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2006/04/22

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  • 末期の目

    奈良・大和西大寺駅前にて

  • 太宰治を読む〔390〕 平出修伝 つづき

    幸徳秋水はその家系と妻の証言から判断を間違わない稀有の人間であった、と仮定してみる。幸徳秋水は、大逆事件の首謀者ではなく、むしろ明治天皇暗殺事件を止めようとしていた、ということが後世でわかったようである。なお大逆事件の弁護団は11名であり、平出修が担

  • 2024年11月3日 平和を撮る

    入間航空祭が開かれていて、以前のように我が家のベランダからの写真を撮ることができました。平和な日本の空で飛ぶ飛行機の姿を自慢してみます。

  • 太宰治を読む〔390〕 平出修伝

    寄り道が長くなっております。平出彬「平出修伝」春秋社 1988年 を購入した。566ページの部厚い本である。中央:平出修右上より 森鴎外 与謝野鉄幹 与謝野晶子 木下杢太郎 幸徳秋水左上より 上田敏 石川啄木 吉井勇 北原白秋 高村光太郎 〔著

  • 2024年 東北新幹線にて その3

    今回出かけたのは8月17日で、前日は台風のせいで新幹線が運休したりしていました。窓から見る雲は、表情が豊かというか・・・・

  • 2024年 東北新幹線にて その2

    駅弁の包装紙のデザインから学ぶものは大きいっていうか・・・・

  • 2024年 東北新幹線にて その1

    日本の景観で最も美しいのはこの水田の広がる風景ではないでしょうか。

  • 2024年夏 青森点描 その3

    コロナ禍のころは青森が遠くに感じられましたが、一部壊れたままであった実家の修理をこの春に依頼し、それが済んでその家で高校時代の友人たちとゆっくり話すことができたりしております。(実家の改修についてはブログ「椿峰のまち」で報告予定)ねぶた祭が済むと青森は

  • 2024年夏 青森点描 その2

    こちらは7月に撮影したものです。夕方の堤川で、ボートの練習をしている人たちがいました。青森のアジサイはたくましい感じです。道端の樹木でも手入れがよくされているようです。青森は時間がゆったりと流れているように感じられます。コロナによって、忙しいこと

  • 2024年夏 青森点描 その1

    青森の実家の2階の窓からトンボが引き込み線に止まっているのが見えました。ムクゲの木が大きくなっていて、なぜか撮ってくれとばかりの花が咲いていました。

  • 太宰治を読む〔389〕 石川啄木と平出修 つづき

    ドナルド・キーン93歳の評伝 角地幸男訳「石川啄木」新潮社 2016年を再読。平出修に関係する部分を抜き出してみる。第14章 大逆事件・啄木研究家にとって幸いなことに、啄木の日記は明治44年1月3日に再開される。お蔭で我々は、より多くの自信を持って啄木

  • 太宰治を読む〔389〕 石川啄木と平出修

    与謝野光「晶子と寛の思い出」 思文閣出版 平成3年(1991年)を購入。帯には 90歳の回顧録 与謝野晶子没後50年に際し、長男が素顔の寛と晶子、そして新詩社に集った多彩な浪漫派歌人たちの思い出を語る とある。与謝野晶子は12人の子どもを産み育てて、多

  • 太宰治を読む〔388〕

    次のような論文をみつけた。資料紹介 太宰治「作家生活に対する構へ、覚悟。」・ほか―― 太宰治と保田与重郎をめぐって ―― 山内祥史」によると「新潮」昭和11年の「新年特大号」(第33年第1号、昭和11年1月1日発行)に作家としての心構へ・覚悟(回

  • 新潟・長岡 煎りあられ

    新潟・長岡の岩塚製菓の「鬼ひび 梅昆布味」がおいしかったです。袋には米技心 新潟長岡銘米菓 東京・恵比寿 賛否両論 笠原将弘監修米(原材料)技(製法)にこだわり心を込めてつくりましたこだわり日本のお米を100%使用した心地よい歯ごたえの煎りあ

  • 道路と土手と塀 岸田劉生

    「騎龍観音」の近くで見かけました。「麗子像」で知られる岸田劉生(1891‐1929)のこの作品は不思議なひきつける力を持っているようです。二本の電柱の影のせいでしょうか。それともエネルギーを秘めたような道路のせいでしょうか。1915年の作品だとのことで

