「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
康安元年(正平十六年 一三六一)十二月から、翌二年末頃まで。 相模守は石塔刑部卿に帝への上奏を依頼して、「私は至らぬ者ですが、お味方に参上しましたことによって、四国、東国、山陰、東山道で、多くの者が正義の兵を挙げるようです。京都は、もともと頼りに
さて仁木中務少輔は、京から逃れて伊勢へ逃げて相模守に従うと噂され、兵部少輔氏春は京から淡路へ逃げて国中の軍勢を従えて相模守に力を合わせて兵船を調え、堺の浜に着けるだろうと連絡があった。摂津国の源氏松山は、香下の城を作って南朝に示し合わせ、播磨路を塞いで
若狭国は相模守が支配していた国であって、頓宮四郎左衛門が以前から在国していたので、小浜に立派な城を構えて、兵糧を数万石蓄えていた。相模守はここに落ち着いて、城の構えや軍勢を見ると、攻め合って戦うにしても、また城に籠もって戦うにしても一年二年で簡単に攻め
相模守は今にも討手を向けられるかと兜の緒を締め、二日間待たれたが、向かってくる敵はなかったので、洛中で兵を集めて戦いをしようと用意したのも、一方では狼藉だ、陣を退いて都を出てから、改めて弁明申そうと、二十三日の早朝に若狭を目指して都を出て行った。仁木中
そうしているところに、将軍が急に物の怪が憑かれて、効験のある高僧が祈祷申し上げたが静まらず、頭の痛みが日を追ってひどくなると噂されたので、道誉が急いで参上して、「先日伊勢入道が差し出しました清氏の願い書はご覧になられましたか」とお訊ねすると、「まだ見
この相模守は、気性はたいへん傲慢で、振る舞いは尋常でなかったけれども、ひたすら神仏を敬う心が強かったので、神に従って子孫の幸福を祈ろうと思われたのか、またはわが子の烏帽子親に頼む人がないと思われたのか、九歳と七歳になった二人の子供を石清水八幡で元服させ
これらのことこそやはり大地震が予兆したことで、諸国の乱れが始まるぞと驚きながら聞いているところに、京都に世にも珍しいことがあって、将軍の執事細川相模守清氏とその弟の左馬助、養子の仁木中務少輔が三人ともに都を抜け出して幕府の敵となったのだった。 事の起こ
また同じ年の九月二十八日、摂津国に思いがけないことが起こって、京の軍勢が多く討たれた。事の起こりを尋ねると、当国の守護職を、故赤松信濃守範資が無二の忠義の戦いをしたことで将軍から頂いたのを、範資が死んだ後嫡男の大夫判官光範が相続してこれを頂いた。ところ
四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~3~
また筑紫では、さる七月の初めに征西将軍の宮と新田の一隊二千余騎、菊池肥後守武光の三千余騎が博多へ討って出て香椎に陣を敷いたと伝えられると、軍勢が増えない内に追い落とせというので、大友刑部大輔が七千余騎、太宰少弐が五千余騎、宗像大宮司が八百余騎、紀伊常陸
四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~2~
赤松は右衛門佐が小勢だと聞いて、まずこの敵を討ち破ろうと出発したところに、阿保肥前入道信禅が急に寝返って但馬国へ越えて長九郎左衛門と助け合って播磨へ打って入ろうと考えたので、赤松は「それなら東の方に城を構えて道々に警固の兵を置け」と言って法華山に城を構
四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~1~
このような頃に山名伊豆守時氏と嫡男右衛門佐師義、次男中務大輔が、出雲、伯耆、因幡三ヶ国の軍勢三千余騎を率いて美作へ向かって進む。 当国の守護赤松筑前入道世貞が播州にいてまだ戦わないうちに、広戸掃部助の名木杣の二つの城、飯田の一族が籠もっていた笹向の城、
南朝では、この大地震に諸国七道の大伽藍が壊れたということを聞くと、天王寺の金堂ほど壊れた堂舎はなく、紀州の山々ほど崩れた土地もなかったので、これは南朝と関わりのない前兆ではないと配慮なさって、さまざまの御祈りを始められた。すぐに般若寺の円海上人が勅命を
その年の六月十八日の十時頃から十月になるまで、大地が激しく動いて、日夜止むことがなかった。山は崩れて谷を埋め、海は傾いて陸地になったので、神社仏閣は倒れ、牛馬や人が死傷すること幾千万とも知れない。すべての山川、入江や林野、村落でこの災難に遭わないところ
