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幕末血戦録 http://thshinsengumi.seesaa.net/

若者達が異なる信念の元に命を賭した時代、幕末。新撰組と御陵衛士を中心に、人々の生き様を書き記します。

服部武雄
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2013/12/07

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  • 雪の章(10)

    「護衛ですか。監視の間違いではございませんか?」 憎まれ口が戻ったのが嬉しくて、土方は思わず笑ってしまった。それだけの元気があれば大丈夫だろう。 「達者でな」 颯爽と羽織をひるがえして、土方は茶岡を後にした。 持ち出す荷物は少なかった。 午後には市中を離れ、西に向かった。急ぐ道中でもないが、夕方には宿場に着いておきたかった。 この日は朝から晴れて、歩いていると暑いくらいだった。 宿場も近くな…

  • 雪の章(9)

    「知っていたのか?」 「少々、不思議なご縁がございまして」 それ以上は語ろうとしない。問い詰めても無駄だろうし、そんなことをしても意味がない。 「その姉弟が、この国の未来がどうとか、本来の歴史とは違っているとか、良くそんなことを言っていたよ。芹沢の狙いが異刻人だと分かって、俺達は奴の情報を隠した。そういう意味では、あんたを捨て石にしてしまったとも言える。そして結局、服部一人に始末を押し付けてしま…

  • 雪の章(8)

    茶岡の破られたままの戸口の前には、2人の若い新撰組隊士が立っていた。この日は朝から晴れて、頭上には真っ青な空が広がっていた。 店の中は、先日の芹沢が乱入した時のままだったが、見かねた隊士達が倒れた机を直し、椅子を並べた。壊れた机や椅子は、一時的に店の外に積み上げていた。 薄暗い店内では、詩織がうなだれるようにして椅子に腰を下ろしていた。小さな机に向かい合う形で座っているのは、新撰組副長の土方歳三…

  • 鬼の章(104)

    「私の信じるところが、芹沢さんとは異なるからです。国益を主張するがあまり、道を誤る事も、国家存続の危機に瀕する事もあるでしょう。それでも、その選択の全てが我が国の、その未来に生きる子達の選んだ道だと思います。それを信じる事も、先に逝く我々の責務なのではないでしょうか。少なくとも、私はそう考えています」 服部は一瞬、次の言葉を躊躇した。しかし、彼の言葉に眉を顰める芹沢の表情を見て、思い直したように…

  • 鬼の章(103)

    「貴様が知らぬこの国の未来は、それは情けないものだ。刻を渡る際に、儂はこの国の幾つかの歴史を俯瞰することが出来た。そのいずれでも、この国の未来の民は武士としての誇りを失っていたのだ。自らが戦うことを放棄し、国や国民を守ることさえ放棄している未来もあった。 国益を主張する事も出来ず、諸国の侵略行為に何ら対応も出来ず、議論ばかりを繰り返す。それも自国の利益ではなく周辺諸国の顔色ばかり伺っている体たら…

  • 鬼の章(102)

    それは篠原泰之進の声だった。 「もう動けぬのか?そんなことでどうする」 藤堂平助、内海次郎、阿部十郎を派手に投げ飛ばし た後で、篠原が挑発的に言った。 「まだまだ」 阿部が立ち上がり、挑みかかるが、柔術に関しては大人と子ども程の差があった。阿部が再び投げ飛ばされ、畳に背中を打ち付けられた。 篠原は過去の経験から、新撰組からの分離前も柔術師範として隊士達に稽古をつけていた。 それは御陵衛士としての…

  • 鬼の章(101)

    この状況をどうすれば切り抜けられるか。服部は必死で考えていた。詩織と2人で逃げることは出来ない。今の自分の状況では尚更だ。ここは芹沢に従うふりをするべきか。だが、そうしたところで詩織は自分一人が助かる状況を良しとはしないだろう。 「服部様、逃げてくださいまし」 詩織は涙をぬぐい、何時もの冷静な、凛とした表情で言った。 「芹沢様の狙いは私です。ここはお逃げになってください」 服部は答えない。 「も…

  • 「今」という瞬間

    服部武雄は1人座していた。 戒光寺の本堂である。深夜、住職の許可を得て御本尊の前で座禅を組んでいた。 戒光寺の本尊は、鎌倉時代の仏師である運慶・湛慶親子の合作である。 やや前かがみで衣には文様があり、爪が長いのもこの像の特徴だと住職から聞かされたことがある。 台座から頭まで約5.4m。光背まで含めれば約10mにもなる。 本尊の釈迦像の喉元には血の流れたような跡がある。これは権力争いで後水尾天皇が暗殺者…

  • 鬼の章(100)

    馬上からの落下である。只で済む筈はなかった。 これで良い。詩織は全くの無抵抗だった。 詩織が橋に叩きつけられる寸前、その身体を抱き止めたのは服部だった。 詩織を抱き止め、そのまま服部が下になって橋に叩きつけられる。服部の短い呻き声を聞いて、詩織は初めて、服部に助けられたことに気付いた。 「服部様」 慌てて身体を起こした詩織が目にしたのは、不自然な方向に曲がっている服部の右腕だった。詩織を抱き抱…

  • 鬼の章(99)

    「この脇差しには、清河の血が染み付いておる。そして今、この女と儂の血が混ざりあった。これで準備は整った」 言い終えた芹沢は、脇差しを投げ放った。投げられた脇差しは、橋の床板に突き立つ。 「状況が全く分からず、戸惑っておるだろう。無理もない。儂も当初は半信半疑だったわ。川は異界と現世、彼我を隔てる境界。橋はそれらを繋ぐもの。その橋に扉を開く事で、異界の住人を招き寄せる事が出来るのだ」 まさか、そ…

  • 鬼の章(98)

    駄目だ。服部は声にこそ出さなかったが、焦る気持ちを押さえられなかった。清河のこともあり、芹沢は精神的に追い詰められている筈だった。ここで抵抗すれば、芹沢が暴発的な行動に出る可能性があった。 だが、詩織もそれは承知している。馬上からは、橋の下を流れる鴨川の濁流が見えていた。ここ数日の雨で、普段は穏やかな流れを見せる鴨川の様子が一変していた。この中に落ちれば、人の命などたやすく流れ去るだろう。それで…

  • 鬼の章(97)

    「なかなかどうして、思い通りにはいかぬものだな」 深い溜め息を吐き出し、続ける。 「清河は儂を裏切ったのだ。元々、儂に異刻人としての存在やその力を教示したのは、他でもない清河だ。時間という横軸に対する刻という縦軸が存在し、刻にはその数だけの歴史が存在する。隣り合った刻は似たような歴史でも、全く同じという事はない。その刻を超えることで、常人にはない能力が身に付くことがあるという。剣技では劣る清河が…

  • その日の朝~11月18日(2)