  • 騎龍観音 原田直次郎

    国立近代美術館で森鴎外の友人である原田直次郎(1863‐1899)の「騎龍観音」に出会いました。早逝した画家の作品だと思うからか、迫力といったものを感じました。撮影が許可されている美術展はありがたいですね。父原田一道、甥の原田熊雄など、原田直次郎の周辺に

  • 太宰治を読む〔387〕 走れメロス

    ルーベンスと太宰治は永遠に残る作品を作り出した、という点では一致しているように思われる。ルーベンスにとってはカラヴァッジオ、太宰治にとっては芥川龍之介という才能あふれるしかも早逝した牽引役がいたという点でも共通点がある。太宰治は画家志望の兄がいて、少年

  • 太宰治を読む〔386〕 走れメロス

    太宰治は「フランダースの犬」を読んで、周辺に聖書に詳しい人間がいたのでルーベンスについて踏み込んで考えることが可能だったのかもしれない。「走れメロス」の末尾に(古伝説と、シルレルの詩から。)とあるのがシラクス(シラクサ)についての入り口とも考えられる。

  • 太宰治を読む〔385〕 走れメロス

    教科書にも取り上げられたりする「走れメロス」なのだがなんだか違和感みたいなものというか、何を埋め込んでいるのかがよくわからないと思っていた。プラトンの年表を眺めていたときに、「シラクサ」という地名が出てきて「走れメロス」の舞台がシラクスであった、こと

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その18

    1600年前後は、日本で大地震が続いたようである。ヨーロッパでも異常気象が続き、また感染症が津波のように襲っていたかもしれない。マリー・ド・メディシスが愚かな浪費家であった、というのは違うのではないだろうか。国難のときに君主はどのようにするべきか、を

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その17

    世界史で、ルネッサンス → 宗教改革 → 対抗宗教改革(反宗教改革)という流れでの17世紀の30年戦争だと思っていたのだけれど・・・・そう単純なものではなかったらしい。ルネッサンスは細々と持ちこたえて、少なからずの人たちの凍てつく心を温めていた、とい

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その16

    ルーベンスが弟子アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画を描いている。画像はWikipedia英語版より1627年から28年ごろの作品だそうで、アンソニー・ヴァン・ダイクによる自画像での美少年をみていたりすると、20代なのに衰えを感じて、ルーベンスの容赦のない筆はな

  • ルーベンス「三美神」

    ルーベンス「三美神」は気になる絵の1枚である。ルーベンスは、どこかでは自分の外交での仕事を誇示したいとの思いがあったのではないか。この「三美神」の1人はマリー・ド・メディシスだとして、あとの2人は?イサベラ・クララ・エウへニア(1566-1633) 父

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その15

    1631年に、マリー・ド・メディシスはフランスからスペイン領ネーデルランドへ向かい、7年ほどを過ごす。その後、オランダを経てロンドンに3年近く滞在する。1640年5月にルーベンスが他界。1641年10月にドイツ・ケルンに到着。1642年7月にマリー・

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その14

    前出「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」より・ある日、アンリ4世はマリ・ド・メディシスにこう言ったらしい。「私の生命が尽きるときは、あなたの苦しみの始まりとなろう。私がいささか厳しく息子を鞭打ったことを、あなたは嘆いたことがあったが、いつの日

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その13 つづき

    アントウェルペンの聖母大聖堂に掲げられたルーベンスによる「聖母被昇天」は、「マリ―・ド・メディシスの生涯」を完成してすぐの作品で、こちらもほとんど自らで完成させたものとのこと。また、1611年のあたりに描かれたという「キリスト昇架」「キリスト降架」のう

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その13

    マリー・ド・メディシスの肖像画とルーベンスの自画像をあれこれ比べると(画像はともにWikipediaより)この2枚がもっとも輝きをもって感じられるこの2枚の絵は、ちょうどルーベンスによる「マリ―・ド・メディシスの生涯」の制作時期と重なる。この2枚の絵も2人

