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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き http://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

  • お知らせ 2023

    ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。

  • 余章 2

    《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え

  • 余章 1

    《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知

  • 六 細川右馬頭西国より上洛の事

    そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの

  • 五 将軍薨逝の事

    こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな

  • 四 最勝講の時闘諍に及ぶ事

    そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた

  • 三 南禅寺と三井寺と確執の事

    その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代

  • 二 左馬頭基氏逝去の事

    このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら

  • 一 中殿御会の事 ~2~

    いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御

  • 一 中殿御会の事 ~1~

    貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ

  • 十二 法皇御葬礼の事

    この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら

  • 十一 光厳院禅定法皇行脚の事 ~3~

    御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て

  • 十一 光厳院禅定法皇行脚の事 ~ 2~

    さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙

  • 十一 光厳院禅定法皇行脚の事 ~1~

    光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった

  • 十 神功皇后、新羅を攻めたまふ事

    昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が

  • 九 太元より日本を攻むる事

    つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、

  • 八 高麗人来朝の事

    四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され

  • 七 神木御帰座の事

    大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと

  • 六 諸大名、道朝を讒する事 付けたり道誉大原野花の会の事 ~3~

    道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江

  • 六 諸大名、道朝を讒する事 付けたり道誉大原野花の会の事 ~2~

    そうしているところに、将軍の屋敷の庭の花が紅紫の色を交えて、その美しさは類いがなかったので、道朝が種々の酒肴を用意して貞治五年三月四日を定めて将軍の御所で花の下での遊宴を行おうと計画された。とくに道誉に誘いを掛けた。道誉は、初めは参るだろうと承諾してい

  • 六 諸大名、道朝を讒する事 付けたり道誉大原野花の会の事 ~1~

    そもそもこの管領職というのは、将軍家でも中心的な一族だったので、誰もその職を嫉む人もいなかった。また関東が勢いがあった時代をご覧になった人だから、礼儀や定めも今のようではなかっただろうから、これこそまことの武士の世を治めるべき人だと思われていたのだが、

  • 五 神木入洛の事 付けたり洛中変異の事

    尾張修理大夫入道道朝は、将軍御兄弟の合戦の時慧源禅門方について負けたので、不満を解消しないまま、しばらくは宮方に身を寄せていたが、若将軍義詮朝臣からさまざまに贈り物をし礼を尽くしてしきりにお招きなさったので、また将軍方になって、三男治部大輔義将を面に立

  • 四 芳賀兵衛入道軍の事 ~4~

    さて、芳賀の八百余騎の兵は、昨日は二日の道を一夜で駆けたので、馬が皆疲れていた。今日はまた入れ替わる軍勢もなく一日中戦い暮らしたので、兵は息を継ぐこともできない。思うにもはやこれまでと思ったのか、日がすでに夕暮れになったので、討たれずに残った兵わずかに

  • 四 芳賀兵衛入道軍の事 ~3~

    芳賀伊賀守が味方の軍勢を見回して、「八郎が見えないのは、討たれたのか」と親の身なので不安そうに言ったのを、馬の前にいた家来が、「放れた馬が数百匹走って散っていった中に、毛色や馬の具足をよく見ましたところ、黒鴾毛で連弱の尻繋を懸けていた馬は、確かに八郎

  • 四 芳賀兵衛入道軍の事 ~2~

    芳賀伊賀守は馬に乗って母衣を掛けて、「平一揆、白旗一揆はかねて通じる事情があったので、戦況次第であるいは敵ともなり味方ともなるだろう。後ろに引いてたった今参上した軍勢は、たとえ何百万騎いてもものの役には立たないだろう。家の存廃、わが身の浮沈はこの一戦で

  • 四 芳賀兵衛入道軍の事 ~1~

    このように近年は将軍の敵になっていた人びとはみな降参して、貞治元年の後から洛中や西国が静かだとは言っても、東国にまた思いがけない同士討ちの戦が始まって、村人は木を切ったり草を刈ったりという生活を楽しむことがない。 そのことの起こりを尋ねると、この三、四

