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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 醤油を作る

    家の土間の隅に醤油を絞る木製の道具があった。その木製の機械から、ぽったんぽったん醤油が落ちて(絞りだされて)いた。その醤油で母は料理をしていたが、お客がある時は、買った一升瓶の醤油を使っていたような気もする。遠い昔の想い出になったが、醤油が落ちる音はよく覚えている。・・・・・ひしお(母の話)何処の家にもおおきな瓶にいっぱいつくっとった。昼からはひやのエンダにおきょうた。日に当たるとこ、日のあたるとこへおきょうた。九月になればほうじができょうた。昔は自然の温度だけでしょうた。談・2000・12.24・・・・・(母の話)小麦を植え、大豆を植え麹を作り。彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。空臼...醤油を作る

  • 養蚕業その④笠岡の製糸業

    養蚕も、そして製糸業も、昭和恐慌で大打撃を受けて後は縮小をつづけ昭和30年ごろに消滅してしまった。・・・・・(笠岡市分庁舎2022.2.25)・・・・・「笠岡市史・3巻」笠岡の製糸現在笠岡市役所分庁舎が建てられている所は、明治5年笠岡製糸場が建設された歴史的場所である。その製糸場は士族授産事業として作られたものである。小田県権令矢野光儀は殖産興業を図るため「蚕事の儀は御国産第一の業」として養蚕を奨励し、製糸の有望性に着目し、県の士族授産の方策として製糸場の設立を考えた。明治5年小田県は福山士族の子女を製糸練習、男を器械公作練習として4人東京に派遣、スイス人に蚕糸製造を習得させた。県為替方の島田組に命じ製糸場を設けさせた。島田組は政府から融資を受け、小田県庁の東方に土地を購入し洋風建物の笠岡製糸場を建設することに...養蚕業その④笠岡の製糸業

  • 西条のコメ

    西条柿で有名な、広島県西条町(現・東広島市)出身のO君が同じ下宿にいた。ある秋の日に、帰省した西条からお米を持って帰ってきた。「焚いて食べよう」と言ったが3畳の部屋にあるのはニクロム線の電熱器だけだった。彼は、たまにお湯を沸かしたり、即席ラーメンを作っていた。下宿の同級生3人で食べることになったが、おかずもない。それで、30円の漬物を一袋買った。ご飯は、電熱器で炊くので時間がかかった。やっとご飯は焚けた、電熱器で炊いたご飯は初めてだった。茶碗についでご飯を食べた。それは、かつて経験したことのない、おいしいおコメだった。おかずは漬物だけだったが、それで十分で、いいおかずがあると、おコメのおいしさが隠れると思った。とにかく、おいしいおコメだった。あまりの美味さに感激したわれわれに、彼は気をよくしたのか、翌週にまた西...西条のコメ

  • 酒を飲む

    父の世代(大正)は酒と言えば、日本酒。祖父の世代(明治)は酒と言えば、日本酒と焼酎。祖父は無類の酒好きだっただが、100年の生涯は焼酎いっぽん。毎晩晩酌をしていたので、(安酒の)焼酎以外ムリ。ついでながら祖父はタバコも大好きだった、93才まで刻みタバコの”ききょう”を吸っていた。老齢で家族から無理やり禁煙となった。・・・・母は”女の一生”の時代背景があり、酒を飲むことはなかった。しかし私が帰省した時は、まっさきに熱燗をして迎えてくれた。その時、母は熱さ加減を確認するかのように一口お酒を口に入れた。それを横目で見ながら、母は本当はお酒が好きに違いないと思っていた。・・・・(父の話)酒ビールは飲みょうらんかった。”酒”と言えば焼酎と酒じゃ。青年団がビールを飲み始めた。若い人が飲みょうただけで、年よりは酒じゃ。談・2...酒を飲む

  • ハミ(まむし)を食う

    昭和30年代、茂平の実家には庭先に畑で獲ったハミを竹の串にさし日干ししていた。「焼いて食べりゃぁ精が出る」ゆうて。殺すか、生でとるか。堂面とうつろに多かった。・・・・・・・・・父もだが、祖父は特に好物だった。が、当時の生活では、捕ったものを食べるより、売ってお金にした方がいいと、一升瓶に入れてハミがたまったら売りに出すようになった。・・・・・・・・・(母の話)二人おりゃあえんじゃ。一升瓶を畑に用意しとく。今でも堂面にゃもっとる。ほれで頭の先からビンにいれるんじゃ。そうすりゃぁ生で獲れる。誰か人間が見ょうたら逃げん。ジーとしとる。見なんだら、その隙にすぐ逃げる。あんげいとっさじゃったら、棒きれで殺すしかねぇ。逃がしたらきょうてぃ。堂面は何回獲ったかもしれん。(ハウス)いちごを作りょうた時にゃぁ、鼠が多いんでネズミ...ハミ(まむし)を食う