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その12

    ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュは1615年に結婚し、1638年にようやく長男、のちのルイ14世が誕生した。このルイ14世の父親について、リシュリューまたはマザランといった説がささやかれてきたとか。アンヌ・ドートリッシュは100人ほどのスペイン出身者に

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その11

    ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」の連作はマリー・ド・メディシスの壮大な構想から生まれたものであったらしい。マリー・ド・メディシスは永遠に残るものとはどういうものか、を考え、成功したといえるのではないだろうか。太宰治の目指したことでもあったよう

  • ケルン大聖堂

    Raimond Spekking / CC BY-SA 4.0 (via Wikimedia Commons)なぜマリー・ド・メディシスは、最期の地をドイツ・ケルンにしたのか。窮迫していたとはいえ、パリでもロンドンでもどうにかなったかもしれないのに。ケルンは、ルーベンスが少年時代を過ごしたところである

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その10

    フランス王妃マリー・ド・メディシスは27歳で結婚するまで、哲学や芸術などいわば皇帝学を学んだのではないだろうか。家臣団を率いて、フランスでカトリーヌ・ド・メディシスの後継を務めるとすれば王妃というよりも女帝としての覚悟が必要だったはずである。拙著「夏の

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その9

    アンリ4世の初めの妃は、カトリーヌ・ド・メディシスの末娘であるマルグリット・ド・ブルボンであり、子どもがなかったために別れたとのこと。小説にも登場する美貌の持ち主であったとか。Wikipedia英語版より結婚式のすぐあとに、サン・バルテルミの虐殺が起こったのだ

  • 魔術師ルーベンス

    歴史や絵画に関して、学んでいるわけではない私が、ここにきてルーベンスにこだわっているのはなぜなのか・・・・ 私にとってのルーベンスはウィーン美術史博物館での「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」であったことを思い出した。エレーヌ・フールマンについて

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その8

    フランスの歴史で人気が高いというアンリ4世(1553-1610)について名前さえも知らなかったことに気がついた。欧米は、日本の歴史や地理に関しては詳細に調べる一方で、サン・バルテルミ(聖バーソロミュー)の虐殺につながるアンリ4世に関しては日本の欧米研究から遠ざけ

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その7 つづき

    「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」本文から第1章 ヨーロッパの花嫁候補・結局、さまざまな勉学が、信仰の実践とともに、公女の時間の大部分を占めた。フランチェスコ大公は人文主義の伝統によって、娘が非の打ちどころのあい教育を受けることを望んだ。

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その7

    ミシェル・カルモナ著 辻谷泰志訳「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」国書刊行会 2020年を購入した。900ページ近くの分厚い本である。著者略歴によると ミシェル・カルモナ(Michel Carmona)1940年、エジプトのカイロ生まれ。のちにフランス

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その6 つづき

    黒衣のカトリーヌ・ド・メディチの肖像画を描いた画家はフランソワ・クル-エであるという。フランス・ヴァロア朝の宮廷画家として父子ともに高名のようだが、詳細はよくわからない。フランソワ・クルーエについて この画家による国王フランソワ1世の肖像画は

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その6

    1600年にルーベンスはイタリアへ。イタリア・マントヴァの宮廷でヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ(1562-1612)と妃エレオノーラ・デ・メディチ(1566-1611)に認められたことで、ルーベンスの歩む道が大きく開けたとのこと。ゴンザーガ家については こちらメディ

  • ルーベンスの描いた聖フランシスコ・ザビエルから

    ルーベンスが聖フランシスコ・ザビエルを描いていたとは。聖フラシスコ・ザビエルとは Wikipediaから こちらこの絵の中に中国人らしき人たちはいても、日本人らしき人たちは見当たらない。ザビエルは日本を評価していたということなのに。写真のない時代に、日本な

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その5

    私の両親や22歳年上の主人の世代は、兄弟が多く、また親類も多かったりしたので、今の若い世代よりは、良くも悪くも子どものときから人間観察の機会が多かったことは確かである。兄弟でも能力の違い、あるいは容姿の違いがあって、子どもながらに神様は不公平だと思った

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その4

    1571年に投獄されたヤン・ルーベンスは2年後に釈放され、1574年に兄フィリップ・ルーベンス、1577年に画家ピーテル・パウル・ルーベンスがジーゲンで生まれた。1578年に一家はケルンへと移り、1587年にヤン・ルーベンスが亡くなり、ドイツ・ケルンの

