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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 「今昔物語」~平中が侍従の君に懸想した話~ (京都市・京都御苑)

    高校生の時、クラスにとびきり美人の同級生がいた。美人なので、その人に思いを打ち明けることは(絶望的な結果しかないので)思いも及ばず、ただ憧れの雲の上の存在の人であることで満足していた。ある日、国語(古文)の授業で「今昔物語」があり、男性の先生が、「今昔物語にはいろいろな説話が載ってあり、その一つをこれから紹介します。」それが「平中が侍従の君に懸想した話」だった。先生が授業中に密かに笑う声がおこった。男子生徒が2~3人、女子生徒も2~3人。途中で笑う声が1人、2人とさらに増えて行った。我が憧れの君からは笑い声が漏れなかった。当然だと思った。こういう話は彼女には縁のない、もともとあり得ないことだから、と至極納得し、かつほっとしていた。けれど、やはり、なにか、それも違うのでないかとも思った。あのとき、彼女の表情...「今昔物語」~平中が侍従の君に懸想した話~(京都市・京都御苑)

  • 「雨月物語」吉備津の釜 (岡山県吉備津神社)

    吉備津神社の、廻廊の側に「御竈殿」がある。独立した建物で、湯気が内から外に漏れている。この湯気は”鳴釜神事”のもので、釜から沸いた水蒸気で、釜に音が鳴り、それで吉兆を占っている。戦国時代には、既に「備中の吉備津宮に鳴釜」があると有名だったそうだ。令和時代の今日も、毎日この神事は行われ、神の祈祷・信託を受ける人が絶えない。上田秋成は、この神事を素材にした「雨月物語巻之三吉備津の釜」を残している。旅の場所・岡山県岡山市北区吉備津「吉備津神社」旅の日・2019年8月13日書名・雨月物語原作者・上田秋成現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著現代教養文庫1980年発行吉備の国賀夜部庭瀬の郷(岡山市庭瀬)に、井沢庄太夫という者があった。春に耕し、秋に刈り入れて、家豊かに暮らしていた。ひとり子の正太郎という者は、...「雨月物語」吉備津の釜(岡山県吉備津神社)

  • 「雨月物語」白峯 (香川県白峯寺)

    本州と四国が一番接近しているのが、児島半島の岡山県児島・玉野ふきんと、香川県坂出市の五色台。五色台とは紅峯・黄峯・青峯・黒峯・白峯の五つの山の総称。玉野市渋川海水浴場からは、眼前に台地状の400~500mの山々が見える。修業の旅をつづけていた西行法師は、1168年の秋、その渋川から讃岐の白峯の麓に渡ったと伝えられる。白峯は、上田秋成の「雨月物語」の冒頭の物語として有名。四国88ヶ所霊場81番白峯寺には、第75代天皇・崇徳天皇のお墓があり、参道は西行の道として整備されている。旅の場所・香川県坂出市青海町「白峯寺」(しろみねじ)旅の日・2009.10.25書名・雨月物語原作者・上田秋成現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著現代教養文庫1980年発行雨月物語卷之一白峯逢坂の関の番士に通行を許され、東国への...「雨月物語」白峯(香川県白峯寺)

  • 「半七捕物帳」川越次郎兵衛 (埼玉県川越)

    岡本綺堂の「半七捕物帳」のファンで、光文社から発行されている全集を持っている。ストーリーが面白く、江戸時代の江戸の町の描写が興味深い。「川越次郎兵衛」では、巻頭で川越までのアクセスを書いている。江戸時代は人も物資も舟便の利用が多かったが、小説では陸便が圧倒的に多い。「川越」は町の名のとおり、湊町として発展・繁栄していた様子を半七老人が語っている。旅の場所・埼玉県川越市幸町・川越商家”重伝建地区”旅の日・2022.7.13書名・「半七捕物帳」川越次郎兵衛著者・岡本綺堂発行・光文社昭和61年発行「半七捕物帳」川越次郎兵衛四月の日曜と祭日、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江...「半七捕物帳」川越次郎兵衛(埼玉県川越)

  • 燃えよ剣 (北海道函館市)

