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2008/07/22

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  • 金の茶碗

    ある事件を報じるテレビニュースに映し出されたその純金製の茶碗を見たとたん、ぼくの脳内に浮かんだのは三代目桂米朝の高座姿。演じているのは『はてなの茶碗』だった。******清水の茶店で安物の茶碗を見つめ「はてな」とつぶやいただけで帰ったのは、いかにも・・というような上品な身なり姿をした旦那。「あれは衣棚(ころものたな)の茶道具屋の主人である茶金さんや。ということはこの茶碗、値打ち物にちないない」と隣りで見ていた油売りが、有り金の二両を軍資金にして強引に茶碗を買って持ち帰り、茶金さんに買い取りを迫る。しかし、「あぁ、それなら傷もないのに漏るから、はてな、と首をかしげてながめていただけや」と聞いて意気消沈。それを目にした茶金さんは、地道に商売にはげめよと諭して三両で茶碗を買い取った。後日、こんな話がありましたと...金の茶碗

  • 選ばれる地域建設企業とは何か ~三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎~

    毎年行っている「三方良しの公共事業推進カンファレンス」を、今年は宮崎市で5月16日に開催する。題して『選ばれる地域建設企業とは何か』。『誰もが働きやすく、地域に必要とされる企業になるために』という副題がつけられている。メニューは以下のとおりだ。まずはじめに、「ふるさと納税日本一」に輝く都城市の池田市長による特別講演。それにつづいて事例発表が3つ。最初が九州地方整備局大分河川国道事務所の取り組み、つづいて宮崎大学工学部の取り組み、3つめが地元で人気のスナックSUNの発表で、それらを受けたメニューの最後は、宮崎日日新聞社の編集局長を進行役に建設業若手経営者3人が語り合う座談会だ。そんななか、この企画にいっちょかんできたぼくでさえ興味津々なのが、都城市長の講演とスナックSUNの加藤ママによる発表だ。なんだ建設業...選ばれる地域建設企業とは何か~三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎~

  • 拗ね者

    やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。それが世界的な時事であり、わが国の世相であり、あるいはごくごく卑近な出来事であっても、特別意図するところもないのに、気がつけば多数派の逆を考えていることが多い。こんなやつにもっとも相応しい生き方は、「世を拗ねる」だろう。それとも180度転がってその逆をいき、世を牽引する存在になるという手もないではない。だが、それにはそれ相応の能力や器量を有していることが必要だ。ということは、それ程の能力もなく器でもないぼくに、そもそもその道があるはずもなく、であれば、夜毎昼ごと酒を飲み、飲んでくだまき「世を拗ねる」というのが、それ相応の生き方だったはずのぼくを、なんとかマトモな社会人として踏みとどまらせてくれたのは、なんといっても、妻であり子らであり、つまり...拗ね者

  • ぜんぜんだいじょーぶ

    まず、ぼくの基本的な考えを表明しておく。時代の変化とともに言葉は変わる。あえて変える必要はないが、変わったとしても咎めだてをすることはない。これが言葉の使い方に対するぼくの基本的態度だし、それはこの場でも再三再四あらわしてきた(つもり)。とはいってもそれは、すべてに対してそうであるわけではなく、「ぜんぜんかまわない」とか「ぜんぜんだいじょーぶ」とかの、いわゆる「全然+肯定語」に対しては違和感が拭いきれず、これまでできるだけ使用しないようにしてきた。とはいえ、ここで「できるだけ」という曖昧な表現にとどめるのが、ぼくの優柔で煮え切らなさゆえで、周囲がそれを使うのになじんでしまったぼくの脳は、いけないこととは思いながら、ついついそれを口に出してしまったりもする。そんなものだから、他人がそれを使う分には、毎度耳に...ぜんぜんだいじょーぶ

  • I never make plans that far ahead.

    「まだはたらいてるんですか?たいへんですね」と言われたのは先々月、一回目の胆石発作で入院していたときのことだ。ベッドの脇にノートパソコンとモニターを置き、いかにも仕事に勤しんでいるかのようなぼくの姿を見た看護師の言葉である。一瞬、意味を計りかねたぼくは、その「まだ」が年齢のことをあらわしていることに気づき、妙齢の看護師に対して思わず苦笑いしながら、こう答えた。「そう、たいへんよ」そして、そうか世間一般では定年退職している齢なのだとあらためて思いが至った。もちろん、そう言った看護師になんらの悪気はなく、むしろその素直な物言いには好意すら感じられたのだが、はたしてそれは、ぼくのような年齢の男に対してもつ感覚として正しいのだろうか。すぐに調べてみた。『令和5年版高齢社会白書』によると、65~69歳の男性の就業者...Inevermakeplansthatfarahead.

  • 修業はつづくよ

    ずっと気にかかっている言葉がある現場のひとたちを撮るためファインダーをのぞくたびにその言葉が浮かんでくるといっても大げさではない。土木写真というジャンルがあるかどうかわからないが、あったとして、ぼくのそれは、いわゆる一般的に指すところの土木写真とはずいぶんと趣がちがう。意識して「顔」を撮るようにしてきたからだ。それがいつの頃からか、また、誰の影響でそうあろうとしたのかもはっきりとしている。山崎エリナさんが土木の現場を撮った作品を見たそのときから、ぼくもまたこうありたいと、人にフォーカスした写真を撮りはじめた。そういう意味で、彼女はぼくの師匠である。そうと公言したこともないし、本人の許可をもらってもいないが、歴然として師匠である。いや、「人にフォーカス」という意味では、その少し前から「現場ではたらく人」にフ...修業はつづくよ

  • えーっと

    「えーっと」もしくはその亜種としての「えーと」「えとー」。それが長いにせよ短いにせよ、何かの言葉を発するときの前置きとして、そう発語する人がいる。同様なものとして、「えー」や「あー」があるが、それらも含めると、むしろそう言わない人の方が少数派なのではないかとも思えるほど、それは多い。そして、いかにも日本人っぽいなという雰囲気を醸し出すそれらは、何も日本語特有のものではなくさまざまな人種、いろいろな言語で使われているらしい。たとえばそれが英語なら「um」とか「uh」とか。そういえばたしかにそうだ。よくよく思い起こしていると英語話者はよくそれらを間に挟むし、いかにも英語っぽくするには、むしろ「um」とか「uh」とかを入れた方がそれらしく聞こえたりする。それら会話やスピーチに頻繁に登場する無意味な言葉のことをフ...えーっと

  • ぴかぴかの

    急きょ行かなければならなくなった通夜のために畑から家へ帰り、取り急ぎ黒のスーツに着替えたぼくに、昨夜から遊びに来ていた3歳児が言う。「一年生ですか?」あまりに唐突なその言葉だったが、それが彼の口から出た理由に思い当たるまで数秒とかからなかった。それから遡ることちょうど一週間前。卒園式に出席する次兄のネクタイ姿と目の前の爺をダブらせたのだろう。あまりの可愛さに思わず頭をなでたぼくは、「そうなのだよなあ」とあることに気づく。ひとは自分が見聞きしたものによって知識の引き出しを増やしていく。さらにそれを応用することによって、自らの言動の幅を広げていく。まだそれがほとんどない目の前の3歳児には、「ワイシャツにネクタイ=一年生」なのである。だから、それが幼児ゆえだといってバカにしてはいけない。大のオトナであるぼくもア...ぴかぴかの

  • 屁に溺れる

    いつものことだが、ひねくれていて申しわけない。とことわった上で書き始める。某月某日、といってもそれほど前のことではない。「写真、上手いよねえ」眼前に立つ人を褒めようとして出た言葉だったが、思わず口をついて出たその言葉に違和感を覚えてしまったのも無理はない。何のことはない、そう感じたぼく自身が、他人にそう言われても素直に褒め言葉だと受け取れないからだ。ぼくにとって「写真が上手」というのは、「小手先の見栄えがよい」と同義である。だから、「上手い」とか「上手」という表現を、どうしても褒め言葉と受け取ることができない。幸いにして、眼前にいる妙齢の女性は、まことに素直に「ありがとうございます」と答えてくれた。しかも、心底そう感じているような顔をしてだ。ほっとした。救われたような気がした。些細な言い回しにこだわり、屁...屁に溺れる

  • 夢の意味

    リアルな夢だった。そして、なんとも気分のわるい夢だった。その夢を見たのは昨夜。登場したのは仏頂面をしたわが叔父だった。夢のなかにまで追いかけてきて、いったい何を言うのかなと思ったら、おもむろに口を開いて出た言葉がこうだ。「オマエは人を不愉快にさせるような物言いをする」思い当たるところがないではない。いや、そう言うと過少申告なので訂正する。おおいに思い当たるところがある。だからといって、突然そのように切り出されたら面白いはずがない。不愉快にさせているのはどっちだ、と思いながら質問してみた。「いつからそう感じてた?」「生まれたときからよ」いくらなんでも生まれたばかりの赤ん坊がそうであるはずもないだろうがと、さらに機嫌をわるくしたぼくに、彼が追い打ちをかける。「まわりのもんは皆そう言いゆうぞ」これ以上つづける意...夢の意味

  • 失敗を隠すな

    人は失敗を隠す。それが人の性分であり特性だ。たとえ繕ってそう見えないようにしたとしても、隠していることに変わりはない。ぼくなどは特にその傾向が顕著な人間だ。だからだろう、まことに失礼なことだけれど、そうしない人間は一人としていないのかもしれないなどと、つい考えてしまう。ところがぼくは、そんな自分を棚に上げ、「失敗を隠すな」と言う。自家撞着もよいところだが、隠さず明かすことの有用性が肌身に沁みているからそう言うのである。また、あえてそう表明することによって、自分が「隠す」ことがらの何割かを「隠さない」に転換させようとする意図もある。そして、そうすることで、「隠す」自分の何割かでもを「隠さない」自分へと変換させようとしてもいる。人間というのはよくしたもので、そうこうしているうちに、いつのまにか「隠さない」の割...失敗を隠すな

  • やってみなきゃわからない

    今回の高知公演で志の輔が高座にかけた噺は、ひとつが新作でもうひとつは古典だろうというぼくの勝手な思い込みに反して、2題ともが新作。といっても、立川志の輔ファンなら誰でもが知っている(とこれまたぼくが勝手に断じている)、『親の顔』と『メルシーひなまつり』だった。そのうち『親の顔』は、テストで5点という点数をとった息子金太と共に学校に呼び出された親父と息子と担任教員とのあいだで繰り広げられる、テストの解答をめぐる珍問答がたのしい噺だが、そのなかで、最初に登場するのが次のような問題だ。先生「この問題なんか非常にわかりやすいんですが、太郎くんと次郎くんが草刈りをしてですね、太郎くんが2分の1、次郎くんが3分の1、草はどれだけ残るでしょうか?という問題にですね、オタクの金太くんは・・・」読むなりすぐさま通分を開始し...やってみなきゃわからない

