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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 佐田岬②軍神

    三机湾は、開戦前に特殊潜航艇の訓練がなされたことが知られている。「岡山県史近代Ⅲ」平成元年発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxうち続く戦勝ニュースは、国民の中にますます狂喜の渦を広げていく。こうした戦勝気分の真只中で、太平洋戦争下最初の「軍神」がつくられる。1942年3月6日のニュースは「海ゆかば」の曲で始められ、国民は何事かと耳をそばだてた。真珠湾攻撃に「特殊潜航艇」として参加し、戦死した9人を二階級特進させその偉勲を永久に讃えるという大本営発表であった。その中に岡山県赤磐郡出身で、片山義雄二等兵曹(特進で兵曹長、23才)がいた。『合同新聞』は翌7日から「嗚忠烈の九軍神」と「軍神」大キャンペーンを繰り広げる。そこには山本連合艦隊司令長官の「この決死隊が、暗夜敵港を攻撃して成果をあげたるは...佐田岬②軍神

  • 佐田岬①正野の石垣

    近々、愛媛県の佐田岬に行く予定。訪問先をチェック中。「石垣が語る風土と文化-屋敷囲いとしての石垣-」漆原和子古今書院2008年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx佐田岬佐田岬の先端に位置する正野地区内の浦の港には、極めて立派な「波除け石垣」が築かれている。半島の南側の急な崖の下に位置する港町であるため、冬の季節風の風下側にあたる。しかし南側と西側には宇和海が広がり、台風が北上する場合は波が高まる。台風が近づくにつれて、海面は上昇し高潮になる可能性がある。海岸線沿いでくい止める必要があり、600~700mにもおよぶ石垣を築いて防いだと考えられる。30年前から、この石垣を崩し、コンクリートで埋立をした。かつての「波除け石垣」の外側を埋...佐田岬①正野の石垣

  • 武漢作戦

    「第百一師団長日誌」伊東政喜中将の日中戦争中央公論社2007年発行より転記xcxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx武漢攻略戦の発動1938年(昭13)6月18日、初秋に漢口を攻略する方針が示された。その背景には、同時に実施される広東攻略作戦と合わせて、実質的に中国を支配し得ると考えられたこと、またソ連の参戦はないと判断された。7月末の日本陸軍の師団34個の配置は、北支9個師団中支14個師団満州9個師団となり、対峙する極東ソ連軍20個師団と比べ著しく劣勢になった。-------武漢作戦の結果日本軍は1938(昭13)年10月27日、目標の武漢三鎮の占領に成功したが、目的とした蒋介石政権の打倒はならなかった。そこで陸軍は諜略耕作によって、国民政府内の親日派の中心である汪兆銘を離反させて蒋政権切り崩し...武漢作戦

  • 占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」③

    平家物語の俊寛と有王の話しは有名だが、知るのは有王ひとりで、信憑性は心もとない。近代の戦もそうゆう面が結構あり、占守島の戦いの日本兵は多かったが(1万数千)、ソ連との停戦交渉では、立ち会った人数すら確認されていない。正使であった杉野巌少将は、シベリア拘留を経て笠岡市に住み、戦後は隠居的な平穏な生活で一生を終えた。杉野少将の日記が残され、発見される事が期待される。現代史の大きな資料に成るのは間違いない。「8月17日、ソ連軍上陸す占守島攻防記」大野芳著・新潮社・平成20年発刊より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxグネチコ中将はニコリともせず、高圧的だった。日本軍の武器引き渡しの手順、ソ連海軍が片岡湾に入る、など7ヶ条の文書が渡された。長島は、「軍使は杉野少将が正で、柳岡参謀...占守島「8月17日、ソ連軍上陸す」③

  • 「北海道を守った占守島の戦い」

    「北海道を守った占守島の戦い」上原卓祥伝社新書より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx8月9日午前0時、ソ連軍は北満州、朝鮮北部および樺太への進攻を開始した。タス通信によって知った大本営は、関東軍・支邦派遣軍・第5方面軍(千島・樺太・北海道)に「敵の進攻を破砕スヘシ」と下命した。8月12日、第5方面軍司令官樋口中将は、「宿敵ソ軍遂ニ我ニ向カッテタツ。断乎仇敵ヲ殲滅シ・・・」との訓話を出した。8月16日、スターリンは、「天皇が行った発表は宣言に過ぎない。極東のソ連軍は対日攻撃作戦を続行する」同じ日に、トルーマンに親展電報を送り、クリル諸島全てと北海道の北東半分を占領することを認めるよう要求した。その上、東京にも保障占領を認めよと要求した。--その理由は、日本は1919年から21年...「北海道を守った占守島の戦い」

  • 北木島の監視哨

    「北木を語る-島と石と人の営みと-」平成8年元気ユニオンin北木発行、より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「大浦防空監視哨」設置1945(昭和20)本土空襲に備えて、バックり山の山頂に設けられた。監視には、北木村大浦・豊浦・金風呂・真鍋島村・白石島村の女子青年団が動員された。5班に分かれ24時間体制で監視に当る。県下20カ所笠岡地区唯一の監視哨で、敵機発見の情報は、北木村役場経由で直ちに中部軍司令部に送られました。8月7日、夜9時を回った頃、福山大空襲に参加した米軍機の一部により金風呂が空襲を受ける。焼失家屋57戸、死者2名(女子児童1、幼児1)で、岡山県下の空襲としては2番目の規模であった。この事実は、岡山県史には記載されていない。北木島の監視哨

  • 山形県

    「山形県の歴史」山川出版昭和45年発行より転記するxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx出羽国の始まり諸説あるが、越の国の「出端(いでは)」という意味だろう。和銅元(708)年、越後国はあらたに出羽の郡を建てることを言上し、朝廷がこれを許可している。神亀元年(724)頃より、出羽の蝦夷を鎮圧が始まった。現在の秋田県方面の蝦夷経営が本格化した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・出羽三山出羽三山とは羽黒山・月山・湯殿山をいい、これら三山は一体のものとして信仰されてきた。月山・湯殿山は奥宮といい、羽黒山に三神合祭殿を設けて本社としている。出羽の山の神に、天台・真言が影響して成立したのが出羽修験だろう。修験道が独立した山伏の道となったのは13世紀。羽黒山には、古くから行者がいたらしい。貞元2...山形県

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