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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 昭和10年10月5日 笠岡男子校・女子校運動会

    里庄町にお住いのOさんから借りた画像。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・幼稚園女子校の玉入れ高等科男子の箱飛び昭和10年10月5日笠岡男子校・女子校運動会

  • 昭和10年8月1日・笠岡女子校のラジオ体操(古城山)

    里庄町にお住いのOさんから借りた画像。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和10年8月1日小田郡笠岡町・古城山にて笠岡女子校のラジオ体操体操が終わると解散。昭和10年8月1日・笠岡女子校のラジオ体操(古城山)

  • 町内会・隣組

    町内会・隣組「井原市史Ⅱ」より転記する。町内会・隣組昭和15年9月、内務省は「部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱」を府県に通達した。これによって、全国的に町内会・部落会の補助組織として隣組が設置されていった。さらに大政翼賛会の改組により、国民精神総動員運動の下部組織として町内会・部落会・隣組も翼賛会の指導下に組み入れられ、指導の強化が行われた。政府の意向は、知事に、市町村長から各町内会・部落会へ通達され、最後に隣組へと伝達する上意下達の組織を確立して、政府方針を国民に徹底する図式が整備された。戦争の長期化にともなって、しだいに町内会・隣組が日常生活の上に重くのしかかかっていった。この組織を通じて、各種生活物資の配給、国債の割り当て、貯蓄の奨励、各種労働奉仕、出征兵士の歓送、戦没者遺骨の出迎え、防空演習な...町内会・隣組

  • 藺草・製糸場

    「井原市史Ⅱ」より転記する。・・・・・・・藺草藺草は、昭和初期から10年代を通じて、稲倉村、県主村、木之子村で多く作られていた。特に、稲倉村や県主村は、藺染用の土が搾取できたことも良条件となった。県主村では恐慌期に、染土のみの出荷が良好だったという。藺草と対照的に、はっかと除虫菊は全町村で収獲されるという特徴がみられた。製糸場後月郡・小田郡の製糸場は、最初原料繭を遠くから調達する割合が高かったが、養蚕業が次第に発達すると、自郡および周辺地域からの原料繭調達になっていった。そして昭和初期には、小田郡は養蚕産業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。昭和2年の岡山県内の春蚕繭取引方法としては、乾繭取引(9.8%)、正量取引(28%)、特約取引(35.5%)、市場取引(3.7%)があげられる。小田郡は、時価取引が...藺草・製糸場

  • 二宮金次郎も代用品

    講談社「昭和の全記録⑤昭和13-15年」より転記***************二宮金次郎も代用品備前焼の「陶像」で代用岡山県和気郡伊部町で、特産の備前焼を持ちいて二宮金次郎の「陶像」を製作。銅像に比べ製作費用が安いため、代用品奨励の国策と合致し、「代用品の二宮さん」として全国の小学校の校庭に置かれることになった。写真は、焼き上がった「陶像」を磨く伊部町の窯元。『写真週報』昭和15年5月8日号掲載。二宮金次郎も代用品

  • 茂平の漁船数(昭和20年)

    昭和20年8月1日の漁船数が8隻となっている。少なすぎる。軍に徴用されたのだろうか。茂平の漁船数(昭和20年)

  • 明治初期の茂平の道路地図

    江戸時代の末期か、明治の初めの地図。備中国小田郡茂平村戸長1人総代4人の名前が地図に記されている。明治初期の茂平の道路地図

  • 占有海面指定に関する件

    昭和20年4月20日岡山県土木部長岡山県警察部長から城見村長に占有海面指定に関する件が届いている。呉鎮守府長官から、軍事上必要だから色塗りの場所を航海するなという命令書。津之下の飛行場は既に運用中だし、軍で必要ならもっと早く発令があって(いいものではないが)いて不思議でない。占有海面指定に関する件

  • 赤紙・白紙

    赤紙・白紙おば(父の妹)は「白紙をもらって児島に行った」と言っていた。勤労奉仕のことを(赤紙に対して)白紙と呼んでいたようだ。その時のおばの通達が残っている。おばの仕事は「朝行くのも夜星、仕事からの帰りも夜星」で、泣きながらの日々だったと語っていた。赤紙・白紙

  • 戦死電報

    戦死電報戦死電報が役場に届くと、吏員がその電報をもって自宅へ届けた。戦死電報

  • 昭和16年の城見村の工場

    昭和16年の城見村の工場昭和16年2月14日、城見村長から岡山県知事に提出した「工業調査」を転記する。わずか7工場。茂平はなし。陶器は対象外だったのか?xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx工場名藤川薄荷油製造所小川薄荷油製造所三好瓦工場山陽呑口製作所松浦製箱所坂本製麺所坂本鍛冶店昭和16年の城見村の工場

  • 「戦没者進級の件通知」

    「戦没者進級の件通知」「戦没者進級の件通知」を転記する。zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz岡世一復公第xxx号戦没者進級の件通牒昭和22年5月2日岡山地方世話部城見村長殿主題の件左記の通り発令せられましたので御伝達せられたく通牒致します。左記本籍地岡山県城見村大字xxxx番地陸軍伍長xxxx任陸軍軍曹(昭和20年2月3日)「戦没者進級の件通知」

  • 「在郷軍人名簿」をめくる

    「在郷軍人名簿」をめくる「在郷軍人名簿岡山県小田郡城見村」より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx兵科歩兵族籍平民本籍岡山県小田郡城見村大字xxxx番地官等級(空欄)氏名xx長男●●○○誕生明治xx年xx月xx非入隊明治44年12月1日補充兵役所管岡山連隊区現役(空欄)予備役(空欄)後備役(空欄)補充兵営(空欄)「在郷軍人名簿」をめくる

  • 城見村の佐官(戦没者遺族台帳より)

    生前父は、「城見村には尉官程度で佐官以上はいなかった」と話していた。しかし佐官は存在していた。しかも父が良く知る軍人であり、その父も子も知る人だった。二階級特進か(?)戦没者遺族台帳小田郡城見村役場より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx戦没者遺族台帳小田郡城見村役場海軍少佐従六位〇〇●●大正4年△月△日生原隊(空欄)昭和20年8月28日死亡本籍岡山県小田郡城見村大字xxxxxx番地遺族父xx明治xx年xx生農業母xx明治xx年xx生農業長女xx長男xx妹xx弟xx城見村の佐官(戦没者遺族台帳より)

  • 初代宮内庁長官の「拝謁記」②

    山陽新聞2019年8月20日の記事より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx故田島道治の「拝謁記」には、昭和天皇が戦前の軍部の暴走を「下剋上」とたびたび批判する記述がある。一方終戦の決断が遅れたことには「無条件降伏は矢張りいや」だったと漏らしていた。「一寸こちらが勝ったような時に、其時を見付けたいといふ念もあった」とある。「一撃講話論」を持っていたことが改めて裏付けられた。関東軍の謀略だった1928年の張作霖爆殺事件を巡る田中義一内閣の対応について「事件のさばき方が不徹底であった事が今日の敗戦に至る抑々の禍根の発端」と胸中を明かしていた。軍部の専横を「下剋上」と非難し「早く根絶」すべきだったとも主張していた。軍部の台頭を許した「2.26事件」については「あの時分の軍部の勢は誰でも止め...初代宮内庁長官の「拝謁記」②

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