Ryo Daimonji Blog卯花も母なき宿ぞ冷じき 芭蕉 貞享四年(1687)年作。其角の母への追善吟とある(小学館『芭蕉全句』)。初夏を彩る卯の花も母を亡くした身には「冷じき」つまり心は冷え冷えとしてさみしく孤独に絶えない。と言ったとことか。そうですねえ、他人の不幸っ
Ryo Daimonji Blog打ち終り柱時計の去年今年 齋藤三規 この季語を私は去り行く年と来る今年の流れを詠嘆を込めて言っているものと解し、気に入ってもいた。ところが午前0時を境に去年と今年が変わる境目を、行く年の時間の流れの早さを感慨を込めて思う季語であるそう
Ryo Daimonji Blog鰒釣らん李陵七里の浪の雪 芭蕉 この句は李陵という人物に関する予備知識が必要である。後漢の時代の高等遊民でのちの帝とさえ対等に遊ぶ、変人であったようだ。その李陵は七里灘で釣りをしたというが、私は、雪の渡しで、鰒を釣ろう、との句意。あそ
Ryo Daimonji Blog巫女舞をすかせ給ひて神の春 虚子 巫女さんが神殿で舞を奉納する時にその衣が美しく透けている、そのことを詠んでいるものと解した。次に神の春と随分大仰な季語の仕立てである。新年のお祭りを言祝いでのことと受け止める。
Ryo Daimonji Blog鏡餅岩に乗せあり貴船道 五十嵐播水 貴船神社は命の神様と言われ、京の尊い神社の中でもなにやら強烈なパワースポットである。その参道に鏡餅が供えある。そのひとつひとつが、さりげなくあるのだ。日本の神々のありがたさはそのさりげなさの内にこ
Ryo Daimonji Blogあそび来ぬ豚釣りかねて七里まで 芭蕉 天和四年(貞享元年/一六八四)の作。豚釣にあそびに来て釣れぬまま七里まで来てしまった。『万葉集』巻九・一七四〇の「水江の浦島の子が、堅魚釣り鯛釣りかねて、七日まで家にも来ずて」。凝りに凝った、念入
Ryo Daimonji Blog神近き大提灯や初詣 虚子 昭和十年一月一日未明 明治神宮初詣とある。 私は明治神宮にお詣りしたことはないのであるが、未明の初詣どころか大晦日から年明けまで氏神様の境内で総代役一同で境内の焚火を囲み年送り年迎えをさせていただいた。今年
謹賀新年 僕はlive doorのブログをさせていただいています。俳句を中心に、ほぼ毎日芭蕉、虚子、小澤實先生の名句の所以を軸に簡単なコメントを投稿しています。 そんななか、「ブログ見る」っていうアプリがありまして、ダウンロードしています。俳句に関して今年で澤20
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Ryo Daimonji Blog卯花も母なき宿ぞ冷じき 芭蕉 貞享四年(1687)年作。其角の母への追善吟とある(小学館『芭蕉全句』)。初夏を彩る卯の花も母を亡くした身には「冷じき」つまり心は冷え冷えとしてさみしく孤独に絶えない。と言ったとことか。そうですねえ、他人の不幸っ
Ryo Daimonji Blog短夜や盗みて写す書三巻 大須賀乙字 この句の背景として、作者に師にまだ早いと読むことを禁じられていた芸道の秘伝書があったこと。そして師の書架から盗み出し、徹夜覚悟で写そうとしたこと。そしてそれは乙字の直接経験を詠んだものではなく、浪漫
Ryo Daimonji Blog夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉 小学館『芭蕉全句』の解説によると九か月間もの長旅を終えて草庵に身を休めているが、道中で移された虱もまだそのままだとあるが、九か月の長旅をこの句から読み取ることは難しかろう。また、取り尽くせていない