これをお聞きして、武者所にいた者たちはささやき合って、「近年源氏の一族の中でお味方になって来る人々を見るに、誰もが嘘を言って帝を騙さない者がいない。まず錦小路慧源禅門は古くから譜代の師直、師泰らから危害を避けるためにお味方になってやって来たけれども、こ
延文六年(正平十六年 一三六一)三月末から十一月頃まで。 都では、去年の天災、干魃、飢饉、疫癘が都や周辺で起こって、死骸が道ばたに溢れた事を、ただ事ではない、ぜひ改元すべきだということで、延文六年三月末に康安に改められた。その夜、四条富小路から火
これだけでなく、石塔刑部卿頼房は仁木三郎を大将として伊賀、伊勢の兵を起こし、二千余騎で近江国に越えて葛木山に陣を取る。佐々木大夫判官崇永と弟の山内判官は国中の軍勢を集めて飯盛岡に陣を張り数日経ったところに、九月二十八日の早朝に仁木三郎が兵を集めて、「当
その頃、小川中務丞と土岐東池田とが手を結んで、仁木に味方して尾張の小川の庄に城を構えて立て籠もったのを、土岐宮内少輔が三千余騎で押し寄せて、城を七重八重に取り巻いて二十日余り攻めたところ、急いで拵えた城なので、兵糧がたちまちに尽きて、小川も東池田もとも
その頃、日野僧正頼意が密かに吉野の山中を出て、かねてから少々願い事があって、霊験があらたかであることを頼りにして北野神社に一晩参籠なさった時、秋も半ばを過ぎて杉の梢の風も物寂しくなり、夜明けの月が松の木から西に傾き、静かな庭の霜に映える光りがいつもより
さて、京都で同士討ちの戦があって、天王寺の寄せ手が引き返すと伝えられると、大和、和泉、紀伊国の宮方は、好機到来と、山々峰々に篝火を焚き、津々浦々に船を集める。これを見て幕府から置かれた各城の兵達は寄り合う毎に、「前に日本中の軍勢が集まった時でさえ、結局
その後義長はいつもの所に参上して、「夜が明けましたならば、敵がきっと攻めて来ると思われますので、もはや御旗をお出しいただこうと参りました。軍勢たちにご対面も頂きたい。あまりに長くお休みですね。お風邪はどんな具合でしょうか」と申したので、女官達一人二人が
そして七月十六日に、天王寺の軍勢七千余騎がまず山崎に集まって、二手に分かれる。一方には、細川相模守を大将として三千余騎が、物集女、寺戸を通って西の七条口から寄せようとする。畠山入道、土岐、佐々木を大将にして五千余騎が、久我縄手を通って東寺口から攻め寄せ
ただ二人で話した事でさえも、天地は知るという。ましてやこれ程の大勢が集まって話し合う事であるから、どうして隠しおおせることができようか、このことは直ぐに京都へ伝わってしまった。義長は大いに怒って、「これは何と、私が討たれるべき罪は、いったい何だ。これは
こうしているところに、和田、楠らが金剛山と国見から出て、渡辺の橋を切って落とし、誉田の城を攻めようとしているということで、和泉、河内から京都へ早馬を出して、急いで軍勢を派遣されたいと告げてきたので、先頃の数ヶ月の大手柄が一気に無駄になってしまうと、宰相
延文五年(正平十五年 一三六〇)五月末からその年の暮れ頃まで。 南朝方の敵軍を何事もなく退治したといって、将軍義詮朝臣が帰洛なさったので、京中の人々が喜び合うことはこの上ない。主上も大変に喜ばれて、手早い大手柄は全く以て殊勝であると勅使を出して仰
南朝方の皇居は金剛山の奥、観心寺という深山なので、容易に敵が気付くことのできる場所ではないけれども、前線の守りとして頼りにしておられた龍泉、赤坂も攻め落とされ、また昨日、一昨日まで味方していた兵達が今日は多く敵となったと伝えられたので、山の住人や木樵を
今川上総守と佐々木六角判官入道崇永、弟の山内判官は、「龍泉山の戦に加わらなかったことは、面白くない」と思われたので、わざと他の軍勢を交えないで、五百余騎で同じ日の夕方平石の城へ押し寄せた。一矢射交わすやいなや、崖が高かったので、前の人の楯を梯子にして踏
龍泉の城では、和田と楠などが相談して、初めは大和、河内の兵千余人を入れて置いたが、寄せ手が少しもこれを攻めようとしなかったので、「このままではむだに軍勢を置いても意味がない。散らして平地での戦にしよう」というので、龍泉の兵を皆呼び下ろして何ほどもない野
昔、漢の国に一人の貧しい人がいた。朝の炊事の煙も途絶えて粗末な家を訪ねてくる人もなかったので、辛いこの世を堪えて暮らせるような気持ちもないままに過ごしていたが、ある時、曹娥という一人の娘を連れて他国へ逃げて行った。洪河という川を渡ろうとすると、ちょうど
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