  • 年寄りの冷や水

    テレビ画面の向こうの立川志らくが、移動中の車中で「これから執筆です」と言ってスマートフォンに向かったのを見たのはどのくらい前だったか、思い出す術は皆目ないが、兎にも角にも少なくない衝撃を受けたのは、ハッキリと覚えている。「今時の学生はこれで論文を書くんですよ」それより以前、顔見知りの大学教授が、まるで異次元の生物を紹介するかのように言うのを聞いたのがいつだったか、これはハッキリと覚えている。2017年のことだ。そのときは、にわかには信じることができず、話し半分冗談半分だとばかり思っていた。だが、それからしばらくの時が経ち、テレビ画面に写る噺家はぼくより少しばかり年下でしかない立派な昭和人だ。彼がそうするのだもの、若い人たちの今がどのようになっているかは推して知るべしだと、俄然それを今そこにある真実として捉...年寄りの冷や水

  • 世代交代

    立川志の輔3年ぶりの高知公演を聴いてきた。ぼくにとっては当代ナンバーワンの噺家である志の輔は、御年70歳になったばかり。衰えるどころか、ますます練達の度合いが深まった感がする高座だった。よく言われる説に、落語という芸能は演者が六十代になってからがもっともよいというものがある。ぼくとてそれに全面的な異を唱えることはなく、おおむねそのとおりだとは思うが、あえて当たり前のことをそれらしく言うとそれは人それぞれで、イキがよかった若いころがよかった人もいれば、五十代がよかった人もいたり、老いてわるくなった人もいる。そして、これは落語という芸能の奥深さであると同時に彼の人の凄さだとぼくは思うのだが、昭和の大名人と謳われた六代目三遊亭圓生などは、残された音源を聴く限り、79歳で没するまでその芸が枯れるどころか、どんどん...世代交代

  • 世代交代

    立川志の輔3年ぶりの高知公演を聴いてきた。ぼくにとっては当代ナンバーワンの噺家である志の輔は、御年70歳になったばかり。衰えるどころか、ますます練達の度合いが深まった感がする高座だった。よく言われる説に、落語という芸能は演者が六十代になってからがもっともよいというものがある。ぼくとてそれに全面的な異を唱えることはなく、おおむねそのとおりだとは思うが、あえて当たり前のことをそれらしく言うとそれは人それぞれで、イキがよかった若いころがよかった人もいれば、五十代がよかった人もいたり、老いてわるくなった人もいる。そして、これは落語という芸能の奥深さであると同時に彼の人の凄さだとぼくは思うのだが、昭和の大名人と謳われた六代目三遊亭圓生などは、残された音源を聴く限り、79歳で没するまでその芸が枯れるどころか、どんどん...世代交代

  • 自分事他人事

    【サクランボとリンゴ】サクランボは冷蔵で保存しない方がよいことをご存知だろうか?そもそもサクランボは、急激な温度変化に弱いデリケートな果物なのだそうだ。と聞くと、すぐに冷蔵保存と意識が直結するのが現代人の性だが、あれに限ってはそれをすると逆効果なのだという。したがって、ほとんどの場合、常温で売られており、その保存の基本は冷暗所で常温。というのが、その筋では当たり前のことらしい。とはいえ、初夏の果物だ。冷やして食べる方が美味いに決まっている。というのもまたテクノロジーにまみれて生きている現代人の悲しい性だが、さあ、となればどうすればよいのか。食べる1時間ほど前から冷蔵し、頃合いをみはからってやおら食す。これがもっともよい食べ方だという。そんなことを知ったのは、一昨年初夏のある贈与がきっかけだった。東北在住の...自分事他人事

  • リマインド

    「我、いまだ木鶏たり得ず」昭和14年、3年間に渡り無敗をつづけた横綱双葉山が、70連勝を目前にして新鋭安芸ノ海に敗れたあと、師と仰ぐ安岡正篤に送った電報の言葉として有名である。彼がそうありたいと願った「木鶏」の出典は『荘子(達生篇)』。******紀渻子(人の姓名)という人が、ある王の命を受けて闘鶏を飼育していた。十日経ったところで王がたずねた。「どうだ、鶏はもうよいかな。」「いいえ、まだです。まだむやみに強がって気負っております。」それから十日経って王はまたたずねた。「いいえ、まだです。ちょっとした物音や物影にもいきり立ちます。」また十日経って王はまたたずねた。「まだです。他の鶏を見ると、ぐっとにらみつけて血気にはやります。」さらに十日経って王はまたたずねた。「はい、もう完全無欠です。他の鶏が鳴き声を立...リマインド

  • (土木的)清濁の音象徴

    『言語の本質』(今井むつみ、秋田喜美、中公新書)を読んでいる。なかに「清濁の音象徴」について書かれた項がある。著者によると、日本語のオノマトペは整然とした音象徴の体系をもっており、「gやzやdのような濁音の子音は程度が大きいことを表し、マイナスのニュアンスが伴いやすい」のだそうだ。以下、著者が書中に挙げた例を示す。コロコロよりもゴロゴロ。サラサラよりもザラザラ。トントンよりもドンドン。オノマトペ以外でもそれは見られる。以下もまた、同著のなかにある例だ。「子どもが遊ぶさま」の「さま」に対して「ひどいざま」の「ざま」「疲れ果てる」の「はてる」に対して「ばてる」清濁の音象徴はまた、ポケモンの名前の付け方にもあらわれており、体長の長いポケモンや体重の重いポケモンには濁音が多く、進化が進むにつれて名前に濁音をもちや...(土木的)清濁の音象徴

  • 励めよいざ

    勉強をしなかった口である。勉学に勤しまなければならないとされる時期にそれを怠けていたという意味で、勉強をしなかった口である。とはいえ、まったくしなかったかと言えばそうでもないが、したかしなかったかと問われれば、間違いなくしなかった部類に入るというのがぼくの自己評価だ。ただし、本は読んだ。読んだがしかし、それは勉強ではない。たしかに読書は勉強にはなるが、ここで言う勉強はそれではない。ただ、ひとつ付け加えておかなければならないのは、齢が30を3年過ぎて、シロートでこの業界に入ってきた身であれば、この仕事で一人前になるための勉強はした。人一倍、と胸を張りたいところだが、比べる人がいないので、そこのところはよくわからないけれど、自分のそれまでの人生で、大っぴらに勉強をしたと言えるのは、それ以来今に至るまでだけであ...励めよいざ

  • 人を育てる

    「人を育てる」というのは、まことにもってむずかしい。この場合の「育てる」は、あくまで「育てよう」と企図し、それにもとづく言動をもって「育てる」ことを指すのであって、その対象となる人が、自らの意思と努力で「育つ」のは、その範疇にない。どころかむしろ、放っておいては「育たない」者に対して、試行錯誤をしつつも、首尾一貫して「育てよう」という意思だけはもちつづけ、なんとかそこそこの線までには到達できるように奮闘努力をすることが、ここで言う「人を育てる」という行為である。そうした場合、永遠のテーマとなるのが、どこまで手出しをするのがよりベターなのかという問題だ。もちろんそれは、対象となる相手によって異なるべきことにはちがいない。三者三様十人十色、百人百様千差万別。人それぞれが一人ひとり異なった個性をもち合わせている...人を育てる

  • 心から

    退院翌日、所用があって出かける途中の娘が様子見に我が家へ寄ってくれた。まことに都合がよいことに、ソファーで横になっていたぼくは、わざとらしげに弱々しく手を振って、いかにも病人然とした振る舞いを見せるが、身体の内からかもしだす元気さは隠せなかったようだ。「だいじょうぶそうやね」といって笑う彼女の言葉は受けずに、手術以来ずっと心に思っていたことを吐露する。「アンタ、えらいなあ」なんのこと?と怪訝な顔をする娘に言葉では返さず、右の手で腹を切る真似をする。「ああ、ね」瞬時に理解したようだ。そう、彼女は帝王切開を三度経験していた。すると、それを聞いていた妻が自慢気に口をはさむ。「あらワタシだって、アンタのときは16針も縫ったんだからね」切開する縫合するの有無にかかわらず、お産にともなう痛みは、男の想像をはるかに超え...心から

  • 高齢化社会

    日本の田舎が超のつくほどの高齢化であることは、今さら言を俟たないが、今回の入院でもまた、あらためて認識させられたことがしばしばだった。入院患者の年格好が異常に高いのである。その一人ひとりに年齢をたずねたわけではないが、66歳と2ヶ月のぼくが飛び抜けて若く、そして元気だと看護師が口々に言うのだから推して知るべしだろう。あるひとりが言うには、以前からあったその傾向は5~6年前からあきらかに顕著になり、今では、入院患者のほとんどを80歳以上が占めているらしい。「ピチピチやんか」おのれの皺々は重々承知をしているが、その事実を聞くなり、ついついそんな軽口が出てしまったほどである。それは退院前日のことだったか。若い看護師に状況をたずねられ、「あいかわらず傷口は痛むけどね。けど、しばらくはこんなもんながやろ?」と答える...高齢化社会

  • 浜のミサンガ環(たまき) 2024年春

    「これ、だいじょうぶですか?」と指先で示したぼくの足首に巻かれているのは、濃茶と黃の糸を編み上げたミサンガ。「かなり圧迫しますからねぇ・・・でも、切らない方がイイでしょう?」「・・・ダメなら仕方ないけど・・・」「でも、なんか願いごとがあって付けてるんでしょ?」「願いごと、っていうわけでもないがやけどね」「浜のミサンガ環」。東日本大震災により仕事を失った漁師の奥さんたちが、魚網を材料としてつくったものだ。ぼくのそれは、2012年の7月に初代を装着して以来、古いものが切れては代えを繰り返し、現在のものになったのは一昨年のこれまた7月。三代目だ。とはいえたしかに、特別な願いごとがあって付けているわけではない。忘れないようにしたい。ただそれだけのことである。そんなことをごく手短に説明したぼくに、「それは切らない方...浜のミサンガ環(たまき)2024年春

  • 病院食

    病院食というと、「不味い」という連想が浮かぶ人は、さほどめずらしくはないのではないか。むしろ、大多数といっても差し支えないかもしれない。思うにその大きな要因となっているのは、その味の薄さゆえだろう。次に思い浮かぶのは、油脂分の少なさゆえか。ましてや、今回のぼくのように、二度の入院時の「胆石食」から三度目の「胆石術後食」に移行した人間ならなおさらだ。家ではふだんから「塩分控えめ」を心がけ、揚げ物など脂っこい食事の摂取も、あきらかに他人より少ないと自認しているぼくでさえそうなのだから、健康な若者ならなおさら推して知るべしだ。なぜそれがそうなるのか。そうでなければいけないのか。内蔵に負担がかからない食事を指向すればそうなっていると考えるのが妥当だろう。身体にやさしいものを食うと不味い。もちろんそれはごく一面的な...病院食

  • 私的NRS

    0が痛みなし、10が最大の痛みとして、0~10までの11段階に分けて、現在の痛みがどの程度かを指し示す段階的スケールをNRS(NumericalRatingScale)と呼ぶ。一般的に用いられている聞き方には2種類あって、1つは、「今まで経験した一番強い痛みを10として今の痛みがどれくらいか」を聞く方法、もう一つは、「初診時や治療を開始する前の痛みを10として、今はどれくらいの痛みか」を聞く方法である。と、訳知り顔のことを書いたが、以前から知識として備えていたものではない。昨年夏の虫垂炎にはじまり、今年明けの胆石発作から胆嚢摘出手術に至る病院通いで、毎度まいど看護師さんがやって来るそのたびに聞かれるこの質問について、遅ればせながら検索してみると、そのような答えを得られただけのこと、つまり、覚えたてほやほや...私的NRS