  • 三 仁木京兆、降参の事

    仁木左京大夫義長は、それほどの不忠義はなかったのだが、行いがあまりに身勝手だということで多くの人に憎まれたことによって、心ならずも将軍の敵となって伊勢国に逃げ下って、長野の城に立て籠もっていたのを、佐々木六角判官入道崇永と土岐大膳大夫入道善忠の二人が討

  • 二 山名京兆、御方に参らるる事

    山名左京大夫時氏と息子の右衛門佐師氏は、近年将軍の御敵となって、南朝方と計って、二度も京都を占領したので、将軍にとってはこの上ない敵であったけれども、内々に縁故を通じて、「二回の不忠義はまったく将軍の御代を危険にさらそうと致したことではない。ただ、道誉

  • 一 大内介降参の事

    貞治二年(正平十八年 一三六三)六月から貞治六年七月まで。 聖人が世に現れて道義を教え道を正す時でさえ、賢者は少なく愚者は多いのだから、人の心は全てが一つになることはない。だから尭の時代でさえも四人の悪者がいた。孔子のいた魯国には少星卯が

  • 八 太元軍の事

    昔、孔子が顔淵にお話しになって、「人が自分を用いるときは行い、棄てるときは引き下がる。ただ私とお前だけがそれができる」とお褒めになったのを、傍で聞いていた子路が大いに怒って、「先生が三軍を動かす時は、誰と一緒になさるか」と申したところ、孔子は重ねて子

  • 七 和田、楠、箕浦次郎左衛門と軍の事 ~2~

    下流で待機していた者たちが逃げ道を失って呆然としていたのを、木村兵庫允泰則が、「兵達の掟は方々のご承知のところだが、戦いが不利の時、死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬものです。何度もただ敵のいないところへ逃げるばかりではなくて、敵が大勢構えている

  • 七 和田、楠、箕浦次郎左衛門と軍の事 ~1~

    敵軍である南朝の和田、楠も、相模守にあらかじめ打ち合わせをして同時に戦いを始めようと相談していたのだが、七月二十四日に相模守が討たれて、四国、中国はほとんど細川右馬頭頼之に従うことになったと伝えられると、これまでの計画が狂って、気勢を削がれ顔色を失った

  • 六 細川相模守討ち死にの事 付けたり西長尾軍の事 ~3~

    西長尾の城へ向けられた左馬助は、二十四日の夜が明けた後、新開が引き返したのを見て、「これはきっと相模殿の陣営の軍勢を他へ分けさせて、入れ違いに城へ攻め寄せようと謀ったのだ。戦いはすでに始まっているだろう。引き返して戦え」と、両鐙を蹴って千里を一足にと駆

  • 六 細川相模守討ち死にの事 付けたり西長尾軍の事 ~2~

    七月二十三日の朝、右馬頭が陣幕から出て新開遠江守真行を近くに呼んで、「当国の両陣の様子を見ると、敵軍は日々に増えて、味方は次第に減っている。このまま数日を送ったら合戦は難しくなろうと思われる。このことから考えると、宮方の大将で中院源少将という人が西長尾

  • 六 細川相模守討ち死にの事 付けたり西長尾軍の事 ~1~

    讃岐では細川相模守清氏と細川右馬頭頼之が数ヶ月戦ったが、清氏がついに討たれて、四国は難なく静まったのだった。 その戦の様子を伝え聞くと、相模守が四国を征服してもう一度都を支配して将軍を滅ぼそうと計画して、堺の港から船に乗って讃岐へ渡ったと伝えられると、

