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  • 143 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog火に乗せて草のにほひす初諸子 森澄雄 諸子のおいしい食べ方は、炭火でこんがり焼き上げ酢味噌、生姜醤油でいただくのがいいらしい。ところがこの句その時に草の匂いがする、という。水中にすむ諸子が焼き始めると草の匂いがするげな、こんどそんな機

  • 76 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog辛崎の松は花より朧にて 芭蕉 辛崎は滋賀県大津市、唐崎あたりのことのようだ。琵琶湖に向かって立つ松が詠まれている。曖昧さをよしとする美感で、花よりもぼやけて見える夜の松の情趣を繊細に捉えている。琵琶湖に向かう松もさることながら、私は丹

  • 106 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog花吹雪狂女の袖に亂れけり 虚子 和装の女性が桜吹雪の中を袖を振って舞っている。そしてその女性は狂女だという。桜の根元には死体を埋めたり、狂う女性を踊らせたり、さまざまにその美の表現がこころみられる。美しさに怪しさが漂うとき、狂い踊る女

  • 142 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog生別もいづれ死別や春の水 山本紫黄 この作者、生別死別といった大変重い事を俳句でさらりと詠まれた。他の句にも〈来ぬ女こそわが女冬日の浜〉とか、〈てめえの靴はてめえで探せ忘年会〉とかあった。 生き死にを俳句にすることはいいのだが、その

  • 75 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 この句の命は中七の「ゆかし」であった。辞書をみると、①何となく知りたい、見たい、聞きたい。と好奇心をさす。②何となくなつかしい。何となくしたわしい。心がひかれる。③上品ですぐれている。とある。貞享

  • 105 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog朝櫻一度に露をこぼしけり 虚子 俳句で一瞬を詠むのは常套である。風が吹いたのか鳥が飛び立ったものか、ともあれ一度に葉についた露が落ちたのであるしかも朝のことである。「こぼしたことだよ」と軽く一瞬の過去を詠嘆して見せる、これもまた19歳の

  • 141 『名句の所以』(著:小澤實)から

     Ryo Daimonji Blog山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子 まるで中学生に戻ったかのように女性の身体図を見てみた。「へその裏」と言えば当然子宮のあたりだ、妊娠中の胎動の感覚を具体的に自分の体で詠んだ。そしてそれが俳句になっている。「胎動」の具象化に成功して

  • 74 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog我がきぬにふしみの桃の雫せよ 芭蕉 貞享二年(1685)『野ざらし紀行』。京都市伏見西岸寺の盛りの桃の花を任口の高徳になぞらえて、私が着ている衣に桃花の雫を滴らせて欲しい(高徳に浴したい)と当時八十歳の老僧任口上人への挨拶句としたもの。(『新

  • 104 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog更けゆくや花に降りこむ雨の音 虚子 1893(明治26)年虚子19歳作とある。この花はわが邦にあり、そこへ雨が降り込むという。がしかし、降り込んでいるのは音だという。この表現になるほど虚子19歳の非凡な感覚表現の若さを感じる。

  • 140 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog東山三十六峰みな笑ふ 清水基吉 清水 基吉は、俳人、小説家で東京都渋谷区に1918(大正7)年に生まれている。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間

  • 73 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉 難しい句である。まづ場所は京都市鳴滝とある(「芭蕉全句」小学館)。次に「かまはぬ」かかわるとの意味に従う、つまり桜の花にかかわらない、枝ぶりである。先の林和靖に例えた山荘主を樫の木に類えている、らしい。

  • 103 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

      Ryo Daimonji Blog月の夜に笠きて出たり鉢叩 虚子 この場合の笠は、被りもんを意味するんだろう。月の夜なんで雨避けではなく帽子みたいなファッションなのであろう。鉢叩なる季語では、十一月初旬から大晦日までの寒い夜である。空也念仏が聞こえてきそうな年末の通

  • 139 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog下燃えぬ人間それに従ひぬ 星野立子 季語「下燃」は、早春、大地から草の芽が萌え出ること、またはその芽をいうとある。また、古来ひそかに思い焦がれる意味に使われた言葉であるとも歳時記にあった。 つまりはそういう早春の季節のうごめきに人間