    小説や映画やテレビや漫画に出る新選組はかっこいいが、実態は組織の内部粛清に力点がおかれた、ならずもの集団のような意味合いを感じる。新選組副隊長だった土方歳三は、司馬遼太郎によって「どかた」さんから「ひじかた」さんと認知され彼は彼なりに時代と大義と殉じた人間として、再評価されている。旅の場所・北海道函館市五稜郭町・五稜郭旅の日・2017年7月29日書名・燃えよ剣著者・司馬遼太郎発行・新潮文庫昭和47年五稜郭歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった。この男がわずか一個大隊でまもっていた二股のは、十数日にわたって微塵もゆるがず、押しよせる官軍がことごとく撃退された。歳三の生涯でもっとも楽しい期間の一つだったろう。兵も、この喧嘩師の下で嬉々として働いた。歳三は、死んだ。それから六日後に五稜郭は降伏、開城した...燃えよ剣(北海道函館市)

  • 尋三の春      (岡山県笠岡市)

    小三の春古城山への遠足は、笠岡周辺の小学校にとって定番中の定番の場所だった。管理人は城見小学校の、小三の遠足で古城山に行った。城見小学校の校門を出て、当時の国道二号線を歩いて笠岡に行った。約10キロ足らずの距離。途中、吉浜や金浦では遠足の列が来るのを待っている家があった。生徒の親類の家で、おばあさんかおばさんが立っていた。そして生徒に菓子袋を渡した。遠足の持物はお菓子は一つと決まっていたが、その子たちは二つになる。それがうらやましかった。城山に登れば、お猿さんがいて楽しかった。織の中で飛んだり、跳ねたり、食べたり、の姿がたまらなく面白かった。かかれないようにエサをやるのも面白かった。帰り道はバスだった。貸切りの井笠バスに乗って小学校まで帰った。バスの運転手さんは飛ばした。古城山から城見小学校まで、信号はひ...尋三の春   (岡山県笠岡市)

  • 坊ちゃん     (愛媛県ターナー島)

    愛媛県の松山沖に大小の島々が浮かび、それを中島諸島と呼んでいる。その中島諸島の興居島(ごごしま)は、いちばん松山から近い島で三津浜港の目の前にある。興居島は今、ミカンや船踊りで有名だが、伊予富士という名山でも知られる。フェリーで興居島に向かうと、「あれがターナー島か」とすぐに気づくほどに、たしかに名画を思い浮かばせる無人島がある。旅の場所・愛媛県松山市興居島旅の日・2011.7.14書名・坊ちゃん著者・夏目漱石発行・集英社文庫1991年君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。向う側を見ると青嶋が浮いている。よく見ると石と松ばかりだ。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと言ってる。野だは...坊ちゃん  (愛媛県ターナー島)

  • 坊ちゃん     (愛媛県道後温泉)

    広島県に行けば(備後よりも特に安芸)、みんな生まれながらの広島カープファンで、カープの悪口は滅多なことでは言えない。鹿児島県に行けば、みんな♪西郷隆盛おいらの兄貴、で西郷どんの悪口はご法度。そして、愛媛県の松山に行けば「坊ちゃん」を市民みんな愛している。松山は「坊ちゃんの町」で、お城も温泉も、坊ちゃんとのからみを抜きには語れない。だが作者の漱石先生は、坊ちゃんほどに愛されていない。なぜなら、物語では温泉以外は見るほどのものはないといいきっている。無理もない。旅の場所・愛媛県松山市道後温泉旅の日・2022年5月18日書名・坊ちゃん著者・夏目漱石発行・集英社文庫1991年「乗り込んでみるとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭で...坊ちゃん  (愛媛県道後温泉)

  • ~やわらかに柳青める北上の~ (岩手県渋谷村)

    岩手県の「渋谷村」という地名は、石川啄木によって今でも日本有数の有名な村名のように思う。現在は県都・盛岡市の市域になっている。渋谷村に行くと、かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川啄木ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな啄木などの看板が目につく。だが、やはりこの歌がいいやわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに啄木この歌は、映画【北上夜曲】と名曲【北上夜曲】とも一体化している。〽匂い優しい白百合の濡れているよなあの瞳想い出すのは想い出すのは北上河原の月の夜旅の場所・岩手県盛岡市玉山区渋民「渋民公園」旅の日・2018年6月30日書名・「一握の砂」著者・石川啄木発行・「石川啄木」石川啄木筑摩書房1992年発行この日の北上川。岩手山は山頂が雲に隠れてしまった。渋民...~やわらかに柳青める北上の~(岩手県渋谷村)

  • 悪霊島 (岡山県井原市)

