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2008/07/22

  • 年相応

    そこに書かれている「シニア(65歳以上)という文字を、たしかに視線は捉えていたはずなのだが、なぜだか無視して「一般」入場料300円を払おうと百円玉を3枚差し出したわたし。高知への復路フライトまでの時間調整にと立ち寄った浜離宮恩賜庭園でのことである。窓口の女性が何かをたずねているが、聞きとりにくい。GoogleMapの経路案内を聞くためにつけていたイヤホンのせいだと気づき、外して聞き直すと、今度はハッキリとわかった。「お生まれは何年ですか?」「昭和32年」即答すると同時に質問の意図を理解した。あらためて前にある料金表に目を移し、「シニア(65歳以上)150円」という文字を確認し、「あ、150円でいいんですね」「ハイ」眼前の女性がにっこりと笑って応える。少なからずショックを受けた。というのも、常日ごろ「若い」...年相応

  • お上りさん

    東京にいる。いつ以来だろうか。指折り数えてみた。1、2、3・・・10、11。11ヶ月ぶりだった。わたしの場合、旅先での朝は散歩と相場が決まっているが、今日はなんだか気が進まない。昨夜の酒のせいではない。ビル街を想像しただけで気持ちが萎えてしまったのだ。とはいえ百聞は一見に如かずだ。カーテンをあけ、窓の外に目をやってみる。ビルとビルのあいだから紅白の塔がそびえ立っていた。東京タワーだ。たまには「お上りさん」もよいだろうと、そこまで歩いてみることにした。大都会とはいえ早朝だ。人もクルマもその数はごくごく少ない。東京タワー通りを抜けると、車道に鳩がいた。しかも2羽。のんびりとした気分で歩いていると、朝からものものしく警備中の建物にさしかかる。ロシア大使館だ。警備員の視線が痛い。足早に通り過ぎ、芝公園に入る。新緑...お上りさん

  • 「スマ的」に

    縁戚がマグロ船に乗っている関係で、年に一度は上等のマグロが手に入る。世間一般に言われるほどには、マグロという食べ物に対してありがたみを感じないわたしだが、そのときはチトちがう。あたりまえだ。すこぶる付きの上等品なのに加え、肉親の情というやつが入っている。ありがたくないわけがないし、美味くないわけもない。先日、高知市内の料理屋で美味いカツオを食べた。山村に暮らす身であれば、めったにお目にかかることができないほどの代物だった。道に例えると、カツオはメインロードである。他県民ならいざ知らず、少なくとも高知で暮らす人間の多くにとっては主要幹線道路だろう。マグロとなるとさらにその上をゆく。さしずめ王道だ。スマという魚がある。パッと見がカツオに似ているし、スマガツオなどと呼ばれることもあり、カツオの種類だと勘違いされ...「スマ的」に

  • 風塵

    2022年の9月5日、『神経衰弱』と題した稿を書いた。全文を再掲する。******なぜあのカードゲームをそう呼ぶのだろう、と思うわたしはしかし、誰にも増してそれが得意だった。神経衰弱。カードを伏せて一面に並べ、めくった2枚が同じ数字のカードになれば自分のものにして、持ち札の多さで勝敗を競うゲームだ。今さらではあるが調べてみた。強い集中力を発揮して神経をすり減らすという意味で神経衰弱の症状名にちなんでその名がついたらしい。ちなみにその症状とは、心身の疲弊によって不眠や眩暈などが起こるものだが、医療関連の用語として使われていたのは大正昭和初期までで、現代では症状名としての神経衰弱を用いることはないようだ。ナルホド。何度やっても神経がすり減ったこともイライラしたこともないのだもの、わたしが「なぜ?」と思っていた...風塵

  • あるイタドリアン

    高知県民がイタドリを食うのは四国四県ではよく知られた話で、他の三県へ行き、手つかずで生え放題のそれを嬉々として漁っている人を見て、ほれ見ろまた土佐人が来てるぞと他県民から笑われているのは、四国の春の風物詩のひとつである(たぶん)。そのイタドリ好きにも、採るのが好き、食うのが好き、料理をするのが好きと種類があって、それぞれ「採りイタ」「食べイタ」「料理イタ」と呼ばれているとかいないとか。というのは真っ赤なウソだが、それほどに県民のイタドリ好きは筋金入りであり、わが家の細君ももちろん、その例にもれない。といっても彼女は秋田県に生を受け仙台市で就職した東北人であり、ネイティブイタドリアンではないが、当地に暮らしはじめて三十有余年、今では立派なイタドリアンとして、毎日まいにち川ぶちや畑のふちに生えているイタドリを...あるイタドリアン

  • 名前は丁寧に書くべし

    茂澄青邨さんは書家。内閣府職員として、叙位叙勲などの公文書、国民栄誉賞などの表彰状や国務大臣辞令などの揮毫を担当。新元号「令和」の発表時に揮毫したことで知られている人である(らしい)。その茂澄さんがこう語ったと、今朝の高知新聞19面に載っていた。「名前はすべてを表すので丁寧に書いて。雑に書くと雑な人になる」その記事の文脈からは、「名前」というのは他人のそれなのだろうと読みとれるが、読んだわたしは、自分自身の筆跡をかえりみて冷や汗がでた。そう。雑なのだ。わたしの場合、自分の名前を書くとき、ついつい雑に書いてしまうことが多いのだ。といえば、では文章や記録などを書くときはちゃんと書いているのか?とたずねられそうだが、そこはそれ今という時代に生きているのだもの。ほとんどの文章はキーボードであり、そうでなくてもケー...名前は丁寧に書くべし

  • 朝のお勤め

    朝、経をあげはじめて3年半ほどになる。日によってその内容は変わるが、わが家の宗旨は真言宗なので般若心経と光明真言は必須、たいがいの場合はそれに観音経の偈文をプラスするが、何をさておいても欠かさないのは般若心経と光明真言である。般若心経は真言宗に固有の経典ではないし、わが国ではもっとも親しまれているお経なので説明にはおよばないだろうが、光明真言は密教の真言であり、知らない方もけっこう多いのかも知れないのでかんたんに説明する。光明真言。正式名称は不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)。23字の梵字からなる真言だ。次のように読む。おんあぼきゃべいろしゃのうまかぼたらまにはんどまじんばらはらばりたやうんといっても、わが家は高野山真言宗なのでそう読むが、おなじ真言宗でも智山派、そして天台宗では読み方が...朝のお勤め

  • ぼそぼそ

    「なんて言いました?」あるいは「もう一回言ってください」と言われることが、近ごろ目に見えて多くなった。たいがいの場合はその前に、「え?」という疑問符付きの言葉が付くか、あるいは片方の耳に手を当てるか、また片方の耳だけをコチラに向けるかという動作がついたうえでの上記発言だ。そう、聞き直されるのだ。それも、意味がわかりかねるので問い返すという態ではなく文字どおりの聞き直し。聞こえなかったので「もう一度」、なのである。そのたびに、「あ、またやった」と思い反省するのだが、気を許せばまた繰り返している。元来が「ぼそぼそ」だった。声はどちらかといえば大きい方だ。といってもそれもまたチト単純ではなく、声を張ろうと思えば大きい声が出る、という意味での大声の持ち主なのであり、そうでないとき、つまりふだんは「ぼそぼそ」なので...ぼそぼそ

  • イジり

    軽妙なことを言う。軽口をたたく。それを受けてひとが笑う。そうするとうれしくなる。わたしのそのクセは、ものごころがついたころには既にあった気がする。ということは、人生のかなり早い段階で自分自身が選択したスタイルだと言えるだろう。ある時期から、そのすべとして「イジり」を覚えた。たぶん、周りに見本や手本となるひとがいたからだ。すぐに思い浮かぶ顔が二三ある。といっても、そのひとたちの所為だとは思わない。その手法を選んだのは、まちがいなく自分自身なのだと自覚しているからだ。長いあいだ、あたかもそれがよいことであるかのように勘違いをしていた。なんならば、そういう類のユーモアなのだとさえ思っていた。「イジり」という笑わせ方が、簡単でてっとり早いことに味をしめた結果、それに甘えて、いつのまにかすっかり感覚が麻痺していた。...イジり

  • 歩くことが好きな人

    ”Themanwholoveswalkingwillwalkfurtherthanthemanwholovesthedestination”(歩くことが好きな人は、ゴールを目指している人よりも遠くに歩ける)今季から日本ハムファイターズでプレイする加藤豪将選手が、入団するにあたってメディアに配布した文章に書かれている言葉だ。昨秋のNPBドラフトで3位に指名され光栄だとは感じたものの、当時の彼は、その年の春、プロになってから9年かかってやっと、幼いころから夢見たメジャーリーガーとなっており、どちらの道を選ぶかを決断するに際して自問自答の日々がつづいていた。そのときに頭をよぎった言葉だという。そして彼は、それにつづけてこう綴っている。******そのときピンときた。メジャーリーガーになることに喜びは無く、そのた...歩くことが好きな人

  • ハンカチ

    コロナ禍によってそれまでとは変わった習慣をもつようになった、という人は少なくないだろう。マスクは別としてである。わたしにもそれはある。すぐに思いつくのは、手洗いでありハンカチだ。と書くと、なんだそれまでは手も洗わずハンカチももたなかったのか、と訝しみ嫌がられるだろうが、事実そうなのだから仕方がない。済んだ昔のことだ、笑って許してほしい。そう、多くの場合でわたしは手洗いをしない人であり、ハンカチなどという物とはほとんど無縁の生活を送っていた。それも、ちいさいころからずっとである。小学生のころなら、例の持ち物検査というものがあり、それをパスするためにハンカチを持参した記憶はあるが、それを使ったという感覚はまったくといってよいほどない。一言すればそれは、「不潔」ということになろうが、事実そうだったのだから、過去...ハンカチ

  • 80.0

    工事請負金額が一定以上(高知県の場合は500万円)の公共建設工事には、完成後もれなく評定点がついてくる。多くの場合にその優劣の境界は80点である。つまり、いわゆる優良工事であると認めるか認めないかの境は、80.0という数字にある。それを超すか超さないか。いや正確に言えば超さなくても、80.0という数字にたどり着けさえすれば万々歳だ。そういう意味で79.9にとどまるか80.0に到達するか、この差はとてつもなくおおきい。幸いなことに、今のわが社のふつうは「超える」だが、かつて、それまでの姿勢をあらため貪欲に点数を取ろうとしはじめたころ、具体的にあらわせば15、6年前のこと。大まかに分ければ、全工事のうち超えるのが半数で超えないのが半数、といったころがあった。しかもその「超えない」は、「超える」との差がビミョー...80.0

