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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 初代宮内庁長官の「拝謁記」①

    8月20日のすべての新聞は、一斉に初代宮内庁長官の「拝謁記」で埋まった。故・田島道治長官のノートや手帳が,遺族からの提供を受けたNHKから公開された。専門家の意見は、目新しいものはなく、従来の追認や確認的な資料のようだ。山陽新聞2019年8月20日の記事より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和天皇戦争反省語れず日本の独立を祝う1952年5月の式典で、昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたにもかかわらず、当時の吉田茂首相の反対で「お言葉」から削除された。「私はどうしても反省という字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)吉田首相は「戦争をお始めになった責任があるといはれる危険がある」と反対。お言葉から削除された。軍部の暴走「終戦で戦争を止めるくらいなら宣戦前か...初代宮内庁長官の「拝謁記」①

  • 黒塗りの家

    太平洋戦争の末期、米軍からの空襲を避けるため、白壁の家は黒く塗るように政府・軍から始動された。全国にある白壁造りの家は、急遽、壁を黒く塗って空襲から逃れようとした。そうゆう家は、戦後によく見られたが、さすがに今では減ってみることもなかったが、今日、それらしき家を見つけたので、地域の方に確認したら、その「黒塗りの家」であった。(2019.8.29岡山県浅口市内)黒塗りの家

  • 阿賀野川と津川

    「流域をたどる歴史」豊田武編・ぎょうせい昭和53年発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx阿賀野川尾瀬沼の水を集めた只見川は、伊南川を併せ約140キロして、猪苗代湖を源とする日橋川と合流し、阿賀野川となる。越後山脈を横断し日本海へと注ぐ。全長210キロの大河である。上流域に豪雪地帯を持ち、勾配も急なことから電力の宝庫といわれ、多くのダムと発電所が建設されている。かつては、会津と越後を結ぶ重要な交通路であった。新潟騒動1633年の阿賀・信濃両川合流により、日本海有数の良港として栄えた新潟町は年、阿賀野川流路変更により活気を失った。津川津川盆地は唯一のまとまった平地。ここに阿賀野川ラインの中心としてしられる津川町がある。越後国蒲原郡に属していたが会津との関係を維持し、近世...阿賀野川と津川

  • 毛野無羅山の植林と砂防ダム

    いったい山陽地方の山々は、どれだけはげ山だったのだろう?「里庄町誌」昭和46年発行より転記xxxxxxxxxxxxxx小川郷太郎教授の砂防論新庄出身の京大小川教授は、明治39年ドイツへ留学、その後オーストリア・イタリア・フランス・ベルギーと各国を歴巡した。ある日母校新庄小学校で講演した。「私は子供の時から郷里の山や川を見て育った。だから山ははげたもの、川は天井川ときめていた。この度の留学で欧州各国の山や川を見ると山は黒々としており、川は底を流れているのであります。はげ山の下の村では何年経っても、発展の見込みが無いという事をつくづくと感じました。諸君!この村の近き将来ないし永遠の将来を思って、あのはげ山を真っ黒な山にしてみようではありませんか。わが庭に植える一本の松の木があったら、その木を山へ持って行って植えてく...毛野無羅山の植林と砂防ダム

  • 横島(福山市内海町)のタンク・鞆の高射砲

    岡山の記憶第9号・2007年より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「鞆後山高射砲陣地」探査記昭和17年ドーリットル機の空襲で、呉鎮守府は初の空襲警報を発令した。当時、高射砲陣地とする鞆・後山からすく近郊の横島(福山市内海町)に岩国陸軍燃料廠貯油槽を設置していた。タンクは航空燃施設では国内最大規模で11基(円型・直径30m、高さ10m)を誇った。のち計画される高射砲陣地はこの要地防空が主任務だったのは明白である。8月8日夜、四国、荘内半島で福山へ針路をとったB29、91機は洋上4.000mの高度を保持し、福山に焼夷弾を投下した。福山空襲時に対空発砲が行われた事実はつかめなかった。一方、B29飛行58連隊の航空日誌には、対空砲火のあった記録が残っているが、反撃された砲台位置の記録はなられなかった。...横島(福山市内海町)のタンク・鞆の高射砲

