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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 麦を作る②真田を編む

    城見小学校の講堂は「真田講堂(さなだこうどう)」と呼ばれ、児童の学校自慢の一つだった。戦前、城見尋常小学校の生徒が何年間も真田を編んで貯めたお金で建てた講堂。ここで式や映画や学芸会をしていたが、昭和50年頃老朽化で壊された。・・・・(父の話)真田講堂はまだなかった。ちいとずつ貯金をしていって作った。えっとみんなで貯金していた。2000・5・14子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。2000・6・17・・・・・(懐かしの真田講堂)・・・・「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館昭和52年発行麦麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほと...麦を作る②真田を編む

  • 麦を作る

    5月の終わりごろ、学校への道は道端に干した苅りたての麦がぷ~んと匂っていた。小学校の時も、中学校の時もそうだったが、高校生の通学路には、その思い出がない。思い起こせば、その頃に家から麦飯はなくなり、祖母の内職だった真田も無くなった。畑や田んぼから麦が消えたのは高校生の時だった。・・・・(父の話)小麦藁を屋根にしとった。小麦でなきゃあつかえなんだ。細いし大けい。裸麦は搗いて食びょうた。搗いたら白うなる。そりょぉ米に混ぜて。昔の「麦飯」いうのは裸麦を混ぜのをようた。真田麦は裸麦を硫黄で蒸して、摘んで、さらして白ぉして、それで真田を組みょうた。打って、やおうして、手でもみょうた。(縄を編んでいた)だいぶ打ってやおうしとかんと編めなんだ。2003・5・18・・・・「矢掛町史本編」ぎょうせい昭和587年発行すたれゆく麦作...麦を作る

  • 綿を作る

    茂平の内海(うちうみ)に接した畑には白い綿の畑があった。綿畑は、いかにも塩分が強い土壌を子供心にも感じていた。・・・・(父の話)綿綿は塩分をいくらか含んだところの畑で、麦の後作で植えていた。ほりあげの畑に植えとった。内海のネキは塩分があるんで。綿はようできとった。談・2001年1月5日・・・・「岡山県史・民族Ⅰ」昭和58年山陽新聞社綿綿の本確的な栽培は江戸時代から明治20年頃までである。安い外綿の輸入によって生産が減少した。霜に弱い。「地にあう」ところと、合わないところがある。県南の干拓地ではまず綿を植え、シオヌキをした。金肥として干鰯などが重要な肥料であった。収穫は手摘みで人手を要したので、子供たちをかり出した。・・・「吉永町史」吉永町史刊行委員会編吉永町昭和59年発行綿平地で作られた。春八十八夜ごろに蒔いて...綿を作る

  • イ草を作る

    汽車に乗って岡山に行くとき、鴨方駅を過ぎる頃から藺草が車窓風景になった。金光~玉島~西阿知~倉敷~中庄~庭瀬~岡山、そのすべてがイ草の風景だった。特に中庄付近は印象深い。しかし岡山から宇野線に乗った時は、もっとびっくりした。妹尾~早島~茶屋町の辺りは見渡す限りのイ草の大平原だった。まあ驚いた。今は全く残っていないが、そのことにもまた、驚く。(総社まちかど美術館)「岡山県史民俗1」イ草(藺草)藺草早島町周辺はわが国屈指の綿作地だったが、明治20年代から藺草が広く栽培され、都窪郡・倉敷市・岡山市・吉備郡南部が産地となった。とくに、早島町・岡山市福田地区・妹尾地区に多かった。12月中頃から1月の寒中にかけて氷を割って田植えをする。つらい作業である。春になると急速に生長し、伸びすぎると品質が落ちるので、5月中旬頃先を刈...イ草を作る

  • 除虫菊を作る

    瀬戸内海地方を代表する風景でもあった除虫菊。今は観光用に因島に少し残るだけ。・・・・除虫菊(父の話)畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。除虫菊はめんどくせぇ。(刈ったあとで)菊の花を落とす。植えるのは新涯の畑が多かった。カド(家の庭)へひろぎょうた。雨が降ったらいけんので畑には干さんようにしょうた。どこの家にも除虫菊はつくりょうた。砂地。花を摘んで干しょうた。庭にむしろをひいて干しょうた。買い人が来て(茂平の農家から)買うていきょうた。じく(除虫菊の幹)はくすぼらす。捨ちょうらなんだ。晩にくすぼらせば蚊やこがきょうらなんだ。2002年6月23日・・・・除虫菊(母の話)学校の下の加藤さん。干たのを買いにきょうた。けっこうにひたのはええ値で買ぅてくりょうた。花は三べん切る。乾かしたら買いにきょうた。除虫菊は...除虫菊を作る

