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石ころ(はてなBlog) https://bachan-no-1.hatenablog.com/

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。イエス・キリスト

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2025/05/26

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  • キリストの平安は永遠

    十字架の死に拠って人類の罪をあがない、墓からよみがえったイエスの命令は「平安に在れ」である。これこそイエスが十字架で成し遂げてくださった救いである。 救いは平安の中で味わうものであり、殉教も平安のうちに至ることである。平安が無いのはキリストを知らないことであり、それは聖霊に導かれて経験することで、十字架の救いの実である。 みことばを食べ続けて向かい風に立ち向かう時に、罪を責め立てる悪魔どもの謗りに心を乱される必要が無いのは、キリストのあがないに拠ることである。 どのような働きも、自分の信仰や義に拠ることではないと知っている。 キリストの十字架の御わざは、聖なる血潮によって如何に汚れた器をも完全…

  • エリヤのようなら素敵だけれど

    「疲れたなぁ・・」と感じる日が続くと赤飯を炊く。小豆ビタミンで元気になれそうな気がするから。もち米の粘りがほんのりと甘くて優しい。私は少し塩を入れて普通の米と炊く簡単な炊きおこわ。 梅雨が開けたという言葉も聞かないうちに暑い日々が続いて、幾ら部屋の中が涼しいと言っても、買い物にも行くし庭の花木の世話もあって家の中ばかりに閉じこもっていらない。 それに私は家の中にずっといると心がちょっとしんどくなって、用が無くてもちょこちょこ外に飛び出す。じりじりと照りつける日差しの中で薔薇が次々と咲き出し、ゆっくり鑑賞もしてもらえないままに散って行く。日が傾くと「無理しなくてもいいのに」と、同情を込めて冷たい…

  • モーセの信仰

    神は突然モーセに現れて、イスラエルをエジプトから救い出せと命じられた。 「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(出エジプト3:10) モーセはこの言葉におじまどっている。過去はともかくも今はエジプトにも、イスラエルにも知られぬ一介の羊飼いであると思っていたからである。 しかし、神は彼の命を守って王女に拾わせ、宮殿を恐れない備えをしておられたのであり、神の計画はイスラエルのリーダーとすることである。 それはモーセの努力や力に拠って成すことではなく、すべて神の備えに拠る神の計画である。 キリスト者が自分を取るに足りない者と思う時…

  • 日常の罪がイエスを売ることに至る

    イエスを売るという最悪、再重要な役割を果たしたユダはただの盗人であり、彼は日頃の行いの延長線上でこのことをしたのである。 彼がイエスと共にいたのも、何時でも盗むことが出来る財布を任せられていたからである。 此処でイエスがユダに財布を預けたのは、彼が重要な役割を負うことになる布石でもあるとしても、ユダにはイエスを信じて心を入れ替えるチャンスは何時でもあった。 ユダは何時もみことばを聞き、近しく神の御わざを見ていたのである。それはすべて彼が生き方を変えるチャンスであった。 しかし、彼の興味も関心も金にしか無かったのである。イエスの御わざを見ていても何も感じなかったが、もしイエスが癒しの度に金を取っ…

  • 預言(使徒21章)

    アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」(10~11) 彼が預言した言葉は事実である。彼はパウロに事実を告げる働きをしたことで、パウロが将来を知った上でみこころに歩んだ信仰に拠って、今もキリスト者のモデルなのである。 これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。(12) 人は預言によって命を守ることを考えるが、主は進んで行く道を照らすために語られる…

  • 悔い改め(ヨハネ6章)

    イエスに繰り返し足を洗って頂くことが正しいことなのであろうか。それは勿体なくもイエスを何時までも奴隷の働きに留めることになるのではないか。 未だ肉を着ている者であっても、イエスに一度足を洗って頂いた者はもうきよいのである。もう、全身きよいのである。 再び罪の泥水を選んで歩くことはないように、汚れを見分ける霊の目が見えるようにしてくださっている。 十字架のキリストによる完全な罪のあがないに安息するなら、罪に執着する肉からは解かれて、心の底に沈殿する罪の暗闇を掻き回して、罪の欠片を探す習慣から解放され、救いの喜びに住むことが出来るのだ。 繰り返し罪を侵すのは魂が罪に縛れてのことであり、イエスに罪を…