    やがて幾つかの白刃が同志を捉えた。 篠原泰之進が、加納鷲雄が、三木三郎が倒れた。富山弥兵衛が、毛内監物が斬られ、地に伏した。 残った藤堂平助も、無数の敵に前後左右を取り囲まれて成す術なく切り倒されてしまった。 声が出ないばかりか、助けに行きたくても身体が動かなかった。大きな力で、胸元をがっしり押さえつけられている感覚だった。 心なしか呼吸も苦しくなって来ていた。 同志達の名前を何度も何度も叫んだ…

  • その日の朝~11月18日(1)

    気付いた時、服部は暗闇の中に立っていた。 膝を緩めて僅かに身を落とす。顎をひいて視界は広く保ち、周囲の音も聞き逃さないように意識を鎮める。 物音は愚か、衣擦れも呼吸の音も聞き逃さない自信があった。しかし、闇夜には静寂だけが広がっていた。 それでも、服部は感じ取っていた。 体温で、匂いで、空気の流れの僅かな変化で、周囲を取り囲む数十人の敵の存在を感じ取っていた。 やがて、視界の先に横たわるものが見…

  • その日の朝~11月17日(4)

    この猫に会うために、境内に出て来たのか。猫の世話などしていることを同志達に知られたくなくて、それで言い淀んでいたのだろう。 「みすけ、と言うのかい」 「はい。少し前からこの周囲の寺に出入りしているらしくて」 藤堂はみ助と呼んだ猫の頭を撫でながら答えた。み助は気持ち良さそうに喉を鳴らしていた。 み助が藤堂の着物の袂に鼻を寄せた。思い出したように、藤堂は袂から懐紙に包んだ秋刀魚の頭を取り出す。み助は…

  • その日の朝~11月17日(3)

    目を閉じた服部の神経は、普段よりも鋭敏になっていた。音よりも先に空気の流れが、僅かな変化となって服部の感覚に触れた。その少し後に、ゆっくりと境内に出てくるものがいた。 「藤堂君か?」 まだ暗い境内から不意に声を掛けられて、藤堂平助は思わず声を上げてしまった。声を上げてすぐに、早朝であることを思い出して自身の口を両手でふさぐ。 「服部さんですか。驚かさないでくださいよ」 文字通り胸を撫でおろしな…

  • その日の朝~11月17日(2)

    明け六つの鐘が鳴らされる。 息が軽く上がる中、服部は素振りを止めた。身を切るような冷たい朝の空気の中で、大量の汗をかいた服部の全身から湯気が立ち上る。 薄暗い境内の中で、服部は目を閉じ、立ち尽くしたまま息を整える。自身の胸中に蠢く不安のもとを1つ1つ辿ってみた。 新撰組からの加入の要請に応じて上洛。 武力倒幕派の先鋒である長州藩などの恩讐を一身に受け止めた新撰組での活動。 時代の複雑な情勢を把…

  • その日の朝~11月17日(1)

    慶応3年11月16日。 旧暦11月16日は、新暦では12月11日にあたる。寒さも厳しくなり本格的な冬に入っている。そんな身も凍えるような寒さと、うっすらと朝靄が立ちこめる高台寺の境内。そこで空を斬り裂く鋭い音が、幾度となく繰り返されていた。 最初からその様子を見ていた者がいれば、無尽蔵とも思える体力に呆れもし、微塵も衰えない気迫に気圧されもしただろう。 服部武雄は、胸中に広がる漠然とした不安を斬り裂くように…

  • 鬼の章(96)

    「この国の未来と正しい歴史のために」 嘗て聞かされたその言葉が蘇った。 正直、その様なことが自分に出来るのか半信半疑だった。1人の武士でしかない自分に、国やその歴史に関わるなどということは想像さえも追い付かないというのが本心だった。 しかし、今この時、眼前には歴史を造り上げると平然と言ってのける人物がいる。ならば、この男は、芹沢鴨はこの場で止めなければならない。 「3人の異刻人と言いましたが、もう…

  • 鬼の章(95)

    絞り出すように言った答えに、服部は蜂の苦しい心中を察した。辛いことを聞いてしまったようだ。 「すまぬ。恩に着る」 服部と蜂を乗せた馬は、五条通りを東に向かって走っていた。 鴨川が見えて来る辺りで、雨が降り始めた。そして間もなく、大橋の中央に立ちはだかる馬と、その上の芹沢の姿を視界に捉えた。 服部は蜂に馬を止めるように伝えると、馬から降りて、そこからはゆっくりと歩いて芹沢との間合いを詰めた。 間近…

  • 鬼の章(94)

    万一、彼らの情報で動いた服部が斬られるようなことになっても助けに入ることはない。最初に会った時に、そう明言されていた。 「服部さま」 今度は背後からの声に服部が振り替える。そこには一頭の馬と、その背に乗る蜂の姿があった。 「ご案内させて頂きます」 言いながら蜂が馬上から手を差し出した。考えている間はない。服部は蜂手を取ると、素早く馬上に上がった。すぐに蜂が手綱を操り、馬が走り出した。 息を切らせ…

  • 鬼の章(93)

    猛烈な勢いで街中を走る服部が向かうのは、茶岡だった。布切れは、茶岡の暖簾の切れ端だったのだ。 何があったのだ。詩織は無事なのか。気ばかりが焦る。息が切れるのも構わず、服部は走り続けた。 やがて服部の視界に入ったのは、入口の戸無惨に破られた茶岡と、その店の前にある人だかりだった。 人だかりを横目に店内に走り込む。机や椅子が倒れたままで、詩織姿は愚か、人の気配もない。 服部は外に出ると、目の前の人だ…

  • 鬼の章(92)

    地声の大きな佐原と清原の掛け合いは、ここ最近では御陵衛士の名物のようなものだ。2人が揃えば口論が絶えないが、そのくせ行動を共にすることが多い。 「服部よ。これでも出ていくつもりか?」 綻びかけた表情を整えてから、服部は篠原を見た。 「そもそも、芹沢がその気であればお前がいようがいまいが、奴は1人ででもここに討ち入って来るだろう。今この時に、単独行動を取る意味は小さいと思うがな」 「はい。その通りだ…

  • 鬼の章(91)

    「服部よ。俺もお前さんとは長い付き合いだ。俺だけではない。ここにいる多くの者は江戸からの付き合いだし、そうでない者も互いに命を預ける同志として誓い合っている筈だ。違うか?」 「はい、私もそのつもりですが」 「では、何故この期に及んで一人で出て行こうとする?」 服部には言葉がなかった。図星だった。 「おおかた、芹沢のことを気にかけているのだろう。俺達を巻き込まないように、単独行動をとるつもりだった…

  • 鬼の章(90)

