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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き http://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

1件〜100件

  • 二 新将軍京落ちの事 ~1~

     公家の大将には二条殿、四条中納言隆俊卿、武将には石塔刑部卿頼房、細川相模守清氏、弟の左馬助、和田、楠、湯浅、山本、恩地、牲川、その数千余騎で、十二月三日、住吉、天王寺に勢揃いをすると、細川兵部少輔氏春が淡路の軍勢を率いて兵船八十余艘で堺の浜に着く。赤松

  • 一 清氏、正儀京へ寄する事

       康安元年(正平十六年 一三六一)十二月から、翌二年末頃まで。 相模守は石塔刑部卿に帝への上奏を依頼して、「私は至らぬ者ですが、お味方に参上しましたことによって、四国、東国、山陰、東山道で、多くの者が正義の兵を挙げるようです。京都は、もともと頼りに

  • 七 頓宮心変はりの事  付けたり畠山道誓が事 ~2~

     さて仁木中務少輔は、京から逃れて伊勢へ逃げて相模守に従うと噂され、兵部少輔氏春は京から淡路へ逃げて国中の軍勢を従えて相模守に力を合わせて兵船を調え、堺の浜に着けるだろうと連絡があった。摂津国の源氏松山は、香下の城を作って南朝に示し合わせ、播磨路を塞いで

  • 七 頓宮心変はりの事  付けたり畠山道誓が事 ~1~

     若狭国は相模守が支配していた国であって、頓宮四郎左衛門が以前から在国していたので、小浜に立派な城を構えて、兵糧を数万石蓄えていた。相模守はここに落ち着いて、城の構えや軍勢を見ると、攻め合って戦うにしても、また城に籠もって戦うにしても一年二年で簡単に攻め

  • 六 清氏反逆の事  付けたり相模守子息元服の事 ~4~

     相模守は今にも討手を向けられるかと兜の緒を締め、二日間待たれたが、向かってくる敵はなかったので、洛中で兵を集めて戦いをしようと用意したのも、一方では狼藉だ、陣を退いて都を出てから、改めて弁明申そうと、二十三日の早朝に若狭を目指して都を出て行った。仁木中

  • 六 清氏反逆の事  付けたり相模守子息元服の事 ~3~

     そうしているところに、将軍が急に物の怪が憑かれて、効験のある高僧が祈祷申し上げたが静まらず、頭の痛みが日を追ってひどくなると噂されたので、道誉が急いで参上して、「先日伊勢入道が差し出しました清氏の願い書はご覧になられましたか」とお訊ねすると、「まだ見

  • 六 清氏反逆の事  付けたり相模守子息元服の事 ~2~

     この相模守は、気性はたいへん傲慢で、振る舞いは尋常でなかったけれども、ひたすら神仏を敬う心が強かったので、神に従って子孫の幸福を祈ろうと思われたのか、またはわが子の烏帽子親に頼む人がないと思われたのか、九歳と七歳になった二人の子供を石清水八幡で元服させ

  • 六 清氏反逆の事  付けたり相模守子息元服の事 ~1~

     これらのことこそやはり大地震が予兆したことで、諸国の乱れが始まるぞと驚きながら聞いているところに、京都に世にも珍しいことがあって、将軍の執事細川相模守清氏とその弟の左馬助、養子の仁木中務少輔が三人ともに都を抜け出して幕府の敵となったのだった。 事の起こ

  • 五 秀詮兄弟討死の事

     また同じ年の九月二十八日、摂津国に思いがけないことが起こって、京の軍勢が多く討たれた。事の起こりを尋ねると、当国の守護職を、故赤松信濃守範資が無二の忠義の戦いをしたことで将軍から頂いたのを、範資が死んだ後嫡男の大夫判官光範が相続してこれを頂いた。ところ

  • 四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~3~

     また筑紫では、さる七月の初めに征西将軍の宮と新田の一隊二千余騎、菊池肥後守武光の三千余騎が博多へ討って出て香椎に陣を敷いたと伝えられると、軍勢が増えない内に追い落とせというので、大友刑部大輔が七千余騎、太宰少弐が五千余騎、宗像大宮司が八百余騎、紀伊常陸

  • 四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~2~

     赤松は右衛門佐が小勢だと聞いて、まずこの敵を討ち破ろうと出発したところに、阿保肥前入道信禅が急に寝返って但馬国へ越えて長九郎左衛門と助け合って播磨へ打って入ろうと考えたので、赤松は「それなら東の方に城を構えて道々に警固の兵を置け」と言って法華山に城を構

  • 四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~1~

     このような頃に山名伊豆守時氏と嫡男右衛門佐師義、次男中務大輔が、出雲、伯耆、因幡三ヶ国の軍勢三千余騎を率いて美作へ向かって進む。 当国の守護赤松筑前入道世貞が播州にいてまだ戦わないうちに、広戸掃部助の名木杣の二つの城、飯田の一族が籠もっていた笹向の城、