  • 神に語る祝福のストーリィ(マタイ19章)

    すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(16) この一見純粋と見える質問は、罪や弱さに悩む者には決して口に出来な言葉である。良いことをしている者だけが、なをその行いに付け加えるものがあるのかと問い、イエスからいのちの約束を聴くことが目的なのである。 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(17) イエスは彼の心を知っておられ、「なぜ尋ねるのか」と言われた。自分で戒めを守れば良いのである。彼にはイエスは必要…

  • 黙って居られなくなる

    キリスト者はイエスの十字架の血潮によって罪を洗いきよめられ、あがないのゆえに義と認められて神に受け入れられた者である。 彼らは世から取り出されて、イエスの死とよみがえりを霊に於いて共にし、まったく新しく生み出された者である。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3) 救いに与るまでとは全く違う価値観にを持つようになり、日々みことばに根ざして生きる者である。 世では自分の好みのままに人生を選択し、あるいは、どうすることも出来ない弱さの中で、世の流れに身を任せて生きて来た者が、聖霊の解き明かしによってた…

  • 義なる神の裁きから愛なる神の赦しへ

    妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、(民5:14) 民数記には様々な場合、祭司が主がモーセに命じられた事に従って民を裁き、神の民から汚れを取り除くのである。 上記の場合は実際に罪を侵した場合と、姦淫を疑われただけの場合が並べて書かれてある。どちらにしても、女が祭司の言葉に従うことによって身の証しがなるようである。無実であれば免れて子を宿すとある。子は神の祝福だからであろう。 妻が罪を犯していないことを証し出来るのは神だけである。裁判の無実は、罪の証拠が得られないので罰することが出来ないだけ…

  • 成長のための癒し

    日曜日は地域の草刈りだった。私も公園の草を見ながら「もうそろそろだな・・」と思うまでにこの地に馴染んでいた。 先日から左足首に痛みがあって自由が利かなかったので、昨夜、主に「しゃがんで草引きが出来るようにしてください。」と願った。 朝食の準備をしていて、ふと痛みが無いことに気付いた。癒された時はどうかすると癒しに気づかないことがある。逆に痛みが残っている時は直ぐに気付くのだ。我ながら不信仰だと思う。 主は肉に過ぎない者のこどなど先刻ご存じであり、信仰によって癒されるのではなく、癒しは必要を満たすための、主の憐みに拠ることであるとわかる。 不自由がある度に何度でも祈る。重い病気の癒しも、老いによ…

  • 花壇でジャガイモ堀り

    コロコロと土より生まるジャガイモは ハラハラどきどき今日で百日 土曜日に、それまで我慢して来たジャガイモ堀をした。思っても見なかった掌の半分もある芋がコロコロと出て来た時は、息が止まるほど驚いた。まさか、こんなのが出来ているとは思っても見なかったから。 それというのも、此処は畑ではなく息子が造った花壇の一角。花を植えるのに間があるということで、ジャガイモを育てて見たいと頼んで植えたもの。 通りがかりの方に「これはなにですか」と良く問われ、「ジャガイモです」と答えては「やはりそうですよね」と笑い合った。 まさか出来立ての花壇に芋を植えるとはね、驚かれる気持ちはよくわかる。でも、そんなことでお話が…

  • 神の豊かさを生きるための戒め(レビ記25章)

    神はモーセに、民が備えの地で豊かに生きるための戒めを与えられた。それは「豊かさを得たければ、寸暇を惜しんで働いて備えよ」と言うことではなく、「六年毎に一年間の静まる時を持て」と言う命令であった。不信仰と貪欲による貧しさからの守りのためである。 「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。(2~4) 六年間働いて収穫を得たなら1年は…

  • 今日の歌(2025.05.29)

