すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。イエス・キリスト
キリスト者が第一に愛するのはイエス・キリストであり、その行動は主を知ることから始まる。命をたまはるほどに愛された方を知ることは何にも勝る喜びである。 イエスについての愛は、初めに人から教えられて知ったことであり、生まれつきイエスの愛を知っている人はいない。天地の創造主なる神の御子に愛された、この命にある奇しい愛の存在を、生まれつきの人は知ることはない。 神は創造の初めに人を死ぬものとしては造られたのではない。神に聞き従わない罪によって、命は限りあるものとなり永遠の裁きを受ける身となったのである。 イエス・キリストは神と共に在る永遠を回復するために地に下り、人となって、人類の過去、現在、未来の罪…
宝物(ほうもつ)の如く赤子を抱く父の 初々しくも若さ頼もし 花の野に風柔らかく遊び居て 会釈を返す人も柔らか
「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出てくるがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。 なぜ、あなたがたは、食料にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け、そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。 見よ。あなたが、 あなたの…
タンポポや何処を夢見て風を待つ 春菊とじゃがいもの花おまけなり つつましく咲くキッチンの隅
あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。(Ⅱ:10~11) キリストの教えに留まらない者を受け入れてはならないとある。彼らは「神を持っていない」とあり挨拶もするなとある。 教会では誰とでも親しく挨拶をし、主の兄弟姉妹としての愛によって、相手の信仰によって態度を変えることもしなかった。しかし此処ではヨハネの厳しい言葉から、彼らがキリスト信仰を妨害するだけの者だとわかる。 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私…
長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。(1~2) みことばに応答して救いを得た婦人とその子たちに、こんなに丁寧に愛を伝えているのは、婦人や子どもたちが片隅に置かれて、持っている良いものを認められる存在ではなかったのだろう。 婦人は教えることを禁じられており、経験している神の愛を語る交わりに置かれなかったのかもしれない。ヨハネは彼女たちに「安心しなさい」と神の家族の愛を知らせている。 沈黙の中にある信仰であっても、神の家族であることは…
柔らかき風に背伸びの蓮華草 春の嵐か寝耳に水の引っ越しも 初心に帰る経験となれ
見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことの飢饉である。(アモス8:11) 聖書が取り上げられるのではなく、聖職者が消えるのでもない。ただ、聖霊に拠って取り次がれることばが語られなくなるのである。 美しく装丁され、聖書から心地良い言葉が切り取られた読み物は、幾らでも手に入るだろう。それは世の求めに従って味付けられて、偽キリストの必要をも満たすだろう。聖霊の臨在なき聖書は、どのようにでも用いることが出来る。 それはイエスを知る真理の飢饉であり、生きて働くことばの飢饉である。それは今も見…
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(14) キリスト・イエスを知ることこそみこころに叶うことである。「なぜ私が愛されたのか、神の御子が、なぜこのような者のために十字架にかかって死なれたのか。」という疑問は、聖霊に拠って神は愛であることを経験するときに、深い平安となる。 一方的な恵みによる救いの他には、救われるべき道はないことを悟るからである。聖霊は神が愛であることを確信させ、神が良い方であることを信仰生活において繰り返し経験させて、命の作者の愛に安息jさせてくださった。 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださ…
午前 「必要な一つだけ」は変化する。日々に今日必要な一つがあり、それぞれにイエスが示されることは違う。それは成長に応じて神のご計画も進んで行くからである。 マリヤがイエスを迎えた日に必要な一つだけは、イエスに聴き続けることであった。マルタが食事の支度をしていることにも気づかないで、イエスをもてなすことにも考えが及ばず、ただ、イエスから目を耳を反らせないことが唯一必要なことであった。 マルタがイエスにマリアのことを訴える言葉を聞いても、彼女はその場を動いてはならず、責め言葉に耳を貸してはいけないのである。 必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられるこ…