    その時、店の戸が激しく打ち破られた。 驚きのあまり、詩織には悲鳴も出ない。彼女の眼前に立ちはだかった大きな影。芹沢鴨だった。 驚いた様子こそ見せているものの、悲鳴を上げるでもなく、芹沢を見据えたままで逃げる様子もない。そんな詩織の姿を見て、芹沢は笑った。無造作に歩み取ると、乱暴に詩織の腕を掴む。 「やはりそうか。今にして思えば、最初に会った時に気付くべきであったわ。女、貴様が異刻人だったのだな」…

  • 鬼の章(89)

    やはり先日の戦いで、無謀ではあっても決着をつけるべきだったか。だが、それでは藤堂の手当てが手遅れになった可能性がある。 服部は一人、答えの出ない自問自答を繰り返していた。 どれくらいの時間が経っていただろうか。音もなく襖が開き、毛内が顔を覗かせた。 「服部さん、少し宜しいでしょうか?」 服部は一度、藤堂の顔に視線を戻した。先日の戦闘後、藤堂は油小路の小さな寺の境内で応急手当てを受けた。その際の止…

  • 鬼の章(88)

    油小路での京都天狗党との戦いから3日目の朝を迎えていた。 戦いの翌日から、この時期には珍しい大雨となっていた。この日は厚い雲が市中を覆っていたものの、雨は落ち着きを見せていた。 この日の早朝、新撰組からの使いが伊東を訪ねていた。 京都天狗党の騒動も落ち着いた。禁裏や会津の理解も得ている。ここで一度、尊攘派、倒幕派、左幕派などの各勢力の現状を整理把握すると共に、今後の情勢について議論したい、という…

  • 鬼の章(87)

    「先程は鬼でも逃げ出すような殺気を放ち、あの芹沢さんをも退けたかと思えば。あの狼狽えようは、まるで泣き出しそうな子どもではないですか」 「違いない」 土方は苦笑した。土方自身、付き合いの長い藤堂を案じる気持ちは決して小さくはない。本来であれば誰よりも先に駆けつけたい所だ。しかし、沖田と服部に先を越された事で、そして服部の様子を目にした事で思い止まったのだ。ある意味、我に帰ったと言っても良い。新撰…

  • 鬼の章(86)

    狼狽える平間や野口の視線を受けながら、そう言って笑う芹沢の表情には、既に余裕が戻っていた。 「京都天狗党、芹沢鴨である。儂の前に立つならば、命と引き換えになると心得よ」 高らかな名乗りの後、芹沢は大刀を振り上げて新撰組隊士の包囲に飛び込んで行った。 沖田と斎藤が動きかけるが、土方がそれを制する。 「今はいい。今の奴は窮鼠どころじゃない。無理に追って被害が拡大してもつまらねえ。それに逃げ切ったとこ…

  • 鬼の章(85)

    「伊東殿、念のために御意向をお聞きしよう。先程の言の通り、御陵衛士の分離派共を粛清するために参られたと思って宜しいのか?それに土方。新撰組としてはどの様な意向でここに集まっておるのか?事と次第によっては、お主らだけではない。会津も禁裏に敵対した逆賊となるのだ。心して答えるが良い」 「もちろん、京や禁裏に仇なす賊を討つために参りました」 伊東の言葉にも半信半疑ながら、芹沢は敢えて笑みを浮かべて見せ…

  • 鬼の章(84)

    一体何者なのか。そんな芹沢の疑問に答えるように、一人の男が進み出た。 「貴様」 歯噛みしながら血走った両眼で芹沢が睨み付けた相手。それは伊東甲子太郎だった。 時を同じくして、天狗党の包囲の一角でも異変が起きていた。 毛内は天狗党の男達に再び包囲され、今にも力尽きようとしていた。その毛内の眼前で、数人の男達が一斉に血煙りと共に沈み込んだのだ。その後に立っていたのは、新撰組の永倉新八、原田左之助…

  • 鬼の章(83)

    時間を掛ければ被害は拡大する。 だが、芹沢は強く、異刻人である芹沢の能力は常人を越えているという。 そんな男に、自分が勝てるのだろうか。 この場に駆け付ける前から、服部の心中にはそんな幾つもの思考が交錯し、迷いとなっていた。そして服部の太刀を鈍くしていたのだ。 斬られた藤堂を見た時、そんな一切の思考と感情が吹き飛んでいた。 藤堂は死なせない。毛内も死なせない。その思いだけが、服部を突き動かしてい…

  • 鬼の章(82)

    芹沢が感じ取ったのは、それまでとは明らかに異なる気配だった。 次の瞬間、服部は猛烈な勢いで芹沢に斬りつけた。芹沢がその太刀を止められたのは、なかば運だった。反射的な反応で受け止めたものの、今までとは別人のような力で押され、その圧から逃れるために芹沢は大きく飛び退かざるを得なかった。 「仲間は死なせん」 目にも止まらない、というのは正にこの事だった。立て続けに繰り出す服部の斬擊を、芹沢は辛うじて…

  • 鬼の章(81)

    芹沢がその気であったなら、服部の首は飛んでいた筈だった。今もなお、芹沢の気分一つで服部の首はたちまち寸断されていただろう。服部が退こうとしても、何らかの抵抗を示そうとしても、その前に芹沢の刀が服部の首を切り裂いている筈だ。 服部にとっては万事休したその状況で、二人の間に飛び込んだのは、藤堂だった。 気勢と共に繰り出された刺突を、芹沢は半歩下がってかわした。不意打ちであっても全く危なげなどない。 …

  • 鬼の章(80)

    刀を正眼に構える服部に対して、芹沢は腕を組んだままだった。にもかかわらず、服部は巨大な刀の切っ先を喉元に突き付けられている感覚を覚えていた。 背筋を冷たいものが走る。だが、そんな緊迫感さえも今は心地好いと感じていた。 芹沢が腰の刀の柄に手を掛けた。そのまま流れるような動作で刀を抜く。同時に、服部が飛び出していた。 藤堂には、服部の姿が一瞬霞んだようにも見えていた。それ程の早さだった。にも関わらず…

  • 鬼の章(79)

    「これはしてやられたの」 芹沢の様子が変わった事に、その場の全員が気付いていた。そして天狗党の男達は勿論、腹心の仲間である平山、平間、野口でさえも、芹沢の様子に恐怖を感じていた。 藤堂もまた、芹沢の殺気が大きく膨らむのを感じ取っていた。剣客としての芹沢の底力は尋常ではない。新撰組の同志として活動した時期は短かったが、仲間であればこれ程に頼もしい存在はない。どの様な窮地であろうと、芹沢一人がいれば…

  • 鬼の章(78)

    その芹沢から見て、服部の言葉には嘘も偽りもなかった。それどころか、以前は感じた刻を越えた者が持つ気配が薄くなっているように感じる程だ。 その一方、刻という言葉を聞いて、反応した者がいた。藤堂平助である。 藤堂自身は、半信半疑で聞き流していた話だった。それもあり、今の今まで思い出す事もなかったのだ。 新撰組にもいたのだ。 刻を越えた者。異なる刻からやって来たという者が、新撰組にも実在したのだ。 …