  • たんのう

    「今日はどんな手術ですか?」おかしなことを訊くものだと訝しみながら「胆嚢摘出手術です」と素直に答えると手にもっていた幅広のテープに「たんのう」と平仮名で書き込み腹の右側にペタリと貼った。きのうの朝、手術室へと向かう前の看護師とぼくのやり取りだ。思うにそれは、ヒューマンエラーによる医療事故防止対策のひとつなのだろう。そう推測したぼくは、心の内で拍手する。ひょっとするとそれは、いくらなんでもそこまでしなくても・・という類のものかもしれない。人によれば、バカにするんじゃないわよとヘソを曲げてもおかしくはないようなことかもしれない。だが、相手はバカかも知れない、また、相手にはバカのようなことをする可能性がある、という前提に立つのが、ビジネスコミュニケーションの要諦であるとぼくは信じている。もちろん、あくまでそれは...たんのう

  • 禍と福と

    禍福。災難と幸福、不運と幸運をあらわす言葉だ。中国古典には、この禍福について言いあらわしたものがいくつかある。まずそのなかでもっともポピュラーであろうと思えるのがこれだ。「禍福は糾える縄の如し」(史記『南越列伝』)禍(わざわい)に因よりて福と為す。成敗の転ずること、譬(たと)えば糾(あざな)える縄のごとし。不幸と幸福はより合わせた縄のように交互にめぐってくる、という意味だ。次に、「存亡禍福は皆己に在るのみ」(説苑『敬慎』)孔子曰く、存亡禍福は皆己に在るのみ。天災地妖も、亦(また)殺(そ)ぐこと能(あたわ)ざるなり、と。人間の生き死にや幸不幸はすべて自分自身に原因がある、という意味をもつこれもまた、人口に広く膾炙している言葉だろう。ではこれはどうだろうか。「意の存するところ即ち禍福となる」(三国志蜀書『許靖...禍と福と

  • ラッキー?

    去年の夏に開かれ、ぼくもその発表者兼パネリストだった、ある災害復旧関連のシンポジウムでのことだ。もちろん主催は建設関連の団体であり、聴講者もまた業界の人たちばかりだった。東北沿岸部から招かれた建設会社の幹部が、4つあるうちのひとつの事例発表を受けもってくれた。となるともちろん事例は、東日本大震災のことで、発災時またその後に、地元の建設業者が何を考え、どのようなことをしたのかについてを、その当事者として語ってくれた。そのなかでもっとも印象的な言葉が「ラッキーだった」というものだった。彼の事例発表のなかにあった、従業員が被災しなかったり協力会社が機能したりしたという発言から、パネルディスカッションの進行役が「そういう意味ではラッキーだった?」と問うたのを受け、「たしかに」と言った彼が、その理由として述べたのは...ラッキー?

  • 先従隗始

    かつて、「たとえ玉石混交でも数さえ多けりゃなんとかなるさ」的発想を基本において組織を維持していくことから切り替え、少数精鋭主義で生き抜こうと決意したころ、ぼくのアタマのなかを占めたのは「排除の論理」だった。組織の構成員全員をマルチタレントたらんと標榜し、デキない人たちを排除しようとした。ぼくだけではない。ごく大雑把に区別すれば、自分の仕事ぶりに自信がある人、いわゆるデキる人ほどその旗を振った。今、その排除の旗を振った人たちはほとんどいない。かつての方針が、正しかったのか、それとも誤りだったのか。今の状況だけでは判断できない。ただひとつだけ言えるのは、そのなかに正解と不正解が混在していたことだ。とはいってもそれは、いつの時代でもあることだ。そしてその正解と不正解が、いつの時代でも変わらずに正解と不正解である...先従隗始

  • 過去の発言

    過去の発言を蒸し返され、今の言葉と比較して、ブーメランだなんだと炎上する政治家やタレントを見聞きするたびに、同情の念を禁じ得ないぼくなのである。だったら常に「ブレない」ことを念頭に置き、自らの言動を律すればよいではないかと考える向きもあるかもしれないが、そもそも、自分の考えやその発露である言葉がブレない人間など存在しないとぼくは思っている。もし居るとしたら、それはあらかじめ自分で書いたシナリオに沿った発言しかしないか、どこかの新興宗教団体やどこかの教条主義的政治組織に所属して、その原理にがんじがらめになっている人しかないのではないだろうか。現にこのぼくなどは、過去の言動を蒸し返されたり掘り返されたりすると、ぼうぼうと燃え盛ってしまうことマチガイなしだ。幸いそれをするのは、今のところわが妻ぐらいしかないので...過去の発言

  • 二兎物語

    「なぜこの人たちは、ぼくに次から次へと仕事を持ち込むのだろうか?」と疑問を抱いた人がふたりいる。いや、その他にもいないではないのだが、「特に」という意味でのふたりである。そのひとりは、ぼくが杜の都仙台ではたらいていたときの直属の上司(その後、その会社を独立したぼくたちはパートナーとなった)。もうひとりは、妻子とともに高知に帰ってきたぼくを雇ってくれた会社の上司(その後、彼は社長となった)。ひとりは数十年にわたって音信不通で、もうひとりは故人となってしまったので、今となってはまったく行き来のないふたりだから、「いる」という現在形ではなく「いた」という過去形で、そのふたりは、こちらの事情に斟酌することなく(少なくとも、当時はそのように思えた)ぼくを使った。といっても、そのことを恨んでいるわけではない。現在進行...二兎物語

  • 慣れ

    ある「飲み」の席である。「じゃあ喋ってくれますか?」談笑しているなか、話の流れの必然としてそう依頼されたAくんは、苦笑いしながら否定するようなそぶりをした。「いやマジよ、ねえ?」ぼくが相槌を求めると、当然のように依頼主がうなずく。「もちろん」逃げられないと観念したのか、Aくんが問う。「時間はどのぐらいですか?」ほぼ同時にぼくたちが答えた。「90分」「1時間半」「ムリムリ」顔の前で手のひらを左右にふりながらAくんが否定した。そんな無体な、と言わんばかりの勢いである。「そう言いたい気持ちはよ~くわかる。けどね、そんなの慣れやキ、、、な・れ」もちろん「慣れ」というひと言で片づけられることではないが、場数を踏むことで得られるものや身につくものは数多い。「人前でしゃべる」という行為は、それがもっとも顕著なもののひと...慣れ

  • 「変な」おじさん

    「コイツ、変なプライドがあるから」と、口の端をゆがめて笑いながら言ったその人は、ぼくの当時の雇い主。まだ二十代半ばだったぼくは、その目の前にいた。コイツとはもちろんぼくのことだ。「変な、は余計だろうが」そう思うぼくはしかし、声には出さなかった。だが、当然の如く顔にはその不満があらわれていたはずだ。今になって考えると、それこそが「変なプライド」の表出なのだろうが、当時はそれほど成熟した受け取り方ができない。そして、プライドは人一倍あったが、それが「変な」ものであるとは自覚していなかった。その場面を、四十年ほどが経過した今でもハッキリ思い起こすことができるということは、たぶん、そのような表現をされたのが初めてだったからではないか。では「変なプライド」とはどのようなものか。「変な」プライドと言うからには、「変じ...「変な」おじさん

  • 小人(しょうじん)

    ぼくのなかで理想の年寄りとは、いわゆる大人だ。オトナではない。タイジンである。大人。デジタル大辞泉には、「3.徳の高いりっぱな人。度量のある人。大人物」とあるが、ぼくが考える大人とは、たとえばこのような人を指す。些末なことに心を動かされることなく、柳に風と受け流し、危機に際しても泰然として動ぜず、好機と見るや的確な助言をする。天を敬い、人を愛し、先達には礼をもって接し、目下のものは慈しむ。怒らず恐れず悲しまず、一喜一憂することなく、すべてにおいて大局観をもって対処する。ところが現実のぼくはいくつになってもこれとは対極にいる。些末なことで動揺し、胸に受けとめて思い悩み、危機に際してはあっちへウロウロこっちでオロオロ。のべつ幕なしに口を出し、部下を閉口させる。雨が降るといっては天を呪い、暑いといっては地を蹴り...小人(しょうじん)

  • 逆なひと

    「世論の逆がおおむね正しい」と喝破したのは西部邁である。めいっぱい天邪鬼を意識していた少年時代や、眦を決してツッパっていた若いころならいざ知らず、今のぼくにそれほどガチガチの反骨心はない。なのに、気づいてみれば多数派の考えに与しない自分がいる。広く地球問題や世界情勢しかり。狭く地域社会の問題しかり。ぼくの直観が右と判断すれば世は左。この場合はなんだか右の方が怪しいぞと思えば世間は右。ことさら逆目を張っているつもりも、「世論に反対」しているつもりもないのに、「世論の反対」となっている。コレハドウシタコトダ。とは思うが、かといって自説がマチガッているとは思わない。もちろん、マチガイをマチガイと認識したそのときは、潔く自説を撤回する。それぐらいの柔軟さは持ち合わせているつもりだ。だが、多くの場合で、自分の考えを...逆なひと

  • 痛みの後先

    あれは二十歳前後のころだったか。胸、といっても横隔膜あたりが痛くなることがしょっちゅうあった。いつのまにかならなくなったのだが、その原因は未だにわからない。胸の痛みといえば少年期から六十代まで、折に触れては訪れた。これの原因はハッキリしている。もちろん、若いころには恋する少年としての胸の痛みもないではなかったろうが、たいていは不整脈である。生来の不完全右脚ブロックに、年をとってからは心房細動が加わった。三年前に手術をして心房細動由来のものはなくなったが、時おりやって来るのはたぶん、一生つきあっていくしかないと宣告されている右脚ブロックの異常ゆえだろう。三十代後半の数年間は、アレルギー性鼻炎に起因する慢性副鼻腔炎によって眉間や目の周りにたまった膿が発する鈍痛が、わが身を苦しめた。これを解消したのは医者通いで...痛みの後先

  • 愛想笑いと営業スマイル

    「つくり笑い」というと、まず九分九厘がところ、肯定的な意味で用いられることがない言葉である。だが、これにはふた通りあるというのがぼくの考えで、必ずしも否定的にとらえるものばかりではないとぼくは思っている。まずひとつは、「(おかしくもないのに)わざと笑う」という一般的な意味での「つくり笑い」で、「そら笑い」とも呼ぶ笑顔。その代表的なものが「愛想笑い」である。これには「つくり笑い」よりさらに悪いイメージがある。「おせじ笑い」とも言う。機嫌をとるための笑いだ。もうひとつの「つくり笑い」は、いわゆる「営業スマイル」である。仕事において、自らの気分や心持ちがどうあれ、笑顔をつくりそれを維持することを言う。なんだ、おなじではないか。大方の人はそう思ったのではないだろうか。だが、「あくまでぼくのなかでは」という括弧付き...愛想笑いと営業スマイル

  • 失態の理由(わけ)

