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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • イチゴを作る(茂平の苺)

    茂平のイチゴ(父の話)茂平のいちごは甘くて評価が高かった、茂平のイチゴは昭和50年代が全盛期ではなかっただろうか?昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。ハウスで栽培してから金になりだした。今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。作るのに手間がかかりすぎる。よそでも栽培が増えた。茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。のが原因だろう。2000年05月28日・・・・・それにしても茂平のイチゴは茂平でしか作れない味があった。消費者の購入スタイルの変化に押されたように感じる。いちごは、農協がすすめた。パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。こんだぁ、毎年金が農協にはいる。農協が取り替えてそれで払おてくれた。今は、一時に比べ半分くらいになった。(茂平のいちごは)手間がかかる。骨が折れ...イチゴを作る(茂平の苺)

  • 進駐軍のパイナップル

    進駐軍のパイナップルこれは敗戦当時、福山市入船町で国民学校の生徒であった義兄(姉の夫)の話。福山に進駐軍が来た時、そこからカンズメのパイナップルをもらった。それを食べた。食べたら、こんなに世の中においしいものがあるとは知らなんだ。ものすごく美味しかった。それからパイナップルが好きになった。チョコレートも貰って食べた事がある。アメリカ産のを。甘いのを。マッカーサー様のおかげでその後も今の日本を築いてくれた。ナマのパイナップルも好きだが今でもカンズメのパイナップルの方が好きでよく買う。2002・1・3・・・・・・第二次大戦の敗戦国のドイツやイタリアでは、国民も兵も飢餓になることはなかった。日本だけが飢餓になった。・・・・・・ララ物資敗戦直後の日本人にとって、アメリカはまず第一にジープであり、第二にコーラであり、そし...進駐軍のパイナップル

  • イチジクを作る

    茂平に平成の頃より、「イチジクの里・茂平」の絵看板が国道沿いに掲げられた。土壌が適しているのと、明治以来の研究熱心な伝統栽培で、味覚への近隣地域の人気・評価は高い。・・・(父の話)イチジクこれの寿命は長い。えださえ切ってやっとればいつまでも大丈夫だ。茂平のイチジクは色も違う、味も違う。新涯が主でちょっとだけ塩分を含んだ土地なんで、糖度がよそのより良い。・・・2000・5・14栽培方法?何も今と変わっていない。予防の薬が良うなった。薬がかわっただけじゃ。2000・9・10・・・いちじくはなんもせんでええ。ほっぽりなげじゃ。冬の選定、(ありすぎる)葉っぱを落とす。予防する(桃などにくらべ回数がすくない)。あとはほっとく。楽でゼニになる。2001・2・11・・・・・イチジクの栽培冬に剪定をして。肥をして。肥は昔神戸か...イチジクを作る

  • 茂平名産「干しイチジク」を作る

    干しイチジクは、まさに”珍菓”だった。おいしい程でもない、が不味くもない。お菓子がない時代の役割を、わずかではあるが果たしていたように、今思う。・・・・(実家にて)(父の話)始まりはカタヤマのおじいさんが始めたのが、明治の中ごろじゃろう。干しイチジクは茂平では2軒、ウチとカタヤマにあつめそこから金浦にある神戸屋に出荷していた。「こうべや」は、普段は八百屋をしとった。こうべやにはウチとカタヤマが契約しとった。「こうべや」は言うとけば箱を持ってきてくれて、取りに来て、持っていんで、そうやってまた来て。農協はとおさず直接取引きであった。おいしければよう売れとった。相場のよい年もあった。昔から(自分の子供の時から)ホシイチジクはつずいていたが、硫黄のことで突然なくなってしまった。無花果は捕ったその日に硫黄炉にいれて一晩...茂平名産「干しイチジク」を作る

  • 麦を作る③小麦粉

    小麦小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。小麦粉を水に溶いて作る食品は、うどん、そうめん、ほうとうなど。焼く、煮る、ゆでる、という方法があり豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。「食の人類学」佐藤洋一郎中公新書2016年発行・・・・・(父の話)はったい粉(煎粉・いりこ)どこ...麦を作る③小麦粉

  • ママカリはもう食べたくない

    「ママカリ」は、おいしいので隣家から飯を借りる、という話が年に1~2度新聞に載ることがる。今朝もそうだった。かつては、おいしいと思う人も、いたのだろう。好き好きだから。魚が減った今では、おいしいと思う人も多いだろう。身近な魚でなくなったから。ママカリは雑魚で、子供の時、朝昼晩、それも毎日のように季節によっては食べた。あれだけ食べると、もうほしくはない。・・・・・ままかり(母の話)焼く、酢ズケ、・・・すぐ食べるときにゃぁ。どうにもぎょうさんある時にゃぁ・・・・ぬかずけ。ぬかずけ、米のヌカに塩をいれて。ヌカの甘味がぢょうた。長しゅうもちょうた。一月も二月も。ままかりも、つなしもそうしょうた。おからに漬ければそっちのほうがよかったが、おからは金を出さにゃあ買えんけぇ。2000・12・17・・・・・ままかりといかなごま...ママカリはもう食べたくない

  • ちょんまげを切る

    高祖母(ひいひい祖母さん)は弘化3年(1846)生まれ。戦時中の昭和18年に亡くなった。その長男(管理人の曾祖父)は元治元年(1864)生まれで、終戦直後の何もないとき(昭和20年11月)、伝染病で死んだ。ちょんまげも、そう遠くない昔のことのように思える。「その時歴史が動いた」NHK取材班KTC中央出版2005年発行グッドバイちょんまげ700年以上の伝統を誇り、当時の日本人にとっては魂も同然だったちょんまげ。「このままでは日本は、西洋列強の属国になってしまう」不平等条約を幕府から引き継いだ明治新政府の中で、長州出身の木戸孝允は強い危機感をもっていた。木戸の狙いは、明治天皇を中心とする近代国家を確立することであったが、改革は思わぬところでつまずいた。人々の頭の上にはちょんまげがあった。このちょんまげが問題だったの...ちょんまげを切る