  • 養蚕業その③昭和恐慌、その後

    盛んな時代は、あっという間に去ってしまう。養蚕の盛んだった時の農産物で、今も残っているのは稲作くらいか?養蚕、イグサ、麦、除虫菊、薄荷、菜の花、梨が消えた。残っているのは稲と桃くらい。田舎からは二毛作も塩田も消えてしまっている。(群馬県・富岡製糸場2017.9.25)・・・・「鴨方町史本編」鴨方町平成2年発行昭和恐慌化の鴨方1930年3月から株式市場も一斉に下落をはじめ、物価の下落に連動した。生糸55%、綿糸52%、米50%の下落を記録。米と繭の日本農業を直撃することになった。産業界は極度の不振に陥っており、首切り・合理化の嵐の中で失業者が急増した。出稼ぎ者の帰村が始まり、農村は農産物の下落と帰村者の増加によって負債をかかえる農家が増加。農村恐慌に突入することになった。鴨方町および六條院村では、麦稈真田の輸出減...養蚕業その③昭和恐慌、その後

  • 養蚕業その②お蚕様

    屋根の上に、さらに小さな換気屋根の家が、笠岡市にもいくらか見ることがある。たぶん養蚕が盛んだった昭和のヒトケタ時代の新築家屋だろう。ある農家の人に、「かつて養蚕をしてましたか?」と聞くと、「うちは、家が小さいのでしていませんでした」との返答だった。養蚕は仕事場が家屋内なので、家の規模も必要だったようだ。・・・・繭「日本流通史」石井寛治有斐閣2003年発行繭第二次世界大戦前の日本農業は「米と繭」によって代表された。1930年(昭和5)年当時における養蚕戸数は全国で222万戸に達し、全農家550万戸の40%を占めた。長野県や群馬県のような主要な養蚕地域では全農家の70%にもなる。繭の生産額は、1933年度の統計では米の14億円に対して5億円程度に過ぎない。しかし米の1/2は農民が自分で消費しており、販売米の1/3は...養蚕業その②お蚕様

  • 養蚕業その①桑園

    近所の散歩道で、川の土手などに桑の木をよく見る。井笠地方にも、いたるところに自生したかのように残る桑の木がかつての盛んだった時をしのばせている。(父の話)談・2000.6.25養蚕茂平には・・・・なかった(戦前戦後)大冝や用之江のものは作りょうた。用之江との峠の畑に桑畑があった。それは地主が用之江の人。茂平には蚕をする人はおらなんだ。(おば=父の妹の話)養蚕茂平も城見もおぼえておらん(養蚕はなかった)。小平井へ嫁に来た時。姑が「飼ようた」ゆうてようた。(嫁に行った時には、既に養蚕はしてなかった)「その頃はのう、上座にも寝られん。畳をあげて・・」寺で寝ょうたん?じゃろうか。あれをせんとお金になるもんがなかった養蚕をせんと食べていかれんようた。茂平の山に桑畑が一本あった。(弟の)まさしが「実を食べれる」、いってまさ...養蚕業その①桑園

  • 薄荷(はっか)の栽培

    薄荷は戦前・戦後、吉備を代表する農産物のひとつで、茂平も、そして城見村にとっても有力な農産物だった。小田郡城見村が笠岡市に合併した時期くらいから衰退し、昭和35年頃には無くなったように思う。(父の話)薄荷薄荷は「ししゅうだ」と「うつろ」と「しんげい」で作りょうた。焼けんとこ。ねばいとこでないとできなんだ。談・2002年6月23日(おば=父の妹の話)畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。薄荷は、新涯に薄荷を植えて、吊るして乾かしょうたヒヤ(の軒下に四方を)干しとった。仲買人が買いにきょうた。談・2017.2.9・・・・昭和16年2月14日、城見村長から岡山県知事に提出した「工業調査」を転記する。工場名藤川薄荷油製造所小川薄荷油製造所・・・・「矢掛町史民俗編」矢掛町編ぎょうせい昭和55年発行薄荷明治末頃から普...薄荷(はっか)の栽培

  • 台湾沖航空戦⑥レイテ島~硫黄島~沖縄~終戦

    レイテ島1944年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。兵力の集中しているルソン島での決戦を求めた現地軍の反対を押し切り、大本営陸軍部は、レイテ島での決戦に踏み切った。(「幻の大戦果大本営発表の真相」辻泰明NHK出版)これより前の10月9日~14日の台湾沖航空戦で空母11隻、戦艦2隻を撃沈と発表したことが頭にあり、ここで叩いて一勝を挙げたいと考えたのである。実際の戦果は重巡洋艦2隻大破のみにすぎなかったが、海軍は自己の面子を守るため、この事実を国民はもちろん首相、陸軍にも教えなかった。この海戦で連合艦隊はもはや海上戦力としての体をなさなくなった。もはや通常の航空攻撃では戦果が挙がらないと判断した海軍は、飛行機に爆弾を積んでの体当たり、神風特別攻撃隊を出撃させた。(「幻の大戦果大本営発表の真相」辻泰...台湾沖航空戦⑥レイテ島~硫黄島~沖縄~終戦

