夏の奥多摩の風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.town.okutama.tokyo.jp/1/kankosangyoka/kankojoho/2/705.htmlです。「夏の奥多摩の風景」
2025年7月
夏の奥多摩の風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.town.okutama.tokyo.jp/1/kankosangyoka/kankojoho/2/705.htmlです。「夏の奥多摩の風景」
以前は夏の奥多摩へ小さな旅に行きました。独りで車を駆って奥多摩の鳩ノ巣までよく小さな旅をしました。多摩川上流域の古刹、海禅寺と梅岩寺を散策し、多摩川の地酒、「嘉泉」の田村酒造と、もう一つの地酒、「沢の井」の小澤酒造の写真を何度も撮りました。54年前に婚約中だった家内と初めて行ったのは鳩ノ巣渓谷でした。茫々、アッという間に時が流れ去ったものです。...何度も多摩川名物の「へそ饅頭」を家内へのお土産に買いました。多摩川の上流域は東京より涼しくて新鮮な川風が吹いていました。写真に鳩ノ巣渓谷の写真と御岳駅のそばの玉川屋という蕎麦屋の写真をお送りします。玉川屋の座敷の大きなガラス窓から多摩川の向側の山の緑が見え、眺望の良い蕎麦屋さんです。「夏の奥多摩の風景」
夏の風物詩は海水浴の光景です。幼少の頃の楽しかった海水浴の光景を懐かしく思い出します。一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での少年の頃の海水浴の思い出です。インターネットで検索して桂島と宮戸島の風景写真を探しました。1番目の写真は現在の桂島の海水浴場の風景です。2番目の写真は海開き後の宮戸島の海水浴場の風景写真です。3番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。4番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。海開き後は人で溢れる海水浴場です。5番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。夏を待ちきれない若者達がサーフィンを楽しんでいる光景です。こんな光景を海水浴の光景を思い出すと不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。皆様も暑い夏をお元気でお過ごし下さい。それはそれと...「夏の風物詩は海水浴の光景」
夏の風物詩をもう一つは霧が流れる高原美術館のロマンです。美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。それでは早速、霧が流れる美ヶ原高原美術館を家内が撮った写真でご紹介します。美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyouに出ています。そして全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/にあります。展示作品の説明は、https://www.utsukushi...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館」
夏の風物詩には七夕飾りもあります。夏になると家々では子供たちが七夕飾りを作ります。また各地の町の通りに大規模な七夕飾りをします。そして有名なのは仙台の七夕まつりです。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事になります。仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏の風物詩です。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出します。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.htmlです。2番目の写真の出...「夏の風物詩は七夕飾り」
現在、私の身の回りには蚊帳と蚊取り線香はありません。昔は夏の暮らしで大切なものでした。そして夏の風物詩でした。今日は追憶の中の夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香のことを書いてみたいと思います。蚊帳は平安時代から日本で使われていました。江戸時代には庶民にも広がり、「夏の風物詩」になりました。夏の季語として俳句に登場していました。1965年ごろまで日本中で使われていたのです。一方、蚊取り線香は現在でも野外作業で使われています。しかし懐かしい「除虫菊の煙のにおい」がしないのです。現在は合成した化学製品なので独特の香りがしないのです。蚊取り線香の形は現在でも昔のままの渦巻きの形をしています。色も昔と同じです。しかし懐かしい「除虫菊の煙の匂い」がしないのです。それではまず、蚊帳(かや)の写真3枚と、蚊取り線香の写真と...「夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香」