  • 戦時中の教育(矢掛中学ほか)

    旧制矢中はある年、予科練に全生徒が受験願書を提出したことが知られている。「矢掛町史・本編」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx戦時中の教育(矢掛中学ほか)中学生以上では、海軍兵学校、陸軍幼年学校、士官学校などに優等生の志望が増え、海軍甲種飛行予科練習生などの志望には半強制的な指導が学年全員になされた時や所も出た。兵士になる年齢に達しない、あるいは志望しない生徒は、勤労動員で武器生産工場で働いた。矢掛中学校の場合、敗戦の前年には五年生は航空機製作所(現三菱自工)、四年生は造船所(相生市・石播)三年生は航空機製作所で栄養失調と病気と闘いながら勤労奉仕をした。一・二年生は開墾・田植・稲刈・麦播、麦刈などで食糧増産に励んだ。学年の進級には配属将校の発言力が増し、上級学校進学用の内申書には、学業に代わ...戦時中の教育(矢掛中学ほか)

  • 成羽川③トト道ほか

    成羽町史と備中町史から転記するxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx成羽町史民俗編平成3年発行トト道生活に必要な日用雑貨品は、玉島方面から高瀬舟で運ばれていた。この川船往来とは別に、海魚が笠岡方面から吹屋へ運ばれた。かつて古老に聞いた話であるが、足自慢の若者が、夜半に笠岡を出て、宇土谷を経て、保木の坂から成羽へ駆け抜けた。成羽で引き継がれた魚は、羽山街道を上って吹屋へ運ばれたという。吹屋への、この道を「トト道」といった。・・・・・・・・・・・・・備中町史東城-高山往来東城・高山往来は笠岡からの魚の運搬路として発展したものと考えてよい。笠岡から高山市まで約8里、高山市から東條間約9里、高山市から新見約10里であり、高山市を中継点として発展していった。現在もこの地方の商人は祭礼や...成羽川③トト道ほか

  • 成羽川②高瀬舟

    成羽町史と備中町史から転記するxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx成羽町史民俗編平成3年発行成羽の上流の船の運行は「継船」の定めがあった。東城荷物の積み下しは成羽継にする。成羽の問屋を経て積み替えられ、南へ運ばれた。成羽は、吹屋と小泉の銅の算出や、弁柄製造の地をひかえ、継船による物資の中継地として栄えた。高瀬舟は50石、30石、20石などの船があり、平底の船である。成羽より上流は小高瀬が使用された。成羽川は、川底が広く、水量も多いので、水害にもしばしば悩まされた。古くから水運が発達して、高瀬舟が運行されていたので、橋はなかった。高瀬舟の通行のさまたげにならず、水害にも耐えられる橋脚の高い橋が架けられたのは、明治後期から大正にかけてである。しかも成羽橋・惣門橋・田原橋だけで、その他の橋はいずれも終戦後架け...成羽川②高瀬舟

  • 成羽川①吉岡鉱山のトロッコ

    成羽町史と備中町史から転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx成羽町史民俗編平成3年発行トロッコ道明治41年、吉岡銅山の私設軌道(トロッコ)の開通によって、昭和初期まで、繁栄したが伯備線の開通などによって使命を終了した。吉岡銅山は、黄銅鉱を産し、坂本で仮精錬をした粗銅を、大阪三菱精錬所へ送り出していた。また精錬用の石炭、コークスなどを九州若松から岡山を経て運ばれていた。輸送は、馬車や高瀬舟によって行われていた。成羽・田原間に専用道路を新設し、輸送力の増強が計画された。専用道路が成羽川左岸に敷設された。大正になって吉岡銅山は活況を呈し、田原・坂本間の軌道延長が計画された。まず、坂本インクラインと幸盛(こうせい)の間に専用道路を開通させた。ついで、県道の幅を広げ、道路面とレール面とを同じ高さにして敷...成羽川①吉岡鉱山のトロッコ

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