明治から大正時代にかけて、短歌に関わった人々について調べてみると、あれこれ本を読めば読むほどわからなくなっていくような気分になっております。それでも細かいことになるほど、と思うことが多々ありました。石原純を知るためには、まず伊藤左千夫なのでしょうか。
明治から大正時代にかけて、短歌に関わった人々について調べてみると、あれこれ本を読めば読むほどわからなくなっていくような気分になっております。それでも細かいことになるほど、と思うことが多々ありました。石原純を知るためには、まず伊藤左千夫なのでしょうか。
三ヶ島葭子は、明治維新後にかえって注目されたりする家系につながっていて、目をひくものであった可能性はないでしょうか。石川啄木も石川氏ということに意味があったりする?三ヶ島葭子(1886-1927)は、石川啄木(1886-1912)と同じ年に生まれて、芥川龍之介(1892-1927)
私の場合、首都圏で地震が続いていたため、ネット掲示板に出入りして、その延長で17世紀のヨーロッパの歴史で調べたことを題材にしてブログを始めました。17世紀のヨーロッパで日本がブームであったことに気がついて、そのころの日本の歴史、その後、学生時代から興
三ヶ島葭子の親友であった原阿佐緒についての評伝は原阿佐緒: うつし世に女と生れて (ミネルヴァ日本評伝選)秋山 佐和子ミネルヴァ書房2012-04-01物理学者石原純については科学ジャーナリズムの先駆者――評伝 石原純西尾 成子岩波書店2011-09-29この2人の恋愛事件は当
新版三ヶ島葭子全歌集刊行委員会編「新版 三ヶ島葭子全歌集」角川文化振興財団 2023年という文庫版の歌集を購入しました。新版 三ヶ島葭子全歌集三ヶ島 葭子KADOKAWA2023-11-27この文庫本と歌集「吾木香」を並べるとこれまで 全歌集について1934年「三
こちらは、若山牧水(1885-1928)のよく見かける写真です。 若いころの写真かと思っていたら、亡くなる数か月前の写真だとか。帽子のせいか、三ヶ島葭子とその娘みなみ、との写真とが呼応しているかのように感じました。なぜ、そう感じてしまうので
所沢市三ヶ島地区の三ヶ島まちづくりセンターに三ヶ島葭子資料室があります。ここで所沢市教育委員会発行・三ヶ島葭子編集委員会編「三ヶ島葭子」という本を購入しました。この題字はすでに高名となっていた中川一政によるものです。展示されている三ヶ島葭子の書
梅の花言葉は「負けない」だなんていう嘘は、有益ではないでしょうか。NO WAR!ランキングにご協力ください。人気ブログランキングへにほんブログ村</a
中川一政「美術の眺め」 講談社文芸文庫 1993年美術の眺め (講談社文芸文庫 なF 4 現代日本のエッセイ)中川 一政講談社1993-06-01裏表紙から・凛乎として九十七年の生涯を全うした類い稀な文人画家中川一政、若き日の気韻生動の第一エッセイ集。本文から三ヶ島
青森・八戸の美術商の方から送っていただいたカタログの中に気になる原敬の掛け軸があって、思い切って購入しました。原敬は晩年に愛人とされる女性に書の指導を受けていたとか。画像の検索をしてみると、同じ人間が書いたものとは思えないものがあったりで稽古に励んで
前の記事で、穴埋め的に南天の写真をアップしたのですが若山牧水が気になって検索したところ、青空文庫で下記の文章がありました。静岡・沼津に土地を購入してのころのようです。亡くなる3年ほど前のようで、漂泊の詩人がやっと定住を決めるとこのような心境になるので
前出「歌ひつくさば ゆるされむかも 歌人三ヶ島葭子の生涯」より三ヶ島葭子年譜 つづき・1909(明治42)年4月、『女子文壇』の晶子選歌欄に1首採られる。これより毎号のように短歌、書簡文、・美文、短文等を投稿。・1910(明治43)年4月より晶子の
前出「歌ひつくさばゆるされむかも 歌人三ヶ島葭子の生涯」より三ヶ島葭子 年譜 から抜粋・1886(明治19)年8月9日、埼玉県入間郡三ケ島村に父貫太郎、母さわの長女として生まれる。父は三ヶ島小学校長。両親の本家はともに神職。・1892(明治25)年
さらに寄り道をしてしまうことをお許しください。左卜全(ひだり・ぼくぜん)(1894-1971)という俳優は晩年に「老人と子供のポルカ」が大ヒットしたせいもあって多くの人たちの記憶にとどまっているようです。「飄々(ひょうひょう)とした」という言葉で左卜全を思い浮
入間航空祭が開かれていて、例年のように我が家の物干し台でカメラを構えました。爆音が聞こえてすぐシャッター☆右側には青空と黒い雲の境が見えていて、今年は背景が黒雲に。えっ、深読みが必要なんでしょうか。NO WAR!ランキングにご協力ください。人気ブ
偽装された原爆投下 広島・長崎原爆の物理学的・医学的エビデンスへの再検討ミヒャエル パルマー福村出版2024-11-21ミヒャエル・パルマ―著 原田輝一訳「偽装された原爆投下 広島・長崎原爆の物理学的・医学的エビデンスへの再検討」福村出版 2023年帯にはノー
