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歴史にまつわる物語などで、あなたの心の扉をノックします。
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メゾフォルテさんの新着記事

1件〜30件

  • 日本の主張

    日本という国は主張するのが不得意であるのかもしれません。それは、戦争に負けたから、ということが1つの要因であるといえるでしょう。1945年8月15日に玉音放送が流された場面は、戦後に育った私たちは映画やドラマで幾度となく耳にしてきました。実際、聞いた

  • 太宰治を読む〔365〕

    浅田高明「私論 太宰治 上方文化へのさすらいびと」 文理閣 1988年著者紹介より 1930年、富山市生まれ。 京都大学医学部卒業後、京都大学結核胸部疾患研究所で結核、呼吸器病学を専攻。現在、ダイハツ工業株式会社京都工場診療所長。医学博士。太宰文学研

  • 2021年 7月の虹

    激しい雷と雨、そして目の前に虹まさかブログをさぼるな、っていうことじゃ・・・・人気ブログランキングへにほんブログ村NO to 5G

  • 天皇と侍従長 つづき

    前出「天皇と侍従長」より・このときの訪欧にはもうひとつ、ワクがはめられていた。貞明皇后のお許しを得た『松方内奏文』にあるように、皇太子の訪欧は見学が主な目的だから「一二帝室御訪問の場合を除くの外は終始御微行(びこう)」とされていたのである。「御微行」とは

  • 天皇と侍従長

    岸田英夫「天皇と侍従長」 朝日文庫 1986年(昭和61年)を読んでいるところです。第1章 天皇の青春と珍田捨巳 より・大正10年(1921)3月3日、皇太子裕仁親王はヨーロッパ訪問に旅立たれた。 夜来の雨もあがった横浜港。「出航用意」の声とともに

  • 伝わり方や思い込みなどに つづき

    リフォーム前に処分するかどうか迷ったのは、主人の手帳です。1950年代から、1年間使った手帳をずっと残してありました。自分のたどった道をいつかはまとめてみたいとでも思っていたのでしょうか。1964年、1965年の手帳は小さめで、色は茶色です。新聞

  • 太宰治を読む〔364〕 つづき

    石上玄一郎「太宰治と私」は、若いころの作品から比べて、淡々としたというか枯れたような内容にも感じられたりするのだけれど、行きがかり上、深読みをしてみた。太宰治や平岡敏男との問答のようなものがあるのかもしれない・・・・戦争をよく見えるところで経験した人

  • 伝わり方や思い込みなどに

    リフォームの予定がだいぶ延びたため、この数年間、多くの本を処分したり箱詰めして積み上げた状態にあって、材料不足のまま、ということがよくありました。リフォームのために隣家を貸してもらえることになり、さらにまた本を処分して、残りを箱詰めで運んでもらったりし

  • 太宰治を読む〔364〕

    石上玄一郎「太宰治と私 激浪の青春」 集英社 1986年こちら次男上田貢は原敬の養子となって筆名が原奎一郎である。この「太宰と私」によれば、石上玄一郎は原奎一郎とは遠縁の関係だとのことである。ふと、太宰治と石上玄一郎の2人は同じ土壌の草的なところが

  • 太宰治を読む〔363〕 つづき

    石上玄一郎「自殺案内者」は昭和26年9月に3部構成の長編「自殺案内者」を北辰堂から刊行。著者の一番の自信作なのだとか。ところが発表時の評はあまりよくなかったという。前出「石上玄一郎小説作品集成」第3巻 石上玄一郎評伝年譜昭和二十六(一九五一)年 四

  • 野ばらが

    バラのようなのに花が咲かないと何年か思っていたんですが、今年、花が咲いていました。もしかしたら、留守にしたりして、せっかく咲いたのに、と舌打ちをしていたのかもしれませんけれど。珍しい花ではありませんが、何かを言いたげなんですよね。私の住んでいるところ

  • 太宰治を読む〔363〕

    太宰治には一時的親友が多くいた。阿倍合成、壇一雄、亀井勝一郎、山岸外史 ・・・・・長命だった石上玄一郎の作品を読んでいくと、早逝した太宰治が寄り添っているような気がしないでもない。実際のところ、存命中の太宰治は、石上玄一郎の動向を気にしていたようであ

  • 太宰治を読む〔362〕

    石上玄一郎は、南部藩の士族の家系にあって、貧窮のうちに両親を早くに失った。作品を読んでみると、かなり複雑な性格であるように感じられたりする。同じ東北といっても、津軽と南部では色合いが違うというか。漫才で、広島と岡山の差を取り上げたものがあったけれど、

  • 太宰治を読む〔361〕

    「如是我聞」の冒頭  他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。「ひとは、自分の真の神をよく隠す」については、日本も含めてと

  • 憲法問題 恒藤恭 その3

    芥川龍之介「恒藤恭氏」は 青空文庫で読めます。→ こちら文中の詩です。   かみはつねにうゑにみてり   いのちのみをそのにまきて   みのれるときむさぼりくふ   かみのうゑのゆゑによりて   かみのみなをほめたたふや   はかなきみをむすべる