  • 山陽新幹線岡山開通50周年

    2022年3月15日は、山陽新幹線が開通して50周年だった。テレビニュースを見ながら、それを思い出していた。が、何も思い出せなかった。その程度のニュースでは、たぶん関心がなかったのだろう。当時の日本経済は日の出の勢いだった。5年間くらいで日本経済は、規模が倍増し、年々目に見える生活の変化があった。ネットで1972年を検索すると、沖縄が米領から日本へ復帰した。田中内閣が誕生し、ベストセラーは「日本列島改造論」。岡山駅が開業の頃、鉄道工事は西へ西へと延びていた。人々の関心は岡山でなく福岡開業の方だった。街も山も海も開発一辺倒の時代だった。・・・・・・・岡山開業のセレモニーに写る岡山県知事は武徳さん。この半年後に知事を退いた。小学校の大先輩・武徳さんが県知事をしていた8年は、県境の村に生まれ育った管理人が、”岡山県民...山陽新幹線岡山開通50周年

  • かぼちゃ(南瓜)を作る

    戦後、砂糖がなかった。甘い物に飢えていた。ナンキンを食べると、ちょぼっとだけ甘く感じた。・・・・・・・・・(父の話)昔から作りょうた。植えて、肥をすりゃあ出来きょうた。ようけぃ出来りゃぁ出しょうた。ぼっこう相場はようならん、じゃけいみんな、そう植えりゃえせん。談・2002年8月5日・・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行カボチャ南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。日本には16世紀に渡来した。一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。・・・・・かぼちゃ(南瓜)を作る

  • 「夢の万能薬」ペニシリン

    注射=ペニシリン、とも感じるほど、ペニシリンは名を馳せていた。昭和20年代、30年代、「病気で注射した」と言えばペニシリンしかイメージできなかった。・・・・・「昭和二万日の全記録6」講談社1990年発行人命を救ったペニシリン昭和20年9月、アメリカから大量のペニシリンが空輸されてきた。同年暮れ、幣原喜重郎首相が肺炎にかかった。GHQの軍医長が駆けつけてペニシリンを射った。その効果は強力だった。それまで、ペニシリンは庶民の手に届かない高価で貴重な薬であり、闇で一本一万円したこともある。GHQの指導で森永薬品や東洋レーヨンで製造。ペニシリンは、肺炎、中耳炎、破傷風、結膜炎、性病など細菌性の病気に効き、副作用もほとんどない「夢の万能薬」といわれた。昭和21年に3.930円していたものが昭和23年には513円まで下がっ...「夢の万能薬」ペニシリン

  • コレラで死ぬ

    東大戸の木野山様明治9年を皮切りに猛威をふるったコレラ病は一大惨事を巻き起こし、この病業を免れようとする人々が昼夜の別なく参拝し、ご分霊の請待も相次ぎ格別のご神威の発揚がありました。当地方でも疫病が流行し実業家・高橋律太翁が高梁から分霊を請待してこの地に神社を建立されました。人々はご利益を願って次々氏子になり現在も祀られています。「大井の史跡・石碑・3」大井文化探訪の会2022年発行・・・・・(笠岡市東大戸・木野山神社2022.3.19)「大井文化探訪の会」のウオーキング大会に参加、木野山神社を訪れた。・・・・・・「生きることの近世史」塚本学平凡社2001年発行コレラと戦争蒸気船は「文明」とともにコレラを全世界に広げたのであった。安政5年8月、江戸では1町に多い所では百余人、少ない町でも五、六十人の死者が出た。...コレラで死ぬ

  • 結核で死ぬ

    ”結核”と”伝染病”は、「地震・雷・火事親父」なんかより、ずっと恐れられていた。・・・・・戦争中、国民はほとんど栄養失調になってしまっていた。結核が感染しても無理をするもんじゃけえ、こじらせて本当の肺結核に移行してしまった。ほとんどの家に一人や二人はいた。結核にかかると、皆死んでいった。病人は、納戸の隅に寝ている。そうなったら、あと二、三か月たったら死ぬ。その頃にならんと医者を呼びにこん。「梶島山のくらし・戦前戦後編」福山市・梶島山のくらしを記録する会2012年発行・・・・・瀧廉太郎の生涯1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツにあるライプツィヒ音楽院に留学。わずか2ヶ月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされ、1903年(明治36年)6月29日大分市稲荷...結核で死ぬ

  • トマトを作る

    小学校の2年生の頃、神島の親類に行ったとき、庭から野菜の匂いがした。あれの匂いはトマトだ。トマトが熟れているのが見えた。それが生のトマトを見た初めてだった。田舎では昭和30年代前半までトマトは自給作物の外だった。作っていなかった。新品種で匂いが弱くなり、甘みが増した。それで一挙に普及した。今では家製菜園の王さま、生でガブリ食いもおいしい。・・・・(父の話)トマト作って箱へ詰めて出しょうた。(何年か出荷したのか?加工用だろうか)共同で市場へ出しとった。下のみのるさん方の家、あそこで(家が建つ前に)共同で変わったものをつくりょうた。池もあるし。(トマトは)作ったものをみんなに配りょうたが,食ようらなんだ。それで市場へ出しょうた。今はみんなトマトを食べるが。(トマトの出荷は昭和10年前後の話と思える。田舎では昭和30...トマトを作る

  • スイカを作る

    スイカ中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、わが国の呼称はこの漢名によるものである。中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。「岡山の作物文化誌」臼井英治岡山文庫平成18年発行・・・・・茂平もスイカ栽培は盛んだった。ちょっとした衝撃で果実に割れが生じるので、収穫時では家族総出でリレーして荷車まで運んでいた。運搬時も、ゆっくりと家に持って帰り、その後農協の園芸事務所まで持ち込みしていた。後年、母はモグラの災害に悩まされた。どの方法か忘れたがモグラを撃退に成功した。ところが、次に更なる難敵が空から現われた。「今日は早いが、明...スイカを作る

  • シイタケを作る

    かつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、子どもの私もかり出された。ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。「岡山の作物文化誌」臼井英治岡山文庫平成18年発行・・・・・(父の話)何処の家にもちいとずつつくりょうた。売らずに、自分の自給ように。たべりょうじゃ。今年も作ってうえときゃなあいけん。へぇ原木がのうなりだした。談・2000・12・17・・・・・シイタケ(椎茸)香り高く風味もよい。日本特産のキノコ。...シイタケを作る

