Ryo Daimonji Blog 女人咳きわれ咳つれてゆかりなし 下村槐太 講演会やコンサート会場で開演前に人につられるように咳が続くことがある。状況はわからないがこの句、女人の咳につられて咳をした自分を詠んでいる。しかもその女人とは縁もゆかりもないのだ。声を交わ
Ryo Daimonji Blog 大津絵の筆のはじめは何仏 芭蕉 この句は、元禄三年(1690年)大津で乙州宅にて。『俳諧勧進帳』路通編(元禄4年・1691年刊)所載。大津絵をググッてみるが仏様の絵より鬼の楽しい絵が多かった。中に鬼の絵がティーシャツにプリントされたものがあった
Ryo Daimonji Blog 闇汁の杓子を逃げしものや何 虚子 闇汁は何かで聞いたことがある、電気を消して鍋のものをわからなくして一度箸にかけた物は口に入れなければならない。ふんどしやカエルなどオエーとなるようなものを持ち寄り食べる遊びとか。もちろん肉野菜と
Ryo Daimonji Blog せきをしてもひとり 尾崎放哉 京都府須知高校で口語自由律俳句サークル「みずぐるま」に入いっていたことがある。有季定型句も自由律俳句もよく知らぬまま俳句に親しんでいった。尾崎放哉はシンガー尾崎豊の少年性と通じるものを感じる。みずぐる
Ryo Daimonji Blog 比良みかみ雪指しわたせ鷺の橋 芭蕉 この句は、元禄三年(1690年)大津で乙州宅にて。初出は『翁草』里圃編(元禄8年・1695年刊)芭蕉一周忌追善集。 上五の比良みかみは比良山と三上山のことで、山を二つ続けることは珍しいということだ。鷺の橋は
Ryo Daimonji Blog我を迎ふ舊山河雪を装へり 虚子 後書きに大正三年一月松山に帰省とある。故郷の山をありがたいと言ったのは石川啄木であるが虚子はこの句で故郷の山河が自分を雪で装って迎えてくれるとあたかも丁重に人に対するように詠んでいる。しかもただの山
Ryo Daimonji Blogしづかなるいちにちなりし障子かな 長谷川素逝 最近では障子はサッシに代わり一般ではあまり使われなくなっているのかもしれない。我が家ではそれなりに使っているがこの句のような落ち着きがあるかは疑問だ。つまりこれといった困りごともないが
Ryo Daimonji Blog薦を着て誰人います花の春 芭蕉 花たけなわの春の日に薦を着て、しょぼくれて座している人は誰でしょうか。私です。と解してみた。はたして、花の昼は「華やかな新春」新年のことであった。「薦をかぶってどなたがいらっしゃるのでしょうか」と解説が
Ryo Daimonji Blogその日その日死ぬる此身と蒲團かな 虚子 大正2年虚子39歳の時の作品とある。「ホトトギス」200号となり虚子盛んなりし頃である。この頃に病を負っていたかは、勉強不足でよくわからないが、朝日文庫の略年表で見る限りそんな気配はない。人間は誰
Ryo Daimonji Blog 金屏風何んとすばやくたたむこと 飯島晴子 会場撤収の作業の瞬間を捉えられた。イベントというのは会場を仕舞うまでが勝負。設営と異なり係は一点に集中し、動く「はやく」。あの優雅に会場を気品で演出した金屏風が、たたまれる瞬間にこの句でも
Ryo Daimonji Blog76 少将のあまの咄や滋賀の雪 芭蕉 大津に弟子の智月を訪ねてこの一句。この「少将のあま」とは鎌倉初期の女性歌人、藻壁門院少将のことであるらしい。「雪の降る滋賀で藻壁門院少将の咄など智月さんとしたことだよ。」ほどの句意のようだ。 下五の
Ryo Daimonji Blog 死神を蹶る力無き蒲團かな 虚子 冬場防寒のため蒲團や毛布を重ねることはよくするところだ、それが重く寝苦しくなることも然りである。作者、それ以上に懊悩することもあり眠られぬ床となったようだ。えいくそ!布団を蹴り飛ばして起きてみた。頼
Ryo Daimonji Blog 重き書は手近に置いて冬籠 佐藤紅緑 「重き書」重量で言うなら僕の書では大のつく歳時記、それに美術の歴史書も重い。内容の重さで言うのなら生きてきた時期による。まさかこの句、いずれにしても持ち運びの労の故に手近に置いてゆっくり籠ろうと
Ryo Daimonji Blog 長嘯の墓もめぐるかはち敲 芭蕉 句の意味だけをつなぐと、空也念仏衆よ歌人、木下長嘯子の墓にも巡るのですか。と言うことになるのだろうか。 ネットによると、空也僧が空也上人の命日の 旧暦11月13日から大晦日までの48日間、鉦を鳴らしたり、竹
