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2006/04/22

1件〜100件

  • 七十の手習い(汗)

    リフォームが終わったのですが、コロナの感染力が増強してしまい家に誰かを招くのが躊躇されて・・・・・ちょうど何かを稽古するのによさそうな空間となっているので、通信教育のユーキャンで書道を学ぶことにしました。主人や両親の介護で忙しくなり、近くの先生のと

  • 太宰治を読む〔377〕 つづきのつづき

    大逆事件など言論の自由が締め付けられる中で、鴎外は啄木を悼むために「魚玄機」を残し、太宰治は隠された意図を「惜別」でつなげた、とも思える。その昔、ウツギとは境木(さかいぎ)として使われたのだという。宅地であれば生垣となる。その理由は・強い刈り込みに耐

  • 太宰治を読む〔377〕 つづき

    魚玄機とは こちら唐代末期 844年ごろ-871年ごろ日本では菅原道真のころである。中国版Wikipediaより どちらかというと、髪型や服装が日本の女性のように思えたりする。隣国渤海には、8世紀に日本の舞女たちが送り込まれたとか。→ こちら唐にも日本

  • 太宰治を読む〔377〕

    石川啄木の妻節子は啄木の死後、千葉県北條町八幡で次女を出産。その後、函館に移り、そこの病院で亡くなった。27歳の生涯で、7歳の長女と1歳に満たない次女が残された。鴎外日記には、明治四十五年六月四日に石川節子(房州北條町八幡片山方)に返信したとの記録が

  • アジサイとナンテン

    アジサイがたくさん咲いているところにナンテンが混じって咲いていました。なんだかほかのナンテンと葉の広げ方から違うような。アジサイをライバル視している?それとも同調圧力っていうものがここでも働いている?人気ブログランキングへにほんブログ村NO to

  • 荒城の月 その11

    1909年1月、石川啄木は雑誌「昴」の発行名義人となる。創刊号に石川啄木が掲載したのは 小説「赤痢」であった。2015年7月に関連記事を書いたときに、啄木がそのような小説を書いていたとは聞いたことがなかったと思い、啄木周辺では窮乏ゆえの感染症によって

  • 荒城の月 その10 つづき

    前出「荒城の月 土井晩翠と滝廉太郎」に掲載されている「土井晩翠年譜」によると明治42年(1909年) 晩翠39歳の時・四月、カーライル著「サーター・リザータス」を訳し、『鬼臭先生、衣裳哲学』(大日本図書株式会社版)刊。訳書例言抄、  この書に於て著者

  • 荒城の月 その10

    土井晩翠のところまで戻りたい。山田野理夫「荒城の月 土井晩翠と滝廉太郎」 恒文社 昭和62年(1987年)は462頁もあって、さまざまなことが書かれていて興味深い。土井晩翠は大きな質店の後継者として育てられたとか。1700年代に京都から仙台に下っ

  • 荒城の月 その9 つづき

    澤柳大五郎「木下杢太郎記」 小澤書店 昭和62年(1987年)の中古本をアマゾンで購入した。35年も前の本だというのに実に美しい本が届いた。これは函である。背表紙はアイボリーで金色の文字    紺色の表紙が清々しい。美術史家である澤柳大五郎とは

  • 荒城の月 その9

    1908年10月3日の観潮楼歌会で石川啄木は太田正雄(木下杢太郎)に出会う。境遇も性格も全く違うように思える2人の出会いは偶然だろうか。森鴎外の教育的配慮ということもあったのかもしれない。丸井重孝「不可思議国の探究者・木下杢太郎 観潮楼歌会の仲間たち

  • 白い手に つづき

    倉田保雄「エリセーエフの生涯 日本学の始祖」 中公新書 昭和52年(1977年)は大変興味深い内容である。帯から・明治末期、ロシア富豪出身の主人公は、碧眼留学生第一号として東大に入学し、日本舞踊や芸者遊びなどに興じながらも、優秀な成績で卒業し、祖国に

  • 白い手に

    石川啄木「一握の砂」にある手が白く且つ大(だい)なりき非凡なる人といはるる男に会ひしに白い手の持ち主は誰なのか。池辺三山、佐藤北江(真一)、高村光太郎、・・・・・ と取り沙汰されてきたのだとか。外国人ではないだろうか、と思って夏目漱石周辺を探し