  • 三 天王寺造営の事 付けたり京都御所祈祷の事

     南朝では、この大地震に諸国七道の大伽藍が壊れたということを聞くと、天王寺の金堂ほど壊れた堂舎はなく、紀州の山々ほど崩れた土地もなかったので、これは南朝と関わりのない前兆ではないと配慮なさって、さまざまの御祈りを始められた。すぐに般若寺の円海上人が勅命を

  • 二 大地震ならびに夏雪の事

     その年の六月十八日の十時頃から十月になるまで、大地が激しく動いて、日夜止むことがなかった。山は崩れて谷を埋め、海は傾いて陸地になったので、神社仏閣は倒れ、牛馬や人が死傷すること幾千万とも知れない。すべての山川、入江や林野、村落でこの災難に遭わないところ

  • 一 仁木京兆南方へ参る事 付けたり大神宮御託宣の事 ~2~

     これをお聞きして、武者所にいた者たちはささやき合って、「近年源氏の一族の中でお味方になって来る人々を見るに、誰もが嘘を言って帝を騙さない者がいない。まず錦小路慧源禅門は古くから譜代の師直、師泰らから危害を避けるためにお味方になってやって来たけれども、こ

  • 一 仁木京兆南方へ参る事 付けたり大神宮御託宣の事 ~1~

       延文六年(正平十六年 一三六一)三月末から十一月頃まで。 都では、去年の天災、干魃、飢饉、疫癘が都や周辺で起こって、死骸が道ばたに溢れた事を、ただ事ではない、ぜひ改元すべきだということで、延文六年三月末に康安に改められた。その夜、四条富小路から火

  • 五 尾張小川、東池田が事 ~2~

     これだけでなく、石塔刑部卿頼房は仁木三郎を大将として伊賀、伊勢の兵を起こし、二千余騎で近江国に越えて葛木山に陣を取る。佐々木大夫判官崇永と弟の山内判官は国中の軍勢を集めて飯盛岡に陣を張り数日経ったところに、九月二十八日の早朝に仁木三郎が兵を集めて、「当

  • 五 尾張小川、東池田が事 ~1~

     その頃、小川中務丞と土岐東池田とが手を結んで、仁木に味方して尾張の小川の庄に城を構えて立て籠もったのを、土岐宮内少輔が三千余騎で押し寄せて、城を七重八重に取り巻いて二十日余り攻めたところ、急いで拵えた城なので、兵糧がたちまちに尽きて、小川も東池田もとも

  • 四 北野通夜物語の事 付けたり青砥左衛門が事

     その頃、日野僧正頼意が密かに吉野の山中を出て、かねてから少々願い事があって、霊験があらたかであることを頼りにして北野神社に一晩参籠なさった時、秋も半ばを過ぎて杉の梢の風も物寂しくなり、夜明けの月が松の木から西に傾き、静かな庭の霜に映える光りがいつもより

  • 三 南方蜂起の事 付けたり畠山関東下向の事

     さて、京都で同士討ちの戦があって、天王寺の寄せ手が引き返すと伝えられると、大和、和泉、紀伊国の宮方は、好機到来と、山々峰々に篝火を焚き、津々浦々に船を集める。これを見て幕府から置かれた各城の兵達は寄り合う毎に、「前に日本中の軍勢が集まった時でさえ、結局

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~4~

     その後義長はいつもの所に参上して、「夜が明けましたならば、敵がきっと攻めて来ると思われますので、もはや御旗をお出しいただこうと参りました。軍勢たちにご対面も頂きたい。あまりに長くお休みですね。お風邪はどんな具合でしょうか」と申したので、女官達一人二人が

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~3~

     そして七月十六日に、天王寺の軍勢七千余騎がまず山崎に集まって、二手に分かれる。一方には、細川相模守を大将として三千余騎が、物集女、寺戸を通って西の七条口から寄せようとする。畠山入道、土岐、佐々木を大将にして五千余騎が、久我縄手を通って東寺口から攻め寄せ

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~2~

     ただ二人で話した事でさえも、天地は知るという。ましてやこれ程の大勢が集まって話し合う事であるから、どうして隠しおおせることができようか、このことは直ぐに京都へ伝わってしまった。義長は大いに怒って、「これは何と、私が討たれるべき罪は、いったい何だ。これは

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~1~

     こうしているところに、和田、楠らが金剛山と国見から出て、渡辺の橋を切って落とし、誉田の城を攻めようとしているということで、和泉、河内から京都へ早馬を出して、急いで軍勢を派遣されたいと告げてきたので、先頃の数ヶ月の大手柄が一気に無駄になってしまうと、宰相

  • 一 新将軍帰洛の事 付けたり仁木義長を討たんと擬する事

       延文五年(正平十五年 一三六〇)五月末からその年の暮れ頃まで。 南朝方の敵軍を何事もなく退治したといって、将軍義詮朝臣が帰洛なさったので、京中の人々が喜び合うことはこの上ない。主上も大変に喜ばれて、手早い大手柄は全く以て殊勝であると勅使を出して仰