  • 獣の数字「666」を考える

    新約聖書のヨハネの黙示録に「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(13章18節) とあるのだとか。「666」についての以前の記事は こちらもしかしたら

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その3

    1568年、ルーベンスの父ヤン・ルーベンスはカルヴァン派であったため、妻とともにスペイン領ネーデルラント(現在のベルギー)のアントウェルペンを出て、ドイツ・ケルンに逃れた。ルーベンスの父 ヤン・ルーベンス(1530-1587)画像はWikipedia英語版よりルーベン

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その2

    ルーベンスの自画像によって、ルーベンスが目の前にいるかのように思えたりする。晩年の自画像はおや、その手は?どうなさったんでしょうか?自画像を含めて、ルーベンスの描く人物の中に関節リウマチの指の変形が見つかるとか。→ こちら痛みがない若い頃がなつ

  • 再びのルーベンス 連理の枝 その1

    ルーベンスとマリー・ド・メディシスの関係が、玄宗と楊貴妃のように感じられてきた。恋愛というよりも、その時代を超えて共にいる存在というか。「マリー・ド・メディシスの生涯」から1600年の「マリー・ド・メディシスとアンリ4世の代理結婚式」にはルーベンス自身

  • 再びのルーベンス ヘンリエッタ・マリア つづき

    1629年から30年にかけてルーベンスはロンドンに滞在したという。その間にチャールズ1世のために描かれたという「マルスから平和を守るミネルヴァ」(「平和と戦争」など題名が複数あるようです)解説については こちらまた、Wikipedia から こちら解説を読

  • 再びのルーベンス ヘンリエッタ・マリア

    外交官としてのルーベンスは具体的にはどのような仕事をしたのだろうか。「マリー・ド・メディシスの生涯」は、フランス王妃であるマリー・ド・メディシスによる娘のヘンリエッタ・マリアとイギリス国王チャールズ1世との婚姻に際しての依頼であったとか。これは1625

  • 再びのルーベンス 「幼児虐殺」 つづきのつづき

    スペイン領ネーデルラント大公妃であったイサベラ・クララ・エウへニアについて こちらアロンソ・サンチェス・コエリョによる20歳前後のころの肖像画があって小人の侍女とともに描かれている。この侍女の名前はマグダレーナ・ルイズとのこと。画像はWikipediaより。

  • 再びのルーベンス 「幼児虐殺」 つづき

    2006年4月の記事である ルーベンス〔15〕は こちら今になって振り返ると、ルーベンスやベラスケスは森鴎外に近いものを感じる。したがって、芥川龍之介や太宰治は、その途中で早逝した、と考えてみるべきかもしれない。子供好きの平和主義者であったルーベンス

  • 再びのルーベンス 「幼児虐殺」

    キリスト教系の幼稚園で、聖書の物語をよく聞かされていたがその中でもモーゼとイエス・キリストそれぞれにまつわる幼児虐殺の話はよくわからないながらも記憶に刻まれた。幼児虐殺について こちらイエス・キリストについてはヘロデ王の命令ということであった。ヘロ

  • 「国際政治論」講義ノートから

    1989年5月から6月にかけて、主人は研修期間を利用して、第2次世界大戦中の国際舞台となった場所へ個人での旅行に出かけました。新潟 ― ソ連 ― 東欧 ― 西ドイツ ― オーストリア ― イタリア ― スイス ― フランス ― スペイン ― ポルトガル

  • 芥川龍之介の横顔 その14 つづき

    なぜ、芥川賞の第1回に、太宰治ではなくてごく地味な石川達三が選ばれたのか。石川達三「蒼氓(そうぼう)」はブラジルへの移民を題材にしたものであった・・・ → こちら当時には、山本喜誉司の存在はよく知られていたはず。今ごろになって私などは納得できたりするの

  • 芥川龍之介の横顔 その14

    写真は「新潮日本文学アルバム・芥川龍之介」より芥川龍之介は北京で、中学以来の親友である山本喜誉司の家を訪問した。山本喜誉司の姉の娘、すなわち姪が芥川龍之介の妻、文であるとのこと。山本喜誉司については こちら当時は三菱の北京駐在員であったとのこと。