  • 72 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog梅白し昨日ふや鶴を盗まれし 芭蕉 貞享二(1685)年春の作。「京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山家をとふ」と前書。広大な別荘にすむ秋風へ、秋風を林和靖になぞらえての挨拶句。つまり「宗の高士、林和靖は西湖の孤山に住み、ただ梅と鶴を愛した」秋風

  • 102 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog餅もすき酒もすきなりけさの春 虚子 餅に酒。いずれも好きと改めて言う。何やらめでたくあるのは、新年のことほぎだからなのだろう。「けさの春」「今朝の春」で歳時記に新年の季語とある。なるほどである。

  • 138 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太 庭に梅が咲き春の訪れに満ちている。その庭にあの凶暴な青鮫が来ているという。これはどういうことで、どこからこんな発想が生まれるのか、つまり何を言いたいのか、とか真面目な人ほどあれやこれや考えてしま

  • 71 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉 お水取りとは、東大寺の二月堂で行われる修二会のことであるが、3月12日の「後夜」の中で6人の練行衆が閼伽井屋に向かって香水(二月堂の下の岩から湧き出る神聖なる清水)をくみ、これを須弥壇下の香水壺に蓄えて本尊

  • 101 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog燕のしば鳴き飛ぶや大堰川 虚子 はて、燕って飛びながら鳴いてんだっけ。たしかに目の前を反転しながら鳴いていたと思う。大堰川は、嵐山に保津川から桂川になるまでをそう言うんだと思う。ともあれ妻の里を流れる大きな川で桜どき、夏の花火で賑わ

  • 137 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog星の香の少しく混り蕗の薹 渡邊千枝子 蕗の薹に星の香がすると言う。どこのなんという星かなどは愚問である。ともかくも遠くはるかな香であり味である。当然、具体的になんとも言えないところを「すこしく」とおさえて表現している。辞書に副詞。参

  • 70 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog世にゝほへ梅花一枝のみそさゞい 芭蕉 どうやら、一枝は玄髄という医者の号のことで、この人はみそさざいが梅のひと枝に満足しているように、分相応の暮らしを営む徳人であるようだ。そういった玄随の徳が梅の香りのようにひろまれよ、と挨拶している

  • 100 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog奈良茶飯できるに間あり藤の花 虚子 米に栗、大豆、小豆、アワなどを入れ、お茶で炊いた炊き込みご飯。江戸時代、東海道五十三次の宿場町であった川崎宿の茶屋「万年屋」でシジミのみそ汁や奈良漬けとともに提供され、旅人に大変な好評を博し、全国各

  • 136 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog大風やはうれん草が落ちてゐる 千葉皓史 いつもの路にほうれん草が落ちている。はて、なぜだろう。大風が吹いているのだが、まさか畑から市場から大風に乗って飛んでくるはずもないのだが、妙にくっきりとあるのだ。そのありようが春という季節と相

  • 69 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog初春先酒に梅売にほひかな 芭蕉 酒はともかく、私は梅にしても花の匂いの認識がないのだ。慢性の鼻炎をかこち来たせいだと思う。この句は春になってまづ、酒の匂いを言い、ついで梅の匂いに詠嘆する。芳醇な酒の匂い、ついで「梅」の匂いとするところ

  • 99 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog秋篠はげんげの畦に佛かな 虚子 秋篠(あきしの)は、奈良県奈良市にある地名。現行行政地名は秋篠町、秋篠新町。かつては大和国添下郡に属しており、平城京の北西端にあった西大寺の北側に広がる地域にあたる。現在の皇室の秋篠宮の宮号の由来の土地

  • 135 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog堅香子にまみえむ膝をつきにけり 石田郷子 堅香子の花は片栗の花のことで春の季語である。この花は私は随分前に近所の山で見たのだと思う。誰に教えてもらったものかおそらくは若かりし頃の妻であったと思う。子供の頃片栗粉のスープをこれは母に飲ま

