奈良・大和西大寺駅前にて
今回出かけたのは8月17日で、前日は台風のせいで新幹線が運休したりしていました。窓から見る雲は、表情が豊かというか・・・・
駅弁の包装紙のデザインから学ぶものは大きいっていうか・・・・
日本の景観で最も美しいのはこの水田の広がる風景ではないでしょうか。
コロナ禍のころは青森が遠くに感じられましたが、一部壊れたままであった実家の修理をこの春に依頼し、それが済んでその家で高校時代の友人たちとゆっくり話すことができたりしております。(実家の改修についてはブログ「椿峰のまち」で報告予定)ねぶた祭が済むと青森は
こちらは7月に撮影したものです。夕方の堤川で、ボートの練習をしている人たちがいました。青森のアジサイはたくましい感じです。道端の樹木でも手入れがよくされているようです。青森は時間がゆったりと流れているように感じられます。コロナによって、忙しいこと
青森の実家の2階の窓からトンボが引き込み線に止まっているのが見えました。ムクゲの木が大きくなっていて、なぜか撮ってくれとばかりの花が咲いていました。
ドナルド・キーン93歳の評伝 角地幸男訳「石川啄木」新潮社 2016年を再読。平出修に関係する部分を抜き出してみる。第14章 大逆事件・啄木研究家にとって幸いなことに、啄木の日記は明治44年1月3日に再開される。お蔭で我々は、より多くの自信を持って啄木
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奈良・大和西大寺駅前にて
幸徳秋水はその家系と妻の証言から判断を間違わない稀有の人間であった、と仮定してみる。幸徳秋水は、大逆事件の首謀者ではなく、むしろ明治天皇暗殺事件を止めようとしていた、ということが後世でわかったようである。なお大逆事件の弁護団は11名であり、平出修が担
入間航空祭が開かれていて、以前のように我が家のベランダからの写真を撮ることができました。平和な日本の空で飛ぶ飛行機の姿を自慢してみます。
寄り道が長くなっております。平出彬「平出修伝」春秋社 1988年 を購入した。566ページの部厚い本である。中央:平出修右上より 森鴎外 与謝野鉄幹 与謝野晶子 木下杢太郎 幸徳秋水左上より 上田敏 石川啄木 吉井勇 北原白秋 高村光太郎 〔著
今回出かけたのは8月17日で、前日は台風のせいで新幹線が運休したりしていました。窓から見る雲は、表情が豊かというか・・・・
駅弁の包装紙のデザインから学ぶものは大きいっていうか・・・・
日本の景観で最も美しいのはこの水田の広がる風景ではないでしょうか。
コロナ禍のころは青森が遠くに感じられましたが、一部壊れたままであった実家の修理をこの春に依頼し、それが済んでその家で高校時代の友人たちとゆっくり話すことができたりしております。(実家の改修についてはブログ「椿峰のまち」で報告予定)ねぶた祭が済むと青森は
こちらは7月に撮影したものです。夕方の堤川で、ボートの練習をしている人たちがいました。青森のアジサイはたくましい感じです。道端の樹木でも手入れがよくされているようです。青森は時間がゆったりと流れているように感じられます。コロナによって、忙しいこと
青森の実家の2階の窓からトンボが引き込み線に止まっているのが見えました。ムクゲの木が大きくなっていて、なぜか撮ってくれとばかりの花が咲いていました。
ドナルド・キーン93歳の評伝 角地幸男訳「石川啄木」新潮社 2016年を再読。平出修に関係する部分を抜き出してみる。第14章 大逆事件・啄木研究家にとって幸いなことに、啄木の日記は明治44年1月3日に再開される。お蔭で我々は、より多くの自信を持って啄木
与謝野光「晶子と寛の思い出」 思文閣出版 平成3年(1991年)を購入。帯には 90歳の回顧録 与謝野晶子没後50年に際し、長男が素顔の寛と晶子、そして新詩社に集った多彩な浪漫派歌人たちの思い出を語る とある。与謝野晶子は12人の子どもを産み育てて、多
次のような論文をみつけた。資料紹介 太宰治「作家生活に対する構へ、覚悟。」・ほか―― 太宰治と保田与重郎をめぐって ―― 山内祥史」によると「新潮」昭和11年の「新年特大号」(第33年第1号、昭和11年1月1日発行)に作家としての心構へ・覚悟(回