  • 一切迷ひは我身のひいきゆえに

    盤珪永琢(ばんけい・よう(えい)たく)は江戸前期の禅僧で播州の人。人は誰でも生まれながらに「不生(ふしょう)の仏心」をもっているのだから特別な信心も修行もいらないというユニークな教えを平易な説法で各地に広め、その弟子は僧俗あわせて5万人におよんだといわれている。なんて訳知り顔で書いたが、そのじつわたしは、きのうまでその名前すら知らなかった。知ったのは、今朝の高知新聞『きょうの言葉』に「一切迷ひは我身のひいきゆえに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの」という老師の言葉が紹介されていたから。さっそく検索してみると、Wikipediaに次のようなエピソードが記載されていた。******ある僧が短気な性格で悩んでいた。生まれつきの短気で、意見されても直らないという。そこで盤珪に相談に行く...一切迷ひは我身のひいきゆえに

  • 新潟散歩

    新潟へは何度も来ているはずなのに、市内で朝歩きをした記憶がないのはなぜだろう。わたしの場合、旅先で早起きをしない理由はといえば、前夜の酒に泳いでいることしか考えられないのだが、そうかといって毎度毎度新潟酒に轟沈しているはずもなく、ではなぜ?と考えても、もっともらしい理由が浮かんでこない。だがまあいい。それに対して適切な解が見つかったところで別に何がどう変わるわけでもないのだ。ということで、北陸建設アカデミー入校式での基調講演というミッションを終えた翌朝、目覚ましをセットしたわけでもないのに5時に起きたのをよいことに信濃川沿いを歩く。目的地は萬代橋である。川べりに咲くユキヤナギ。スーツだけでは肌寒い朝に、純白のちいさな花のかたまりが春を告げている。そういえば、春の新潟ははじめてだ。令和5年4月4日の新潟散歩...新潟散歩

  • うれし恥ずかし初体験

    2年ぶりの単独コンサートを終え、祝杯の余韻も冷めないまま伊丹にいる。北へのフライト乗り継ぎ待機中だ。喉のかわきを癒すため水でも飲もうと自販機の前に立つと、電子マネー決済ができると書いてある。いや、その類をはじめて目にしたわけではない。ただこれまでは、視界には入っても実行しようとしたことがなかった。ところが今日は何を思ったか。やってみようと思い立った。だが、なかなか上手くいかない。誰かに笑われてはいないか?そう思いはじめると、途端に心臓が速く打ちはじめた。あきらめかけると、自販機の前面に貼られた説明書きが目に入った。なんだ、あるじゃないか。そのとおりにやると、どおってことはない。うれし恥ずかし初体験にドキドキがおさまらない辺境の土木屋、65歳と3ヶ月の春。うれし恥ずかし初体験

  • 四半世紀

    北川村やまなみ太鼓が発足して丸26年になる。ということは、その数ヶ月あとから参加したわたしが太鼓を叩きはじめて26年だということである。あした、それを記念してコンサートをひらく。と言うと、誰しもが「なぜ25年ではないのか?」という疑問を抱かれるだろう。いや、いくら天邪鬼なわたしとて、あえて26年を狙って開催するわけではない。昨夏、やろうとはしていたが諸事情で断念。その代わりとしての26年である。「スゴイ!四半世紀じゃないですか!」つい先日、同席していた打ち合わせのさなか、コンサートの開催を知らせる村内放送が流れたのをキッカケに知人がそう言った。「四半世紀」という言葉で表現されると、途端に重みがちがってきて、「スゴイねぇ」他人ごとのように感心してしまった。と同時に、おもしろいものだと思った。結局、始めた当時...四半世紀

  • いれずみ判官

    朝のニュースを見ていると、どこやらの国で警察官の成り手不足を解消するために刺青~最近ではタトゥーなどというハイカラな呼び名が一般的で、このニュースでもそう呼んでいたのだが、あれはどこからどう見ても刺青(いれずみ)であって、呼称をマイルドにしたところで本質は変わらないというのがわたしの考えなので、ここでは刺青と表記する~を入れた人間でも採用することにした、とやっていた。あ~あ、と内心でため息をつく。思い浮かべたのは江戸南町奉行遠山左衛門尉景元だ。「遠山の金さん」である。金さん「その方らの悪事を確かに見ているものが居る。遊び人の金さんという者が…」悪人「金さん…?はて。そんな者は知りませんな。本当に金さんなるものが居るのならば、今この場に連れてきていただきましょうか!」手下達「そうだそうだ!金さんって奴を連れ...いれずみ判官

  • 「ついで」の「ついで」 ~ モネの庭から(その459)

    修繕工事の話をするために事務所へ寄ったついでに、つくってひと月ほどが経ったコンクリート舗装の経過観察も兼ねて庭へとあがる。もちろん、それは事実にはちがいないが、みなさんご存知のように「事務所へ寄ったついで」や「舗装の経過観察」というのは方便でもあって、わたしの場合、それらの本来業務と「庭へあがる」は不可分なセットとしてある。つまり、こと「モネの庭」に限ってはどのような業務であっても「ついで」がなければならず、その限りにおいて、「それは”ついで”とは呼べないのではないか」という指摘は受けつけない。新緑にかぎらず、目に映るすべての色が若々しく眩いのに、池のまわりを独り歩くおじさんからは「春やなぁ」という月並みなことばしか浮かんでこない。まったく、おのれのボキャ貧がうらめしい。ん?まぶしい?ということは・・・待...「ついで」の「ついで」~モネの庭から(その459)

  • 「達成感」考(2)

    とはいえ達成感である。苦労した工事が終わったことで得られる達成感には、得も言われぬものがある。それは事実だ。それに高評価と高い利益がついてきたとなると言うことなし。報われた、そう思うことに誰はばかることがあろうか。しかし、そこで考えてみてほしい。ただ無事に終わったから。たまさか工事評定点がよかったから。思ったより利益があがったから。その結果だけで「達成感」と呼ぶのなら、まさしくそれは達成ではなく、あくまでも達成「感」でしかない。終わったという事実がもたらす安堵感と開放感、それを達成感と呼ぶのは人それぞれの自由だが、それを土木という仕事の魅力と言い募るのならば、それはチト筋がちがうのではないかとわたしは言いたい。肝はプロセスだ。計画はどうだったか。実行、検証、修正、また実行というプロセスはどうだったか。リス...「達成感」考(2)

  • 「達成感」考

    「なんといっても完成したあとの達成感ですよね」これに類することばで土木という仕事の魅力を語るひとは多い。言わずもがなではあるがキーワードは「達成感」だ。かくいうわたしもこの仕事を始めた当初、もっとも刺激的だったのがこの「達成感」である。そしてそれは、そこに至るまでのプロセスが辛ければ辛いほど、困難であれば困難であるほどおおきく、喜びやうれしさもそれに比例しておおきい。だがいつのまにか、若年者に建設業の魅力を「達成感」でしか語ることができない現役現場人に対しては、チトちがうのではないだろうかと感じるようになった。そして今は、「達成感」がすべてであるかのような物言いは、むしろ、たいした魅力がないと自分で宣言しているに等しいのではないかとさえ考えている。完成というゴールにたどり着くまでのプロセスに楽しみを見出す...「達成感」考

  • 彼岸に

    お陽さまが真東からのぼって真西に沈む「春分の日」と「秋分の日」は、此岸(人の世界)と彼岸(仏の世界)が、もっとも近くなるのだというところから、その前後3日を総じて「彼岸」と呼び、墓参などをして亡きひとや先祖の供養をする。そんな彼岸が明ける今朝、いつものように仏壇に向かい経を読む。だからといって、いつもより多めかつ熱心に読むかといえば、なにが原因かはわからないが遅く起床してしまった今朝は、般若心経と光明真言のみという、いつもより簡略形となってしまった(朝の読経は何時に始めても終わるのは6時までと決めている)。父さん母さんご先祖さま、どうか許してくださいね、なのである。そして、そのあと読んだ新聞に、こんなナゾナゾが載っていた。「8万6400ドルを毎日振り込んでくれる銀行がありますが、なんという名前の銀行でしょ...彼岸に

  • 言語郎

    ******アメリカの心理学者アルバート・メラビアンによって1971年に発表された研究によると、人はコミュニケーションを取るときには、受け取る情報を100とすると、相手から発せられる言語の内容である「言語情報」から7%、声のトーンやロ調、大きさ、話す速さなどの「聴覚情報」から38%、そして相手のジェスチャーや視線、表情といった「視覚情報」から55%の情報を受けているとされています。(『プロジェクトマネジメント意本が本部わかる本』橋本将功)******この説におけるそれぞれの数字にどれだけの信憑性があるかは確かめようもないが、その比率については、概ねそんなものかもしれないなと納得してしまうわたしはしかし、どこまでいってもいくつになっても「言語」のひとであることから逃げることができない。とどのつまりは「言語」...言語郎

  • 然もありなん

    二代目広沢虎造を聴きはじめた。落語に講談とMyブームがきたら、そのうち浪曲へ行くのだろうなという感じがあるにはあった。とはいえさすがに浪曲はねえ・・・と思う気持ちもないではなく、ちょこっと行きかけては思いとどまりを繰り返し今日まで来たが、案の定、予想していたとおりだ。さて誰からいく?自分で自分に問いかけて、どうせなら最初から(二代目)虎造だろうと即答した結果、虎造である。では何からいく?自分で自分に問いかけて、虎造といえば次郎長だろうとこれも即答したが、いやいやそれでは芸がないと、「祐天吉松」をいくつか聴き、目をつけたのが「国定忠治」シリーズだ。猛虎一声吠え来る狩人これを撃たんとすあまた獣の危きより飛び来たりたる羊めが狩人前に佇んで弾丸に当たって身は倒れ他の獣を救うてやる羊は我を知らぬというその意味もって...然もありなん

  • 石の上にも

    ある現場の完成検査でのこと。現地計測をしていると発注者のひとりがおもむろにこう切りだした。「あの部分って、現場のひとが工夫をしてくれてるんですよね」「??(*_*)わかります?」一見しただけでその工夫がわかるとは、オヌシデキルなと目を丸くしてたずねると意外な答えが返ってきた。「見ましたから」ハハァ~さては。合点がいった。「ブログですか?」「そう。マメですね~」「え、えぇまあ」「あれって3日に1回ぐらい更新してるんですか?」「いや毎日」今度は彼がビックリする番だ。「まいにち!!(*_*)」「そう。土日休みでほぼ毎日。もう15年ぐらいになります」「じゅ、じゅーごねんー(゚∀゚)」あれ?たしか15年にマチガイないよな?すぐさま脳内で指折り数えてみる。かんたんな算数だ。瞬時に答えは出た。2023-2008=15。...石の上にも

  • 苗木

    昨日から泊まっていた娘や孫が「モネの庭へチューリップを見に行く」というのを、「あ、そう。ワシら柚子を植えるキ」と軽く受け流したわたしには、池の向こうにある丘に早咲きのチューリップが満開な様を容易に想像することができる。そう、内心では残念でたまらないのだ。しかし、かねてより予定していた柚子の苗木植えをしておかなければ、このあと3月末から4月中旬にかけては、私用公用ゴチャまぜにした予定がびっしりと埋まっている。泣きの涙で柚子畑へと向かった。途中、不足だった材料があり、となり町のホームセンターまで買いに行ってくれた妻が帰ってくると、そのクルマには孫1号と2号の姿があった。それから十数分もすると、ベビーカーに孫3号を乗せた娘もやってきて、めでたく全員集合である。こんな機会もめったにあるものではないと、さっそくそこ...苗木

