与謝野光「晶子と寛の思い出」 思文閣出版 平成3年(1991年)を購入。帯には 90歳の回顧録 与謝野晶子没後50年に際し、長男が素顔の寛と晶子、そして新詩社に集った多彩な浪漫派歌人たちの思い出を語る とある。与謝野晶子は12人の子どもを産み育てて、多
国立近代美術館で森鴎外の友人である原田直次郎(1863‐1899)の「騎龍観音」に出会いました。早逝した画家の作品だと思うからか、迫力といったものを感じました。撮影が許可されている美術展はありがたいですね。父原田一道、甥の原田熊雄など、原田直次郎の周辺に
ルーベンスと太宰治は永遠に残る作品を作り出した、という点では一致しているように思われる。ルーベンスにとってはカラヴァッジオ、太宰治にとっては芥川龍之介という才能あふれるしかも早逝した牽引役がいたという点でも共通点がある。太宰治は画家志望の兄がいて、少年
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与謝野光「晶子と寛の思い出」 思文閣出版 平成3年(1991年)を購入。帯には 90歳の回顧録 与謝野晶子没後50年に際し、長男が素顔の寛と晶子、そして新詩社に集った多彩な浪漫派歌人たちの思い出を語る とある。与謝野晶子は12人の子どもを産み育てて、多
次のような論文をみつけた。資料紹介 太宰治「作家生活に対する構へ、覚悟。」・ほか―― 太宰治と保田与重郎をめぐって ―― 山内祥史」によると「新潮」昭和11年の「新年特大号」(第33年第1号、昭和11年1月1日発行)に作家としての心構へ・覚悟(回
新潟・長岡の岩塚製菓の「鬼ひび 梅昆布味」がおいしかったです。袋には米技心 新潟長岡銘米菓 東京・恵比寿 賛否両論 笠原将弘監修米(原材料)技(製法)にこだわり心を込めてつくりましたこだわり日本のお米を100%使用した心地よい歯ごたえの煎りあ
「騎龍観音」の近くで見かけました。「麗子像」で知られる岸田劉生(1891‐1929)のこの作品は不思議なひきつける力を持っているようです。二本の電柱の影のせいでしょうか。それともエネルギーを秘めたような道路のせいでしょうか。1915年の作品だとのことで
国立近代美術館で森鴎外の友人である原田直次郎(1863‐1899)の「騎龍観音」に出会いました。早逝した画家の作品だと思うからか、迫力といったものを感じました。撮影が許可されている美術展はありがたいですね。父原田一道、甥の原田熊雄など、原田直次郎の周辺に
ルーベンスと太宰治は永遠に残る作品を作り出した、という点では一致しているように思われる。ルーベンスにとってはカラヴァッジオ、太宰治にとっては芥川龍之介という才能あふれるしかも早逝した牽引役がいたという点でも共通点がある。太宰治は画家志望の兄がいて、少年
太宰治は「フランダースの犬」を読んで、周辺に聖書に詳しい人間がいたのでルーベンスについて踏み込んで考えることが可能だったのかもしれない。「走れメロス」の末尾に(古伝説と、シルレルの詩から。)とあるのがシラクス(シラクサ)についての入り口とも考えられる。
教科書にも取り上げられたりする「走れメロス」なのだがなんだか違和感みたいなものというか、何を埋め込んでいるのかがよくわからないと思っていた。プラトンの年表を眺めていたときに、「シラクサ」という地名が出てきて「走れメロス」の舞台がシラクスであった、こと
1600年前後は、日本で大地震が続いたようである。ヨーロッパでも異常気象が続き、また感染症が津波のように襲っていたかもしれない。マリー・ド・メディシスが愚かな浪費家であった、というのは違うのではないだろうか。国難のときに君主はどのようにするべきか、を
世界史で、ルネッサンス → 宗教改革 → 対抗宗教改革(反宗教改革)という流れでの17世紀の30年戦争だと思っていたのだけれど・・・・そう単純なものではなかったらしい。ルネッサンスは細々と持ちこたえて、少なからずの人たちの凍てつく心を温めていた、とい
ルーベンスが弟子アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画を描いている。画像はWikipedia英語版より1627年から28年ごろの作品だそうで、アンソニー・ヴァン・ダイクによる自画像での美少年をみていたりすると、20代なのに衰えを感じて、ルーベンスの容赦のない筆はな