  • 鬼の章(77)

    「これ程に厄介な相手である事を、敵に回して改めて思い知るとはな」 芹沢が言いながら進み出る。天狗党の男達が、自然に後退りすることで、服部と芹沢が正面から向き合う事になる。 「今からでも遅くはない。儂と来い。共に、この国の新しい未来を築く礎となるのだ」 「私が芹沢さんの力になれるとは思えませんが」 一つ大きく息を吸って呼吸を整えてから、服部はゆっくり答えた。 「まだ、記憶は戻らんか」 「清河殿から…

  • 鬼の章(76)

    もう一つが、包囲を抜けた筈の毛内が逃げずにその場に留まっていることだ。 仲間を逃がす、いわば殿となることは理解が出来る。だが、何時までも逃げる様子がない。一体どういうつもりなのか。 包囲に加わっている天狗党の男達は、特に剣術に秀でたような者がいない。今のところは、それが幸いしている。だが、中にどの様な強者が紛れているかも分からないのだ。そして何より、芹沢がいる。今は傍観を決め込んでいるが、最後に…

  • 鬼の章(75)

    「そのまま走ってください」 毛内が声を上げる。加納と篠原、内海と阿部はそれぞれに走り出した。毛内一人がその場に踏み止まり、後を追いかけた男達を牽制する。 刀を手にしたまま、両手を広げるようにして構える毛内に、三人の男達が間合いを詰めた。逃げた仲間が十分に離れたところで、毛内も逃げ出す筈だ。その隙を狙って斬りつけるつもりだった。 しかし、逃げた仲間達の足音が完全に消えても尚、毛内が構えを崩すことは…

  • 鬼の章(74)

    「服部さん」 そこに立っていたのは、服部武雄だった。衛士達から歓喜の声が上がる。 「皆、無事か?」 言いながら、服部は皆の様子を把握していた。息は乱れているし、ほぼ全員が少なくない手傷を負っている。しかし、致命傷となるような傷は誰にも見当たらなかった。 「間に合って良かった」 服部はそう言うと、取り囲む天狗党の男達に対して構え直した。 「毛内さん、私が時間をかせぎます。皆で包囲を破ってください」…

  • 鬼の章(73)

    幾つかの気勢と共に、男達が一斉に衛士に迫った。 衛士達も必死で抗うが、疲労の蓄積は顕著だった。 篠原が肩先を斬られ一歩退いた。横にいた加納が庇う間に刀を左手に持ち直すが、動きは大きく鈍ってしまう。 別の場所では阿部が捌きを損ない、槍の刺突を右足に受けてしまった。こちらは内海が助けに入るが、その内海も息が上がりつつあった。 敵の数は、未だに三十人は下らない。衛士達の中に、深い闇が広がり始めていた。…

  • 鬼の章(72)

    芹沢の言葉の意味するところをすぐに理解出来る者はいなかった。 「我々の、終焉?」 「一体、何の話だ?」 篠原、次いで阿部が声を上げた。 「歴史というものは実に興味深いものだな。今日という日も、お主達がここで仕掛けて来たことも、全ては逃れ得ぬ運命ということなのだろう。 悲劇に向かう新撰組の運命を変える為に、儂は早い段階で組を去った。それで大きな流れが変えられたと考えていた。しかし、儂はあまかった…

  • 鬼の章(71)

    最も、彼らの抵抗も時間の問題だと思われた。致命傷にこそ至っていないが、全員が少なくない手傷を負い始めている。 死闘を終わらせるための一押しをするために、芹沢は一歩進み出た。 「流石に、実力者揃いの新撰組の中でも名の知れた者達であるな。正直、ここまでとは思っていなかった。天晴れである」 芹沢の声を合図に、御陵衛士を取り囲む男達が動きを止めた。 「それだけに惜しい。今からでも考えを改めて貰えるなら、…

  • 鬼の章(70)

    芹沢が言い終わるのを見届けて、平山が手を挙げた。その合図で周囲の男達が六人ににじり寄る。 「ざっと、五、六十人というところか」 「一人が十人斬れば良い。楽なものだ」 加納、続いて阿部が言った。強がりではある。しかし、なるほど開き直れば無茶な勝負とも思えなかった。 男の一人が奇声と共に集団から飛び出した。男の正面にいたのは内海だ。内海は男の斬撃を捌くと、返す刀でその手を切り上げた。傷は浅かったが、…

  • 鬼の章(69)

    「当たらずとも遠からず、というところかな」 芹沢が不敵な笑みと共に言った。 「さて、まんまとあぶり出された上に奇襲も失敗した訳だが。ここからどうするかね。見たところ、分離派だけの行動ではないようだが」 芹沢の言葉に促される形で、天狗党の視線が加納と篠原に向けられる。 「今更、逃げるわけには行きません」 「だろうね。まあ、逃がしもしないがね」 篠原の精一杯の強がりを笑い飛ばした芹沢の合図に、平山が…

  • 鬼の章(68)

    気付くと、毛内と藤堂、加納と篠原も距離をつめて来ていた。同様に襲撃の好機と判断したためだ。 最早行くしかない。一同が視線を交わせる距離までつめるのと、全員の意志が固まるのは同時だった。6人は一斉に飛び出すと、いっきに芹沢達の眼前に躍り出た。 駆け寄る足音に、平山と野口が驚いたように振り返った。芹沢はやや遅れて、緩慢な仕草で振り返る。その表情からは笑みが消えなかった。 先頭を行く内海と阿部は刀を抜…

  • 鬼の章(67)

    酒席における伊東の発言は、衛士達もさすがに息を飲むものだった。芹沢に自分達を信用させるための方便だとは分かっているものの、やはりあそこまで断言されると一抹の不安を抱かざるを得ない。 だが、それも今となっては些事に等しい。事が動き出した以上、迷いは死に直結するのだ。 芹沢を先頭に歩く京都天狗党の一員は、西本願寺に突き当たるとそのまま南に向かって移動を始めた。内海も阿部も、芹沢達の様子を、その一…

  • 鬼の章(66)

    加納や篠原にとっては、会談の場での伊東の発言は容認出きるものはなく、伊東からの離反に至った。 それが加納が考えた筋である。 京の市民感情も、既に京都天狗党から離れつつある。だが、在京の各藩は勿論のこと、新撰組を始めとする公の組織は動くことが出来ない。 京都天狗党が禁裏の後ろ楯を得ている以上、彼らに敵対することは、そのまま禁裏、すなわち帝に弓を引くことと同義でもある。つまりは逆賊になってしまうとい…

  • 鬼の章(65)