    薔薇散りて空は鈍色所在無し 菜を洗い鰆塩して夕を待つ 健やかなれば旨しと言わん にほんブログ村

  • 目には目を歯には歯を

    あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(申19: 21) 民の中から罪を取り除くために、罪の代償は同じものを差し出させよ、とある。故意に命を奪った者は命を求められ、目を傷つけた者は目を差し出すことを神は命じられた。それによってイスラエルの民を治めるためである。 神はご自分の愛するひとり子イエスの命を持って、罪のゆえに死に行く人類を滅びの死からあがなわれた。 それによって、イエスを信じるすべての人に無条件の救いが及んだのである。ご自身の定められた「いのちにはいのち」によるルールを適応されたのである。 聖なる神には、人が心の中で考えることに…

  • バリアフリー

    引っ越した家の室内は完全なバリアフリーで躓くものはない。ただ、門から玄関まで数段の階段がある。息子は「スロープにするか?」と聞いてくれたことがあったが止めた。注意深く階段を昇るほうが安全なことを知っているから。 50年前に建てた前の家は、当然トイレも和式であり、お風呂のリフォームをしたときも、日々強制的にスクワットを繰り返すことが、私に良いと思ったからそのままにした。わざわざ運動をするために、何処かに通う気などさらさら無いからである。 引っ越して二年経ったが私は和式トイレに自信があったので、出かけ先で和式を使用したとき、直ぐに立ち上げることが出来なくなっていたことに驚愕した。使わない筋肉が退化…

  • 祭司のつとめ

    キリスト者はみな神の祭司とされ、新しく生かされた霊をもって神に仕える者である。 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。(1ペテロ2:5) あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(1ペテロ2:9) レビ記には身に欠陥の在る者は祭司となれないとある。キリスト者が神に仕える祭司とされているのは、自身の完全に拠ることではなく、イエス・キリストのあがないの完…

  • リビングウィル

    近い将来の備えとして自分の意思をはっきりと書き留め、子どもたちの負担を減らして置きたいと思った。また、苦痛を引き延ばすような延命治療によって、子や孫のための医療費を浪費したくもないから。 84歳まで生きてもう十分であり、むしろ思いのままに動けず、儘ならぬ体は重荷となり、また、世に見聞きすることのひとつ一つを、勝手に負担に思ってしんどいのである。その度に主に逃れて祈って事を忘れるようにしているけれど・・。 「何か重荷を負わせましたか」と言われたことがあった。「勘違いだったのか。座を汚していたのに過ぎなかったんだ」と自分の思い上がと知ったことがあったけれど・・、そういうものかもしれないが・・。テレ…

  • みこころ

    私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。(出エジプト33:16) キリスト者が神のみこころに叶う者であり、神の愛の中に在ることを世にどのように知らせるのか。それは、永遠のいのちの望みが、キリスト者の平安となって現れることに拠り、死におびえつつ瞬間を生きている世とは全く違う生き方となって現れることに拠る。永遠に変わることのないイエス・キリストの言葉を持つ特別な存在であることが、神の備えによって人生に現れることにある。 御国が来ます…

  • 今日の歌(2025.05.16.)

    儘ならぬ身を引きずりて生くる日に 聞くレクイエム近しきイエスよ 愛無きと棘持つ薔薇も香り立つ 1タラントを埋めず開けば にほんブログ村

  • 今日の歌(2025.05.15)

    五月晴れ庭に溢れる薔薇の香に 固きうなじを解かされ憩う 飛び出したジャガイモ一個収穫す ツルツルお肌少し青ざめ 五月晴れ三重三年目空広く 頂き物のワラビ煮ており にほんブログ村

  • サマリヤの女の伝道(ヨハネの福音書4章)

    (イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。(3~4)一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(7) 人目を避けて炎天下に水を汲みに来ている女は、イエスに差し上げる良いものは何も持っていなかった。女は訪れてくださったイエスに拠って育てられ、イエスの必要を満たすまでになる。それは時間をかけて学ぶことではなく霊に拠って悟ることである。 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人…

