと砂糖はもったいないモノでり、贈答品であったような気がする。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行砂糖江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。紋日のほかはほとんど用いなかったものである。「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行砂糖たいていの家で、子供の間食用にサトウキビを植えていた。軸を噛み、甘い汁を...砂糖を食べる

  • おかゆ・おじや・雑炊

    雑炊母が留守の時、父がご飯を作る時があった。その時は、いつも”雑炊”だった。「兵隊では、いつも雑炊じゃった」というようなことを言っていた。今思えば、外地での自炊の食事のことだろう。父のつくる雑炊は美味かった。母のつくる雑炊よりも美味かった。その理由ははっきりしていた。母がつくるのは、残りものを使用していた。麦飯も、中に入れる野菜類も、すべて残りもので、腐る前のものを再度煮たものだった。お粥お粥は、誰か風邪をひいたとき、母がつくっていた。病人食だった。・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行雑炊ゾウスイ、ゾウシイという。オジヤは現代風で上品な呼び名である。羽釜に2~3合の米と水を一杯いれ、野菜を沢山いれる。団子や餅をいれれば団子雑炊という。大根が多ければ大根雑炊という。粥白粥水文の多少によって...おかゆ・おじや・雑炊

  • 笠岡大仙院の三月、”春大仙”に行く 2024.3.4

    小学6年生の秋だったと思う、土曜日の午後バスに乗って母が笠岡の大仙さんに連れて行ってくれたことがあった。その日、笠岡の商店街は大仙さんで大にぎわい。商店街はぎゅうぎゅうで歩くのもままならないほど人が多かった。田舎からお詣りに笠岡に来た人は、、お詣りと共に、町で乾物や茶わんなどを買って帰るのが目的だった。笠岡で買い物をして帰るバスに乗ると、夕方になっていて駅前の旅館のネオンが見えていた。きらきら、光ったり止んだりしていた。それを見ながら、ああ笠岡は町じゃなあ、と思った。だが、そのネオンは今思うに、小さな蛍光灯がちかちかしてるだけだった。それでも当時は楽しかった。洲崎橋から大仙橋の間には、呉服・刃物・乾物・菓子・植木などの商人が連らねていたが、今年になってそれも絶えた。3月の「春大仙」はにぎやかといわれ、その...笠岡大仙院の三月、”春大仙”に行く2024.3.4

  • 米(こめ)

    大門駅から岡山駅まで汽車で行けば、金光駅ふきんから岡山駅の一つ手前の庭瀬駅まで、ずっとイ草が続いていた。イ草の後で稲を植える二毛作が岡山平野の、ほぼすべての水田だった。二毛作しないと農家は生活していけなかった。今、岡山平野からイ草は全滅し、水田の多くは農地から商業・工場・学校・住宅などに変わり、残った水田は半年間寝ている。「最新日本の農業図鑑」八木宏典ナツメ社2021年発行日本の米米は主食であると共に、酒や醤油、味噌、酢などの原材料。うるち米ともち米に分けられる。ごはんはうるち米で、餅やおこわはもち米。今から2500~2600年前、縄文時代晩期に大陸から伝わり北九州から広まったという説が有力だ。食糧管理法(1942~)不足する米を国民に平等に分配する目的で食管法が制定された。米の過剰(1971~)農村と都...米(こめ)

  • 白米を食べる

    いつも麦飯だった。お米の飯を食べるのは憧れだった。「白いご飯を食いたいものじゃ」と思っていた。高校生になった頃、ウチも米の飯になった。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行コメ(米)日本では縄文時代の終わりから稲作がはじまった。現在にいたるまで多品種の米が作られています。丸みがあるジャポニカ種と、細長いインディカ種があります。うるち米ともち米に分かれます。精米後、時間と共に酸化するので、精米したてのものがよい。・・・「江戸の町くらし図鑑」江戸人文研究会廣済堂2018年発行江戸では何故白米を食べるのか。江戸では武家も庶民も白米を食べておりました。しかし、流通段階では玄米ですので、白米しかなかった、という単純な理由ではありません。玄米より白米の方が、香りが良くて、柔らかいので、美味しいという理由はありま...白米を食べる

  • 「ひな祭り」の食べ物

    「北木島の流し雛」2023.4.22岡山県笠岡市北木島町)「雛祭り」という行事は、城見保育所の園児の時に知った。保育所の先生が千代紙で作った右大臣・左大臣を教室の壁に貼って、♪今日はうれしいひな祭り・・・を歌ってくれた。だが、それ以外の「ひな祭り」は、茂平にも、城見にもなかった。町の商家や玩具屋では雛飾りがあったり、白酒を飲む家があったのかも知らないが、町に行くことはなかった。女の子の祭で、家には姉がいた。以前、姉に聞くと、飾り・食べ物・祝等、家でも近所の子の家でもまったくなかった、と予想通りの返答があった。強いて言えば、母が手製の「あられ」を食べていたが、それは「雛あられ」ではなくて、普段のおやつとして食べていた。ひな祭りの源流昭和33年3月3日~天声人語~荒垣秀雄ひな祭りは元は流しびなという戸外の行事...「ひな祭り」の食べ物

  • 縄文人の食べるもの

    縄文人の食べ物は、山の幸や海の幸を謳歌していたようだ。広い国土に人口がたったの3万。農耕が始まり人口は推定30万人になったようだ。・・・「日本の風土食探訪市川健夫白水社2003年発行縄文人の食生活木の実が主食だった縄文人縄文人は海辺に住んでいた人びとを除くと食物摂取量の六割までが、野生植物であった。縄文時代における主食は山栗・鬼胡桃・どんぐり(小楢・水楢の実)などの堅果類(ナッツ)であった。このような木の実は、西日本の椎や樫の樹に代表される照葉樹林帯より、東日本のブナ・ミズナラ帯が豊かであった。そこで縄文の大遺跡は青森市の三内丸山遺跡、長野県茅野市の尖石遺跡のように、撫・水楢に代表される東日本の夏緑林地帯に存在している。縄文時代日本列島でもっとも人口が多かったのは、温暖な気候で木の実の生産が多かった縄文中...縄文人の食べるもの

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