Ryo Daimonji Blog木曽に入りて十里は來たり栗の花 虚子 木曽は長野県木曽郡の中央部にある町。そこに入って十里は来た、よく来たもんだと感慨をこめている。上五を入りで切らず、て止め上六の破調にしている。たしかにこれで十里は来たとのたっぷり感がでる。さらに来
159 『名句の所以』(著:小澤實)から
Ryo Daimonji Blog山賎のおとがい閉るむぐらかな 芭蕉(やまがつのおとがいとづるむぐらかな) 山賎(やまがつ:きこりのこと)。おとがい:顎、転じて口のこと。むぐら:葎(蔓性雑草)。甲斐(山梨県)の山は深く、葎がおおい繁り道ばかりか木樵の口までも閉ざしているようで、
Ryo Daimonji Blog諏訪近し桑の山畑ところどころ 虚子 明治二十七年6/24『小日本』とある。虚子二十歳の作である。諏訪に近づくとところどころに桑畑が山裾に見られるようになった、とその風土を写生して見せている。下五に「ところどころ」と具体的に景を絞らず流
Ryo Daimonji Blog花こぼるる棕櫚の下掃くさびしさよ 村山たか女 たか女は明治三十七年生まれで大正十五年、わずか二十一歳で逝去している。たか女は女学校を退学して母の看護に勤めてきた。しかし、棕櫚が花を咲かせる六月頃、看護の甲斐もなく母は亡くなってしまった
91 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)
Ryo Daimonji Blog裏山の紫つゝじ色薄し 虚子 場所は「裏山」、感想は紫つつじの色が薄い、とのみ。このつつじが見えるでなく、そんなツツジもあるやろなあぐらいのインパクト。まあしかし初学であれば写生句はこれぐらいで手練手管な師匠には取ってもらえるかもしれな
Ryo Daimonji Blog夜的の灯草のはるかに置かれけり 上川井梨葉 この夜的は屋台などにある射的屋の灯のことであろうか。ところで、夜的は季語とされた時代があるようだが今私の歳時記では見当たらない。私は名のある歳時記にあるなしで季語の有効性を決めているが、一体本
Ryo Daimonji Blog鳥さしも竿や捨てけんほとゝぎす 芭蕉 一読、「鳥さし」とはなにかと思う。鳥を刺す猟師のことのようである。次に竿やの「や」の品詞は何か,係助詞と解して「けん」と連体形で受けているので良いように思うが、係助詞やの疑問、反語のニュアンスでは
Ryo Daimonji Blog大木の五月雨の谷に横たはる 虚子 この句も前回の《五月雨の和田の古道馬もなし》と同じく明治27年6月24日『小日本』とある。この五月雨の谷も長野県飯田市南信濃和田のいわゆる秋葉古道のことではないか。いわゆる杉などの大木は意外と雨風に弱く
Ryo Daimonji三枚におろされている薄暑かな 橋閒石 「三枚におろす」とは魚の調理方法のことである。この句、薄暑がおろされているように読めるが、私は、なにがしかの魚が三枚におろされているところを見て詠んでいるのだと、解した。魚によってはあるいは包丁に
Ryo Daimonji Blog牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉 芭蕉 蜂が牡丹の花蘂のふかくから分け出でて、即飛び立つのではなく一瞬の間をおいて飛び立つのである。そのふかくにより牡丹の大輪が見えるのであり、名残により蜂の動きの微細が見えるのである。
Ryo Daimonji Blog五月雨の和田の古道馬もなし 虚子 この作品は明治27年6月24日『小日本』とある。この頃虚子さんは木曽路を経て京都に帰り、6月には『木曽路の記』を執筆されている『定本 高浜虚子全集 別巻 虚子研究年表(毎日新聞社)』。この和田の古道は、長野