Ryo Daimonji Blog 初雪やいつ大仏の柱立 芭蕉. 大仏が建立されるということで世間はとても喧しいのだが、住宅で言うところの棟上に当たるのだろうか、大仏の柱立てはいつになるのか、もう初雪も降ったと言うのに気が気ではない。と解釈してみたのだが。大仏殿は
Ryo Daimonji Blog 牡蠣啜るするりと舌を嘗めにくる 坊城俊樹 ずばり生牡蠣を食べたときの食感が詠まれた。「海のミルク」とも言われるほどに滑らかな食感をするりと舌を嘗めにくるとは、なんともセクシーな表現ではないか。私は、昔の養殖法を聞いてから牡蠣が苦手
Ryo Daimonji Blog 霜降れば霜を楯とす法の城 虚子 法の城、私は仏法で固められた気高い寺院と解した。その寺に霜が降り、かかっている様を霜が楯のように守っているのだと詠まれたものと解する。自然の霜が守ると言えば、なんとも堅牢な美しさではないか。
Ryo Daimonji Blog 初時雨猿も小蓑を欲しげなり 芭蕉 猿の一風景が写されている。猿という人に似た動物はいつもキョロキョロと辺りを伺い物欲しげにしているものである。季語初時雨が初冬の寒々とした季節を捉えており、なおさらこの猿の表情をありありと伝えるの
Ryo Daimonji Blog 魴鮄に紺青の夢ありにけり 大嶽青児 魴鮄という魚いわゆる流線型の美しい魚とは言えない。深海魚とは言わないにせよ相当深いところにいて胸鰭が二つあって捕食のために歩く魚と評されている。この魚に夢があると言われれば何やら応援したくなる、
Ryo Daimonji Blog 三世の佛皆座にあれば寒からず 虚子 三世の佛とは、前世、現世、来世とおわすべき佛、すなわち仏教で言えば釈迦牟尼仏とでも言えば良いのだろうか。その時代に尊師が皆それぞれの座にあれば、つまり衆常の護持する寺にあれば、世が寒にあろう
Ryo Daimonji Blog 丈六にかげろふ高し石の上 芭蕉 「丈六」とは仏身の一丈六尺の大きさを言ったらしいが、その仏像が結跏趺坐されているところから、「あぐら」のことを「じょろく」その座り方を「じょろくをかく」と言ったりするようだ。してみるとこの句は
Ryo Daimonji Blog 鰰に映りてゐたる炎かな 石田勝彦 居酒屋などで酒のあてに鰰を頼むと目の前で焼いてくれたりする。それを眺めながらまずはちびり、日本酒をひやでコップ飲みする。炎の勢いが過ぎ、おいおい燃えているではないか、百も承知の兄さんが頃合いを
Ryo Daimonji Blog 垣間見る好色者に草芳しき 虚子 垣間見る、物の隙間からこっそりと覗き見ることなのだそうだが、好色者の草を見るとは陰毛を見ると言うことで、しかもそれが香ばしく結構である。と言うことなのか。とまれ辞書に従い直訳してみたが、ググってもヒッ
Ryo Daimonji Blog 春立てまだ九日の野山哉 芭蕉 この句の九日が正月一月の九日であることに大方の異論はないようだ。それにしても正月の日の経つ感覚は不思議だ。今日も実際三日なのだが今年は日が経つのが遅く感じられて仕方がない。それが五日を過ぎると急
Ryo Daimonji Blog 冬の波冬の波止場に来て返す 加藤郁乎 「冬の」のリフレイン、冬の波が冬の波止場に来るのは当たり前ではないのか。波止場と一口にいってもその用途によって幅が広い。まずは漁港、客船ターミナル、それにコンテナ埠頭など。この句は活気あふれ
Ryo Daimonji Blog 座を挙げて戀ほのめくや歌かるた 虚子 晴れ着に身を包んだ男女が知り合いのお宅の奥座敷に会することとなった。気分は既に新年会、お節の昼食会もひと段落、お茶の後みんなでかるたをすることとなった。年末の句会あたりで二人の間を飛び交って
)Ryo Daimonji Blog春立てまだ九日の野山哉 芭蕉 この句の九日が正月一月の九日であることに大方の異論はないようだ。それにしても正月の日の経つ感覚は不思議だ。今日も実際三日なのだが今年は日が経つのが遅く感じられて仕方がない。それが五日を過ぎると急に早く過ぎ
Ryo Daimonji Blog 小鳥死に枯野よく透く籠のこる 飴山 實 鳥であれ犬であれ飼っていたペットが死に、その籠や小屋が残っているのを見るのはとても辛いことだ。その寂しさ、空虚さを「枯野よく透く」と選ばれた言葉に、暗くもなく重くもない小鳥の死の認識がある