  • 十 吉野の御廟神霊の事 付けたり諸国の軍勢京都に還る事

     南朝方の皇居は金剛山の奥、観心寺という深山なので、容易に敵が気付くことのできる場所ではないけれども、前線の守りとして頼りにしておられた龍泉、赤坂も攻め落とされ、また昨日、一昨日まで味方していた兵達が今日は多く敵となったと伝えられたので、山の住人や木樵を

  • 九 平石の城軍の事 付けたり和田夜討ちの事

     今川上総守と佐々木六角判官入道崇永、弟の山内判官は、「龍泉山の戦に加わらなかったことは、面白くない」と思われたので、わざと他の軍勢を交えないで、五百余騎で同じ日の夕方平石の城へ押し寄せた。一矢射交わすやいなや、崖が高かったので、前の人の楯を梯子にして踏

  • 八 龍泉寺軍の事

     龍泉の城では、和田と楠などが相談して、初めは大和、河内の兵千余人を入れて置いたが、寄せ手が少しもこれを攻めようとしなかったので、「このままではむだに軍勢を置いても意味がない。散らして平地での戦にしよう」というので、龍泉の兵を皆呼び下ろして何ほどもない野

  • 七 銀嵩軍の事 付けたり曹娥・精衛の事 ~2~

     昔、漢の国に一人の貧しい人がいた。朝の炊事の煙も途絶えて粗末な家を訪ねてくる人もなかったので、辛いこの世を堪えて暮らせるような気持ちもないままに過ごしていたが、ある時、曹娥という一人の娘を連れて他国へ逃げて行った。洪河という川を渡ろうとすると、ちょうど

  • 七 銀嵩軍の事 付けたり曹娥・精衛の事 ~1~

     この頃、吉野の将軍の宮と申し上げたのは、故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹でいらっしゃる。ご幼少の頃から文武の両道いずれにも達者にお見えだったので、この宮こそまことに全国の動乱をも鎮められて、旧主先帝のご無念をもお晴らし申されるご器量でいらっし

  • 六 二度紀伊国軍の事 付けたり住吉の楠折るる事 ~2~

     こうしているところに、また住吉の神主津守国久がひそかに、「今月十二日の正午ごろに当社の神殿がしばらく鳴動した。その後庭先の楠が風もないのに中程から折れて、神殿に倒れかかった。しかし枝がたくさんに支えて宙に横たわったので、社殿は無事だった」と内々の奏上を

  • 六 二度紀伊国軍の事 付けたり住吉の楠折るる事 ~1~

     紀伊国の軍に寄せ手が多く討たれて、今は和佐山の陣でも味方は保ちがたいと言ったので、津々山の軍勢も尼崎の大将も、がっかりして顔色を変えた。しかし、仁木左京大夫義長一人は、「それは面白い。思った通りだ。いっそ同じことなら津々山や天王寺、住吉の軍勢どもも追い

  • 五 紀州龍門山軍の事

     四条中納言隆俊が紀伊国の軍勢三千余騎を率いて紀伊国最初峰に陣を取っていらっしゃるということが伝えられたので、その年、四月三日、畠山入道道誓の弟、尾張守義深を大将として、白旗の一隊、平の一隊、諏訪祝部、千葉の一族、杉原の一門等々全部で三万余騎が最初峰へ向

  • 四 新将軍南方進発の事 付けたり軍勢狼藉の事 ~2~

     さて、寄せ手はその年二月十三日、後陣の兵三万余騎を住吉、天王寺へ入れ替えさせて、後ろを心配ないようにして、先陣の軍勢二十万余騎は金剛山の北西に当たる津々山に上って陣を取る。敵味方の間はわずかに五㎞あまりを隔てている。互いに時を図ってまだ戦いが始まらない

  • 四 新将軍南方進発の事 付けたり軍勢狼藉の事 ~1~

     その頃、足利新征夷大将軍義詮朝臣は、延文四年十二月二十三日に都を発って、南方の正面へお向かいになる。付き従う人々には、まず一族細川相模守清氏、弟の左近大夫将監、同じく兵部大輔、同じく掃部助、同じく兵部少輔、尾張左衛門佐、仁木右京大夫、弟の弾正少弼、同じ

  • 三 和田、楠軍評定の事 付けたり諸卿分散の事

     この頃吉野の新帝は河内の天野という所を皇居としておいでだったので、楠左馬頭正儀と和田和泉守正武の二人は、天野の皇居に参上して、「畠山入道道誓が関東八ヶ国の軍勢を率いて二十万騎、すでに京都に着いているそうです。山陽道は播磨まで、山陰道は丹波まで、東海、東

  • 二 畠山道誓上洛の事

     思いのほかに世の中が穏やかであるにつけても、二人の英雄がいれば必ず争うものであるので、鎌倉の左馬頭殿と宰相中将殿との御仲は、きっと不和が生じるだろうと人々は気に懸けていた。これを聞いて畠山大夫入道道誓が左馬頭殿に向かって、「故左大臣殿がお亡くなりになっ

  • 一 宰相中将殿に将軍の宣旨を賜ふ事

       延文三年(正平十三年 一三五八)十二月から   延文五年五月末頃まで。 鎌倉贈左大臣尊氏公がお亡くなりになった折りに、世の人が心配することは深みに臨んで薄氷を踏むようであって、天下は直ぐにも転覆してしまうと見えていたところに、この人こそまことに