    浴びるように酒を飲んだ京都天狗党の者達が島原を後にしたのは、夜も更けた頃だった。駕籠は敢えて断り、夜道を歩く事にした。酔った身体には、冷えきった空気は寧ろ心地よい程だった。 酒を存分に楽しみ、会合の首尾も上々とくれば、自ずと鼻唄なども洩れだす。 心もとない足取りの男達を、幾つかの目が凝視していた。気取られないように、殺気は押さえている。 内海次郎と阿部十郎である。 芹沢達が今夜は角屋に留まる…

  • 鬼の章(64)

    「承知致しました。では、その懸念は身内である我々の手で拭い去りましょう」 「ほう」 芹沢は、口元を大きくつり上げて大袈裟な程の笑みを浮かべて見せた。しかし、対照的にその視線の鋭さは変わらない。 「それはつまり、どの様な意味と捉えれば宜しいのか?」 「分離派の者達は、我々御陵衛士が粛清します」 芹沢が伊東の覚悟を試しているのは明らかだった。敢えて言質を取るようにもって行ったのも同じ理由だ。それが分…

  • 鬼の章(63)

    芹沢は酒を飲み干した杯を盆に戻し、続けた。 「内海次郎、藤堂平助、毛内監物。いずれも手練れだが、やはり本命は服部武雄でしょうかな。その他の者達が手を貸したかも知れないが、彼の者達であれば、あるいは新見を斬ることが出来るのではないかと私は考えているのです。動機もある。我々、京都天狗党の存在によって、同志が二分することになったのは紛れもない事実。合流を拒否するに留まらず、仕掛けて来ることは十分に考え…

  • 鬼の章(62)

    「言葉がありません。それも私の力不足という他ありません」 伊東は座したまま一度姿勢を整えると、深々と頭を下げた。 「誤解して頂きたくないが、我々は貴殿方を責めるつもりは毛頭ない。理解を得られなかったのは、京都天狗党の党首である私の力不足でもある訳で、そこで貴方を責めるのは筋違いと考えてもいる」 「恐縮です」 「しかし、少々気がかりな事があるのも事実」 頭を上げかけた伊東の言葉を遮り、芹沢が続ける…

  • 鬼の章(61)

    新見が斬られてから間もない上に、未だに下手人は明らかになっていない。 芹沢以下、京都天狗党の面々には何処とない重さがあったが、それも酒が進むにつれて変わっていた。 元来の酒好きである。平間や野口の口調も徐々に大きくなる。改めて手を組み、この国を立て直そうなどと意気を挙げる。 そのような中でも、芹沢の能面のような薄い笑い顔だけが、終始変わることがなかった。 酒の量に比例して上機嫌になる天狗党の面々…

  • 鬼の章(60)

    服部は一度寺の堂内に走り込むと、刀を手にして素早く飛び出した。 「彼らの場所は」 「熊がついております」 走り出した服部のすぐ後ろに猿がついた。気付けば、服部の前方をもう1人が走っている。先導役ということだ。 「案内してくれ」 頼む。間に合ってくれ。胸の中でそう叫びながら、服部は京の夜道を駆けた。 島原にある角屋の2階を借りきって、席は一見豪勢に開かれているように見えた。 芹沢鴨を筆頭に、平間…

  • 鬼の章(59)

    仲間の存在も重要だ。今の服部は1人だ。芹沢が天狗党の者達と一緒にいる状況では勝ち目がない。猿や蜂は情報収集や服部の身の回りの世話などの支援はしてくれる。しかし、戦闘に加わることはない。それは最初に明確に伝えられた話だった。 先日も、新見が1人で行動していることを調べあげ、夜更けの襲撃に適した状況を見定めたのは彼らだ。だが、万一戦闘で服部が窮地に陥っても、彼らが手を貸すことはない。だからこそ、芹沢と…

  • 鬼の章(58)

    しかし、と清河の内なる声は別のことも呟いた。そんな思惑などたやすく一蹴してしまう。芹沢鴨という男は、そういう型破りな一面もあわせ持っているのだ。 清河が、自身も気づかぬ内に息を飲んでいた。それ程の緊迫感に包まれたその場の空気を破ったのは、芹沢だった。 「そのように深読みをなさるな。服部が記憶を取り戻すことは、この先の仕掛けにおいても必要なこと。そのことで貴殿の責を問うような真似はしませんぞ。我々…

  • 鬼の章(57)

    「あるいは……」 芹沢は清河を凝視した。 「眠っていた鬼を目覚めさせてしまったか」 清河にも、芹沢の言わんとすることはすぐに理解出来た。 「それはもしや、あの男のことを言っておられるのか?」 「今は儂の推測に過ぎませんが」 そう答える間も、そしてその後も、芹沢は清河を凝視したままだった。芹沢だけではない。他の者達も、同様だった。 つまりは自分のせいだというのか。自分が先走って動いたことで、あの男…

  • 鬼の章(56)

    「新見が死んだ」 清河八郎の顔を見るなり、芹沢鴨は唸るように言った。 「新見さんが」 言いながら、清河は芹沢の様子を見極めようとしていた。 座敷の奥に、膝を立てて酒瓶を抱えるようにして座っている。既に相当量を飲んでいると思われる。 目元は据わっているが、泥酔しているという程ではない。 芹沢の周囲にいる平間、野口、平山といった面々も、黙したまま暗い表情を見せていた。 剣呑な雰囲気である。清河は場の…

  • 鬼の章(55)

    「思い当たる節はございます。しかし、それはここでは伏せた方がよろしいかと」 「成程。どうやらお聞きしていた通りの御方のようですね。主からは、服部様が我々の願いを聞き届けてくださるなら、可能な限り礼を尽くすように申し付けられております。私は、御所にお仕えしております、衣笠数馬と申します。この度は、我が主のお言葉を御伝えさせて頂きます」 男は改めて姿勢を正して服部と向き合った。 「結論から申し上げま…

  • 鬼の章(54)

    服部が身体を起こす時、傷に痛みが走った。素早く、熊が身を寄せ、肩を貸して服部を立ち上がらせた。 「外に駕篭を用意しておりますので、まずはそちらまで」 熊に身体を支えられながら、服部は戒光寺を後にした。毛内達に心配を掛けることが気に病まれる。しかし、自分の怪我の手当てを含めて世話を掛けるより、寧ろ姿を消してしまう方が憂いは少なかった。 服部が連れて行かれたのは、伏見に近い廃寺だった。廃寺とはい…

  • 鬼の章(53)

    はっきりとは分からなかったが、10人近い者達がいた筈だ。今の自分では、まともに対応することは難しかっただろう。しかし、服部は動じなかった。その場の者達には殺気がない。つまり、自分を殺すことが目的ではないということだ。そもそも殺すことが目的なら、服部が目を覚ます前にことが終わっている筈だった。 「突然の訪問を御許しください」 言ったのは、後に猿と名乗る男だ。 「我々の願いを聞いて頂きたく、御同行を願…