  • 68 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    毎日新聞社 小澤實氏の『名句の所以』・小学館『芭蕉全句』・毎日新聞社『定本 高浜虚子全集』を読んでいます。ひまな時にでもお立ち寄りください。

  • 98 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog旅荷物しまひ終りて花にひま 虚子 この月二十六日から神戸に立子ともども吟行している。その旅のことか二十九日にいたり舞子、万亀楼にて旅を終えたようである。旅荷物を仕舞、花にいとまを告げている。芭蕉の旅とは異なり、余裕に満ちた空気が伝わ

  • 134 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog我山に我木の実植う他を知らず 西山泊雲 近頃の風潮を「今だけ、金だけ、自分だけ」と言う。この句の下五もそう言う気持ちを言っているのだろうか。「我山」「我木の実」と「我」が続くのでそう言うふうな気もする。自分の山に自分の木の実を植える

  • 67 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog旅がらす古巣はむめに成りにけり 芭蕉 『千載集』崇徳院歌「花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりをしる人ぞなき」を踏まえたものとする。漂白の生活を送る旅鴉のような自分だが、故郷は梅の盛りとなっていると、美しい故郷に自分を自嘲的に対比して

  • 97 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 藤垂れて今宵の船も波なけれ 虚子  昭和十年(1935)四月立子と神戸に遊ぶと(朝日文庫 虚子集年譜にある、六十一歳)。二十六日、石手寺、涌ケ淵吟行。豊阪町亀の井、この夜神戸吟行とあるのは毎日新聞社 定本虚子集第一巻。藤の垂れる神戸の港を

  • 133 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog白魚をすすりそこねて死ぬことなし 斎藤 玄 斎藤玄は1914(大正3年)北海道出身の俳人。 「何とかをしても死にはせん」と他愛ないことを大袈裟に死にかこつけて言って強がる常套句である。この句は白魚の踊り食いを言っている。一読これもまた、他愛

  • 66 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog子の日しに都へ行ん友もがな 芭蕉 王朝宮廷の遊びに初子の日に、野に出て小松を引き若菜を摘んでする遊びがあったそうな。そんな優雅な遊びをともにするような友がほしいなぁ。と言ったところのようである。現代に置き換えてそのような遊びが浮かんで

  • 96 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog道のべに阿波の遍路の墓あはれ 虚子 弘法大師さまの御跡である八十八ヶ所霊場を巡礼することが遍路だと言われています。今でも多くの人たちがお参りしておられます。人生のお礼に参られる人、今まさに人生に願をかけお参りする人もあるのでしょう。第

  • 132 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog恋猫や鮑の貝の片思ひ 内藤鳴雪 内藤鳴雪は、幕末の伊予松山藩の武士、明治期の官吏、明治・大正期の俳人とある。「鮑の貝の片思い」は万葉集にも見られる古い成句である。故に鳴雪が俳句に引用したことは成句の引用ということだけをもってする批判は

  • 65 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog我ためか靏はみのこす芹の飯 芭蕉 この句は、山店子なる人がわざわざ芹飯を持つてきてくれたことへの謝意を句にしたものであった。その芹を鶴が食べ残したものと鶴を配することによって高尚な趣で謝意を表そうとしている。前書きの「金泥坊底の芹」は

  • 95 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog船の出るまで花隈の朧月 虚子 花隈は、神戸市中央区の、花隈城のあった辺りで神戸港の発展に伴い高級料亭が立ち並ぶ商業地域。昭和十年四月二十四日、播水 (五十嵐)の招きによる宴席で詠まれたものであるようだ。私は花隈町なるところに土地勘はまっ

  • 131 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog恋猫に颯とたてがみのやうなもの いのうえかつこ 恋猫に颯爽とした馬の立髪のような毛が生えているという。猫にさかりがつくと、どの猫でもそうなるのであろうか。いやそうではあるまい作者の猫がそう見えるのである。恋をする私の猫はかっこいい雄猫

  • 64 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog誰が婿ぞ歯朶に餅おふうしの年 芭蕉 どこの婿さんであろうか、餅に正月飾りの歯朶をつけて背負って行く丑年であることよ。そして、その牛には嫁さんを乗せているとの説もある。芭蕉ががこういう昔ながらの習慣を故郷に見て懐かしんでの歳旦吟であるら