  • 台湾沖航空戦⑤レイテ沖海戦、特攻へ

    日本が、マリアナ沖海戦で敗れサイパン島を失ったところで、太平洋戦争の勝敗は、ほぼ決していた。本来、冷静な立場にたてば、ここで和平を乞うという道もあった。それでも、あきらめきれずに、なんとか一回大勝利をおさめ、有利な条件で講和に持ち込みたいと願いつつ決戦を呼号していたのである。それが、なまじ台湾沖航空戦で大勝利をおさめたと発表してしまったために、日本は戦争に負けているのではなくて、勝っていることになってしまった。以後、大本営発表による幻の戦果の連呼のもとで、日本は絶望的な戦いをつづけることになり、沖縄や本土空襲や原爆投下やソ連参戦など、数々の悲劇を生むことになる。(海軍鹿屋基地)もうひとつ、特攻作戦に与えた影響を指摘しておきたい。大本営発表は、もはや歯止めがきかなくなった。レイテ沖海戦以降、頻繁に行われるようにな...台湾沖航空戦⑤レイテ沖海戦、特攻へ

  • 台湾沖航空戦④大勝利後の国民大会

    昭和19年10月20日、東京の日比谷公会堂で国民大会が開かれ、壇上、小磯国昭首相は次のような演説を行なった。「諸君。我々国民、待望の的であった決戦の幕は切って落とされました。敵の空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦40数隻を撃沈、殲滅せられたのであります。古来、戦史にその類例を見ざる、限りない輝かしさであると言わねばなりません」その話しぶりや表情、しぐさを見るかぎり小磯首相は戦果を信じきっていたと判断せざるをえない。一国の首相が知らされないとすれば、太平洋戦争中の大日本帝国は外見は軍部独裁でありながら、その内容は自分の属する組織の利害のみにとらわれて、ばらばらに行動し、なんの連携も統率もないまま、迷走をつづける奇妙な機械のような国家にすぎなかったのではないかと思わざるをえない。小磯首相が演説した翌日の10月21日、海津美...台湾沖航空戦④大勝利後の国民大会

  • 台湾沖航空戦③搭乗員が見たもの

    搭乗員が見たもの陸攻機長だったTさん(83才)電探(レーダー)の能力が悪いんですよ。目で見た方が早いの。「我、燃料なし、自爆する」というような無線がはいりますし、結局攻撃はできずに沖縄に帰っていたんです。・・・どうやって、敵艦隊を見つけることができたのか。それは、なんと、敵艦が打ち出す対空砲火によってだった。・・・陸攻、副操縦士だったOさん(76才)主砲みたいなのを撃つわけですよ。青白い光がパーッと出るんですよ。機銃がザザザザっとこう撃ってきますから、ああ、いるってわかるんです。空母を攻撃せよというのが至上命令だったです、もしくは戦艦と。空母は17隻というから、一つや二つはやれるかと思ったけれども、それが全然見えない。ただ出てくるのはグラマンばかりでしたね。今思えば、ちょっと考えられない無謀な作戦でしたね。向こ...台湾沖航空戦③搭乗員が見たもの

  • 台湾沖航空戦②台湾沖航空戦の大勝利

    昭和19年10月19日、大本営は台湾沖で、敵の過半の兵力を壊滅したと発表した。日本海軍は、日露戦争における日本海海戦で歴史的大勝利をとげたが、その再現ともいうべき快挙だった。戦果撃沈・・・空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。撃破・・・空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。我が方損害未帰還機312機戦争は勝ったも同然との気分が広まり、新たに作られた『台湾沖の凱歌』(サトウハチロー作詞・古関裕而作曲)という歌がラジオから流された。昭和天皇は大戦果をあげた部隊に対しお褒めの言葉を賜った。「朕が陸海軍部隊は緊密なる共同の下、敵艦隊を邀撃し奮戦、大いにこれを撃破せり。朕深くこれを嘉尚す」その当時ハルゼー大将率いる母艦は、改造軽空母を含めても17隻だった。これはいったいどういうことだろう。数え間違いか、勘違いか、あ...台湾沖航空戦②台湾沖航空戦の大勝利

  • 台湾沖航空戦①「絶対国防圏」とサイパン陥落

    昭和19年10月の台湾沖航空戦の”大勝利”の前後をまとめた。絶対国防圏1943年9月、日本軍は「絶対国防圏」を設定、戦場を縮小するかわりに、これより内には米軍を一歩も入れないとの決意を示した。マリアナを失えば日本列島の大部分はB-29の航空圏内に入り、戦争継続は不可能となることが分かっていたからである。東部ニューギニア、ソロモン、マーシャル方面には多数の陸海軍部隊が残っていたが、事実上見捨てられた。サイパン陥落1944年6月、米軍は空母15隻を基幹とする機動部隊の援護のもとマリアナ諸島サイパンに上陸。迎え撃つ日本機動部隊(空母9隻)とマリアナ沖海戦が起こった。米軍は高射砲弾にVT信管を使用、日本機動部隊は事実上壊滅した。孤立無援となったサイパンは陸海軍2万人、民間人1万人の犠牲と共に陥落した。つづいてテニアン、...台湾沖航空戦①「絶対国防圏」とサイパン陥落