  • タバコを吸う

    ユーチューブで昔の映画スターを見ると、裕ちゃんやトニー(赤木圭一郎)はスタジオでタバコを吸いながら歌っている。ああいう時代があったなあ。日本人は30年くらい前からタバコを吸わないようになった。アメリカが早く禁煙国家になり、日本も真似してそうなった。これは、戦後まもない時の田舎のタバコを吸う苦労話。当時、町では「モク拾い」を糧にする人がいた。・・・・・たばこを吸う(父の話)たばこ昔はみんなキセルじゃ。手でもんでのう。上品なもんがマキを吸ようた。ほとんどがキセルじゃ。としよりは全部キセルじゃ。談・2000・12.24戦後すぐの頃は(兵隊の時は「あった。」、けど戦後すぐは)ありゃあせん。(たばこ農家から)金をだして、苗をうえておおきゅうなったら葉っぱをちぎり、陰に干して、せいで、もんで吸ようた。くせえだけじゃ。くすぼ...タバコを吸う

  • 天長節

    明治維新後5人の天皇がいる。明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇、令和天皇。5人の天皇誕生日のうち、明治天皇と昭和天皇は、日本の四季のなかで、いちばんいい季節に生まれたから、今も祝日として残っている。←これは個人見解。特に平成天皇の祝日には少し困った。12月23日はXマス、月末、年末、年度末で忙しかった。はっきり言って業務に支障・負担があった。大正天皇のように、祝日を移動してほしい気持ちがあった。なお、次期の天皇誕生日は5月1日、その次の天皇誕生日は9月6日。そのまた次の天皇誕生日は現時点では空白。(男系なんか言っていると)永遠に埋まらないかもしれない。(アラカン)・・・・・「太平洋戦争下の学校生活」岡野薫子平凡社2000年発行※著者は昭和4年(1929)生まれ。天長節小学校に入学して初めての式は、4月29日...天長節

  • もしかしたらロシア領土になっていたかも? 北関東・東北・北海道

    ロシアがウクライナに侵攻した(2022.2.24)ニュースを見ていると、もしかしたら日本でも、東日本まで、ほんとうにその可能性があったように思えてくる。(読売新聞WEB)昭和20年8月のスターリンの北海道分割案は、トルーマンに即決の拒否されたが、本心は北海道は当然として、なるべく本土の奥深く、帝都東京付近まで侵攻したかったはずだ。日本の指導者にとっては「天皇」を守ること以外眼中になかった。国民は衣食住に事欠き、厭戦気分が充満していた。”ご聖断”がなかったら、いったい日本は、民も領土もどうなっていたのだろう?(一億総玉砕して人口ゼロ?)・・・・本土決戦・生活の崩壊と戦意の低下一億国民を本土決戦に総動員しようとするこのとき、支配者の期待したような国民の戦意の燃え上がりはまったくみられなかった。本土の軍隊と工場要員の...もしかしたらロシア領土になっていたかも?北関東・東北・北海道

  • エビフライの上にかけてある、白くてどろどろしたものは何ですか?

    昭和48、49年頃のこと、今は「オランダ通り」と呼ばれている、岡山の表町商店街の裏通りに、エビフライ定食の美味しい店があった。その当時、玉野市に住んでいて、日曜日にはバスに乗って岡山に遊びに出ることがよくあった。昼食は、決まったようにその店に入り「エビフライ定食」を食べた。それが岡山に出る楽しみの一つにもなっていた。エビフライが、3本ほどついていた。そのエビフライの上には、白くてどろどろしたものがかけてあった。醤油でもないし、ソースでもない、マヨネーズに少し似ているような、いったいなんだろう?あれは。実家で兄嫁に聞いてみた。「あれは、なんですか?」兄嫁は、「それはドレッシングでしょう」と。それで覚えたドレッシングだったが、スーパーに行くと確かにドレッシングと呼ばれる商品が2~3種類ビンで置いてあった。それから数...エビフライの上にかけてある、白くてどろどろしたものは何ですか?