岩手県のリアス式海岸は、三陸海岸の南部に見られる特徴的な地形です。リアス式海岸は、川が山地を浸食し、形成された入り江が連続する地形です。岩手県では、この地形が漁業や観光業に大きく貢献しています。夏の三陸海岸の風景の写真をお送り致します。「岩手県の夏の三陸海岸の風景」
北上川の水源は岩手県岩手町御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」とする説が一般的です。そこから岩手県の中央を南下して宮城県に入り石巻湾の太平洋へ流れ出ています。北上川のように北から南へ流れる川は全国でも珍しい川です。北上山地と奥羽山脈の間を流れているため、それぞれの山地からいくつもの支流が流れ込み、その数は大小合わせて200以上もあります。1番目の写真はライトアップされた北上川沿いの桜並木です。JR北上駅から徒歩7分ほどの距離にある北上川沿いの桜並木です。さて次は宮沢賢治ゆかりの場所を訪れてみましょう。賢治は1896年(明治29年)花巻に生まれ1933年(昭和8年)に亡くなりました。盛岡への旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問しました。その後、小岩井牧場に行き、そして花巻市の羅須地人協会や賢治の...「北上川と石川啄木と宮沢賢治」
南部藩は岩手県中部と青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩でした。藩主が南部氏でした。盛岡藩とも呼ばれます。この地域には独特な文化があります。魅力ある地域です。甲斐国にいた南部氏の始祖の南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に来て現在の南部町(青森県)に宿をとったのが始まりです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康から南部藩は所領が安堵されました。10万石の大名として認められたのです。明治維新では奥羽越列藩同盟への参加します。そして南部藩は新政府側へ屈服しました。南部藩は終わったのです。なお遠野南部家は藩の新政府側につき、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり新政府側へついたのです。この地域の独特な文化や魅力を写真で示します。1番目...「岩手の南部藩の歴史と写真」
石川啄木は1886年(明治19年)岩手県日戸村で住職の長男に生まれ、翌年渋民村へ移った。1912年(明治45年)に結核で没した。享年26歳。まず彼が作ったを短歌を読んでみよう。短歌を三行書きにするという新しい形を産み出した。歌われたのは孤独・望郷・貧困など自己の内面を描き出したものが多い。東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむるたはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまずはたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆくかにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくにふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの...「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」
岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら石川啄木の短歌を思い出しました。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(石川啄木の短歌です。)岩手は宮沢賢治の故郷です。そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/です。1番目の写真は「盛岡城跡公園」で...「岩手県と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」」
自分が貧乏だから持っているお金だけで出来る趣味を楽しむ。これが引退後の人生を輝かしい日々に変える為の鉄則と確信する境地に至りました。創意工夫を重ねて、あるお金だけで賢い生活をすることです。この時、一つや二つの趣味を持ち、その為の最小の出費を惜しんではいけません。別荘地と山林地とは値段も違う上、不動産税が雲泥の差です。しかし豊かな想像力と自然へ対する憧憬が強ければ同じように楽しめます。ロマンチシズムを持っていると、より一層豊かに趣味を楽しめます。1番目の写真は私の山林の中の小屋です。電気釜という文明の利器を山へ持って行って美味しいご飯を炊くのです。友人の鬼家さんを招んで、青空の下で家内と3人で昼食を楽しむ。それだけが楽しいのです。2番目の写真は山林の中の小屋の庭で使った電気釜です。3番目の写真は炊き上がった...「貧乏でも趣味を楽しむ、すると人生が輝き出す」
