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風の記憶 https://blog.goo.ne.jp/yo88yo

風のように吹きすぎてゆく日常を、言葉に残せるものなら残したい…… ささやかな試みの詩集です。

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2014/10/31

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  • メタモルフォーゼ

    いつも言葉のことが頭にある。言葉で考えて、言葉で自分を表現する。言葉でひととコミュニケートする。言葉を並べて文ができる、詩ができる。メールも送信できる。だが、言葉を操ることは簡単ではない。言葉は楽しませてくれるが、悩ませてもくれる。言葉を選ぶ。衣装のように着たり脱いだりする。なかなか自分の体にフィットしない。私は自分のことを、気分が比較的安定した人間だと思っている。感情のさざ波は常に立っているが大荒れすることはない。けれども、とつぜん自分というものを捨てたくなることがある。着膨れしたように、体の動きが不自由になっていたり、袋小路に追い詰められているように感じることがある。くるりと方向転換したり、もっと身軽になるために着ているものを脱ぎ捨てたくなる。これは自分ではない、と思う。玉葱のように、皮だか実だか分か...メタモルフォーゼ

  • 光る言葉を追いながら

    東京の夜空に文字が光り、点滅しながら流れていた。その光景をはじめて見たのはいつだっただろうか。まだ都会の生活に慣れていなかった私には、言葉が空から降ってくるような感動があった。その電光掲示板は何かのニュースを伝えていたのだろうが、私はただ、光となって静かに流れている不思議な文字に見とれていた。そして、電光掲示板の文字のように、あれから長い歳月が流れていった。私はいま、液晶画面の光る文字を追いつづけている。日々、小さな感動を味わいながら、パソコンで言葉を綴ることができるのは、はじめて見た電光掲示板の光る文字の感動を、知らないうちに追体験しているのかもしれない。長いあいだ、パソコンを使って仕事をしてきた。当初はフォントも少なく、日本語の変換も容易ではなかった。パソコンで言葉を操作することは、とてもしんどい作業...光る言葉を追いながら

  • どこかで川が流れている

    子供の頃、大きな木には神様が宿っていると聞かされたことがある。大きな木の肌に耳をつけると、神様の声が聞こえるという。そのようにして、いちどだけ神様の声を聞いたことがある。言葉はわからない。ただ川が流れているような音だった。いまでも夜中にふと目覚めたとき、川が流れるような水音を聞くことがある。子供の頃の古い感覚が耳元にもどってくる。神様ではないかも知れないが、私を超えたものの存在の、音にならない音、言葉にならない言葉のささやきに、つい耳をすましてしまう。水が流れている。木の葉が流れてくる。いつの間にか夢の中にいて、葉っぱの1枚1枚が言葉に変わっていく。拾いあげて並べると、詩のようなかたちになっている。躊躇いもなく抵抗もなく、流れを受け入れていく心地よさ。川が流れる音とは、眠りへと誘われていく、あるいは眠りか...どこかで川が流れている

  • 名もない花よりも

    近くの公園で、黄色い花が咲き誇っている。以前は名前があったが、いまはない。といっても、それはぼくだけの認識にすぎないのだが。その花には名札があった。そして名前があった。たしか、ギリシャ神話の女神のような名前だった。誰かのいたずらで、いつのまにか名札がなくなってしまった。あまりに長い名前だったので、私は覚えることができなかった。だから、名札がなくなると同時に、名前もなくなってしまったのだった。もちろん、花は名前があろうがなかろうが関係なく咲いている。私だけがその花の名前を失って、私のなかで、その花の存在をあやふやにしているにすぎない。名前といえば、私にはネットで使う名前がある。日常生活では通用しない名前だが、ネットでは、その名前がないと私は存在しないことになる。いや、名前があるだけでは駄目なのだ。なんらかの...名もない花よりも

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