  • 老い

    5月5日 すべて人は生まれた日から死に向かって行く。そのスピードはそれぞれでも、永遠から見れば一瞬に過ぎ去る命である。 アダムが善悪知識の木の実を食べて以来、神の永遠から切り離された人の身体はわずかな間生きる命となった。しかしこのわずかな時の間に、神はキリストに拠って滅びの死から救おうと計画してくださった。 命のある間に福音を信じてキリストを受けいれた者は、死んで滅びる者ではなく、御許で永遠に生きるいのちの計画である。 このわずかな命の間は、想像もつかないほどに貴重な時間であり、創造主なる神の愛と憐みを経験するための時間なのである。神の御愛を知って応答する時、神はむざむざと愛する者を滅ぼしたり…

  • 祭壇

    神に捧げるための祭壇は、動物の血が幾重にもこびり付いて、血の匂いが充満していただろう。祭司であるアロンの子らの亜麻布は、動物を屠った血の色と、肉の匂いが染みついていただろう。それは生きようとする肉の力との戦いの場であり、肉を死に定める力仕事であったろう。 肉の力は生きようともがいて悲鳴をあげる。それゆえイエスは鞭で打たれ、人に打たれ、唾され、ののしられ、血まみれの背に十字架を担がされなければならなかった。それらは生きよとする人の肉の叫びである。 神の祭壇は、厳かでステンドグラスの光が差し込む静寂な佇まいにはなく、きよい乙女の祈りの場でもなく、肉と霊の命が激しくぶつかり合い、血と肉と汚物の匂いが…

  • 今日の歌(2025.05.02)

    新苗のバラほころびて胸躍る

  • 神から摂理を説かれたヨブの祝福

    キリストは人の罪を十字架にあがない、信じる者を十字架の血潮に洗いきよめて義とし、十字架のあがないを信じる者に神の子の身分を与えられた。 あがなってくださった罪は過去、現在、未来に至るすべての罪であり、ただ、キリストの十字架の御わざによってのみ、神の御前にキリスト者は聖であり義とされて、父なる神に受け入れられ、今、神の家族の交わりに居るのである。 それは死後のことではなく、イエス・キリストの十字架のあがないを告白して、感謝をもって礼拝した瞬間からのことであり、その関係は永遠である。 ヨブにある罪は、神にすべての裁きを委ねて安息なかったことである。神はヨブを罪に定めず神の摂理を彼に説き聞かせられた…

  • キリスト者の愛

    キリスト者が第一に愛するのはイエス・キリストであり、その行動は主を知ることから始まる。命をたまはるほどに愛された方を知ることは何にも勝る喜びである。 イエスについての愛は、初めに人から教えられて知ったことであり、生まれつきイエスの愛を知っている人はいない。天地の創造主なる神の御子に愛された、この命にある奇しい愛の存在を、生まれつきの人は知ることはない。 神は創造の初めに人を死ぬものとしては造られたのではない。神に聞き従わない罪によって、命は限りあるものとなり永遠の裁きを受ける身となったのである。 イエス・キリストは神と共に在る永遠を回復するために地に下り、人となって、人類の過去、現在、未来の罪…

  • 今日の歌(2025..04.27)

    宝物(ほうもつ)の如く赤子を抱く父の 初々しくも若さ頼もし 花の野に風柔らかく遊び居て 会釈を返す人も柔らか

  • イザヤ55章

    「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出てくるがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。 なぜ、あなたがたは、食料にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け、そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。 見よ。あなたが、 あなたの…

  • 今日の歌(2025.04.25)

    タンポポや何処を夢見て風を待つ 春菊とじゃがいもの花おまけなり つつましく咲くキッチンの隅

  • 神の子の証(Ⅱ~Ⅲヨハネの手紙)

    あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。(Ⅱ:10~11) キリストの教えに留まらない者を受け入れてはならないとある。彼らは「神を持っていない」とあり挨拶もするなとある。 教会では誰とでも親しく挨拶をし、主の兄弟姉妹としての愛によって、相手の信仰によって態度を変えることもしなかった。しかし此処ではヨハネの厳しい言葉から、彼らがキリスト信仰を妨害するだけの者だとわかる。 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私…