  • 赤線の火消ゆ 昭和33年3月15日

    笠岡市笠岡笠岡の同級生の思い出話・「赤い着物の洗濯物があり、前を早足で通り過ぎていた」忠海の同級生の思い出話・「最後の日、赤い着物を海に流して(女は町から)去った」義兄の思い出話(当時大阪の大学生)・「その日は寮生全員で飛田(とびた)に繰り出して、寮はからっぽになった」おじの想い出話(小学校の同級生の出世頭、六月さんのこと)・「独身の時、小学校の同窓会か笠岡であった。その時、いっしょに伏越の遊郭へ行った」・・・・・赤線の火消ゆ昭和33年3月15日~天声人語~荒垣秀雄”赤線”の日は、きょう十五日で全国的に消える。売春防止法の完全実施は四月一日からだが、実質的には今日が日本の社会風俗史の上で画期的な日になる。業者も転廃業には生活上いろいろな苦心もあったろうが、その反面、恥ずかしい商売をサラリとやめて子供たちの顔をま...赤線の火消ゆ昭和33年3月15日

  • ひな祭り

    北木島の「流し雛」笠岡市北木島町2019.3.31城見保育所の「ひな祭り」はよく覚えている。教室の壁に、先生(今は保育士さん)が千代紙のひな人形を作って貼った。たった二つの千代紙の人形だったが、それを見ているだけで楽しかった。近年はどこの街でも「雛人形展」を催しているが、たまに見る折り紙の雛人形にいちばん目が行く。・・・・・ひな祭りの源流昭和33年3月3日~天声人語~荒垣秀雄いつのまにかもう三月になった。そしてきょうはひな祭り、桃の節句。ひな祭りは女節句だけに優美でやさしい。静的で、みやびやかで、やはり女性のものだ。桃の節句というが、野にはまだ桃の花は咲かず、雪国では家も雪の中にある。ひな祭りは元は流しびなという戸外の行事だった。人間には罪の自覚や穢れの意識がある。その罪の罪や穢れを去って、清らかになりたいとの...ひな祭り

  • 浅間山荘 昭和47年2月19日

    広島県呉市の中通りに会社の事務所があり、そこへ勤務していた。一階の事務所の壁にテレビ台があった。勤務時間にもテレビが付いたままで、浅間山荘を中継していた。役職の人はテレビ画面にくぎ付けで、仕事をする素振りもなかった。ヒラの人は仕事をはんぶん、テレビをはんぶんの感じだった。その年は未曽有の好景気で、日本中が沸いていた。勤務先も絶好調で、社の内外の人が次々に商談や報告や打ち合わせで来ていた。年度末で、迫った工期の打合せに来た担当者が、微動だにせずテレビに食い入る上司に啞然・呆然の姿が今も強い記憶になっている。結局その日は、役職者はテレビでまる一日終わった。テレビ画面は雪深かったが、呉の街も小雪が舞っていた。・・・・・・(Wikipedia)・・・・・・リアルタイムの浅間山荘事件昭和47年2月19日、雪深い浅間山荘で...浅間山荘昭和47年2月19日

  • 「マーガレット姫の恋」 昭和30年10月16日

    日本では、皇位継承権も持たない皇室の人が、婚約を発表したら、週刊誌とTVの昼のワイドショーが、婚約相手を人権・人格を完全無視・否定して徹底的にお暴き立てて非難した。犯罪でも、なんでもない人を、これほど激しく、言いたい放題の悪口・非難は今まで見たことも,聞いたこともなかった。(その人は2020年結婚し、外国に居住した)英国では、王位継承権を持つ人が婚約をしたら、その相手は外国人であり、バツイチであり、異教徒であり、アフリカ系であった、が、それでも結婚した。(その後に、外国に移住し、2020年に王室から去った)いったい日本は、世界標準から何周遅れているのだろう。これは↓、今から66年前の英王室のこと。王位継承権を持つ人が、バツイチの民間人と恋仲になった。・・・・・・・「マーガレット姫の恋」昭和30年10月16日~天...「マーガレット姫の恋」昭和30年10月16日