  • 鶏を飼う

    かつて民家では2~3羽の地鶏を放ち飼したものである。夜になると鳥屋にはいってねたのである。一羽は必ず雄鶏を飼い、自然交配で孵化させた。一番ドリが鳴いた、二番ドリが鳴いたで、などで仕事に出かけた。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行ニワトリ・・・・・最初縁側の下で飼っていた。次、昭和30年頃に養鶏場を作り養鶏を始めた。その次、養鶏場ではゲージ飼いに変わった。昭和35年頃。養鶏をやめて、その場所は農具倉庫になった。昭和40年頃だったかな。・・・・(父の話)(縁側の下の)ニワトリコメの糠と、麦の食べれんいなげなの、コメも。5~6羽飼ようた。貯まったら売りょうた。・・(鶏小屋の)ニワトリ小屋を建って、大部屋で一階と二階で飼ようた。新しい頃で卵をよう産んだ。いっぺんに(建設費の)元がとれた。相場がえかった。・・...鶏を飼う

  • 雑穀をつくる

    正月と旧正月の餅つきには、黍餅を2~3臼搗いていた。黍餅は色も香りもよかったが、硬くなるの早かった。黍は餅以外で食べた思い出はない。・・・・・「岡山県史・民族Ⅰ」昭和58年山陽新聞社出版より雑穀黍(きび)黍には稲黍と高黍がある。普通黍といえば稲黍をさす。夏黍と秋黍にわけられる。二回収穫できる。春蒔は8月、夏蒔は10月に収穫する。昭和40年ごろから栽培しなくなった。小豆栽培の時期によって、夏小豆、秋小豆、中間型がある。雨年は不作である、雨年はササゲの方がよい。手間のかからない作物である。赤飯、アンコなど小豆は必需品であった。小豆相場といわれるように、値段の相違は著しい。小豆、ササゲ、除虫菊、藺草などはとくに相場の変動が激しく、投機的ともいわれた。大豆大豆は夏大豆・秋大豆・中間大豆とあり。吉備高原では葉タバコを栽培...雑穀をつくる

  • 「砂に消えた涙」

    「砂に消えた涙」は、なにか乙女ごころを上手く表現しているなと高校生の時に思った。曲も感傷ムードがある洋楽で、歌唱力に定評があった弘田三枝子が歌いヒットした。・・・・・砂に消えた涙訳詞・漣健二青い月の光を浴びながら私は砂の中に愛の形見をみんなうずめて泣いたのひとりっきりでア、ア、ア、あなたが私にくれた愛の手紙恋の日記それのひとつひとつのものがいつわりのプレゼント白い波の打ちよせる海辺で私は砂の中に恋の想い出みんなうずめて泣いたのひとりっきりで・・・・・・飯田久彦(チャコちゃん)や坂本九(キュウちゃん)や弘田三枝子(パンチのミコ)の歌う歌の詞は、そのほとんどが漣健二だった。洋楽は漣健二がいないと成り立たない、と思えるほど有名な訳詞家だった。洋楽を聴く初め頃、森山佳代子の「月影のナポリ」という曲があった。まだ小学生だ...「砂に消えた涙」

  • 林芙美子の戦争協力

    日中戦争(1932~1945)には、多くの文化人や芸能人、歌手も力士も、軍の要請で慰問等に訪れている。作詞家・作家の、なかにし礼氏は、著作のなかで林芙美子の行動が許せないと書いているが、作家として調子に乗りすぎて表現しているに加え、人間としての感性を疑っているからだろう。なかにし氏も言うように「沈黙の余地」があったのはちがいない。・・・・・・「生きるということ」なかにし礼毎日新聞出版2015年発行林芙美子の戦争協力をいま考える林芙美子(1903~1951)は自らの貧しい生活体験を赤裸につづった日記体の小説『放浪記』(1930)の成功で一躍売れっ子作家になった。しかし文壇では貧乏を売り物にする素人小説家などと陰口をたたかれ、なんとか一発、世間をあっと言わせるようなものを書きたいと切歯扼腕する思いでもあった。そこで...林芙美子の戦争協力

  • 白い脚の記憶

    白い脚の記憶「歴史の温もり」安岡章太郎歴史文集講談社2013年発行戦時中、外地に従軍していた慰安婦には軍が関与していた、とそんなことが最近になって言い出されたのは何なのか私は不思議な心持ちになる。だいたい軍の関与なしに従軍慰安婦なるものが存在するわけは有り得ないではないか------。私が軍隊で行っていたのは、旧満州のソ連国境に近い孫呉だが、そこでも師団司令部の近くに慰安所があって、営門に「満州第何百何十何部隊」とした大きな標札が出ており、誰の眼にもそれが軍の関与する施設であることは明らかだった。もっとも、私たち初年兵は演習のないときは、内務班に居残って、古兵の下着の洗濯や靴磨きなんかにコキ使われるだけだった。土堤のうえを吹き抜ける川風は、サラリとして快い。私たちは草原に腰を下ろして、爽涼の気分を満喫していた。...白い脚の記憶

  • モモを作る

    私は3人兄弟だが、3人とも、両親の”桃”作りによって学校へ行くことができた。桃の花が咲く頃の茂平は、ほんとうにきれいだった。花が終わって、桃に実が成ると、西の峠道は野々浜から、北の峠道は用之江から、袋掛けの婦人部隊が茂平に歩いて来ていた。・・・・(2021年茂平)・・・・・モモ岡山のモモの栽培は、明治になって国が勧業政策を進める中で本格化していった。はじめ天津桃や上海桃が県南を中心に広がった。この中で進取の篤農家によって新しい品種が育成され、後の「桃の名産地岡山」への一歩をふみ出す。明治28年、小山益太の「金桃」、明治31年、長尾円澄の「土用水密」、明治354年、大久保重五郎の「白桃」などが次々に発表された。特に「白桃」は味が良いうえに日持ちがよく、遠隔地輸送が可能なことから市場性が高まり、栽培が広まった。さら...モモを作る