  • 65の春

    ひょんなことから思い出したエピソードは11年前の今日、日曜日のことでした。そのころのわたしはといえば今とは段違いで、休日出勤などとあらためて口に出すのにも違和感をおぼえるほど、その働き方が常態となっていました。そんな2012年3月18日の日曜日、会社で独り業務に勤しんでいると、ある若者が突然出社してきたのです。「どうした?」とたずねると、あるファイルを発注者にメールで送りに来たのだと答えました。そのころのわたしは、すでにDropboxを使って仕事をしていましたし、メールは会社アドレスも個人のそれも、Gmailで受送信ならびに管理をしていたので、そういう手があるのにわざわざ休日に出社し、それが終わればまた帰ると言う彼の仕事のやり方が歯がゆくてたまりませんでした。だから、「バカだねオマエ」ぐらいのことは言い放...65の春

  • 〈私的〉ワールド・ベースボール・クラシックの楽しみ方

    ワールド・ベースボール・クラシックを夢中になって観ている。かつてのジャイアンツフリークはどこへやら、今では高校やプロの種別にかかわらず、ふだんはめったに野球観戦をすることがなくなって久しいのだから「にわか」もイイところだが、そんな自分を認めつつも、やはり観ずにはいられない。大谷翔平は言うにおよばず、佐々木朗希、山本由伸、今永昇太、伊藤大海などの投手陣は、まさに壮観というにふさわしい顔ぶれだが、そのなかでも特に、ダルビッシュ有の得も言われぬ佇まいがたまらない。イイ年をしたおじさんが、思わずため息をついてしまうほどに格好がよい。そんなダルビッシュが、準々決勝のイタリア戦を前にこう語ったという。「結果はコントロールできない。コントロールできるのは、過程と準備。」その論旨そのものは、とりたてて珍しいものではなく、...〈私的〉ワールド・ベースボール・クラシックの楽しみ方

  • 住友不動産麻布十番ビルの衝撃 ^^;

    都営大江戸線麻布十番駅から歩いて6分のところに、住友不動産麻布十番ビルはある。なんてことは当然、この辺境の土木屋がこれまで知るはずもなく、今日調べてはじめてわかったことだ。だいいち、麻布十番などというハイカラなところへは足を向けたこともなく、わたしにはまったく無縁の場所である。ではなぜ住友不動産麻布十番ビルなのか。今日フェイスブックでそのFB友達がビルの表にある(たぶん)、あれはなんというのだろう、ビル名とテナント名が告示されたモニュメント(のようなもの)の写真をアップロードしていたからである。そこに表記されている社名は、SamanthaThavasaabexaccentureIMJJapanetindeedGameWithtinderRightApartmentRettyatama+の11社。それを見た...住友不動産麻布十番ビルの衝撃^^;

  • マインドセット

    ******土木というものは本来、人民に幸福を与えるためのものである。土木は他の学問や技術と違って、国家とか行政あるいは社会の中心に座ってしまうので、技術を追求するのみでは現実に生きてこない。社会という人間の体のような組織の中心にあるものだから、環境の問題を考えないと成立しない学問である。人体と同じ生命体である社会の中で外科的な手術を施すものだから、土木をやる人は社会科学とか文学的なデリカシーのある教養の固まりのような人でなければならない。そうでないと社会の味方だったこの学問が、社会の敵となるような非常にきわどい時代に差しかかっている。******平成6年、土木学会80周年記念式典の特別講演で司馬遼太郎が語ったことばだという。(出典→http://www.jsce.or.jp/top/news_sorce...マインドセット

  • (私的)フリック入力の現在地

    以前勤めていた会社にワープロが入ったとき、自腹で買った教則本に付録でついていた紙のキーボードを、暇さえあればタイプしていた。もちろん自宅アパートでだ。今のわたしがブラインドタッチでキーボードを打てるのは、ひとえにあの、各指の配置が指定されていた紙製キーボードのおかげである。あれから40年近い月日が流れた。数年前、ある大学教授との会話の席上、彼が言ったことばに衝撃を受けた。「今の学生は論文をスマホで書くんですよ」にわかには信じられなかった。というか、それからしばらくの間は、どうせ大げさに言ったのだろうと、その教授の言を信じてはいなかった。どうやらそれが事実であると実感し始めたのは、それほど前のことではない。実際に若者が操る姿を見ていると、今やスマホは「書く道具」としての立ち位置をしっかりと確立しているという...(私的)フリック入力の現在地

  • チューリップ頬ふくらませ笑ってる ~ モネの庭から(その458)

    仕事柄というやつなのだろう。休日であっても思いつきで行動することがあまりない。たいていは前日までに決めた予定に概ねもとづいてやることを決めている。天気予報を見ていくつかのパターンを想定し、そのなかからチョイスすることもよくあることだ。と書けば、なんだかいかにも融通の効かぬカタブツを想像するかもしれないが、それはあくまで自分ひとりだけで行動できる場合であり、それに自分以外の誰かがからんでくるとなると、頑なにその予定を主張するわけではない。他者の考えや予定と自からのそれとを天秤にかけ、どちらかよい方を選択することとなる。それが自分自身がしたいことや行きたいところと合致すると、元々立てていた予定などはあっというまに雲散霧消してしまう。そりゃそうだ。人間は他者との関係性のなかで生きる動物であり他者を尊重することな...チューリップ頬ふくらませ笑ってる~モネの庭から(その458)

  • 明日のために、笑顔のために。

    『「明日のために」~未来の働き方にチャレンジ~』国土交通省北上川下流河川事務所が、きのうリリースした動画だ。漏れ聞くところによるとその制作には、杜の都に住むわが盟友ヒゲブチョーが深くかかわっているらしい。「あしたのために」今年に入り、ずっとわたしの脳裏から離れないことばである。いや、ここ数年来それは、わたしのなかでもっとも大きな位置を占めるテーマだったと言っていい。その重さを、齢を重ねるたび、なおさら強く意識するようになったということなのだろう。そしてその傾向は、この先もずっと強くなることはあれ、弱まることはないはずだ。「明日のために」「笑顔のために」朋友からのメッセージに、今いちど、気合を入れ直してがんばってみようと思う令和5年3月11日の朝なのである。明日のために、笑顔のために。

  • ビタキとイブキ

    2012年4月1日の第11次鳥獣保護事業計画によりすべての野鳥が飼ってはいけなくなったそのはるか以前、今から50年以上も前の話だと、まず前置きをしておく。わたしが小学校高学年ぐらいのころ、狩猟とならぶ親父殿の趣味が野鳥の飼育だった。たしか当時でも、その種や数についての制限があったはずで、具体的に家で飼われていた野鳥のどれが合法で何が違法だったか、今となっては判別する由もないが、当時の彼の口ぶりを思い起こしてみるに相当数が違法だったような気がする。その大半を占めるのはメジロだったが、なかにいくつかちがう種類がまざるときもあり、そのなかでわたしがひと際目をうばわれていたのがルリと呼ばれる、青(瑠璃)い鳥だった。キビタキという黄色が鮮やかな鳥もいた。ルリと呼ばれていた鳥の正式名称がルリビタキで、キビタキもルリビ...ビタキとイブキ

  • 口角「へ」の如し

    「すぐそうやって口を尖らせる」そう言ってわたしを再三注意した中学校の教員の顔は今でもハッキリと覚えている。「口を尖らせる」という表現を比喩として用いる場合もあるが、今となって思い起こせば、当時のわたしは実際に尖らせていたのだろう。と同時に、口が「への字」になっていたはずだ。が、残念ながら本人そうとは認識していなかった。ゆえにそれは、わたしを貶める不当な指摘だと感じていた。あれから50年、口角は下がったままあがらない。唇の両端から少し下がったところには、「への字」の角度と平行に深く刻まれたシワもある。その人の生き方はシワに刻まれる、というが、わたしのそれなどはまさにそのとおりなのだろう。「口を尖らせる」人の心理とは、おおむね次のようなものらしい。文句を言いたい。すねている。(幼稚な)敵意を出している。寂しい...口角「へ」の如し

  • ある日の点滴静脈注射

    血管が細いらしい。であるから、点滴などをするとき、たまに注射針が静脈を外れることがある。今日も今日とてそうだった。「あら、血管が細くてあまり見えませんね」若い看護師さんがそう言うのに答えて「そう。ときどきハズされる」と言ったと同時に、プレッシャーをかけてしまったかなと反省してしまったが、吐いた言葉は戻らない。案の定、点滴のために彼女が打った注射の針は血管を外してしまった。「プレッシャーかかった?」と言いつつ顔をうかがうと、あきらかに緊張の色が濃い。「ハイ、少し」別にわたしがわるいわけでもないのだろうが、そこはそれ、要らぬことを口走ったオヤジにまったく責任がないというわけでもない。「ごめんね」少しでも緊張をやわらげようと、笑いながらあやまったが、かえってそれがあらたなプレッシャーを呼んだのか、左腕から右腕に...ある日の点滴静脈注射

  • 和暦西暦

    ここ数年、病院へ行くことがあたりまえとなっている。ここ3年以内で入院は2回したし、その関連で2つの疾病について事後観察をするため定期検査にもかよっている。端的に言うと「年」だということになるだろう。齢を重ねればあちこちにガタが来はじめるのは、至極当然のことである。そして現代日本では、それにともない病院との付き合いも増える。これもまた、なんら不自然なことではない。総合病院では、本人確認のためにあらゆる場所で氏名と生年月日を述べることを求められるのが常だ。氏名はもちろんひとつだけだし、月日も「◯月◯日」と一種類の表現しかないが、生年については西暦か和暦か、どちらを採用するかでチト悩む。はじめのころは、「1957年」と西暦でそれを表現していたが、あるときから「昭和32年」という和暦を用いるようにしだしたた。その...和暦西暦

  • (悪)あがき(たぶん)

    「かといって、この身体にまったく可能性がないかといえばそんなことはなく、この2ヶ月ほど稽古を増やした結果、スタミナしかりスピードしかり強度しかり、少し回復してきたというたしかな実感がある。となると、まだまだできる(かもしれない)と思い始めるのだから、あいかわらず往生際がわるいことこのうえない。」と一昨日のブログに書いた翌日、村の芸能発表会に出演。わずか一曲の大太鼓にもかかわらず、途中でヘロヘロになってあえなく玉砕した。といっても、ある程度目と耳が肥えたひとならばそうと判別できるが、そうでなければ、それほどには感じられなかったのかもしれない。というのも、ヘロヘロになって苦しみ悶えながら大太鼓を打つわたしの表情は、観客席からは見ることができないからだ。現代日本における「和太鼓」で大太鼓といえば、台に横向きで乗...(悪)あがき(たぶん)