  • 荒城の月 その8 つづきのつづき

    (森鴎外は何をしたのか、を私なりに考えてみました。)隣国ロシアで革命が起こりつつあったのならば、日本でもその可能性はあったはず。明治から大正への橋渡しをどのように確実にできるか。旧佐幕派は外国からの支援を受けて、クーデターもしくは革命を起こそうとしな

  • 荒城の月 その8 つづき

    1908年10月に森鴎外宅に泥棒が入り、「妻の金剛石を嵌めたる金指輪、金時計、予の銀時計及金70円許を奪ひて去る」その後、妻の指輪だけが小包で戻されたとのこと。(以下、前の記事と重複がありますが)この年の初めには、弟篤次郎、次男不律が相次いて亡くな

  • 荒城の月 その8

    前出「鴎外・啄木・荷風 隠された闘い」より啄木 絶好調 啄木が見た森家の団欒・明治四十一年七月四日 啄木日記(上略)今日は森先生の観潮楼歌会である。北原君が来てゐた。やがて伊藤佐千夫翁も来た。兼題五首づつ二度、(人妻、戸、鬼、跳る、筋)  予のは

  • 荒城の月 その7

    1908年(明治41年)11月、石川啄木は東京毎日新聞に「鳥影」の連載を始める。東京毎日新聞は、現在の毎日新聞とはつながりはない。東京毎日新聞については こちらなお、あれこれネットを検索したところ、掲載紙について「東京日日新聞」とか「東京朝日新聞」と間

  • 荒城の月 その6

    石川啄木が森鴎外に届けたという2つの原稿「病院の窓」と「天鵞絨」は、鴎外にしてみれば挑戦状として感じられたのかもしれない。おそらく鴎外は啄木の生意気さに若かったころの自分を見たのではないだろうか。ただ啄木の側に立つと、悲しいことに嘘をつくのが習性になっ

  • 太宰治を読む〔376〕 黄金風景

    太宰治の巧みさというものに騙されているのか、それとも読者が気づかないのか・・・・太宰治がロシア文学でプーシキンを推していたことを思い出した。「スペードの女王」は若いころに読んだ記憶があるのだけれど、ロシアのような厳しい風土では酒や賭け事、あるいは情事を

  • 荒城の月 その5 つづき

    森鴎外は1904年4月から1905年1月まで日露戦争で第二軍軍医部長として従軍。陣中から妹喜美子への手紙で、啄木の歌を評価している。鴎外の「うた日記」は、啄木の励ましといったものが少しはあったのかもしれない。「うた日記」について、多くの人たちは、鴎外

  • 荒城の月 その5

    前出「鴎外・啄木・荷風 隠された闘争」の巻末には、鴎外・啄木・荷風 関連年譜 がある。上から、啄木・鴎外・荷風の順で並記されている。

  • 荒城の月 その4 つづき

    前出「鴎外・啄木・荷風 隠された闘い」第一部 森鴎外と石川啄木鴎外が啄木へ抱いた期待より・鴎外の日記に、石川啄木の名が最初にあらわれるのは、明治四十一年六月十一日、鴎外数え年四十七歳、啄木二十三歳の時のことである。明治四十一年六月十一日 鴎外日記 

  • 荒城の月 その4

    吉野俊彦著「鴎外・啄木・荷風 隠された闘い」ネスコ発行/文藝春秋発売 1994年という本を見つけた。帯には(表紙側に)なぜ啄木は離反し、荷風は生涯敬愛したか明治四十一年、啄木と荷風はわずか半年違いで鴎外のもとを訪れた。歓天喜地した二つの出会いは、や

  • 荒城の月 その3 つづき

    石川啄木については、多くの著作物があって、かえって実像がわかりにくい。童謡作家で知られる野口雨情が啄木について書いたものがあった。「札幌時代の石川啄木」→ こちら「石川啄木と小奴」は こちら啄木が野口雨情について 「悲しき思い出」→ こちらこれは 

  • 荒城の月 その3

    さまざまな意味で、石川啄木は天才であったのだ、と思う。第2詩集「呼子と口笛」より飛行機                   1911・6・27・TOKYO見よ、今日も、かの蒼空(あおぞら)に飛行機の高く飛べるを、給仕づとめの少年がたまに非番の日曜日、