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~5~

     こういうことで、江戸と竹沢の忠功は抜群であると、ただちに所領数カ所の恩賞をいただいた。「あっぱれ武士の面目だ」とこれを羨む人もあり、また「汚い男の振る舞いだ」と批判する人もある。 竹沢はなおも謀叛の協力者を徹底的に探し出せと御陣に留められて、江戸の二人

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~4~

     その後竹沢は自分の力では討てないだろうと思ったので、畠山殿の所へ使いを遣って、「兵衛佐殿の隠れておられる場所を詳しく知っていますが、小勢では討ち洩らしてしまうと思われます。急いで一族の江戸遠江守と下野守を来させて下さい。彼らとよく相談して討ち申しましょ

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~3~

     九月十三夜は夕暮れの空が晴れて月も名前どおりの姿を現したので、今夜、明月の会に事寄せて佐殿を我が館へお招きして酒宴の折りに討ち申し上げようと企て、二心無い一族、郎等二百余人を呼び集め、自分の館の脇に隠して置いた。日が暮れると竹沢は急いで佐殿の所に参って

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~2~

     さてもこのことをどうしようかと、畠山入道道誓は日夜考えていたが、ある夜ひそかに竹沢右京亮を呼び寄せて、「そなたは先年武蔵野の合戦の時、あの義興の手下でいて忠義だったのだから、義興もきっとその昔のよしみを忘れていないと思われる。だからこの人をあざむいて討

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~1~

     さて、尊氏卿が御逝去になった後、九州はこのように乱れたと言っても、東国はまだ静かであった。そこに故新田左中将義貞の息子の兵衛佐義興とその弟の武蔵少将義宗、故脇屋刑部卿義助の息子の義治の三人が、この三、四年間越後国に城郭を構え、国の半分を従えていたのを、

  • 九 菊池合戦の事 ~3~

     八月十六日の夜半に菊池はまず夜討ちに馴れた兵を三百人選りすぐって、山を越え水を渡って搦め手へ回す。本隊の兵七千余騎を三手に分けて、筑後川の岸に沿って川音に紛れて険しい山地を回って押し寄せた。正面の寄せ手がもう近づいただろうと思われる頃に、搦め手の兵三百

  • 九 菊池合戦の事 ~2~

     その頃、七月に征西将軍の宮を大将として、新田の一族と菊池の一門が太宰府へ攻め寄せると噂されたので、少弐は陣を構えて敵を待とうとして、大将太宰築後守頼尚、息子の築後新少弐忠資、甥の太宰築後守頼泰、朝井但馬守将監胤信、築後新左衛門頼信、窪能登太郎泰助、肥後

  • 九 菊池合戦の事 ~1~

     少弐と大友は菊池に九州を討ち従えられて、その支配の下に従うことを面白くなく思ったので、細川伊予守の下向を待って旗を挙げようと計画していたが、伊予守は崇徳院の御霊に罰せられて無駄死にしたと伝えられたので、勢いを失って動きを見せない。 こうしているところに

  • 八 崇徳院の事

     今年の春、筑紫の探題として将軍に派遣された一色左京大夫直氏と弟の修理大夫範光は、菊池肥前守武光に敗れて京都へ上られたところ、少弐、大友、島津、松浦、阿蘇、草野に至るまで皆宮方に味方して、筑紫九国の中には、ただ畠山治部大輔だけが日向の六笠城に籠もって将軍

  • 七 新待賢門院ならびに梶井宮御隠れの事

     同じ四月十八日、吉野の新待賢門院の女院がお亡くなりになった。一方の帝の国母でいらっしゃったので、帝を初め申し上げて全ての官吏が女院の御座所の月に涙を流し、後宮の露に嘆きの思いを寄せながら一体どういうことであろうかと涙を拭っていたところに、また同じ年五月

  • 六 将軍御逝去の事

     その年四月二十日、尊氏卿の背中に出来物ができてお加減が悪くおなりになったので、内科外科の医師が数多く集まり参上した。倉公や華陀のような医師が手を尽くし、さまざまな種類の薬を施し申したけれども、一向に効き目がない。陰陽寮の長官や効験のある高僧が集まって、

  • 五 公家、武家栄枯地を易ふる事

     公家の人はこのように生活に苦しんで溝や谷間に埋まり道路にさまようけれども、武家の者たちは、富貴がこれまでより百倍になって、身にはきらびやかな衣服を纏い、食事には贅を極めている。先代相模守が天下を治めた時、諸国の守護は大犯三箇条の検察処断の他は介入するこ

  • 四 飢人身を投ぐる事

     こうしてことの有様を見聞すると、天下はこの二十余年の争乱で、皇居、院の御所、皇族の亭宅、後宮を初めとして、公卿、殿上人、諸官吏、役人の家々が多く焼け失せて、今はわずかに十の内の二、三が残っていたのだったが、また今度の東寺の合戦の時、すっかり焼き払って、