    『二兎を追う』と題した意味不明のテキストを垂れ流していたことに気づいたのは今朝の8時すぎ。投稿日時を見ると14日の21時すぎだったから、ほぼ1日半にわたって晒していたことになる。即刻「下書き」に戻して保存したから今となっては人目に触れることはないが、失態に気づいたときは、恥ずかしさのあまり思わず頬が赤くなった。そこにあったのは、単語と文節の羅列。予備知識なしに見ると、全体的には何を主張したいのかわからないでもないだろうが、ぼく以外の誰ひとりとして理解できないであろう箇条書きもあり。種を明かすとそれは、ここ半年ほどの「下書き」おおよそ約30篇を拾い集めて、使えるやつには陽の目を見せてやろうと、ぼちぼちと加筆修正していたなかにあった。その多くが産まれたのは夜である。つまり、酔って鋭敏になった感覚のまま、生じて...失態の理由(わけ)

  • ◯◯の恩返し

    近ごろ、「恩返し」という言葉が好きだ。恩返しといえば想起するのが日本の昔話だ。代表的な「鶴の恩返し」は言うに及ばず、そこには「恩」という贈与に対しての返礼の物語が数多ある。近ごろのぼくに、ことさらのようにその言葉が沁みるのは、かつては当たり前のようにそこらじゅうにあったそれが、希少なものになってしまったかのような感覚を抱いているからだろう。恩を受けたならば返さなければならない。それは必ずしも直接的な返礼である必要はなく、その受け渡しの当事者以外の人にパスをするのも、立派に恩返したり得る。いやむしろ、贈与と返礼のパス&レシーブの循環がもっともそれらしく純粋に表出するのはそちらの方だろう。それもこれも含めての「恩返し」という心持ちが、なんだかとても希薄になってはいないか。そんな気がしてならない今日このごろであ...◯◯の恩返し

  • 関係性のなかで生きる

    人は他者との関係性のなかで生きている。他者との関係性のなかでしか生きられない、と言ってもいい。他者とつながることで、人は自己を確立し、発展させることができ得るのである。にもかかわらず、自己完結型の円環に閉じこもるというのは、自らの存在を認めないというのに等しい。自分というものが他者との関係性のなかでしか存在しないものであるならば、「自分らしさ」などというものは、他者との関係性のなかで決定されるものであり、そこに自分自身の選択が入る余地はない。といえば極端に過ぎるか。ではこう言おう。選ぶことはできる。だが、「自分らしさ」を選択したいのであれば、そこでは他者との関係性を考慮に入れる必要がある。そうしないと、自らの行く先を誤ってしまうだろう。自らの行く先をまちがえないためにも、「他者とのつながり」を大切にするこ...関係性のなかで生きる

  • よそはよそ

    「よそはよそ、うちはうち」子どもにとって、耳にしてこれほど憎たらしい言葉はない。もちろんその発信元は親である。今になって考えれば、何かの要望をかなえようとするときに、「〇〇ちゃんとこ(という表現であらわされる他者)」や「みんな(という表現であらわされる多数)」を持ちだして、「だから(必要だとか欲しいだとか)」と展開するのが、じつは親にとっては「飛んで火に入る夏の虫」なのは自明のことで、それなのに毎度毎度おなじ轍を踏むのは、まさに学習をしないひと以外の何者でもないのだけれど、子どもだったぼくにはそれがわからなかった。だから挑んではすぐにへし折られる。「よそはよそ、うちはうち」たしかにそれはそうに違いない。それぐらいのことは、何度も何度も繰り返すうちに理解していた。だが、こちらの意を汲もうともせず、それだけで...よそはよそ

  • まゆつばもの

    「これをすればすべてが解決」とか「これをやればすべてが上手く行く」とか、そういう謳い文句は、眉に唾つけて聞かなければならないし、そういう物言いをする人は疑ってかからなければならない。四捨五入すれば七十年も生きてきたぼくの経験から言わせてもらうが、それは、まず外れることがないという意味で真理である。予感や予想を外すことが少なくないぼくだが、これだけは自信をもって言える。ところが厄介なことに「今という時代」は、その手のキャッチーな物言いにあふれている。たしかに多くの場合のそれは、人を惹きつけるために、あえて用いているのだろう。ぼくとてウブな少年ではない。それはよくわかる。だが、その「つかみはオッケー」的発想、あるいは「土俵に上げたらコッチのもの」的手法と、扇動的かつ煽情的な物言いは、知らず知らずのうちに自らの...まゆつばもの

  • (生成AI的)胆石の記 〜エッセイにして〜

    さて、報告書はできた。次はちがう形式の文章にしてもらおう。冒頭と締めの文を指定することで希望の文体も読みとってくれるのではないか、という期待のもと、以下のように注文をした。みやうち次は、この件についてエッセイを書きたい。書き出しは、「昨夜、これまでに体験したことがない痛みがぼくを襲った。やっとのことで布団を這い出し、別の部屋で眠る妻に助けを求めた」。締めくくりは、「そんなこんなを含めた上で、手術をすることに決めた。あとはどうにかなるだろう」で。さあ、如何相成りますことやら、と期待に胸をふくらませながら待つこと数秒。返ってきたのが次の文章だ。ChatAI昨夜、これまでに体験したことがない痛みがぼくを襲った。やっとのことで布団を這い出し、別の部屋で眠る妻に助けを求めた。秋の穏やかな夜が突如として恐怖と不安で長...(生成AI的)胆石の記〜エッセイにして〜

  • (生成AI的)胆石の記 ~報告書作成(その2)~

    さて、「上の報告書を、患者である私がことの顛末を所属する会社の上司に報告する形式にしてほしい」と依頼したぼくへのGPT4.0の回答である。ChatAI以下に、その情報を基に会社の上司に報告する形式で記述します。---件名:私の健康状態と今後の調整についてお疲れ様です。私、[あなたの名前]より重要な報告がございます。私の健康に関連する問題が発覚し、これにより所定の業務に影響が出る可能性があるため、以下に詳細を述べさせていただきます。2023年1月26日の未明、私は突然の腹部激痛に見舞われ、自力での移動が困難な状態となりました。家族に支えられ、以前入院した経緯のある昭和大学江東豊洲病院に適切な治療を受けるために搬送されました。診療の結果、急性の胆石発作と診断され、治療を受けることとしました。病院での検査では私...(生成AI的)胆石の記~報告書作成(その2)~

  • (生成AI的)胆石の記 ~報告書作成(その1)~

    ぼくが発したいくつかの問いと、それに対するChatAIの回答が繰り返されたあと、つづいてAIにお願いしたミッションがこれだ。みやうち以下に経緯を記すので、上記の回答を含めた上で報告書を作成してほしい。(上の文につづいて一昨日のテクストhttps://blog.goo.ne.jp/isobegumi/e/e772d4d0ef971a5a977341771ce405abをそっくりそのままコピー&ペースト)いつものように、即座に出力された答えを以下に記す。AIChat#医療報告書**患者の状況と経過**2023年1月26日の午前2時頃、患者は突然の腹部激痛を経験しました。初めての体験であったこの痛みは、その強烈さから自立での移動が困難な状況に至りました。救急車ではなく、身内により昨年入院した昭和大学江東豊洲病院...(生成AI的)胆石の記~報告書作成(その1)~

  • (生成AI的)胆石の記 〜胆石問答〜

    ということで、ぼくの胆石発作についてAIChat(GPT4.0)にいくつかたずねてみた。みやうち昨夜、胆石発作が起こった。これまでに体験したことがないような激痛だった。ところが、少しするといくらかおさまった。推測するに、体勢を変えたことがよかったような気がする。この推測に理論的根拠はあるか?AIChat胆石発作(胆石症)は確かに非常につらいものです。激痛が少し和らいだのは、胆石が胆道を塞いでいたものが動いたかもしれません。体の体勢を変えることで、胆石の位置が変わり、胆道の一部が開放された場合、痛みが和らぐ可能性があります。しかし、これは主に一時的な解決策であり、胆石発作の本質的な問題は依然として存在します。長期的な解決策としては、飲食能力を増やす、肥満を避ける、適切な運動をするなど、ライフスタイルの改善が...(生成AI的)胆石の記〜胆石問答〜

  • (生成AI的)胆石の記 〜事実の顛末〜

    先々週末、2泊3日で入院していた。以下、その顛末である。1月26日。夢うつつで感じはじめた腹部の痛みはやがて激痛となり、矢も盾もたまらず半身を起こし時計を見る。午前2時ちょうど。起き上がり、やっとの思いでトイレまで行ったが何も出ない。そのうち痛みは治まるどころか、あぶら汗をともなってより一層ひどくなる。これまでに体験したことがない激痛だ。どうする?苦悶のなかで自問してみたが、いずれにしてもその前に妻に知らせねば。立とうとしたが、力が入らず崩れ落ちる。兎にも角にも声が届くところまでは、と這いずり出る。「おーい」別室に向かって声をかける。力のない声が情けない。二度目か三度目の声かけで異変を察知した妻が、あわててかけよってくる。息も絶え絶えに事情を説明すると、救急車ではなく、彼女が運転して昨年入院した総合病院へ...(生成AI的)胆石の記〜事実の顛末〜

  • サーフィンする相撲取り

    「サーフィンするダース・ベイダー」という言葉を「ダース・ベイダー」で展開して画像を生成してみた一昨日だったが(→『サーフィンするダース・ベイダー』)、となるともちろん、「サーフィン」つながりという展開も考えられる。はて、誰にサーフィンをさせたらおもしろいか?さほど考えることもなく浮かんだのが照ノ富士だった。そう、第73代横綱照ノ富士春雄である。ということで、AIChatによる「サーフィンする照ノ富士」。「照ノ富士」という固有名詞がどういう人物を指しているのかわからないのか、肝心の顔がのっぺらぼうだ。そして、その不安をあらわすように人物がごくごくちいさい(実際のところは、生成AIに感情はないので不安もないのだけど)。これではまったく話にならない。さしずめ「照ノ富士」という固有名詞ではダメなのだろうと見当をつ...サーフィンする相撲取り

  • サーフィンするダース・ベイダー

    とある教育関係の会合があった。クルマで家から40分ほどかかる道中の供はいつもの如くAudible。『ChatGPT対話型AIが生み出す未来』(古川渉一、酒井麻里子)を聴きながら会場へと向かった。到着したのは開会の約30分前、わが業界ならば既に半数以上はそろっている頃合いだが、あにはからんやそこには誰もいない。自分の所属が指定されている席につき、読みかけの本を読みながら待つことにした。と、次のようなフレーズに興味をひかれる。******Diffusersv0.15.0では、さらに強力な「Text-to-Video」の機能が追加され、「サーフィンするダース・ベイダー」などといったテキストから動画を生成することができるようになりました。(『教養としての生成AI』清水亮、p.181)******おもむろにスマホの...サーフィンするダース・ベイダー

  • 饒舌であれ

    先週末、地元一般紙の取材を受けた。本業の、であればありがたいことこの上ないが、残念ながらそうではない。県東部市町村合同での芸能発表会に参加した中のひとりとしての聞き取りだった。そんなことは、県内に数多ある和太鼓演奏グループでも、まちがいなくマイナーな部類に位置するわたしらチームゆえに、初めてではないがめずらしいことだ。喜んで取材に応じた。「饒舌であれ」色々さまざま訊ねられるなか、ひとつだけ意識し実践したのがそれだ。これまでのぼくはといえば、それが本業や趣味や地域や、そのジャンルの如何にかかわらず、メディアからの取材には「訊かれたことだけ答える」。これがふつうであり、酔ってでもいない限り、そこからはみ出すことはほぼなかったはずだ。いきおい、そのインタビューは一問一答となってつまらないものとなり、その帰結とし...饒舌であれ

