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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き http://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

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  • 四 芳賀兵衛入道軍の事 ~1~

    このように近年は将軍の敵になっていた人びとはみな降参して、貞治元年の後から洛中や西国が静かだとは言っても、東国にまた思いがけない同士討ちの戦が始まって、村人は木を切ったり草を刈ったりという生活を楽しむことがない。 そのことの起こりを尋ねると、この三、四

  • 三 仁木京兆、降参の事

    仁木左京大夫義長は、それほどの不忠義はなかったのだが、行いがあまりに身勝手だということで多くの人に憎まれたことによって、心ならずも将軍の敵となって伊勢国に逃げ下って、長野の城に立て籠もっていたのを、佐々木六角判官入道崇永と土岐大膳大夫入道善忠の二人が討

  • 二 山名京兆、御方に参らるる事

    山名左京大夫時氏と息子の右衛門佐師氏は、近年将軍の御敵となって、南朝方と計って、二度も京都を占領したので、将軍にとってはこの上ない敵であったけれども、内々に縁故を通じて、「二回の不忠義はまったく将軍の御代を危険にさらそうと致したことではない。ただ、道誉

  • 一 大内介降参の事

    貞治二年(正平十八年 一三六三)六月から貞治六年七月まで。 聖人が世に現れて道義を教え道を正す時でさえ、賢者は少なく愚者は多いのだから、人の心は全てが一つになることはない。だから尭の時代でさえも四人の悪者がいた。孔子のいた魯国には少星卯が

  • 八 太元軍の事

    昔、孔子が顔淵にお話しになって、「人が自分を用いるときは行い、棄てるときは引き下がる。ただ私とお前だけがそれができる」とお褒めになったのを、傍で聞いていた子路が大いに怒って、「先生が三軍を動かす時は、誰と一緒になさるか」と申したところ、孔子は重ねて子

  • 七 和田、楠、箕浦次郎左衛門と軍の事 ~2~

    下流で待機していた者たちが逃げ道を失って呆然としていたのを、木村兵庫允泰則が、「兵達の掟は方々のご承知のところだが、戦いが不利の時、死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬものです。何度もただ敵のいないところへ逃げるばかりではなくて、敵が大勢構えている

  • 七 和田、楠、箕浦次郎左衛門と軍の事 ~1~

    敵軍である南朝の和田、楠も、相模守にあらかじめ打ち合わせをして同時に戦いを始めようと相談していたのだが、七月二十四日に相模守が討たれて、四国、中国はほとんど細川右馬頭頼之に従うことになったと伝えられると、これまでの計画が狂って、気勢を削がれ顔色を失った

  • 六 細川相模守討ち死にの事 付けたり西長尾軍の事 ~3~

    西長尾の城へ向けられた左馬助は、二十四日の夜が明けた後、新開が引き返したのを見て、「これはきっと相模殿の陣営の軍勢を他へ分けさせて、入れ違いに城へ攻め寄せようと謀ったのだ。戦いはすでに始まっているだろう。引き返して戦え」と、両鐙を蹴って千里を一足にと駆

  • 六 細川相模守討ち死にの事 付けたり西長尾軍の事 ~2~

    七月二十三日の朝、右馬頭が陣幕から出て新開遠江守真行を近くに呼んで、「当国の両陣の様子を見ると、敵軍は日々に増えて、味方は次第に減っている。このまま数日を送ったら合戦は難しくなろうと思われる。このことから考えると、宮方の大将で中院源少将という人が西長尾

  • 六 細川相模守討ち死にの事 付けたり西長尾軍の事 ~1~

    讃岐では細川相模守清氏と細川右馬頭頼之が数ヶ月戦ったが、清氏がついに討たれて、四国は難なく静まったのだった。 その戦の様子を伝え聞くと、相模守が四国を征服してもう一度都を支配して将軍を滅ぼそうと計画して、堺の港から船に乗って讃岐へ渡ったと伝えられると、

  • 五 畠山兄弟修善寺の城にたて籠る事 付けたり遊佐入道の事 ~2~

    遊佐入道性阿は主人が逃げる様子をすぐに知ったけれども、しばらくは人に適当に付き合って、主人をどこへでも逃げ延びさせるために少しも騒ぐ様子を見せず、碁、双六を遊び、十服茶を飲むなどして、さりげない様子で笑い戯れていたので、郎従も他の家の者も気付きようもな

  • 五 畠山兄弟修善寺の城にたて籠る事 付けたり遊佐入道の事 ~1~

    九州では宮方が蜂起したといっても、東国は間もなく静まった。去年から畠山入道道誓と弟の尾張守義深が伊豆の修善寺に立て籠もって関東八ヶ国の軍勢と戦っていたが、兵糧が尽きて逃げるところもなくなったので、皆城中で討ち死にしようとした。左馬頭殿から使者で、これま

  • 四 菊池、大友軍の事

    左京大夫がすでに大友の館に着いたと伝えられると、菊池肥後守武光は敵に軍勢が着かないうちに蹴散らせというので、菊池彦次郎、城越前守、宇都宮、岩野、鹿子木民部大輔、下田帯刀以下優れた兵五千余騎を付けて、探題左京大夫を攻めるために、九月二十三日豊後国へ向かう

  • 三 九州探題下向の事 付けたり李将軍陣中に女を禁ずる事

    九州では、少弐と大友以下の将軍方の軍勢たちが菊池に追い落とされて、すでにまた九州が宮方だけになったと見えたので、探題を派遣して少弐と大友に加勢しなければならないというので、尾張大夫入道の息子の左京大夫氏経を九州の探題にして派遣された。左京大夫はまず兵庫