  • 婦人への言葉(Ⅱヨハネの手紙1章)

    長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。(1~2) みことばに応答して救いを得た婦人とその子たちに、こんなに丁寧に愛を伝えているのは、婦人や子どもたちが片隅に置かれて、持っている良いものを認められる存在ではなかったのだろう。 婦人は教えることを禁じられており、経験している神の愛を語る交わりに置かれなかったのかもしれない。ヨハネは彼女たちに「安心しなさい」と神の家族の愛を知らせている。 沈黙の中にある信仰であっても、神の家族であることは…

  • 今日の歌(2025.04.19)

    柔らかき風に背伸びの蓮華草 春の嵐か寝耳に水の引っ越しも 初心に帰る経験となれ

  • みことばの飢饉

    見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことの飢饉である。(アモス8:11) 聖書が取り上げられるのではなく、聖職者が消えるのでもない。ただ、聖霊に拠って取り次がれることばが語られなくなるのである。 美しく装丁され、聖書から心地良い言葉が切り取られた読み物は、幾らでも手に入るだろう。それは世の求めに従って味付けられて、偽キリストの必要をも満たすだろう。聖霊の臨在なき聖書は、どのようにでも用いることが出来る。 それはイエスを知る真理の飢饉であり、生きて働くことばの飢饉である。それは今も見…

  • わたしにとどまりなさい(Ⅰヨハネの手紙5章)

    何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(14) キリスト・イエスを知ることこそみこころに叶うことである。「なぜ私が愛されたのか、神の御子が、なぜこのような者のために十字架にかかって死なれたのか。」という疑問は、聖霊に拠って神は愛であることを経験するときに、深い平安となる。 一方的な恵みによる救いの他には、救われるべき道はないことを悟るからである。聖霊は神が愛であることを確信させ、神が良い方であることを信仰生活において繰り返し経験させて、命の作者の愛に安息jさせてくださった。 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださ…

  • 午前 「必要な一つだけ」は変化する。日々に今日必要な一つがあり、それぞれにイエスが示されることは違う。それは成長に応じて神のご計画も進んで行くからである。 マリヤがイエスを迎えた日に必要な一つだけは、イエスに聴き続けることであった。マルタが食事の支度をしていることにも気づかないで、イエスをもてなすことにも考えが及ばず、ただ、イエスから目を耳を反らせないことが唯一必要なことであった。 マルタがイエスにマリアのことを訴える言葉を聞いても、彼女はその場を動いてはならず、責め言葉に耳を貸してはいけないのである。 必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられるこ…

  • 今日の歌(2025.04.12)

    春の田は整然として早苗待つ ハルジオン何うなだれる明日咲くを 霞ゆくソメイヨシノを窓越しに 夕餉支度は筍ご飯

  • 呼ぶのはいつもイエスの御名

    聖霊についてのみことばが続いていてふっと気づかされたことがあった。聖霊のバプテスマを受けたときは、まだ、洗礼も受けていなくて聖書もあまり知らず、聖霊のバプテスマという言葉さえ知らなかった。 ただ、イエスを知りたいと激しく真理を求めて渇いて、先生方のメッセージテープを聴き続けていた。聖霊のバプテスマは、台所でテープを聴きながら働いていたとき、突然、焼け火箸のよう炎が、頭から足の先までを貫く熱い炎を感じた。 完全な赦しときよめを確信し、喜びが「わぁっ」と全身を駆け巡った。それは、イエスの赦しを確信する出来事であったけれど、起こったことが理解出来ずに、そのとき教会では誰にも話すことはなかった。「怪…

  • 永遠のいのち(1ヨハネの手紙5章)