  • 三 三上皇吉野より御出での事

     足利左兵衛佐直冬、尾張修理大夫高経、山名伊豆守時氏、桃井播磨守直常以下の官軍は、この度諸国から攻め上って、東寺、神内でたびたびの合戦に敗れたので、みなそれぞれの国に逃げ帰って、なおその宿願を果たそうとことを謀っている。これによって洛中は今静かな様子で、

  • 二 八幡御託宣の事

     ここで逃げてきて集まった軍勢を見ると、五万騎を超えていた。この上に伊賀、伊勢、和泉、紀伊国の軍勢たちが、なお馳せ参じるだろうと伝えられたので、しばらくこの軍勢を解かないで、もう一戦するべきではないかと諸大将の意見がまちまちだったところ、直冬朝臣は、「そ

  • 一 京戦の事 ~3~

     三月十三日、仁木、細川、土岐、佐々木、佐竹、武田、小笠原が皆で集まって七千余騎が七条西洞院へ押し寄せ、一手は但馬、丹後の敵と戦い、一手は尾張修理大夫高経と戦う。この陣の寄せ手はどうかすると攻め立てられる様子に見えたので、将軍から使者を立てられて、「那須

  • 一 京戦の事 ~2~

     二月十五日の朝は、東山の軍勢たちが上京に出て来て兵糧を取ると伝えられたので、蹴散らそうと、苦桃兵部大輔と尾張左衛門佐が五百余騎で東寺を出て、一条と二条の間を二手になって見回る。これを見て細川相模守清氏と佐々木黒田判官が七百余騎で東山から下る。尾張左衛門

  • 一 京戦の事 ~1~

       文和四年(正平 十 年 一三五五)二月から   延文四年(正平十四年 一三五九)十月頃まで 昨日神南の合戦で山名が敗れて本陣へ引き返したと伝えられると、将軍は比叡山を下って、三万余騎の軍勢を率いて東山に陣を取る。仁木左京大夫頼章は、丹後、丹波の軍勢

  • 八 神南合戦の事 ~5~

     山名右衛門佐の兵達は因幡を発った最初から、今度は必ず都で屍をさらそうと心に決めていたことなので、伊田、波多野、多賀谷、浅沼、藤山、土屋、福依、石原、久世、竹中、足立、川村、首藤、大庭、福塚、佐野、火作、歌川、沢、敷美以下、主だった侍八十四人と、その一族

  • 八 神南合戦の事 ~4~

     敵の近づくこと二百mほどになったので、赤松律師則祐は、陣幕をさっと打ち上げて、「天下の勝負はこの一戦で決まるだろう。いつのために命を惜しむことがあろうか。名将の御前でみごとに討ち死にして、後代へ名を残せ」と命じたところ、「承知した」と平塚次郎、内藤与次

  • 八 神南合戦の事 ~3~

     二つの陣が破られた後、兵は皆乱れて、総大将の軍勢と一緒になろうと崩れて引いて行ったので、伊田、波多野の者たちは、「逃がすなのがすな」と喚き叫んで追いかけた。石や岩は苔で滑りやすく、茨が道を塞いでいるので、退く者も逃げ切れず引き返す兵は討たれない者がいな

  • 八 神南合戦の事 ~2~

     険しい山は遠くは見えて麓は見えないものである。どの陣へ敵が攻めかかるのだろうと遠くの方をじっと見ていたところ、山名右衛門佐を先頭に、出雲、伯耆の軍勢二千余騎が西の尾根の先へただ一息で駆け上って、一気にどっと鬨の声を揚げる。場所が狭い二つの峰へ人馬が身を

  • 八 神南合戦の事 ~1~

     その頃、将軍は持明院の主上をお守り申し上げて近江国四十九院に逃げて留まり、宰相中将義詮朝臣は西国から上洛しようとする敵を防ぐために、播磨の鵤に以前から逗留しておられると伝えられたので、土岐、佐々木、仁木右京大夫義長は三千余騎で四十九院へ馳せ参じる。四国

  • 七 直冬上洛の事 付けたり鬼丸・鬼切の事 ~2~

     そもそも山名伊豆守は、若狭の所領のことについて宰相中将殿に恨みがあった。桃井播磨守は、故高倉禅門に従って望みが達せられなかった憤りがあるので、この二人が敵になられたことは、いくらか理由がある。 尾張修理大夫高経は忠義の戦いをしたことにおいて他の一門以上

  • 七 直冬上洛の事 付けたり鬼丸・鬼切の事 ~1~

     南朝では再度相談がなされて、足利右兵衛佐直冬を大将として京都を攻めよという綸旨を下されたので、山名伊豆守時氏と息子の右衛門佐師氏は五千余騎の軍勢を率いて、文和三年十二月十三日伯耆国をお発ちになる。山陰道の諸国はことごとく付き従って、兵は七千余騎及ぶと、