「山林の中の小屋の趣味を教えてくれたのもスエーデンの エケトルプ先生」
スエーデンのエケトルプ先生は海岸に質素な別荘を持っていました。それを真似して私も1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。この山の麓に小屋を建てたのです。場所は山林の中です。2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋があります。写真にポツンと小さく写っている人間はよく一緒に行った家内です。4番目の写真は小屋の窓から見た光景です。...「山林の中の小屋の趣味を教えてくれたのもスエーデンのエケトルプ先生」
「ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンの エケトルプ先生の思い出」
ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生でした。1974年に旅したスエーデンへの旅の思い出を書きたいと思います。私を招待してくれたエケトルプ教授の思い出も書きたいと思います。1番目の写真はスエーデンの首都ストックホルムの夜景です。2番目の写真は農村地帯の風景です。森林が多いので木造の農家が多いのです。私は1974年にストックホルムに4ケ月滞在しました。私を招待してくれたのはエケトルプ教授でした。エケトルプ教授が私へヨットの趣味を教えてくれたのです。3番目の写真はスウェーデンの古民家です。4番目の写真は馬を放牧している牧場の風景です。エケトルプ先生の家の裏の風景と似ています。写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.htmlです。エケトルプ...「ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生の思い出」
私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。はじめてのヨットをあけび号と命名しました。家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。霞ヶ浦で元気に活躍していました。2番目の写真も「あけび号」です。「あけび号」を手放してから今度は大きな「ルナ3世」号を買いました。3番目の写真は「ルナ3世」号です。長さ26フィートです。後方に...「私のヨットの写真」
もう体力が無くなって趣味のヨットは75歳の時に止めました。止めてから14年になりますがヨットのことは鮮明に覚えておます。心の中でまだヨットを楽しんでいます。今日は帆船のシナーラ号の思い出を書きたいと思います。私はこの帆船に2度乗ったことがあります。一度はその重い舵輪を握った経験もありました。2000年前後のことでした。しかしその後シナーラ号は消えてしまったのです。ところが”MALU”さんという方のブログにシナーラ号のその後の物語が詳しく書いてあったのです。シナーラ号はヨットの好きな人の憧れのまとだったのです。感心なことに”MALU”さんは憧れるだけでなくシナーラ号のその後を詳しく調べていたのです。その写真を下に示します。1番目の写真はかつてのシナーラ号です。写真の出典は、”MALU”さんのブログ(http...「美しい帆船、シナーラ号の思い出」
2025年7月
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夏の奥多摩の風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.town.okutama.tokyo.jp/1/kankosangyoka/kankojoho/2/705.htmlです。「夏の奥多摩の風景」
以前は夏の奥多摩へ小さな旅に行きました。独りで車を駆って奥多摩の鳩ノ巣までよく小さな旅をしました。多摩川上流域の古刹、海禅寺と梅岩寺を散策し、多摩川の地酒、「嘉泉」の田村酒造と、もう一つの地酒、「沢の井」の小澤酒造の写真を何度も撮りました。54年前に婚約中だった家内と初めて行ったのは鳩ノ巣渓谷でした。茫々、アッという間に時が流れ去ったものです。...何度も多摩川名物の「へそ饅頭」を家内へのお土産に買いました。多摩川の上流域は東京より涼しくて新鮮な川風が吹いていました。写真に鳩ノ巣渓谷の写真と御岳駅のそばの玉川屋という蕎麦屋の写真をお送りします。玉川屋の座敷の大きなガラス窓から多摩川の向側の山の緑が見え、眺望の良い蕎麦屋さんです。「夏の奥多摩の風景」