Ryo Daimonji葉桜の中の無数の空騒ぐ 篠原 梵 葉桜の葉の間に見える空を無数の空と表現した。葉桜の量感を小さい隙間にの空に託したわけだ。その上に騒ぐ葉桜を空が騒ぐと転化して見せたところ、こういう表現は明喩と言っていいのか。無数の空が騒いで「いるようだ
Ryo Daimonji Blogおもひ立木曽や四月のさくら狩 芭蕉 貞享ニ(1685)年四月、『野ざらし紀行』の旅をおえ、尾張から木曽路を経て江戸に帰る際、熱田で巻いた連句の立句「明治書院『新芭蕉俳句大成』」。 江戸へ帰る途中であるが、折しも少し遅いが木曽の春も遅いの
Ryo Daimonji Blog家二軒笠取山の時鳥 芭蕉 笠取山(かさとりやま)は、埼玉県秩父市と山梨県甲州市の境、奥秩父山塊の主脈に位置する標高1,953 mの山。秩父多摩甲斐国立公園に含まれる(ウキペディア)。ネットで見る限り周辺に人家があるような気配はない。山裾へ降りて
Ryo Daimonji Blog葉ざくらや人に知られぬ昼あそび 永井荷風 いきなりこの句、淫靡な気配を放つ。永井荷風をネットで見てみたが窮乏したり、病気になったりもしておられるが、基本裕福な育ちの人らしい。後年文化勲章も受賞してをられる。若い頃の遊興三昧も芸の肥や
Ryo Daimonji Blog 見るに我もおれる計りぞ女郎花 芭蕉 僧正遍照の歌「名にめでて折れるばかりぞ女郎花われ落ちにきと人に語るな」を作句動機とした貞門風の句とされる。「おれる」がキーワードで「まいってしまう」「まける」ほどの意味で女郎花の美を讃えているの
Ryo Daimonji Blog俳諧の旅に日焼し汝かな 虚子 虚子の弟子である清原拐童(きよはら・かいどう)明治15年~昭和23年福岡県生まれが、上京するにあたり贈った句であるらしい。『贈答句集』の前書きに「昭和二年八月・拐童上京」とあるようだ。 俳句の修業に日焼
Ryo Daimonji Blogかほに塗るものにも黴の来りけり 森川暁水 「かほに塗るもの」とは白粉、クリームなどが浮かぶ。それに「も」黴がきた、と言う。じめじめとした梅雨どきを思う。が、曉水さんの「黴」とくるとその上に貧乏が匂う。 息しづかに葱汁吸うて生きて
Ryo Daimonji Blog たかうなや雫もよゝの篠の露 芭蕉 「たかうな」はたかんな、筍のことであった。たけのこは、よゝ(夜々・代々)の篠の露が恵となって筍を育てたものであろう(明治書院)。この句は『源氏物語』を踏まえたものであるようだが、私には読み込み不足であ
Ryo Daimonji Blog わだつみに物の命のくらげかな 虚子 海神とくらげを並べ詠んでいる。クラゲを見たり思う時いつもその命の不思議を感じてきた。この句を読んで久しぶりにその感覚が甦った。生きとし生きる物全てに神の意思が宿るのか。
Ryo Daimonji Blog短夜や盗みて写す書三巻 大須賀乙字 師からまだ読んではいけない、と言われている書を探究心のゆえに盗みその書三巻を写した。ただし、このことは乙字の体験談ではない、とのこと。つまりは、乙字の俳句に対するものと思われる探究心の例え話として名
Ryo Daimonji Blog うつくしき其ひめ瓜や后ざね 芭蕉 姫瓜が美しく名の通りお姫様のように瓜実顔で、后のようである。『枕草子』を踏み、后候補の意の「后がね」を「后ざね」ともじった。と解説にあった。寛文十二年(1672)山下水とある。
Ryo Daimonji Blog大夕立来るらし由布のかきくもり 虚子 1927年に、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社主催、鉄道省後援で、一般からの投票をもとに、日本を代表する8つの景勝地に大分も選ばれ、その取材に虚子も赴いたようだ。 大夕立が来る前に温泉地由布院の空がか