新潟・長岡の岩塚製菓の「鬼ひび 梅昆布味」がおいしかったです。袋には米技心 新潟長岡銘米菓 東京・恵比寿 賛否両論 笠原将弘監修米(原材料)技(製法)にこだわり心を込めてつくりましたこだわり日本のお米を100%使用した心地よい歯ごたえの煎りあ
「騎龍観音」の近くで見かけました。「麗子像」で知られる岸田劉生(1891‐1929)のこの作品は不思議なひきつける力を持っているようです。二本の電柱の影のせいでしょうか。それともエネルギーを秘めたような道路のせいでしょうか。1915年の作品だとのことで
国立近代美術館で森鴎外の友人である原田直次郎(1863‐1899)の「騎龍観音」に出会いました。早逝した画家の作品だと思うからか、迫力といったものを感じました。撮影が許可されている美術展はありがたいですね。父原田一道、甥の原田熊雄など、原田直次郎の周辺に
ルーベンスと太宰治は永遠に残る作品を作り出した、という点では一致しているように思われる。ルーベンスにとってはカラヴァッジオ、太宰治にとっては芥川龍之介という才能あふれるしかも早逝した牽引役がいたという点でも共通点がある。太宰治は画家志望の兄がいて、少年
太宰治は「フランダースの犬」を読んで、周辺に聖書に詳しい人間がいたのでルーベンスについて踏み込んで考えることが可能だったのかもしれない。「走れメロス」の末尾に(古伝説と、シルレルの詩から。)とあるのがシラクス(シラクサ)についての入り口とも考えられる。
教科書にも取り上げられたりする「走れメロス」なのだがなんだか違和感みたいなものというか、何を埋め込んでいるのかがよくわからないと思っていた。プラトンの年表を眺めていたときに、「シラクサ」という地名が出てきて「走れメロス」の舞台がシラクスであった、こと
1600年前後は、日本で大地震が続いたようである。ヨーロッパでも異常気象が続き、また感染症が津波のように襲っていたかもしれない。マリー・ド・メディシスが愚かな浪費家であった、というのは違うのではないだろうか。国難のときに君主はどのようにするべきか、を
教科書にも取り上げられたりする「走れメロス」なのだがなんだか違和感みたいなものというか、何を埋め込んでいるのかがよくわからないと思っていた。プラトンの年表を眺めていたときに、「シラクサ」という地名が出てきて「走れメロス」の舞台がシラクスであった、こと
1600年前後は、日本で大地震が続いたようである。ヨーロッパでも異常気象が続き、また感染症が津波のように襲っていたかもしれない。マリー・ド・メディシスが愚かな浪費家であった、というのは違うのではないだろうか。国難のときに君主はどのようにするべきか、を
世界史で、ルネッサンス → 宗教改革 → 対抗宗教改革(反宗教改革)という流れでの17世紀の30年戦争だと思っていたのだけれど・・・・そう単純なものではなかったらしい。ルネッサンスは細々と持ちこたえて、少なからずの人たちの凍てつく心を温めていた、とい
ルーベンスが弟子アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画を描いている。画像はWikipedia英語版より1627年から28年ごろの作品だそうで、アンソニー・ヴァン・ダイクによる自画像での美少年をみていたりすると、20代なのに衰えを感じて、ルーベンスの容赦のない筆はな
ルーベンス「三美神」は気になる絵の1枚である。ルーベンスは、どこかでは自分の外交での仕事を誇示したいとの思いがあったのではないか。この「三美神」の1人はマリー・ド・メディシスだとして、あとの2人は?イサベラ・クララ・エウへニア(1566-1633) 父
1631年に、マリー・ド・メディシスはフランスからスペイン領ネーデルランドへ向かい、7年ほどを過ごす。その後、オランダを経てロンドンに3年近く滞在する。1640年5月にルーベンスが他界。1641年10月にドイツ・ケルンに到着。1642年7月にマリー・
前出「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」より・ある日、アンリ4世はマリ・ド・メディシスにこう言ったらしい。「私の生命が尽きるときは、あなたの苦しみの始まりとなろう。私がいささか厳しく息子を鞭打ったことを、あなたは嘆いたことがあったが、いつの日