Ryo Daimonji Blog耳とほき浮世の事や冬籠 虚子 歳をとって耳の遠くなった自分にとって世俗の損得や人のことなんぞはどうでもいいことだ。この調子で冬籠と決め込もう。耳が遠くなると言う高齢の特徴を活かして冬籠と決め込む余裕のことを俳句にされた。季語がややつき
Daimonji Blog 歩行ならば杖つき坂を落馬哉 芭蕉 杖をつかわないと行けないほどの坂である。世に杖つき坂とも言われている。そこを馬で行こうものなら落馬するのは必定、それほどに厳しい坂である。歩行で行って落馬すると言うのはおかしいが、自分の落馬にまつわる思
Ryo Daimonji Blog 冬ざれやものを言ひしは籠の鳥 高橋淡路女 あたり一面が冬の寒さの景色になった。そんな中、籠の鳥がしきりに同じ言葉を繰り返す。おうむか九官鳥かそういった鳥だ。籠の鳥との下五であるが、通常籠の鳥は不自由の象徴として用いられる。身辺不自
Ryo Daimonji Blog 柴漬に見るもかなしき小魚かな 虚子 俳句の勉強が一生もんだと言うことは誰よりも知っているつもりだった。「柴漬」僕の持っている「角川俳句大歳時記」にも「講談社新日本大歳時記」にもな・い。その後ネットで「ふしづけ」と読むのであり、各々
Daimonji Blog いざさらば雪見にころぶ所迄 芭蕉 なんとも楽しい俳句である。親しい友と興じた後で、名残惜しいがさあお別れだ、雪見を兼ねて見送るとしましょう。ただし雪に足を取られてころぶところまでとしましょうね。いざ。
Ryo Daimonji Blog この枯れに胸の火放ちなば燃えむ 稲垣きくの 草や木が枯れ果てたこの冬の野や山に私の胸の内に燃える火を放てば燃えるに違いない。「業火」と言う言葉が浮かんだ。作者は何にこれほどの火を燃やしているのか。恋焦がれる火ならば浅ましくはある
Ryo Daimonji Blog 蒲団かたぐ人も乗せたり渡舟 虚子 日本中の大きな川には渡し舟があって多くは舟で、あるものは人が担いだりして渡したものであろう。この句は渡し舟を詠んでいる。しかもこの舟は蒲団を肩に担ぐひとを乗せたらしい。今で言う引っ越しで家財一式を
Ryo Daimonji Blog 磨きなほす鏡も清し雪の花 芭蕉 鏡に己が姿を写ししばし見入るということは、単に着衣をチェックするということにとどまらず誰しもするところであろう。時に鏡の曇りや汚れといったことには特に気になるところである。朝から始めた鏡磨きで
Ryo Daimonji Blog 冬木の枝しだいに細し終に無し 正木浩一 先日この稿で自然、動物、植物の内に上がってくるが名句の句材として「木」は難しいとやったところだ。この句も誰しもが見る冬木の枝を丁寧に詠まれた。「しだいに」「終に」と副詞と「細し」「無し」の
Ryo Daimonji Blog 大根の花紫野大徳寺 虚子 京都市北区紫野の大徳寺。懐かしい、大学浪人時代に友人がこの辺りに下宿していて時折ほっつき歩いた。端正な壁に沿って路地があり寺にたどり着いた記憶がある。この句、上五を庶民的な大根に委ね突如中七で花紫野と
Ryo Daimonji Blog 鷹一つ見付てうれしいらご崎 芭蕉 いらご崎は鷹を観察する趣味の方々も集まるところがあるほどに 鷹にまつわる名所のようだ。芭蕉が特に喜んだポイントは敬愛する西行の「巣鷹渡る伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな」。と言う歌と杜国との
Ryo Daimonji Blog 大空の風を裂きゐる冬木あり 篠原鳳作 名句の句材として「木」は難しい。自然、動物、植物の内に上がってくるが、木に意思があるわけのものではない、従って風を切り裂いて存在しているわけではなく、この句はあくまで作者の受け止めである。この
Ryo Daimonji Blog 春雨の衣桁に重し戀衣 虚子 春雨の日に昨日のことを思い出している。ガラーンとした和室に昨日の着物が掛けられていてずっしりと重い。何と言うこともないのだが、今ひとつ気が晴れないのだ、気が晴れぬと言うより気が虚ろなのである。あれか
Ryo Daimonji Blog 星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉 星のきれいな星崎にあって、星を見ようとしないでその深い闇をこそ見てください。そうすればきっと美しい星が見えてきますよ、と千鳥が啼いて教えています。つまり、星は闇があればこそ美しく見えるもので、本