  • 鬼の章(52)

    「何を考えておいでですか?」 戒光寺を離れてから身を寄せている廃寺の庭先で、服部は1人立ち尽くしていた。大きくはない寺の庭にある庭木や草花を、見るともなく見詰めていた。 声は背後の本堂から掛けられた。初めて会った日に、蜂と名乗った女性だ。勿論、本名ではない。 これまでに服部が会ったのは、他に2名の男のみ。それぞれ、猿と熊と名乗っている。 猿は小柄で痩せている。身軽で俊敏な動きを得意とする。熊は、そ…

  • 鬼の章(51)

    「清河に斬られた傷は、もう良いのかね」 「幸い、既に癒えております」 服部は、右手を左肩から胸の辺りにあてた。ちょうど、清河に斬られた傷をなぞった形だ。 「それで、今宵はどんな用事かな。こんな夜更けに、男2人で密会でもあるまい」 多分に挑発を含んだ言葉だったが、服部は答えなかった。その代わり、服部の右手が下がっていく。まだ刀は抜いていない。一見すると無造作医に立ち尽くしているだけにも見える。しか…

  • 鬼の章(50)

    何より、自身の剣術に絶対的な自信もある。芹沢には遅れをとるが、その他の者に劣るとは思っていない。相手が清河であろうと、芹沢達が高く評価している御陵衛士の服部であろうとも。 清河に遅れをとった服部を、芹沢があそこまで買う理由が分からなかった。何だったら、自分が服部を斬ってやろうか。ここ数日、そんなことまで考えていた。 気付くと、前方に立ち尽くす影があった。体格が良く、腰に刀を帯びているのが見える。…

  • 鬼の章(49)

    内海の独り言のような言葉に、毛内が答える。それは、その場の誰もが同様に考えたことだった。 服部は滅多に感情を露にすることはない。 剣を手にすれば、新撰組でも最強と吟われる沖田総司や永倉新八などとも互角以上に戦える筈だ。しかし、服部自身は、それをひけらかすことを良しとしない。 そんな服部が怒りのままに剣を振り上げたなら、一体どれ程の血が流れるだろうか。 だが、同時に不安もあった。その服部を斬った、…

  • 鬼の章(48)

    取り急ぎ、市民の声も含めて伊東に報告しなければならない。そして毛内にも今宵の出来事を伝えるべきだろう。 分離派は分離派で、今は厄介な問題を抱えている状況ではある。だが、これは伏せておいて良い問題ではない。 月真院で働く岡本武兵衛が戒光寺を訪れたのは、翌日の朝のことだった。小柄だが逞しい身体の老人が届けたのは、加納から毛利達分離派に宛てた手紙だった。 加納からの文を読み終えると、毛内はそれを…

  • 鬼の章(47)

    「お主が、この店の主か」 「主は、私の伯父であります」 「そうか」 言いながら、芹沢は無造作に詩織の眼前に詰め寄った。詩織もまた、いつもの物おじしない様子のまま立ち尽くしていた。 芹沢は、手にした鉄扇を詩織の喉元に突きつけた。それでも詩織は、冷ややかな視線を芹沢に向けたまま一切動じない。 「気丈な女は嫌いではない」 「ありがとうございます」 そういった後、暫し、互いを凝視する2人であったが、意外…

  • 鬼の章(46)

    厄介な状況である。加納は唇を噛んだ。正直な所、今は天狗党への合流を見送るべきだというのが加納の考えだった。しかし、それなら何時なら良いのか。そう問われると答えは出ない。そうやって判断に遅れた結果、禁裏に逆らっているという判断でもされたら一大事である。 橋本も眉を顰めた。橋本が出入している薩摩藩では、禁裏の意向に沿うという建前で、若者達からなる特別部隊を天狗党に加入させるという案が進行している。こ…

  • 鬼の章(45)

    「京都天狗党の連中さ。御所や御公儀が口出し出来ないのをええことに、やりたい放題になっとる連中がいるって話や」 「その、天狗の連中が娘に手を出したかていうのか」 「大和家に金を要求して、それが足りへんからといって女に手を出したらしい。ひどい話や」 加納も橋本も、酒を満たした盃を手にしたまま、話に耳を傾けていた。京の市民生の声。これこそ、まさに今求めている情報だった。 御陵衛士は、京都天狗党に合流す…

  • 鬼の章(44)

    茶岡の店内の一席に、加納鷲雄の姿があった。向かいには、橋本皆助が座っている。 決して大きくない店内である。客は多くが顔見知りのようなもので、卓を越えて話をしている。そんな中で加納と橋本が他の客と比べてやや浮いているのは事実だった。着古した着流しを着込んで町民を装っているものの、一種の違和感は消しきれない。極秘の情報共有なら、他の場所を選んでいただろう。しかし、この日は目的が異なっていた。 情報共…

  • 鬼の章(43)

    「知らぬ」 苛立ちもあった。不甲斐ない自分自身に対する怒りもあった。 芹沢鴨が亰都に戻ってから、これまでとは決定的に異なる何かが動き出していた。その何かに抗うでもなく、流されるでもなく、服部は唯戸惑うばかりだった。そんな現状や、そうする事しか出来ない自分に対する怒りもあった。 怒りは服部の力を引き出す筈だった。窮地に陥って、そこから導かれる力というものもある。 しかし、この場では状況を覆すには至…

  • 鬼の章(42)

    そんな馬鹿な。 毛内は、自分が目にしているものが信じられなかった。 確かに、清河は凡庸な剣客ではない。だが同時に、服部が遅れを取るほどの相手ではないとも見ていた。しかし、毛内の眼前で繰り広げられる戦いは、まるで大人と子供だった。 服部の斬撃は容易く止められ、跳ね返された。逆に、清河が送る斬撃に、服部は押される一方だ。 当惑しているのは、服部自身も同様だった。 清河の太刀筋が鋭いのは確かだ。しかし…

  • 鬼の章(41)

    策というと?」 「例えば、必要とあれば我々を切り捨てて乗り換えるためとか。あるいは万一の時に、我々に対抗する手札として確保するためか」 「俺達を捨て駒にするつもりだって言うのか」 「例えばの話だ」 語気を荒げる平間に、新見はため息を洩らしながら続けた。 「しかし、あながちない話でもないと思っている。今は用心するに越したことはない」 そんな仲間達のやり取りの間も、芹沢は無言のままだった。ともすれば…

  • 鬼の章(40)

    「刀を交えれば分かるかも知れませんよ」 2人を交互に見比べながら、毛内は不吉な予感を感じていた。刀を抜いて、服部が遅れをとるとは考えにくい。しかし、この突然の来訪者は、服部の事を良く理解している様子だった。それでいて真っ向から勝負を挑むという事は、相応の自信があると考えられる。 「貴方は一体」 男は薄い笑みを浮かべながら、ゆっくりと刀を抜いた。 「清河八郎、参る」 「あの男が、1人で行ったんです…