夏の風物詩は海水浴の光景です。幼少の頃の楽しかった海水浴の光景を懐かしく思い出します。一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での少年の頃の海水浴の思い出です。インターネットで検索して桂島と宮戸島の風景写真を探しました。1番目の写真は現在の桂島の海水浴場の風景です。2番目の写真は海開き後の宮戸島の海水浴場の風景写真です。3番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。4番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。海開き後は人で溢れる海水浴場です。5番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。夏を待ちきれない若者達がサーフィンを楽しんでいる光景です。こんな光景を海水浴の光景を思い出すと不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。皆様も暑い夏をお元気でお過ごし下さい。それはそれと...「夏の風物詩は海水浴の光景」
夏の風物詩をもう一つは霧が流れる高原美術館のロマンです。美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。それでは早速、霧が流れる美ヶ原高原美術館を家内が撮った写真でご紹介します。美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyouに出ています。そして全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/にあります。展示作品の説明は、https://www.utsukushi...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館」
夏の風物詩には七夕飾りもあります。夏になると家々では子供たちが七夕飾りを作ります。また各地の町の通りに大規模な七夕飾りをします。そして有名なのは仙台の七夕まつりです。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事になります。仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏の風物詩です。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出します。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.htmlです。2番目の写真の出...「夏の風物詩は七夕飾り」
現在、私の身の回りには蚊帳と蚊取り線香はありません。昔は夏の暮らしで大切なものでした。そして夏の風物詩でした。今日は追憶の中の夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香のことを書いてみたいと思います。蚊帳は平安時代から日本で使われていました。江戸時代には庶民にも広がり、「夏の風物詩」になりました。夏の季語として俳句に登場していました。1965年ごろまで日本中で使われていたのです。一方、蚊取り線香は現在でも野外作業で使われています。しかし懐かしい「除虫菊の煙のにおい」がしないのです。現在は合成した化学製品なので独特の香りがしないのです。蚊取り線香の形は現在でも昔のままの渦巻きの形をしています。色も昔と同じです。しかし懐かしい「除虫菊の煙の匂い」がしないのです。それではまず、蚊帳(かや)の写真3枚と、蚊取り線香の写真と...「夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香」
岩手県のリアス式海岸は、三陸海岸の南部に見られる特徴的な地形です。リアス式海岸は、川が山地を浸食し、形成された入り江が連続する地形です。岩手県では、この地形が漁業や観光業に大きく貢献しています。夏の三陸海岸の風景の写真をお送り致します。「岩手県の夏の三陸海岸の風景」
北上川の水源は岩手県岩手町御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」とする説が一般的です。そこから岩手県の中央を南下して宮城県に入り石巻湾の太平洋へ流れ出ています。北上川のように北から南へ流れる川は全国でも珍しい川です。北上山地と奥羽山脈の間を流れているため、それぞれの山地からいくつもの支流が流れ込み、その数は大小合わせて200以上もあります。1番目の写真はライトアップされた北上川沿いの桜並木です。JR北上駅から徒歩7分ほどの距離にある北上川沿いの桜並木です。さて次は宮沢賢治ゆかりの場所を訪れてみましょう。賢治は1896年(明治29年)花巻に生まれ1933年(昭和8年)に亡くなりました。盛岡への旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問しました。その後、小岩井牧場に行き、そして花巻市の羅須地人協会や賢治の...「北上川と石川啄木と宮沢賢治」