  • 昭和39年、西郷輝彦が歌手デビューした

    東京オリンピックがあった昭和39年、日本中に活気と若者の雑踏があった。しかし、できたばかりのクラウンレコードは有名歌手が北島三郎と五月みどりの二人だけの、まさによれよれの状態。そこへ「君けを」の西郷輝彦がデビューし、つづいて水前寺清子が売れて会社は継続権を得た。クラウンは西郷で救われた。当時は歌が売れると、即映画化され、歌った人も出演していたが、新聞の芸能蘭では、西郷の演技が上手いという評価だった。管理人もまた、「十七歳のこの胸に」「涙をありがとう」「涙になりたい」は、歌も映画も楽しませてもらった。その後映画では予科練生になったり、小説吉田学校に出たり、テレビでは現代劇、時代劇。主役、脇役、なんでも演じて楽しませてくれた。カラオケでは、「十七歳のこの胸に」「涙をありがとう」「兄妹の星」の3曲が持ち歌。ということ...昭和39年、西郷輝彦が歌手デビューした

  • メートル法 昭和33年3月22日

    体重27貫500の若乃花その頃、茂平の家には農作物の計量用にハカリがあった。大人が計ってくれると「6貫じゃ」、学校で先生が計ると「22キロです」。大相撲のラジオ放送は〇〇貫、△△尺、と力士を紹介していた。今思うと、この頃からアナウンサーもメートル法で紹介に変わったのだろう。天声人語氏が気にしている土地・建物はまだ半分使われているし、アメリカが関するものではヤード・ポンドがそのまま使用しているように思う。メートル法に関係ないが、ちょうどこのころ年齢の数え方が変わった。「年齢(トシ)は何ぼうなら?」「数えでココノツで、満でヤッツです」というような会話をしていた。・・・・・・メートル法昭和33年3月22日天声人語・荒垣秀雄メートル法でいくと、”佐渡は四十九里波の上”の佐渡おけさも”佐渡は百九十二コンマ四キロメートル・...メートル法昭和33年3月22日

  • 「女教師の150センチ・ライン」 昭和31年12月9日 ~天使人語~

    管理人の高校時代に、身長150cm以下の女子同級生は結構多くいた。大人になっても、就職時にそういう差別があるのは聞いたこともない。あると言えば、人事課とか秘書課のような部署には容姿のいい人がいた程度だ。これが自治体でも、地方でなく首都の自治体というのが、ズレをさらに際立たせている。まさか他府県は右へ倣えをしなかったのだろうな。この天声人語には当時流行った、ミス・ユニバースの伊藤絹子”八頭身”や、洋画の話題作”暴力教室”が出ていて、その言葉もなつかしい。・・・・・・女教師の150センチ・ライン1956・12・9天声人語・荒垣秀雄身長150センチ以下の女性は教師に採用しない-----これは東京都教育庁の設けた”李ライン”である。背の低い女性はこの150センチラインで撃退され、教壇から締め出しを食う。近来これほど馬鹿...「女教師の150センチ・ライン」昭和31年12月9日~天使人語~

  • 宦官最後の日

    中国の宦官制度は、日本でいえば大正13年までつづいた。・・・・・(Wikipedia)宦官1924(大正13)年の馮玉祥のクーデターで宣統帝とともに宦官も紫禁城から追放され、その歴史の幕を閉じることとなった。このとき追放されたのは、宦官2000人と女官200人と伝えられる。・・・・・「歴史よもやま話」池島信平文春文庫198年発行宦官最後の日・・三田村泰助明治42年生。立命館大教授。清朝史が専門。橋川時雄明治27年生。大正2年、中国に渡り、北京在30年。文学博士。・・(橋川)宣統帝が出宮されたあと、午後5時近くでした。宦官がゾロゾロ紫禁城の北にある玄武門から出てきました。70人くらいいましたね。それがいかにも女がしくしく泣くように、細い声で泣きじゃくりながら夕日をあびて出て行く。一つの歴史のけじめですね。もうこれ...宦官最後の日

  • 葉たばこを作る

    少学生の時、茂平から用之江の通学路沿いの山畑には葉タバコ畑が多かった。大冝もそうだった。しかし茂平にはほとんど無かった。母方の祖父母は井原市の山村で農業していた。管理人が小学の1~2生の頃、タバコの乾燥小屋を新規に建てた。しかし、「あんまり手間がかかるので一回作って止めた」そうだ。その小屋は今も、そのまま残っている。数えたことはないけど、笠岡市内にもまだ、200以上のタバコの乾燥小屋が残っている。その小屋を見るたびに葉たばこが全盛期だった、昭和30年の田舎風景を思い出している。・・・・・(父の話)葉タバコ麦の間にタバコを植えてとった。麦の陰になりタバコにええ。茂平にはタバコは少なかった。骨が折れる仕事じゃ。夏の盛りの仕事、飯は食わずに畑に採りにいって、家に戻ってからも、葉の仕事をする。談・2005・5・22・・...葉たばこを作る