  • 風薫るとは

    今年も我が家で、柑橘類の3本の木に花が咲いている。この3本とも実生の木で、そのせいか香りが強い。いつもよりたくさんの花に感じられる。主人がこれを見たら喜んだことだろう。薫風とは旧制広島高等学校の寮の名前だ、と主人から聞かされたのであったがその

  • ハートランド

    永井荷風が「つゆのあとさき」という小説を書き、森鴎外や太宰治がムラサキツユクサを好んでいたと書かれていたりする。ツユ=露 → ロシア に気がついたりする。確かに日本はロシアとの戦争で大きく変化した。森鴎外や芥川龍之介、太宰治は共産主義には疑問を持っ

  • 芥川龍之介の横顔 その13

    森鴎外と夏目漱石に期待された木下杢太郎について、芥川龍之介の中国旅行と同じ時期に何をしていたのか、が気になった。木下杢太郎著・岩阪恵子選「木下杢太郎随筆集」 講談社文芸文庫 2016年年譜より一九二一年(大正一〇年) 三六歳三月、美術論集『地下一尺

  • 芥川龍之介の横顔 その12

    芥川龍之介と中国 についてに戻ってみる。帰国後、体調悪化のなかでいくつかの作品を残している。中国旅行の前後で、作風は変化したようにも思われる。旅行後の「湖南の扇」は目立つ存在なのだけれど・・・・・当時の文壇はそれほど芥川龍之介を評価していないようで

  • 芥川龍之介の横顔 その11

    若い太宰治は芥川龍之介をどう読んだのか。もしかしたら芭蕉にヒントがあるのかもしれないが、ゆっくり読んでいるわけにもいかない。芥川龍之介の辞世の句が気になっていた。一般的には 下島勲医師に託した 水洟や鼻の先だけ暮れ残る とされている。野上彌生子の

  • 芥川龍之介の横顔 その10 つづき

    芥川龍之介にとって、この中国旅行は命がけのものであり、実際にこの旅行後、体調を悪化させ、長くは生きられなかった。とすれば、この旅行前の1921年3月に出版された「夜来の花」に何らかのメッセージが見つかるかもしれない、と思い、復刻版の中古本を購入した。「

  • 芥川龍之介の横顔 その10

    芥川龍之介周辺には、どちらかというと影がある人物たちがいたようにも見えたりする。孤高の作家という一面と、スパイのような情報収集・情報交換といった役割があって、彼を支える人脈があったのではないだろうか。それほど中国語は得意でないはずの芥川龍之介が派遣され

  • 芥川龍之介の横顔 その9

    ずっと気になっていることがあった。森鴎外が死の床で「馬鹿らしい」と大きな声でうわ言を発したのだとか。その理由は何だったのか。伊藤久子「感激に満ちた二週日 文豪森鴎外先生の臨終に侍するの記」より意識が不明になって、御危篤に陥る一寸前の夜のことでした。枕

  • 芥川龍之介の横顔 その8

    上海にどうにか到着と思ったら、また体調を崩して乾性肋膜炎との診断で、3週間ほど上海にある日本人経営の里見病院に入院したのだという。前出「特派員 芥川龍之介」より入院生活 ・乾性肋膜炎で入院した龍之介を、院長里見義彦は手厚く遇した。里見には文学趣味があ

  • 芥川龍之介の横顔 その7

    大阪で1週間ほど療養したのち、大阪を発って下関の宿で高熱を出し薬で押さえて門司から上海へ向かった。上海では大阪毎日新聞社の関係者やロイター通信社上海支局の記者トーマス・ジョーンズが出迎えた。トーマス・ジョーンズ(1890~1923)は、 アイルランド人で

  • 芥川龍之介の横顔 その6 つづき

    薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)について Wikipediaから こちらこの解説によると、泣菫の雅号はオスカー・ワイルドの詩「キーツの墓」からだとか。土井晩翠がヨーロッパに出かけたとき、薄田泣菫のためにキーツの墓で摘んだスミレを押し花にして送った、というエピソー