  • 荒城の月 その2 つづき

    石川啄木と国木田独歩はその足跡に共通なものを感じるのだけれど・・・・伝記などではチンピラ・ゴロツキ扱いで困窮のうちに亡くなったのにも関わらず、今なお忘れられ去られずにいる理由は?国木田独歩については 以前の記事から こちら政治を裏側で支える役割があっ

  • 荒城の月 その2

    土井晩翠について興味深いエピソードがある。1905年(明治34年)、19歳の石川啄木が土井晩翠夫人から借金をしたとのこと。このいきさつについては 相沢源七編「石川啄木と仙台 —— 石巻・荻浜 ——」宝文堂 1976年に詳しく書かれている。     

  • 荒城の月 その1

    わき道があって、ちょっとそちらへ。中野好夫の先妻は「荒城の月」の作詞者として知られる土井晩翠の次女であるとのこと。中野利子の祖父ということになる。土井晩翠については、Wiki から こちら英文学者でありヨーロッパに私費で遊学していたということを知らなか

  • 太宰治を読む〔375〕

    英文学者・評論家であった中野好夫(1903-1985)については こちら太宰治「如是我聞」の中に、中野好夫に対する抗議があってもう一人の外国文学者が、私の「父」という短篇を評して、(まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ)と言ったという。

  • 夕焼けと富士山

    我が家から狭山湖や多摩湖は徒歩圏にあります。11月19日午後4時近くに墓参りをしてその後多摩湖に出かけてみました。富士山のような山は、さまざまな悩みを受け止めてくれるような存在に感じられたりします。人気ブログランキングへにほんブログ村NO to

  • 青森 父の遺したアルバムから その4

    私たちが高校生のころも飯盒炊爨(はんごうすいさん)というものがありました。出かけた先で料理をして食べるのです。楽しかったですね。バレーボールの試合で上京もしたようです。びっくりです。進駐軍のおかげで治安などがよかった、ということなのでしょうか。

  • 青森 父の遺したアルバムから その3

    女生徒たちは女学校4年生だとしても16,7歳だったのでしょうか。21歳ぐらいだった父よりもしっかりしているように見えます。この写真を拡大してみてください。後ろを見ている生徒を父が注意しているところです。昭和21、22年ごろの青森はそれほど混乱して

  • 青森 父の遺したアルバムから その2

    わずか1年4か月の期間だったようですが、実にさまざまなことがあったようです。戦争中は自粛していたさまざまなことを一斉に始めたということでしょうか?演劇部の顧問だったのでしょうか?「安寿と厨子王」の劇を上演したりしたようです。人気ブログランキン

  • 青森 父の遺したアルバムから その1

    青森の実家で2回目の遺品整理をして帰ってまいりました。その中で父の遺したアルバムのうち気になったものをを持ち帰って見直したところです。父は1925年(大正14年)生まれで旧制青森中学、旧制弘前高等学校で太宰治の後輩にあたります。飛行機を作りたいと思っ

  • 太宰治を読む〔374〕 つづき

    松本清張は「日本の黒い霧」などで日本の占領期の闇の部分を書いたとされる。松本清張が太宰治の死に関心があったはずだから、その死はGHQとの関連があったりするのだろうか。桜桃忌は亡くなった6月13日ではなく、誕生日である6月19日に変えたとのこと。また実際

  • 太宰治を読む〔374〕

    「井伏鱒二全集 第二巻」 筑摩書房 1997年月報4 師・井伏鱒二の思い出 四 三浦哲郎 より・そのころ先生の書斎で初めて会った文学者のうち、最も印象的だったのは、松本清張氏である。私が荻窪のお宅に伺うと、松本氏はすでに先客として先生と将棋を指していた

  • 埼玉・所沢 所沢牛 つづき

    高齢者の料理、あるいは在宅ワークのための料理、時短料理といったことでいろいろと試しております。材料所沢牛シチュー用、今金の男爵イモ、ニンジン、ニンニク、ピーマン、トマト、ブナシメジ、ブイヨン、赤ワイン、塩少々ざっと材料を炒めて、パナソニック電気圧力

  • 埼玉・所沢 所沢牛

    西武池袋線・所沢駅周辺がけっこう新しくなって、垢抜け感があったりします。所沢牛がおいしいので、混雑した観光地に出かけるのをためらう方は所沢へどうぞ。→ こちら古いお寺や神社は、ちょっと謎めいたところがあったりします。狭山湖周辺もお勧めです。