9月11日になってもまだ暑い日が続いております。皆様お変わりありませんか。私は、猛暑の中、クーラーを使わないで過ごしてみておりまして夕方から夜にかけての風の心地よさがとりわけありがたく感じたりしました。残暑見舞いは、8月の末、あるいは9月7日ごろ
西武池袋線・小手指駅から国立新美術館直結の乃木坂駅には1回乗り換えだけで行けるだなんて知りませんでした。というか、黒川紀章設計の国立新美術館に初めて出かけました。実は通信教育で水彩画を申し込んで、その後、神戸の義姉の用事などがあって、水彩画どころでは
「青森の思い出」より・青森を去って一週間。思い出を語るには、まだ記憶が生ま生まし過ぎるが、強く引用に残っているのは、特別の出来事や風物ではない。八百五十日の愛着と生活の苦楽とを積み重ねて親しんだこの土地には、むしろ日頃の明け暮れのささやかな心象のひとこ
引き続き「三島由紀夫の苦悩」より・大正14年(1925年)1月生まれの三島は、終戦の時、満20歳であった。それより少なくとも2年早く生まれていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて取り組もうとした課題の
私はアメリカには行ったことがないのだけれど、青森から上京して、大学の寮に入ったとき、アメリカというものをなぜか身近に感じることができたような気がしました。タイサンボクが寮の庭先にあったりしたからでしょうか。教員をしていた主人も研究室からみえるタイ
著作集にはもう1つの三島由紀夫論である「三島由紀夫の苦悩」がある。この三島由紀夫に関する2つの評論は1976年、三島由紀夫の7回忌にあたり、それぞれ別の雑誌に発表されている。下巻 「三島由紀夫の苦悩」より・三島由紀夫の苦悩はなんであったか。彼を自決に至
吉田満が三島由紀夫について書いているあれこれには興味深いものがある。下巻 「ニューヨークの三島由紀夫」より・”ニューヨークの”という言い方は大げさだが、今から20年近く前のある日、朝から夜おそくまで三島由紀夫とニューヨークの街を歩きまわり、見物し、飲
5カ月ぶりに青森に出かけた帰りの新幹線で、なんとかまた撮ることができました。はちまき、たすきがけの気分で。
下巻の小冊子にはNHK・チーフディレクターであった吉田直哉が寄稿している。生きている問いかけ・べつに何ということもない、現代の日本の風俗を写した映像が、俄然ふかい意味をもち、緊張感を漂わせるものに変貌する――そんな魔法の杖を、一つだけ私は知っている。 吉
吉田満著作集の上巻と下巻それぞれに8ページの小冊子がつけられていて著者ゆかりの人々が心をこめての一文を寄せている。この小冊子はかなり貴重なものに思われる。中古本を、アマゾンでそれぞれ別なところからの購入で両方にこの小冊子がついていて幸運に感謝。幸運に
何度か黄水仙を取りあげて来たので、2025年の今年も黄水仙を。「希望」とは単純なものではないと思えたりします。時折、希望が打ち砕かれてしまうことがあったりして。太宰治も芥川龍之介と菊池寛の関係に注目して、芥川龍之介に同情したようだけれどあれこれ調
例年のように近くのサクラの写真をたくさん撮ったのだけれどなぜかこの1枚が気になりました。サクラは何かを訴えようとしている・・・・気のせいでしょうか。
なぜここにきて吉田満の書いたものをあれこれ読みだしたかというと山本七平「精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本」さくら舎 2016年で吉田満が取り上げられていたからです。山本七平は1970年にイザヤ・ベンダサンの名前で「日本人とユダヤ人」を出
小学生のころから十和田湖の「湖畔の乙女」は気になる存在でした。2019年6月にも 続 寧日記〔144〕 鴎外の横顔〔17〕という記事で触れております。 (写真は 十和田市 Towada and Beyond より )前出「散華の世代から」十和
前出「散華の世代から」Ⅳ転機より・私自身のことに触れるのを許されるならば、青年時代を通じて最も強く印象に刻まれた事件は、戦争と死生の体験であった。学徒兵として召されて戦場へおもむく、特攻作戦の一員となる、出撃前の一夜に生死の問題を語り合う、必死の海空戦
高齢になると自分の歩んだ道を振り返ることになるのですがまるで小説か映画のような筋書きがあったのか、と思うことがあります。青森で聖マリア幼稚園に入園し、当時は送迎バスがなくて市営のバスで通園していました。今思い出すとこわいような・・・・聖マリア幼稚園
ここのところ、X(旧Twitter)やYoutubeに気を取られて、こちらはコメント欄だけになっておりましたことをお詫びいたします。高齢になってみないと高齢者の身体や心理というものがわからないのだ、ということを痛感するこの頃なのですが、自分の若いころと比べて知識という