  • 二 諸国宮方蜂起の事 付けたり越中軍の事 ~3~

    越中では、桃井播磨守直常が信濃国から越えて、昔なじみの兵達を誘ったところ、当国の守護鹿草出羽守の国の統治がいい加減であったために、国の者たちがこぞってこれに背いたからか、野尻、井口、長倉、三沢の者たちが直常に加わったので、その数は千余騎になった。桃井は

  • 二 諸国宮方蜂起の事 付けたり越中軍の事 ~2~

    但馬国へは、山名左衛門佐と弟治部大輔、小林民部丞を侍大将として二千余騎が、大山を通って播磨へ越えようと出て行ったが、但馬国の守護仁木弾正少弼と安良十郎左衛門が将軍方として立て籠もっている城がまだ落ちないので、長九郎左衛門尉と安保入道信禅以下の宮方達は、

  • 二 諸国宮方蜂起の事 付けたり越中軍の事 ~1~

    山陽道には同年六月三日に山名伊豆守時氏が五千余騎で伯耆から美作の院庄へ越えて諸国へ軍勢を分けて差し向ける。まず一方へは、時氏の息子左衛門佐師義を大将にして二千余騎が、備前、備中両国へ向かう。一隊は備前の仁万堀に陣取って敵を待ち受けるのだが、その国の守護

  • 一 彗星、客星の事 付けたり湖水乾く事

    康安二年(正平十七年 一三六二)二月から九月末まで。 康安二年二月に都には彗星と客星が同時に出たといって、天文博士が内裏へ呼ばれて吉凶を占い申し上げた。「客星は用明天皇の御代に守屋が仏法を滅ぼそうとした時初めて見えてから今に至るまで十四回、そ

  • 八 畠山入道道誓謀叛の事 付けたり楊国忠が事 ~2~

    そもそも畠山入道が一昨年東国の軍勢を集めて南朝方へ向かったことの考えを聞くと、まったく唐の楊国忠と安禄山が天子の威光を借りて、後に世を奪おうと企てたことに似ている。 昔、唐の玄宗が位にお即きになった頃、天下は平穏であったので、楽しみに耽り驕りを慎まれな

  • 八 畠山入道道誓謀叛の事 付けたり楊国忠が事 ~1~

    畠山入道道誓と弟の尾張守義深、同じく式部大輔の兄弟三人が、その軍勢五百余騎で、伊豆国に逃げ下って、三津、金山、修善寺の三つの城を構えて籠もっていると伝えられると、鎌倉の左馬頭基氏はまず平一揆の軍勢三百余騎を差し向けられた。その軍勢がすでに伊豆の国府につ

  • 七 身子声聞、一角仙人、志賀寺上人の事

    そもそも煩悩の根源を断ちきり迷う者が迷いから離れることは、遠い昔も今も、めったにないことではないでしょうか。 昔、天竺に身子という声聞が仏道の効果を示すために六波羅蜜を行った時に、すでに五波羅密を成就した。檀波羅密を行う時になって、隣国から一人の婆羅門

  • 六 尾張左衛門佐遁世の事

    都では、細川相模守が敵になった後は、執事という者がいなくて、万事不便であったので、誰をその職に置くべきかと協議がされたが、この頃権勢を得ていた佐々木佐渡判官入道道誉の聟ということで、周囲の人が皆追従したのか、「尾張大夫入道の息子、左衛門佐殿以上の人はな

  • 五 大将を立つべき事 付けたり漢・楚義帝を立つる事

    そもそも大将を任ずるには、その道がある。大将がその任でない時は、戦いに勝つことはできない。 天下がすでに治まって後、政治で世を治める時は知恵を第一とし、仁義を元とするから、今まで敵であった人をも許容して政道を行わせ高い官職を与えることもある。あの魏徴は

  • 四 持明院新帝江州より還幸の事 付けたり相州四国に渡る事

    帝都の主上はまだ近江の武佐寺におられて京都の合戦はどうなのだろうと心配していらっしゃったところに、康安元年十二月二十七日に宰相中将殿が早馬を立てて、洛中の凶徒らを無事に追い払いました、急いで御還幸下さいということを申されたので、帝を初めお供の公卿殿上人

  • 三 南方の官軍都を落つる事

    南朝方では、今度京都の敵を追い払ったならば、元弘の乱の時のように天下の武士は雪崩を打って味方に付くだろうと思っておられたのだが、案に相違して、新たに参陣する武士がいないどころか、筑紫の菊池、伊予の土居、得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守、同じく

  • 二 新将軍京落ちの事 ~2~

    この時、佐渡判官入道道誉が都を出る時に、「私の宿所はきっとしかるべき大将を入れることだろう」というので、立派に取りかたづけて、六間の客殿には大紋の縁の付いた畳を敷き並べ、本尊、掛け軸、花瓶、香炉、茶釜、盆に至るまで同じように調えて、書院には王羲之の草書

  • 二 新将軍京落ちの事 ~1~

    公家の大将には二条殿、四条中納言隆俊卿、武将には石塔刑部卿頼房、細川相模守清氏、弟の左馬助、和田、楠、湯浅、山本、恩地、牲川、その数千余騎で、十二月三日、住吉、天王寺に勢揃いをすると、細川兵部少輔氏春が淡路の軍勢を率いて兵船八十余艘で堺の浜に着く。赤松

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