  • 鬼の章(39)

    「同じ?私と?一体何の事ですか」 今度は男が怪訝な表情を浮かべた。惚けているのか?しかし、そのような様子はない。事前に聞いていた話の通りであれば、服部はその様な演技が出来る男でもない。 「まさか、記憶を失っているのですか?」 「記憶?」 全く話が噛み合わない。男の中で、疑惑は確信に変わりつつあった。そして、そうであるなら単なる勧誘には意味がない。その前に、この場でするべき事があった。 「なるほど…

  • 鬼の章(38)

    月明かりの下に現れたのは、知的な印象を抱かせる 目鼻立ちの涼しい人物だった。肩幅は広く、体格だけなら服部にも匹敵する。何より、無造作に立ち尽くすその姿には微塵の隙もなかった。 服部も毛内も初めて会う人物だ。 男は、値踏みするように服部と毛内を見比べていたが、やがて服部のみを凝視するようになった。 「なるほど。芹沢君の言う通りでしたね」 男に対する警戒は解かぬままに、毛内は視線を服部に送った。その…

  • 鬼の章(37)

    毛内と服部の2人が連れ立つように境内に出たのは、どちらが誘った訳でもなく自然な流れだった。 「どう思いますか」 「うまくは言えないのですが」 先に口を開いたのは毛内だった。その問いに、服部は暫しの思案の末に、ゆっくりと口を開いた。 「すっきりしないというのが一番ですね」 「確かに。まるで、あらかじめ伊東さんの考えを調べて合わせているようにも感じますね」 それが何故なのか。芹沢鴨の言動が、京都天狗…

  • 鬼の章(36)

    「ところで、大方針の1つと申されましたが、他にどの様な方針をお持ちなのか、お聞きしても宜しいでしょうか?」 「勿論と言いたい所だが、今一つは現時点では明かす事は出来かねる。これは相手がある事故、慎重に事を進めたい。御理解頂きたい」 伊東だけではなく、芹沢はその場の者達を見渡しながら言った。話はそれでほぼ終わりとなり、場はお開きとなった。 帰り際に伊東と型通りの挨拶を交わしたのみで、毛内と藤堂は戒…

  • 鬼の章(35)

    「伊東さんは、ずばり京都天狗党の方針について聞いていましたよ」 これは寧ろ、毛内にとっても意外な反応だった。芹沢の主張を聞く限り、伊東は無条件で受け入れると思っていたからだ。 「幕府が実行出来ない尊皇攘夷の実現を目指すと話されましたが、具体的な方針はどの様なものでしょうか?」 一瞬の沈黙の後、芹沢は満面の笑みと共に答えた。 「流石だよ、伊東君。同じ水戸出身という贔屓目ではなく、君の先を見通す力は…

  • 鬼の章(34)

    「祖国の危難を前に、日本人同士が争う事はあってはならぬ。それは日本を支配しようと企てる、西洋の国々を利する事にしかならないと考えている。日本よりも遥かに進んだ技術と軍事力を持つ者達を相手にするのに、我らは今こそ、主義主張や立場を乗り越えて1つに成るべきと考えている。その為にも、本日は各々方の忌憚のない意見を交わす事が出来ればと考えている次第。如何であろうか」 そう一気に語った芹沢に対して、最早反…

  • 鬼の章(33)

    服部、内海、阿部の3人は 、落ち着かない様子で戒光寺の境内を歩き回っていた。かれこれ半刻程はこうしている。 京都天狗党から文が届けられたのは、今朝の事だった。そこには党主である芹沢鴨と並んで、岩倉具視の名前も書かれていた。これでは拒否権はないに等しい。 文は新撰組や御陵衛士と共に、御陵衛士の分離派である服部達にも届けられた。後に分かる事だが、芹沢は同様に、倒幕派や公武合体派などにも同様の文を発して…

  • 雪の章(7)

    胸がざわついた。詩織が何を言おうとしているのか、服部には予感があった。 暫しの沈黙が流れた。間が開いたのは、詩織にも躊躇があることの証だった。 「もう、会えません。ここには来ないで下さいませ」 真剣で斬り付けられたような痛みが胸に走った。服部には言葉がなかった。苦しい程に高鳴る鼓動を抑えるのに必死だった。 「店は、近い内に閉めます。ですから、もう……」 顔を上げた服部が見たのは必死で気丈に振る舞…

  • 雪の章(6)

    許嫁の死を知らされた、あの日の事が思い出された。心が凍りついた様な、時間が止まってしまった様な、そんな感覚は今でも忘れていない。時間の経過と共に表面上の笑顔を見せる事は出来る様になった。しかし、心の奥深い所で、それは今でも溶ける事なく残っていた。 再び、大切な存在の死に直面した時、自分の心が耐えられるのか。それは詩織にとって、自身の死にも勝る恐怖となっていた。 「芹沢様がどの様な御方で、これから…

  • 雪の章(5)

    店の中に、服部と詩織の2人きりとなり、詩織は服部の向かいの席に腰を下ろした。 2人の間には、盆に乗ったままの徳利と盃が2つ。詩織はその盃に酒を満たすと、服部が口にするのを待たずに一気に盃を明けた。 「また、戦さが始まるのでしょうか」 呟くようなその口調に、服部は何処か投げやりになっている様な、一種の危うさを感じた。 胸が早鐘のように撃ち鳴らされるのを感じた。詩織が何を言おうとしているのか。彼女は今…

  • 鬼の章(32)

    一同の怪訝な表情を端から一瞥すると、一瞬にして表情を改めた。そこには鬼と恐れられる新撰組副長の顔があった。 「話せて良かった。すっきりしたぜ」 そう言うと、土方は席を立ってあっという間に店を後にしてしまった。立場上、山崎丞もその後を追う。 店に残された3人は、まるで嵐が去った後の町を眺めるかの様に暫し呆然としてしまった。 「一先ず、今宵はお開きにしますか。土方副長の件を、伊東さんに報告もしなけれ…

  • 鬼の章(31)

    「芹沢さんが私をどう思っているのかは、正直分かり兼ねます。寧ろ、皆さんの方が客観的に見て下さっていると思います。そもそも、私を特別視する意味も理由も分かりません。分かっているのは1つだけ。現時点で彼らを何処まで信用して良いのか、判断に迷っているという事です」 その後は、毛内が説明を引き受けた。 御陵衛士の存続を最優先として分離を考えた事。服部には事前に相談もしたが、基本的な部分は毛内と加納2人で考…

  • 鬼の章(30)