  • 五 畠山兄弟修善寺の城にたて籠る事 付けたり遊佐入道の事 ~2~

    遊佐入道性阿は主人が逃げる様子をすぐに知ったけれども、しばらくは人に適当に付き合って、主人をどこへでも逃げ延びさせるために少しも騒ぐ様子を見せず、碁、双六を遊び、十服茶を飲むなどして、さりげない様子で笑い戯れていたので、郎従も他の家の者も気付きようもな

  • 五 畠山兄弟修善寺の城にたて籠る事 付けたり遊佐入道の事 ~1~

    九州では宮方が蜂起したといっても、東国は間もなく静まった。去年から畠山入道道誓と弟の尾張守義深が伊豆の修善寺に立て籠もって関東八ヶ国の軍勢と戦っていたが、兵糧が尽きて逃げるところもなくなったので、皆城中で討ち死にしようとした。左馬頭殿から使者で、これま

  • 四 菊池、大友軍の事

    左京大夫がすでに大友の館に着いたと伝えられると、菊池肥後守武光は敵に軍勢が着かないうちに蹴散らせというので、菊池彦次郎、城越前守、宇都宮、岩野、鹿子木民部大輔、下田帯刀以下優れた兵五千余騎を付けて、探題左京大夫を攻めるために、九月二十三日豊後国へ向かう

  • 三 九州探題下向の事 付けたり李将軍陣中に女を禁ずる事

    九州では、少弐と大友以下の将軍方の軍勢たちが菊池に追い落とされて、すでにまた九州が宮方だけになったと見えたので、探題を派遣して少弐と大友に加勢しなければならないというので、尾張大夫入道の息子の左京大夫氏経を九州の探題にして派遣された。左京大夫はまず兵庫

  • 二 諸国宮方蜂起の事 付けたり越中軍の事 ~3~

    越中では、桃井播磨守直常が信濃国から越えて、昔なじみの兵達を誘ったところ、当国の守護鹿草出羽守の国の統治がいい加減であったために、国の者たちがこぞってこれに背いたからか、野尻、井口、長倉、三沢の者たちが直常に加わったので、その数は千余騎になった。桃井は

  • 二 諸国宮方蜂起の事 付けたり越中軍の事 ~2~

    但馬国へは、山名左衛門佐と弟治部大輔、小林民部丞を侍大将として二千余騎が、大山を通って播磨へ越えようと出て行ったが、但馬国の守護仁木弾正少弼と安良十郎左衛門が将軍方として立て籠もっている城がまだ落ちないので、長九郎左衛門尉と安保入道信禅以下の宮方達は、

  • 二 諸国宮方蜂起の事 付けたり越中軍の事 ~1~

    山陽道には同年六月三日に山名伊豆守時氏が五千余騎で伯耆から美作の院庄へ越えて諸国へ軍勢を分けて差し向ける。まず一方へは、時氏の息子左衛門佐師義を大将にして二千余騎が、備前、備中両国へ向かう。一隊は備前の仁万堀に陣取って敵を待ち受けるのだが、その国の守護

  • 一 彗星、客星の事 付けたり湖水乾く事

    康安二年(正平十七年 一三六二)二月から九月末まで。 康安二年二月に都には彗星と客星が同時に出たといって、天文博士が内裏へ呼ばれて吉凶を占い申し上げた。「客星は用明天皇の御代に守屋が仏法を滅ぼそうとした時初めて見えてから今に至るまで十四回、そ

  • 八 畠山入道道誓謀叛の事 付けたり楊国忠が事 ~2~

    そもそも畠山入道が一昨年東国の軍勢を集めて南朝方へ向かったことの考えを聞くと、まったく唐の楊国忠と安禄山が天子の威光を借りて、後に世を奪おうと企てたことに似ている。 昔、唐の玄宗が位にお即きになった頃、天下は平穏であったので、楽しみに耽り驕りを慎まれな

  • 八 畠山入道道誓謀叛の事 付けたり楊国忠が事 ~1~

    畠山入道道誓と弟の尾張守義深、同じく式部大輔の兄弟三人が、その軍勢五百余騎で、伊豆国に逃げ下って、三津、金山、修善寺の三つの城を構えて籠もっていると伝えられると、鎌倉の左馬頭基氏はまず平一揆の軍勢三百余騎を差し向けられた。その軍勢がすでに伊豆の国府につ