  • もしかしての話 つづき

    凡河内躬恒から、漠然とした無常観というものが具体的に感じられてきました。凡河内国造について wikiからこちら平安時代とは優雅な社会かと想像したりしていましたが、没落した氏族を歌人にして嘆くのを楽しむようなことがあったのでしょうか。あるいは嘆くふりをして

  • もしかしての話

    平安時代の初めのころは、まだ女性の地位は高かったのではないでしょうか。女一宮である勧子内親王が蝉丸もしくはその関係者だとしてこれやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関モノ好きにもこの歌に釣り合う歌を見つけたくなりました。

  • 太宰治を読む〔373〕 翡翠考 つづき

    緑色を「あお」というのであれば、「みどり」は青色という場合もある?碧は訓読みではみどりで、みどり、あお、あおみどり、濃い青色 の意味がある。翠も濃い青色の意味もあるようだ。翡の非は糸へんをつけると「緋」 鮮やかな赤い色 赤色の絹翠の卒に糸へんをつける

  • 太宰治を読む〔373〕 翡翠考

    主人や実家の両親を見送ってから、多少の自由なお金と時間で多くの本を購入して読んできたのだけれど、その中で印象に残っているものの1つは井川恭(恒藤恭)著・宍倉忠臣編及解説「袖珍 翡翠記」山陰中央新報社版 平成16年(2004年) である。解説 恒藤恭、

  • 太宰治を読む〔372〕 つづき

    前出「ある華族の昭和史」第十章 火中の不死鳥 より・古都は冷えきって雪が降りしきっていた。その中を私達は陽明文庫に行った。火の気のない文庫内で、応仁の乱でも焼失をまぬがれたという王朝文化の粋(すい)ともいうべきコレクションを鑑賞した。きもの姿の公爵は、

  • 太宰治を読む〔372〕

    阿川弘之「高松宮と海軍」の帯には名著「志賀直哉」脱稿以来「高松宮日記」編纂に没頭している著者が発見から刊行まで劇的な経緯を初めて明かし、第一級資料のみが持つ迫力と感動とを鮮やかに伝える とある。この「高松宮日記」は主人が購入していて、まだ家に置いてある

  • 太宰治を読む〔371〕 つづき

    前出「高松宮と海軍」海軍を語る より・さうして英国留学から十四年後、日本敗戦の日が来ます。 八月十二日朝、米内海相が頬をちょっと紅潮させて、急ぎ足に外から帰つて来て、「杉田を呼べ」と言ふ。普通、大臣の諮問に書記官が答へる場合、軍務局長か誰か、もうひと

  • 太宰治を読む〔371〕

    前出「高松宮と海軍」海軍を語る より・飛行機の問題一つ取り上げても、陸軍機は海の上を飛べなかつたんです。洋上航法といふのは、島影一つ見えない大海原の上で、天測をやつて自機の正確な位置を割り出しながら所定の針路を飛行していくことなんで、そんなノウハウ、全

  • 太宰治を読む〔370〕 つづき

    引き続き「高松宮と海軍」海軍を語る から・ただ、詳細語るなら、二人の背後に「殿下」の影が射してゐます。或は、「殿下」と「元帥」の影が射してゐました。「殿下」とは、此の年四月まで九年間軍令部総長を勤めた伏見宮博恭王、「元帥」とは、七年前に亡くなった東郷平

  • 太宰治を読む〔370〕

    いよいよ本音を?前出「高松宮と海軍」海軍を語る より・その対米強硬派の中堅層に誰がゐたかとなると、これ亦海軍の人脈の細かなところへ入つていかなくちやならないし、石川信吾とか高田利種、神(かみ)重徳なんて言つても、一般の読者にあんまりピンと来ないと思ふ

  • 太宰治を読む〔369〕 つづき

    太宰治や小山清、あるいは永井荷風を反面教師にして、日本海軍の立場を擁護し「堅実な」作家人生を送ったようにみえる阿川弘之は、晩年にはどこかで本音を漏らしていなかったかどうか。阿川弘之「高松宮と海軍」中央公論社 1996年この中で海軍を語る 「高松宮日記

  • 太宰治を読む〔369〕

    小山清「二人の友」 審美社 1965年には、阿川弘之の著書の書評が2つ掲載されている。「年々歳々」(阿川弘之)について より・阿川弘之君の最初の作品集である「年々歳々」がようやく上梓された。私も阿川君の作品が好きで日ごろ愛読している一人であると言えば