奈良・大和西大寺駅前にて
幸徳秋水はその家系と妻の証言から判断を間違わない稀有の人間であった、と仮定してみる。幸徳秋水は、大逆事件の首謀者ではなく、むしろ明治天皇暗殺事件を止めようとしていた、ということが後世でわかったようである。なお大逆事件の弁護団は11名であり、平出修が担
入間航空祭が開かれていて、以前のように我が家のベランダからの写真を撮ることができました。平和な日本の空で飛ぶ飛行機の姿を自慢してみます。
寄り道が長くなっております。平出彬「平出修伝」春秋社 1988年 を購入した。566ページの部厚い本である。中央:平出修右上より 森鴎外 与謝野鉄幹 与謝野晶子 木下杢太郎 幸徳秋水左上より 上田敏 石川啄木 吉井勇 北原白秋 高村光太郎 〔著
今回出かけたのは8月17日で、前日は台風のせいで新幹線が運休したりしていました。窓から見る雲は、表情が豊かというか・・・・
駅弁の包装紙のデザインから学ぶものは大きいっていうか・・・・
日本の景観で最も美しいのはこの水田の広がる風景ではないでしょうか。
コロナ禍のころは青森が遠くに感じられましたが、一部壊れたままであった実家の修理をこの春に依頼し、それが済んでその家で高校時代の友人たちとゆっくり話すことができたりしております。(実家の改修についてはブログ「椿峰のまち」で報告予定)ねぶた祭が済むと青森は
こちらは7月に撮影したものです。夕方の堤川で、ボートの練習をしている人たちがいました。青森のアジサイはたくましい感じです。道端の樹木でも手入れがよくされているようです。青森は時間がゆったりと流れているように感じられます。コロナによって、忙しいこと
青森の実家の2階の窓からトンボが引き込み線に止まっているのが見えました。ムクゲの木が大きくなっていて、なぜか撮ってくれとばかりの花が咲いていました。
ドナルド・キーン93歳の評伝 角地幸男訳「石川啄木」新潮社 2016年を再読。平出修に関係する部分を抜き出してみる。第14章 大逆事件・啄木研究家にとって幸いなことに、啄木の日記は明治44年1月3日に再開される。お蔭で我々は、より多くの自信を持って啄木
与謝野光「晶子と寛の思い出」 思文閣出版 平成3年(1991年)を購入。帯には 90歳の回顧録 与謝野晶子没後50年に際し、長男が素顔の寛と晶子、そして新詩社に集った多彩な浪漫派歌人たちの思い出を語る とある。与謝野晶子は12人の子どもを産み育てて、多
次のような論文をみつけた。資料紹介 太宰治「作家生活に対する構へ、覚悟。」・ほか―― 太宰治と保田与重郎をめぐって ―― 山内祥史」によると「新潮」昭和11年の「新年特大号」(第33年第1号、昭和11年1月1日発行)に作家としての心構へ・覚悟(回
新潟・長岡の岩塚製菓の「鬼ひび 梅昆布味」がおいしかったです。袋には米技心 新潟長岡銘米菓 東京・恵比寿 賛否両論 笠原将弘監修米(原材料)技(製法)にこだわり心を込めてつくりましたこだわり日本のお米を100%使用した心地よい歯ごたえの煎りあ
「騎龍観音」の近くで見かけました。「麗子像」で知られる岸田劉生(1891‐1929)のこの作品は不思議なひきつける力を持っているようです。二本の電柱の影のせいでしょうか。それともエネルギーを秘めたような道路のせいでしょうか。1915年の作品だとのことで
国立近代美術館で森鴎外の友人である原田直次郎(1863‐1899)の「騎龍観音」に出会いました。早逝した画家の作品だと思うからか、迫力といったものを感じました。撮影が許可されている美術展はありがたいですね。父原田一道、甥の原田熊雄など、原田直次郎の周辺に
ルーベンスと太宰治は永遠に残る作品を作り出した、という点では一致しているように思われる。ルーベンスにとってはカラヴァッジオ、太宰治にとっては芥川龍之介という才能あふれるしかも早逝した牽引役がいたという点でも共通点がある。太宰治は画家志望の兄がいて、少年
太宰治は「フランダースの犬」を読んで、周辺に聖書に詳しい人間がいたのでルーベンスについて踏み込んで考えることが可能だったのかもしれない。「走れメロス」の末尾に(古伝説と、シルレルの詩から。)とあるのがシラクス(シラクサ)についての入り口とも考えられる。
教科書にも取り上げられたりする「走れメロス」なのだがなんだか違和感みたいなものというか、何を埋め込んでいるのかがよくわからないと思っていた。プラトンの年表を眺めていたときに、「シラクサ」という地名が出てきて「走れメロス」の舞台がシラクスであった、こと
1600年前後は、日本で大地震が続いたようである。ヨーロッパでも異常気象が続き、また感染症が津波のように襲っていたかもしれない。マリー・ド・メディシスが愚かな浪費家であった、というのは違うのではないだろうか。国難のときに君主はどのようにするべきか、を