  • 六 直冬吉野殿と合体の事 付けたり天竺・震旦物語の事

     翌年の春、新田左兵衛佐義興と脇屋左衛門佐は一緒に相模の川村の城を逃れて、どこにいるとも分からなかったので東国は安心して、将軍尊氏卿は上洛なさったので、京都はまた大軍なったのだった。そこで山名をお攻めになるべきだということで、宰相義詮朝臣をまず播磨国へお

  • 五 山名伊豆守時氏京落ちの事

     その頃、山名伊豆守師氏は、都の敵を簡単に攻め落として心中の憤りが一気に晴れた気がして、喜びの表情になったのももっともなことである。軍勢が到着したらすぐに美濃へ出発して宰相中将殿を攻め申そうと話し合われたが、降参する敵も無く呼びかけに応じる兵も稀だった。

  • 四 主上・義詮没落の事 付けたり佐々木秀綱討死の事

     義詮朝臣は、以前から佐々木近江守秀綱を警固役に置いていたので、東坂本のことは安心だろう、ここで諸国の軍勢を集めようと計られたが、吉野から大慈院法印を大将とするために延暦寺へ呼び寄せたと伝えられたので、坂本を皇居にされることはよくないだろうということで、

  • 三 山名右衛門佐敵と為る事 付けたり武蔵将監自害の事 ~4~

     この時、故武蔵守師直の愛人が産んだという武蔵将監という者が片田舎に隠れていたのを、阿保肥前守忠実と荻野尾張守朝忠らが急に取り立てて大将にして、丹波、丹後、但馬三ヶ国の軍勢三千余騎を集めて宰相中将に加勢をしようと西山の善峰に陣を取っていたのだった。京都の

  • 三 山名右衛門佐敵と為る事 付けたり武蔵将監自害の事 ~3~

     宮方は最初の合戦に勝って気をよくして勇んで東の方を見ると、土岐の桔梗印の一隊が水色の旗を掲げて、大鍬形を夕日に輝かせながら魚鱗に連なって六、七百騎が備えている。小林がこれを見て人馬共に息も継がせずすぐに戦おうとしたのを、山名右衛門佐が扇を揚げて呼び止め

  • 三 山名右衛門佐敵と為る事 付けたり武蔵将監自害の事 ~2~

     かねて示し合わせていたので、南方から、総大将四条大納言隆俊、法性寺左兵衛督康長、和田、楠、原、蜂屋、赤松弾正少弼氏範、湯浅、貴志、藤波を初めとして、和泉、河内、大和、紀伊国の兵達三千余騎を選び出したので、南は淀、鳥羽、赤井、大渡、西は梅津、桂の里、谷堂

  • 三 山名右衛門佐敵と為る事 付けたり武蔵将監自害の事 ~1~

     山名右衛門佐師氏はこの度の八幡の合戦で戦功があって、褒賞は自分に勝る者はいないだろうと思われていたので、先年拝領してまだ実際には知行していなかった若狭国の税庁の今積を実際に賜るように、佐々木佐渡判官道誉に頼んで果たすために、毎日その宿所に行かれたけれど

  • 二 剣璽無うして御即位無き事 付けたり院の御所炎上の事

     その年九月二十七日に改元があって、文和という。その年十月に河原の御祓えがあって、翌月大嘗会が行われた。三種の神器がおありでなくて、ご即位はいかがなものかと諸卿は異議が多かったけれども、幕府が強く主張したので、ともかくもその意見に従うほかはないと大嘗会を

  • 一 茨宮御位の事

       観応三年(正平七年 一三五二)八月から   文和四年(正平十年 一三五五)二月まで この度吉野殿と将軍との和睦が破れて合戦になった時、持明院の本院、新院、主上、春宮、梶井二品親王まで皆吉野方の敵に囚われなさって、あるいは賀名生の奥、あるいは金剛山

  • 六 南帝八幡御退失の事 ~2~

     この度計略を立てて京都をお攻めになるためにまず住吉、天王寺へ行幸なさった時に、児島三郎入道志純も呼ばれて行っていたが、「これは一大事であるので、急いで東国、北国へ下って、新田義貞の甥や子供に義兵を起こさせ、小山、宇都宮以下、味方になる大名を誘って、天下

  • 六 南帝八幡御退失の事 ~1~

     三月十五日から戦が始まってすでに五十余日に及ぶので、城中にはもう兵糧がなくなって、応援の兵を待つ当てもない。これではどうしようもないとささやき合うようになって、すぐに人々の様子が変わり、逃げ支度をするしかなくなった。そのころこれこそ中心的にお役に立つは

  • 五 八幡合戦の事 付けたり官軍夜討の事 ~4~

     五月四日、官軍は七千余騎の中から夜討ちに馴れた兵八百人を選び出して、法性寺左兵衛督に付けられた。左兵衛督は昼の頃からこの軍勢を自分の陣へ集めて、笠印を同じように付けさせ、「誰かと問われたら、進むと名乗れ」と打ち合わせて、夜がいよいよ更けた頃になったので