  • ソ連軍急襲「占守島」の激闘

    占守島の戦いは、それを記した本のどれもが、戦車で戦った連隊長と、札幌にあった方面軍司令官の英雄視した話が多い。この門田隆将の本は軍使だった長島大尉のインタビューが中心になっている。彼の本に限らないが、もう10年早く記録に着手すれば「占守島の戦い」は多くの事実が残ったであろう。今となっては濃い霧に覆わたままで、本当のところはよくわからない気がする。・・・・・「太平洋戦争最後の証言」門田隆将小学館2011年発行ソ連軍急襲「占守島」の激闘・・・真っ先にソ連軍と交戦したのは、村上少佐が率いる独立歩兵大隊の約千名である。占守島を一望できる四嶺山で激しい戦いが始まった。明けて8月19日になっても戦闘はつづいた。村上隊長は旅団本部に打電した。「四嶺山は全員玉砕する」だが、旅団本部は、村上大隊の玉砕を許さなかった。「玉砕は許さ...ソ連軍急襲「占守島」の激闘

  • 南北朝正閏論

    ”南北朝正閏論”は、南北朝のいずれが正統かの論議で、下記の4論がある。南朝正統論北朝正統論両統対立論両統並立論戦前は都合のいい物語が重視で、戦後は歴史学が重視されているが、皇室の歴史だけに自由議論とは言えないように見える。・・・・・・「時代小説で読む日本史」末国善己文芸春秋社2011年発行帝国大学国史科初代教授・重野安績1875年から国家主導による修史事業の責任者になった重野は、西洋から輸入された歴史学に触れ、政府の方針とは異なる主張を始める。複数の資料を比べ、その資料が信頼できるかを検証する実証主義を重んじるようになった。「大日本史」を批判し、児島高徳を空想上の人物と断じた。1893年編纂事業は文部大臣により停止が命ぜられた。南北朝正閨論争明治天皇は北朝系の天皇だが、明治政府は天皇親政を実現させた御醍醐天皇が...南北朝正閏論

  • 御真影と空襲

    かつて日本では、人命よりも写真の方が、比較にならないほど大切な時代があった。・・・・・・空襲下の御真影(ごしんえい)・深柢国民学校空襲下の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には市内中学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。しかし準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。空襲時の悲壮な状況を、市の中心部にあって最も災害のひどかった深柢(しんけい)国民学校についてみる。6月28日、空襲は熾烈になりつつあった。翌29日未明の空襲、数発の焼夷弾で全校舎は一瞬炎に包まれ、運動場も油脂の飛沫で一面火の海と化していた。...御真影と空襲

  • 四大節のうちの「紀元節」

    義母の話談・2022.2.6(義母は昭和5年12月生まれ。後月郡芳井町にある分校と本校に通った。分校には御真影も教育勅語もなかった、ようだ)紀元節の日は、分校でなく本校に行っていた。3時間かけて(遊びながら儀式が始まる時間までに)本校に行っていた。その日は1時間くらいで終わり、終わるとすぐ家に帰っていた。問・昭和21年の紀元節はあったのだろうか?学校に行っとる間は、紀元節はあったような気がする。・・・・父母の話談・2000.6.10父・教育勅語は式典の日に全員で読んでいた。母・読むんじゃあのうて、覚えささらりょうた。(これは学校の違いでなく、父と母のちょとした時代差だと思える)・・・・・「尋常小学校ものがたり」竹内途夫福武書店1991年発行式のために登校した四大節元旦・紀元節・天長節・明治節が四大節。国民全員が...四大節のうちの「紀元節」