    金田一耕助さんが大活躍する映画は多いが、「KADOKAWA映画」が特によく知られている。「獄門島」は、笠岡沖がモデルで映画も笠岡沖の六島で行われた。大原麗子が六島に来た。似たような題名で、「悪霊島」がある。鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい!「悪霊島」は、鷲羽山沖がモデルで、主役は鹿賀丈史(金田一耕助)。笠岡市西ノ浜を歩くシーンが映画に登場する。小説でも映画でも、重要な役目で神楽の一行が登場する。作者・横溝正史は、備中神楽のことをよく調べて物語に組み込んでいる。旅の場所・岡山県井原市青野町「葡萄浪漫大神楽」旅の日・2024.4.14書名・「悪霊島」著者・横溝正史発行・角川文庫昭和56年「悪霊島」横溝正史角川文庫昭和56年発行第十一章神楽太夫このへんの神楽はいつか三津木五郎もいっていたとおり、備中神楽とよばれてい...悪霊島(岡山県井原市)

  • てんやわんや (愛媛県宇和島市岩松)

    獅子文六の小説「てんやわんや」を読んでいたら、物語のモデルと言われる岩松町に行きたくなった。小説では、宇和島から岩松までバスで約2時間。現代では、40~50分もあれば行けるだろうと、思っていたが・・・ナント!20分もかからなかった。高速道路がトンネルを抜けると、すぐに岩松に着いた。これにはびっくりした。岩松の街は、岩松川沿いに静かにたたずむ南予の落ちついた町並みだった。昨年(令和5年12月15日)、岩松は”重伝建”に指定されたそうだ。おめでたいことだ。旅の場所・愛媛県宇和島市津島町岩松旅の日・2009.10.11書名・「てんやわんや」著者・獅子文六発行・新潮文庫昭和26年私は決心した。東京は危険な都会というべきである。薄暮、焼跡の場所で、突然真に突然、女から求婚されて、自若たる男性があったら、それは野蛮人...てんやわんや(愛媛県宇和島市岩松)

  • 高瀬舟 (京都市知恩院)

    いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人ひとりで乗った。有名な森鴎外の、有名な「高瀬舟」の、有名な名文・美文のところ。特に、”智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに”、の文章が好きで。(誰でもそうだろうが)いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。桜の季節になると、この文章を思い出し知恩院の桜、入相の鐘。それ...高瀬舟(京都市知恩院)

  • 梅干しを食べる

    梅干しは、もっとも身近な「食べ物」だった。おやつとして、竹の皮に挟んで吸う。その後で食べる。弁当として、弁当箱の真ん中にあるもの。握り飯に入れるもの。晩飯の食卓の中央に置いて、誰でも箸が届く、家族共通のおかず兼食後のお茶の友。今、「握り飯」はコンビニの代表食品であるが、梅干しには種がないようだ。ごま塩で握ってなく、海苔がついている。海苔は自分で巻いて食べる、新技法でおもしろい。「江戸の町くらし図鑑」江戸人文研究会廣済堂2018年発行梅干し梅干しは昔から身体によいとされてきた食品のひとつです。お弁当に梅干しを入れるのは、黄色ブドウ球菌、0-157の増殖を抑制するからです。梅干しを食べると元気になるのは、クエン酸の効果で、疲れの原因となる乳酸の発生を抑えるからです。疲労物質の乳酸はガンを増殖させる物質でもあり...梅干しを食べる

  • 豆腐を食べる

    「アゲにおとーふ」と言いながら、豆腐売りが茂平の家々をまわっていた。豆腐を買う家は、笊を持って道べりまで出て買う。お金か、または大豆と交換していた。すぐ近所に何故か「豆腐屋」と呼ばれる家があった。父に聞くと、昔は豆腐を作っていたので「豆腐屋」と呼んでいる、と話していた。農家にとって、豆腐汁とか、豆腐の入った料理はご馳走だった。「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」岡山県昭和58年発行豆腐煮た大豆を碾臼で挽き、それを豆腐袋にいれて絞ると、豆乳とオカラに分かれる。豆乳を豆腐箱・豆腐袋に入れて汁で固めると豆腐ができる。苦汁も自家製で、塩を甕の上において、塩からたれ落ち苦汁を使った。豆腐は大豆を収穫して、晩秋から節季にかけてたびたび作った。秋祭り・八日待ち・正月・旧二月一日や三月節供、あるいは葬式などでは必ずといっていいほど...豆腐を食べる

  • 里芋

    古代の主食だった「さと芋」は、どこの農家にも植えていた。どの道ばたからもサトイモの葉がよく見えていた。実を小さく切って、煮たものが食卓にのっていた。美味くも、不味くもない野菜だった。雨の翌朝は、葉っぱにできた大きな水たまり(水滴)が、ころころ動いたり、落ちたりするのが楽しかった。「日本の伝統野菜」宮崎書店板木弘明2015年発行さといもいねよりも古くから主食にされてきた野菜。さといもは、アフリカやオセアニアで主食となっている「たろいも」と同じ仲間です。日本へは中国を経由して伝わりました。縄文時代にはすでに食べられていて、いねよりも前から人々の主食だったと言われています。山に生えているやまいもに対して、人里で育てたのでさといもとよばれるようになりました。はじめに種いもを植えつけると、その上に「親いも」ができ、...里芋