  • 七 身子声聞、一角仙人、志賀寺上人の事

    そもそも煩悩の根源を断ちきり迷う者が迷いから離れることは、遠い昔も今も、めったにないことではないでしょうか。 昔、天竺に身子という声聞が仏道の効果を示すために六波羅蜜を行った時に、すでに五波羅密を成就した。檀波羅密を行う時になって、隣国から一人の婆羅門

  • 六 尾張左衛門佐遁世の事

    都では、細川相模守が敵になった後は、執事という者がいなくて、万事不便であったので、誰をその職に置くべきかと協議がされたが、この頃権勢を得ていた佐々木佐渡判官入道道誉の聟ということで、周囲の人が皆追従したのか、「尾張大夫入道の息子、左衛門佐殿以上の人はな

  • 五 大将を立つべき事 付けたり漢・楚義帝を立つる事

    そもそも大将を任ずるには、その道がある。大将がその任でない時は、戦いに勝つことはできない。 天下がすでに治まって後、政治で世を治める時は知恵を第一とし、仁義を元とするから、今まで敵であった人をも許容して政道を行わせ高い官職を与えることもある。あの魏徴は

  • 四 持明院新帝江州より還幸の事 付けたり相州四国に渡る事

    帝都の主上はまだ近江の武佐寺におられて京都の合戦はどうなのだろうと心配していらっしゃったところに、康安元年十二月二十七日に宰相中将殿が早馬を立てて、洛中の凶徒らを無事に追い払いました、急いで御還幸下さいということを申されたので、帝を初めお供の公卿殿上人

  • 三 南方の官軍都を落つる事

    南朝方では、今度京都の敵を追い払ったならば、元弘の乱の時のように天下の武士は雪崩を打って味方に付くだろうと思っておられたのだが、案に相違して、新たに参陣する武士がいないどころか、筑紫の菊池、伊予の土居、得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守、同じく

  • 二 新将軍京落ちの事 ~2~

    この時、佐渡判官入道道誉が都を出る時に、「私の宿所はきっとしかるべき大将を入れることだろう」というので、立派に取りかたづけて、六間の客殿には大紋の縁の付いた畳を敷き並べ、本尊、掛け軸、花瓶、香炉、茶釜、盆に至るまで同じように調えて、書院には王羲之の草書

  • 二 新将軍京落ちの事 ~1~

    公家の大将には二条殿、四条中納言隆俊卿、武将には石塔刑部卿頼房、細川相模守清氏、弟の左馬助、和田、楠、湯浅、山本、恩地、牲川、その数千余騎で、十二月三日、住吉、天王寺に勢揃いをすると、細川兵部少輔氏春が淡路の軍勢を率いて兵船八十余艘で堺の浜に着く。赤松

  • 一 清氏、正儀京へ寄する事

    康安元年(正平十六年 一三六一)十二月から、翌二年末頃まで。 相模守は石塔刑部卿に帝への上奏を依頼して、「私は至らぬ者ですが、お味方に参上しましたことによって、四国、東国、山陰、東山道で、多くの者が正義の兵を挙げるようです。京都は、もともと頼りに

  • 七 頓宮心変はりの事 付けたり畠山道誓が事 ~2~

    さて仁木中務少輔は、京から逃れて伊勢へ逃げて相模守に従うと噂され、兵部少輔氏春は京から淡路へ逃げて国中の軍勢を従えて相模守に力を合わせて兵船を調え、堺の浜に着けるだろうと連絡があった。摂津国の源氏松山は、香下の城を作って南朝に示し合わせ、播磨路を塞いで