  • 憲法問題 恒藤恭 その2

    前出「憲法問題」 まえがき より・日米新安保条約のために、わが国が米国に対して高度の従属関係に立っているかぎりは、日本国民の総意に合致するようなしかたで憲法改正が行われ得るための十分な条件が欠けている状態が持続する。だから、日本国民が真に自主的な立場から

  • 憲法問題 恒藤恭 その1

    恒藤恭「憲法問題」 講談社学術文庫 2020年(原本は1964年刊行の岩波新書)この本を開くと、一行一行が響いてくるように感じられたりします。どこかに森鴎外と芥川龍之介がいるのか、みたいな気がしないでもありません。このブログで、恒藤恭に関する記事は

  • 太宰治を読む〔360〕 つづき

    また、主人からですが新聞記者として山下清の作品制作の場にいたのかその映像をみたのかの体験を聞いたことがある。山下清については こちら主人の話では、完成図が頭にあるためにあちこち離れた部分を描いて次第に統一されていくのだろうが、見ていて不思議な気がした

  • 太宰治を読む〔360〕

    主人の話では、例えば家族でこの戦争は負けるんじゃないか、といった会話はできなかったのだとか。誰が聞いているかわからない、ということであったようである。津島家は使用人も多い中で、兄弟間でも何を考えているかわからなかったりしたのではないだろうか。長兄であ

  • 太宰治を読む〔359〕 つづき

    前出「関東軍と極東ソ連軍」第三部 独ソ戦争から日ソ戦争へおわりに二、日本陸軍のソ連軍観⑦占領地における軍紀の紊乱・満州、北朝鮮、南樺太などの日本軍部隊からは、ソ連軍将兵が略奪、強盗、強姦などをほしいままにし、まったく手がつけられないとの報告が、いくつ

  • 太宰治を読む〔359〕

    前出「関東軍と極東ソ連軍」で興味深い記述を見つけた。(あくまでも私の目的は戦争阻止ですのでその点をご理解ください)第三部 独ソ戦争から日ソ戦争へ二、日本陸軍のソ連軍観・日露戦争に勝った日本軍は、先に何度も述べたように、帝政ロシアの報復を恐れ、明治四十

  • 太宰治を読む〔358〕 つづき

    林三郎なる名前にめぐり合ったのは何かの縁ということでまた道草を。林三郎の著書「関東軍と極東ソ連軍――ある対ソ情報参謀の覚書――」芙蓉書房 昭和49年私が入手したのは昭和61年発行の第6刷である。元参謀本部ロシア課長の経歴があったとは。著者略歴明

  • 太宰治を読む〔358〕

    「追想録 平岡敏男」 平岡敏男追想録刊行会 昭和62年8月6日には、500人余りの錚錚たる発起人たちの名前が並んでいる。なお、平岡敏男は1986年(昭和61年)8月6日に他界した。あとがき から平岡敏男会長の追想録をつくるとき、『めぐりあい』、『焔の

  • 緑色をどうぞ

    椿峰ニュータウンバス停のところの雑木林です。所沢・航空公園にある小さな日本庭園です。人気ブログランキングへにほんブログ村NO to 5G

  • 厚労省のホームページで

    老健局については こちらここ6年の間に、主人、実家の父、母が亡くなり、今95歳の主人の姉がグループホームでお世話になっております。多くの方たちにお世話になり、また介護保険などの仕組みをあれこれ知ることになりました。これから団塊の世代がどのような老後と

  • 太宰治を読む〔357〕 つづきのつづき

    同じく第3巻 評伝年譜より昭和5(1930)年 20歳・1月16日夜、校内の社研を中心とした弘前左翼組織に弾圧の手が延び、新聞雑誌部委員を含む8名とともに、弘前警察署に連行、検挙される。以下は『東奥日報』1月18日付に報じられた記事である。<”弘高の左

  • 太宰治を読む〔357〕 つづき

    前出「石上玄一郎玄一郎小説作品集成」 第3巻 評伝年譜から昭和4(1929)年 19歳・こうした、文芸部員たちの自作の朗読、批評はよく行われていたらしく、同部の委員だった同級生の南部農夫治(のち、『北海タイムス』社論説委員)は、「回想の太宰治」(『北方

  • 対話

    いつもより、重く話しかけられているように感じた・・・・・

  • 太宰治を読む〔357〕

    石上玄一郎について書こうとすれば、まず有島武郎「小さきものへ」に触れなければいけないようである。有島武郎「小さきものへ」から・同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の累(わずら)いからは自由だった。飲

  • 太宰治を読む〔356〕

    旧制弘前高校時代に太宰治のライバルとされた石上玄一郎についてあれこれ読んでみたのだけれどびっくりの連続である。何から書いたらよいのか・・・・母方の祖父母が岩手出身だったのに、南部藩については知らないことばかりであったというか。石上玄一郎は、本名が上田重

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