Ryo Daimonji Blog 一九三六と 覚えしこの日ニ・二六 奈良文夫 この句の名句の所以は、歴史の勉強で誰しもやった語呂合わせ、例えば今流行りの鎌倉。良い国作ろう鎌倉幕府、とかあれあれ。覚えると言う勉強の基本の普遍性、懐かしさ? それとも語呂合わせのヒドク
Ryo Daimonji Blog 君火をたけよきもの見せむ雪まるげ 芭蕉 あたりは寒い雪の日で、弟子の誰かと心やすい話となった。そこで翁が君は火を焚いてください。そうすれば私は、良いものを見せてあげましょう、雪だるまです。と言う。などと文字面をなぞってみるが
Ryo Daimonji Blog 次の田に畦の影ある冬田かな 倉田絋文 田んぼには一枚一枚が広々としたものもあれば、裾から上まで段をなす棚田などさまざまな形態がある。この句はどちらかといえば後の方で隣り合った田の景色を詠んだもののようである。見る向きによってで
Ryo Daimonji Blog 此梅に牛も初音と鳴きつべし 芭蕉 長い冬が去ってこの梅も咲き始めた。この時とばかりに、牛も鶯の初音のように鳴いてよいと、当然、適当の意を強調して是認する(私の文法書の通り)。鈍重な牛の鳴き声を可愛い鶯の初音に見立てたところにエス
Ryo Daimonji Blog われは粗製濫造世代ふゆひばり 高野ムツオ 産めよ増やせよ、と言われた時代があったことは知っている。確か戦争中ではなかったか。その煽りを受け戦後ベビーブームとなったのではなかったか。作者の世代のことはよく知らないのだが、おそらくその
Ryo Daimonji Blog 盃の下ゆく菊や朽木盆 芭蕉 難しい、まず「盆の下ゆく菊」である。盃に酒を飲む部屋の窓下に小さな流れがあって、そこに菊が流れていった。盃は古びた盆の上にあって、なんともしみじみすることだなあ。と、一応の解釈にしてみた。このまま
2012年(平成24年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 猪鍋食ふ味噌は濃くせよ熱くせよ
Ryo Daimonji Blog しぐるるや駅に西口東口 安住 敦 出口を東西南北で示すところは多い。多くは南北の場合が多いがこの句、西口東口を示す。大きな駅なのだろう。この駅、地下鉄のそれではないのか。すっかり迷ってしまったではないか。そうなんだ、こういう句は何
Ryo Daimonji Blog 春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉 春ですねぇ。名もない山の薄霞さえのんびりと穏やかで心地よいです。ほどの意味だろうか、いつ、どこで、誰と、どのように詠まれたのかわからないが、のどかな春の景色や温度、気分までも上五「春なれや」で伝
2012年(平成24年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 猪狩の間髪 入れぬ二発めぞ
Ryo Daimonji Blog 眉の根に泥乾きゐるラガーかな 三村純也 眉毛ではなく「眉根」である。一歩さらにラガーに近づく。泥乾きたるでなく「乾きゐる」である、まるで生き物を発見したかのように泥の存在を突き示している。つまるところ、ラグビーという運動の激しさと
Ryo Daimonji Blog 海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉 山里育ちの私は鴨の声を日常的に聞くことはほぼない。しかし今はネットがある、早速聴いてみる。まあ鴨の声って色彩で表すにはダミ声にすぎる、白い、というならもっと透明感のある声であってほしい。だが、強
2012年(平成24年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 霧襖トラック出たり十一墩
Ryo Daimonji Blog 冬ぬくしバターは紙に包まれて 中村安伸 暖冬とはいえセーターコートとついつい着込んでしまう。冷蔵庫の冷え切ったバターは紙に包まれている。出がけ前の朝食の一瞬、バターに目が入った。 食べ物俳句は写生句の基本だと思う。リアルに美味そう
Ryo Daimonji Blog 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 なるほど、「狂句」を外せば有季定型句になる。が、僕にとってこの句の難は「竹斎」であった、意味がわからなかったのである。竹斎は医者で、よくある店のコピーの「日本一まずい店」とかある、あれであるつまり世界一