  • 94 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog椿先づ揺れて見せたる春の風 虚子 この句、椿が春の風を揺れて見せた、との擬人法であります。一般的に俳句の擬人法は避けた方がよいとされます。その理由はいろいろ言われますが、つまりは嘘であるからでしょう。鳥は歌わないし、花も微笑みはしませ

  • 130 『名句の所以』(著:小澤實)から

     Ryo Daimonji Blog春寒のケシゴム一行の字をそげり 鷲巣繁男 暦の上では春なのだが冬へ戻ったような寒い日、作者は一行の字を消した。この一行の字とは俳句のことであろう。「消す」ことを「削ぐ」と表すところに作者の苛立ちを感じる。単に表現技術に苛立っているの

  • 63 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog火を焚て今宵は屋根の霜消さん 芭蕉 門人・濁子の細君から冬籠もりの料(薪炭)が寄せらたので、と「芭蕉全句(小学館)」に説明がある。火を焚いて屋根の霜を消そう、という句意だが、霜を消すには家を温かくしてということが省略されている。この省略に

  • 93 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 園丁の指に従ふ春の土 虚子園丁とは造園を職業とする人、庭師のことを言うらしい。春の土という季語も幅があって俳句に用いにくい。そこを園丁の指に従うと土いじりの作業に細かく絞り込んでみせたのである。あえて春の土を擬人化したところに園

  • 129 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog心臓はひかりを知らず雪解川 山口優夢 心臓に持病を持つ私は、ひかりを知らずなどと人ごとのように詠嘆する余裕はない。穏やかに正確に鼓動を打ってくれるのを願うばかりである。夜寝落ちするまでの心臓にさまざまに向き合うことになる。季語雪解川に

  • 62 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

     Ryo Daimonji Blog蝶よ蝶よ唐土のはいかい問む 芭蕉 これは難しい。この句の句意自体はわかるのだが、芭蕉翁の俳句としてその価値に感応する能力が私にないことで難しくなるのだ。まづこの蝶は『荘子』の「荘周の夢の蝶」を意味するようだ、次に唐土のはいかいとは

  • 92 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

     Ryo Daimonji Blog 一を知つて二を知らぬなり卒業す 虚子 「一を聞いて十を知る」と言う言葉が論語にある。孔子の弟子子貢の言葉であるそうな。ともあれこの句、この言葉をもじって一を知って二を知らぬほどの愚かなまま卒業したことだと自嘲、謙遜している。自

  • 61 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blogおきよおきよわが友にせむぬるこてふ 芭蕉 天和年間(1681〜1684)の作。『荘子』「昔ハ荘周、夢ニ胡蝶ト為レリ」(小学館 芭蕉全句)による。胡蝶を愛しみ強く呼びかけている。その心持ちは寂しさではなく、友愛に満ちた春に寄せる弾むこころである。

  • 128 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog書を校す朱筆春立つ思いあり 柴田宵曲 宵曲は生涯にわたって、編集出版の仕事にたずさわったと、「名句の所以」(小澤實著 毎日新聞出版)にある。その校正を朱筆で行なっているのだ。文を正すと言う行為には何がしかの緊張が伴うと思われるが、この

  • 60 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog元日やおもへばさびし秋の暮 芭蕉 めでたいはずの元日に遠く秋の暮を思い、さびしいよ言う。何とも幸せである時にふと不吉な想像をしてしまうことっていつの時代の人間であれあるのだろう。そんな当たり前の取り越し苦労にささやかではあるが人間の

  • 91 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog里方の葵の紋や雛の幕 虚子 この句わかるようで私にはわからぬ句である。注釈に昭和十年三月三日。武蔵野探勝会。麻布廣尾、近藤男爵邸雛祭とある。ネットで近藤廉平男爵邸跡と言うこの句に近い写真があったのと麻布廣尾についてはピタッとくる情報