  • 危機感それとも安心感

    「今はいい。けどこのままだったら、この会社はダメになるよ。もっと危機感をもたな」現場の監督さんたちを前にして、かなり強い口調でそう言ったのは、昨年秋の初めごろのことだったか。もちろん、そう言うからには、ぼく自身に強い危機感があったからに他ならない。思い起こしてみれば、ずっとそうだった。どんなによい成果があがったとしても、これで安心などと思ったことは一度たりともない。外見はどうあれ、組織をかたちづくる核となる部分が強くならなければ、本質的には脆弱なままだからである。思えば、危機感がぼくという人間を前へと推進させる原動力のひとつだったのかもしれない。今もそれは変わらない。だから、昨秋、皆に投げかけた言葉がまちがいだとは微塵も思っていない。ただし今日までは・・・。その信念が揺らいだのは、今日Xでこんなポストを目...危機感それとも安心感

  • 言わぬが花

    「スパイダーマン描いて」と孫がもってきたのは去年のカレンダーの裏紙。唐突な注文に「え、オレ?」と自らを指差しながら問うと、こくりとうなずく。しかもスパイダーマンとは・・・何故なのかよくわからないがそれ以上の質問は野暮というものである。なんとなれば、人は他人からの需要で生きている、他人からの需要があってこその人である、というのが予てよりの持論であるぼくだもの。いかに唐突で訳のわからぬ要望だとて、ことわっては男がすたる。「見本を見てもえいか?」と了承を得て、Googleで検索した画像のうち、いかにもそれらしい物をチョイスし、おもむろに描きはじめた。というぼくにはじつは、ウデに覚えがあった。ごくちいさいころから少年期後半に至るまで、絵やイラストの類は、ぼくの得意種目のひとつだったからだ。とはいえそこには、一抹の...言わぬが花

  • 転向の今

    日本プロ野球界のピッチャーにおける速球派(スピードボール中心)から軟投派(変化球中心)へのモデルチェンジの成功例といえば、まず思い浮かぶのが江夏豊だという事実は、ぼくがいかに今の野球を見ていないかということのあらわれだろうが、それはそれとして置いておく。そう、かなり以前からぼくは、「速球派」からのモデルチェンジを図ってきた。この10年足らずのあいだであれば、ことさらに鈍感であろうと努めてきたことが、その如実なあらわれであると言えるかもしれない。理由は、元来が過敏な質であるのに加え、ぼくが鋭敏であることが周囲にとって「よろしくない結果」を生じさせている現実と、それがさらに将来にわたってつづくことによって「よろしくない結果」が想定されたからだ。その目指すところの「鈍感」が、容易にわが身のものとならなかった原因...転向の今

  • ヒント

    生成AIは嘘をつく。嘘ではない。ちょっとでも生成AIをかじった人なら誰でもが知っている。たとえば、ChatGPT(3.5)に「三方良しの公共事業」について質問すると次のような答えが返ってきた。******「三方良し」は、公共事業やビジネスにおいて、関係者すべてに利益をもたらすことを指す言葉です。具体的な公共事業において「三方良し」を実現することは、関係する全ての当事者にとって良い結果をもたらすことを意味します。以下はその詳細です。当事者一:市民・利用者公共事業が提供するサービスや施設が市民や利用者にとって便利で質の高いものであること。安全性やアクセシビリティの向上、環境への配慮が考慮されていること。当事者二:事業主・実施者事業主や実施者にとって、プロジェクトが経済的に持続可能であり、収益を上げる機会を提供...ヒント

  • お湯と炭酸

    それが外と家とのどちらであるかに関わらず、焼酎はもっぱらソーダ割りだ。25度ならば息子の嫁が買ってくれた360ミリリットルが入る器に、焼酎が45ミリリットルに炭酸が135ミリリットル、つまり1:3がその割合であるものを2杯飲む。それがわが晩酌のスタンダードである。もちろん、興が乗ればその限りではないことは、あえて説明するまでもない。ここ数年、たいていの場合それは、奄美の黒糖焼酎だ。元々好きだったが、一昨年の奄美大島徳之島遠征をきっかけに、より「黒糖」びいきとなった。とはいえ昨今、一般的には焼酎といえば圧倒的に「芋」である。だが、そういったわけで、ぼくが自宅で「芋」を口にすることはほとんどない。かといって「芋」が嫌いなわけではない。毎夜ひたすら「芋」ばかりを何年もつづけたこともあった。つまり、ただ単に、今の...お湯と炭酸

  • 注ぐ

    新型コロナ感染症が5類へ移行してこの方、一部業界を除いては、すっかり「飲み」の会も元どおりになった。だが、そこでは「注ぐ」という行為がめっきり減ってしまっている。個々それぞれが自分固有の飲み物を自分の好きなペースで飲むというスタイルが一般的になったせいで、眼の前や隣りに座る人に酒やビールを「注ぐ」ということをしなくなってしまったのである。といっても、そもそもその傾向は「コロナ」以前にもあり、それがどんどんと顕著になってもいた。「コロナ」以降、それに拍車がかかっただけのことだから、「コロナ」が原因だという解釈は適切ではない。かつて内田樹は、その著『態度が悪くてすみません』(角川oneテーマ21)で、次のようなことを書いている。******液体や気体はほんらい分割しえないものである。分割しえないものは私的に所...注ぐ

  • 発端

    先日参加したある会合でのことだ。かねてわたされていた資料にもとづき、意見交換が進行していた。ファシリテーターがぼくに意見を求める。「災害復旧に携わってきた現場技術者として、災害復旧工事で生成系AIは使えると思いますか?」ぼくの答えはイエス。「ただし応急復旧において」という言葉を付け加えてのイエスだった。そのあと、思いつくままに縷々意見を述べた。ひとしきり言い終わったあと、別の参加者から指摘が入る。「たしかにそれはそうですけど、今言ったのは従来型AIの活用で、生成系AIはそうではないんです」しまった。と後悔してもすでに遅し。だが、ぼくの無知を蔑むでもなく非難するでもなく、その御仁は簡潔に語ってくれた。ここではせっかくだから、きのうiPhoneにインストールしたばかりのChatAIにそのちがいを説明してもらお...発端

  • 踏み出した一歩

    4時20分ごろ起床。久しぶりの早起きだ。スカッと目が覚めたので本を読むことにした。『教養としての生成AI』(清水亮、幻冬舎新書)、ぼくにとっては未知未踏の分野だが、遅まきながら足を踏み入れてみようと思う。小一時間ほど読み、ChatGPTを試してみようと思い立った。まず、きのうの稿(→『「書く」の現在地』)を要約してみて、とお願いした。瞬時にあらわれたのは次の文章だ。*******昨日、1時間かけて書いた記事は結論がまとまらず、アップロードせずに下書きとして保存した。以前は「ほぼ毎日=一話完結」の原則に従って、結論が上手くまとまらなくても無理にリリースしていた。執筆スタイルは「タイトル先行型」から「結論ありき型」へ変化し、現在は主に「書き出し先行型」を採用。自由なアプローチが変化に富んでいるが、「縛る」こと...踏み出した一歩

  • 「書く」の現在地

    きのう、小一時間ほどかけて書いた稿をアップロードはせずに下書きのまま閉じた。結論が上手くまとまらなかったからだ。これが以前、つまり「ほぼ毎日」を自らに課していたころならば、たとえば意に沿わぬ結論になっていたとしても、またたとえば結論らしきものが出ないままだったとしても、強引に完了させてリリースしていた。あくまでも原則的にではあるが、「ほぼ毎日」イコール「一話完結」、すなわち、テクストの内容よりも、兎にも角にもアップロードするという行為の方が第一義的だったからである。「書き方」にも色々さまざまな様態がある。ぼくの場合のそれは、このブログを開設した当初は「タイトル先行型」だった。つまり、表題を決めて、そこから筆を進めるというスタイルだ。今でもそれはないではない。だが、全体からみた割合では、ごく少ない。慣れてく...「書く」の現在地

  • 怖いけど跳べる

    NHK朝の連続ドラマ『ブギウギ』がおもしろく、夕餉がはじまるとすぐ、録画したのを観るのが日課となっている。横にいる妻は、同じものを朝に観ており、1日2回の視聴が常である。先日も、いつものようにそうしたあと、おもむろに妻が言った。「菊地凛子が出ちょったので今日は『あさイチ』も録画したけど、観る?」「え?わざわざオレのために?」「いやいや自分が観たいからよ」まったく「そうよ」と言えば可愛いものを、と口をついて出かかった言葉を飲みこんで、ひと呼吸。『ブギウギ』で菊地凛子が演ずるのは茨田りつ子。笠置シズ子がモデルの主役「福来スズ子」に対して、こちらのモデルは淡谷のり子。別に特段好きだと言うわけでもないが、なかなかの存在感がドラマを際立たせるひとつの要素となっている。そんな彼女が出演していると聞けば、答えはひとつだ...怖いけど跳べる

  • 長寿

    妻と牧野植物園へ行った。久方ぶりだ。入園チケットを買ったあと、何の気無しに振り返り、受付窓口の上にある掲示板を見ると「高知県内在住の65歳以上は無料」という文字があった。ダメで元々。申し出てみると、嫌な顔ひとつせず即座に妻と2人分の払い戻しに応じてくれた。出ていった金がそっくりそのまま戻ってきた、プラス、これからはタダで「マキノ」に来ることができる。このふたつが相まって、なんだかとても得した気分になった。長い時間をかけて園内をまわり、温室の横にある出口(南門)から出ようとするが締め切りとなっている。仕方なく少し戻って中門から出ようとしたとき、掲示板を確認してみると、そこには正門のような「高知県内在住の65歳以上は無料」という表示はなく、代わりに「高知県長寿手帳」を持参している者が無料となっていた。「これは...長寿

  • 夢の中へ

    深夜、親父に会った。といっても、彼が亡くなったのは1998年なのだから、当たり前のことだが実物ではない。夢のなかの彼は若い。三十代後半だろうか。いや、その姿はぼくが4~5歳だったころの写真に写っていた彼だったから、もっと若いのかもしれない。居酒屋らしき店の、木枠にガラスの引き戸をあけると、カウンターでコップ酒を飲んでいる彼がいた。コ形のカウンターの向こうには叔父たちがいる。不思議なことに叔父たちの年恰好はそれ相応だ。対してぼくは、今のぼくだ。目の前にいる親父の倍ほども年を食った、いわば爺さんだ。つまり、息子ほどの年格好である親父と、父親ほどの年齢である息子が相対した。戸を開けたぼくを横目で見ると、ニコリともせずに親父が言う。「どこへ行っちょった」といっても怒っているような口ぶりではない。ぼくはといえば、「...夢の中へ