    「あれこれ考えているのが馬鹿馬鹿しくなっただけだ。結論から言う。服部、毛内。お前達の狙いは何だ?」 「ね、狙いですか」 毛内はすかさず、服部と加納に目配せをする。何処まで話をしたものか、判断が難しい。 現状において、土方及び新撰組は少なくとも敵ではない。しかし、諜報は殆ど全ての組織が最重要視している。ここで迂闊に京都天狗党に対する懸念を口にして、その事が芹沢やその一党に伝わってしまえば、御陵衛士…

  • 鬼の章(29)

    町人風の着古した着物姿であったが、隙のない姿に、その場の者達が思わず声失ってしまう。 「土方副長」慌てて最初に声を上げたのは山崎だ。「何故ここに?」 山崎の言葉に答えるでもなく、一同の驚きの様子なども一顧だにする事もなく、土方は近くの卓の椅子を1つ手にすると、服部達と同じ卓に着いた。 「俺に構わず話を進めてくれ」 「そんな訳には行きませんよ」 平然と言い放つ土方に対して声を上げたのは山崎だ。 暫…

  • 鬼の章(28)

    「岩倉卿がそれも覚悟の上で芹沢さんと組んでいるのか、或いは何らかの保障というか、確約が存在しているのか。 もう1つ気になるのは、岩倉卿と芹沢さんを結び付けた切っ掛けです。ここに何か別の存在というか、意思を感じるのです」 「黒幕というか、2人を繋いだ者がいる、という事ですか」 「現時点で確たる証しはありませんが」 「しかし、例えばその人物が芹沢さんを押さえ付ける保障のような物を持っているとしたら、関…

  • 鬼の章(27)

    「岩倉卿と芹沢さんの結び付きは固いですね。どちらかと言えば、岩倉卿が芹沢さんに惚れ込んでいる様子で、芹沢さんは上手く岩倉卿を立てながら、今の状況を利用しようしている様に見えます」 山崎の言葉に、大きく頷いたのは加納だった。会津藩や幕府の要人から情報を得た山崎に対して、加納は薩摩や長州など倒幕派から情報を集めている。だが、立場が異なる者達でありながら、その意見は殆ど同様だった。 「2人を結び付けて…

  • 鬼の章(26)

    服部や毛内ら御陵衛士の分離派は、当面の屯所として戒光寺の一角を借り受ける事となった。 戒光寺の堪念和尚は、御陵衛士の立ち上げの際にも少なからず尽力してくれた、謂わば衛士の恩人とも言える人物だ。今回も、細かな訳を聞く事もなく、服部達分離派の為に宿と食事を提供してくれたのだった。 さて、問題はここからだった。 少数の部隊にとって、情報は生命線でもある。御陵衛士は勿論、新撰組、更には左幕派、倒幕派それ…

  • 鬼の章(25)

    御陵衛士としての活動を主張した伊東と、新撰組局長の近藤勇の間で交わされたのは刀を持たない立ち合いだった。土方も含めて自身の感情を抑えつつ、互いに双方の利を解く一種の心理戦を繰り広げたのだ。 皮肉なことに、あの時の苦労を今度は伊東が味わったという事になる。但し、これが本当の分離であればの話ではある。 土方は、事態をそこまで単純には捉えていなかった。分離云々は一種の駆け引き、謂わば政治だ。それに対し…

  • 鬼の章(24)

    「御陵衛士が分裂しただと?」 「正確にいうなら、御陵衛士から一部の隊士が分離したと言うべきですね」 隊士が増え、組織が大きくなるに従って、恐怖と規律で縛らざるを得ない状況にあるのが新新撰組の実情である。それに対して御陵衛士は、伊東甲子太郎を筆頭に一枚岩に見えた。それは土方からすれば羨ましくもあった程だ。その彼らが分裂するなど、予想もしない事態だった。 問題が発生したのは、京都天狗党の話が流れてか…

  • 鬼の章(23)

    多くの者達の危惧は現実となった。 京都は勿論、関西全域から京都天狗党の元に浪士達が集い始めたのだ。 中には江戸から駆け付けた者もいた。現実問題として職にあぶれた浪士が多いのは事実だったが、同時に禁裏の元で活動出来るという大義に惹かれた者も多かった。 浪士だけではない。藩に所属する武士でありながら、脱藩して京都天狗党への参加を希望する者まで現れた。 日本国内における力の均衡が崩れる、その危険性を感…

  • 鬼の章(22)

    「私の考えは、御二人にはとても酷なものになると思います。私が最優先で考えているのは御陵衛士という組織の事です。その為に、御二人には隊を割る事にも成りかねない動きをして頂きたいと考えています。万一、最悪の事態となった場合でも、規模が縮小しようと御陵衛士は生き残る。その為の予防線と言っても良い」 「或いは、衛士の露払い」 毛内が継いだ言葉に、加納はゆっくりと頷いた。 京都天狗党が、このまま禁裏の意向…

  • 鬼の章(21)

    「ですが、伊東さんは既に芹沢さんとの接触を図ろうとされています。それに対する反応はまだ明確ではありませんが、同盟をも視野にいれた話になるのではないかと、私は考えています」 「同盟?」 思わず声を上げてしまってから、毛内は慌てて周囲見渡した。 「まだ、具体的な話ではありません。しかし、伊東さんからは、京都天狗党に参加する個人や団体、連携を模索する個人や団体を調べるように指示されています。それも、将…

  • 鬼の章(20)

    「単刀直入に申します。御二人は芹沢さんをどう評価なさっていますか?」 毛内は一瞬口籠ったが、服部と無言のまま視線を合わせて直ぐに腹を決めた。何より、同志の間で腹の探りあいは不毛でしかない。 「正直、図りかねています。しかし、岩倉卿と組んでいる事を含めて、何か裏があるように感じているのは事実です。少なくとも、現時点で京都天狗党が打ち出している禁裏の意向を受けた攘夷実行は、表面的な建前だと感じていま…

  • 鬼の章(19)

    暇と力を持てあます浪士に職を与える事。体の良い厄介払いではあったが、この浪士達を上洛させ、京の治安維持にあてる事。 これは江戸と京の双方に利益のある一石二鳥の策と思えた。 計算外だったのは、この募集に予想外に多くの浪士が応募して来た事だ。 上洛の為の準備金として1人につき1両を予定していたが、応募の人数が多過ぎた為、これを半額とせざるを得なかった。 浪士組は上洛後、発起人である清河八郎の策によって…

  • 鬼の章(18)

    岩倉具視など禁裏が動いた理由がこれで理解出来る。 事前に手を打たれていた諸藩に対する根回しと相まって、これで芹沢は堂々と行動する証文を得た事になる。 「京都天狗党とはな」 「これからどうなる?」 同志達の間でも盛んに議論が交わされた。 「行き先のない浪士達はこぞって京都天狗党の元に駆けつけるだろうな。こうなれば立派な大義名分が得られる訳で、肩身の狭い浪人生活を終わらせる事が出来る上に、帝の御意向…

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