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2008/07/22

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  • チームの種類(2)

    答えは・・・そのうち見つかるのでしょうか、はてさて如何あいなりますやら。ぼくの場合、山々が産気づいても結局出てきたのはネズミ一匹、なんて例は枚挙にいとまがありません。ゆるゆると考えていくこととしましょう。と、いかにも未来に期待を抱かせるような書きようで締めくくったきのう。その一助とすべく、試しにと『ぼけと利他』を開いて、くだんの箇所までページをめくってみると、なんと、そのあとにすぐ、一応の「答え」はあったのです。あゝ、なんとしたことでしょうかと嘆きつつ、きのう引用した最後の部分も含めて、ふたたび引いてみることにします。******冒険には焚き火が必要ですが、生活は意志の力だけではどうにもなりません。生活において偉大なのはむしろ気分の力です。「こうしよう」と威勢のいいかけ声をかけるリーダーシップ、あるいは自...チームの種類(2)

  • チームの種類

    『ぼけと利他』(伊藤亜紗&村瀬考生、ミシマ社)に次のような記述があります。というか、その箇所を写真に撮ってスマホに納めていたことに、不要な画像を削除していたきのう、気づいたのです。書き出しは「チームにはふたつの種類がある」です。******ひとつ目は、みんなで火を囲んで同心円状に集まる「焚き火」タイプ。これは「意志」によって焚きつけられた集団で、お互いの顔が見えています。火の近くは熱いくらいですが、遠ざかるにつれて、徐々に熱は弱まっていきます。もうひとつはみんなで同じお湯に浸かっている「温泉」タイプ。温泉に入ると他人同士無言で、お互い目が合わないようにしていたりもするけれど、お湯という同じ「気分」には浸かっています。お湯に入っていさえすれば、温度はどこもだいたい同じです。冒険には焚き火が必要ですが、生活は...チームの種類

  • 認めて許せ

    ある日の朝餉でのことです。箸立てから自分のものをとろうとしたとき、「ん?どっちだ?」とアタマをひねったのは、そこにいつものぼくの箸と似た色のものが隣り合わせていたからでした。念のためにと、ひと揃えずつを合わせ、確かめてから席につき、おもむろに味噌汁をすすります。なんとしたことでしょう。口に入れた途端、念を入れて揃えたはずのその箸が、ちがう組み合わせだったことに気づきます。しかも、よく見ると似た色だと思っていたそれは、ただ暗色だということだけが同じで、柄もちがうしサイズもちがう。どこからどう見れば似ていると思えるのか、不思議にさえ感じるほど異なった物なのでした。あいやこりゃまたどうしたことかと、あまりのバカさ加減に思わず吹き出しそうになったぼくは、そんな恥ずかしいことはゼッタイ妻に悟られてはならないと、笑い...認めて許せ

  • 老人と髪

    人は歳をとります。そして老いていきます。その向こうには死があります。誰しもが避けようがないこの事実を、ぼくはようやく実感として認識できるようになりました。現代日本における「老」をめぐる問題でもっとも切実なもののひとつが介護でしょう。その程度をあらわす指標として、「要介護度」があります。といっても実感としてピンとくる人はそうそういないのかもしれません。そういうぼくも、その言葉自体はよく聞くにしても、くわしく説明せよと言われるとたちまち答えに窮してしまうにちがいないのですから、他人のことを言う資格はないのです。ということで、きちんと調べてみました。介護レベルや認定区分という呼び方をされることもあるそれは、かんたんにいうと「介護の必要性の程度をあらわす指標」、公的介護保険制度における要介護認定申請の際に判定され...老人と髪

  • 母子あり

    先日、羽田から高知空港へ向かう飛行機のなかでのことです。グループ5の内側席だったぼくが、ほとんど殿(しんがり)で乗りこむと、当然のことながら窓側と真ん中には既に先客がいました。幼い姉妹を2人連れた若い女性です。もっともそれは、想定をしていたことでした。というのも、ぼくが予約した1週間前にはほぼ満席だった座席には、ぼくの選択肢が入る余地はほとんどなく、横も幼児、前も幼児という、多くの人が敬遠しがちな席を指定する他、みっつかよっつしか空きがなかったからです。といっても、ぼくがそれを嫌がっていたわけではありません。なんとなればぼくは、他人より増して子ども好きであり、狭い飛行機のなかで乳幼児が泣いたとしても、もちろんそれを気にしないことはないのですが、それが原因でイライラすることはありません。なんならば、周囲に気...母子あり