  • 蜜柑(みかん)

    昭和35.36年頃の雑誌の写真記事に、人気絶頂の双子の歌手「こまどり姉妹」が炬燵に入って温州ミカンを食べていた。芸能人とか、お金持ちは、テレビを見ながらミカンを食べるんだな。うらやましいな、と思った。我が家にテレビはなかった。ミカンもなかった。日本経済は世界を驚かす成長が始まろうとしていた。国も農協や家の光やメディアを使い農家に、ミカンを奨励した。その頃、父母は山の段々畑にミカンを植えていった。笠岡湾の海に面し、笠岡湾には打瀬船や旅客船や貨物船が♪黒い煙を吐きながら・・・行き来していた。それは美しい風景だった。父母のミカン畑は茂平では多い方だった。いちばん本数が多かったかもしれない。だが、芸予諸島や愛媛のミカン畑とは、とても比較できない零細規模だった。父母は儲ける果物として植えたミカンだったが、実が成り出...蜜柑(みかん)

  • 姫井繁次

    場所・岡山県倉敷市茶屋町今では信じられないだろうが、家で飲む水も、工場で使う水も、昭和30年代は井戸水を使っていた。ところが井戸を掘っても、水量が少ない地域や、塩分が多くて飲めない地域も多くあった。水汲み仕事は大変だが、塩分の多い地域は、それに加え水を溜める仕事があった。都窪郡茶屋町は児島湾の新田で、塩辛い水しか湧かなかった。姫井繁次町長は水道を敷設すること、高梁川の水をつかうこと、それを大正時代に提唱し、実現させた町長さん。英傑町長だと思う。・・・記念碑本町は元来干拓地で適当な飲料水がないため町民は砂ごしの川水天水を用い後には井戸を掘ったり担い水を買いなどして飲料としたが飲料水確保の根本的な解決とならず、伝染病やジストマ患者が続出し町民の日常生活の不安は年とともに深刻になったのである大正中期姫井繁次氏は...姫井繁次

  • 2024年の桜・総集編

    今年の桜は、開花が一時停滞したので長期間に渡って花見が楽しめた。およそ100ヶ所の桜を、記録と備忘のため編集しページにした。2024年の花見・総集編作成日2024.4.13(kasaoka.sub.jp)(笠岡市「十一番町緑道公園」の桜)2024年の桜・総集編

  • 福山城の桜

    行った日・2024年4月10日場所・広島県福山市天気に誘われて、福山と笠岡の桜を観て回った。そのうち広島県の桜名所である「福山城」は特にきれいだった。桜はやはり、天気が必要だなと思った。福山市を代表する高層建築物。左から「アイネス福山」「アルファゲートタワー」「福山城」、いちばん高い建築物は?・・・「アイネス福山」のようだ。高さ101m。福山城の桜

  • 桜渓塾跡の桜

    場所・岡山県井原市芳井町簗瀬「桜渓塾跡公園」訪問日・2024年4月7日嘉永6年(1853年)に創立された、「興譲館」は、現在全国屈指の歴史を誇る高校であり、女子マラソンの強豪としても知られている。初代館長となった漢学者の阪谷朗廬は、それ以前、ここ”桜渓塾”で塾長を行っていた、桜渓塾(おうけいじゅく)嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が伯父山鳴大年、岳父山成直蔵の協力によって簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、青少年の人材育成のため大いに尽くしました。桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出し...桜渓塾跡の桜

  • スネコスリの井領堂

    場所・岡山県井原市七日市町訪問日・2024年4月7日岡山県を代表する桜の名所のひとつ、「井原堤」(いばらづつみ)。その井原堤から西へ進むと井領堂がある。(井原堤)江戸時代にはこの辺り、「スネコスリ」というお化けが出て街道を通行する旅人を困らせそうだ。「ふるさと探訪出部の史跡」いずえ地区まちおこし協議会平成30年発行いろんどう井領堂(大師堂)井領堂は、旧山陽道沿いの七日市町西の字井領(現アクティブライフ井原東側)に建てられた辻堂で、写真右側に「南無阿弥陀佛」と彫られた名号碑に「宝暦十一年(1761)己天三月吉祥日施主藤代幸左衛門」と刻されており、江戸時代の中頃には建立されていたことがわかる。当時の井領堂は田の脇の寂しい所で、夜には「スネコスリ」という犬の形をした化け物が出て、通行人のすねをこすると、とたんに...スネコスリの井領堂