世界史で、ルネッサンス → 宗教改革 → 対抗宗教改革(反宗教改革)という流れでの17世紀の30年戦争だと思っていたのだけれど・・・・そう単純なものではなかったらしい。ルネッサンスは細々と持ちこたえて、少なからずの人たちの凍てつく心を温めていた、とい
ルーベンスが弟子アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画を描いている。画像はWikipedia英語版より1627年から28年ごろの作品だそうで、アンソニー・ヴァン・ダイクによる自画像での美少年をみていたりすると、20代なのに衰えを感じて、ルーベンスの容赦のない筆はな
ルーベンス「三美神」は気になる絵の1枚である。ルーベンスは、どこかでは自分の外交での仕事を誇示したいとの思いがあったのではないか。この「三美神」の1人はマリー・ド・メディシスだとして、あとの2人は?イサベラ・クララ・エウへニア(1566-1633) 父
1631年に、マリー・ド・メディシスはフランスからスペイン領ネーデルランドへ向かい、7年ほどを過ごす。その後、オランダを経てロンドンに3年近く滞在する。1640年5月にルーベンスが他界。1641年10月にドイツ・ケルンに到着。1642年7月にマリー・
前出「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」より・ある日、アンリ4世はマリ・ド・メディシスにこう言ったらしい。「私の生命が尽きるときは、あなたの苦しみの始まりとなろう。私がいささか厳しく息子を鞭打ったことを、あなたは嘆いたことがあったが、いつの日
アントウェルペンの聖母大聖堂に掲げられたルーベンスによる「聖母被昇天」は、「マリ―・ド・メディシスの生涯」を完成してすぐの作品で、こちらもほとんど自らで完成させたものとのこと。また、1611年のあたりに描かれたという「キリスト昇架」「キリスト降架」のう
マリー・ド・メディシスの肖像画とルーベンスの自画像をあれこれ比べると(画像はともにWikipediaより)この2枚がもっとも輝きをもって感じられるこの2枚の絵は、ちょうどルーベンスによる「マリ―・ド・メディシスの生涯」の制作時期と重なる。この2枚の絵も2人
ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュは1615年に結婚し、1638年にようやく長男、のちのルイ14世が誕生した。このルイ14世の父親について、リシュリューまたはマザランといった説がささやかれてきたとか。アンヌ・ドートリッシュは100人ほどのスペイン出身者に
ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」の連作はマリー・ド・メディシスの壮大な構想から生まれたものであったらしい。マリー・ド・メディシスは永遠に残るものとはどういうものか、を考え、成功したといえるのではないだろうか。太宰治の目指したことでもあったよう
Raimond Spekking / CC BY-SA 4.0 (via Wikimedia Commons)なぜマリー・ド・メディシスは、最期の地をドイツ・ケルンにしたのか。窮迫していたとはいえ、パリでもロンドンでもどうにかなったかもしれないのに。ケルンは、ルーベンスが少年時代を過ごしたところである
フランス王妃マリー・ド・メディシスは27歳で結婚するまで、哲学や芸術などいわば皇帝学を学んだのではないだろうか。家臣団を率いて、フランスでカトリーヌ・ド・メディシスの後継を務めるとすれば王妃というよりも女帝としての覚悟が必要だったはずである。拙著「夏の
アンリ4世の初めの妃は、カトリーヌ・ド・メディシスの末娘であるマルグリット・ド・ブルボンであり、子どもがなかったために別れたとのこと。小説にも登場する美貌の持ち主であったとか。Wikipedia英語版より結婚式のすぐあとに、サン・バルテルミの虐殺が起こったのだ
歴史や絵画に関して、学んでいるわけではない私が、ここにきてルーベンスにこだわっているのはなぜなのか・・・・ 私にとってのルーベンスはウィーン美術史博物館での「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」であったことを思い出した。エレーヌ・フールマンについて
フランスの歴史で人気が高いというアンリ4世(1553-1610)について名前さえも知らなかったことに気がついた。欧米は、日本の歴史や地理に関しては詳細に調べる一方で、サン・バルテルミ(聖バーソロミュー)の虐殺につながるアンリ4世に関しては日本の欧米研究から遠ざけ
「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」本文から第1章 ヨーロッパの花嫁候補・結局、さまざまな勉学が、信仰の実践とともに、公女の時間の大部分を占めた。フランチェスコ大公は人文主義の伝統によって、娘が非の打ちどころのあい教育を受けることを望んだ。