  • 127 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog恙なしや今日立春の鳥獣 北原志満子 恙なしや、異常なく息災である。寒が明けて立春とはいえまだまだ寒い、そんななか鳥獣の命のありように気がいく。季節を越えて生きゆくものは人に限らない。春立ち一斉に生きとし生きるものは芽吹く。

  • 59 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blogかさもなき我をしぐるゝかこは何と 芭蕉 解説では謡曲調の口吻で、時雨に興じているとある(小学館 芭蕉全句)が、私は興じると言うより嘆じているのだと解したのだが。しぐれそのことを詠んでいるのではなく、かさもない自分がしぐれにあっている、何

  • 90 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog藪入の田舎の月の明るさよ 虚子 奉公人が正月に家元へ帰ることを許される日、薮入りは奉公人本人はもとより家元の親、家族もそれは楽しみに待っている。家はもとよりそんなささやかな喜びに満ち満ちた家の上に輝く月もその幸せを写すように光り輝くの

  • 126 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog羽子のせしまゝ羽子板を次の人へ 原月舟 羽子遊びには二つあって、一つは二人が一つの羽子を送りあって競う追羽子と、一人が数え歌を口ずさんでつく揚羽子があると、小澤實主宰編著「名句の所以」にある。 私は、この句からバトミントン遊びでの一

  • 58 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog馬をさへながむる雪の朝哉 芭蕉貞享元年(一六八四)野ざらし紀行 子供の頃目覚めに雪が降って少しでも積もっていると、訳もなくはしゃぎ外へ飛び出したものである。この歳になってもはしゃぎこそしないがその美しさに目を見張る思いになることが多い

  • 89 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog神慮今鳩をたたしむ初詣 虚子 初詣の境内の鳩が一斉にたった、その瞬間の人と鳩の驚きの中に神の意を感じたのだ。鳩がたつという事実事象に神慮を感じる、そのことを初詣にかけて詠む。私はこういう俳句をアニミズム俳句だと思うのだ、鳩の驚きの中に

  • 125 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog打ち終り柱時計の去年今年 齋藤三規 この季語を私は去り行く年と来る今年の流れを詠嘆を込めて言っているものと解し、気に入ってもいた。ところが午前0時を境に去年と今年が変わる境目を、行く年の時間の流れの早さを感慨を込めて思う季語であるそう

  • 57 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog鰒釣らん李陵七里の浪の雪 芭蕉 この句は李陵という人物に関する予備知識が必要である。後漢の時代の高等遊民でのちの帝とさえ対等に遊ぶ、変人であったようだ。その李陵は七里灘で釣りをしたというが、私は、雪の渡しで、鰒を釣ろう、との句意。あそ

  • 88 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog巫女舞をすかせ給ひて神の春 虚子 巫女さんが神殿で舞を奉納する時にその衣が美しく透けている、そのことを詠んでいるものと解した。次に神の春と随分大仰な季語の仕立てである。新年のお祭りを言祝いでのことと受け止める。

  • 124 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog鏡餅岩に乗せあり貴船道 五十嵐播水 貴船神社は命の神様と言われ、京の尊い神社の中でもなにやら強烈なパワースポットである。その参道に鏡餅が供えある。そのひとつひとつが、さりげなくあるのだ。日本の神々のありがたさはそのさりげなさの内にこ

  • 56 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blogあそび来ぬ豚釣りかねて七里まで 芭蕉 天和四年(貞享元年/一六八四)の作。豚釣にあそびに来て釣れぬまま七里まで来てしまった。『万葉集』巻九・一七四〇の「水江の浦島の子が、堅魚釣り鯛釣りかねて、七日まで家にも来ずて」。凝りに凝った、念入

  • 87 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog神近き大提灯や初詣 虚子 昭和十年一月一日未明 明治神宮初詣とある。 私は明治神宮にお詣りしたことはないのであるが、未明の初詣どころか大晦日から年明けまで氏神様の境内で総代役一同で境内の焚火を囲み年送り年迎えをさせていただいた。今年

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    謹賀新年 僕はlive doorのブログをさせていただいています。俳句を中心に、ほぼ毎日芭蕉、虚子、小澤實先生の名句の所以を軸に簡単なコメントを投稿しています。 そんななか、「ブログ見る」っていうアプリがありまして、ダウンロードしています。俳句に関して今年で澤20