  • 「愛ちゃんはお嫁に」

    城見小学校の校長先生や教頭先生が、「子供は流行歌を歌ぉちゃあいけん」と生徒によく話していた。いや訓示していた。しかし城見小の生徒が流行歌を歌うのを止めることは微塵もなかった。村の子供たちに一言説教するようなおじさん・おじいさんもいたが、流行歌については、奨めることはなかったが、それを止めということもなかった。それもあり先生に言われても、子供は学校以外ではおおっぴらに流行歌を歌っていた。告げ口をする訳ではないが、歌が嫌いな子が流行歌を歌う子に「歌ぉたらいけんが」と言ったときに決まったように返す言葉があった。それが「こりゃあ流行歌じゃあねぇ」。その代表が”愛ちゃんはお嫁に”〽愛ちゃんはお嫁に・・・、と歌うところを〽〇〇ちゃんはお嫁に・・・と変えて歌う。「愛ちゃんはお嫁に」〽お~~い、船方さんよ~、と歌うところを〽〇...「愛ちゃんはお嫁に」

  • 「歌と戦争」

    「歌と戦争」櫻本富雄アテネ書房2005年発行音楽の戦争貢献日本にレコード会社が創設されたのは1909年の日米蓄音器商会といわれている。コロンビアレコードの前身である。1934年(昭和9)には次のような会社が設立されていた。日本ビクター、日本ポリドール、キングレコード、テイチクレコード、タイヘイレコード。レコード文化や歌謡の隆盛の烽火に油を注いだのは映画の出現であった。いわゆる映画主題歌の出現である。松竹映画『愛染かつら』の「旅の夜風」東宝の『熱砂の誓い』の「馬」松竹の『蘇州の夜』の「蘇州の夜」東宝の『燃ゆる大空』の「燃ゆる大空」東宝の『決戦の大空へ』の「若鷲の歌」・・・などの主題歌を続出させた。音楽は、戦争推進に多大の貢献をしたのである。ところが、それらの音楽を生産した「死の音楽商売人」の責任はほとんど問題にさ...「歌と戦争」

  • 「童謡」と「唱歌」

    「童謡の百年」井手口彰典筑摩書房2018年発行童謡と唱歌童謡と唱歌は同じものだろうか?違うとすれば、どう違うのか?どちらにしても、それがどうした今の日常生活には何の関係もないことだ・・・といったところが自分を含む大多数のように思う。2018年は「童謡誕生百年」だと言われている。大正7年鈴木三重吉が児童向け雑誌「赤い鳥」を創刊し、そこを舞台に多くの童謡が生み出されました。鈴木は、わざわざ「童謡」という言葉に、新しい意味を込める実践を始めた。その背景には、子供たちに提供されていた歌、すなわち唱歌に対する鈴木の強い反発意識がありました。明治政府と唱歌明治5年近代的な学校制度である「学制」を発布します。この学制の中に「唱歌」があり、今の「音楽」に近いものでしょう。この科目に子供たちにうたわせる歌曲の総称としても「唱歌」...「童謡」と「唱歌」

  • ひいひい祖母さんの機織り

    ひいひい祖母さんは弘化3年(1844)に生まれ、昭和18年(1943)に死んだ。今風ならば岡山県知事か厚労大臣からの長寿表彰や新聞記事になるくらいの長寿だったが、戦時中のことでもあり、塵のように去っていったようだ。ひいひい祖母さん=母の話ではいつもの時間に起きてこないので見に行くと亡くなっていたそうだ。ボケもなく、病気もない、完全なる(?)老衰死。)父の話では、家に長く機織り機があり、ひい祖母さんや、ひいひい祖母さんが使っていたそうだ。「暮らしの世相史」加藤秀俊中公新書2002年発行機織り農家で木綿をみずから栽培し、それを織って衣料品を作る、というのはついこのあいだまでごくあたりまえのことであった。明治末期の村では、一家の主婦のしごとのなかでは機織り、裁縫というのがおおきな比重をしめていて、彼女たちは毎晩のよう...ひいひい祖母さんの機織り

  • 快速サンライナー

    場所・JR山陽本線(福山駅~岡山駅間かな?)無くなった日・2022年3月12日・ダイヤ改正撮影日・2008年4月6日(撮影場所・笠岡市笠岡)10年ほど前までは、笠岡駅発着の電車は1/2程度が快速だった。年々減っていって、最近は乗ろうとした電車が快速だと「おっ今日はサンライナーか」という感じだった。今回の改定で全廃するそうだが、既に減っているので何も思いはない。それよりも、金光駅発着が数本新設されるそうだ。生まれてこの方、金光駅が終始発駅、とは経験もないし、想像したこともない。笠岡から岡山や倉敷に行くときは、「上り」だけでなく「行先」も確認しなければならない。難儀なことだ。快速サンライナー