ミシェル・カルモナ著 辻谷泰志訳「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」国書刊行会 2020年を購入した。900ページ近くの分厚い本である。著者略歴によると ミシェル・カルモナ(Michel Carmona)1940年、エジプトのカイロ生まれ。のちにフランス
黒衣のカトリーヌ・ド・メディチの肖像画を描いた画家はフランソワ・クル-エであるという。フランス・ヴァロア朝の宮廷画家として父子ともに高名のようだが、詳細はよくわからない。フランソワ・クルーエについて この画家による国王フランソワ1世の肖像画は
1600年にルーベンスはイタリアへ。イタリア・マントヴァの宮廷でヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ(1562-1612)と妃エレオノーラ・デ・メディチ(1566-1611)に認められたことで、ルーベンスの歩む道が大きく開けたとのこと。ゴンザーガ家については こちらメディ
ルーベンスが聖フランシスコ・ザビエルを描いていたとは。聖フラシスコ・ザビエルとは Wikipediaから こちらこの絵の中に中国人らしき人たちはいても、日本人らしき人たちは見当たらない。ザビエルは日本を評価していたということなのに。写真のない時代に、日本な
私の両親や22歳年上の主人の世代は、兄弟が多く、また親類も多かったりしたので、今の若い世代よりは、良くも悪くも子どものときから人間観察の機会が多かったことは確かである。兄弟でも能力の違い、あるいは容姿の違いがあって、子どもながらに神様は不公平だと思った
1571年に投獄されたヤン・ルーベンスは2年後に釈放され、1574年に兄フィリップ・ルーベンス、1577年に画家ピーテル・パウル・ルーベンスがジーゲンで生まれた。1578年に一家はケルンへと移り、1587年にヤン・ルーベンスが亡くなり、ドイツ・ケルンの
新約聖書のヨハネの黙示録に「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(13章18節) とあるのだとか。「666」についての以前の記事は こちらもしかしたら
1568年、ルーベンスの父ヤン・ルーベンスはカルヴァン派であったため、妻とともにスペイン領ネーデルラント(現在のベルギー)のアントウェルペンを出て、ドイツ・ケルンに逃れた。ルーベンスの父 ヤン・ルーベンス(1530-1587)画像はWikipedia英語版よりルーベン
ルーベンスの自画像によって、ルーベンスが目の前にいるかのように思えたりする。晩年の自画像はおや、その手は?どうなさったんでしょうか?自画像を含めて、ルーベンスの描く人物の中に関節リウマチの指の変形が見つかるとか。→ こちら痛みがない若い頃がなつ
ルーベンスとマリー・ド・メディシスの関係が、玄宗と楊貴妃のように感じられてきた。恋愛というよりも、その時代を超えて共にいる存在というか。「マリー・ド・メディシスの生涯」から1600年の「マリー・ド・メディシスとアンリ4世の代理結婚式」にはルーベンス自身
1629年から30年にかけてルーベンスはロンドンに滞在したという。その間にチャールズ1世のために描かれたという「マルスから平和を守るミネルヴァ」(「平和と戦争」など題名が複数あるようです)解説については こちらまた、Wikipedia から こちら解説を読
外交官としてのルーベンスは具体的にはどのような仕事をしたのだろうか。「マリー・ド・メディシスの生涯」は、フランス王妃であるマリー・ド・メディシスによる娘のヘンリエッタ・マリアとイギリス国王チャールズ1世との婚姻に際しての依頼であったとか。これは1625
スペイン領ネーデルラント大公妃であったイサベラ・クララ・エウへニアについて こちらアロンソ・サンチェス・コエリョによる20歳前後のころの肖像画があって小人の侍女とともに描かれている。この侍女の名前はマグダレーナ・ルイズとのこと。画像はWikipediaより。
2006年4月の記事である ルーベンス〔15〕は こちら今になって振り返ると、ルーベンスやベラスケスは森鴎外に近いものを感じる。したがって、芥川龍之介や太宰治は、その途中で早逝した、と考えてみるべきかもしれない。子供好きの平和主義者であったルーベンス
キリスト教系の幼稚園で、聖書の物語をよく聞かされていたがその中でもモーゼとイエス・キリストそれぞれにまつわる幼児虐殺の話はよくわからないながらも記憶に刻まれた。幼児虐殺について こちらイエス・キリストについてはヘロデ王の命令ということであった。ヘロ
1989年5月から6月にかけて、主人は研修期間を利用して、第2次世界大戦中の国際舞台となった場所へ個人での旅行に出かけました。新潟 ― ソ連 ― 東欧 ― 西ドイツ ― オーストリア ― イタリア ― スイス ― フランス ― スペイン ― ポルトガル