Ryo Daimonji Blog 冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬遷子 うららかな冬の日に芥子粒のような塵となって、私はこの世を去ろうとしている、と辞世句を残したと解した。66歳の他界であった。武士を思わす潔い覚悟の言葉である。
2011年(平成22年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 爪に折る千羽鶴なり春星忌
Ryo Daimonji Blog 明けぼのや白魚白きこと一寸 芭蕉 夜明けの空が白み始めた頃、芭蕉は宿泊の本統寺を抜け出し 浜に出ていることになる。その時刻に見た白魚が一寸の小ささで白くあった、と白魚の形状を読んでいる。通常の白魚は三寸ほどあるようなのでこの句の白魚
Ryo Daimonji Blog 日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ 寺田京子 太陽に届かんとするほどに高く力強く飛ぶ鷹である。その鷹が一塊の骨となるまでかぎりを尽くして飛ぶ、と詠んだ。実際に鷹がそこまで、自死するほどに飛ぶことはあるまいが、作者は鷹の勇壮さを俳句表現
Ryo Daimonji Blog D 51の模型冷たし無人駅
Ryo Daimonji Blog あそび来ぬ鰒釣かねて七里迄 芭蕉 まず、この句のふぐ(魚編に豕)の漢字は私の辞書では見当たらなかった。当て字で失礼します。句意は比較的平易である。「遊びで鰒釣に出かけたが釣れず、ついつい七里までも来てしまいました」ほどに解した。七里と
Ryo Daimonji Blog 天空は生者に深し青鷹 宇多喜代子 この天空は単に高い空のことを言っているのではなく、冥界につらなる空を越える空域を言っているのだと思う。従って、我々生とし生ける物にとって高いのではなく深いのである。問題は「青鷹(もろがえり)」である。
2010年(平成22年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog わびすけや 舟屋に船の鎮もれる
Ryo Daimonji Blog 宮守よわが名をちらせ木葉川 芭蕉 宮守さんよこの水もなく枯れ葉に敷き詰められた川にこそ私の名前を散らせてください。とやや自虐的に詠嘆してみせた。しかし、この木葉川、この上なく侘しく美しくこの川に自分を重ね詠む芭蕉会心のナルシズムと
Ryo Daimonji Blog 飛鳥仏けふも面長大根干す 斉藤夏風 この句を読んで私が真っ先に思い浮かべたのは中宮寺の半跏思惟像である。その他にも法隆寺金堂の釈迦三尊像などもずっしりと重みのある三体の仏像で、面長である。中宮寺の仏さんは膝を半跏けに崩して人間臭さ
2021年(平成23年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 月極駐車場銀杏落葉や土瀝青
Ryo Daimonji Blog 石山の石にたばしるあられかな 芭蕉 この景どこかで見たことがある。ところでこの上五の石山は固有名詞なのか、一般的に岩の多い石山と解していいのか、後者と解して進める。あとは「たばしる」だが聞きなれた感じはするのだが、繰り返すとそう
Ryo Daimonji Blog 酒なくば無口な波郷忌も近し 伊藤白潮 昭和31年43歳、療養中の波郷である(アサヒグラフ1985.4)。酒を飲むと妙に気が晴れ陽気な気分になりついつい饒舌になったりするものである。「酒なくば」か、誰でもそうだがしらふの波郷の素顔を瞬間捉えた。
2007年(平成19年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog寄せ鍋や蓋に押さへる蟹鋏
Ryo Daimonji Blog 冬の日や馬上に来る影法師 芭蕉この句を読むのは2度目だ。前回もこの影法師は芭蕉自身と解している。かっこいい影法師でなくしょぼくれた冬の日を負い来る己れを詠嘆しているものと読んだ。今回もその解釈に変わるところはない。この影法師を田に映る
Ryo Daimonji Blog pことごとく未踏なりけり冬の星 高柳克弘 この句「未踏」という言葉に命が宿る。直接的な意味としては「残らず全て、踏み込んだことがない」ほどの意味と言えようが、それだけでは足りない。大きく志を持って踏み込もうとする彼の地であるが、未だこ
