ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
このように近年は将軍の敵になっていた人びとはみな降参して、貞治元年の後から洛中や西国が静かだとは言っても、東国にまた思いがけない同士討ちの戦が始まって、村人は木を切ったり草を刈ったりという生活を楽しむことがない。 そのことの起こりを尋ねると、この三、四
仁木左京大夫義長は、それほどの不忠義はなかったのだが、行いがあまりに身勝手だということで多くの人に憎まれたことによって、心ならずも将軍の敵となって伊勢国に逃げ下って、長野の城に立て籠もっていたのを、佐々木六角判官入道崇永と土岐大膳大夫入道善忠の二人が討
山名左京大夫時氏と息子の右衛門佐師氏は、近年将軍の御敵となって、南朝方と計って、二度も京都を占領したので、将軍にとってはこの上ない敵であったけれども、内々に縁故を通じて、「二回の不忠義はまったく将軍の御代を危険にさらそうと致したことではない。ただ、道誉
貞治二年(正平十八年 一三六三)六月から貞治六年七月まで。 聖人が世に現れて道義を教え道を正す時でさえ、賢者は少なく愚者は多いのだから、人の心は全てが一つになることはない。だから尭の時代でさえも四人の悪者がいた。孔子のいた魯国には少星卯が
昔、孔子が顔淵にお話しになって、「人が自分を用いるときは行い、棄てるときは引き下がる。ただ私とお前だけがそれができる」とお褒めになったのを、傍で聞いていた子路が大いに怒って、「先生が三軍を動かす時は、誰と一緒になさるか」と申したところ、孔子は重ねて子
下流で待機していた者たちが逃げ道を失って呆然としていたのを、木村兵庫允泰則が、「兵達の掟は方々のご承知のところだが、戦いが不利の時、死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬものです。何度もただ敵のいないところへ逃げるばかりではなくて、敵が大勢構えている
敵軍である南朝の和田、楠も、相模守にあらかじめ打ち合わせをして同時に戦いを始めようと相談していたのだが、七月二十四日に相模守が討たれて、四国、中国はほとんど細川右馬頭頼之に従うことになったと伝えられると、これまでの計画が狂って、気勢を削がれ顔色を失った
西長尾の城へ向けられた左馬助は、二十四日の夜が明けた後、新開が引き返したのを見て、「これはきっと相模殿の陣営の軍勢を他へ分けさせて、入れ違いに城へ攻め寄せようと謀ったのだ。戦いはすでに始まっているだろう。引き返して戦え」と、両鐙を蹴って千里を一足にと駆
七月二十三日の朝、右馬頭が陣幕から出て新開遠江守真行を近くに呼んで、「当国の両陣の様子を見ると、敵軍は日々に増えて、味方は次第に減っている。このまま数日を送ったら合戦は難しくなろうと思われる。このことから考えると、宮方の大将で中院源少将という人が西長尾
讃岐では細川相模守清氏と細川右馬頭頼之が数ヶ月戦ったが、清氏がついに討たれて、四国は難なく静まったのだった。 その戦の様子を伝え聞くと、相模守が四国を征服してもう一度都を支配して将軍を滅ぼそうと計画して、堺の港から船に乗って讃岐へ渡ったと伝えられると、
五 畠山兄弟修善寺の城にたて籠る事 付けたり遊佐入道の事 ~2~
遊佐入道性阿は主人が逃げる様子をすぐに知ったけれども、しばらくは人に適当に付き合って、主人をどこへでも逃げ延びさせるために少しも騒ぐ様子を見せず、碁、双六を遊び、十服茶を飲むなどして、さりげない様子で笑い戯れていたので、郎従も他の家の者も気付きようもな
五 畠山兄弟修善寺の城にたて籠る事 付けたり遊佐入道の事 ~1~
九州では宮方が蜂起したといっても、東国は間もなく静まった。去年から畠山入道道誓と弟の尾張守義深が伊豆の修善寺に立て籠もって関東八ヶ国の軍勢と戦っていたが、兵糧が尽きて逃げるところもなくなったので、皆城中で討ち死にしようとした。左馬頭殿から使者で、これま
左京大夫がすでに大友の館に着いたと伝えられると、菊池肥後守武光は敵に軍勢が着かないうちに蹴散らせというので、菊池彦次郎、城越前守、宇都宮、岩野、鹿子木民部大輔、下田帯刀以下優れた兵五千余騎を付けて、探題左京大夫を攻めるために、九月二十三日豊後国へ向かう
九州では、少弐と大友以下の将軍方の軍勢たちが菊池に追い落とされて、すでにまた九州が宮方だけになったと見えたので、探題を派遣して少弐と大友に加勢しなければならないというので、尾張大夫入道の息子の左京大夫氏経を九州の探題にして派遣された。左京大夫はまず兵庫