なぜ、芥川賞の第1回に、太宰治ではなくてごく地味な石川達三が選ばれたのか。石川達三「蒼氓(そうぼう)」はブラジルへの移民を題材にしたものであった・・・ → こちら当時には、山本喜誉司の存在はよく知られていたはず。今ごろになって私などは納得できたりするの
写真は「新潮日本文学アルバム・芥川龍之介」より芥川龍之介は北京で、中学以来の親友である山本喜誉司の家を訪問した。山本喜誉司の姉の娘、すなわち姪が芥川龍之介の妻、文であるとのこと。山本喜誉司については こちら当時は三菱の北京駐在員であったとのこと。
今年も我が家で、柑橘類の3本の木に花が咲いている。この3本とも実生の木で、そのせいか香りが強い。いつもよりたくさんの花に感じられる。主人がこれを見たら喜んだことだろう。薫風とは旧制広島高等学校の寮の名前だ、と主人から聞かされたのであったがその
永井荷風が「つゆのあとさき」という小説を書き、森鴎外や太宰治がムラサキツユクサを好んでいたと書かれていたりする。ツユ=露 → ロシア に気がついたりする。確かに日本はロシアとの戦争で大きく変化した。森鴎外や芥川龍之介、太宰治は共産主義には疑問を持っ
森鴎外と夏目漱石に期待された木下杢太郎について、芥川龍之介の中国旅行と同じ時期に何をしていたのか、が気になった。木下杢太郎著・岩阪恵子選「木下杢太郎随筆集」 講談社文芸文庫 2016年年譜より一九二一年(大正一〇年) 三六歳三月、美術論集『地下一尺
芥川龍之介と中国 についてに戻ってみる。帰国後、体調悪化のなかでいくつかの作品を残している。中国旅行の前後で、作風は変化したようにも思われる。旅行後の「湖南の扇」は目立つ存在なのだけれど・・・・・当時の文壇はそれほど芥川龍之介を評価していないようで
若い太宰治は芥川龍之介をどう読んだのか。もしかしたら芭蕉にヒントがあるのかもしれないが、ゆっくり読んでいるわけにもいかない。芥川龍之介の辞世の句が気になっていた。一般的には 下島勲医師に託した 水洟や鼻の先だけ暮れ残る とされている。野上彌生子の
芥川龍之介にとって、この中国旅行は命がけのものであり、実際にこの旅行後、体調を悪化させ、長くは生きられなかった。とすれば、この旅行前の1921年3月に出版された「夜来の花」に何らかのメッセージが見つかるかもしれない、と思い、復刻版の中古本を購入した。「
芥川龍之介周辺には、どちらかというと影がある人物たちがいたようにも見えたりする。孤高の作家という一面と、スパイのような情報収集・情報交換といった役割があって、彼を支える人脈があったのではないだろうか。それほど中国語は得意でないはずの芥川龍之介が派遣され
ずっと気になっていることがあった。森鴎外が死の床で「馬鹿らしい」と大きな声でうわ言を発したのだとか。その理由は何だったのか。伊藤久子「感激に満ちた二週日 文豪森鴎外先生の臨終に侍するの記」より意識が不明になって、御危篤に陥る一寸前の夜のことでした。枕
上海にどうにか到着と思ったら、また体調を崩して乾性肋膜炎との診断で、3週間ほど上海にある日本人経営の里見病院に入院したのだという。前出「特派員 芥川龍之介」より入院生活 ・乾性肋膜炎で入院した龍之介を、院長里見義彦は手厚く遇した。里見には文学趣味があ
大阪で1週間ほど療養したのち、大阪を発って下関の宿で高熱を出し薬で押さえて門司から上海へ向かった。上海では大阪毎日新聞社の関係者やロイター通信社上海支局の記者トーマス・ジョーンズが出迎えた。トーマス・ジョーンズ(1890~1923)は、 アイルランド人で
薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)について Wikipediaから こちらこの解説によると、泣菫の雅号はオスカー・ワイルドの詩「キーツの墓」からだとか。土井晩翠がヨーロッパに出かけたとき、薄田泣菫のためにキーツの墓で摘んだスミレを押し花にして送った、というエピソー
なにぶん付焼刃というか、ネット検索と手に入る本を頼りに、自分では目を光らせているつもりなのだけれど、とんでもない方向に進んでしまうこともあるかもしれない。前出「特派員 芥川龍之介 中国で何を視たのか」 より第一章 中国文化へのまなざしジャーナリスト天
堀辰雄は芥川龍之介の弟子に選ばれた1人といっていいのだろうか。最後の弟子は太宰治であったのかもしれないけれども。堀辰雄について以前の記事は こちらこの中で堀辰雄には「楡の家」という作品があって、芥川龍之介がモデルのような人物の名前が森於菟彦であり、最
「新潮日本文学アルバム」 1983年 によれば太宰治が最後に遺した愛読書は8冊あって田中貢太郎訳「聊斎志異」「鴎外全集 16」 「上田敏詩集」堀井梁歩役「ルバイヤート」 復刻版「末摘花」生島遼一訳「クレーヴの奥方」斎藤茂吉・土屋文明編「佐千夫歌集合評