  • 現在地

    あるイベントを告知するニュースを見て妻がぽつりとひと言。「もう呼んでくれんなったネ」そう。その催しにはかつて何年か連続で出演したことがあった。といってもずいぶん前のことだ。コロナ禍うんぬんには関係なく、わが北川村やまなみ太鼓の需要がなくなったにすぎない。「旬があるキね」そう返答したわたしのことばのトーンは淡々としたものだったはずだ。彼女は無言。だが、その顔はたぶん同意したように見えた。「もう・・・ハードな曲ばっかり・・・」稽古をしていて、ため息をつきながら彼女がそう言う回数がめっきり増えた(あ、彼女はおなじチームのメンバーです)。わがチームの持ち曲のうち7割程度はわたしがつくった曲で、その曲調には作曲者の好みが色濃く反映されている。そしてわたしは、いわゆる「打ち込み系」が好みである。そして「舞踏系」の曲を...現在地

  • 予感

    『哲学入門以前』(川原栄峰著、南窓社)を読んでいる。******歴史は過去を語る。しかし、歴史は単なる昔話ではない。過去は未来から決まってゆく。この私がどんな未来に向かって自らを投げかけているかということによって、過去が過去として意味づけせられ、歴史が歴史として生きてくるのである。(略)過去の事実がどんなに実証的、科学的、技術的に確定せられても、それはあくまで「過去の事実」であるだけであって、決して「歴史」ではない。(略)「過去の事実」は無数にあってとても取捨選択などできないし、できたとしても、どうやって並べてよいのか途方にくれるほかあるまい。だから、やはり、歴史は未来から出て来る。(P.60~61)歴史は客観的な過去像ではない。それはこの私が今どんな未来に生きているかという思想の問題なのである。歴史教育...予感

  • 飛ばすあなた(わたし)を避ける他車

    (烏山自動車学校さんのTwitterより)オレが避けなかったらどうなってたんだろね。あるいはオレがスピードをゆるめなかったらどうなってたんだろね。もしくはオレが止まらなかったらどうなってたんだろね。そういう場面に遭遇することがたまにあり、そのたびにいつも、そのようなひとたちは「他者との関係性」について一顧だにしないのかと不思議な気分におそわれる。ことはクルマの運転にとどまらず、わたしたちは「他者との関係」のなかで生きて、仕事をしている。それが仕事となればなおさらのこと、常に他者との関係性の上に成り立っているのが仕事という営みだ。いわんや土木においては、行動や発想の起点が「自分中心」にあるひとは、土木人としての適格性に欠けているとわたしは思う。「飛ばすあなた(わたし)」は「避ける他車」との関係性の上でその行...飛ばすあなた(わたし)を避ける他車

  • 心の学問

    「いざ鎌倉」という。以下、『語源由来辞典』より引いた意味と由来である。******[意味]一大事が起こった、すぐに行動を起こさなければならないという時に発する言葉。すわ鎌倉。[由来]いざ鎌倉は、鎌倉幕府に一大事が起こると、招集を受けた諸国の武士たちは、我先にと鎌倉へ馳せ参じたことに由来する。(中略)謡曲『鉢木』の中で、佐野源左衛門常世が家に泊まらせた旅の僧(北条時頼)に、「鎌倉におん大事出で来るならば、一番に馳せ参ずる」と覚悟を語るくだりがあり、これが元になって「いざ鎌倉」の語が生まれたといわれる。******講談にも『鉢の木』という演目がある。おそらく謡曲からその材をとったものだろう。今日、山奥の現場への行き帰りに、ずっとその『鉢の木』ばかりを聴いていた。一龍斎貞水、神田紅、神田京子とつづいて、最後にま...心の学問

  • 痛飲の記憶

    11年前の朝、花巻市における前夜の痛飲の余韻をアタマと身体に残しながら起床したのは岩手県は北上市のホテル。外を見ると一面の雪景色である。仙台で泊まるはずの予定を変更し、北上泊としたのは、その前日出会った地元の建設業若手経営者に言われたことばがキッカケだった。その数日前、一献の誘いを受けたはいいが、「また次の機会にでも」と断ったわたしが、思うところあって考え直し、少し時間を置いてから、「やっぱりやりましょう」と電話をかけ直したのに対して、「そうですよ。次なんてあるかどうかわかんないんですから」と言った受話器の向こうの口調がやけに強かった理由は、実際に彼が住む街を訪れ、そこであったさまざまなことを聴いていたさなかに、ようやくわかった。「次なんてあるかどうかわかんない」文字にすればありふれたことばでしかないそれ...痛飲の記憶

  • 「◯◯になります」

    「〇〇になります」聞くたびにイヤ~な違和感があって、キライな言い回しだ。それは日本語ではないだろう、言うならばシンプルに「○○です」か、ていねいさを表したければ「〇〇でございます」かでよいではないか。それをわざわざ「になります」とは、いったい全体どこのどなたが使い始めたのかは知らないが、妙な言い回しが広まったものだ、とずっと苦々しく思っていた。ところが今日、その疑念をくつがえす意見をネットニュースで目にして、ナルホドね、と思ったので紹介したい。その意見が載っていた記事とは、J-CASTニュース『「ご飯とか食べて」「カツ丼になります」は変な日本語?タモリのダメ出しで注目...国語辞典編纂者が解説』である。記事のもととなったのは、2月18日放送のオールナイトニッポンでタモリ氏が語った「〇〇になります」という用...「◯◯になります」

  • うちあげ

    『白川静さんに学ぶこれが日本語』(小山鉄郎、論創社)を、思いついたときに読んでいる。買ったのは約一年前だから、本当に「思いついたら」である。われながら悠長すぎて笑えてくる。そのなかに「うちあげとうたげ」という項を見つけたのは今週初めのことだ。じつはわたし、「打ち上げ」が好きである。なにかといえばすぐ、「打ち上げ」をしたくなる人である。そんなわたしだもの、それまでの悠長さはどこへやら、即刻読んだ。もちろん興味津々で、である。******『竹取物語』は平安前期の九世紀から十世紀にかけての頃に書かれたと思われる作品ですが、その『竹取物語』に「うちあげ遊ぶ」という言葉が出てくるのです。冒頭の「かぐや姫の生ひ立ち」の部分の最後に「この子いと大きに成ぬれば、名を三室戸齋藤(みむろどいんべ)のあきたをよびてつけさす。あ...うちあげ

  • 令和日本に生きているというスケール

    ******仮にこれから八千年ぐらい年月がたって、紀元百世紀になったとしよう、そしてひとりの日本人が日本史を書くとしよう。そうしたらおそらく、いや必ず、奈良時代も平安時代も昭和時代もいっしょにされてしまって、「古代」とか何とか名づけられてしまうであろう。ことほどさように、時代区分というものは相対的なのである。一体、それは何に対して相対的なのか?自分に対してである。昭和に生きている自分、紀元百世紀に生きている自分に対してである。私が昭和の今日に生きているから「奈良時代」という時代区分は意味を持つ。私が紀元百世紀に生きているなら、「奈良時代」という時代区分はナンセンスである。(川原栄峰『哲学入門以前』P.52)******常々、たかだか80年ほどしか生きられない人間が、自分が生きている今、せいぜいがんばっても...令和日本に生きているというスケール

  • Passer

    2011年11月5日に『期間限定の思想「おじさん」的思考2』(内田樹、角川文庫)という本を読んでいたらしい。******「仕事をする」というのは、「他者を目指して、パスを出す」という、ただそれ「だけ」のことである。私たちは「自分のために」「自分に向けて」「自分に何かをもたらし来たすために」仕事をしているのではない。思慮のない若者は「自己実現のために」とか「おれの生き様を示すために」とか「自分探し?」と言うが、それは貨幣の意味も市場の意味も知らない人間の寝言である。仕事の本質は他者をめざす運動性のうちにある。(中略)「他者」に「パス」を送ることだけに意味がある。だから、「つまらない仕事」とは「パス」を送るべき相手のいない仕事のことである。(P.42~43)******なぜそれがわかったかというと、この文章を...Passer

  • やわらかな花びらに思う

    となり町にあるホームセンターまで農作業用品を買いに行った帰り途、このまま家に帰りついても昼餉にはまだ早いが、かといって柚子畑へと帰っても作業をする時間はほとんどない、少し早いがメシでも食うかと思いながら軽トラックを運転していると、「椿展」という看板が目に入った。いや、1月14日にその催しがはじまって以来、その看板はそこにあったはずだから、初見であるはずがないがしかし、一度行ってみなければなと思うばかりで、そこに足を向けることもなかった。うん、この中途半端さがよい機会だ。ということで妻とふたり、「第4回椿展2023in北川村」へと赴く。白椿、紅椿、桃椿、八重椿・・・なかでお気に入りの花を見つけると、どこから見ればその花びらがよりかわいげなのか、ああでもないこうでもないと口には出さないが、矯めつ眇めつアッチへ...やわらかな花びらに思う

  • 違和感を感じることば

    登壇。「壇にあがること。特に演説などのために壇にあがること。」(『デジタル大辞泉』より)をそう呼ぶ。近ごろやたらとその語句が、わたしのSNS界隈にはあふれていて、違和感を感じて仕方がない。登壇という言葉自体がどうのこうのではなく、自分で「登壇します」と宣言してしまうひとたちに対する違和感である。そこに含まれる、「オレ壇の上にあがるんだもんね」的なニュアンスに、「壇に上がる」ためにそこへ行くのかキミらは?話をするためではないのか?だとしたら自ら「登壇します」という言い回しは不適切なのではないのか?と首をひねってしまうのだ。といっても、その語を使うひと全てが、そのようなニュアンスを含めて言っているわけではないのは十分承知している。なんの気なしに使うひとがほとんどだろう。ひょっとしたら、違和感を感じるわたしの方...違和感を感じることば

  • ちょっと nova した "Galileo Galilei"

    調べ物をするために拙ブログ内を検索(15年もつづけてきた結果、ここは私論とその歩みのデータバンクとなっている)していたら、14年前のきのう2月16日、『367年後に「名誉回復」をしたということ』という小文を見つけた。同じく14年前のその前日2月15日に配信された共同通信の次のようなニュースに触発されて書いたものである。******「ローマ法王庁(バチカン)は15日、イタリアの科学者で天文学の父とされるガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)をたたえるミサを死後367年たって初めて、ローマのサンタマリアデリアンジェリ教会で行った。」「ガリレオは望遠鏡を製作し、木星の惑星や月の海を発見。その観測を基にコペルニクスによる地動説を支持したため、宗教裁判によって晩年軟禁生活を送った。死後も名誉は回復されず、カトリ...ちょっとnovaした"GalileoGalilei"

  • 私的「麻浴宝徹禅師逸話」解釈

    ******麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。******『正法眼蔵(現成公案)』の最後にある文だ。はじめて読んだ。現代語に訳するとたぶん次のようになる。******麻浴宝徹禅師が、扇であおいでいるところに、...私的「麻浴宝徹禅師逸話」解釈

  • 梅にメジロ ~モネの庭から(その457)