南部藩は岩手県中部と青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩でした。藩主が南部氏でした。盛岡藩とも呼ばれます。この地域には独特な文化があります。魅力ある地域です。甲斐国にいた南部氏の始祖の南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に来て現在の南部町(青森県)に宿をとったのが始まりです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康から南部藩は所領が安堵されました。10万石の大名として認められたのです。明治維新では奥羽越列藩同盟への参加します。そして南部藩は新政府側へ屈服しました。南部藩は終わったのです。なお遠野南部家は藩の新政府側につき、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり新政府側へついたのです。この地域の独特な文化や魅力を写真で示します。1番目...「岩手の南部藩の歴史と写真」
石川啄木は1886年(明治19年)岩手県日戸村で住職の長男に生まれ、翌年渋民村へ移った。1912年(明治45年)に結核で没した。享年26歳。まず彼が作ったを短歌を読んでみよう。短歌を三行書きにするという新しい形を産み出した。歌われたのは孤独・望郷・貧困など自己の内面を描き出したものが多い。東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむるたはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまずはたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆくかにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくにふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの...「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」
岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら石川啄木の短歌を思い出しました。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(石川啄木の短歌です。)岩手は宮沢賢治の故郷です。そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/です。1番目の写真は「盛岡城跡公園」で...「岩手県と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」」
自分が貧乏だから持っているお金だけで出来る趣味を楽しむ。これが引退後の人生を輝かしい日々に変える為の鉄則と確信する境地に至りました。創意工夫を重ねて、あるお金だけで賢い生活をすることです。この時、一つや二つの趣味を持ち、その為の最小の出費を惜しんではいけません。別荘地と山林地とは値段も違う上、不動産税が雲泥の差です。しかし豊かな想像力と自然へ対する憧憬が強ければ同じように楽しめます。ロマンチシズムを持っていると、より一層豊かに趣味を楽しめます。1番目の写真は私の山林の中の小屋です。電気釜という文明の利器を山へ持って行って美味しいご飯を炊くのです。友人の鬼家さんを招んで、青空の下で家内と3人で昼食を楽しむ。それだけが楽しいのです。2番目の写真は山林の中の小屋の庭で使った電気釜です。3番目の写真は炊き上がった...「貧乏でも趣味を楽しむ、すると人生が輝き出す」
スエーデンのエケトルプ先生は海岸に質素な別荘を持っていました。それを真似して私も1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。この山の麓に小屋を建てたのです。場所は山林の中です。2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋があります。写真にポツンと小さく写っている人間はよく一緒に行った家内です。4番目の写真は小屋の窓から見た光景です。...「山林の中の小屋の趣味を教えてくれたのもスエーデンのエケトルプ先生」
ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生でした。1974年に旅したスエーデンへの旅の思い出を書きたいと思います。私を招待してくれたエケトルプ教授の思い出も書きたいと思います。1番目の写真はスエーデンの首都ストックホルムの夜景です。2番目の写真は農村地帯の風景です。森林が多いので木造の農家が多いのです。私は1974年にストックホルムに4ケ月滞在しました。私を招待してくれたのはエケトルプ教授でした。エケトルプ教授が私へヨットの趣味を教えてくれたのです。3番目の写真はスウェーデンの古民家です。4番目の写真は馬を放牧している牧場の風景です。エケトルプ先生の家の裏の風景と似ています。写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.htmlです。エケトルプ...「ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生の思い出」