  • オレ記念日

    ぼくがぼくをあらわす一人称は、ここでは「ぼく」ですが、会社や家庭ではちがいます。大まかに分けるとそれは、フォーマルあるいはオフィシャルには「わたし」で、カジュアルもしくはプライベートでは「オレ」、となります。つまり、「ぼく」という一人称は、ここだけで用いられる特殊なものなのです。「わたし」については、それを使いはじめた頃の確たる記憶があります。社会人になってすぐのことです。当時の上司との会話のなかで自らを「ぼく」と称したぼくに、「それは社会人が使うものではない。私と言いなさい」と嗜めると同時に指導した7つ年長の彼の言葉にしたがって以来、ぼくは「私」になりました。一方オレは、いつの頃からそうなったのか。これについては確かな記憶がありませんし、何か信念めいたものがあったわけでもありません。わかっているのは、ど...オレ記念日

  • 時間が速くたつ理由

    「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する」これをジャネーの法則と言います。たとえば「1年」を例にとりましょう。現在ぼくには3人の孫がいますが、最年長は10歳。66歳のぼくと、その約7分の1ほどしか生きていない彼とでは体感時間がまるでちがいます。というように、歳をとるにつれて自分の人生における「1年」の比率がちいさくなるので、体感として時間が早く過ぎると感じてしまうということです。以前、このことを調べていたとき、北祐会神経内科病院『北祐会ブログ』というサイトでわかりやすい表をみつけていたので、ちょっと拝借してみますね。これによると、1歳の赤ちゃんにとって1年は365日ですが、10歳にとっては37日、66歳のぼくに至っては、なんと6日でしかないということになります。彼我の比は37:6≒6:1。...時間が速くたつ理由

  • 「たがや」という落語があります。「たが」は箍。主人公は箍をつくる職人。つまり箍屋です。舞台は両国の川びらきに打ちあげられる花火見物客でごった返す橋の上で、ご存知「た~まや~」という掛け声と、「たがや」とをかけたダジャレで終わる地口オチの代表格ともいえる古典です。箍とは、桶や樽の外側を締める木や鉄でできた輪っかのことです。今では意匠としてしか存在しないものが多いのですが、ぼくがちいさかった頃にはまだ、タガが締まってなければその機能を発揮しない桶や樽が現役のモノとしてありました。そこから派生したのが「タガを締める」や「タガがゆるむ」、あるいは「タガが外れる」といった言葉です。「タガを締める」。ゆるんだ気持ちや規律を引き締めることを指します。対して「タガがゆるむ」は、緊張が弛んで締まりがなくなることを言います。...箍

  • 「継続は力なり」を考える

    「継続する力」があるかないか「継続は力なり」と言います。例によって、ある日ふと疑問に思ったのです。「はて、何がちからなのだろうか」と。1.継続するという行為が「力」を生み出すから「継続は力なり」なのか。2.「力」がなければ継続することができないから「継続は力なり」なのか。いったいどちらなのだろうかと。今さらではあるのです。そして、そんなことも知らずに使っていたのかオマエは、と笑われそうです。もちろんぼくとて、闇雲に使っていたわけではないのですが、「ではあらためて」と検索してみたのです。正解は、みなさんご存知のとおり、一般的には1です。ぼくの考えももまた同じでした。たしかにそれは、まちがいではありません。とにかく「つづける」。そうすることによって、結果がついてくる場合は、たしかに数多くありますし、ぼくもまた...「継続は力なり」を考える

  • メガネをなくした爺さん

    「目をなくしたカバ」という寓話が教えてくれるものは、「やみくもの愚かさ」でもあります。闇に雲と書いてやみくも。名詞または形容動詞としては、先の見通しもなくむやみに事をすることや、そのさまを指す言葉です。「むやみやたらに」という副詞としての使い方もあります。いずれにしても、褒められたことではありませんが、世の中には、ついついそうなってしまうという類の人間がいます。誰あろう、このぼくもその内のひとりです。たとえば「目をなくしたカバ」に登場するバカなカバのように、なにかを失くしてしまったとします。といってもそれは、本当の意味で失くしたものではありません。どこかに置いてあるけれど、その場所がわからない、という意味での「失くした」、つまり、きちんと探せば見つかるという種類のものです。そうそう、ぼくは今、『ぼけと利他...メガネをなくした爺さん