  • 55 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog明けぼのやしら魚しろきこと一寸 芭蕉 夜明けの空が明るんできた時、一寸ほどの白魚が河口にきらり見える。春の明けに見るさわやかな一瞬を白魚の小ささに詠んだ。この命、アニミズム俳句と言っても良いだろう。

  • 86 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

     Ryo Daimonji Blog焚火のみして朽ち果つる徒に非ず 虚子 歳をとった冬の日、焚火などをして穏やかに人生の幕を閉じる。私はそう言う徒に与しない。虚子翁何やら生き盛んである。実は私七十歳にリーチなのだが、同じような心境である。ただし私は焚火のみして朽ち果て

  • 123 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog暁やうまれて蟬のうすみどり 篠田悌二郎 うまれたての蟬は誰しも一度は目にしているのではないか。思い返してなるほどと、そのいろあいのいとけなさを思うのである。この句、そこに改めて気づかせてくれる懐かしさに普遍性がある。

  • 54 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 芭蕉 これが芭蕉の句かと思う駄作ではないか、冬牡丹、千鳥、雪のほととぎす。美しい季語を並べている。写生でもなくアニミズムでもない。でも作句してるとそんな時もある。嫌味なく美しい、この句はこの句として読ませて

  • 85 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog白雲と冬木と終にかかわらず 虚子 冬の空気が冷たく澄んでわたるなか、白雲と冬木が凛とありそれぞれが誇りを持って存するようにみえる。両者は終にかかわりを拒んでいるかのようだ。かくあたい、虚子翁は誰かに対してその思いを強くしたところだ。

  • 122 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog岩灼くるその岩かげの雪あはれ 石橋辰之助 夏の登山を詠んだものであろう。日によって岩場は焼けているのだが、その岩陰の雪は雪として残っておりなんともしみじみとした趣があるのである。相当に高い山であたりの空気も澄み渡っている。この境地を伝

  • 53 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 芭蕉 本来夏に咲く牡丹を冬に見て千鳥の声を聞くのは本来夏に聞くほととぎすを雪の中に聞くように珍しく美しい。と幻想美を浮かび上がらせたものと解した。

  • 84 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog焼芋がこぼれて田舎源氏かな 虚子 この句、田舎源氏の意味が結構難しい。源氏というのをかの光源氏のことと解し、いわばええかっこしいの田舎のシティボーイが焼き芋をこぼれ落として、ダサってなったシーンと解したのだが、この鑑賞文こそが田舎源氏

  • 121『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog我を撃つ敵と劫暑を倶にせる 片山桃史 作者は昭和十九年、東部ニューギニアで戦死とある。「劫暑」とはものすごい暑さのことである。兎にも角にも戦争で撃ち合う状況の俳句である。私の父は当時、姿勢に傾きがあったことで殴られ、左耳に難聴があっ

  • 52 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blogいかめしき音や霰の檜木笠 芭蕉 何と激しく厳しい音のすることよ。にわかに降り出した霰が檜木笠にあたって跳ね返る音は、の意味であるらしい。貞享元年(1684)年説が多数。いかめしきと音を言い切ったところにこの句の良し悪しが分かれる、私は底の浅

  • 83 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog雑炊に非力ながらも笑ひけり 虚子 雑炊をおいしく食って笑うのに己が非力であるか否かなど関係ない。そういう瞬間まで己の甲斐性なさを意識している。そういうことって俳句をやるような人間にはあるのかもしれない、僕にはある。

  • 120 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blogアスロックミサイル下の片影に 稲畑廣太郎 アスロックミサイルとは、艦載式対潜水艦追撃ミサイルのことだそうな。それがつくる小さな影に作者は入っているようだ。現代版戦争武器俳句だ。鉄砲や刀、ミサイルと殺傷力ある武器には魅力を感じる。強さには

  • 51 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog宮守よわが名をちらせ木葉川 芭蕉 宮守さま、拝殿に落書きされたわが名を、社前の川に木の葉のように掃き散らしてください、と俳句仕立てで懇願してみせた。木因の戯言に即興的に合いの手を入れた句、ほどの解釈が多数のようです。何事かと考えてし