  • 「貧乏人は米を食え」の方が正しかった

    白いおコメのご飯を食べるのは、貧しい日本人にとって長年の夢だった。私も、そうだった、「コメのメシが食いたい!」と思っていた。池田勇人大蔵大臣の「貧乏人は麦を食え」は政治史に残るほど有名だが、ところが母の論では、「貧乏人は米を食え」の方が安くつくそうだ。・・・・畑作江戸時代農家は米でなく、麦を主食にしていたといわれる。野菜は栽培が難しく、一部の権力者しか口にできない嗜好品だった。長期保存ができないので、各地で気候条件などに合ったものが独自の発展をした。工芸作物は長期保存が可能なため、早くから全国各地に流通し、一大産地も誕生した。「最新日本の農業図鑑」八木宏典ナツメ社2021年発行麦飯(母の話)だいたい7:3くれいなら食べられる。ボニ・正月・祭りが米の飯。家を建てるとき(昭和35年頃)、たましまん(玉島の母の実弟)...「貧乏人は米を食え」の方が正しかった

  • こうこ・コーコ(沢庵漬)を作る

    ・・・・・沢庵漬けコーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、四斗樽につめる。毎年秋に、四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。「吉永町史」吉永町史刊行委員会編吉永町昭和59年発行・・・・・漬物庶民にとっては極めて重要なおかずであった。「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行・・・・・沢庵漬笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適...こうこ・コーコ(沢庵漬)を作る

  • ダイコンを作る

    ダイコン(大根)日本の冬野菜の代表各「日本書紀」にも記されて、古くから食されています。ダイコンの葉には栄養が豊富です。もっとも多いのが「青首ダイコン」で、生のまま浅漬やサラダ、大根おろし、おでんや煮込み、など万能に使える。全国各地に在来種があり、土地ならではの漬物などもあります。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行・・・・・(父の話)大根ええかげん大きょうなったら抜いて干しょうた。”浸け大根”にしょうた。ウチで食べるんと市場へ出すんと両方。ちょっとやおうなった時、いろうてみて、「おっ、こりゃぁもうしゃあねぃ。」思うたら市場へ出しょうた。(天日棹のを)降れぇて、そうやって市場へ出しょうた。大根は生食より漬物が主じゃった。ようけいできても、それしかしょうがねぃ。「葉っぱ」も半分くらい切って、買う人がおるんで...ダイコンを作る

  • プーチン氏は料理を食べたか

    2016年12月、安倍晋三首相(当時)がロシアのプーチン大統領と同じ風呂に入り、その二人の友好関係でもって歯舞・色丹の2島を返還、という事前の報道があった。ところが、実際は遅刻して風呂には入らず、島は返還ならず、国民として、ずいぶんなめられた思いがした。このとき既に、プーチン大統領は”暗殺”をずいぶん恐れていたようだ。・・・・・「人生の醍醐味」曽野綾子産経新聞社2017年発行晩餐会---プーチン氏は料理を食べたか後日の報道で私は、大谷山荘のその夜のメニューも知った。前菜に蟹の甲羅盛り、御椀は甘鯛に蓮根。向付はとらふぐの刺身、伊勢海老焼き〆洗い。焼き物はのど黒、土地の和牛。揚げ物は鮟鱇の唐揚げと慈姑の素揚げ。以下略。とにかく心のこもったごちそうであることはよくわかる。しかし同じ週の「ニューズウィーク日本版」十二月...プーチン氏は料理を食べたか

  • リンゴを作る

    子供の頃、母に「皇太子(現・上皇)はどんなものをオヤツに食べとるんじゃろう?」、と聞くと「リンゴやこじゃろうかな」という返事だった。その当時、わが家にオヤツはなかった。要るのなら芋でも食べておけ、という感じでふかし芋が常に戸棚の中にあった。リンゴは都会の上流家庭で食べる物と、その頃は思っていたが同じようにバナナもリンゴも今では庶民の食べものになった。茂平でリンゴが栽培されていたとは知らなかった。母の話にリンゴがでたことはないので、少量だったのか、早く見切りをつけたのだろう。・・・・(父の話)りんごリンゴはウチ等にも植えとったがエエことは無ぇ。売りょうたけど,相場が良くねぇし、病気はくるし。ウチにはうつろの畑に植えとった。”青い”リンゴじゃ。大きさは普通。赤い大きいのは出来なんだ、やっぱり温度の関係じゃろう。寒い...リンゴを作る

  • サツマイモを作る

    笠岡市役所の敷地内に長く「芋博物館」があった。その当時、日本で唯一か世界で一つの「イモ博物館」と呼ばれていた。江戸時代は飢饉時の主食になり、戦中戦後の配給時代は、町の人の主食となった。管理人にとっては、いちばんよく食べたオヤツとなった。・・・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行薩摩芋サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。笠岡市には芋博物館があった。・・・・・・サツマイモ(薩摩芋・甘藷)原産地・メキシコ、ガテマラアメリカからヨーロッパに渡り、日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行・・・・・サツマ芋サツマ芋・イモ・琉球芋・...サツマイモを作る

  • ウサギを飼う・ヤギを飼う

    茂平の水門から波止の土手にかけて、ヤギを繋いで草を食べさしている家が何軒かあった。家にヤギは飼っていなかったが、裏の〇〇さん方から、「今日はよく出た」と言って持ってきてくれることがあり、楽しみだった。ウサギは小学生の時、一度飼っていた。丸々と大きく育ってから売った。300円か500円で売った。その頃、少年雑誌の「漫画王」とか「少年」が50円か60円くらいで、子どもにとっては大金だった。父の話は戦前のことと思える。・・・・・ウサギ自家で肉を消費するため、ほとんどの家は小屋を作って、あるいは縁側の下に飼育場所を作ってウサギを飼っていた。飼養羽数はおおむね五羽程度、自家繁殖させるため雄雌の両方を含むのが一般的であった。ウサギには屑米や屑大豆をエサとして与え、肉が必要になると屠殺した。戦時中は、軍人の首巻の原料とするた...ウサギを飼う・ヤギを飼う

  • 豚を飼う

    子供の頃、家では豚を飼っていた。しかしすぐに羊に変わった。その羊も1年くらい飼って止めた。ブタも羊も、父の言う「国がつくれと言って、儲かったもんはねえ」に当てはまるもののようだ。・・・・・・「物語・食の文化」北岡正三郎中公新書2011年発行豚肉食用だけブタは乳を与えず、毛の利用もなく、労役や運搬の役にも立たず、ひたすら食用の為に飼育されてきた。非常な雑食性でごみや残飯をあさって飼われた。ブタの利点は食肉生産の高い効率で、植物性の餌を肉に変える速度と効率はすべての家畜の中で最大である。餌に含まれるエネルギーの35%を肉に換える。第二次世界大戦後は都市近郊での残飯による養豚を経て地方での大量飼育が始まった。価格が安く牛肉の代替材料になるほか、トンカツや、ハム・ソーセージなどの加工品も戦後大きく消費が伸びた。さらに中...豚を飼う