  • 矢掛町の古墳散歩④番外編・茶臼山城本丸の石垣遺構

    場所・岡山県小田郡矢掛町矢掛・東三成名称・茶臼山城跡「茶臼山文化の丘」訪問日・2022年2月9日これより矢掛・茶臼山城へ登城する。小田川の流れと矢掛市街地を見ながら登る。春は桜の名所、茶臼山城跡。今日は茶臼山城の石垣遺構を見に来た。春になって若葉が出る前に来ようと思っていた。・・・・・茶臼山城跡天正12年(1584)毛利元清は標高96mの茶臼山へ移城した。そして慶長5年(1600)関ケ原のの戦に西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで16年間在城した城跡である。その間には九州征伐や征韓の役で三度の往復の途次、豊臣秀吉が再三立ち寄った史実がある。更に築城史的にも中世の山城から近世の平城に移る過渡期の枡形を持った平山城の典型的な形式を遺し周囲に濠を廻らし、本丸、太鼓丸、二の丸、三の丸、小丸と幾段にも曲輪や櫓を設け、山陽...矢掛町の古墳散歩④番外編・茶臼山城本丸の石垣遺構

  • 矢掛町の古墳散歩③小迫大塚古墳

    場所・岡山県小田郡矢掛町南山田名称・小迫大塚古墳訪問日・2022年2月9日二度目の訪問だったので、場所を探す心配や手間はなかったが、前回に比べ、周辺の環境が一変していた。ソーラーパネルに左右とも挟まれた、古墳への径だった。・・・・・小迫大塚古墳矢掛町重要文化財所在地矢掛町南山田指定年月日昭和48年4月11日管理者南山田財産区両袖型の横穴式石室をもつ、一辺23~27mの方墳。現在石室全長10.7m、玄室の長さ6.5m、幅2.4m、高さ2.3m。羨道部長さ4.2m、幅1.8m、構築年代は古墳後期から終末期と考えられる。周囲に空濠があり、石室は南に開口する。羨道の最前部は一部破損しているが、内部遺構は完全に保存されている。天井の4枚の巨石、奥壁の岩は見事な一枚岩である。町内古墳のうち最大のものである。矢掛町教育委員会...矢掛町の古墳散歩③小迫大塚古墳

  • 矢掛町の古墳散歩②橋本荒神塚

    場所・岡山県小田郡矢掛町里山田名称・橋本荒神塚訪問日・2022年2月9日のどかな里山田の橋本地区の荒神さん横に「橋本荒神塚」はあった。横穴式石室の奥に石棚があり、迫力があった。古墳の周辺は地域の人の聖域になっているようで、清掃され、見学がきもちよく出来た。・・・・・橋本荒神塚町指定文化財指定年月日昭和41年4月12日所在地矢掛町里山田2524-1管理者橋本町内会本古墳は南に開口する横穴式石室の円墳で、墳丘の規模は高さ5メートル、径20メートルを有しています。周囲には橋本古墳群として15基の円墳が確認されており、荒神塚はそのうちの最大のもので、築造年代は古墳時代後期(6~7世紀頃)といわれています。古墳の前には荒神様が祀られており、現在でも信仰の対象となっています。石室は両袖式で大きさは、長さ約7.5メートル、巾...矢掛町の古墳散歩②橋本荒神塚

  • 矢掛町の古墳散歩①芋岡山白江遺跡

    場所・岡山県小田郡矢掛町中名称・芋岡山白江遺跡訪問日・2022年2月9日峠道を登ったところにお堂や、古いお墓があり、遺跡の標識があった。山に入って約5分、古墳に着いた。古墳は落ち葉に埋まり、上の部分が見えるだけだった。・・・・・白江弥生時代後期集団墓地遺跡(芋岡山)矢掛町重要文化財昭和41年指定所在地矢掛町中白江管理者白江部落地表下約7、8センチメートル土壌墓29基組立石棺2基弥生時代後期共同墓地の遺構である一号石棺昭和34年7月発掘調査長さ1.6メートル巾0.55メートル深さ1.35メートル頭骸骨及び大腿骨の一部、櫛の残欠1個頭骨は大阪市大鑑定で老年男子であった。二号石棺昭和41年2月調査長さ1.7メートル巾0.35メートル深さ0.3メートル保有悪く性別その他不明。以上一二号墳の成立年代は5世紀ごろと思われる...矢掛町の古墳散歩①芋岡山白江遺跡