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  • 82 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 来る人に我は行く人慈善鍋 虚子 歳末募金のように寄付金を募る豚汁のような振る舞い鍋かと思ったが、キリスト教の寄付金を募る鉄鍋のことだそうな。来る人行く人の往来に慈善鍋がある光景って、欧米の街並みが浮かぶ。

  • 119 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 妻は開きおのれは丸のどぜう鍋 吉村 昭  この句の季語はどぜう鍋で夏である。夏バテにどじょう鍋は効きそうである。どじょう鍋と表記するよりもどぜう鍋とするほうがなにやらありがたみがする。妻は妻俺は俺だが、思えばどじょう鍋って食ったこと

  • 50 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog 琵琶行の夜や三味線の音霰 芭蕉  この「琵琶行」は、白楽天が左遷されて舟中で琵琶を弾く女性に出会い、その哀音と身の上話に人生の栄枯を感じて作った詩、であるそうな。その琵琶を三味に転じて琵琶行と句にしたところがみそであった。貞享元(一

  • 81 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

      Ryo Daimonji Blog 来るとはや帰り支度や日短 虚子  一読女性の繰り言を思った。嫁に行った娘、あるいは田舎から都市部へ行った娘も父のもとからはそそくさと帰っていく。日も短くなったし余計に忙しく感じる。正月にはゆっくりしよう、と一応のことを言って満足

  • 118 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 壜に入れて麦湯冷やすや水の中 星野麦人  明治期の製氷のできる冷蔵庫のない時代の作であるらしい。たらいとか木製の入れ物に水を張ってその中で冷やしたのだろう、瓶というがどんな瓶であったろうか確かな想像ができない。冷たい麦茶のおいしい味

  • 49 芭蕉の風景 上 著小澤實 七十五頁 ウエッジ

    Ryo Daimonji Blog 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き 芭蕉  時雨は冬の季語であるが、霧時雨は秋の季語となる。構成要素は富士をみぬ日である。これが面白いと言う句である。こういう感想をストレートにいう句はどう位置付けるべきであろうか。本来ならば霧時雨で富士山

  • 80 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 物指で背かくことも日短 虚子  季語は日短で冬。構成要素は物指と背かくという動作。なにげない平凡な冬の一日を詠んだ。その忙しなさを「も」がうまく表している。ちなみに11/8の今日、立冬である。

  • 117 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 墓石に映つてゐるは夏蜜柑 岸本尚毅  季語は夏蜜柑で夏の初期。構成要素は墓石で、これに夏蜜柑が映っているという。夏蜜柑は大ぶりで夏の季感溢れるみずみずしい果物である。対してこの墓石、誰のものかも作者との関係も不明である。生と死が際立

  • 48 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog 秋十とせ却て江戸を指す故郷 芭蕉 貞享元(1684)年『野ざらし紀行』。 江戸へ出てきてはや十年、故郷に帰るにあたり、今ではかえって江戸を指して故郷と振り返ることであるよ。賈島の詩「桑乾ヲ渡ル」を踏まえている。故郷というのは父や母育った

  • 79 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 顔抱いて犬が寝てをり菊の宿 虚子  旅先の宿に菊の花が咲いている。そこには犬がいて寝そべっているのだが、その犬が頭を抱えるように寝ているのだ。その様を「顔抱いて」とやってみた(と解した)。のどかなひるさがりである。昭和八年十一月三日鎌

  • 47 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog 野ざらしを心に風のしむ身哉 芭蕉  貞享元年(1684)8月~貞享2年4月末 芭蕉41歳の時、門人千里を伴い、初めての文学的な旅に出る。東海道を上り、伊勢山田・伊賀上野へ。千里と別れて大和・美濃大垣・名古屋・伊賀上野へ帰郷し越年。奈良・京都

  • 116 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 月涼し脳を出で入る健忘神 林翔  健忘症のことを健忘神と表するあたりが素晴らしい。我知らぬうちに突如くる物忘れ、70前になって珍しくもないが確かに自分とは関係のないところでまるで神さんのいたずらのように来る。まるで夏の夜の月のようにケ