  • 太宰治を読む〔368〕 つづき

    太宰治は初対面の小山清に遠ざけたほうがよい何かを感じたかもしれない。しかし、自分の弟子に「小山清」という名前は魅力的であった・・・・・実はつい最近知ったのだけれど、永井荷風の初期の小説「冷笑」の主人公の名前が「小山清」なのだという。「冷笑」は東京朝日

  • 太宰治を読む〔368〕

    「ペンは剣よりも強し」だとすれば、戦争中もその前後も作家たちは戦っていたのかもしれない。内乱というものを避けるためには、ペンの力は大きな意味があった?太宰治と井伏鱒二の師弟関係はわかりにくい。太宰治とその弟子である小山清の関係と比べてみると見えてくる

  • 太宰治を読む〔367〕

    太宰治と石上玄一郎が似た者同士であったことに気がついて触れておきたいことがある。石上玄一郎には代表作ともいうべき「精神病学教室」があった。旧制高校中退であった石上玄一郎は友人の津川武一からの資料により緻密で科学的記述の正確な小説を書いた。今日の科学万能

  • 太宰治を読む〔366〕

    太宰治は自分の作品が永久に残るようなものにしたいと思っていた。それには聖書や歎異抄といったものがヒントになったことだろう。できるだけ多くの人間に「太宰治」の風貌や思い出を書いてもらえばよい、宗教家ではなく作家として、賛美というよりも、さまざまな視点や

  • 太宰治を読む〔365〕 つづき

    甲賀流について Wikipediaからこちらこの中で「惣(そう)」というものが気になった。コトバンク「惣」は こちら前出「太宰治の年譜」にある津島家系譜には惣助とか惣五郎とかの名前があったりする。音読みから惣から草という役目が生まれたのだろうか。明治時代

  • 日本の主張

    日本という国は主張するのが不得意であるのかもしれません。それは、戦争に負けたから、ということが1つの要因であるといえるでしょう。1945年8月15日に玉音放送が流された場面は、戦後に育った私たちは映画やドラマで幾度となく耳にしてきました。実際、聞いた

  • 太宰治を読む〔365〕

    浅田高明「私論 太宰治 上方文化へのさすらいびと」 文理閣 1988年著者紹介より 1930年、富山市生まれ。 京都大学医学部卒業後、京都大学結核胸部疾患研究所で結核、呼吸器病学を専攻。現在、ダイハツ工業株式会社京都工場診療所長。医学博士。太宰文学研

  • 2021年 7月の虹

    激しい雷と雨、そして目の前に虹まさかブログをさぼるな、っていうことじゃ・・・・人気ブログランキングへにほんブログ村NO to 5G

  • 天皇と侍従長 つづき

    前出「天皇と侍従長」より・このときの訪欧にはもうひとつ、ワクがはめられていた。貞明皇后のお許しを得た『松方内奏文』にあるように、皇太子の訪欧は見学が主な目的だから「一二帝室御訪問の場合を除くの外は終始御微行(びこう)」とされていたのである。「御微行」とは

  • 天皇と侍従長

    岸田英夫「天皇と侍従長」 朝日文庫 1986年(昭和61年)を読んでいるところです。第1章 天皇の青春と珍田捨巳 より・大正10年(1921)3月3日、皇太子裕仁親王はヨーロッパ訪問に旅立たれた。 夜来の雨もあがった横浜港。「出航用意」の声とともに

  • 伝わり方や思い込みなどに つづき

    リフォーム前に処分するかどうか迷ったのは、主人の手帳です。1950年代から、1年間使った手帳をずっと残してありました。自分のたどった道をいつかはまとめてみたいとでも思っていたのでしょうか。1964年、1965年の手帳は小さめで、色は茶色です。新聞

  • 太宰治を読む〔364〕 つづき

    石上玄一郎「太宰治と私」は、若いころの作品から比べて、淡々としたというか枯れたような内容にも感じられたりするのだけれど、行きがかり上、深読みをしてみた。太宰治や平岡敏男との問答のようなものがあるのかもしれない・・・・戦争をよく見えるところで経験した人

  • 伝わり方や思い込みなどに

    リフォームの予定がだいぶ延びたため、この数年間、多くの本を処分したり箱詰めして積み上げた状態にあって、材料不足のまま、ということがよくありました。リフォームのために隣家を貸してもらえることになり、さらにまた本を処分して、残りを箱詰めで運んでもらったりし