  • 芥川龍之介の横顔 その6

    なにぶん付焼刃というか、ネット検索と手に入る本を頼りに、自分では目を光らせているつもりなのだけれど、とんでもない方向に進んでしまうこともあるかもしれない。前出「特派員 芥川龍之介 中国で何を視たのか」 より第一章 中国文化へのまなざしジャーナリスト天

  • 芥川龍之介の横顔 その5

    堀辰雄は芥川龍之介の弟子に選ばれた1人といっていいのだろうか。最後の弟子は太宰治であったのかもしれないけれども。堀辰雄について以前の記事は こちらこの中で堀辰雄には「楡の家」という作品があって、芥川龍之介がモデルのような人物の名前が森於菟彦であり、最

  • 太宰治を読む〔384〕 仮面舞踏会

    「新潮日本文学アルバム」 1983年 によれば太宰治が最後に遺した愛読書は8冊あって田中貢太郎訳「聊斎志異」「鴎外全集 16」 「上田敏詩集」堀井梁歩役「ルバイヤート」 復刻版「末摘花」生島遼一訳「クレーヴの奥方」斎藤茂吉・土屋文明編「佐千夫歌集合評

  • 芥川龍之介の横顔 その4

    夏目鏡子がどこかで語っているのだが、夏目漱石の若いころは魅力的な顔立ちであったようである。職業柄、望ましい容姿を大事にする家系というものがあるのかもしれない。将来、一家を背負って立つ次世代の数名の中から、子どものときに容姿と能力を併せ持つ人間を選んで特

  • 冬の空

    木々が厳しい表情に感じられる今年の冬です。強風と急速な寒冷化の予報が出ている中、まだ太陽が出ていたので近くで写真を撮ってみました。厚い雲が迫っています。冬の空の飛行機です。学校から帰る中学生たちがいました。その先に暗雲が・・・・日本は知恵を絞

  • 芥川龍之介の横顔 その3

    沙羅(さら)の木 森鴎外 褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)に 白き花はたと落ちたり、 ありとしも青葉がくれに 見えざりし さらの木の花。沙羅(さら)の花 芥川龍之介沙羅木(さらのき)は植物園にもあるべ

  • 芥川龍之介の横顔 その2

    別冊宝島1385号「作家たちが読んだ芥川龍之介」 2007年という本がある。所沢の古本市でだいぶ前に購入していたものである。解説 芥川龍之介 —— 人と作品と時代 郷原 宏より・芥川龍之介の警句集(アフォリズム)『侏儒(しゅじゅ)の言葉』に、「天才

  • 芥川龍之介の横顔 その1

    太宰治に影響を与えた芥川龍之介に今一度戻ってみたい。石川啄木は森鴎外と夏目漱石双方から注目されたようだ。芥川龍之介も同様である。芥川龍之介は夏目漱石に作品「鼻」を激賞されたことはよく知られている。芥川龍之介にとって、この激賞はほかの弟子たちの嫉妬を

  • 太宰治を読む〔383〕

    「トカトントン」は、長命となりそうな佐藤春夫や保田與重郎に放たれた矢のようなものであったのかもしれない。最後にある真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と

  • サラエボ事件から

    1914年のサラエボ事件は、第一次世界大戦の勃発につながったとされる。サラエボ事件とは こちらなるほど100年が過ぎると、事件の全容がわかってくるような気がしてくる。このサラエボ事件で后とともに暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者である

  • 日本でのロシア皇太子ニコライ

    また寄り道を。ロシア皇太子ニコライについて、100年以上も前とは思われない写真があった。写真はWikipediaからこの写真の青年である、のちのロシア皇帝ニコライ2世について こちら長旅の最後が日本であったようである。1891年の大津事件について こちら

  • 太宰治を読む〔382〕 つづき

    芥川龍之介が「日本近代文藝読本」の編集に心血を注いだと感じられるので保田與重郎も「規範 国語読本」の編集にさまざまな意味を込めたのではないだろうか。50歳代になっていたので、より深いものであったりするだろう。「規範 国語読本」の一部から一 春の朝 ロ

  • 太宰治を読む〔382〕

    佐藤春夫「芥川龍之介を哭(こく)す」は こちら大正時代になってもまだ江戸時代の身分の差というものがあって、佐藤春夫は紀州藩の御庭奉行につながる家系ということから周辺に家来みたいに従う人たちがいたようにも感じられる。佐藤春夫 について Wikipediaから こ