  • (ぼくの)カラオケ異聞

    ぼくはカラオケを歌わない。というと嘘になる。正確に言うとカラオケの前に「めったに」という括弧がつく。かといって、カラオケが嫌いなわけではない。ちいさいころから歌うことは大好きだ。必然的に、純然な歌唱という行為であるカラオケが嫌いなわけはない。つまり、酒席で人に勧められて歌うのがイヤ、すなわち気乗りしないときに歌うのが嫌いなのである。といっても、歌が下手だからそうなったわけではない。自分で言うのもなんだが、むしろ上手な部類に入るはずだ。先日も、3人で飲みながら座談をしていたとき、旧知のひとりがぼくのことを指してこんなことを言った。もう一人は、昔のぼくをまったく知らない若い人だ。「カラオケ、歌わんかったよね」「うん、あんまりね」「今でも?」「今はあの頃よりもっと歌わんなった」「けど上手いよねえ」「うん、上手い...(ぼくの)カラオケ異聞

  • (8年越しの)鈍感力

    『鈍感力』(渡辺淳一)という本がベストセラーとなったのは平成20(2007)年。時の総理大臣であった安倍晋三を、前首相の小泉純一郎が、この言葉を用いて励ましたことで話題になったこともあり、当時、ちょっとした流行語になった。その残像が脳裏に残っているからだろう、ぼくのなかで「鈍感力」という言葉は、小泉元総理のものとしてある。で、五十路に足を踏み入れたばかりのぼくは、その言葉に対してどういう感想を抱いたか。否定はしなかった。たしかに、ナルホド、とうなずいた。「ある意味で必要なことだ」と思ったからである。だがその反面で、自らの思考あるいは行動にそれを取り入れようという考えは浮かんでこなかった。と、ここまで書いてキーボードを打つ手を止めた。もしや・・・と思い当たる節があったからである。さっそく「鈍感力」という検索...(8年越しの)鈍感力

  • 打てば響く

    「作用反作用」という。物体に力を加えると、必ず逆向きの力があらわれる。加えた力が作用、それによってあらわれた力が反作用。作用と反作用の大きさは等しく、互いに逆向きだ。これを「作用反作用の法則」という。別名は「運動の第3法則」、ニュートン力学における運動3法則のうち、「第1:慣性の法則」「第2:運動方程式」につづく3つめだというのがその名の所以である。作用には必ず反作用がはたらく。これは物理上の真理であるだけではなく、人と人との関係においてもまたそうだ。しかし、人間という生き物の場合には、それがシンプルにはあらわれない。たとえば、わたしが発する「言葉」という作用に対して、眼前に在る人の内部では反作用がはたらくけれど、それが言動としてあらわれるどうかは、その場その時、人それぞれによって異なってくる。「打てば響...打てば響く

  • 通詞として

    大手紙の記者をしているNさんとは、彼が県内の支局長として赴任していたころに知り合った。国文の徒から新聞記者という来歴があらわすように、筋金入りの国語者である彼は、ぼくの知人のなかでは飛び抜けた読書家であり、国語に関する博識と造詣の深さ、そして何より、いたずらに多数へ与することがないその「ものの見方」ゆえに、ぼくが一目も二目も置くひとだ。そんな彼があるSNSで、ぼくの誕生日に祝いの言葉をくれた。いわく『昔と今、現場と世間を繋ぐ「通詞」役、来年も期待しています。ご壮健でご活躍を。』通詞という、いかにも大時代な言葉が心にとまった。通詞と書いて「つうじ」と読む。通訳のことを江戸時代にそう呼んでいたという。その程度のことは知っているが・・・あらためてその意味を引いてみた。以下『デジタル大辞泉』より「通詞」とは、であ...通詞として

  • (インターネットの)恩恵と害悪と(のつづき)

    ある日のことだ。とあるメーカーの一眼レフカメラに、「あ、これイイな」と感じた。そして、それについて書かれたいくつかのサイトを見た。欲しい。見るたびに、どんどんと欲求がつもる。だが高い。今のぼくには高すぎる。それぐらいなんとかなるんじゃないか。別の自分から悪魔の囁きが発せられる。すんでのところで思いとどまった。するとその日から、というか大げさではなくそのすぐあとから、ぼくのChromeが一眼レフカメラで溢れた。そして、そのメーカーだけではない他メーカーの類似商品を含めたそれらが、夜毎日毎、ぼくの購買欲求を刺激する。この攻防戦の結果がどちらに転ぶか。今は買わないぼくが優勢だが、将来もそのままだとは断言できない。あゝ、なんてこったいと嘆息する。まったく、これだから「インターネットという暮らし」は嫌になる。ただぼ...(インターネットの)恩恵と害悪と(のつづき)

  • 恩恵と損害

    もともとそれほどいつもいつも料理をしているわけではなかったが、妻がフルタイムで働くのをやめてからは尚のこと、ほとんどしなくなった。とはいえまったくしないかといえばそうでもなく、彼女が忙しかったり、たまにぼくの気が向いたりしたときには台所に立つ。そんなときのおよそ9割方、つまりほぼ全てで頼るのがインターネットだ。たとえば冷蔵庫をのぞき、中に入っている食材を2~3チョイスし、それをキーワードに検索すると、まず余程でないかぎり、それらを組み合わせたレシピがヒットする。あとはその内で気に入ったやつ、あるいは、そこで用いられている調味料の有無などその時々の事情に当てはまる料理を選び、味付けと仕上がりの画像をアタマにインプットすれば、あとは実行あるのみだ。詳細な量とつくり方までは読まない。あくまでも見本、あるいは参考...恩恵と損害

  • 「降りるという方法」(つづき)

    考えてみれば「降りる」というのは当たり前のことだ。それをさも特別なことかのように書いた一昨日、書き終わってまた考えた。人は比べる。比べる基準は自分だ。ほとんどの人はそのことから抜け出すことができない。だから「降りる」を苦労する。当然だ。当人は「降りている」つもりなのだから。「降りる」先にある彼と我との差が大きければ大きいほど、その労苦もまた比例して大きくなる。これまた当然だ。あくまでも比べる基準は自分なのだから。その堂々巡りを解決するためにはどうすればよいのか。ひとつの方策は、誰かにその役割を代わってもらうというものだろう。それも、自分と彼とのあいだにあるほどにはその差が大きくない誰かにである。必然的にその誰かは、自分ほどには見識も実力もないということになる。ということは、自分だったら教えられることが、そ...「降りるという方法」(つづき)

  • 「降りる」という方法

    ******少なくとも今の私は、「上がって来い」ではなくて、「一旦降りて、一緒に上る」方法を採用しています。いわゆる手取り足取りとなる場合もあります。それが正しいかどうかは分かりません。暗中模索です。******2018年、『施工の神様』に載った高知大学原先生との対談(『【対談】図面通りに仕事したらいかん!「真の土木技術者」の条件とは何か?』のなか、他ならぬぼくの口から出た言葉だ。もちろん、そのときの言葉に嘘偽りはなく、今でも相変わらず「暗中模索」ではあるけれど、その考えと方法を捨てたつもりはない。ただ、自分では「降りた」つもりが、相手にとってはまだまだずっと上だった、ということがよくあるようだ。となると、どこまで降りればよいのかと、半笑いで首をふりふり途方に暮れてしまうこともある。もちろん、そこそこはデ...「降りる」という方法

  • ひと悶着 ~昭和53年春~

    朝、とあるSNSを開いた途端に、こんな文字が目に飛びこんできた。「人の悪口を言ったらダメですよ。いつも笑顔でいてください」瞬時にダークサイドのぼくが起動して、笑いながらこう言う。「なんならオレは笑顔で人の悪口を言うけどね」昭和53年早春の朝。国鉄天王寺駅。当時所属していた大学で一年後輩だったKが涙ながらにぼくに食ってかかっている。「あの人たちの目はキラキラしてるんです。ぼくはそれに惹かれたから彼らと行動を共にする。だから今後アナタとは一緒にできない」ぼくは大きく息を吸い込み、「アホかオマエ・・・」と吐く息とともにつぶやいたあと、ひと息入れてこう怒鳴った。「キラキラした目で人殺しするヤツもおるかもしれんやんけ!それでも評価するんか!!」駅を行き交う人たちの数名が思わずこちらを振り向いたのが視界に入ったが、言...ひと悶着~昭和53年春~

  • と思う

    「〜と思う」あるいは「〜と思います」語尾にそうつける言い回しが、かくも氾濫した原因は戦後民主主義教育だと喝破したのは上岡龍太郎である。その動画を今、YouTubeで見ることができる。たぶん25年ほど前のテレビ番組の録画だ。→『EXテレビOsaka上岡龍太郎超過激テレビ論を語る』その段を書き起こしてみた。******司会というのは、この頃アナウンサーもやればお笑い芸人もやりますし、それから、この頃ですと、元なになに、例えばスポーツ選手であるとか、あるいは大学教授であるとか、銀行員であるとか、いろんな人が司会しますよ。これは戦後民主主義教育の表れやというんですがね、断定的にものを言うことを怖がるんです。いちばん司会者に多い例が、「それでは今日も楽しく行ってみたいと思います。まず最初は、こういう曲から聞いてみた...と思う

  • 自己肯定

    かつてよく、ブレないひとだと言われたことがあった。もちろんそんなことがあるはずもない。昔も今も、ブレブレであることに変わりはない(というのがぼくの認識)。ところが、もともとがブレないという生き方に憧れはあるし、「ブレてるが何か?」と開き直れるほどの勇気も度胸もない。だからついつい、変わった自分を偽り、かつて述べていたであろうおのれの言説との整合性を図ろうとしてしまうことがある。そこらあたりが小心者だ。「オレは変わったのだ、文句があるか」という開き直りができない。そんなとき、「あー、つまらんな。だから近頃つまらんのだよ」と、おのれの書いたものとか言うことに溜息をついてしまう。万物流転。人もまた変わる。いや、変わるのが人だ。常々そう考え、言いつづけてきたではないか。「変節だ」と誹られるのを恐れていては、またそ...自己肯定

  • 首鼠両端

    この秋、「失敗」をテーマにした話をした。ある発注機関の職員さんたちに対する研修という名の講話である。そのなかで、さまざまな種類のバイアスについての話しもした。認知的バイアス、現在志向バイアス、確証バイアス、同調バイアス、正常性バイアス、などなど。それら人間の特性としてある多様なバイアスが要因となってヒューマンエラーが起こる。という切り口だ。一例をあげる。「批判的なものの見方を忘れると、自分が見つけたいものしか見つからない。自分がほしいものだけを探し、それを見つけて確証だととらえ、持論を脅かすものからは目をそむける。このやり方なら、誤った仮説にも都合のいい証拠をなんなく集めることができる」カール・ポパーが書いたこの文があらわすのは確証バイアスだ。ぼくがこれまで犯してきた主な失敗のいくつかは、見事にこれに当て...首鼠両端

  • ある言葉から

    あるSNSで、「動機善なりや私心なかりしか」という稲盛和夫の言葉を写した画像が、知人のタイムラインに踊っていた。墨痕鮮やかな字が、堂々として立派な言葉をより際立たせていた。ぼくはと言えば、思わず目をそむけてしまった。恥ずかしかったからである。たしかにぼくの底にある行動原理は、原則として「利他」であることにはちがいがないけれど、いつもその動機が「善」だとは限らないし、たとえ「善」だと自分では信じていても、見方を変えればそれは、正反対の場合もある。「私心」については、それはもう、他に言いようもないほど「私心」だらけだ。まさか、「私心」しかないとまでは卑下しないが、常に「私心」がつきまとって離れることはない。だからこそ「動機善なりや私心なかりしか」と自問して自らの行動をチェックする、という意味においては、その言...ある言葉から