  • 太宰治を読む〔364〕

    石上玄一郎「太宰治と私 激浪の青春」 集英社 1986年こちら次男上田貢は原敬の養子となって筆名が原奎一郎である。この「太宰と私」によれば、石上玄一郎は原奎一郎とは遠縁の関係だとのことである。ふと、太宰治と石上玄一郎の2人は同じ土壌の草的なところが

  • 太宰治を読む〔363〕 つづき

    石上玄一郎「自殺案内者」は昭和26年9月に3部構成の長編「自殺案内者」を北辰堂から刊行。著者の一番の自信作なのだとか。ところが発表時の評はあまりよくなかったという。前出「石上玄一郎小説作品集成」第3巻 石上玄一郎評伝年譜昭和二十六(一九五一)年 四

  • 野ばらが

    バラのようなのに花が咲かないと何年か思っていたんですが、今年、花が咲いていました。もしかしたら、留守にしたりして、せっかく咲いたのに、と舌打ちをしていたのかもしれませんけれど。珍しい花ではありませんが、何かを言いたげなんですよね。私の住んでいるところ

  • 太宰治を読む〔363〕

    太宰治には一時的親友が多くいた。阿倍合成、壇一雄、亀井勝一郎、山岸外史 ・・・・・長命だった石上玄一郎の作品を読んでいくと、早逝した太宰治が寄り添っているような気がしないでもない。実際のところ、存命中の太宰治は、石上玄一郎の動向を気にしていたようであ

  • 太宰治を読む〔362〕

    石上玄一郎は、南部藩の士族の家系にあって、貧窮のうちに両親を早くに失った。作品を読んでみると、かなり複雑な性格であるように感じられたりする。同じ東北といっても、津軽と南部では色合いが違うというか。漫才で、広島と岡山の差を取り上げたものがあったけれど、

  • 太宰治を読む〔361〕

    「如是我聞」の冒頭  他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。「ひとは、自分の真の神をよく隠す」については、日本も含めてと

  • 憲法問題 恒藤恭 その3

    芥川龍之介「恒藤恭氏」は 青空文庫で読めます。→ こちら文中の詩です。   かみはつねにうゑにみてり   いのちのみをそのにまきて   みのれるときむさぼりくふ   かみのうゑのゆゑによりて   かみのみなをほめたたふや   はかなきみをむすべる

  • 憲法問題 恒藤恭 その2

    前出「憲法問題」 まえがき より・日米新安保条約のために、わが国が米国に対して高度の従属関係に立っているかぎりは、日本国民の総意に合致するようなしかたで憲法改正が行われ得るための十分な条件が欠けている状態が持続する。だから、日本国民が真に自主的な立場から

  • 憲法問題 恒藤恭 その1

    恒藤恭「憲法問題」 講談社学術文庫 2020年(原本は1964年刊行の岩波新書)この本を開くと、一行一行が響いてくるように感じられたりします。どこかに森鴎外と芥川龍之介がいるのか、みたいな気がしないでもありません。このブログで、恒藤恭に関する記事は

  • 太宰治を読む〔360〕 つづき

    また、主人からですが新聞記者として山下清の作品制作の場にいたのかその映像をみたのかの体験を聞いたことがある。山下清については こちら主人の話では、完成図が頭にあるためにあちこち離れた部分を描いて次第に統一されていくのだろうが、見ていて不思議な気がした

  • 太宰治を読む〔360〕

    主人の話では、例えば家族でこの戦争は負けるんじゃないか、といった会話はできなかったのだとか。誰が聞いているかわからない、ということであったようである。津島家は使用人も多い中で、兄弟間でも何を考えているかわからなかったりしたのではないだろうか。長兄であ

  • 太宰治を読む〔359〕 つづき

    前出「関東軍と極東ソ連軍」第三部 独ソ戦争から日ソ戦争へおわりに二、日本陸軍のソ連軍観⑦占領地における軍紀の紊乱・満州、北朝鮮、南樺太などの日本軍部隊からは、ソ連軍将兵が略奪、強盗、強姦などをほしいままにし、まったく手がつけられないとの報告が、いくつ