  • 太宰治を読む〔381〕 つづき

    太宰治と保田與重郎とは良好な関係とは言えなかったようである。太宰治の中にいる芥川龍之介が拒絶したということはないだろうか。以前の記事と重複するが、太宰治と芥川龍之介についてまとめておきたい。太宰治にとって、芥川龍之介の影響というものがかなり大きかっ

  • 太宰治を読む〔381〕

    桶谷秀昭「昭和精神史」扶桑社 2020年およびその続編である「昭和精神史」戦後編 扶桑社 2021年 は、平成4年(1992年)および 平成12年(2000年)に文藝春秋から出版されたものを復刊とのこと。この戦後編の第1章に太宰治が登場している。・厳

  • 大宰治を読む〔380〕

    吉野俊彦による「鴎外・五人の女と二人の妻 もうひとつのヰタ・セクスアリス」 ネスコ 1994年は、鴎外の別の顔について考察していて興味深い。この中で、妻志げの意外な面も紹介されている。・また鴎外が大正四年四月『アルス』に公表した短編小説「天寵」のモ

  • 太宰治を読む〔379〕

    リフォームのために隣の家を借りていて、持ち込んだ本が片付くどころか増えてしまって、工事が終わっても自分の家に引っ越す踏ん切りがつかないでいる。借りた家の庭は高齢となった持ち主の方が庭の手入れが難しいというので、緑色の雑草除けのシートを庭一面に張っていた

  • 太宰治を読む〔378〕

    お盆が過ぎて、ようやく日差しが緩んだので、主人の墓参りに出かけた。霊園の少し手前にひまわりが意味ありげに目の前に現れて・・・・どういうわけかこの写真をパソコンに取り込むのに難渋した。太宰治についてあれこれ迷っていたっところであったので、ふと思いつい

  • 七十の手習い(汗)

    リフォームが終わったのですが、コロナの感染力が増強してしまい家に誰かを招くのが躊躇されて・・・・・ちょうど何かを稽古するのによさそうな空間となっているので、通信教育のユーキャンで書道を学ぶことにしました。主人や両親の介護で忙しくなり、近くの先生のと

  • 太宰治を読む〔377〕 つづきのつづき

    大逆事件など言論の自由が締め付けられる中で、鴎外は啄木を悼むために「魚玄機」を残し、太宰治は隠された意図を「惜別」でつなげた、とも思える。その昔、ウツギとは境木(さかいぎ)として使われたのだという。宅地であれば生垣となる。その理由は・強い刈り込みに耐

  • 太宰治を読む〔377〕 つづき

    魚玄機とは こちら唐代末期 844年ごろ-871年ごろ日本では菅原道真のころである。中国版Wikipediaより どちらかというと、髪型や服装が日本の女性のように思えたりする。隣国渤海には、8世紀に日本の舞女たちが送り込まれたとか。→ こちら唐にも日本

  • 太宰治を読む〔377〕

    石川啄木の妻節子は啄木の死後、千葉県北條町八幡で次女を出産。その後、函館に移り、そこの病院で亡くなった。27歳の生涯で、7歳の長女と1歳に満たない次女が残された。鴎外日記には、明治四十五年六月四日に石川節子(房州北條町八幡片山方)に返信したとの記録が

  • アジサイとナンテン

    アジサイがたくさん咲いているところにナンテンが混じって咲いていました。なんだかほかのナンテンと葉の広げ方から違うような。アジサイをライバル視している?それとも同調圧力っていうものがここでも働いている?人気ブログランキングへにほんブログ村NO to

  • 荒城の月 その11

    1909年1月、石川啄木は雑誌「昴」の発行名義人となる。創刊号に石川啄木が掲載したのは 小説「赤痢」であった。2015年7月に関連記事を書いたときに、啄木がそのような小説を書いていたとは聞いたことがなかったと思い、啄木周辺では窮乏ゆえの感染症によって

  • 荒城の月 その10 つづき

    前出「荒城の月 土井晩翠と滝廉太郎」に掲載されている「土井晩翠年譜」によると明治42年(1909年) 晩翠39歳の時・四月、カーライル著「サーター・リザータス」を訳し、『鬼臭先生、衣裳哲学』(大日本図書株式会社版)刊。訳書例言抄、 この書に於て著者