    3月1日の開園に向け、メンテナンス作業も大詰めの「モネの庭」。わがチームはといえば、請け負った作業がほぼ終わりあとは片づけを残すのみとなったので、仕上げを覧じるべくできあがったモノをながめていると、かたわらにある梅の木にメジロがとまった。ほう、いいじゃないか。独りほくそ笑んでいると、わたしを見つけたムッシュ・シュバリエ・ヒゲの川上さんが近づいてくる。ちょうどいい。少し気になっていた部分について打ち合わせをしていたが、どうもメジロが気になって仕方がない。と、わたしの視線に気がついたヒゲさんが、梅の木を見上げてつぶやく。「呑気なもんですねえ」え?オレか?と一瞬ドキリとしたが、どうやらメジロを指しての言葉だったらしい。協議が終わり、立ち去っていく彼の背中を見送ったあとわたしは、待ちきれなかったようにポケットから...梅にメジロ~モネの庭から(その457)

  • 「謝る」ということ

    問題を解決する手段として謝罪を求めるひとがいたとする。たしかに謝罪によって一応のケリをつけることはできやすい。しかしそれはあくまでもとりあえずであって、本当の意味で決着がついたとは言い難いことが往々にしてある。謝る側の心の内が真に「謝りたい」というものなのか、あるいは、謝罪の言葉を口にすることで決着を図ることが第一義としてあるか。表出するのはおなじく謝罪の言葉であっても、その差は月とスッポン泥と亀、まったく対極にあると言っても差し支えないだろう。ゆえにわたしは、謝罪という行為そのものをあまり信用していない。だからといって、謝罪をする相手に対して「謝ったら済むと思ってるんでしょ」という本音を突きつけてしまうと、「それを言っちゃぁおしめえよ」である。落としどころを探っているときに、時宜を得た謝罪の言葉ほど好都...「謝る」ということ

  • 思い出の味

    週明けの朝は小雨。フェイスブックを開いてみる。フェイスブックには、その日の過去投稿を知らせてくれる機能があり、それを見ると、時に「ああそうだったのね」とタイムスリップしてしまうことがある。なかには、頻繁にそれをシェアするひともいるが、わたしは滅多なことでないとそうまではしない。なんというかその、過去に引きずり込まれたくないのである。といっても、あくまでそれは原則としてであり、たまにはそれを外れることもあったりする。今朝がそうだった。まずそのなかで目を引いたのは、2017年にココへもアップした笑い話だ。→『2017年のバレンタイン』よほど気に入ったのだろう。翌2018年にも同じネタをアップしている。当時小学校低学年だったあの娘らも、今年は中学3年生。時の流れの速さを感じるには、子どもの成長をそのモノサシとす...思い出の味

  • 労を厭うな(若者へ)

    「労を厭う」と言う。『精選日本国語大辞典』には「努力することをいやがる、力の出し惜しみをする、労を惜しむ」とある。近ごろでは、世の中全体がどんどんとそっちの方に重心を移しているかのように感じられて、とてもとてもイヤ~なイヤ~な気分に陥ってしまうことがよくある。あながちわたしの思い過ごしではないはずだ。「労多くして功少なし」と言う。『デジタル大辞泉』には「苦労した割には効果が少ない」とある。今風にあらわせば、ビーバイシーが低いとかコストパフォーマンスが悪いとか、といったところだろう。ことをビジネスの世界に限って言えば避けては通れない指標であり、全面的に効率を無視することなどあり得ない。いかにして少ない「労」で多くの「功」を得るか。この上手下手が優秀なビジネスマンであるかどうか、また成功する企業であるかどうか...労を厭うな(若者へ)

  • カツアゲの問題

    今朝、『中動態の世界意志と責任の考古学』(國分功一郎、医学書院)をやっとこさ読み終えた。文中、「カツアゲの問題」を論じた箇所がある。とても興味深かったので、ごく手短に要約して紹介したい。銃をもった人に「カネを出せ」と要求されたとする。身の危険を感じたアナタはポケットから取り出したお金をその人に渡す。この行為をどう解釈するか。ハンナ・アレントの分析はこうだ。「暴力によって脅かされてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」であると。であるならそれは、自発的行為と見るべきなのか。それを行ったアナタは能動的だったのだろうか。アリストテレス哲学における自発性の定義にもとづけば、「運動の起源が行為者のなかにあった」ゆえにそれは、自発的行為である。だが、アリストテレスは「嵐の際に積み荷を投げ捨てる」という事例を...カツアゲの問題

  • 相棒

    会社のPCのデスクトップに「環日本海・東アジア諸国図」と題された地図の画像がある。下半分に広がるのはユーラシア大陸の端っこ、右が中国で左がロシア、その上、ほぼ中央に朝鮮半島、その左横に日本海があり、その青を隔てて上部左右に細長いのが日本列島、最上部は太平洋である。つくったのは富山県。国土地理院の承認を得て平成6年に初版が作成されたこの地図は、いわゆる「逆さ地図」で、「中国、ロシアなどの対岸諸国に対し日本の重心が富山県沖の日本海にあることを強調するため、従来の視点を変えて北と南を逆さにし、大陸から日本を見た」(富山県HPより)ものである。この地図を見ると、日本列島のかたちと位置関係についての固定観念が、がらりとくつがえされるような感覚にとらわれる。だいいち、日本海が海とは見えない。大陸と樺太島、日本列島、朝...相棒

  • 落語と講談のちがい

    これはいつものことだが、あるジャンルで好みの者を1人見つけると、その人だけにとどまることなく、次から次へと連鎖するのがわたしの常だ。今回のマイ講談ブームもしかり。対象は六代目神田伯山にとどまらない。三代目神田松鯉、六代目一龍斎貞水という現人間国宝と元人間国宝をはじめとし、幾人かを聴いている。なかでもイチバンのお気に入りは一龍斎貞水だ。聴くなり「コレだっ」と感じた。わたしのイメージのなかの講談とは、一龍斎貞水のそれなのである。もちろん、伯山の師匠である松鯉もイイ。だが、今のところわたしのなかでのナンバーワンは六代目貞水だ。といっても、多くの人はピンともこないだろうし、どうでもよいようなことではないか。だいいち、落語と講談とはどうちがうんだ?という人がほとんどだろう。講談と落語のちがい。これについては、三代目...落語と講談のちがい

  • 軽トラに乗って神田伯山を聴く

    神田伯山を聴き始めたのは秋。初めてその名前を聞いたのは、息子の口からだったと記憶している。それがキッカケで一度聴いてみたのだが、演目のせいだったろうか、暗く、それでいてケレン味たっぷりな印象を受け、途中で聴くのをやめた。それがなぜ、どっぷりとハマってしまったのか。じつを言うと自分でもよくわからない。とにもかくにも、思い出しては聴いている。それどころか、彼が書いた本も読んだ。『絶滅危惧職、講談師を生きる』(著者:神田松之丞、聞き手:杉江松恋)。松之丞とは彼が真打ちになり六代目伯山となる前の名である。読むなり引きずり込まれて、あっという間に読み終えた。結果、ますます彼の贔屓となった。きのう、息子と同乗した軽トラックのなかで問うてみた。「伯山、聞いてるか?」その答えは意外なものだった。「いや、聴いたことない。前...軽トラに乗って神田伯山を聴く

  • 自分の無能を認めて許せ

    「死ぬまで発展途上人」とか「いくつになっても道半ば」とか、言うのはいいし思うのもかまわないが、わたしが旨とするその向上心にはあきらかな弊害がある。「もっとよくなるはずだ」とか「まだまだマシな人間になれるはずだ」という向上心がわるさをして、「どうせそれぐらいのもんだよオレは」という開き直りができないのである。自らに見切りをつけることができないと言ってもいい。人というものは、ある程度以上の年齢になれば、自分自身に対してどこかでそれ相応の「見切り」をつけてやることも大切なことである。いつまでも向上心とともに生きるのもよいが、言い方を換えればそれは、「できるかもしれない」可能性に未練たらたらで、「できない」現実と「たぶんその先もできない」未来を直視していないということでもある。それはつまり、自分自身を認めていない...自分の無能を認めて許せ

  • 非生産性向上の朝

    近ごろずっと、朝起きることができない。毎日毎日、ようやっと目覚める朝を繰り返している。それがどうしたことか、今朝は久々に早く起きた。時計を見ると3時40分過ぎだったから早朝もよいところだが、いつもとちがいパッチリと目が覚めた。本でも読むか。これもまた久々である。ついでだから、ずっしりと読み応えのあるものをチョイスした。読みかけて放置していた『中動態の世界』(國分功一郎)を本棚から取り出す。少し読み進めていくと『共通基語を足がかりに』という項があった。「共通基語」とは、ラテン語、古典ギリシャ語、サンスクリット語などの共通の起源である言語のことを言うらしい。その言語を使っていた民族は、もともとは現在のウクライナから南ロシアあたりに住んでいて、そこから今で言うところのヨーロッパ各地へと移動し、インド=ヨーロッパ...非生産性向上の朝

  • 朝の一考

    「あなたの答えは正解です」という審判を下された時、人は無防備な快感に必ず襲われる。故ナンシー関の言葉だという。今朝の新聞で読んだ。クイズ番組の人気が高いのは、視聴者が正解の瞬間の快楽を求めているからだという指摘である。たしかに。わかる。人は明確な答えを求めたがる生き物だ。皆が皆そうだとも思わないが、多くの人にその傾向はあるだろう。「必ず襲われる」というナンシーの断定にしてからがそうだ。これが、「襲われるのかもしれない(たぶん)」などと言った日には、言われた方はもやもやとしたものを抱えたまま考え込む確率が高くなる。そうだろうか?・・・と。ひるがえってわたしは、多くの場合に断定をしない。いや、しないこともないのだが、多くの場合は決めつけたそのあとで、そうはならない具体例を示すか、そうじゃないことも多々あるのを...朝の一考

  • 自己評価

    ゆうべ寝しなに読んだエッセイの冒頭はこんなセンテンスだった。******もしかしたら自己評価に誤りがあるかもしれないが、私は私自身をたいそう地味な人間だと考えている。******オレもだよ。布団のなかで内心ひとりごちたそのセリフを、そのまま鵜呑みにしてくれる人はまずいないだろうということは承知してはいるが、自己評価的にはまちがいなくそうである。つづいた文章はこうだ。******そもそも子供の時分から、目立つことが好きではなかった。家業がカメラ屋であったのに写真はそれほど残ってはおらず、学校の集合写真などでも、たいていは最後列の隅にちんまりと写っている。実はシャイなのである。恥ずかしがりながら何でもやってしまうという悪い癖はあるけれども、できることなら人前に出たくない。(『つばさよつばさ浅田次郎エッセイ集~...自己評価

  • 土佐の山間に息づくモネのエスプリ(5) ~おわりに~

    昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載してみることとしました。今日はその3回目です。前回までの稿はコチラ#1→『なぜ北川村にモネの庭?』#2→『再現性を優先した庭づくり』#3→『試行錯誤の庭づくり』#4→『独自性を加えた庭づくり』ー・ー・ー・ー・ーいち土木現場技術者として、あるいは一人の北川村民として、また(自称)「日本一のモネの庭ウォッチャーとして、「モネの庭」に関わり、この庭を通じて多くの人と知り合い、様々な体験をさせてもらうことができました。もとより、庭の良し悪しなどというものは、構造物の構築や基盤の造成、樹木の植栽などを受け持つ施工者よ...土佐の山間に息づくモネのエスプリ(5)~おわりに~