  • マリーナホップ広島

    場所・広島県広島市西区観音新町無くなった日・2025年3月予定撮影日・2006年11月3日マリーナホップが解体されるそうだ地主の県が、次の事業を決めたと新聞に載った。完成当初は観光バスのコースにもなったが、それも長く続かなかった。広島市民以外だと、アクセスに難があった。特に広島駅から悪かった。中国新聞2022年1月14日広島市西区の商業施設、広島マリーナホップが解体、撤去される見通しとなりました。広島県は13日、マリーナホップが県から借りている土地で2025年3月以降、「ひろしまモビリティゲート(仮称)」を整備する案を採用しました。多目的サーキットや車関連の体験ができる建物などが集まる施設。トムス(東京)と広島トヨペット(西区)が提案したそうです。マリーナホップ広島

  • 国を守る ~ お台場~

    第二次大戦末期に日本国内では、あわてて本土防衛の備えをしようとしたが、当然ながら役に立つ物は何一つできなかった。半年で国土防衛施設を造ろうとした幕末の「お台場」も、事情がなにかとよく似ている。「武器が語る日本史」兵頭二十八徳間書店2019年発行江戸湾の品川沖「台場」築造は、無駄な努力だったのだろうか。嘉永6年6月、ペリー艦隊が江戸湾を去った直後、幕府老中の阿部正弘は、緊急に日本国として採るべき軍事外交の策について、広く国内から意見を求めた。上は大名から下は庶民まで、八百余通の意見書が幕府に寄せられた。中でも、旗本小普請組の勝麟太郎による上申は抜きんでて具体的・現実的だった。勝は、必要な中期の軍制改革とともに、江戸湾に築造されるべき台場の位置と規模を列記した。いずれも、埋立工事の必要はない。現に陸地であるところを...国を守る~お台場~

  • 池澤夏樹・作 「また会う日まで」

    昭和20年、学校工場となった片山女子(現・倉敷翠松高等学校)の女学生だったおばは学校でハンマーを叩いていた。先生は言う、「最後の5分まで闘う、そうしておれば・・・(神国日本には)神風が吹いて、最後には日本が勝つ」この小説にある秘密兵器とは、たぶん、神州不滅の幻想のことだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朝日新聞2021年12月23日文化蘭連載小説池澤夏樹・作「また会う日まで」影山徹・画希望と失意22「1941年の段階で陸軍は支那の平定だけでなくソ連へ進撃することも考えていた」とMは言った。「それに海軍が南方か。三正面とは忙しいことだ」「戦争の基礎は物資だが、これについて楽観論と悲観論がまぜごぜになっていた。そして現場に近い者ほど悲観論に傾いていた。開戦のすぐ前に鈴木企画院総裁という人が閣議で『食...池澤夏樹・作「また会う日まで」

  • 野口英世

    場所・岡山県笠岡市吉田吉田小学校小学生の時、偉人伝の代表的な人だった。城見小学校の時、文部省推薦映画を学校の講堂ですることがあったが、その映画でも「少年野口英世(幼少名・清作)」を見たことがある。貧しい農家に生まれ、囲炉裏で指を火傷したシーンは覚えている。後年、猪苗代湖の湖畔にある生家を訪れたが、貧しい農家ではなくて大きな農家だった。ちょっとびっくりした想い出がある。(野口英世記念館Web)1876(明治9)年、福島県猪苗代に生まれた野口英世は1歳半の時に左手に大やけどを負いましたが、恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服しました。左手の手術により医学のすばらしさを実感し、自らも医学の道を志しました。アメリカのロックフェラー医学研究所を拠点に世界で活躍し、ノーベル賞の候補にも挙がりました。1928(...野口英世

  • 寺田寅彦

    場所・高知県高知市追手筋「オーテピア」前学生の頃、一度は読む本の中に田宮虎彦の名作「足摺岬」がある。その田宮虎彦と寺田寅彦は同一人物だと思い込んでいた。今回寺田寅彦の像を見て別人だと、この歳になって気がついた。(汗)ねえ君ふしぎだと思いませんか呼びかけるようなことば、いいね。(寺田寅彦記念室Web)物理学者、文学者。物理学者としては、初期にX線に関する研究を行い、学士院恩賜賞受賞。また、震災に関する研究も多く、「天災は忘れられたる頃来る」などの言葉で有名。寅彦の研究はあまり経費をかけないものが多いが、着想は素晴らしく、実証を重んじた。文学者としては、主に随筆を執筆。科学者のまなざしで日常を切り取った随筆の他、「団栗」など叙情性に富んだ優れた小品を残している。(銅像の向かい側、寺田寅彦の母校・大手前高校)撮影日・...寺田寅彦

  • 純信・お馬

    場所・高知県高知市はりまや町(はりまや橋たもと)♪土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うをみたヨサコイヨサコイ純信は五台山・竹林寺の坊さん、お馬は鋳掛屋の娘。この二人が恋愛で、お騒がせになった一因に年齢差があったように思える。かんざしを買ったとき、純信は37才、お馬は17歳。当時の年齢でいえば完全に親子の差があり、世間の好奇心の的。二人は恋愛を成就することはできなかったが、別の人生を歩み、天寿を全うしたそうだ。撮影日・2021.12.23純信・お馬