  • 羊(ひつじ)を飼う

    羊を二年間ほど飼育していた。三年とはつづいてない。二匹か一匹、多分一匹。家の裏に子屋をつくり飼っていた。おおきなバリカンで毛を刈取っていた。父は補助で、専門家がしていた。飼っていた羊は死んだ。羊の肉を食べた。隣近所に分けても更にその量は多かった。乏しい時代ではあったが、その肉はまずいもので、無くなるまで来る日も来る日も羊の肉を食べた。昭和32年前後の事。・・・・・(父の話)終戦後、国の政策でもあり飼うた。肉は臭かった。肉はまだ鯨のほうがよかった。鯨は刺身にもなるが、羊はくさい。馬のほうがまだよい。2000・1・9(母の話)一匹飼ようた。毛糸を取るためじゃった。毛糸がなかなか無かったけぇ。刈るのは一年に一回しかできょうらなんだ。2001年6月17日・・・・「岡山県中央町誌(民俗編)」ヒツジ戦後、衣料品の自給・増産...羊(ひつじ)を飼う

  • 「東日本大震災11年 それぞれの3.11企画展」

    場所・岡山県笠岡市吉田・吉田文化会館行った日・2022年3月11日東日本大震災から11年、吉田文化会館で開催中の「東日本大震災11年それぞれの3.11企画展」を見に行った。文化会館には、笠岡市関係者が復興応援に行った宮城県南三陸町での活動写真が多く展示されていた。・・・・・家に帰ってテレビを見ていたら午後2時46分、現地での黙祷のライブになった。場所は「南三陸町」。テレビでデーブ・スペクターさんだったと思うが、もう気安く「想定外」言わないようにしてほしい旨の発言があった。自分もそう思う。福島県いわき市にいる時、東電の原発には二度入った。構内に入ると、必ず原発の安全をモニターで見なければならないが、そのモニター画面は、地球の最後がもしあろうとも、原発だけは大丈夫である、というPRだった。「想定外」を言えば許される...「東日本大震災11年それぞれの3.11企画展」

  • 塩屋埼灯台

    テレビニュースを見ていたら塩屋埼灯台が出た。かつて3年間住んだ福島県いわき市で、一番好きだったのが塩屋埼灯台と麓の薄磯海岸だった。海、砂浜、海鳥、灯台。瀬戸内海とは別ものの魅力が尽きなかった。2011.3.11「東日本大震災」の記憶や復興途上のニュースだった。5年前、いわき市の友が笠岡を訪問してくれた。その友は塩屋崎灯台の真下の豊間の人だったが、震災時「墓石だけ残ってありました」と話し、その次の言葉は友からも私からも出なった。テレビでは今も、鉄とセメントによる復興と復旧はすすんでいるようだ。ところで、「東日本大震災」の名称は変えた方がいい。(仮称)「東日本大震災・東電原発災害」、その理由は、復旧の妨げになっているのは原発事故の方だ。先の大戦の呼び名も、何度か変わりながら「アジア・太平洋戦争」に落ち着いた。その方...塩屋埼灯台

  • 乳当

    中学校の3年生,学校の運動会で、クラスメートの女子が100m走で先頭を走っていた、が、その子は乳房が大きくて左右に揺れていた。大きくて気の毒じゃなあ、と思った。我われの同級生の女子は、いつごろブラジャーを知って、いつごろから使用したのだろう。・・・・・乳当「今は昔のこんなこと」佐藤愛子文春文庫2007年発行乳当私が女学校の五年(十七歳)の時、教室で体操着に着替えていると、隣で着替えていた親友のM子がヒソヒソ声でいいに来た。「ちょっと、ちょっと、見てごらん。Kさんチチアテしてはる・・・・」その時初めて私はチチアテなるものがあることを知ったのである。私には四歳上の姉がいたにもかかわらず、我が家にはそんなシロモノはなかったのだ。クラスにはKさんのようにチチアテを常用している人は何人かはいたのかもしれないが、おチチの大...乳当

  • 源平藤戸合戦ゆかりの御崎神社

    御崎神社は、このふきんから佐々木盛綱が海をわたっての先陣をのり入れたと伝わる”乗り出し岩”の近くにある。御崎神社で盛綱は必勝祈願をしている。老母の嘆きで有名な笹無山からも近い。今日は源平合戦をしのぶ史跡が目的でなく、花を見に来た。天城の枝垂れ梅と、倉敷川千本桜。千本桜は、三分咲き程度。枝垂れ梅は満開。(倉敷川千本桜)2年前の前回もそうだった。(前回は桜の方が満開、梅は散っていた)二兎を追っても一兎も得ない諺があるが、2回とも一兎は得ることができた。場所・倉敷市天城・有城撮影日・2022年3月9日源平藤戸合戦ゆかりの御崎神社

  • 良妻賢母

    佐藤愛子さんの言う時代(戦前戦中の女学生)は、まだ良かったのかもしれない。戦前が女学生だった母は、同級生の半分は再婚している、とよく話していた。『貞婦二夫に見え』ていたのだ。生きるためには二夫に見えざるを得ない時代もあった。・・・・・「今は昔のこんなこと」佐藤愛子文春文庫2007年発行良妻賢母戦前戦中の女学生であった私は、学問知識よりも淑徳に重きを置く校風の女学校教育を受けた。その女学校の校長先生は、生徒が更に勉学の道に入ることに反対だった。大学や専門学校に行くくらいなら、マッサージや介護を習った方がいいという意見だった。それらは結婚後、舅や姑に尽くすとき役に立つからである。私たちが教示された第一の美徳は「率直従順」だった。女というものは他家に嫁いで親に従い夫に尽くし、子を産み育てて一家の繁栄に献身するものであ...良妻賢母