  • 土佐の山間に息づくモネのエスプリ(4) ~独自性を加えた庭づくり~

    昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載してみることとしました。今日はその3回目です。前回までの稿はコチラ#1→『なぜ北川村にモネの庭?』#2→『再現性を優先した庭づくり』#3→『試行錯誤の庭づくり』ー・ー・ー・ー・ー2008年に完成した「光の庭」(現在の名称は「ボルディゲラの庭」)は、それまでつくったどの庭とも異なったアプローチから始まりました。そのコンセプトは、「本家のコピーとして誕生した北川村モネの庭でモネの絵画を基としたオリジナルの庭をつくる」。文字どおりゼロからのスタートでした。しかし、ひと口に「モネの絵画」といっても彼が残した作品群は...土佐の山間に息づくモネのエスプリ(4)~独自性を加えた庭づくり~

  • 土佐の山間に息づくモネのエスプリ(3) ~試行錯誤の庭づくり~

    昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を数回に分け転載してみることとしました。今日はその3回目です。前回までの稿はコチラ#1→『なぜ北川村にモネの庭?』#2→『再現性を優先した庭づくり』ー・ー・ー・ー・ー「水の庭」そして「花の庭」などの、「モネの庭」の中核を成す庭園をつくりあげ開園へとこぎ着けた1期工事のうち、建物以外は弊社が受け持ち施工をしました。じつを言うと私は、そこまではほとんど関わっておらず、現場技術者として新設や維持修繕の設計施工に携わるようになったのは、2000年の開園直後からのことでした。そこでのいくつかの体験を、技術者としての視点から紹介してみます。2000年...土佐の山間に息づくモネのエスプリ(3)~試行錯誤の庭づくり~

  • 土佐の山間に息づくモネのエスプリ(2) ~再現性を優先させた庭づくり~

    昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載してみることとしました。今日はその2回目です。前回はコチラ→『なぜ北川村にモネの庭?』ー・ー・ー・ー・ークロード・モネ財団から承諾を得て、「モネの庭」の名称を無償で与えられたという経緯もあって、当初の庭づくりのコンセプトは、とにかく再現性にこだわったものでした。とはいえ、既に造成が完了していたワイナリー用地を、その時点からジヴェルニーの完全コピーとするのは不可能です。そこで、本家の庭を構成する3つの要素、「モネの家」「水の庭」「花の庭」をいかにしてこの地に再現するかに腐心した結果、下図のような配置になりまし...土佐の山間に息づくモネのエスプリ(2)~再現性を優先させた庭づくり~

  • 土佐の山間に息づくモネのエスプリ(1) ~ なぜ北川村に「モネの庭」?

    昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載します。ー・ー・ー・ー・ー太平洋に向かって突き出た高知東海岸を、その突端にある室戸岬に向けて高知市から車を走らせると、発達した海岸段丘が連続したあとに、河川とそれによってできた扇状地が出現するという風景が繰り返しつづきます。そのひとつ、大野台地を過ぎ、奈半利川がつくった扇状地を、北東に進んでまもなく行った小高い山の上にあるのが「北川村モネの庭マルモッタン」です。印象派を代表するフランスの画家クロード・モネが、じつは優れた造園設計者であり技術者だったという事実は、それほど多くの人に知られてはいません。1883年、43...土佐の山間に息づくモネのエスプリ(1)~なぜ北川村に「モネの庭」?

  • 土佐の山間に息づくモネのエスプリ ~ あらためて序

    月刊『土木技術』(発行・土木技術社、企画製作・理工図書)が昨年12月をもって休刊となりました。昨年で100周年というから、ずいぶん長いことつづいた土木専門誌ですが、推測するに、長い出版不況と土木就業者数の減少という流れには逆らえなかったということでしょうか。じつはこのわたしも、『土木技術』にはつごう2度ほど寄稿させてもらったことがあります。1度目が2014年で、タイトルは『ゆうこさんを探せ』。2011年に自らが携わった台風災害からの国道493号応急復旧の体験を軸に、「建設現場からの情報発信」論を展開したものでした。2度目は翌2015年。理工図書の柴山社長(当時)の直々の依頼を受け、前回とはがらりと趣向を変えて『土佐の山間に息づくモネのエスプリ』と題して、「モネの庭」が誕生した経緯やそれぞれの庭の特色などを...土佐の山間に息づくモネのエスプリ~あらためて序

  • おじさんのオモチャ

    林道工事現場で撮った写真を、Instagramストーリーズにアップするために編集しようとすると、タップした人物が動いた。え?なんじゃこりゃ!?そういえば・・・何ヶ月前だったか忘れたが、事務員さんがこんなようなことを言っていたのを思い出す。「iPhoneで人物とかを切り抜きできるんでしょう?」たしかこう答えたはずだ。「それ専用のアプリを買わなできんやろ」一顧だにしなかった。そして、それっきりアタマの片隅にも留め置かなかった。ひょっとしたら、これがソレか?しかし、動くには動くがそれをどうしたら切り抜きできるのか、また他のアプリに貼りつけるにはどうすればよいか、皆目検討がつかない。打ち合わせを終えた帰路、車中でメシを食ったあと、さっそく解明がてら遊んでみた。参考にさせてもらったのはこのサイトだ。→https:/...おじさんのオモチャ

  • ちりとてちん

    『ちりとてちん』という噺がある。上方落語を代表する演目だ。東京では『酢豆腐』。あらすじはちがうが骨格は同じだ。だいたいにおいて、東京にも大阪にも同じようにある演目というのは、上方をその発祥とするものが多いのだが、この噺は江戸の出。しかも、江戸落語である『酢豆腐』を『ちりとてちん』に改作したのはれっきとした東京の噺家で、それが第二次世界大戦後大阪へと移って人気演目となり、後に東京へ逆輸入され、現在では東京でも『酢豆腐』ではなく『ちりとてちん』を演じる落語家もある程度いる。なので一概にすぱっと分けるのもどうかと思わないでもないが、やはり一般的には、東京『酢豆腐』の大阪『ちりとてちん』である。『酢豆腐』のあらすじはこうだ。******夏の盛り。町内の若い衆があつまって一杯やる相談をしていた。酒はあるが銭がないの...ちりとてちん

  • 「水」を飲まない「馬」

    「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」英語表記では”Youcantekeahorsetothewater,butyoucan'tmakehimdrink."。イギリスのことわざです。「人は他人に対して機会を与えることまでしかできず、そこから先へは手出しができない。結局のところ実行するかどうかは本人がやろうとするかどうかにかかっている。」という意味です。この言葉をわたしが初めて聞いたのは、高知県建設訓練校の生徒だった33歳のとき。飼い主が水を飲まそうと川へ連れてきた馬の首根っこをつかまえて、水辺に口を持っていこうとしているのに、イヤイヤをしてけっして飲もうとはしない馬。アタマに浮かんだそのイメージを今でもハッキリと覚えています。語ってくれたのは当時の校長先生。16歳から50歳以上...「水」を飲まない「馬」

  • 「わからないからやらない(できない)」(=「わかったらやる」)という人へ

    「どういったことをすればいいか、よくわかんないんですよね」と受話器の向こうの人が言ったのです。「それはアナタが考えない(=わかろうとしない)からでしょうが」と断じたい気持ちをグッと抑えて話を聞くと、「わからない」から「できない」、ゆえに何をすればよいのか「わからない」のだというようなことでした。「それではまるで子どものようなもんじゃないか」そう思ったのもまた、口には出さず飲みこんで、とりあえずは言い分を聞いてはみたのです。その彼の発言をして、わたしが「子どものようだ」と指すのはこのような意味合いからでした。何が「わからない」かが自分自身で「わからない」。だからとりあえず、「わからない」を口から発して、大人にその「わかる」を肩代わりさせようとする。わたしにはそれが、「子どものようだ」と。良く言えば無邪気です...「わからないからやらない(できない)」(=「わかったらやる」)という人へ

  • 令和四年一月四日のオムライス

    三が日も終わった翌日、わが家から客人の姿が消えた日のことである。当日は折しも晴天。妻と帰省中の娘と3人で、海岸線ドライブをたのしみながら県境のまちまでポンカンを買いに行こうと出発したのは昼前だった。さて、どこかで正月料理にくちくなった腹に負担をかけないぐらいの軽食を、と立ち寄ったのが国道沿いのドライブイン。閑散とした駐車場に車を停め、なかに入ると先客がひと組。その脇を通って道路沿いのテーブルへと腰をおろす。陽光がさんさんと降りそそぐ席だ。メニューを見るなり、わたしのオーダーは決まった。オムライス。少食のわたしにとっては、けっして軽食と呼べるほどのものではないが、ドライブインとオムライスが脳内でシンクロナイズしたとたん、それは是が非でも食わなければならないものとなった。ほどなくして、3人のうちもっとも早くわ...令和四年一月四日のオムライス

  • もせつく

    「もせつく」というのは土佐弁だとばかり思っていたが、検索してみると愛媛方言としてしかヒットしない。その意味はというと、「まとわりつく」「べたべたする」「生き物がくっついてくる場合に使用する」と、用法としてはわたしたちが使うところの「もせつく」と全く同じだ。といっても、世の中にはインターネット検索で明らかになることとならないことがある。それをもって「もせつく」が伊予弁であって土佐弁ではないという論拠にはなるまい。若いころから小さな子どもが好きである。いや、ついついそう言ってしまったが、その表現は適切ではない。若いころは好きだった。では今はどうかというと、たしかに嫌いではないが、あえて好きだと言うほどのものではない。思い起こすに、年齢を重ねるにつけそうなってきたような気がする。そのせいだろうか。小さな子どもに...もせつく

  • 男の傷

    年の暮れに知人と行った高知市内のBARで、「あら、どうしたんですか?そのキズ」と問われ、「あぁコレね・・」と理由(わけ)を言う。といっても、どうということもない。よくあることだ。その昼間、柚子の剪定作業中に荊棘でつけたものだった。そこで、そうそうそういえばと思い出したことひとつ。25年ほども前のことだ。家でふざけていて脳天にケガを負い、ガーゼをまいて出社した翌朝。その常ならぬ出で立ちに誰も何の指摘も問いかけもなかった日のこと。あれはいったい何だったのだろうか?今思い出しても不思議である。そのことに触れてはいけないような空気を、わたしが醸し出していたのだろうか?いやいやその実は、そのケガの由来が自らのオチャラケであることを誰よりもよくわかっていたのだもの、そのオチャラケをチャラにするには、さらなるオチャラケ...男の傷