越中では、桃井播磨守直常が信濃国から越えて、昔なじみの兵達を誘ったところ、当国の守護鹿草出羽守の国の統治がいい加減であったために、国の者たちがこぞってこれに背いたからか、野尻、井口、長倉、三沢の者たちが直常に加わったので、その数は千余騎になった。桃井は
但馬国へは、山名左衛門佐と弟治部大輔、小林民部丞を侍大将として二千余騎が、大山を通って播磨へ越えようと出て行ったが、但馬国の守護仁木弾正少弼と安良十郎左衛門が将軍方として立て籠もっている城がまだ落ちないので、長九郎左衛門尉と安保入道信禅以下の宮方達は、
山陽道には同年六月三日に山名伊豆守時氏が五千余騎で伯耆から美作の院庄へ越えて諸国へ軍勢を分けて差し向ける。まず一方へは、時氏の息子左衛門佐師義を大将にして二千余騎が、備前、備中両国へ向かう。一隊は備前の仁万堀に陣取って敵を待ち受けるのだが、その国の守護
康安二年(正平十七年 一三六二)二月から九月末まで。 康安二年二月に都には彗星と客星が同時に出たといって、天文博士が内裏へ呼ばれて吉凶を占い申し上げた。「客星は用明天皇の御代に守屋が仏法を滅ぼそうとした時初めて見えてから今に至るまで十四回、そ
そもそも畠山入道が一昨年東国の軍勢を集めて南朝方へ向かったことの考えを聞くと、まったく唐の楊国忠と安禄山が天子の威光を借りて、後に世を奪おうと企てたことに似ている。 昔、唐の玄宗が位にお即きになった頃、天下は平穏であったので、楽しみに耽り驕りを慎まれな
畠山入道道誓と弟の尾張守義深、同じく式部大輔の兄弟三人が、その軍勢五百余騎で、伊豆国に逃げ下って、三津、金山、修善寺の三つの城を構えて籠もっていると伝えられると、鎌倉の左馬頭基氏はまず平一揆の軍勢三百余騎を差し向けられた。その軍勢がすでに伊豆の国府につ
そもそも煩悩の根源を断ちきり迷う者が迷いから離れることは、遠い昔も今も、めったにないことではないでしょうか。 昔、天竺に身子という声聞が仏道の効果を示すために六波羅蜜を行った時に、すでに五波羅密を成就した。檀波羅密を行う時になって、隣国から一人の婆羅門
都では、細川相模守が敵になった後は、執事という者がいなくて、万事不便であったので、誰をその職に置くべきかと協議がされたが、この頃権勢を得ていた佐々木佐渡判官入道道誉の聟ということで、周囲の人が皆追従したのか、「尾張大夫入道の息子、左衛門佐殿以上の人はな
そもそも大将を任ずるには、その道がある。大将がその任でない時は、戦いに勝つことはできない。 天下がすでに治まって後、政治で世を治める時は知恵を第一とし、仁義を元とするから、今まで敵であった人をも許容して政道を行わせ高い官職を与えることもある。あの魏徴は
帝都の主上はまだ近江の武佐寺におられて京都の合戦はどうなのだろうと心配していらっしゃったところに、康安元年十二月二十七日に宰相中将殿が早馬を立てて、洛中の凶徒らを無事に追い払いました、急いで御還幸下さいということを申されたので、帝を初めお供の公卿殿上人
南朝方では、今度京都の敵を追い払ったならば、元弘の乱の時のように天下の武士は雪崩を打って味方に付くだろうと思っておられたのだが、案に相違して、新たに参陣する武士がいないどころか、筑紫の菊池、伊予の土居、得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守、同じく
この時、佐渡判官入道道誉が都を出る時に、「私の宿所はきっとしかるべき大将を入れることだろう」というので、立派に取りかたづけて、六間の客殿には大紋の縁の付いた畳を敷き並べ、本尊、掛け軸、花瓶、香炉、茶釜、盆に至るまで同じように調えて、書院には王羲之の草書
公家の大将には二条殿、四条中納言隆俊卿、武将には石塔刑部卿頼房、細川相模守清氏、弟の左馬助、和田、楠、湯浅、山本、恩地、牲川、その数千余騎で、十二月三日、住吉、天王寺に勢揃いをすると、細川兵部少輔氏春が淡路の軍勢を率いて兵船八十余艘で堺の浜に着く。赤松
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
そうしているところに、将軍の屋敷の庭の花が紅紫の色を交えて、その美しさは類いがなかったので、道朝が種々の酒肴を用意して貞治五年三月四日を定めて将軍の御所で花の下での遊宴を行おうと計画された。とくに道誉に誘いを掛けた。道誉は、初めは参るだろうと承諾してい