  • 坊ちゃん

    場所・愛媛県松山市大街道3丁目(松山城山ロープウェイ駅)江戸っ子の坊ちゃんは、四国をさんざん田舎あつかいし、小説でも現実でも、たった1年で松山を去っていった。あんまりうれしい話ではないと思うのだが、松山の人はいつまでも、坊ちゃんと漱石先生を敬愛しているようだ。坊っちゃん夏目漱石坊っちゃん団子、坊っちゃん列車、坊っちゃんスタジアム、坊っちゃん湯、坊っちゃん文学賞…松山には「坊っちゃん」と名前がつくものがたくさんあります。もちろんこれは夏目漱石の小説『坊っちゃん』に由来します。また松山での正岡子規との出会いは夏目漱石にとって人生の転機であり、この出会いなくしては文豪・夏目漱石は誕生しなかったのでは…といわれています。松山観光コンベンション協会撮影日・2021.12.25坊ちゃん

  • ねねの像

    場所・兵庫県神戸市北区有馬町有馬温泉「歴史読本」昭和56年7月号新人物往来社秀吉とねねの歩んだ道高橋紀比呂天正15年、京都の聚楽第が完成し、秀吉は大政所、北政所らともに大坂城から移った。やがて、秀吉の側室中に淀殿が加わり、天正17年鶴松、文禄2年秀頼を生む。北政所は、この二人を実子同然にあつかった。秀吉は、奥の支配を北政所にまかせ、陣中に淀殿ら側室を呼び寄せるときも、かならず北政所を通して命を伝えている。文禄の役のおり、秀吉は肥前名護屋から北政所に「大坂へ帰ったら、そなたをゆっくり抱きしめ、物語などしたいものだ」と書き送り、老妻宛とは思えない、艶やかな筆で北政所の心をくすぐっている。文禄2年、秀吉はふたたび北政所を伴って有馬温泉に行き、来し方をふりかえっている。慶長3年3月醍醐の花見が行われた。この席上盃事の順...ねねの像

  • 太閤秀吉像

    場所・場所・兵庫県神戸市北区有馬町有馬温泉「歴史読本」昭和56年7月号新人物往来社秀吉とねねの歩んだ道高橋紀比呂天正11年(1583)4月、秀吉は柴田勝家を賤ケ岳で破り、9月から大坂城普請に着手する。お禰は姫路を離れて大坂に移る。天正13年正月、秀吉とお禰は摂津の古湯有馬へ湯治にでかけた。天下平定の目途もようやくたち、糟糠の妻をねぎらう旅であったろう。19日には茶会を催した。2月5日お禰が同温泉の薬師堂建立費を寄進している。一時荒廃していた有馬温泉の復興に助力した秀吉をしのび、毎年11月、有馬瑞宝寺公園で大茶会が開かれている。(瑞宝寺公園)撮影日・2021年11月30日太閤秀吉像

  • 本四備讃線(茶屋町~宇多津)に乗る

    乗車区間・岡山~多度津乗った日・2021.12.23と12.25かつて「夢の架け橋」と呼ばれていた本四架橋は、あっと驚く三本が出来るという結果となった。完成当初は通行料が馬鹿高く、お金のことを覚悟して利用していた。しかし瀬戸大橋は鉄道併用橋で、これ(瀬戸大橋線)を利用すると普通の電車賃で橋を渡ることができた。笠岡から金毘羅さん、讃岐の高松・屋島、丸亀、が身近で気軽な日帰り観光地となった。瀬戸大橋は車でも電車でも景観がいいが、距離が短くあっという間に終わってしまうのが泣きどころ。(下津井ふきん)「山陽本線・四国各線」山と渓谷社2020年発行本四備讃線本州と四国を「瀬戸大橋」でつなぐ絶景路線本四備讃線は宇野線茶屋町駅から分岐し、瀬戸大橋を渡って香川県の予讃線宇多津駅との31kmをつなぐ。瀬戸大橋を渡りきった列車は宇...本四備讃線(茶屋町~宇多津)に乗る

  • 予讃線(高松~宇和島)に乗る

    乗車区間・宇和島~松山~岡山乗った日・2021.12.25「山陽本線・四国各線」山と渓谷社2020年発行予讃線(高松~宇和島)瀬戸内沿岸をたどる四国の大動脈ルート瀬戸内海沿いに高松~新居浜~松山~宇和島間を結ぶ、本四備讃線を介して岡山との直通運行も頻繁な沿線には、山と海の織りなす絶景が展開する。(山は石槌山)(海は瀬戸内海)予讃線のルーツは1889年(明治2)開業の讃岐鉄道(丸亀~多度津~琴平)にある。金毘羅さんへの参拝ルートを形成したが、1890(明治30)の高松~丸亀間開業、明治39年国有鉄道讃岐線となった。ひたすら西へ延ばして宇和島まで到達した路線である。(宇和島駅)(松山駅)1927年(昭和2)にようやく愛媛県庁所在地の松山に到達したが、すでにそこには明治21年開業の伊予鉄道によって、都市交通のネットワ...予讃線(高松~宇和島)に乗る