  • 「沈没」で死ぬ ~戦場の死~

    「海没」死とは、艦船の沈没による死者のことをいう。とくに、徴用した貨物船を改装した輸送船の場合、対空・対潜装備をほとんど欠いていたことに加え、船倉を改造した狭い居住空間に多数の兵士を文字通り押し込めていたため、雷撃などを受けて沈没する際には、一度に多数の犠牲者を出すことになった。海陸軍、軍属の総計358.000名にも達しているという。・・・ドイツのUボートの脅威にイギリスやアメリカは護衛空母を建造し,Uボートの活動を封じ込めることに成功した。「アジア・太平洋戦争」吉田・森共著吉川弘文館2007年発行・・・・・・・・・・ダンピール海峡の悲劇日本軍は東部ニューギニアに増援部隊を派遣し防御要地として固めることにした。昭和18年3月3日、第5師団の輸送船が米豪軍機120機の襲撃を受けて全滅するという、「ダンピール海峡の...「沈没」で死ぬ~戦場の死~

  • 「飢え」で死ぬ ~戦場の死~

    ガダルカナル昭和17年12月31日、大本営はガダルカナル島奪回を断念した。戦闘における死者2万人、一説にはそのうち1万5千人は餓死であった。日本軍の敗因は、それ以前に、この島に進出すること自体が作戦線を伸ばし過ぎて補給・輸送を困難にするという点が見落とされていた。制空権を喪失し、輸送を妨害され兵力はもとより装備も食料も送り込めない状態にされてしまった。ポートモレスビー(東部ニューギニア)の攻略昭和17年3月日本軍は東部ニューギニアに進出し、陸路でポートモレスビーを攻略することになった。これは無謀に過ぎる作戦だった。陸路はほとんどジャングルに覆われ、越えようとする山系は標高2.000mにおよんでいた。8月18日南海支隊8.000人が、ブナに上陸。行軍は苦難を極め、補給も不足がちで、病人や死者が続出する。9月16日...「飢え」で死ぬ~戦場の死~

  • 「玉砕戦」で死ぬ ~戦場の死~

    硫黄島「硫黄島玉砕戦」日本兵が投降したがらない理由は、「敵国の捕虜になった兵隊は”国賊”扱いされて、戸籍謄本なんかも赤くバッテンが書かれてしまう、そういう教育を受けていた」国を裏切ったも同然で故郷の血縁者までもが”売国奴”の非難を浴びることになると、兵士は固く信じ込んでいた。「後ろから銃で撃った人間がいたんですよ」、味方の銃弾を背後から受けて命を落とす、彼らもまた記録のうえでは硫黄島で”玉砕”した戦没者になる。・・・「硫黄島玉砕戦」「仲間が戦死すれば、最初のうちは、ちゃんと火葬にして供養してやりたいとも思いましたけど、焼いて煙なんか出したら、敵に見つかるだけですからね。死体は邪魔にならないように積み上げておくだけ。そして、積み上げる前には、死んだ兵隊の持物をみんなあさっていました。」陰鬱な地下壕の生活は、いつし...「玉砕戦」で死ぬ~戦場の死~

  • 「捕虜」が死ぬ ~戦場の死~

    ・・・・・「バターン遠い道のりのさきに」1942年4月9日まで、私たちはバターンとコレヒドールを守るために戦かった。日本軍は55日間でフィリピン諸島を手に入れる計画だった。しかし148日間、つまり予想された期間の3倍近くも持ちこたえた。アメリカ合衆国の歴史始まっていらい、全軍が降伏する羽目になったのはこれが最初である。日本軍は25.000~35.000の兵がバターンにいるものと推定していた。降伏当時のバターンには105.000人の米比の兵・市民がいた。日本軍が見積もっていたよりはるかに大きな数である。日本軍のある一隊が歩けと命令したかと思うと、べつの一隊が待てと言った。これらの命令はすべて日本語で発せられ、たちどころに反応しないと、私たちは殴られ、ツバを吐かれ、突き飛ばされ、ある場合には撃たれた。私たちバターン...「捕虜」が死ぬ~戦場の死~

  • 「特攻」で死ぬ ~戦場の死~

    レイテ決戦レイテ決戦は、軍事的に日本の敗北を決定づけた戦闘であった。特攻をやるほかはないという状態は、既に戦争に敗れているということにほかならない。不幸なことに敗北はあり得るという思想がなかった当時の軍に、これは必然のなりゆきということになるのであろう。いったん特攻が採用されてしまうと、あとは作戦も何もあったものではなくなる。攻撃目標は、何百という敵艦戦がレイテ周辺を遊弋しているのだ。飛行機が着けば、「それ行け!」というだけが航空軍の仕事となった。富永司令官はじめ参謀たちが、この時期もうどうにもならなくなっていることを知らなかったはずはない。圧倒的な敵の戦力に立向かう特攻が、ほぼ無駄死であることを知らなかったはずはない。2ヶ月足らずの間に、四航軍だけで62回にわたって特攻出撃が命じられている。せいぜい5~6機の...「特攻」で死ぬ~戦場の死~