Ryo Daimonji Blog一八に雨のふるなり屋根の上 村上霽月 一八はアヤメ科のカキツバタに似た花であるが、大風を防ぐとも火災を防ぐ花とも言われ、藁屋根に植えられていたらしい。私は子供の頃藁屋根の家に育ったが、一八が植えられることはなかった。
Ryo Daimonji Blog なつ木立はくやみ山のこしふさげ 芭蕉 中七の「はくやみ山の」下五の「こしふさげ」がわからぬ、となるとこの句も難解句となってしまう。「木立」は「木大刀」の言い掛けで、はくは「佩く」で、こしふさげは「一時しのぎの刀」と注釈があった。「
Ryo Daimonji Blog よりそひて静かなるかなかきつばた 虚子 「ホトトギス」昭和3年1月 とある。『五百句』の中のアヤメ、カキツバタシリーズである。静かでなくよりそはないカキツバタってありますかね、なんて理屈を言いたくなるようなありふれた描写だ。でも、
Ryo Daimonji Blog花こぼるる棕櫚の下掃くさびしさよ 村山たか女 この句を読んでしばらく考えたが、このさびしさがわからなかった。小澤先生の解説を読み、「亡き母を憶ひて」の前書きを知った。棕櫚の花の咲く頃、そう言えば近所の棕櫚が花をつけている。
Ryo Daimonji Blog 五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉 難しい句である。見慣れた河であるが、五月雨に増水した深さを五月雨が尋ねているよ、と五月雨の風情を擬人化により荒ぶる景色を詠嘆、強調している。と、読んだ。
Ryo Daimonji Blog なつかしきあやめの水の行方かな 虚子 あやめと一口に言っても、カキツバタ、ショウブ、そしてアヤメと種類によって育つ場所にも違いがあるようだ。カキツバタは水辺に咲くようだが、いわゆるアヤメは必ずしも湿地が生育条件でもないようだ
Ryo Daimonji Blog夜的の灯草のはるかに置かれけり 上川井梨葉 草が生えあるような平場に夜的を照らす投光器が置いてある。もちろん草地に置いてある投光器に俳味があるわけでなく、灯をもらす夜的の何がしかの俳味、詩情を詠みたいのだと思う。しかし、そのままでは類
Ryo Daimonji Blog しばしまもまつやほとゝぎす千年 芭蕉 少しの間もほととぎすの鳴き声を待ち焦がれている。その間が数千年にも思われる。それほどにほととぎすの鳴き声は昔からの美しい響きがする、と言った句意か。 鑑賞して気づくのだが、それほどにほとと
Ryo Daimonji Blog 松風に騒ぎとぶなり水馬 虚子 この句は上五松風の描写の是非。万葉集でも歌われている通り松風は松籟、松涛、松の声などと琴の音にも例えられるいい音とされています。この句は季語水馬(あめんぼ)を引き合いにこれが騒ぎとぶようだと言う。何
Ryo Daimonji Blog三枚におろされている薄暑かな 橋 閒石 三枚おろしは、魚のさばき方の一種で、右身、左身、中骨の3つの部分に切り分けることをいうとされる。したがって「薄暑」がおろされるわけがないのである。つまりは感覚、思うに魚が手際よく三枚おろしに整えら
Ryo Daimonji Blog 岩躑躅染る涙やほとヽぎ朱 芭蕉 寛文六年(1666) 『続山井』。岩躑躅が朱色なのはほととぎすが喉から血を吐きながら泣き染めたのであらん。「ほととぎ しゅ」と洒落ているのだが、ほととぎすの涙の例えに少しあざとさを感じられたか。
Ryo Daimonji Blog くずをれて団扇づかひの老尼かな 虚子 くずをれる、くずれるように座るさまを言うようだ。そう言った姿勢で団扇を使う老いた尼さんを詠嘆しているのだ。さぞかし上品な艶っぽい所作に見えたのだろう。