私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。はじめてのヨットをあけび号と命名しました。家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。霞ヶ浦で元気に活躍していました。2番目の写真も「あけび号」です。「あけび号」を手放してから今度は大きな「ルナ3世」号を買いました。3番目の写真は「ルナ3世」号です。長さ26フィートです。後方に...「私のヨットの写真」
もう体力が無くなって趣味のヨットは75歳の時に止めました。止めてから14年になりますがヨットのことは鮮明に覚えておます。心の中でまだヨットを楽しんでいます。今日は帆船のシナーラ号の思い出を書きたいと思います。私はこの帆船に2度乗ったことがあります。一度はその重い舵輪を握った経験もありました。2000年前後のことでした。しかしその後シナーラ号は消えてしまったのです。ところが”MALU”さんという方のブログにシナーラ号のその後の物語が詳しく書いてあったのです。シナーラ号はヨットの好きな人の憧れのまとだったのです。感心なことに”MALU”さんは憧れるだけでなくシナーラ号のその後を詳しく調べていたのです。その写真を下に示します。1番目の写真はかつてのシナーラ号です。写真の出典は、”MALU”さんのブログ(http...「美しい帆船、シナーラ号の思い出」
鎌倉は家内が生まれ育った町まので以前に何度も遊びに行きました。懐かしい町です。懐かしいので写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「懐かしい鎌倉の風景」
あれは30年くらい前のことです。京都の郊外にある美しい竹林の中の道を歩いたことがあります。見事な竹林でした。その風景に似た写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「京都の郊外にある美しい竹林の写真」
鎌倉を代表する古刹の報国寺か竹寺として有名です。その写真をお送り致します。出典は、https://www.trip-kamakura.com/article/18726.htmlです。「鎌倉の報国寺の竹林の写真」
鎌倉は妻が生まれ育った町です。妻が懐かしいと言うで何度も行きました。そのうち私の故郷のように感じるようになりました。今日はそんな鎌倉の古刹の静寂の世界をご紹介致したいと思います。鎌倉の古刹めぐりの静寂の世界力を書きたいと思います。鎌倉のお寺は円覚寺と建長寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。古刹の静寂の世界です。私はもう50年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。円覚寺と建長寺をはじめ瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど20位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。そして鎌...「古都、鎌倉の古刹の静寂の世界」
ウエストン卿は日本の山々を愛し数多くの山に登ったのです。私は忘れるべきでないと思い彼の登山歴をお送り致します。1861年12月25日-イギリスのダービー市に生まれる。1890年(明治23年)-イギリス時代から持っていた趣味として国内での登山活動を開始。富士山、阿蘇山、霧島山、桜島、日光白根山などに登頂。1891年(明治24年)-軽井沢を出発し浅間山を経て松本から日本アルプスの一角、槍ヶ岳に初登頂。その後翌年にかけて飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈などを巡った。また、富士山にも複数回登頂した[2]。1893年(明治26年)-前穂高岳に登頂。このときの案内役で地元猟師の上條嘉門次との友情関係は、多く語り継がれている。またこの年の5月11日に、前宮ルートより恵那山に登頂した。同年8月には、立山登山を長野県側から立山...「日本の数多くの山に登ったイギリス人のウエストン卿の偉業」
ヒマラヤの山々と麓を歩く人々の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=162です。「ヒマラヤの山々の写真」
夏の大雪山には高山植物の花が咲き素晴らしい眺めです。その写真をお送り致します。出典は、https://yuyupippu.com/?p=1073です。「夏の北海道の大雪山の写真」
上高地に関する記事を書いていたら、浦松佐美太郎著、「たった一人の山」を思い出しました。第二次大戦直前にスイスにてアルプスをひたすら制覇していた日本人の随筆集です。瑞々しい文章です。私も昔読んで感動しました。アルプスの山々での話を始め、帰国後は、穂高や富士山に登頂した話まで20編ほどの小編が収録されて7います。日本では1958年に出版されました。KotokoSatoさんの感想文です。https://bookmeter.com/books/323065第二次大戦直前にスイスにてアルプスをひたすら制覇していた日本人がいたことに驚き、そしてその当時に書かれたとは思えない程瑞々しい、鮮度が高い文章にさらに驚いた。アルプスの山々での話を始め、帰国後は、穂高や富士山に登頂した話まで20編ほどの小編から溢れるのは、山と真...「浦松佐美太郎著、「たった一人の山」を思い出す」