  • 土讃線(多度津~高知~窪川)に乗る

    乗車区間・岡山~多度津~高知~窪川乗った日・2021.12.23「山陽本線・四国各線」山と渓谷社2020年発行土讃線険しい地形に挑む四国山地の横断路線開業年1889年(明治22)全通年1951(昭和26)起終点多度津~窪川駅数61駅四国を南北に横断する重要路線最初は3つの県で別々に開業土讃線は、予讃線の多度津から阿波池田、高知を経て窪川に至る198kmの路線である。(多度津駅)(善通寺ふきん・おむすび三兄弟)四国を南北に横断する幹線で、瀬戸大橋線と結んで本州、予讃線経由で香川県と高知県を結ぶ役割が大きい。1892年(明治25)に公布された鉄道敷設法には、「琴平より高知を経て須崎に至る鉄道」と示されていた。しかし、全国レベルで見た優先順位が低かったことや、難工事が予想されたことなどから工事の動きは鈍く、短区間が小...土讃線(多度津~高知~窪川)に乗る

  • 予土線(若井~北宇和島)に乗る

    乗車区間・窪川~宇和島乗った日・2021.12.23(窪川駅)(窪川駅)これから乗るのが宇和島行きの最終便。窪川発17:40、宇和島着20:15。(では、この列車に乗ります)「山陽本線・四国各線」山と渓谷社2020年発行予土線”最後の清流”四万十川沿いのローカル線開業年1914年(大正3)全通年1974年(昭和49)起終点若井・北宇和島駅数20駅『しまんとグリーライン』の愛称で水辺と山里の魅力をアピール軽便鉄道だった宇和島鉄道が前身で、昭和49年に全通し「予土線」となった。沿線の大半は四万十川と、その支流によりそい鉄橋とトンネルが次々に現われる。車窓美を求め、観光客も多い。せっかくの四万十川に沿って列車は走っても、窓の外は暗闇。窪川駅で乗った5~6人の乗客は2つか3つめの駅までに、みんな降りた。長椅子に横になっ...予土線(若井~北宇和島)に乗る

  • 聖徳太子

    場所・奈良県生駒郡平群町信貴山信貴山・朝護孫子寺長く高額なお札の肖像画として親しまれ、古代政治家としてあまりに有名な聖徳太子。信貴山は、聖徳太子が「信ずべし貴ぶべき山」として名付けられ、毘沙門天王を祀られたといわれている。(Wikipedia)聖徳太子(しょうとくたいし)飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。また、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見えない。叔母の推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定める...聖徳太子

  • 保内町川之石を歩く

    場所・愛媛県八幡浜市保内町川之石訪問日・2021年12月24日何年か前から佐田岬に行きたかった。しかし佐田岬は、三崎港から灯台まで道が狭隘のため運転に自信がなく実現できてない。今回南予方面に行くのを機に、佐田岬の付け根にある保内町川之石を訪れた。(佐田岬とセットで行こうと以前から思っていた町)(もっきんろーど)「商い・海運の港を訪ねる」ハイカラの意味を実感する保内町(ほないちょう)佐田岬の付け根にあるのがここ保内町。半島の先端へ陸路でたどり着くには、どうしても通らなければならない町だ。シーボルトの弟子で、その娘イネを養育した二宮敬作の出身地としても知られる。(川之石の前は海、三方はミカン畑に囲まれている)主産業は昭和初期頃までは、紡績、製糸、銅山開発と激変を続けてきたが、現在は柑橘栽培が盛ん。五穀豊穣や人民の繁...保内町川之石を歩く

  • 和気広虫(わけのひろむし)

    場所・岡山県和気郡和気町・和気神社境内戦前の”皇国史観”が絶対的であった時代は、天皇家を守った清麻呂は和気郡も和気町も自慢の郷土の英雄だった。小学校の多くは、校庭に楠公と清麻呂の像を建立し、ついでに小楠公や広虫も英雄になっていた。終戦により楠公も清麻呂も、一挙に歴史から姿を消したが、いまは天皇家と関連しない面での功績が再評価されているようだ。和気広虫和気清麻呂の3歳年上の姉。地方の郡司の娘のならいで采女として都に上がり孝謙上皇に仕え、勅を伝宣する女官を務めた。その人柄は「貞純で節操に欠けるところがない」と評価された。天平宝字8年(764)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の逆徒の助命を嘆願して死刑を流刑に改めさせた。乱で生じた孤児83名を養育し夫の姓を与えるなど、わが国最初の里親制度・施設養護の創始者として知られる。...和気広虫(わけのひろむし)