  • ミカンを作る

    (広島県生口島のレモン谷)小学校の5年生だった頃、両親は、それまで雑穀を作っていた畑でミカン栽培を始めた。海沿いの段々畑で南向き、乾いた土地で条件はよかった。その畑に行くと、年中ミカンの香りが漂い、瀬戸内海を行き交う船が見えて、子ども心にも好きな風景だった。中学校に入ると社会科の先生が、「これからの農業は米麦だけでなく、ミカンなどがいいです」というようなことを授業で話していた。両親はミカンの栽培を増やしていった。高校生になる頃は、ミカンはすっかり成木になり、甘くなり、皮は薄くなっていた。農具を入れる長屋には何段にもミカンを保管し、春まで順次に出荷していた。茂平では有数のミカン農家となっていた。高校を卒業してから、尾道~今治航路の船に乗った。船から見る島々のミカンには仰天した。海岸から山の山頂近くまで、すべて段々...ミカンを作る

  • ヒマを作る

    ヒマが大戦末期に国から栽培督促があったのは知っていたが、学校農園にまで作られていたとは知らなかった。学校では食用作物に限定でなく、工芸作物も植えていたようだ。(Wikipedia)・・・・鴨方町史本編」鴨方町平成2年発行ヒマの栽培昭和19年4月20日の町報で次のような通達が出された。「熾烈なる航空決戦の現下、航空機用潤滑油の需要は益々激増の一途にあります。のみならず、戦時の繊維資源の確保もまた強く要請されるの現状にあり、ヒマ栽培運動は、この重点を種子の収穫に置き、茎皮等副産物をも利用する方途のもとに宅地、空閑地、荒地等を利用して,ヒマの大増産を図り、その収穫する種子は軍部に供出し、戦力の増強に資せんとする。」・種子常会長より配布・割当一戸最低15本、学校は最低20本。・供出種子の5倍を献納する。其の他、学校では...ヒマを作る

  • 決戦食 ~昭和20年、21年頃の食べもの~

    明治維新から今日まで150余年。その間、最もひもじかった年といえば昭和21年(1946)だろう。食料難で町の人は飢え、食べるものだけは、どうにかあった田舎の家だが、そこへ焼けだされた都会の親族が加入し、さらに裸同然で外地から復員が加わった。農家もぎりぎりの生活だった。母は近所の赤ちゃん二人に母乳を与えていたが、二人とも亡くなった。曾祖父は近所から出た赤痢に感染し、亡くなった。・・・・昭和15年7月、国民精神総動員運動による贅沢排撃運動と相まって、8月1日の興亜奉公日には「ぜいたくは敵だ」といった立て看板が並び、贅沢追放が魔女狩り的に広まっていった。この規則によってデパートの食堂などでの米食が禁止され、米なし献立に切替られて、ソバ・ウドン・パン・おから・すいとんなどの代用食が主役となった。食料は欠乏状態となり、非...決戦食~昭和20年、21年頃の食べもの~

  • かんぴょうを作る

    夏休み、田舎の庭には実がなるものを植えていた。大人が植えたり、子供が宿題で植えたり、その両方だったりしたような。ひょうたん、ニガウリ、かんぴょう、へちま。ひょうたんは遊び、ニガウリは日除けと食用、かんぴょうは遊びと食用、へちまは遊びと洗い物、実が大きいので見ても楽しかった。かんぴょうは夕顔と呼ばれ、朝顔と同様子供にも簡単に花を咲かせることが出来、人気があった。・・・・・(父の話)日和の時ええように剥いだら。干すのがええようにいったら。夏じゃけいのう。中の種もとってムシロにひろげたり。炊いてたびょうた。今は誰もつくらんけい(種を)たべれん。めんどくせいからやめた。談・2001.10.8へちまは背中をこするだけじゃ。かんぴょうは食べる。切るもんがある、それで外へ干す。寒うなってから食びょうた。談・2002年11月1...かんぴょうを作る

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