  • キャラクターイメージ

    名刺交換をしようとしたその人は、「たしか以前に会ってるはずだと思うんですが」と言う。二十以上も年長のぼくを立ててくれているのか、その口調は控えめだが確信に満ちていた。そうなると、記憶力に自信がなくなってしまった近ごろのぼくは、とたんに弱気の虫に支配されてしまう。「あちゃーまた忘れてしまったのかオレは」「あの時か?それとも・・・」精一杯の記憶をたどってみるが、いっこうに思い出せない。数十分後、何人かで交わしている話の間隙を縫って名刺管理アプリの中を検索したが、やはりなかった。他人は知らないが、ぼくの名刺管理アプリには紙で保存していた名刺がすべて収められている。ということはすなわち、限りなく高い確率で、その人との名刺交換はなかったということだ。よかった。ほっと胸をなでおろす。となると、別にあえて決着をつけるほ...キャラクターイメージ

  • 師匠

    今日の高知新聞『読もっかこども高知新聞きょうの記者だより』に孫の投稿が載った。******日曜日はじゅう道の大会でした。1回せんから、学年で負けなしの、ナンバーワンの子が相手でした。こわかったけど、(行くぞ!)と思いながらとびこみました。けっかは、5秒で負けました。くやしかったです。******これぞハードボイルド。挑戦と悔恨を短く淡々と記した筆致に想いがあふれている。オチまでつけて、見事な起承転結だ。弟子入りしたい。そう思った。師匠

  • 「呑むこと」という方法

    同志が登壇するICT研修会に参加した。発表者は彼を含め3名。そのすべてが終わり、メニューの最後は質疑応答タイム。「質問はないでしょうか?」数秒おいて「ないようですね」と言った司会者においおい、いくらなんでも見切りが早すぎるんじゃないか?と心の内でツッコむと「それでは聴講者の方にあらかじめいただいている質問にお答えしていただきます」ナルホド。良し悪しは別として、そういうやり方もわからないではない。と聞いていたなかに「あたらしい技術の情報はどうやって仕入れるのですか?」という質問があった。それに対する質問先として指名された発表者2名の答えといえば、ごくごく真面目でさもありなんと思われるもの。ふたりには申し訳ないがそのままぼくの脳内を素通りしてどこかへ行ってしまった。その状況を思い出したのはその数時間後。もちも...「呑むこと」という方法

  • それぞれの「万国公法」

    8月に『全建ジャーナル』という全国建設業協会の広報誌に拙文を寄稿した。『いまの仕事の進め方、正しいですか?それとも間違っていますか?』という、全国各地の土木技術者が代るがわる受けもつ連載の第8回目だ。内容はといえば、ココでは再三書いてきたことのリメイクであり、読者さんにとって目あたらしいものはなにもないが、発表する媒体が異なったり、また字数の制約があったりすると、ダラダラと思いつきで書いている普段とは少しばかり雰囲気がちがうような感じを受けるから、我ながらおかしい。今朝、ひょんなことからそれを思い出したので転載する。(以下、『全建ジャーナル令和5年8月号』からの転載)******よくあるランキングに「好きな歴史上の人物は?」というものがあります。その時々の傾向があって、アンケートを実施する年によりランクに...それぞれの「万国公法」

  • たかが「ちょっとだけ」されど「ちょっとだけ」

    近ごろ桂二葉さんがお気に入りだ。ご存知ない方に説明しておくと、めきめき売出し中の若手落語家さんだ。ツイッター(どうも”X”と呼ぶのに拒否反応があるのです)でもフォローしている。彼女のきのうのツイート(どうも「ポスト」と呼ぶのに抵抗があるのです)はこんなだった。******あー、あそここない言うたらよかったのになぁと思うことばっかりで、嫌になるけど、あーあそここない言うたらよかったなぁと先週思ったことは今日ちょっとだけ言えたからよかったとする。来週もがんばろう。******読むなり心中で、「がんばりや」とつぶやいた。この発言でもっとも重要なのは、「先週思ったことが今日言えた」ではなく、その先、「ちょっとだけ言えたからよかったとする」だろう。「ちょっとだけ」を成功体験としてカウントするその思考だ。こんなふうに...たかが「ちょっとだけ」されど「ちょっとだけ」

  • 「何を写すか」と「何が写っているか」

    先日、あるSNSに投稿した写真に対してコメントをもらった。「何を写すかもそうだが何が写っているかが重要。そういう意味でグッジョブ」ふむ・・・コメントを読むなり、天井を仰いで考えた。写真には、いつになく自然体な笑顔のぼくと、その背景にはまだ何ができるか判別できないような状態の構造物。つまり、現場にいるぼくの写真だ。ということはもちろん、他人が撮った。しかも、写真を撮るという行為なぞとはほぼ無縁であろうと推測される現場の人が、「オレも撮ってよ」とぼくが渡したiPhoneで撮った。たしかに、そこに納められたぼくの笑顔は彼我の関係性をあらわしている。その人の存在が、ぼくをしてその顔にさせたのはまちがいない。しかし、構図は偶然だろう。たまたま彼の立ち位置とぼくの立ち位置の延長線上に施工中の構造物があった。しかも絶妙...「何を写すか」と「何が写っているか」

  • メッキのひと

    口に出す出さないは別として、相対する人の物言いに反応することは多い。「そういうものの言い方はないんじゃないか?」というやつだ。その言葉が意味する本質ではなく、皮相の表現方法にムッとしたりカチンと来たり。まずはそこで第一印象がかたちづくられ、相手が言ったことの本質がよいかわるいかを吟味することはない。どころかその第一印象に直感で反応する。そうなると会話があらぬ方向に行ってしまうか、会話自体が成り立たない。余人は知らないが、ぼくにはよくあることだ。あとになって冷静に考えてみると、うん、彼(彼女)が言わんとしていたことは正しいかもしれない、なのにその機会を損なわせてしまったのはぼくの感情的な反応のせいだ。そう反省することもしばしばだ。ではどうすればよいのか。答えはとっくの昔に出ている。何度かココにも書いた。判断...メッキのひと

  • 「思い出」発「現在地」考

    「アンタには現場を選ぶ権利がない」クルマの助手席で笑いながらそう言い放ったのはボスで、もう20年以上も前のこと。「次はどこそこの現場がいいですね」と、まだ経験したことがない種類の工事を担当してみたい旨の希望を口にしたぼくへの返答だった。「いや、選択権がないのはわかってますが、希望ぐらいは口にしてもいいんじゃないですか?」ハンドルを握るぼくがささやかな抵抗を試みると、「口にするだけやったらしてもええけど、まずそのとおりにはならんな」つまり、彼が決めた仕事をするしか道はないという宣告だ。それはそれで雇われ人という立場なのだもの、従う他はない。だが、やっかいな工事をひとつかたづけたばかりで、達成感と開放感に満ちあふれたときに聞きたい言葉ではなかった。「アタシに回ってくるのはは難儀な仕事ばっかり。たまには◯◯さん...「思い出」発「現在地」考

  • 年賀状の廃止が SDGs の一環とはこれ如何に

    ぼくは年賀状を出さない人である。いつからそうしたのか確かな記憶はないけれど、そうしはじめてから十数年にはなっているはずだ。そうなったキッカケは別にない。誰に影響されたわけでもない。ある年から自分勝手にそうすることにした。最初は、浮世の義理を果たさないということに対する負い目のようなものもあった。なにより毎年送ってくれる相手への心苦しさがあった。だが、そのうちそれもほとんどなくなって久しい。とはいえ、その行為がよいのかわるいのかといえば、世間一般の儀礼を省略するという意味で、あまり褒められたものではないという認識はずっとあった。つい先日、年賀状を取りやめる企業が多くなっていることを、あるSNSで知った。そこには「新年のご挨拶を控えさせていただきます」というハガキの画像が2つ、実例として添えられていた。ひとつ...年賀状の廃止がSDGsの一環とはこれ如何に

  • 消したことば

    「どうしたら僕は、この組織から必要とされなくなるだろう?」ぼくのスマートフォンには、12時きっかりに通知音とともにこの文字が浮き上がってくる。iPhoneデフォルトのリマインダーアプリでそう設定しようと思いついたのは今年の5月末。→『「どうしたら僕は、この組織から必要とされなくなるだろう?」という問いかけ』ある出会いからだった。そのココロはこうだ。自らが「必要とされなくなる」ためには、自分のアタマで考え自分の身体で行動する人たちを育てなければならない。そういう人たちが育ったときに、自分自身の存在は「必要とされなくなる」。それから半年のあいだ毎日、ぼくのスマートフォンは正午のおとずれを知らせるとともに、必ずその問いかけを発し、リマインドすることを主人であるぼくに強制しつづけてきた。それに対して少々違和感を感...消したことば

  • そこそこ

    「まさに絵心というやつですね」あるSNSに投稿した、水が入ったコップを写しただけのぼくの写真に知人がくれたコメントだ。ナルホド。ぼくの作品を評した言葉のなかで、ぼく自身がこれほど得心したものは、これまでにないなと感心した。テクニックがあるかというと、特筆するようなものは別にない。特別な感性があるかというと、特段すぐれたものがあるわけでもない。冗談半分本気半分で「写真は愛だ」とはよく言うが、いつもいつでも「愛」をもって対象にのぞむなど出来得るはずもない。だが「そこそこイケルね」という自信はある。と同時に「そこそこでしかないな」と落胆することもママあることだ。そんなぼくが撮る写真のどこがよいのか。それを端的にあらわしたのが、知人がいうところの「絵心」なのではないか、そんな気がした。もちろん、わるい気はしない。...そこそこ

  • 「浅田次郎」

    しばらく前から、「浅田次郎」を読み「浅田次郎」を聴いている。小説である。読むのはKindleで聴くのはAudibleだ。それほど「浅田次郎」まみれになっていると、話の展開がごちゃごちゃになってしまうことがある。つい数日前、「読む」の方の間を少しあけたら、どの物語だったかを判別することができなくなってしまったことがあり、仕方がないのでわかる箇所まで戻って読み直した。まったくこの老頭児ときたら、聖徳太子の7人にはおよばないが、3人ぐらいなら同時に話を聞いて内容を理解し反応を返すこともできた若いころの頭脳はどこへやら、ポンコツもよいところだ。なんてこともありつつ、「浅田次郎」を読み「浅田次郎」を聴いている。今読んでいるのは『終わらざる夏(上)』だ。途中、写真見合いで再婚した互いに不幸な過去を持つ男女が出てくるシ...「浅田次郎」