  • 五 八幡合戦の事 付けたり官軍夜討の事 ~3~

     悪五郎が討たれて官軍が勝利したとは言え、寄せ手は目に余るほどの大軍なので、最後はこの陣はもたないだろうと、楠次郎左衛門は夜に入って八幡に引き返したので、翌日朝、敵は直ぐに入れ替わって荒坂山に陣を取る。しかし、官軍も討って懸からず寄せ手も攻め上らず、八幡

  • 五 八幡合戦の事 付けたり官軍夜討の事 ~2~

     その年三月二十四日、宰相中将殿は三万余騎を率いて宇治路を回って、木津川を渡り、洞ヶ峠に陣を取ろうとする。これは河内、東条の通路を塞いで敵の兵糧を断つためである。八幡からここへは和田五郎、楠次郎左衛門を向けられたが、楠は今年二十三歳、和田は十六、どちらも

  • 五 八幡合戦の事 付けたり官軍夜討の事 ~1~

     都では先月二十日の合戦に敗れて、足利宰相中将殿は近江国へお逃げになり、持明院の本院、新院、主上、春宮は皆捕らえられなさって、賀名生にお移りになった。吉野の主上はなお世情を心配して八幡にいらっしゃる。公卿殿上人は、西山、東山、善峰、鞍馬の奥などに逃げかく

  • 四 笛吹峠軍の事 ~3~

     夜に入ったので両陣はともに退いて各陣ごとに篝火を焚いたところ、将軍の御陣を見渡すと、四方二十㎞に及んで銀河が高く澄んでいる夜に、星を連ねたようである。笛吹峠を振り返って見ると、月の光に消えていく蛍の火が山陰に残っているほどである。義宗はこれをご覧になっ

  • 四 笛吹峠戦の事 ~2~

     上杉民部大輔の兵の中に長尾弾正、禰津小次郎と言って、力持ちの強者がいた。今日の合戦に負けてしまったことをわが身の恥辱と思ったので、敵の陣へ紛れて入り込んで、将軍を討ち申そうと相談して、二人ともすぐに二つ引き両の笠印付け替えて、人に分からないように乱れ髪

  • 四 笛吹峠軍の事 ~1~

     新田武蔵守は、将軍のご運に遅れを取って、石浜の合戦で本意を遂げられなかったので、武蔵国を前に、越後、信濃を後ろにして、笛吹峠に陣を取っておられた。これを聞いて馳せ参じる人々には、大井田式部大輔、上杉民部大輔、息子の兵庫助、中条入道、息子の佐渡守、田中修

  • 三 鎌倉合戦の事

     新田左兵衛佐と脇屋左衛門佐の二人は、わずかに二百余騎に討たれて、武蔵守と離れてしまった。味方の軍勢たちはどこへ退いたのであろうかと、波にも乗らず磯からも離れた気持ちで、皆馬から下りて休んでおられたが、「この軍勢で上野へも帰れないだろう。逃げて行くべき所

  • 二 武蔵野合戦の事 ~2~

     新田兵衛佐と脇屋左衛門佐とは一緒になって、白旗の一隊の二、三万余騎が北に分かれて退いていったのを、これこそ将軍でいらっしゃるだろう、どこまでも追いつめて討とうと、五㎞あまりおいかけていったところに、降参した者たちが馬から下りて、それぞれ会って挨拶をした

  • 二 武蔵野合戦の事 ~1~

     三浦の申し合わせが崩れたことを新田武蔵守は夢にも知らず、よい時刻になったと急いで、明けて閏二月二十日の朝八時、武蔵野の小手差原へ出陣なさった。一方の大将には新田武蔵守義宗が五万余騎、白旗、中黒、頭黒の旗を揚げた一隊、団扇の旗印は児玉党、板東の八平氏、赤

  • 一 新田義兵を起こす事 ~3~

     いよいよ明日戦が始まると話が決まった夜、石堂四郎入道が三浦介を傍らへ呼んで、「合戦がいよいよ明日と決まった。これまで相談してきた事を息子である右馬助に全く知らせていませんので、この者はきっと一人残って将軍に討たれてしまうと思われます。一家の中を分けて道

  • 一 新田義兵を起こす事 ~2~

     これによって武蔵、上野から次々に早馬を出して鎌倉へ急を告げる。「それで敵の数はどれほどいるか」と尋ねると、使者達は、「二十万騎は下らないでしょう」と答えた。仁木、細川の人々はこれを聞いて、「それは大変な一大事のようだ。鎌倉中の軍勢は千騎もいないだろう

  • 一 新田義兵を起こす事 ~1~

      観応三年(正平七年 一三五二)閏二月上旬から同五月中旬頃まで 吉野殿が幕府と和睦された間は京も地方もしばらく静かだった。和睦がすぐに破れて合戦になった後、畿内、洛中はかろうじて朝廷の執政にしたがっていたと言っても、地方の至る所の武士たちは武力に従う

  • 八 持明院殿吉野へ遷幸の事 付けたり梶井宮の事 ~2~

     そうでなくてさえ霞んでいる花の木の間の月は、これが最後に見ることになるかと思う涙に、いつもよりもなお朧である。女院と皇后は、御簾の中や几帳の陰に臥し沈んでおられ、ここの馬道、あそこの局では声を隠さず泣き悲しんでいる。御車を夜明けの月の下に急がせ、東洞院