  • 野獣民族アメリカ ~雑誌「主婦の友」~

    「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社2017年発行・・・昭和18年9月号口絵少年飛行兵となったわが子を、誇らしい気持ちで見送る母。心配や恐怖などはみじんも描かれない。・・・昭和19年、作家の大佛次郎の著書『敗戦日記』に、『主婦之友』についての記述があります。「各頁毎に「アメリカ人を生かしておくな」「米兵をぶち殺せ」と大きな活字で入れてある。我が国第一発行のいい女の雑誌が、これで恥ずかしくないのか」メディアはみなそうだったとはいえ、狂気の時代の狂気のアジテーション。戦後は手のひらを返したような民主主義的な記事。阿古さんはこう話します。「当時の主婦は夫しだい、時代しだいで変わらざるをえませんでした。いかに現実を受け入れ、適応できるかも主婦に必要な能力の一つでした」・・・・・管理人記・阿古さんの言葉を借りての言...野獣民族アメリカ~雑誌「主婦の友」~

  • 夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日 ~雑誌「主婦の友」~

    「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社2017年発行夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日夫はサラリーマンで、朝家を出て夕方まで帰らず。妻は自分の裁量で家事をこなします。当時の女性にとっては、夢の暮らし。お見合いや家どうしの約束で結婚を決めた当時、未婚女性は「箱入り」にされ、自由を制限されていました。でも、理解と収入のある夫と結婚して「主婦」になれば、旅行やスポーツも楽しめます。当時の記事には、山登り、海水浴、スキー、テニス・・・レジャー記事が満載。まさに「青春」だったのです。昭和6年20歳前後の若い花嫁と、サラリーマンの夫。「朝はクリームと粉(おしろい)で簡単にお化粧」「朝食はパンと紅茶、果物」「小鳥を飼う」などリッチな感じ。「買い出しは御用聞きにまかせる」「寝る前には家計簿」などは、大正時代から『主婦之...夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日~雑誌「主婦の友」~

  • 『主婦』の誕生 ~雑誌「主婦の友」~

    母は・・・日本中で半分を占める・・・農業・家事・母だった。職業欄があれば「農業」と記したであろう。「主婦」とは呼べない、呼ばない。「主婦」とは町に住む、上流家庭の奥様をそう呼んだようだ。・・・・良家でなく、普通の庶民の子女が「主婦」になる方法は、属国の満州で生活すれば可能だった。・・・・・・・・「ニッポンの主婦100年の食卓」主婦の友社2017年発行『主婦』の誕生大正時代以前の日本には、今でいう「主婦」は存在しませんでした。女性は男性といっしょに農作業や家業をし、男性が休んでいる間に、食事を作り洗濯をしました。雑誌『主婦の友』が創刊されたのは大正6年でした。女学校に通う「ハイカラさん」も急増し、若い女性たちは読書を楽しみ、新しい知識を求めたのです。しかし当時、テレビはもちろんラジオもなく、新聞や雑誌は男性目線の...『主婦』の誕生~雑誌「主婦の友」~

  • ブドウを作る

    茂平の果物は、桃に次いで葡萄が多かった。家で出荷していたのはキャンベル(キャンと呼んでいた)が突出し、それが終わる頃デラウエア(途中から種なしになった)を出荷していた。他にも、ネオマスカットや巨峰も植えていたが量は多くなかった。葉たばこ農家がブドウ栽培へ変わる頃、茂平のブドウは駆逐されるように減っていった。茂平のブドウはほとんどが露地栽培だった。・・・・・・ブドウを育てるブドウは世界各地で作られてきました。ブドウは、栽培できる気温の幅が広く、北海道から九州まで栽培されています。主な産地は、山梨県、長野県、山形県、岡山県です。高品質の果実を栽培するための施設栽培が盛んで、栽培面積の30%をしめています。日本では約85%が生食用ですが、世界的にはワインの原料として栽培されています。ブドウ栽培の特徴は棚仕立てとジベレ...ブドウを作る

  • 何度問われても「わっはっは」しか答えないラジオの野球解説者

    スポーツのラジオ実況放送は子どもの時から今日まで聴いている。回数の多い順に、大相撲・・・NHK・相撲以上に志村正順アナの名調子が楽しみだった。プロ野球・・NHK・ラジオ山陽・ラジオ中国。今はテレビが多い。高校野球・・県予選や甲子園を聴いていた。プロボクシング・・海老原博幸選手の試合。水泳・・ローマ五輪での山中vsローズやコンラッズ選手。今でも強い記憶になっているのが、ラジオ中国の金山次郎さんの解説。解説者というより100%カープ応援へ特化した解説。露骨なカープ贔屓が面白かった。地域限定放送は、そういう解説でいいと思う。極めつけは、何度問われても「わっはっは」しか答えない野球解説者。この時は聴いていて面白かった。笑った。今でも、なにかの拍子に思い出して一人で笑っている。1986(昭和61)年10月27日プロ野球日...何度問われても「わっはっは」しか答えないラジオの野球解説者

  • 「小島通いの郵便船」

    青木光一にはいい歌が多い。「早く帰ってコ」「柿の木坂の家」そして、「小島通いの郵便船」。・・・笠岡湾や瀬戸内海にはいつも大小の船が見えていたが、その中でも笠岡港から出た船にはあこがれがあった。一度乗ってみたい。いつも思っていたが、それは夢にすぎなかった。海をへだてた二つのこころ思い通わす便り船いとしあの娘もミカンの木陰待っているだろ小島通いの小島通いの郵便船「小島通いの郵便船」作詞・上尾美代志作曲・平川英夫たぶん明治時代に郵便制度が始まったころは、郵便船は郵便物しか積んでいなかっのだろう。島の人々は、島で自給自足の生活ができてたいが、次第に町に行くことも増え、郵便船に便乗するようになってきたのが、三洋汽船の前身だろう。今も飛島(ひしま)の人は三洋汽船の旅客船を”郵便船”と呼ぶそうだ。・・・・・・・・・・・・・・...「小島通いの郵便船」