  • 野村茂久馬翁

    場所・高知県高知市丸ノ内(高知城内)銅像の横に『野村茂久馬翁吉田茂』と銘板がある、知らんなあ。(Wikipedia)野村茂久馬は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。坂本龍馬先生銅像建設会会長。財団法人板垣会会長。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者。高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者。高知城の片隅にひっそりと建っている。撮影日・2021.12.23野村茂久馬翁

  • 令和4年に新名所が誕生した

    場所・岡山県浅口郡里庄町「つばきの丘運動公園」管理人の散歩コースの一つが急に名所になった。年末のNHK紅白歌合戦に初出場した歌手・藤井風さんが、番組で注目され一挙に露出度が増した。お散歩コースには藤井風さんの歌も新年から流れ出した。今日行って見ると、普段は見ない毛色(ファンのような)の人たちが次々に公園を訪れていた。撮影日・2022.1.5令和4年に新名所が誕生した

  • 正岡子規

    場所・愛媛県松山市道後湯之町「春や昔15万石の城下かな」と俳人正岡子規が詠んだ松山市は、瀬戸内海に面した気候温暖、美しい風光に恵まれた土地で、愛媛県の中心地であり、四国第一の都市である。この地に城を築いたのは、賤ケ岳七本槍の一人として活躍した加藤喜明である。築城と同時に城下町も整備された。それが現在の松山市街地の基礎になった。喜明は1627年会津へ転封され、蒲生忠知が入部。在城7年で没し、伊勢国桑名城主松平定行が15万石で入部。以来、松山は松平家15万石の城下町として栄え、明治維新を迎えた。「日本の城下町10四国」ぎょうせい1981年発行坊ちゃんと子規の町松山藩士の子に生まれた正岡子規は、短歌・俳句の近代化を果たしたが、夏目漱石との交友はさらにわが近代文学史上に大きい足跡を残した。東大生時代の漱石は学友だった子...正岡子規

  • くれ坊

    場所・高知県高岡郡中土佐町久礼久礼は「くれ」と読み、久礼は「土佐の一本釣り」の港町。久礼の、駅や市場や商店街にいるのが「くれ坊」。春発鰹「目に青葉山ほととぎす初鰹」冬の間暖かい海を周遊していたカツオがついに土佐沖にやってきます!夏ミジカの新子メジカの新子(幼魚)は釣りあげてから半日だけ刺身で味わえます。近年大人気。秋戻りカツオ太平洋を回遊するカツオが再び土佐沖に戻ってくる秋の戻りカツオ。大きく肥えて、赤身の味と脂の乗りのバランスが絶妙なものがあります。「トロガツオ」と呼ばれたりもします。冬うるめ鰯体長15cmの小さな魚も、久礼では一本釣り。鮮度落ちの早いイワシでも、刺身でいただけます。久礼お宮さん通り商店街パンフレット撮影日・2021.12.23くれ坊

  • 武市半平太先生・坂本龍馬先生・中岡慎太郎先生の像

    場所・高知県高知市高知駅前高知には自家用車や観光バスで行くので、高知駅前は意外や、初めてだったのかもしれない。駅前に建つ三人の”先生”像は大きくてびっくりした。「日本の城下町10四国」ぎょうせい1981年発行幕末の群雄土佐藩の上士対下士の階級内争は幕末期にいっきょに表面化した。藩主と藩当局の上士が公武合体であるのに対抗して、武市半平太を首領とする郷士層の下士集団は尊王攘夷運動に踏み出した。開明・佐幕の執政吉田東洋の暗殺は、藩当局の下士弾圧をきびしくし、脱藩者が相ついた。坂本竜馬も中岡慎太郎も脱藩浪士であった。しかし天下の政局は藩を軸に動いた。上士の後藤象二郎は龍馬と組んで大政奉還の舞台回しを演じ、板垣退助は土佐藩討幕派を率いて官軍の将となった。撮影日・2021.12.23武市半平太先生・坂本龍馬先生・中岡慎太郎先生の像

  • JR西日本「四国くるりきっぷ」で乗り鉄・撮り鉄 (2021.12.23~25)

    観光目的で四国に行ったが、乗り放題の切符なので多くのJR四国の特急に乗ることができた。2021年12月23日・・・・・・・・・岡山~大歩危・特急【南風1号】大歩危駅で降りて周辺を歩いてみた。・・・・・・・・・大歩危~高知・特急【しまんと5号】特急駅とはいえ無人駅で、かずら橋がホームにあった。・・・・・・・・・高知~土佐久礼・特急【あしずり5号】高知市内を見物して土佐久礼に行った。・・・・・・・・・土佐久礼~窪川・特急【あしずり7号】土佐久礼はコミック「土佐の一本釣り」でも知られた港町。」・・・・・・・・・窪川~宇和島・各駅停車乗客一人、運転手一人の区間が一時間以上つづいた。椅子に寝ころんでいた。2021年12月24日・・・・・・・・・宇和島~八幡浜・特急【宇和海10号】ラッピングがかわいらしい、この区間は高原列...JR西日本「四国くるりきっぷ」で乗り鉄・撮り鉄(2021.12.23~25)

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