  • 七 頓宮心変はりの事 付けたり畠山道誓が事 ~1~

    若狭国は相模守が支配していた国であって、頓宮四郎左衛門が以前から在国していたので、小浜に立派な城を構えて、兵糧を数万石蓄えていた。相模守はここに落ち着いて、城の構えや軍勢を見ると、攻め合って戦うにしても、また城に籠もって戦うにしても一年二年で簡単に攻め

  • 六 清氏反逆の事 付けたり相模守子息元服の事 ~4~

    相模守は今にも討手を向けられるかと兜の緒を締め、二日間待たれたが、向かってくる敵はなかったので、洛中で兵を集めて戦いをしようと用意したのも、一方では狼藉だ、陣を退いて都を出てから、改めて弁明申そうと、二十三日の早朝に若狭を目指して都を出て行った。仁木中

  • 六 清氏反逆の事 付けたり相模守子息元服の事 ~3~

    そうしているところに、将軍が急に物の怪が憑かれて、効験のある高僧が祈祷申し上げたが静まらず、頭の痛みが日を追ってひどくなると噂されたので、道誉が急いで参上して、「先日伊勢入道が差し出しました清氏の願い書はご覧になられましたか」とお訊ねすると、「まだ見

  • 六 清氏反逆の事 付けたり相模守子息元服の事 ~2~

    この相模守は、気性はたいへん傲慢で、振る舞いは尋常でなかったけれども、ひたすら神仏を敬う心が強かったので、神に従って子孫の幸福を祈ろうと思われたのか、またはわが子の烏帽子親に頼む人がないと思われたのか、九歳と七歳になった二人の子供を石清水八幡で元服させ

  • 六 清氏反逆の事 付けたり相模守子息元服の事 ~1~

    これらのことこそやはり大地震が予兆したことで、諸国の乱れが始まるぞと驚きながら聞いているところに、京都に世にも珍しいことがあって、将軍の執事細川相模守清氏とその弟の左馬助、養子の仁木中務少輔が三人ともに都を抜け出して幕府の敵となったのだった。 事の起こ

  • 五 秀詮兄弟討死の事

    また同じ年の九月二十八日、摂津国に思いがけないことが起こって、京の軍勢が多く討たれた。事の起こりを尋ねると、当国の守護職を、故赤松信濃守範資が無二の忠義の戦いをしたことで将軍から頂いたのを、範資が死んだ後嫡男の大夫判官光範が相続してこれを頂いた。ところ

  • 四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~3~

    また筑紫では、さる七月の初めに征西将軍の宮と新田の一隊二千余騎、菊池肥後守武光の三千余騎が博多へ討って出て香椎に陣を敷いたと伝えられると、軍勢が増えない内に追い落とせというので、大友刑部大輔が七千余騎、太宰少弐が五千余騎、宗像大宮司が八百余騎、紀伊常陸

  • 四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~2~

    赤松は右衛門佐が小勢だと聞いて、まずこの敵を討ち破ろうと出発したところに、阿保肥前入道信禅が急に寝返って但馬国へ越えて長九郎左衛門と助け合って播磨へ打って入ろうと考えたので、赤松は「それなら東の方に城を構えて道々に警固の兵を置け」と言って法華山に城を構

  • 四 山名伊豆守美作の城を落とす事 付けたり菊池軍の事 ~1~

    このような頃に山名伊豆守時氏と嫡男右衛門佐師義、次男中務大輔が、出雲、伯耆、因幡三ヶ国の軍勢三千余騎を率いて美作へ向かって進む。 当国の守護赤松筑前入道世貞が播州にいてまだ戦わないうちに、広戸掃部助の名木杣の二つの城、飯田の一族が籠もっていた笹向の城、

  • 三 天王寺造営の事 付けたり京都御所祈祷の事

    南朝では、この大地震に諸国七道の大伽藍が壊れたということを聞くと、天王寺の金堂ほど壊れた堂舎はなく、紀州の山々ほど崩れた土地もなかったので、これは南朝と関わりのない前兆ではないと配慮なさって、さまざまの御祈りを始められた。すぐに般若寺の円海上人が勅命を