  • ビワを作る

    子供にってビワは、田植えが終わった代満(しろみて)のご馳走に添えられる果物だった。実家の母屋の隣に、大きな枇杷の木が二本あった。山の畑にも枇杷の木が数本あった。茂平の果物では、いちばん大きな木が枇杷だった。皮をむくと、すっぱい甘みと、大きな種(さね)が特徴だった。茂平には、比較的多い果物だった。・・・・・(父の話)「びわ」はなぜ主でないのか?茂平の農家にはビワ畑がある。どの農家にも。だが桃やイチジクのように主流ではない、しかしビワを作っている。なぜか?ウチにも「うつろ」でつくっていた。熟れても安ぅはあるし、骨がおれるんじぁビワは。ビワは昔はようけい作りょうて、ちぎって出しょうたが。めんどくさいのでだんだん作らんようになってきた。ちぎってもえんもありゃ、悪いんもある。ちぎるのも木が大きょうて登らにゃあ取れん。ビワ...ビワを作る

  • ナシを作る

    商品としての果物栽培は明治以降に始まり、第二次世界大戦中の日本では”食糧”ではないと、栽培自体を否定する時代もあった。父は果物栽培一筋の一生で、国繁の先人に方法を学んだりしながら、多くの果物を作ってきた。今茂平には一本の梨の木も存在しないと思うが、戦前ではナシが代表果物だった。・・・・・「物語・食の文化」北岡正三郎中公新書2011年発行果物わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、キイチゴ(木苺)などだけで、弥生時代になって、モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。現代...ナシを作る

  • 牛を飼う

    家の中で、牛の存在感は大きかった。なにより体が大きい。そしてなんでも底なしに食べ・飲んでいた。夏の果物で市場に出せないもの、人の食べくさし、すべて一飲み状態で食べる。”食べ残し”など想像もできない動物だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢掛町史牛と馬役畜と自家用消費用肥料の獲得のため、財産としてたいせつに飼育した。牛が耐久力の強いことや、子牛の売買による副収入があることが理由。昭和30年代から40年代にかけて、牛馬とも非常な減少をたどった。特に昭和38年と39年の一年間に激しい減少を示した。・・・・・(父の話)牛牛のモリは大変じゃ。使うのは田植えの時だけ。その時は牛もくたびりょうた。草を刈ってきて餌にし、藁をくうて・・・。談・2000・9・10・・・(母の話)ゲシの草を刈りょうた。草刈るのがおおおじょう...牛を飼う

  • 人糞以外の肥

    農家には牛と、少数の鶏がいて、牛糞・鶏糞も飼う目的の一つになっていた。風呂や台所から出る灰や炭。牛すら食わない残飯や腐った食物、植物による堆肥。風呂や台所からの排水、ドブ。ドブにはボウブラがわいていた。・・・・・(父の話)灰「はいだめ」は家の外にたいがいあった。雨のあたらんところへ。そこへ,灰ばぁ入りょうた。もし火があっちゃぁ危ねぃけぃの。あれはカリがおもじゃけいの、葡萄みたいなのに一番えかったんじゃ。何ぃでもよかったけど、葡萄がいちばんカリがほしいけぇ。談・2001年7月23日牛の糞牛小屋に藁をきざんで入れとく。その上に糞としっこをする。それを混ぜて。それで堆肥になってくる。ちょっと水でも掛けてやる、そしたら早ぅ醗酵する。何処にでも堆肥舎がある。そこへ入れとく。適当に畑にもっていきょうた。果物には何でも効く。...人糞以外の肥

  • 街の人糞・田舎の人糞

    尾道では花街の汲み取りが一番高かったそうだ。茂平では神戸から「糞船」、野々浜では「神戸船」と呼ばれる船が入港していた。・・・・・(父の話)肥えを積んだ船が茂平に来ていた。神戸から来とった。船の真中辺に肥えを積んどった。それを金を出して買おとった。浜に入った船に荷車にニ荷積んでしんがいの畑の野つぼに移し、せえから、また船に行って買おて今度は他の畑にうつす。そわあなのは戦中から戦後まで3~4年続いたじゃろうか。(人糞肥料はどんな野菜や果物に適していたのか?)何にでも効きょうた。談・2001年4月22日・・・・・・肥船昔は肥料屋が船に肥を積んで売りに来た。肥船はタンカーのような構造の船だ。神戸の方からも来ていたから「神戸肥」とも言っていた。この船が野々浜の港に入り、肥を一荷(いっか)幾らで百姓をしている者に売る。この...街の人糞・田舎の人糞

  • 街の人の食べる物

    汁かけご飯戦前までわが国庶民の家庭での猫の餌は残飯に残り物の味噌汁をかけたもので、猫ご飯、猫まんまと呼ばれた。人には下品なたべものとされたが、古くからわが国庶民によく馴染み、これが明治以降のカレーライス、ハヤシライスなどの洋風汁かけご飯の普及を助長した。「物語・食の文化」北岡正三郎中公新書2011年発行・・・・・向田邦子先生の、”私は数えの八つだった。”、頃と比べて私の”数えで八つ”時分の朝飯と言えば「麦飯」に「味噌汁」の”汁かけ”だけの毎朝だった。しかも、その食材すべてが、家での自給品だ。向田先生の幼少時は「米の飯」「おしんこ」「生卵」「海苔」の朝食、これが戦前の2.26事件頃とは恐れ入る。母は、「昭和11~12年頃がいちばん景気がよかった」と話していたが、それも一因かもしれない。・・・・・・「海苔と卵と朝め...街の人の食べる物

  • ”肉”を食う④牛肉のスキヤキ!しかも生卵付き!!

    田舎(笠岡市茂平)と町(福山市入船町)の生活の違い、というか格差はこれだけあった。その一例。昭和42年春、農家の娘である姉は、福山市入船町の男性と結婚した。結婚して初めて牛肉のすき焼きをたべた話。・・・・・(姉の話)結婚した頃、夫は「肉言うたら、牛の肉しか食べた事が無い。」ようた。町の人間じゃよね。「子どもの頃、肉を買いに行く(手伝いで)ゆーたら、牛肉を買いに行く。」初めての牛肉のスキヤキにはビックリした。談・2002年1月3日・・・・・・(管理人)福山の三吉町に叔父の家があり、中学生の時そこで従兄弟たちと牛肉のスキヤキを初めて食べた。牛肉の味は全く覚えていないが、肉を食べるのに「生卵一個」使って。その事にビックリ仰天した。自分にとって生卵一個食べるのは病気になった時、そういう時はじめて食べられるものと思ってい...”肉”を食う④牛肉のスキヤキ!しかも生卵付き!!