ルーベンス「三美神」は気になる絵の1枚である。ルーベンスは、どこかでは自分の外交での仕事を誇示したいとの思いがあったのではないか。この「三美神」の1人はマリー・ド・メディシスだとして、あとの2人は?イサベラ・クララ・エウへニア(1566-1633) 父
1631年に、マリー・ド・メディシスはフランスからスペイン領ネーデルランドへ向かい、7年ほどを過ごす。その後、オランダを経てロンドンに3年近く滞在する。1640年5月にルーベンスが他界。1641年10月にドイツ・ケルンに到着。1642年7月にマリー・
前出「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」より・ある日、アンリ4世はマリ・ド・メディシスにこう言ったらしい。「私の生命が尽きるときは、あなたの苦しみの始まりとなろう。私がいささか厳しく息子を鞭打ったことを、あなたは嘆いたことがあったが、いつの日
アントウェルペンの聖母大聖堂に掲げられたルーベンスによる「聖母被昇天」は、「マリ―・ド・メディシスの生涯」を完成してすぐの作品で、こちらもほとんど自らで完成させたものとのこと。また、1611年のあたりに描かれたという「キリスト昇架」「キリスト降架」のう
マリー・ド・メディシスの肖像画とルーベンスの自画像をあれこれ比べると(画像はともにWikipediaより)この2枚がもっとも輝きをもって感じられるこの2枚の絵は、ちょうどルーベンスによる「マリ―・ド・メディシスの生涯」の制作時期と重なる。この2枚の絵も2人
ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュは1615年に結婚し、1638年にようやく長男、のちのルイ14世が誕生した。このルイ14世の父親について、リシュリューまたはマザランといった説がささやかれてきたとか。アンヌ・ドートリッシュは100人ほどのスペイン出身者に
ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」の連作はマリー・ド・メディシスの壮大な構想から生まれたものであったらしい。マリー・ド・メディシスは永遠に残るものとはどういうものか、を考え、成功したといえるのではないだろうか。太宰治の目指したことでもあったよう
Raimond Spekking / CC BY-SA 4.0 (via Wikimedia Commons)なぜマリー・ド・メディシスは、最期の地をドイツ・ケルンにしたのか。窮迫していたとはいえ、パリでもロンドンでもどうにかなったかもしれないのに。ケルンは、ルーベンスが少年時代を過ごしたところである
フランス王妃マリー・ド・メディシスは27歳で結婚するまで、哲学や芸術などいわば皇帝学を学んだのではないだろうか。家臣団を率いて、フランスでカトリーヌ・ド・メディシスの後継を務めるとすれば王妃というよりも女帝としての覚悟が必要だったはずである。拙著「夏の
ルーベンスの自画像によって、ルーベンスが目の前にいるかのように思えたりする。晩年の自画像はおや、その手は?どうなさったんでしょうか?自画像を含めて、ルーベンスの描く人物の中に関節リウマチの指の変形が見つかるとか。→ こちら痛みがない若い頃がなつ
ルーベンスとマリー・ド・メディシスの関係が、玄宗と楊貴妃のように感じられてきた。恋愛というよりも、その時代を超えて共にいる存在というか。「マリー・ド・メディシスの生涯」から1600年の「マリー・ド・メディシスとアンリ4世の代理結婚式」にはルーベンス自身
1629年から30年にかけてルーベンスはロンドンに滞在したという。その間にチャールズ1世のために描かれたという「マルスから平和を守るミネルヴァ」(「平和と戦争」など題名が複数あるようです)解説については こちらまた、Wikipedia から こちら解説を読
外交官としてのルーベンスは具体的にはどのような仕事をしたのだろうか。「マリー・ド・メディシスの生涯」は、フランス王妃であるマリー・ド・メディシスによる娘のヘンリエッタ・マリアとイギリス国王チャールズ1世との婚姻に際しての依頼であったとか。これは1625
スペイン領ネーデルラント大公妃であったイサベラ・クララ・エウへニアについて こちらアロンソ・サンチェス・コエリョによる20歳前後のころの肖像画があって小人の侍女とともに描かれている。この侍女の名前はマグダレーナ・ルイズとのこと。画像はWikipediaより。