明治から大正時代にかけて、短歌に関わった人々について調べてみると、あれこれ本を読めば読むほどわからなくなっていくような気分になっております。それでも細かいことになるほど、と思うことが多々ありました。石原純を知るためには、まず伊藤左千夫なのでしょうか。
三ヶ島葭子は、明治維新後にかえって注目されたりする家系につながっていて、目をひくものであった可能性はないでしょうか。石川啄木も石川氏ということに意味があったりする?三ヶ島葭子(1886-1927)は、石川啄木(1886-1912)と同じ年に生まれて、芥川龍之介(1892-1927)
私の場合、首都圏で地震が続いていたため、ネット掲示板に出入りして、その延長で17世紀のヨーロッパの歴史で調べたことを題材にしてブログを始めました。17世紀のヨーロッパで日本がブームであったことに気がついて、そのころの日本の歴史、その後、学生時代から興
三ヶ島葭子の親友であった原阿佐緒についての評伝は原阿佐緒: うつし世に女と生れて (ミネルヴァ日本評伝選)秋山 佐和子ミネルヴァ書房2012-04-01物理学者石原純については科学ジャーナリズムの先駆者――評伝 石原純西尾 成子岩波書店2011-09-29この2人の恋愛事件は当
新版三ヶ島葭子全歌集刊行委員会編「新版 三ヶ島葭子全歌集」角川文化振興財団 2023年という文庫版の歌集を購入しました。新版 三ヶ島葭子全歌集三ヶ島 葭子KADOKAWA2023-11-27この文庫本と歌集「吾木香」を並べるとこれまで 全歌集について1934年「三
こちらは、若山牧水(1885-1928)のよく見かける写真です。 若いころの写真かと思っていたら、亡くなる数か月前の写真だとか。帽子のせいか、三ヶ島葭子とその娘みなみ、との写真とが呼応しているかのように感じました。なぜ、そう感じてしまうので
所沢市三ヶ島地区の三ヶ島まちづくりセンターに三ヶ島葭子資料室があります。ここで所沢市教育委員会発行・三ヶ島葭子編集委員会編「三ヶ島葭子」という本を購入しました。この題字はすでに高名となっていた中川一政によるものです。展示されている三ヶ島葭子の書
梅の花言葉は「負けない」だなんていう嘘は、有益ではないでしょうか。NO WAR!ランキングにご協力ください。人気ブログランキングへにほんブログ村</a
中川一政「美術の眺め」 講談社文芸文庫 1993年美術の眺め (講談社文芸文庫 なF 4 現代日本のエッセイ)中川 一政講談社1993-06-01裏表紙から・凛乎として九十七年の生涯を全うした類い稀な文人画家中川一政、若き日の気韻生動の第一エッセイ集。本文から三ヶ島
青森・八戸の美術商の方から送っていただいたカタログの中に気になる原敬の掛け軸があって、思い切って購入しました。原敬は晩年に愛人とされる女性に書の指導を受けていたとか。画像の検索をしてみると、同じ人間が書いたものとは思えないものがあったりで稽古に励んで
前の記事で、穴埋め的に南天の写真をアップしたのですが若山牧水が気になって検索したところ、青空文庫で下記の文章がありました。静岡・沼津に土地を購入してのころのようです。亡くなる3年ほど前のようで、漂泊の詩人がやっと定住を決めるとこのような心境になるので
前出「歌ひつくさば ゆるされむかも 歌人三ヶ島葭子の生涯」より三ヶ島葭子年譜 つづき・1909(明治42)年4月、『女子文壇』の晶子選歌欄に1首採られる。これより毎号のように短歌、書簡文、・美文、短文等を投稿。・1910(明治43)年4月より晶子の
前出「歌ひつくさばゆるされむかも 歌人三ヶ島葭子の生涯」より三ヶ島葭子 年譜 から抜粋・1886(明治19)年8月9日、埼玉県入間郡三ケ島村に父貫太郎、母さわの長女として生まれる。父は三ヶ島小学校長。両親の本家はともに神職。・1892(明治25)年
さらに寄り道をしてしまうことをお許しください。左卜全(ひだり・ぼくぜん)(1894-1971)という俳優は晩年に「老人と子供のポルカ」が大ヒットしたせいもあって多くの人たちの記憶にとどまっているようです。「飄々(ひょうひょう)とした」という言葉で左卜全を思い浮
入間航空祭が開かれていて、例年のように我が家の物干し台でカメラを構えました。爆音が聞こえてすぐシャッター☆右側には青空と黒い雲の境が見えていて、今年は背景が黒雲に。えっ、深読みが必要なんでしょうか。NO WAR!ランキングにご協力ください。人気ブ
偽装された原爆投下 広島・長崎原爆の物理学的・医学的エビデンスへの再検討ミヒャエル パルマー福村出版2024-11-21ミヒャエル・パルマ―著 原田輝一訳「偽装された原爆投下 広島・長崎原爆の物理学的・医学的エビデンスへの再検討」福村出版 2023年帯にはノー
9月11日になってもまだ暑い日が続いております。皆様お変わりありませんか。私は、猛暑の中、クーラーを使わないで過ごしてみておりまして夕方から夜にかけての風の心地よさがとりわけありがたく感じたりしました。残暑見舞いは、8月の末、あるいは9月7日ごろ