  • 荒城の月 その10

    土井晩翠のところまで戻りたい。山田野理夫「荒城の月 土井晩翠と滝廉太郎」 恒文社 昭和62年(1987年)は462頁もあって、さまざまなことが書かれていて興味深い。土井晩翠は大きな質店の後継者として育てられたとか。1700年代に京都から仙台に下っ

  • 荒城の月 その9 つづき

    澤柳大五郎「木下杢太郎記」 小澤書店 昭和62年(1987年)の中古本をアマゾンで購入した。35年も前の本だというのに実に美しい本が届いた。これは函である。背表紙はアイボリーで金色の文字 紺色の表紙が清々しい。美術史家である澤柳大五郎とは

  • 荒城の月 その9

    1908年10月3日の観潮楼歌会で石川啄木は太田正雄(木下杢太郎)に出会う。境遇も性格も全く違うように思える2人の出会いは偶然だろうか。森鴎外の教育的配慮ということもあったのかもしれない。丸井重孝「不可思議国の探究者・木下杢太郎 観潮楼歌会の仲間たち

  • 白い手に つづき

    倉田保雄「エリセーエフの生涯 日本学の始祖」 中公新書 昭和52年(1977年)は大変興味深い内容である。帯から・明治末期、ロシア富豪出身の主人公は、碧眼留学生第一号として東大に入学し、日本舞踊や芸者遊びなどに興じながらも、優秀な成績で卒業し、祖国に

  • 白い手に

    石川啄木「一握の砂」にある手が白く且つ大(だい)なりき非凡なる人といはるる男に会ひしに白い手の持ち主は誰なのか。池辺三山、佐藤北江(真一)、高村光太郎、・・・・・ と取り沙汰されてきたのだとか。外国人ではないだろうか、と思って夏目漱石周辺を探し

  • 荒城の月 その8 つづきのつづき

    (森鴎外は何をしたのか、を私なりに考えてみました。)隣国ロシアで革命が起こりつつあったのならば、日本でもその可能性はあったはず。明治から大正への橋渡しをどのように確実にできるか。旧佐幕派は外国からの支援を受けて、クーデターもしくは革命を起こそうとしな

  • 荒城の月 その8 つづき

    1908年10月に森鴎外宅に泥棒が入り、「妻の金剛石を嵌めたる金指輪、金時計、予の銀時計及金70円許を奪ひて去る」その後、妻の指輪だけが小包で戻されたとのこと。(以下、前の記事と重複がありますが)この年の初めには、弟篤次郎、次男不律が相次いて亡くな

  • 荒城の月 その8

    前出「鴎外・啄木・荷風 隠された闘い」より啄木 絶好調 啄木が見た森家の団欒・明治四十一年七月四日 啄木日記(上略)今日は森先生の観潮楼歌会である。北原君が来てゐた。やがて伊藤佐千夫翁も来た。兼題五首づつ二度、(人妻、戸、鬼、跳る、筋) 予のは

  • 荒城の月 その7

    1908年(明治41年)11月、石川啄木は東京毎日新聞に「鳥影」の連載を始める。東京毎日新聞は、現在の毎日新聞とはつながりはない。東京毎日新聞については こちらなお、あれこれネットを検索したところ、掲載紙について「東京日日新聞」とか「東京朝日新聞」と間

  • 荒城の月 その6

    石川啄木が森鴎外に届けたという2つの原稿「病院の窓」と「天鵞絨」は、鴎外にしてみれば挑戦状として感じられたのかもしれない。おそらく鴎外は啄木の生意気さに若かったころの自分を見たのではないだろうか。ただ啄木の側に立つと、悲しいことに嘘をつくのが習性になっ

  • 太宰治を読む〔376〕 黄金風景

    太宰治の巧みさというものに騙されているのか、それとも読者が気づかないのか・・・・太宰治がロシア文学でプーシキンを推していたことを思い出した。「スペードの女王」は若いころに読んだ記憶があるのだけれど、ロシアのような厳しい風土では酒や賭け事、あるいは情事を

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