  • 46 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog 髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ 芭蕉  天和ニ(1682)年 作。前書に「憶老杜」。秋風に髭を吹かれながら、暮秋の哀れを嘆いているのは、いったい誰なのであろう、の意。老杜とは杜甫をさすらしい。尊敬する杜甫に己れを重ねての漢詩風に倒置法で一

  • 78 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 倏忽に時は過ぎ行く秋の雨 虚子  秋の日は冬に比べればゆとりがあるが、それでも日に日に短くなって行くように感ぜられる。倏忽(シュクコツ)とは、初めて目にし使った漢字であった。たちまちに、とかすみやかにといった意味であるらしい。この字さ

  • 115 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 蝋燭の焔の瑠璃や夏の暮 山西雅子  蝋燭の焔の色を細かく正確に見て俳句にした。確かに蝋燭の色の中には瑠璃色がある。しかし、私なんぞは青ですませてしまいそうである。念のためために瑠璃色をネットで調べてみた。ほーら青じゃん(笑)。

  • 45 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog 月十四日今宵三十九の童部 芭蕉  十五夜に一つ足りない月と不惑の四十に一つ足りない三十九の私は同じようにまだまだ童である。と、月自分共にまだまだ未熟であると共に若いと論語を踏まえて強がり興じているものと解した。天和ニ(1682)年、貞享元

  • 77 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 加藤洲の大百姓の夜長かな 虚子  この句の核は、加藤洲という土地の風土であろう。加藤洲は千葉県の香田市あたりをいうようである。百姓といえばどこであれ朝早く田畠に出て夕方までを勤勉に働くイメージがある。この句の百姓は夜遅くにも働く、と

  • 114 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 汗の人ギューッと眼つぶりけり 京極紀陽  汗をかいた時眼に汗が入らないように、ギューッと目をつぶることってある。そうすることで曇りがちな視界もきれいになりそうな気もする。しかしなんだ、それがどうしたというんだ、正岡子規の俳句分類に丁

  • 44. 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog 三日月や朝皃の夕べつぼむらん 芭蕉 三日月と朝顔に対句、対比表現と言えようか。つまり、やがて満ちてゆく三日月とやがて開花する、夕べのうちに蕾となってゆく朝顔を対比させ、時の移ろいをしみじみと詠嘆しているのだ。つまり三日月を朝顔とを比

  • 76 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 一筋の煙草のけむり夜学かな 虚子  昼働いて夜学校で学ぶ、いわゆる夜学制度は昼間主コース・夜間主コースからなる「昼夜開講制」に移行しているようだ。ともあれ堂々と一服するくたびれた学生の風情が懐かしい。「夜学」は歳時記では秋の季語とされてい

  • 113 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 汗臭き鈍の男の群に伍す 竹下しづの  汗臭い鈍の男、作者が内心侮蔑する男のいかに多いことか。そんな男達と仲間として仕事をする、いい加減にしてよ。今日も鬱々と仕事をする、時代が違うというが現代でもそんな気持ちで働いてる女性は多いのでは

  • 43 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog 松なれや霧ゑいさらゑいと引ほどに 芭蕉  この句の前書きにある君崎は横浜市金沢区にあった。故事にちなむ絵師巨勢金村が絶景に筆を捨てたという、筆捨の松との故事にちなむとある。さても素晴らしい松だえいさらえいと引くように霧が引いていく

  • 75 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog 大小の木の實を人にたとへたり 虚子  この句は木の實だが、山や花など人に例えることって結構ある。この何に例えるかだけでも数句できるんじゃないか。でも、この句で僕が言いたいのは、下五のたり。僕はけりがいいと思うんだ。「たり」は(完了存

  • 112 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog 日光月光すずしさの杖いつぽん 黒田杏子  四国で巡礼をしていた時杖に弘法大師が現れたと言う話をする人があった。私はそう言う話は信じて聞く方である。この句の杖がどのように用意されたものかわからぬが、日光月光と言う天象にある清らかさは心

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