西武池袋線・小手指駅から国立新美術館直結の乃木坂駅には1回乗り換えだけで行けるだなんて知りませんでした。というか、黒川紀章設計の国立新美術館に初めて出かけました。実は通信教育で水彩画を申し込んで、その後、神戸の義姉の用事などがあって、水彩画どころでは
「青森の思い出」より・青森を去って一週間。思い出を語るには、まだ記憶が生ま生まし過ぎるが、強く引用に残っているのは、特別の出来事や風物ではない。八百五十日の愛着と生活の苦楽とを積み重ねて親しんだこの土地には、むしろ日頃の明け暮れのささやかな心象のひとこ
引き続き「三島由紀夫の苦悩」より・大正14年(1925年)1月生まれの三島は、終戦の時、満20歳であった。それより少なくとも2年早く生まれていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて取り組もうとした課題の
引き続き「三島由紀夫の苦悩」より・大正14年(1925年)1月生まれの三島は、終戦の時、満20歳であった。それより少なくとも2年早く生まれていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて取り組もうとした課題の
私はアメリカには行ったことがないのだけれど、青森から上京して、大学の寮に入ったとき、アメリカというものをなぜか身近に感じることができたような気がしました。タイサンボクが寮の庭先にあったりしたからでしょうか。教員をしていた主人も研究室からみえるタイ
著作集にはもう1つの三島由紀夫論である「三島由紀夫の苦悩」がある。この三島由紀夫に関する2つの評論は1976年、三島由紀夫の7回忌にあたり、それぞれ別の雑誌に発表されている。下巻 「三島由紀夫の苦悩」より・三島由紀夫の苦悩はなんであったか。彼を自決に至
吉田満が三島由紀夫について書いているあれこれには興味深いものがある。下巻 「ニューヨークの三島由紀夫」より・”ニューヨークの”という言い方は大げさだが、今から20年近く前のある日、朝から夜おそくまで三島由紀夫とニューヨークの街を歩きまわり、見物し、飲
5カ月ぶりに青森に出かけた帰りの新幹線で、なんとかまた撮ることができました。はちまき、たすきがけの気分で。
下巻の小冊子にはNHK・チーフディレクターであった吉田直哉が寄稿している。生きている問いかけ・べつに何ということもない、現代の日本の風俗を写した映像が、俄然ふかい意味をもち、緊張感を漂わせるものに変貌する――そんな魔法の杖を、一つだけ私は知っている。 吉
吉田満著作集の上巻と下巻それぞれに8ページの小冊子がつけられていて著者ゆかりの人々が心をこめての一文を寄せている。この小冊子はかなり貴重なものに思われる。中古本を、アマゾンでそれぞれ別なところからの購入で両方にこの小冊子がついていて幸運に感謝。幸運に
何度か黄水仙を取りあげて来たので、2025年の今年も黄水仙を。「希望」とは単純なものではないと思えたりします。時折、希望が打ち砕かれてしまうことがあったりして。太宰治も芥川龍之介と菊池寛の関係に注目して、芥川龍之介に同情したようだけれどあれこれ調
例年のように近くのサクラの写真をたくさん撮ったのだけれどなぜかこの1枚が気になりました。サクラは何かを訴えようとしている・・・・気のせいでしょうか。
なぜここにきて吉田満の書いたものをあれこれ読みだしたかというと山本七平「精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本」さくら舎 2016年で吉田満が取り上げられていたからです。山本七平は1970年にイザヤ・ベンダサンの名前で「日本人とユダヤ人」を出
小学生のころから十和田湖の「湖畔の乙女」は気になる存在でした。2019年6月にも 続 寧日記〔144〕 鴎外の横顔〔17〕という記事で触れております。 (写真は 十和田市 Towada and Beyond より )前出「散華の世代から」十和
前出「散華の世代から」Ⅳ転機より・私自身のことに触れるのを許されるならば、青年時代を通じて最も強く印象に刻まれた事件は、戦争と死生の体験であった。学徒兵として召されて戦場へおもむく、特攻作戦の一員となる、出撃前の一夜に生死の問題を語り合う、必死の海空戦
高齢になると自分の歩んだ道を振り返ることになるのですがまるで小説か映画のような筋書きがあったのか、と思うことがあります。青森で聖マリア幼稚園に入園し、当時は送迎バスがなくて市営のバスで通園していました。今思い出すとこわいような・・・・聖マリア幼稚園
ここのところ、X(旧Twitter)やYoutubeに気を取られて、こちらはコメント欄だけになっておりましたことをお詫びいたします。高齢になってみないと高齢者の身体や心理というものがわからないのだ、ということを痛感するこの頃なのですが、自分の若いころと比べて知識という