  • ”肉”を食う③スキヤキとは鶏の肉と思っていた

    家でスキヤキを食べることはあった。ニワトリのすき焼きだった。それは、田舎ではおおご馳走だった。父が弱った鶏を料理していた。父は上手に肉から内臓まで取り出していた。私が中学生になった頃、日曜日の昼の鶏の餌は自分の仕事だった。弱った鶏を殺すのは自分の仕事になった。毛と皮を剥いで、肉を母に渡していた。(姉の話)家の庭には鶏を吊って、ぶらさげていた。卵を産まなくなった鶏の肉を食べょうた。・・・・・・「日本人は何を食べてきたのか」永山久夫青春出版社2003年発行聖なる鳥、ニワトリ古代ニワトリは、時刻を告げる神聖な鳥として扱われていたようだ。農作業と結びついて時間をおしえてくれる神聖な鳥。江戸時代ヨーロッパ人や中国人が、何の抵抗を持たずに鶏肉や卵を食べることを知り、日本人はカルチャーショックを受けたらしい。タブーが取られ、...”肉”を食う③スキヤキとは鶏の肉と思っていた

  • "肉”を食う②「馬肉は美味かったなあ」

    (姉の話)子どもの頃、馬の肉を売りにきょうた。赤い肉で、自転車の後ろに茶色の籠に入れて。上の道で売っとった。(両親が)うまい、うまい。ゆうて食べょうたから(自分も)美味い思ぅて食べょうた。談・2002年1月3日・・・・・・(母の話)馬肉さっぱりして、えかったなぁ。談・2000・12・17・・・・・(父の話)馬肉正月やこに売りに来る。秋から冬になって。夏はこん。牛肉は高かったけぃ、たいてい吉田のほうから売りにきょうた。安ぅておいしかった。談・2001・2・11・・・・・・・・・・・肉農家では牛肉を買って食べることはめったになかった。鶏を飼っている家が多かったが、普段は卵を食べることはなく、売って小遣いもうけにした。古くなった鶏は料理して肉は野菜や芋と煮物に、骨は汁物のだしに使った。「金光町史」・・・・・牛、馬、豚..."肉”を食う②「馬肉は美味かったなあ」

  • "肉”を食う①予科練合格「村でこんな名誉なことはない」と兎のスキヤキ

    うさぎの祝い肉(おじ=母の弟の話)(賀山の○氏は)その親父は山で猟をする人で。ワシが予科練に行くのが決まってから、その親父がウサギが獲れたゆうてよんでくれた。スキヤキをしてくれた。臭い。臭うんじゃ。それからウサギは一度も食べたことがない。はじめで終わりでええ(ウサギの肉は)一度で充分じゃ。それからお寺でしてもろうたな。「頑張れ!」言うてなぁ。「賀山から、こわあな人が出たゆうたら名誉なことじゃ。」ゆうてなぁ。その頃はまだ。「予科練へ行く」ゆうたら騒がりょうたんじゃ。じゃけど・・・なにいもならん。あそこへ行ったばあに、こわんなことになってしもうた。わっはっは(笑い・・但し自嘲気味)2003年3月20日・・・・・・(15才で入営したおじ)・・・・・・「肉食禁止令」7世紀、天武天皇の時代に、肉食禁止令を発令した。背景に..."肉”を食う①予科練合格「村でこんな名誉なことはない」と兎のスキヤキ

  • 日本だけに猛威をふるった病

    城見小学校に行っていたころ、学校の先生が言っていた。「糠を食べると脚気にならん」と。わが家の糠は、すべて牛にやっていた。いくら先生が言うことでも、牛のエサを食おうとは思わなかった。・・・・・(新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」)・・・・・・「知っておきたい和食の秘密」渡辺望勉誠出版202年発行かつてこの国に、「脚気(かっけ)」という恐ろしい病気があった。全身に倦怠感が訪れ、やがて下半身が浮腫みはじめ、ついには感覚麻痺を引き起こし、最悪の場合心不全にいたって命を失う。この脚気は肺結核と共に、若くて体力のある人にも容赦なくしかも不意に襲いかかる死病だった。江戸時代、あまりに江戸内で、富裕層に多くみられる病だったため「江戸患い」とも呼ばれた。ところが、地方や貧困層にいる人々には、この恐ろしい病は一向に縁がないのである...日本だけに猛威をふるった病

  • 笠岡湾のフグ

    家から海まで200mの近距離だったが、釣りを海ですることはほとんどなかった。釣りと言えば、溜池や堀でフナを釣っていた。エサはすぐにミミズを捕れるし、堀はどこにでもあるし、フナは釣った時の引きも心地よかった。海では、波止や岸から投げて釣った記憶は一度もない。船で釣りに出た。エサは干潮時に捕っておく。茂平湾で釣れるのはフグだった。フグは小さいが腹が膨んでいるので、釣った気分になっていた。・・・・・・小さなフグは商品にならなかったのか、近所の猟師からザルでもらうことがよくあった。その時は決まって母は、味噌汁のダシに使い、そのまま汁の具として料理していた。フグの味噌汁は汁の味が良かった。旨かった。・・・・・・ある時を境に、母のフグ汁作りは、時間が倍かかるようになった。茂平で、フグを食って近所のおじいさんが死んだ。それ以...笠岡湾のフグ

  • 味噌を作る

    ・・・・・・味噌をつくる「金光町史」味噌味噌作りは主に冬の仕事であった。庭があがったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。米味噌には、小米を使うことが多かった。まず米か裸麦を蒸し、麹の素を混ぜ紙袋に入れた。藁で編んだおひつに入れてコタツに入れたり、風呂の湯を沸かし、蓋の上に置いて温度を上げ、麹を作った。麹は味噌の花とも呼ばれた。カビがここまでという時に塩を混ぜ、カビがこれ以上生えるのを止めた。次に味噌用の五升も入る平釜で大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。麹と豆と塩は同じ量だけ三つの山にして混ぜた。一斗も入る味噌瓶に二つも三つも作った。大きなしゃもじでしっかり詰め込み、風が当たらないように新聞紙で覆い蓋をした。三年味噌といって三年経ったものから食べていったが、三か月から半年ぐらい経つと食べる家もあった。...味噌を作る

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