  • 老頭児

    ロートル。。。令和5年の今ではほとんど聞かれなくなったが、かつてはよくプロスポーツの世界などで使われた言葉で、あまり役に立たないベテラン選手などを指してそう言った。現代語に置き換えるとすると、ポンコツとでもいうような意味である。ロートル。。。片仮名表記なものだから、つい最近まで英米語由来だと思っていたが、じつはそのもとは中国語であり、年寄りや老人を意味する「老頭児」を由来としている単語らしい。さしずめラオトールとでも発語するのだろうか。近くには中国語話者がおらず、想像するしかない。ロートル。。。一般的には随分とくたびれたイメージをもつ言葉だが、「老頭児」と漢字で書くとなんだか少し可愛らしく思えてくるから不思議だ。それもそのはず、中国語で年寄りをあらわす語句には、他に「老頭子」があるが、それはどちらかといえ...老頭児

  • 「控える」ということ

    「呑んでいいですか?」という問いに対して「控えてください」あるいは「控えたほうがいいですね」という答えが返ってくる。医者と患者の会話としては、よくあるものだろう。「いや、そもそもそういう問いかけをする人なぞはそうそういるものではないし」という反論は、この際却下させていただく。少なくともぼくの場合はよくあるからだ。つい先日、この件で知人女性とちょっとした論争になった。「呑んだんですか?」「呑んだよ。やめろ、って言われてないもん」「じゃあお医者さんはなんて言ったんですか?」「控えてくださいって」「”控える”っていうのは、やめろっていうことですよ。知らなかったんですか?」「ちゃうって。”控える”っていうのは控えめにすることやんか」「外出を”控える”っていったら外へ出ないことでしょう?」「そ、それは・・・」「お医...「控える」ということ

  • 独白

    おのれの限界が見えたのはいつごろだったろうか。記憶にあるそのはじめは22歳のとき、東大阪市のとある駅の前にある公衆電話で親父と交わした会話だった。内容は・・・いずれ気が向いたら書くときもあるだろうが、今は書かない。不遜にも、そのころまでは、大げさに言えば何でもできると思っていた。だがそれは、限界が見えていなかっただけのことだ。当時の自分を思い起こせば、若気の至りとはいえ恥ずかしいことこの上ない。とはいえ、そこから先も、見えた限界を信じようとはせず、それに対して抗いつづけた。はっきりとわかったのは、三十を過ぎたあたりからだ。だが今になって思えば、そこからが実際にホンモノとなるための現実的プロセスのはじまりだった。とはいっても、もちろんそれまでの自分を否定するつもりはないし、そのころが今のぼくの基礎であること...独白

  • 酒あり飲むべし

    比較的きれいな酒呑みだと思う。自分だけではなく、他人からそう評されることも少なくない。自他ともに認めているというやつだ。といえば、なんだか少し格好をつけすぎなような気もしないではないが、事実そうであるらしいのだからまあよいだろう。とはいっても、十代後半からの長い酒呑み人生だ。泥酔して前後不覚になったことは何度もあるし(そもそもそんな状態になってしまえばカウントのしようもないが)、九死に一生を得るような体験だってないではない。酒席での失敗なぞは枚挙のいとまもない。そんなこんなを思い起こせば、齢を重ね歳をとり、ようやっと分別ができたというのが実際のところだろう。だがそれも、体というハードウェア面から見ると、本当に分別ができたのかどうか怪しくなってくる。齢を重ね歳をとったということは、すなわち、無理が効かなくな...酒あり飲むべし

  • 持ちつ持たれつ

    昨年度のはじめごろから、「公共建設工事における発注者と受注者の関係」を考えるすべとして、落語『百年目』を引っ張り出して使っている。次のようなあらすじだ。ある大店の番頭さん。仕事をさせれば誰もかなうものがなく、店では口うるさい堅物で通っているものの、その実像はたいそうな遊び人だ。ある日のこと、いつものように小言幸兵衛、当たる所かまわず店の者たちを叱りつけたあと、仕事に行くと見せかけて外へ出たが、じつはさにあらず。芸者や幇間をおおぜい連れて屋形船に乗り、花見見物へと出かける。最初はバレないようにと気をつけ、おとなしくしていたが、船中でしこたま飲むと段々気が大きくなってきて、船をおり、とんでもない格好をしてどんちゃん騒ぎで遊んでいるところへ、通りかかった店の旦那さんと遭遇した。それまで隠していた遊び人である実像...持ちつ持たれつ

  • 鏡の中の爺さん

    大鏡の前で叩く。それは、人に見てもらうということを前提とした行為である「太鼓」というパフォーマンスにとって、重要な意味をもつ稽古であるとぼくは信じている。特にその効果が顕著なのは子どもの場合だ。「叩く自分」を直視して、どこが良くてどこがわるいかを把握する。ところが、まずその時点でそれができる子とできない子がいる。自分自身の姿を正しく把握できない子がいるのである。そんなとき、いわゆる「手取り足取り」は基本的にしない方針のぼくだが、そこでは例外的に、文字どおり手を取り足を取って「正しい姿勢」を伝える。そしてそれを目で見て身体で確認し、次へと活かしてもらう。とはいえ、そこからがむずかしい。たとえ自らの現状を認識しアタマで理解できたとしても、自分自身の身体を意のままに動かすというのは、子どもたちのみならず、大人に...鏡の中の爺さん

  • 秋田県知事の「例の発言」に対するぼくの考え

    さて、どうやらほとぼりも少し冷めてきたようだから、例の件についてぼくの考えを記しておきたい。例の件とは・・・読者の皆さんなら、「はて、アイツはどう感じたのだろうか。さぞかし怒っているだろう」と思われたにちがいない、秋田県知事佐竹敬久氏による「対四国宣戦布告(笑)」発言である。今さらではあるが、初報となった秋田の地元紙から引いてみる。******秋田県の佐竹敬久知事は23日、秋田市の秋田キャッスルホテルで開かれた「秋田の未来を創る協議会」の設立会議で講演し、過去に全国知事会で訪れた四国地方で食べた料理や飲んだ酒を「貧乏くさい」「うまくない」とけなした。(2023.10.23秋田魁新報電子版より)******まず第一報に接したときの感想を記してみる。大方の皆さんの予想を裏切るが、まったく腹は立たなかった。なぜ...秋田県知事の「例の発言」に対するぼくの考え

  • 三硝酸グリセリン

    「三硝酸グリセリンは甘い」オーディブルから聴こえてきたその発言を耳にするなり、「ヘェ〜ホンマやったがや」と感心すると同時に、ある人の顔を思い浮かべた。三硝酸グリセリン。大方の人には耳慣れない単語だろう。『世界大百科事典』(平凡社)より意味を引いてみる。******ヨウ化メチルと硫酸銀とを高温で反応させて製造する。ダイナマイトの基剤としてよく知られているニトログリセリンはグリセリンの硝酸エステルで,正しくは三硝酸グリセリンと呼ばれ,グリセリンを冷却した1:1混酸(硫酸+硝酸)中に滴下して得られる。******そう、いわゆるニトロだ。そして、顔を思い出した「ある人」とは、同業の大先輩。既に故人となって久しい。若年のころより土方稼業に勤しんできた彼は、ぼくより20以上は年嵩で、ということはつまり、まるで機械化な...三硝酸グリセリン

  • シンプルで行こう

    時として事実は、想定していた近未来を破壊するような現実を突きつけてくる。しかもそれがやって来るのはいつも突然で、その方角はといえばたとえば斜めうしろあたり。つまり、まったく思いもかけない時と場所とであるから、その破壊力は殊のほか大きい。となるとなおさら、その事実は受け入れがたいものとなり、アレヤコレヤと考えをめぐらせ、問題をよりややこしく、より複雑な方へと導いてしまう。そんなときに肝要なのは、「開きなおる」(もちろんよい意味で)という態度だ。そしてその姿勢は、「シンプルに考える」ことから生まれる。「ものごとはそもそもシンプルである」その筋の人ならみんなご存知、TOC(制約理論)の4本柱のうちのひとつである。この言葉に出会ったときの衝撃は今でも覚えている。感動的ですらあった。それから17年。今のぼくはこう感...シンプルで行こう

  • サラダ記念日

    朝、俵万智さんが紫綬褒章を受けたというニュースに接する。「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日調べてみると、彼女を一躍ビッグネームにした歌集『サラダ記念日』の初版が出たのは1987年5月だったようだ。ぼくが書店でそれを見つけ、即座に買ったそのとき、かたわらには背中に長女をおぶった妻がいたという記憶がある。昭和62年、ぼくの身勝手に端を発した、数年にわたるぼくたち家族の激動がはじまった年だ。次の年になると、次女が生まれた。「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ山の上の住宅地にある古い平屋建ての借家で、若い夫婦と幼い子どもふたりの4人暮らし。たしかに、ぼくの仕事の上では「激動」にちがいなかったけれど、そのころ列島を席巻していたバブル景気とはまったく無縁な倹しい家族の日常...サラダ記念日

  • アウトプットのすすめ

    「そんなに多いんだったらイヤです」という彼の言葉が意外だったのは、それがぼくの感覚とはまるで逆だったからにちがいない。それは、ある講話を引き受けてくれないかとぼくが打診したあとに、目の前の若者が返した言葉だった。ぼくはというとそれに対して、ほお~、と声をあげたあとこのような旨の言葉をつづけた。自分はそれと正反対。少人数を相手にする方がイヤで、その逆にいくら人数が多くてもあまり気にならない。どころかむしろ、人数が多いほうが好きかもしれない。表情がハッキリと見えると緊張するから少人数はイヤだ。ちょうどその前日、聴講者12名に主催者が1名という、ごくごく小規模の研修会で講師を務めていたぼくは、かねてより抱いていたそれを、またまた体感したばかりで、いわばほやほやだったものだから、なおさらのように実感がこもっていた...アウトプットのすすめ

  • 失敗ありき

    「希望的観測」という言葉の初出はクレメンス・メッケルだという。明治時代に陸軍が招聘したドイツ軍の参謀である。彼は、日本の軍人をこう評価した。「彼らは総じて優秀であるが、一点だけ軍人として致命的な性格を共有する。規模の大小に関わらず、まず理想の戦果を特定し、ひたすらそれに向かって作戦を立案する癖である。すなわち、敗北、撤退、混乱といった戦場に充満せる負の要素を一切想定せず希望的観測によってのみ戦争を遂行せんとするのである」という逸話をオーディブルで聴いたのはきのう、『失敗から学ぶ現場監督技術』というお題(リクエストされたテーマです)を講じた県技術職員研修会からの帰路、高知市から東へ向かう高速道路を走るクルマのなかだった。すぐにその小説(浅田次郎『長く高い壁』)の再生を停止した。結局、話の流れで実現することは...失敗ありき

  • JK気分

    先週末、安芸高校機械土木科土木専攻で行われた中学生体験入学に助っ人として参加した。旧安芸桜ケ丘高校時代を含め3年連続、つごう3度目の「土木とは?」だが、同じことをつづけていては能がないというかバカである。なので今回は、講義形式のしゃべりをぐっと減らし、生徒たちとのコラボレーションで何かをやってみようと案を練った結果、中学生たちの目前でかんたんな3次元モデルを作成し、3Dプリンターで印刷したそのミニチュアモデルを教員保護者を含めた参加者全員に配ろうということになった。SketchUpでモデリングのデモンストレーションをしたのは、ヒューム管とテトラポッド。そのうち印刷したのはテトラの方だ。じつはこれ、今年の文化祭で販売したという実績があるらしく、他学科の生徒(特にJK)たちには「かわいい!」とすこぶる好評だっ...JK気分

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