2006年4月の記事である ルーベンス〔15〕は こちら今になって振り返ると、ルーベンスやベラスケスは森鴎外に近いものを感じる。したがって、芥川龍之介や太宰治は、その途中で早逝した、と考えてみるべきかもしれない。子供好きの平和主義者であったルーベンス
キリスト教系の幼稚園で、聖書の物語をよく聞かされていたがその中でもモーゼとイエス・キリストそれぞれにまつわる幼児虐殺の話はよくわからないながらも記憶に刻まれた。幼児虐殺について こちらイエス・キリストについてはヘロデ王の命令ということであった。ヘロ
1989年5月から6月にかけて、主人は研修期間を利用して、第2次世界大戦中の国際舞台となった場所へ個人での旅行に出かけました。新潟 ― ソ連 ― 東欧 ― 西ドイツ ― オーストリア ― イタリア ― スイス ― フランス ― スペイン ― ポルトガル
なぜ、芥川賞の第1回に、太宰治ではなくてごく地味な石川達三が選ばれたのか。石川達三「蒼氓(そうぼう)」はブラジルへの移民を題材にしたものであった・・・ → こちら当時には、山本喜誉司の存在はよく知られていたはず。今ごろになって私などは納得できたりするの
写真は「新潮日本文学アルバム・芥川龍之介」より芥川龍之介は北京で、中学以来の親友である山本喜誉司の家を訪問した。山本喜誉司の姉の娘、すなわち姪が芥川龍之介の妻、文であるとのこと。山本喜誉司については こちら当時は三菱の北京駐在員であったとのこと。
今年も我が家で、柑橘類の3本の木に花が咲いている。この3本とも実生の木で、そのせいか香りが強い。いつもよりたくさんの花に感じられる。主人がこれを見たら喜んだことだろう。薫風とは旧制広島高等学校の寮の名前だ、と主人から聞かされたのであったがその
永井荷風が「つゆのあとさき」という小説を書き、森鴎外や太宰治がムラサキツユクサを好んでいたと書かれていたりする。ツユ=露 → ロシア に気がついたりする。確かに日本はロシアとの戦争で大きく変化した。森鴎外や芥川龍之介、太宰治は共産主義には疑問を持っ
森鴎外と夏目漱石に期待された木下杢太郎について、芥川龍之介の中国旅行と同じ時期に何をしていたのか、が気になった。木下杢太郎著・岩阪恵子選「木下杢太郎随筆集」 講談社文芸文庫 2016年年譜より一九二一年(大正一〇年) 三六歳三月、美術論集『地下一尺
芥川龍之介と中国 についてに戻ってみる。帰国後、体調悪化のなかでいくつかの作品を残している。中国旅行の前後で、作風は変化したようにも思われる。旅行後の「湖南の扇」は目立つ存在なのだけれど・・・・・当時の文壇はそれほど芥川龍之介を評価していないようで
若い太宰治は芥川龍之介をどう読んだのか。もしかしたら芭蕉にヒントがあるのかもしれないが、ゆっくり読んでいるわけにもいかない。芥川龍之介の辞世の句が気になっていた。一般的には 下島勲医師に託した 水洟や鼻の先だけ暮れ残る とされている。野上彌生子の
芥川龍之介にとって、この中国旅行は命がけのものであり、実際にこの旅行後、体調を悪化させ、長くは生きられなかった。とすれば、この旅行前の1921年3月に出版された「夜来の花」に何らかのメッセージが見つかるかもしれない、と思い、復刻版の中古本を購入した。「
芥川龍之介周辺には、どちらかというと影がある人物たちがいたようにも見えたりする。孤高の作家という一面と、スパイのような情報収集・情報交換といった役割があって、彼を支える人脈があったのではないだろうか。それほど中国語は得意でないはずの芥川龍之介が派遣され
ずっと気になっていることがあった。森鴎外が死の床で「馬鹿らしい」と大きな声でうわ言を発したのだとか。その理由は何だったのか。伊藤久子「感激に満ちた二週日 文豪森鴎外先生の臨終に侍するの記」より意識が不明になって、御危篤に陥る一寸前の夜のことでした。枕
上海にどうにか到着と思ったら、また体調を崩して乾性肋膜炎との診断で、3週間ほど上海にある日本人経営の里見病院に入院したのだという。前出「特派員 芥川龍之介」より入院生活 ・乾性肋膜炎で入院した龍之介を、院長里見義彦は手厚く遇した。里見には文学趣味があ
大阪で1週間ほど療養したのち、大阪を発って下関の宿で高熱を出し薬で押さえて門司から上海へ向かった。上海では大阪毎日新聞社の関係者やロイター通信社上海支局の記者トーマス・ジョーンズが出迎えた。トーマス・ジョーンズ(1890~1923)は、 アイルランド人で