  • 太宰治を読む〔359〕

    前出「関東軍と極東ソ連軍」で興味深い記述を見つけた。(あくまでも私の目的は戦争阻止ですのでその点をご理解ください)第三部 独ソ戦争から日ソ戦争へ二、日本陸軍のソ連軍観・日露戦争に勝った日本軍は、先に何度も述べたように、帝政ロシアの報復を恐れ、明治四十

  • 太宰治を読む〔358〕 つづき

    林三郎なる名前にめぐり合ったのは何かの縁ということでまた道草を。林三郎の著書「関東軍と極東ソ連軍――ある対ソ情報参謀の覚書――」芙蓉書房 昭和49年私が入手したのは昭和61年発行の第6刷である。元参謀本部ロシア課長の経歴があったとは。著者略歴明

  • 太宰治を読む〔358〕

    「追想録 平岡敏男」 平岡敏男追想録刊行会 昭和62年8月6日には、500人余りの錚錚たる発起人たちの名前が並んでいる。なお、平岡敏男は1986年(昭和61年)8月6日に他界した。あとがき から平岡敏男会長の追想録をつくるとき、『めぐりあい』、『焔の

  • 緑色をどうぞ

    椿峰ニュータウンバス停のところの雑木林です。所沢・航空公園にある小さな日本庭園です。人気ブログランキングへにほんブログ村NO to 5G

  • 厚労省のホームページで

    老健局については こちらここ6年の間に、主人、実家の父、母が亡くなり、今95歳の主人の姉がグループホームでお世話になっております。多くの方たちにお世話になり、また介護保険などの仕組みをあれこれ知ることになりました。これから団塊の世代がどのような老後と

  • 太宰治を読む〔357〕 つづきのつづき

    同じく第3巻 評伝年譜より昭和5(1930)年 20歳・1月16日夜、校内の社研を中心とした弘前左翼組織に弾圧の手が延び、新聞雑誌部委員を含む8名とともに、弘前警察署に連行、検挙される。以下は『東奥日報』1月18日付に報じられた記事である。<”弘高の左

  • 太宰治を読む〔357〕 つづき

    前出「石上玄一郎玄一郎小説作品集成」 第3巻 評伝年譜から昭和4(1929)年 19歳・こうした、文芸部員たちの自作の朗読、批評はよく行われていたらしく、同部の委員だった同級生の南部農夫治(のち、『北海タイムス』社論説委員)は、「回想の太宰治」(『北方

  • 対話

    いつもより、重く話しかけられているように感じた・・・・・

  • 太宰治を読む〔357〕

    石上玄一郎について書こうとすれば、まず有島武郎「小さきものへ」に触れなければいけないようである。有島武郎「小さきものへ」から・同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の累(わずら)いからは自由だった。飲

  • 太宰治を読む〔356〕

    旧制弘前高校時代に太宰治のライバルとされた石上玄一郎についてあれこれ読んでみたのだけれどびっくりの連続である。何から書いたらよいのか・・・・母方の祖父母が岩手出身だったのに、南部藩については知らないことばかりであったというか。石上玄一郎は、本名が上田重

  • 太宰治を読む〔355〕

    岩波書店『図書』2012年11月号に、平岡敏夫「原敬の遺書と鴎外の遺書」の論文があり、両人の遺書の類似について触れているとのこと。日本の近代文学の研究者である平岡敏夫については こちら前出「ふだん着の原敬」に、何度も爵位を断る原敬の姿が書かれていてまた原敬

  • 太宰治を読む〔354〕

    盛岡藩出身の原敬が総理大臣となれたのはなぜなのか・・・・盛岡藩最後の藩主南部利恭の長男で、南部家第42代当主であった南部利祥が、日露戦争で23歳の若さで戦死した、ということを知って、その理由の1つなのかもしれないと思った。Wikipediaより●南部利祥(な

  • 太宰治を読む〔353〕 つづき

    「ふだん着の原敬」より洋服姿・父はどちらかというと和服党で旅行に出るときとか、宮中へ参内のときとか、やむを得ない場合以外は、和服で通すことを好んだ。家庭のふだん着はむろん和服。役所も議会も和服でいくことが多かった。また、たとえば昼間洋服で出かけても、夕

  • 太宰治を読む〔353〕

    原奎一郎著「ふだん着の原敬」 中公文庫 2011年(単行本は毎日新聞社より1971年1月刊行とのこと)に出会った。森鴎外が、奈良五十首で原敬の死にふれていることの記事は こちら別の通り道からまた思いがけなく原敬に出会った、というような気分である。太