  • 「目をなくしたカバ」ふたたび

    目をなくしたカバきのう、かつて『「目をなくしたカバ」が教えてくれたもの』というテキストを書いていた(2021年6月11日)のを教えてくれたのは、当ブログのスマホ画面の下の方にある「人気記事」一覧でした。どうやら、「検索」でアクセスしてきた人が相当数いたようです。そういえば・・・と思い起こすと、そのような記事を書いた記憶がよみがえってきました。「目をなくしたカバ」とは寓話のタイトルです。せっかくですので、3年前と同様に、内容を『座右の寓話』(戸田智弘、ディスカヴァー携書)から引いてみましょう。******一頭のカバが川を渡っているときに自分の片方の目をなくした。カバは必死になって目を探した。前を見たり、後ろを見たり、右側を見たり、左側を見たり、体の下を見たりしたが、目は見つからない。川岸にいる鳥や動物たちは...「目をなくしたカバ」ふたたび

  • 令和6年のモデルチェンジ

    じつに私的極まりない「建設DX」についての論考を書いているうちに、このブログをはじめてから丸16年が過ぎ、17年目に突入していました。といっても、15年という節目を迎えた昨年には、いったんやめるという選択をしたあと、3ヶ月が経過してまたリスタートしたのですから、これを連続したものとして捉えるかどうかは、ビミョーなところがあるのも事実です。ともあれ16年です。オギャーと産まれた赤ん坊が高校一年生になってしまうほどの歳月であり、ニキビヅラの高校球児がベテランプロ野球選手と呼ばれるようになってしまうほどの歳月であり、65歳で定年退職した爺さんが、八十過ぎの爺さんになってしまうほどの歳月です(どっちも爺さんですが)。漫然とつづけるだけでは、惰性に陥ってしまうのは必至です。それがマイナーチェンジかフルモデルチェンジ...令和6年のモデルチェンジ

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その14 ~ 階上、階下を笑うべからず。

    いったん「お終い」としてケリをつけたつもりでしたが、案の定、というべきか、いつものように、というべきか、気がつけば、思い出したかのように思索を進めている自分がいます。とあれば、当然のことですが出力せねばなりません。13回で終わった連続物としての『〈私的〉建設DX〈考〉』とは別に、随時つれづれなるままに綴っていこうと思います。ですから、便宜上の通し番号(その〇〇)は振っていますが、ここから先は、必ずしも「前項を受けて」とはならず単発です。いや、そうなるかどうかさえ定かではありません。なんとなれば、そう思いついたはよいが今日このテキストを最後にあとはなし、ということにもなりかねないのですから。ということで、『〈私的〉建設DX〈考〉』、前回までとつながってはいますが、直接的に「その13」を受けてはいない「その1...〈私的〉建設DX〈考〉その14~階上、階下を笑うべからず。

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その13 〜 余録です

    余録です。結局のところ、(デジタル化を手段として)「変わりつづける」ことで、「あらたな仕事のやり方」を見つけ(それもまた「変わりつづける」のですけど)、組織の文化を変えていくことが、ぼくの考える(中小建設業の)建設DXなのです。という締めくくりでこの連投を終えたあと、手にとった本は南直哉『刺さる言葉』でした。といっても、何の関連もありません。ただの思いつきです。しかも、初読ではありません。二度目です。思うところあって、初読再読を含め、直哉さんに浸ってみようかと考えていたからです(と思い立ってから3冊読んだあと、ミシマ社の「利他本」を2つ読んでいるのですから、相変わらず移り気ではありますが)。読み始める、すぐに出会ったのがこんな文章でした。******「好きでやっている坐禅は凡夫だな。しなければならなくてや...〈私的〉建設DX〈考〉その13〜余録です

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その12 〜 結(のようなもの)

    あらためてことわっておきますが、ぼくは、デジタル化をすればそれですべてが上手く行くなどという、能天気な考えの持ち主ではないし、デジタル化の行く末にあるのがバラ色の未来だとも思っていません。心の底を吐露するならば、むしろ懐疑的な想いのほうが強い。しかしぼくは、こと土木という仕事においてはデジタルに賭けてみようと思い、それを実践するという道を選びました。であれば、そこにおいてのぼく自身は、引き裂かれた己と向き合うことを余儀なくされてしまいます。とはいえぼくという人間は、それがデジタルであるかないかにかかわらず、テクノロジーというやつを全肯定できない心持ちを常に自らのなかに抱えながら土木「工学」と向き合ってきました。土木には、「工学」としての側面とそれだけでは測ることができない部分とがあるというのが、土木屋とし...〈私的〉建設DX〈考〉その12〜結(のようなもの)

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