上高地の明神池、河童橋、田代池、大正池、そして奥穂高岳の紅葉風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、「上高地の紅葉、2020年」https://yamahack.com/2178です。1番目の写真は明神池の紅葉です。明神池は上高地の中心の河童橋から歩いて60分ほどの上流にあります。一の池と二の池の大小2つの池です。池の入り口には穂高見命が祭られた穂高神社があり明神池は神域です。澄んだ池面に映る青空と木々の紅葉が神秘的な美しさを見せています。2番目の写真は田代池と周囲の紅葉です。田代池は上高地バスターミナルから河童橋の下流方向に歩いて40分ほどの所にあります。焼岳の噴火で出来た浅い池です。透明な田代池に岩魚が見えます。紅葉を池面に映し幻想的です。湿原なので穏やかな雰囲気を感じられる池です。3番目の写真は...「上高地の明神池、河童橋、田代池、大正池などの紅葉の美」
茫々64年前の夏に私オハイオ州立大学に留学しました。22歳の暑い夏でした。懐かしいのでオハイオの夏の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。1番目の写真はオハイオ州立大学の建物です。残りの写真はオハイオの夏の風景です。「懐かしいオハイオの夏の写真」
明治の文明開化以来、日本人は西洋文化をこの国に取り込むことに努力して来ました。明治政府は優れた西洋人も雇い、日本の学問や文化を西洋風に発展させました。日本からも各分野の優秀な人材を西洋に派遣し留学させました。森鴎外や夏目漱石も留学しました。東洋と西洋の文化を比較しながら楽しむのが私の趣味です。ですから函館、横浜、神戸、長崎などに興味があり何度も訪れました。そして明治期に西洋人が避暑地として開いた八ヶ岳の清里、上高地等や軽井沢にも強く惹かれます。今日は軽井沢を選びご紹介したいと思います。軽井沢は中山道の宿場町でしたが明治19年に宣教師のショーが別荘を作ってからいろいろな外人宣教師が避暑に訪れ有名な別荘地となりました。そのような経緯があるので軽井沢には西洋文化の香りが現在でもそこはかとなく漂っています。私は軽...「夏の軽井沢を巡る旅」
神秘的な森の写真をお送り致します。写真の出典は、https://jp.freepik.com/photos/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%A3%AEです。「神秘的な森の写真」
上の写真は甲斐駒岳の麓にある小さな小屋のまわりに生きている樹木たちの写真です。もうすでに40年間も通いました。周囲の樹木を飽かずに眺めて過ごしています。小屋を作る10年前くらいから樹木が好きでした。ですから樹木にあこがれ、眺める趣味をほぼ60年くらい続けていたことになります。何故、樹木が好きなのかは分かりません。ヨーロッパへ旅しても森の中の散歩道を探して歩きます。特にドイツの黒い森は、近くに住んでいたので何度も歩きました。針葉樹の大木の森の中には幾筋も散歩のための道がついていました。小川沿いの少し巾の広い道は中世から続く古い道です。何処へ行っても樹木に憧れ、探し回ります。仕事でシンガポールへ行ったときは植物園をさがして訪ねました。その植物園には巨大な熱帯の樹木が亭々と青空に聳えています。あまりにも感動した...「樹木にあこがれ、眺める趣味60年」
以前に秋田県にある世界遺産の白神山地のブナ林を訪ねたことがあります。美しいブナの林でした。今日はこの白神山地のブナ林をご紹介致したいと思います。早速ですが白神山地の写真をお送り致します。インターンットからお借りしました。最後の写真は白神山地の西にある白神十二湖の一つの湖です。白神山地は、秋田県北西部と青森県南西部にまたがる約13万haに及ぶ広大な山地帯の総称です。ここには人の影響をほとんど受けていない世界最大級の原生的なブナ林が分布しています。1993年(平成5年)12月に世界遺産(自然遺産)になりました。ホテルや土産物店などが一切無くてただブナ林だけが延々と広がっています。車道が無く細い小道が林の中に続いているだけです。観光客が来ないので静かです。人間と言えば隣に家内がいるだけです。私は人気の無い原生林...「世界遺産の白神山地のブナの樹木に感動」
インドの西海岸のゴアはポルトガル領(1510〜1961年)の首府でした。ここはポルトガルのアジア交易の拠点となります。ポルトガルの首都リスボンと定期航路が結ばれていました。1534年にローマ・カトリック教会の大司教座が置かれると、多くの宣教師が訪れ、その中にはイエズス会の創設メンバーの一人、フランシスコ・ザビエルもいて、日本を訪れた宣教師もこの地を経由していました。聖堂や修道院が多く建造され、キリスト教関連施設が世界遺産に登録されています。詳しくは、https://worldheritage-mania.com/heritage-churches-convents-goa/をご覧下さい。「インドの世界遺産「ゴアの教会群と修道院群」」