  • 太宰治を読む〔352〕 つづき

    ロベール・ギランの著書「日本人と戦争」 根本長兵衛・天野恒雄訳 朝日文庫 1990年(単行本は1979年に朝日新聞社から刊行)原型は1947年にパリで刊行されて、1979年に、削除、訂正、加筆され、新版が日仏同時出版の形で刊行されたとのこと。日本で

  • 太宰治を読む〔352〕

    ゾルゲやヴケリッチを知るというフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランの著書を読んでみた。ロベール・ギランについては こちら「ゾルゲの時代」 三保 元訳 中央公論社【ヴケリッチについて】・長い記者生活のあいだに、わたしは様々な時代を体験し、息づま

  • 太宰治を読む〔351〕

    ゾルゲやヴケリッチ、あるいはニューマンのほかに外国人のスパイはいなかったのかどうか検索してみた。ゾルゲ事件に先行して、1940年7月に、コックス事件というものがあったのだという。→ こちら憲兵隊が11人のイギリス人を拘束し、そのうちの1人のイギリス人記

  • 太宰治を読む〔350〕

    前出「グッバイ・ジャパン」の口絵写真は左端がニューマンで、右端の長身の人物はニューマンの親友のイアン陸奥(陽之助)とのこと。ニューマン在日時代に撮られた写真だとのことなのだけれど、ニューマンが20代には見えなかったりする。陸奥宗光の孫だという陸奥イ

  • 「はこがまえ」について

    「パンドラの匣」の匣が気になって漢和辞典をひいてみました。入れた品物をかめの甲のように、おおいかくす。匚 には箱という意味と隠すという意味があるようです。甲には、鎧(よろい)と亀の甲との意味がありました。ネットで「くにがまえ」について見つけた記事が

  • 太宰治を読む〔349〕

    1993年に出版された上の「グッバイ・ジャパン 50年目の真実」に加えて2010年には伊藤三郎著『開戦前夜の「グッバイ・ジャパン」 あなたはスパイだったのですか?』現代企画室が出された。スパイとは? Wikipediaから こちらスパイは時代によって変わる

  • 太宰治を読む〔348〕

    ジョセフ・ニューマン著 篠原成子訳 伊藤三郎解説「グッバイ・ジャパン 50年目の真実」朝日新聞社 1993年についての以前の記事 太宰治を読む〔51〕は こちらこの本によると、当時の著者経歴は次のようになっている。ジョセフ・ニューマン(Joseph Newman

  • 太宰治を読む〔347〕

    平岡敏男「毎日新聞 私の五十年」 毎日新聞社 1982年のトップに掲げられた写真である。毎日新聞社懇談会で(昭和56年4月)左から 山内大介毎日新聞社社長、一人おいて著者、芦原義重関西電力会長、永野重雄日商会頭とある。そのほかにもクルサーク・チェコ

  • 太宰治を読む〔346〕

    平岡敏男「焔の時灰の時」 毎日新聞社 1979年は、平岡敏男が古稀を迎えて書いた雑文集である。功成り名遂げた人たちの自分史といった内容の中に、太宰治との交流があれこれ細切れに挟まれていたりする。写真も多めに掲載されているのだが、その中の一枚が印象的で

  • ブランコ・ヴケリッチの願い その3

    主人は10代で戦争を体験し、めったに手記などでびっくりすることはなかったのだが片島紀男「ゾルゲ事件 ヴケリッチの妻・淑子 愛は国境を越えて」 同時代社 2006年を読んで、驚いていたのを思い出す。前出「ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙」に付け加えられ

  • ブランコ・ヴケリッチの願い その2

    前出「ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙」より冒頭部分から・はじめに《誰か愛する者が死ぬと、私たちは胸を刺す悔恨を支払って生き残る罪を償う。――》                     (シモーヌ・ド・ボーヴォワール)少なくとも私の夫の死について

  • ブランコ・ヴケリッチの願い その1

    山崎淑子編著「ブランコ ヴケリッチ 獄中からの手紙」未知谷 2005年という本に出会った。山崎淑子についての2013年9月の記事は こちら表紙カバーの紹介文より・ブランコ・ヴケリッチは確信的理論派コミュニストだった。 ソ連の軍事諜報機関の依頼を容

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