春の田は整然として早苗待つ ハルジオン何うなだれる明日咲くを 霞ゆくソメイヨシノを窓越しに 夕餉支度は筍ご飯
聖霊についてのみことばが続いていてふっと気づかされたことがあった。聖霊のバプテスマを受けたときは、まだ、洗礼も受けていなくて聖書もあまり知らず、聖霊のバプテスマという言葉さえ知らなかった。 ただ、イエスを知りたいと激しく真理を求めて渇いて、先生方のメッセージテープを聴き続けていた。聖霊のバプテスマは、台所でテープを聴きながら働いていたとき、突然、焼け火箸のよう炎が、頭から足の先までを貫く熱い炎を感じた。 完全な赦しときよめを確信し、喜びが「わぁっ」と全身を駆け巡った。それは、イエスの赦しを確信する出来事であったけれど、起こったことが理解出来ずに、そのとき教会では誰にも話すことはなかった。「怪…
この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。(6) イエスは働きの前にバプテスマのヨハネによって、水のバプテスマを受けられた。 イエスにバプテスマが必要な理由は、神が人となって地に遣わされたイエスには、そのままでは人の罪を負うことは出来ないのである。存在そのものが聖である神には、罪を受け入れることが出来ないからである。 人は、罪に死んで神の子として生まれるためのバプテスマであるが、イエスには、罪を侵し得る人の体を着るためのバプテスマであった。完全な人となって纏われた人の弱さの…
イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(1~2) イエス・キリストに無条件で赦され、命を捨てるほどに愛された者は、神の御愛を経験しうちにキリストが形作られ、みことばがこの身になりますようにと、祈り求めるようになる。 いのちの主を愛しみことばを愛して、キリストの愛によって兄弟を愛するとき、たとえ責めているようでも教えているようであっても、心はキリストの平安に守られている。 神の命令を守ること、それが…
私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(6) 神から出たことばを話し、神によって成るわざを行う使徒の働きは聖霊の導きであって、彼らのことばに聴き従う者に救いのわざが現れた。救いは人の熱心や言葉の巧みさには拠らず、神の選びに在る聖霊の働きである。 聖霊に触れられるとき、創造主なる神を悟り、御子イエスの十字架の救いを受け入れることができる。神の愛を経験した者は真理を悟り、イエスにすべての望みを置いて礼拝して、みことばに従順する彼らは、聖霊に解かれたみことばに拠って…
愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(1) 聖霊がおられるように悪霊も存在する。悪霊から守ってみことばに導くのは聖霊である。聖霊なる神はイエスのことばを解き明かして、聴いたことばに従順して生きる力を与え、生ける神のことばを経験させて主への信頼を育ててくださる。 悪霊は、キリストにたまわった永遠のいのちから目を反らさせて、感情に働いて肉を掻き立て世に釘づける。善悪知識の木の実由来の賢さは、神から独立した善悪によって、救いのための時間を浪費して、悪霊の働きによる目に好もしいものを仕立て、世の成功に惑わして滅び…
互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。(11~12) 妬みは自分と相手に死をもたらせ、キリストから出た愛はいのちをもたらせる。神の愛は御子の命を支払って人を生かしてくださった。 肉を持って生きている心の王座は、自分を生かすための自己愛が占めていて、誰よりも愛されることを求めている。その欲求が満たされないことは妬みとなり、宗教家がイエスを殺したように、邪魔者を故無く殺すのである。アベルの正しさは誰より…
ジャガイモの新芽すくすく葉の緑 初桜乙女の如き恥じらいの 蕾ほころぶ春は嬉しき
幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。(7) 誰が神に受け入れられる義を行うことが出来るだろう。義を行うとはキリストの義に留まることである。誰であってもキリストのうちに在ることで、完全であり正しいのである。 神に生み出された幼子たちは、まず自分が何者であるかを悟るために、キリストにたまわっている御救いに安息することである。世では、見たことも聞いたこともない神の愛を味わうために・・ 十字架の完全なあがないによって義とされ、キリストの復活と共に生み出された神の子は、責められることのない神の平和に安息し、感謝と交わりの中で聖霊に育てら…
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