  • 時間感覚

    「オレよ・・」やおら切り出したわたしの周りには娘ふたりと姪っ子ふたり。正月のことである。この酔っぱらいがまた何を言い出すんだろうかとコチラを向いた彼女らに、わたしが宣言したのは、「90まで生きようと思う」すかさず「ええやんか」笑いながら誰かが言った。「じいちゃんが69歳で死んだやろ・・・ほんでオレもそれぐらいやと・・勝手に自分の寿命を決めちょったわけよ・・・・根拠もなしに・・けど最近考えが変わって・・生きれるものなら90歳ばあまで生きろうと・・・・っていうかそれを目標にしようと・・・そう思い出したわけよ」「ええやんか」また誰かが言った。全員が笑っている。「と言うてもねえ・・あと25年しかないわけよ・・・・90歳まで生きたとしても、あとたった25年・・・・・で、90まではまず可能性として薄い・・まあええとこ...時間感覚

  • 朝めし前の

    わたしが会社のインスタグラムを更新するのは、だいたいのところ朝食前だ。もちろん家にいる。何時、と決めているわけではないが6時前後が多い。朝めし前のインスタグラムである。ところがその「朝めし前」が、近ごろちょっと困ったことを引き起こしている。インスタグラムに写真をアップロードするためには、当然のことながらインスタグラムを開かなければならない。すると、否が応でもわたしがフォローしているアカウントの投稿が目に入る。そこでは、自分自身が目を通す頻度が高いアカウントのそれが上位に出てくる。ホントにそうなのかどうかはわからないが、なんとなくそういう仕組みになっているような気がする。「朝めし前」の困ったこととは、例えばコレである。いや、いわゆるグルメ系の画像は、その手のアカウントをほとんどフォローしていないわたしでも珍...朝めし前の

  • 存亡禍福は皆おのれに在るのみ

    『説苑』(ぜいえん、前漢の故事説話集)より存亡禍福皆己而已天災地妖不能加也[読み下し]存亡禍福は皆己に在るのみ(ソンボウカフクはミナオノレにアるのみ)天災地妖もまた殺ぐこと能わざるなり(テンサイチヨウもまたソぐことアタわざるなり)[現代語訳]繁栄するか滅亡するか幸福になるか禍いを受けるかその分かれ道はすべて自らの振るまい次第である。天災や地異も決してそれを変えることはできない。[内容]魯王哀公が問う。そもそも国家の存亡や禍福は天命によるものであって、人間の責任ではないのではないか?孔子答えていわく。存亡や禍福は、これ皆おのれ自身の責任に因り、天災や地妖(地に起きる奇怪な現象)もそれを変えることはできない。哀公がまた問う。そのような実例はあるのか?孔子答えていわく。殷王帝辛の世に、城の隅で雀が大鳥を産んだこ...存亡禍福は皆おのれに在るのみ

  • 令和5年のお弓祭りを終えて

    令和5年の「お弓祭り」がつつがなく終了。といっても開催の有無については紆余曲折がありました。北川村木積星神社の「お弓祭り」は、醍醐天皇の親政が行われたことにより歴史に名を残す延喜の御代より数えて千百有余年つづく神事で、2年に一度行われますが、前回はコロナ禍の諸事情をかんがみ、やむなく中止。4年ぶりの開催となった今回は、折からのコロナ第8波を考慮し、参加者は必要最小限のごくごく少数にして、あえておおっぴらな告知はせず、「おきゃく」(宴会)はやらない、全員飲酒禁止、設えも簡素なものに、弓引きさんは経験者のみ、などなどという、従来に比べるとかなり大幅な簡素型となりました。兎にも角にもつづけよう、つづけなければならない。そのためには今回も取り止めとするとダメージが大きい。そういった意思の発露として考えると、なによ...令和5年のお弓祭りを終えて

  • 冬春夏秋

    今年の冬は寒い。実際に寒いのにかてて加えて、体感としてとりわけそう感じてしまうのは、十数年前から極度の冷え性になってしまった身体の変化ゆえか、あるいは寄る年並で堪え性がなくなったからか、たぶんどちらもなのだろう。冬といえば、年の暮れに読んだ本にこんな記述があった。******富山の四季は次の順序で見るべきだと考えています。冬⇒春⇒夏⇒秋一般的な「春夏秋冬」の順序で四季を見ていくと、最期に「暗くなって終わる」となってしまい、地味な富山をよりいっそう地味に感じてしまうのです。また富山の冬から春への季節の移り変わりは、日本でも有数の素晴らしさであると思っています。「冬⇒春」の順序を明確にすることにより、それを表現できると思うのです。(『先用後利のビジネスモデル』桐谷恵介、宮崎友之、大橋久直著、中央経済社刊、P....冬春夏秋

  • 飲んだら飲まれる

    「酒は飲んでも飲まれるな」という格言(?)については何度か書いた。飲酒に際しては「飲まれる=自分を見失う」ことを避けるように心がける。飲み始めた若い時分から五十年近く経った今に至るまで、多くの場面でそう戒めてきた。といっても、いつもいつでもそれが実現できたかというと、そのようなことがあるはずもなく、それはもう、数多くの失敗を積み重ねてきたことは言うまでもない。であるからこその「酒は飲んでも飲まれるな」だが、そもそもそう意識しなければならないということは、すなわち「飲んだら飲まれる」の裏返しに他ならない。そんな至極当たり前のことに、あらためて気づかされたのは昨年末。桂浜水族館の公式Twitterアカウントによってである。そこにアップロードされていたのは、次のような投稿だった。「酒は飲んだら飲まれんねん」食後...飲んだら飲まれる

  • ポチる朝

    「とことん考え抜いてはじめて真に知ることができる」ショーペンハウアーの言葉らしい。『自分の頭で考える』というエッセイの一節であり、そのなかで彼は、「大切なのは読書ではなく、自分の頭で考えることだ」と説いているという。というのを知ったのは今朝の新聞紙上で、である。ふむ。だな。とうなずくと、ぬるくなったインスタントのコーンスープをぐびり。確かに、わたしにとって良い本とは、読んでいて何かを考えさせてくれるものである。脳内で次から次へと思考が展開され読み進めるのが困難となるまでいけば、その本は最良の部類に入ることマチガイなしだ。その逆に、字面を追うのに終始するだけとなる本はつまらないことこの上ない。もしも、なんだそれでは読書に集中していないではないか、と言われても、そういうものだものと答えるしかない。ごくごく私的...ポチる朝

  • 情報は人生を変えるか?

    正月にはテレビをよく見る。ふだんより多くという意味で、よく見る。そんななか初見のものに出会うのもよくあることだ。そのうちのひとつがSmartNewsのCMだった。登場人物はふたり。「情報を持つ者」(柳楽優弥)と「情報を持たない者」(伊藤沙莉)。察するところ会社の先輩後輩のようだ。ご存知でない方に、その順を追ってその内容を紹介しよう。まずエピソード1。世界的インフレを知らせるニュースに「なにコレヤバいの?」と柳楽が動揺する横で背景となる要因を冷静に分析する伊藤。次にエピソード2。自己流の負荷をかけて無茶な筋トレをする柳楽の横で「それ腰、やっちゃいますね」と効率よく鍛える伊藤。つづいてエピソード3。ランチの店が見つからず「どこでもいいよね」とあきらめかけた柳楽に、伊藤は穴場の激辛ラーメンの存在を教える。ふたり...情報は人生を変えるか?

  • 酉の刻前から亥の刻過ぎまで

    瀧川鯉昇を聴いている。憑かれたように聴いている。こういうのを今風には「はまった」というのだろうな、と思いながら聴いている。きのう今日は、柚子の剪定作業をしながら聴いていた。そんななかのひとつが「時そば」だった。言わずと知れた古典落語を代表する演目だ。噺を理解するには江戸時代の「時」についての知識がなければならない。いや正しくは、「なければならない」ことはなく、算数、しかも一桁の足し算がわかれば理解できる。だがそこはそれ、江戸の世の時刻というものがどのような成り立ちであったかを知っているのと知らぬのでは、そのおもしろみがちがってくるだろう。ということで、鯉昇師匠は江戸時代の「時」についてのレクチャー(らしきもの)をまくらとしている(たぶん)。以下、そのまくらである。******十二支というのが、これがまあ人...酉の刻前から亥の刻過ぎまで

  • 諭吉の顔

    近ごろめっきりと現金を使うことが少なくなった。といっても、金を使わないということではなく、現ナマを使用しないという意味での「現金を使わない」。つまり、電子決済の便利さに毒されているというわけである。いや、一概に「毒されている」と決めつけるものでもなく、それはそれなりにメリットがあっての使用ではあるが、ココロの内で「毒されている」なと感じることは少なくない。デメリットの最たるものは、金銭感覚が乏しくなることだろう。やはり、財布から紙幣を抜き取り、それが野口か樋口か、はたまた諭吉かを確認しながら差し出すという行為は、身銭を切る、という実感がたしかにある。身体性をともなっていると言えばよいか。電子決済はそれとは正反対だ。身体感覚がない。したがって、ついつい使いすぎてしまうことがたまにある。ちょっと考えるだけでは...諭吉の顔

  • 65

    きのうで65歳になった。いわゆる前期高齢者の仲間入りであり、老齢基礎年金の受給資格ができる年齢であるという点では、一般的に節目の年齢であることには違いがないが、だからといってわたしの場合は、すぐに何かが変わるというものでもない。そんな65歳を祝してくれるメッセージを多く受け取ったなかで、もっともわたしのココロに残ったのは、関東在住の某大手メディアに勤めるFB友がくれたものだった。彼いわく、「地域に根ざした企業、仕事というのはこういうことをいうのか、と遠く拝見しています。終わりということがないと思いますが、ますますのご活躍を。」そうか・・・そう映るのか・・・ありがたかった。では具体的にどこのどの部分が?と訊ねるのは野暮というものだろう。たしかに、「終わりということがない」ものではあろう。しかし、組織的にはい...65

  • 捨てきれないもの

    どこをどう見たらそうなるのか、本人的にはさっぱりわからないが、わたしのことを几帳面な人間だと評価してくれる人が少なからずいる。ところがどうしてその実は、雑でルーズで大雑把なことこの上ない男だ。そんなわたしがどうしたことか、引き出しやデスク周りを片づけようと思い立ったのはきのう。「片づける」といっても、その作業のほとんどは「捨てる」。捨てるか残すかを決断するのが主な仕事であれば、捨てると決断しさえすればあとは早い。半日を覚悟していたその作業は2時間ほどですべてが終わった。それに気をよくした今朝。流れである。好機である。ついでにデスクのうしろにある本棚も片づけてしまおうと、事務員さんの助けを借りて作業を開始したが、さすがにそこにある資料関係については「捨てる」という判断をするのがためらわれた。すると、「これ全...捨てきれないもの

  • 寝る前読書

    世のなかには寝酒という習慣があるらしい。といってもわたしは、ほとんどそれをしたことがない。嘘をつけ、と言われるかもしれないが、正真正銘本当のことだから仕方がない。その代わり、といってはなんだが、わたしがするのは寝本だ。いやちょっとゴロがわるいな。寝読書。う~んこれもちがうな。では寝る前読書か。まあ呼称はどうでもよいが、とにかくほんの少しだけ本を読む。これがよほど疲れているかよほど酔っぱっているかを除いた就寝前のわたしの習慣である。読書とはいっても寝る前のそれは、ごくごく「軽いもの」と決めている。そりゃそうだ。脳みそをフル回転させなければ理解できないようなものを読んだ日には、とてもではないがアタマが冴えて眠れない。その逆に、難解な書物が絶好の眠り薬となるのはまぎれもない事実だが、睡眠薬として使いはじめてしま...寝る前読書