  • 神護寺本堂の桜

    場所・岡山県笠岡市甲弩「神護寺」訪問日・2024年4月6日江戸時代後期以降の建築物は、笠岡ふきんでも、珍しくないが江戸時代中期・前期となると滅多にしか見ることが出来ない。まして、ここ神護寺の本堂は戦国時代の建造物。本堂の前に立つと、風雪に450年耐えて、神々しくさえ感じる。岡山県指定建造物神護寺本堂神護寺はもと神宮寺と呼ばれ、甲怒(弩)神社の別当寺として創建されたと考えられるが、その時期は明らかでない。室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得ていて、現本堂が永禄11年(1568)10月に、小田高清を大檀那として建立されたことを証する銘文が棟木に墨書されている。また寺内に、天正3年(1575)8月18日死去した高清の位牌が祀られている。戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。さらに本堂には棟札二枚があり、その一枚は天...神護寺本堂の桜

  • 頼山陽像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」川中島鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過わたる曉に見る千兵の大牙を擁するを遺恨なり十年一剣を磨き流星光底(りゅうせいこうてい)長蛇を逸す頼山陽の”川中島”は小学生の時に知っていた。漫画で知った。「赤胴鈴之助」で知った。赤胴鈴之助の師匠、お玉が池の「千葉道場」の千葉周作が吟じていた。〽べんせいしゅくしゅく千光寺公園のポンポン岩の前に銅像と説明看板がある。それを記す。頓山陽広島県竹原市の人、「日本外史」「日政記」などを著わし、明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。磐石坐す可く松拠る可し松翠缺くる処海光露わる六年重ねて来たる千光寺山紫水明指顏に在り萬瓦半ば...頼山陽像

  • 田能村竹田像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」田能村竹田先生は、滝廉太郎や広瀬中佐で有名な九州竹田の人。岡藩の藩医で画家。尾道と、どういう関係があるのかは不明。・・・(Wikipedia)田能村竹田たのむらちくでん田能村竹田は、江戸時代後期の南画家。幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜。通称は行蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。生年月日1777年7月14日死亡日1835年10月20日・・・文化庁「文化遺産オンライン」田能村竹田は岡藩々医田能村碵庵の次男であつて、兄の跡を継いで藩医を勤め、又藩学由学館の司業となり豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂に預つて功があつた。職を退いてからは、専ら詩画等の研鑚に心を潜...田能村竹田像

  • 妹尾正雄像

    場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」千光寺公園の美術館下、三春滝桜の近くに銅像が建っている。画家のようだ。「妹尾正雄像」であり、像にその人の説明が書かれてあった。それを転記する。「妹尾正雄像」美術教育に打ち込むかたわら風景を題材にする油画を描き続け独自の境地をきりひらいた1912年12月20日福山市御幸町に生まれる1933年広島県師範学校卒1934年独立美術協会展初入選・尾道美術協会創設に関わる1949年広島県美術展創設に関わり審査員となる1953年広島県高等学校美術研究会を創設し20年間理事長1955年独立美術協会会員1992年広島文化賞・独立美術協会功労賞受賞1994年紺綬褒章1996年7月14日西久保町の自宅にて死去撮影日・2024年4月1日妹尾正雄像

  • 日本三大桜を見に千光寺公園に行く

    行った日・2024年4月1日行った所・広島県尾道市西土堂「千光寺公園」去年、(倉敷市)児島に日本三大桜を見に行った。たいへん綺麗だった。その後、何も児島まで行かなくても千光寺山に行けば、そこに三大桜があることを知った。それで、今年は三大桜を見に千光寺公園に行こうと思っていた。本当のことを言えば、満開の花見に生きたかった。けれども、開花が進まず(開花予報もハズレ)やむなく日本三大桜に変更した。尾道市立美術館の北側の下、そこに「三春滝桜」。「神代桜」は見つからなかった。ココ☟にあるはずだけど、なかった。観光ガイドさんに聞いてもわからなかった。「根尾谷薄墨桜」、尾道山荘の前。気品のある美しさだった。本日は全国的に快晴。雲一つない、いい天気だった。日本桜100選「千光寺の桜」、が満開でなく、咲き始めということだけ...日本三大桜を見に千光寺公園に行く

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