  • 八 持明院殿吉野へ遷幸の事 付けたり梶井宮の事 ~1~

     その頃、敵は都を逃げ出したけれども、吉野の帝は洛中へお入りになることもできず、ただ北畠入道准后と顕能父子だけが京都にいらっしゃって諸事の処理を担当され、その他の公卿殿上人はみな主上のいらっしゃる八幡でお仕えしておられる。 その月の二十三日、中院中将具忠

  • 七 相公江州落ちの事

     細川讃岐守は討たれた。陸奥守はどこへとも知れず逃げて行った。もはや重ねて戦うべき兵もいなくなったので、宰相中将義詮朝臣は、わずかに百四、五十騎で近江を目指してお逃げになる。下賀、高山の源氏達が示し合わせて勢多の橋を焼き落とした。舟はこちら側に一艘もない

  • 六 吉野殿相公羽林と御和睦の事 付けたり住吉の松折るる事 ~3~

     帝のお言葉がそのように下された以上は、つまらぬ者たちの言うことは全く聞く必要がないと、義詮朝臣を初めとして京都の軍勢はよもや出し抜かれるとは夢にも知らず油断していたところに、その月の二十七日の朝八時頃、中門右衛門督顕能が三千余騎で鳥羽から攻め寄せて、東

  • 六 吉野殿相公羽林と御和睦の事 付けたり住吉の松折るる事 ~2~

     情けないことの多かった正平六年の年が暮れて、新年の立春を迎えたけれども皇居はなお賀名生の山中であるので、白馬、踏歌の節会なども行われない。早朝の四方拝、三日の月奏だけが行われて、後七日の御修法は文観僧正がお受けして都の真言院で行われた。十五日が過ぎると

  • 六 吉野殿相公羽林と御和睦の事 付けたり住吉の松折るる事 ~1~

     足利宰相中将義詮朝臣は将軍が鎌倉へお下りになった時、京都守護のために残されていらっしゃったが、関東の合戦の結果がまだ伝わらず、京都は大変に手薄だった。このままではきっと、和田、楠に攻め寄せられて、あっさり京を落とされてしまうとお考えだったので、ひとまず

  • 五 慧源禅門逝去の事

     この後は高倉殿に付き従う侍は一人もない。牢のような屋敷の長く荒れていた所に警固の武士を付けられて、事ある毎に悲しい知らせばかりが耳に溢れて心を傷めさせるので、もはやこの辛い世を生きながらえて命があってもどうしようと思うのか。わが身さえ用のないものとお嘆

  • 四 薩埵山合戦の事 ~3~

    宇都宮はあちこちの合戦に勝って、後攻めに回るということが薩埵山の寄せ手に伝えられると、各軍勢が皆一様に、「なんと、後攻めの軍勢が近づかない前に薩埵山を攻め落とされるのがよいでしょう」と言ったけれども、傾く運に引かれたのか、石塔、上杉は一向に認めなかったの

  • 四 薩埵山合戦の事 ~2~

     宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可の勧めによって以前から将軍に心を寄せていたので、武蔵守師直の一族で三戸七郎という者がその近くに忍んでいたのを大将に取り立てて薩埵山の後攻め(薩埵山勢の敵の背後を攻めること)をしようと計画していたところ、上野の住人、大胡

  • 四 薩埵山合戦の事 ~1~

     将軍は八相山の合戦に勝って、すぐに上洛なさったのだが、十月十三日、また直義入道を処罰せよという宣旨が重ねて出されたので、翌日すぐに鎌倉へお下りになる。まったく洛中に軍勢を残さないというのも吉野方の敵に隙を突かれるに違いないと、宰相中将義詮朝臣を都の防備

  • 三 直義追罰の宣旨御使ひの事 付けたり鴨の社鳴動の事

     その年八月十八日、征夷大将軍源二位大納言尊氏卿は、高倉入道左兵衛督追討の宣旨をお受けになって、近江国に到着して鏡の宿に陣を取る。都を発たれる時まではその軍勢はわずか三百騎にも足らなかったが、佐々木佐渡判官道誉、息子近江守秀綱は当国三千余騎を率いて馳せ参

  • 二 高倉殿京と退去の事 付けたり殷の紂王の事 ~2~

     そもそもこれは誰の意見で高倉殿はこのように兄弟、叔父甥の合戦をしながら、一方で道に外れた者を誅殺し、世を鎮めようとお考えになったのかと探ってみると、禅・律宗寺院監督の奉行として使われていた藤原南家の儒者藤原少納言有範が、折々申していたことを採用なさった

  • 二 高倉殿京と退去の事 付けたり殷の紂王の事

     その年七月の終わり、石塔入道、桃井右馬権頭直常の二人が高倉殿へ参って、「仁木、細川、土岐、佐々木が、皆自分の国へ逃げ帰って、謀叛を起こすようです。これもきっと将軍のご意向を受けたのか、宰相中将殿の指示書で軍勢を動かすか、でしょう。また、赤松律師が大塔の

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