インド人は日本人に好意を持っているようです。非常に親しげにします。そして多くので日本人の面倒を見てくれるのです。その優しさの原因には長年にわたり植民地として過酷に支配してきた大英帝国と戦争をして、インドの独立に貢献した日本人への恩義もあるのかもしれません。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯全員の無罪を主張したのはインド人裁判官ただ独りであったのです。その後、ネール首相が愛娘の名をつけたインド象を送ってくれ、敗戦で打ち沈む日本人の心を慰めてくれたのです。一方、アメリカ人もインド人は尊敬しているようです。アメリカにいるインド人は忠誠心や責任感が強く、頭脳明晰な人が多いからです。1990年前後に働いていたオハイオ州立大学の同じ学科には、2人のインド人教授がいました。私が指導していた学生にも一人のインド人がいました...「インドは日本の友好国」
南インドの海辺の風景の写真をお送り致します。写真は「南インドの海辺の風景」を検索してインターンットからお借りしました。「南インドの海辺の風景」
インドに行ったことはないが、アメリカやドイツで会ったインド人は皆例外なく親切で、私の面倒をよくみてくれた。宗教はヒンズー教が多い。日本人の仏教は大ざっぱに言えばヒンズー教の一派となるのか、非常に親しげにいろいろ面倒を見てくれる。1969年秋、ドイツのローテンブルグでのこと。私は34歳。カトリック教会へ連れて行ってくれたインド人フェルナンデス君は22歳。中世風のカトリック教会で3ケ月間、毎日曜日ミサへ連れて行ってくれた。ミサの後は決まって傍のレストランでチキンの空揚げの昼食をとり別れた。宗教談義はしない。ただ「ヨーロッパを車で観光するときには、村々の教会へ入り、お祈りしなさい。ヨーロッパ人の宗教が理解できますよ」と言った。彼はカトリック教徒であった。ローテンブルグを離れた私はシュツッツガルト市へ引っ越しまし...「インド人のフェルナンデス君の思い出」
インドの風景写真をお送り致します。写真は、「インドの風景写真」を検索してインターンットからお借りしました。「インドの風景写真」
世界遺産条約は1972年にユネスコで採択され,2023年10月現在,195か国が締結しています。日本も1992年にこの条約を締結し国際的な協力・援助体制の構築に貢献してきました。2023年10月現在,世界遺産は文化遺産933件,自然遺産227件,複合遺産39件を含む1,199件に上り,そのうち日本からは文化遺産20件,自然遺産5件の計25件の世界遺産が登録されています。さて今日はお釈迦様が生まれたインド世界遺産をご紹介致します。インドは歴史が古い国です。40件もの世界遺産があり、その数は世界一位です。40の世界遺産の一覧表は、https://whc.unesco.org/ja/list/?iso=in&search=&に掲載されています。今日は8件の世界遺産を選んでそれぞれの写真を示します。1番目の写真は...「お釈迦様が生まれたインドの40もの世界遺産」
小金井の滄浪泉園は近所なので何度も散歩しました。懐かしい場所です。中を散策するために風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/musashinosanpo180/e/93ea0e5bdb215b565d7ccf4a2d1b624fです。小金井の滄浪泉園の中の風景」
先程撮って来た写真です。この庭園は、明治・大正期に三井銀行の役員、外交官、衆議院議員などを歴任し、活躍した波多野承五郎(雅号・古溪)氏の別荘の庭園で、小金井市の歴史と共に歩んできた「はけと湧水」をたくみに生かした由緒ある緑地です。滄浪泉園の門標文字は犬養毅元首相自筆によるものです。園内は武蔵野の面影を十分とどめ、野鳥の鳴き声が一年中絶えることなく、こんこんと湧く清水をたたえた池にはカモ等も飛来します。「小金井の滄浪泉園の森と坂道の写真」
小金井市内は東西に走る国分寺崖線(ハケ)という10mを越える崖で坂上と坂下に大きく二分されています。この崖にはこれまでに「小金井の坂」としてアップした30近い坂道があります。坂下はハケからの湧水や、それを集めて流れる野川の水で古くから稲作が行われ、昔から人々が住んでいました。一方坂上は関東ロームと呼ばれる厚い火山灰層で農作には適していませんでしたが、江戸時代前半の玉川上水の開通に伴い、そこからの分水によって次第に開墾が進んでいきます。坂上、坂下にそれぞれ人々が多く住むようになって、その間の交流はこの崖の坂道を通して活発に行われるようになります。そして沢山の坂道がこの崖に出来たものと思われます。(https://koganei-kanko.jp/maron/archives/2956)「小金井の坂」として3...「江戸時代を想わせる小金井の坂道の名前」
カトリック葛西教会の今日の10時のミサの風景の写真をお送り致します。今日はインターンットをとうしてカトリック葛西教会のミサにあずかりました。「カトリック葛西教会の今日の10時のミサの風景」