  • あらためて「利他」(その7) ~エピローグ~

    前回までの投稿はコチラ↓↓その1→プロローグその2→(談志の)『文七元結』その3→「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造その4→合理的利他主義批判その5→情けは人のためならずその6→下心の先にYoutubeに平成15(2003)年10月京王プラザホテルでの立川談志の高座が残っています。演目はもちろん『文七元結』。あらためて全編を聴いてみました。そのサゲの場面です。通常よくあるサゲで噺を終わらせるのがあきらかにイヤそうな彼は(というかハナから終わらそうとしていないように見えます)、「(麹町貝坂に元結屋の店を出し)たいそう繁盛したというおなじみの目出度い文七元結(でございます)」とわざとおどけた口調で言ったそのすぐあと、「だけどコレネやっててね」と切り出して、「う~ん」と言いながら腕を組みます。...あらためて「利他」(その7)~エピローグ~

  • あらためて「利他」(その6) ~「下心」の先に~

    前回までの投稿はコチラ↓↓その1→プロローグその2→(談志の)『文七元結』その3→「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造その4→合理的利他主義批判その5→情けは人のためならずと言いつつも、企業人としてのわたしは、この頭の中からどうしても「下心」を取り去ることができません。「めぐりめぐって」をその理想としながらも、直接的な恩恵を得たいという煩悩から逃れることができません。どころか、積極的にそれを画策したりもします。そりゃそうでしょう。会社(企業)とは、利益を上げつづけなければ存続することすらできないものなのですから。だからこそわたしは、「自己の利益を図るためには他人の利益を図らなければならない」という考えに拠って立ち、それからの方法論を探ろうとします。その考えにおいては、まず前提とされるのは「...あらためて「利他」(その6)~「下心」の先に~

  • あらためて「利他」(その5) ~情けは人のためならず~

    前回までの投稿はコチラ↓↓その1→プロローグその2→(談志の)『文七元結』その3→「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造その4→合理的利他主義批判ここまで『思いがけず利他』を(特に「談志の文七元結」にかかわる箇所に焦点を当てて)引きながら、中島岳志的「利他とはなんぞや」を紐解いてきました。すると当然のように、「ではオマエはどう考えるんだい?」という問いを自らに向けて立てなければなりませんし、それを避けてとおることはできません。ということで、現時点での「私と私の環境」におけるわたしの考えを記しておくことにします。念のためことわっておきますが、この場合の「私と私の環境」とは、公共建設工事というビジネスに生きる「私と私の環境」であって、社会や家庭の「私と私の環境」はまた別のものです。ですから以下に...あらためて「利他」(その5)~情けは人のためならず~

  • あらためて『思いがけず利他』(その4) ~合理的利他主義批判~

    前回までの投稿はコチラ↓↓その1→プロローグその2→(談志の)『文七元結』その3→「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造さて、中島氏が間接互恵的利他の危険性をさまざまな角度から説くそのなかで、もっともすんなりとわたしの腑に落ちたのが、頭木弘樹著『食べることと出すこと』における著者自身の体験談を紹介したくだりでした。以下、頭木氏が体験したエピソードをかいつまんで説明します。まず前提として、頭木氏は潰瘍性大腸炎という持病を持っていました。そのため、なんでも食べられるわけではなかったということを頭に置いて読んでください。あるとき、仕事の打合せで食事をすることになったのですが、「これおいしいですよ」と相手から勧められたものが食べられないものだった頭木氏は相手にそう伝えます。その場はそれでおさまったの...あらためて『思いがけず利他』(その4)~合理的利他主義批判~

  • あらためて『思いがけず利他』(その3) ~「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造~

    前回までの投稿はコチラ↓↓その1→プロローグその2→(談志の)『文七元結』******談志は、長兵衛の贈与を「美談」とすることを拒絶します。長兵衛が文七に共感し、青年を助けたいという良心を起こして五十両を差し出すという解釈を退けます。談志は一体、長兵衛の行為をどう捉えているのか。ここに私は贈与を考える重要なポイントがあると思っています。(P.21)******このあと中島氏の筆は、親鸞、そして宇多田ヒカルと論を展開していきます。そこでのポイントとなるのが「業」です。******「業」とは、It'sautomaticなのです。私たち衆生の業もオートマティックなものですが、仏の業もオートマティックなものです。仏は衆生を救ってしまうのです。煩悩にまみれ、悪人としてしか生きることのできない私たちを、必ず救済する。...あらためて『思いがけず利他』(その3)~「どうしようもなさ」が「利他の本質」へと反転する構造~

  • あらためて『思いがけず利他』(その2) ~(談志の)『文七元結』

    第一回はコチラ→あらためて『思いがけず利他』(その1)~プロローグ真の利他とは「無意識の利他=純粋利他」でなければならない。これが『思いがけず利他』のなかで中島岳志の説くところです。そしてその「純粋利他」の代表格が『文七元結』、しかも立川談志が『文七元結』で演じた世界だと中島氏は言います。では『文七元結』とはどのような噺なのか。『思いがけず利他』から引いて紹介してみましょう。最低限このあらすじがアタマに入っていないと、このあとの話の展開がちんぷんかんぷんなので、少々長くなりますが、全文を引用することとします。******この噺の主人公は長兵衛。腕のいい左官職人です。しかし、あるときから博打にはまってしまい、仕事がおろそかになってしまいました。妻のお兼と娘のお久は、貧困生活を余儀なくされます。家財道具や着物...あらためて『思いがけず利他』(その2)~(談志の)『文七元結』

  • あらためて『思いがけず利他』(その1) ~ プロローグ

    約一年前から聴きはじめた落語を拙講の小道具として用いたことが何度かあった今年、使ったのはふたつ、一つは(桂米朝の)『百年目』で、もうひとつは(立川談志の)『文七元結』でした。前者は「持ちつ持たれつ」、後者は「利他」について話を展開するための導入部として使ったのですが、といってもその回数は『百年目』の方が圧倒的に多く、『文七元結』はといえばたったの一度だけ、某県の若手現場技術者研修がその機会でした。『文七元結』と「利他」。突飛な組み合わせのように思われるかもしれません。というより、落語好き(歌舞伎の演目としてもありますが)ならいざ知らず、そうでない人にとっては『文七元結』という噺の題名を聞かされてもピンとこないのかもしれません。といっても、いつものようにわたしオリジナルの知見ではなく、中島岳志『思いがけず利...あらためて『思いがけず利他』(その1)~プロローグ

  • 酒はのんでも

    あれはたしか、わたしが故郷を離れる直前だったか、いやいやそれとも一年目の帰省だったか、いずれにしても頃は春。それが十八か十九かという歳のちがいは、今となってはどうということもない。誰の、かは皆目覚えていないが法事の席だった。「おんしゃあ(おまえ)けっこう呑めるなあ」とその時わたしに言ったのは祖母の兄。大伯父である。「けんどにゃあ(けどなあ)」という逆接を挟んでそのあとにつづいた彼の言葉、顔と口調は、それから四捨五入すれば50年が過ぎようとする今でもはっきりくっきりと覚えている。「酒はなんぼのんでもえいけんど、酒にのまれたらいかんぞ」「へーうまいこと言うもんやなあ」と尊敬の眼差しを向けたであろうわたしは、広く世間一般に流布されたその言葉を、その時までまったく耳にしたことがなかった。「酒はのんでものまれるな」...酒はのんでも

  • うどん

    先日高松へ行った。彼の地へ行けば、ほぼ10割の確率でうどんを食っている。といってもそれは珍しくもないことだ。香川県外で暮らすものが香川へ行けば、ほとんどの人がそうするだろうと思われるぐらいに当たり前のことである。だが、ひねくれ者かつ食べ物に対しては無精なところがあるわたしは、いわゆる有名店というやつを追いかけてまでうどんを食うことはない。そこらにある何の変哲もない店に飛び込んで食うのが常だ。なにもそれは、うどんに限ったことではない。どこで何を食うにしても呑むにしても、おおむねそうである。といってもあくまでそれは単独行動のときに限っている。複数で動くときは、その他のメンバーに付き合って有名な店に行くこともある。事前にリサーチすることも茶飯事だ。意外かもしれないが、こう見えて協調性には富んでいる方だ。そこまで...うどん

  • スタイルチェンジか?

    昨日一昨日と、十数年慣れ親しんだふだんの文体とは異なる書き方をしました。といっても、はじめはまったく意図したものではなかったのです。たぶん糸井重里さんの口調に、ついついつられてしまったのでしょう。******白状します。ぼくも「自分をよく見せる読書」をしていました。******ここまで書いて気づいたのですが、そのままそれで押し通したのは、なんだかとても新鮮でおもしろそうだったからです。そこで大きなハッケンがありました。文体を変えれば、書いている当人の気分まで変わるということに気づいたのです。いつものぼくの文章は、ひとつのセンテンスはできるだけ短く、語尾は「だ・である」を用いてきました。それに対して昨日一昨日は、センテンスを短くすることは特に心がけず、語尾には「です・ます」を使うようにしました。そうそうもう...スタイルチェンジか?

  • 自分をよく見せる読書2

    さはさりながら・・・なのです。きのう「自分をよく見せる読書はしない」と言った舌の根の乾かないうちに、「さはさりながら」と前置きして書き始めるとすれば、いったいどちらなのよと訝しがる向きも多いでしょうが、「とはいってもね」と思ってしまったのでした。そもそも、それが顔が見えるひとであれ見知らぬ誰かであれ、こうやってどこかの誰かが読むことを前提としてブログを書くという行為をつづけていること自体が自己顕示欲の発現なのでしょうから、今さらそのような人間が「自分をよく見せる○○はしない」と言ったところで、その実現可能性はほぼ皆無に等しいと断言しても差し支えはないでしょう。「反省だけならサルでもできる」とは、反省するような態度だけを見せても意味がないという意味で使われる言葉ですが、言い換えればそれは「できもしない反省な...自分をよく見せる読書2

  • 自分をよく見せる読書

    ******この年になって、僕はようやくコツをつかんだんです。それは、「自分をよく見せる読書はしない」ってこと。(中略)今は自分をよく見せることに頑張りたくなる時代だし、僕以外にもそうしている人もいるかもしれないですね。武器やお化粧みたいに読書歴をしてしまうというか。「あの店、行った?まあまあおいしかったよ」「さすが通だね」って褒め合うグルメ評と同じで、僕も長年そうしてきたところがあったけれど、ふと、それは違うんじゃないかって気付いたんです。(中略)もっと読書というものを解放して気楽なものにするためにも、「カッコつけない読書」を広めたいなと思いますね。(『日経BOOKプラス>糸井重里「本からはじまる、本でつながる」>糸井重里の告白「僕はもう、よそ行きの読書をやめました」より』******白状します。ぼくも...自分をよく見せる読書

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