2007年(平成19年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 朝霧の千の太陽輝ける
Ryo Daimonji Blog びいと啼く尻声悲し夜ルの鹿 芭蕉 一読「ぴい」ではないのかと思った。鹿鳴く季節の今、確かに鹿は遠く悲しくぴいーと鳴く、昼夜問はない。季語にも「鹿笛」とある。ならばこそ「ビイ」なんだ、芭蕉の耳というわけだ。鹿が鳴くのは求愛のためだと
Ryo Daimonji Blog 『名句の所以』(著:小澤實p202 毎日新聞出版)より 放屁虫貯へもなく放ちけり 相島虎吼 放屁虫、僕たちはカメムシ、ヘコキムシとか言ったりする。少し暖かくなるとカーテンのうしろなどに出没する。とるときべっぴんさんとか嫁さんとか呪文のよ
2007年(平成19年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
ブルースにジャズにボサノヴァ赤のまま
Ryo Daimonji Blog 菊鶏頭きり尽し けり御命講 芭蕉「御命講」とは、日蓮の忌日を弔う法事であった。東京の池上本文寺には数十万の信者が詣でるそうである。この句のテーマとして芭蕉が「御命講」なる言葉を始めて季語として使ったと言はれることがある。芭蕉自身は尚白
Ryo Daimonji Blog 『名句の所以』(著:小澤實p201 毎日新聞出版)蟋蟀が深き地中を覗き込む 山口誓子 若い頃より読み慣れた大好きな誓子のこの句、客観視できないほどだ。まずは、分類は「虫」で秋。技術的には「擬人化」。いかにも蟋蟀が意思を持ち地中を覗き込んでい
2007年(平成19年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog 川に晒す腑抜きの鹿や眼の澄める
Ryo Daimonji Blog此海に草鞋すてん笠しぐれ 芭蕉 旅人芭蕉である。何処であろうと履物を捨ててはいかんだろう。ただ、誰でもそういった大事なものをかなぐり捨てたくなることもある。ましてやそうあることが許されそうに美しい海や、この上なく嬉しい飲み屋で飲みす
Ryo Daimonji Blog 『名句の所以』(著:小澤實p200 毎日新聞出版)より 水音と虫の音と我が心音と 西村和子 水音、虫の音と自然の音に包まれている自分を、我が心音とこれもまた音で括り最後に「と」で形は止まるが音の連鎖は続く。この循環の中で己はあって、永遠
2008年(平成20年) 冬 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog小石打つ枯木バットや天気よき
Ryo Daimonji Blog口切に境の庭ぞなつかしき 芭蕉 歳時記によるとその年の新茶を茶壷に詰め、秋を越して(立冬の頃)炉開きとともにその封印を解くことを「口切」といい、茶道における正月を意味するとある。「境」は堺のことか。堺といえば連想するのは「利休」である。
Ryo Daimonji Blog 『名句の所以』(著:小澤實p199 毎日新聞出版)より 金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎 金剛とは、この上なく固く強いもの、例えば仏像であったりその素材である鉄や石など、場合によっては精神的なものの強いことのたとえなどを連想する。作者は本
2008年(平成20年) 秋 大文字良 第一句集『乾杯』より
Ryo Daimonji Blog紅葉とともに滑りくる児や滑り台
Ryo Daimonji Blog ふり売の雁ン哀なり夷講 芭蕉 この句、「ふり売」の意味がわからないのでいくら考えてもピンとこない。見ると、「ふり売」とは、売り物を手に提げたり、担ったりして、声を挙げながら売り歩くこととあった。それならばわかる、なん羽ほど持ち歩いてい
Ryo Daimonji Blog 『名句の所以』(著:小澤實p198 毎日新聞出版)より ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき 安井浩司 鍬や耕運機など農機具をしまっておく小屋かそれともちょっと立ち寄るためのものか、ともかく簡易な小屋であろう。田んぼというより畠の隅に立って
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