    この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。(6) イエスは働きの前にバプテスマのヨハネによって、水のバプテスマを受けられた。 イエスにバプテスマが必要な理由は、神が人となって地に遣わされたイエスには、そのままでは人の罪を負うことは出来ないのである。存在そのものが聖である神には、罪を受け入れることが出来ないからである。 人は、罪に死んで神の子として生まれるためのバプテスマであるが、イエスには、罪を侵し得る人の体を着るためのバプテスマであった。完全な人となって纏われた人の弱さの…

  • 世に勝つ者(1ヨハネの手紙5章)

    イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(1~2) イエス・キリストに無条件で赦され、命を捨てるほどに愛された者は、神の御愛を経験しうちにキリストが形作られ、みことばがこの身になりますようにと、祈り求めるようになる。 いのちの主を愛しみことばを愛して、キリストの愛によって兄弟を愛するとき、たとえ責めているようでも教えているようであっても、心はキリストの平安に守られている。 神の命令を守ること、それが…

  • 神から出た者(1ヨハネの手紙4章)

    私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(6) 神から出たことばを話し、神によって成るわざを行う使徒の働きは聖霊の導きであって、彼らのことばに聴き従う者に救いのわざが現れた。救いは人の熱心や言葉の巧みさには拠らず、神の選びに在る聖霊の働きである。 聖霊に触れられるとき、創造主なる神を悟り、御子イエスの十字架の救いを受け入れることができる。神の愛を経験した者は真理を悟り、イエスにすべての望みを置いて礼拝して、みことばに従順する彼らは、聖霊に解かれたみことばに拠って…

  • 霊を知る(1ヨハネの手紙4章)

    愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(1) 聖霊がおられるように悪霊も存在する。悪霊から守ってみことばに導くのは聖霊である。聖霊なる神はイエスのことばを解き明かして、聴いたことばに従順して生きる力を与え、生ける神のことばを経験させて主への信頼を育ててくださる。 悪霊は、キリストにたまわった永遠のいのちから目を反らさせて、感情に働いて肉を掻き立て世に釘づける。善悪知識の木の実由来の賢さは、神から独立した善悪によって、救いのための時間を浪費して、悪霊の働きによる目に好もしいものを仕立て、世の成功に惑わして滅び…

  • 神のうちにとどまって溢れ出る愛(1ヨハネの手紙3章)

    互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。(11~12) 妬みは自分と相手に死をもたらせ、キリストから出た愛はいのちをもたらせる。神の愛は御子の命を支払って人を生かしてくださった。 肉を持って生きている心の王座は、自分を生かすための自己愛が占めていて、誰よりも愛されることを求めている。その欲求が満たされないことは妬みとなり、宗教家がイエスを殺したように、邪魔者を故無く殺すのである。アベルの正しさは誰より…

  • 今日の歌(2025.04.02)

    ジャガイモの新芽すくすく葉の緑 初桜乙女の如き恥じらいの 蕾ほころぶ春は嬉しき

  • 神の子は悪魔のわざを打ち破る(1ヨハネの手紙3章)

    幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。(7) 誰が神に受け入れられる義を行うことが出来るだろう。義を行うとはキリストの義に留まることである。誰であってもキリストのうちに在ることで、完全であり正しいのである。 神に生み出された幼子たちは、まず自分が何者であるかを悟るために、キリストにたまわっている御救いに安息することである。世では、見たことも聞いたこともない神の愛を味わうために・・ 十字架の完全なあがないによって義とされ、キリストの復活と共に生み出された神の子は、責められることのない神の平和に安息し、感謝と交わりの中で聖霊に育てら…

  • 事実、私たちは神の子どもです(1ヨハネの手紙3章)

    私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1) 平安の中で主イエスの御救いを思い返し、救われた身の幸いに感動して、御前にひれ伏す。苦難の中ではたまわっているみことばを読み返し、御約束にある深みに導かれて安らぐ。 迷いの中にある思いのすべて主に打ち開けて、みことばに委ねて従順する。そのすべては「アバ、父」と呼ぶ関係に在ってのことである。 神の子らはすべての日々に御父の愛を味わい、御子イエスのことばを経験をして、神より生まれた子であることを、聖霊の導きの中で確…

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