アントウェルペンの聖母大聖堂に掲げられたルーベンスによる「聖母被昇天」は、「マリ―・ド・メディシスの生涯」を完成してすぐの作品で、こちらもほとんど自らで完成させたものとのこと。また、1611年のあたりに描かれたという「キリスト昇架」「キリスト降架」のう
マリー・ド・メディシスの肖像画とルーベンスの自画像をあれこれ比べると(画像はともにWikipediaより)この2枚がもっとも輝きをもって感じられるこの2枚の絵は、ちょうどルーベンスによる「マリ―・ド・メディシスの生涯」の制作時期と重なる。この2枚の絵も2人
ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュは1615年に結婚し、1638年にようやく長男、のちのルイ14世が誕生した。このルイ14世の父親について、リシュリューまたはマザランといった説がささやかれてきたとか。アンヌ・ドートリッシュは100人ほどのスペイン出身者に
ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」の連作はマリー・ド・メディシスの壮大な構想から生まれたものであったらしい。マリー・ド・メディシスは永遠に残るものとはどういうものか、を考え、成功したといえるのではないだろうか。太宰治の目指したことでもあったよう
Raimond Spekking / CC BY-SA 4.0 (via Wikimedia Commons)なぜマリー・ド・メディシスは、最期の地をドイツ・ケルンにしたのか。窮迫していたとはいえ、パリでもロンドンでもどうにかなったかもしれないのに。ケルンは、ルーベンスが少年時代を過ごしたところである
フランス王妃マリー・ド・メディシスは27歳で結婚するまで、哲学や芸術などいわば皇帝学を学んだのではないだろうか。家臣団を率いて、フランスでカトリーヌ・ド・メディシスの後継を務めるとすれば王妃というよりも女帝としての覚悟が必要だったはずである。拙著「夏の
アンリ4世の初めの妃は、カトリーヌ・ド・メディシスの末娘であるマルグリット・ド・ブルボンであり、子どもがなかったために別れたとのこと。小説にも登場する美貌の持ち主であったとか。Wikipedia英語版より結婚式のすぐあとに、サン・バルテルミの虐殺が起こったのだ
歴史や絵画に関して、学んでいるわけではない私が、ここにきてルーベンスにこだわっているのはなぜなのか・・・・ 私にとってのルーベンスはウィーン美術史博物館での「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」であったことを思い出した。エレーヌ・フールマンについて
フランスの歴史で人気が高いというアンリ4世(1553-1610)について名前さえも知らなかったことに気がついた。欧米は、日本の歴史や地理に関しては詳細に調べる一方で、サン・バルテルミ(聖バーソロミュー)の虐殺につながるアンリ4世に関しては日本の欧米研究から遠ざけ
「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」本文から第1章 ヨーロッパの花嫁候補・結局、さまざまな勉学が、信仰の実践とともに、公女の時間の大部分を占めた。フランチェスコ大公は人文主義の伝統によって、娘が非の打ちどころのあい教育を受けることを望んだ。
ミシェル・カルモナ著 辻谷泰志訳「マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い」国書刊行会 2020年を購入した。900ページ近くの分厚い本である。著者略歴によると ミシェル・カルモナ(Michel Carmona)1940年、エジプトのカイロ生まれ。のちにフランス
黒衣のカトリーヌ・ド・メディチの肖像画を描いた画家はフランソワ・クル-エであるという。フランス・ヴァロア朝の宮廷画家として父子ともに高名のようだが、詳細はよくわからない。フランソワ・クルーエについて この画家による国王フランソワ1世の肖像画は
1600年にルーベンスはイタリアへ。イタリア・マントヴァの宮廷でヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ(1562-1612)と妃エレオノーラ・デ・メディチ(1566-1611)に認められたことで、ルーベンスの歩む道が大きく開けたとのこと。ゴンザーガ家については こちらメディ