  • 二 大地震ならびに夏雪の事

    その年の六月十八日の十時頃から十月になるまで、大地が激しく動いて、日夜止むことがなかった。山は崩れて谷を埋め、海は傾いて陸地になったので、神社仏閣は倒れ、牛馬や人が死傷すること幾千万とも知れない。すべての山川、入江や林野、村落でこの災難に遭わないところ

  • 一 仁木京兆南方へ参る事 付けたり大神宮御託宣の事 ~2~

    これをお聞きして、武者所にいた者たちはささやき合って、「近年源氏の一族の中でお味方になって来る人々を見るに、誰もが嘘を言って帝を騙さない者がいない。まず錦小路慧源禅門は古くから譜代の師直、師泰らから危害を避けるためにお味方になってやって来たけれども、こ

  • 一 仁木京兆南方へ参る事 付けたり大神宮御託宣の事 ~1~

    延文六年(正平十六年 一三六一)三月末から十一月頃まで。 都では、去年の天災、干魃、飢饉、疫癘が都や周辺で起こって、死骸が道ばたに溢れた事を、ただ事ではない、ぜひ改元すべきだということで、延文六年三月末に康安に改められた。その夜、四条富小路から火

  • 五 尾張小川、東池田が事 ~2~

    これだけでなく、石塔刑部卿頼房は仁木三郎を大将として伊賀、伊勢の兵を起こし、二千余騎で近江国に越えて葛木山に陣を取る。佐々木大夫判官崇永と弟の山内判官は国中の軍勢を集めて飯盛岡に陣を張り数日経ったところに、九月二十八日の早朝に仁木三郎が兵を集めて、「当

  • 五 尾張小川、東池田が事 ~1~

    その頃、小川中務丞と土岐東池田とが手を結んで、仁木に味方して尾張の小川の庄に城を構えて立て籠もったのを、土岐宮内少輔が三千余騎で押し寄せて、城を七重八重に取り巻いて二十日余り攻めたところ、急いで拵えた城なので、兵糧がたちまちに尽きて、小川も東池田もとも

  • 四 北野通夜物語の事 付けたり青砥左衛門が事

    その頃、日野僧正頼意が密かに吉野の山中を出て、かねてから少々願い事があって、霊験があらたかであることを頼りにして北野神社に一晩参籠なさった時、秋も半ばを過ぎて杉の梢の風も物寂しくなり、夜明けの月が松の木から西に傾き、静かな庭の霜に映える光りがいつもより

  • 三 南方蜂起の事 付けたり畠山関東下向の事

    さて、京都で同士討ちの戦があって、天王寺の寄せ手が引き返すと伝えられると、大和、和泉、紀伊国の宮方は、好機到来と、山々峰々に篝火を焚き、津々浦々に船を集める。これを見て幕府から置かれた各城の兵達は寄り合う毎に、「前に日本中の軍勢が集まった時でさえ、結局

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~4~

    その後義長はいつもの所に参上して、「夜が明けましたならば、敵がきっと攻めて来ると思われますので、もはや御旗をお出しいただこうと参りました。軍勢たちにご対面も頂きたい。あまりに長くお休みですね。お風邪はどんな具合でしょうか」と申したので、女官達一人二人が

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~3~

    そして七月十六日に、天王寺の軍勢七千余騎がまず山崎に集まって、二手に分かれる。一方には、細川相模守を大将として三千余騎が、物集女、寺戸を通って西の七条口から寄せようとする。畠山入道、土岐、佐々木を大将にして五千余騎が、久我縄手を通って東寺口から攻め寄せ

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~2~

    ただ二人で話した事でさえも、天地は知るという。ましてやこれ程の大勢が集まって話し合う事であるから、どうして隠しおおせることができようか、このことは直ぐに京都へ伝わってしまった。義長は大いに怒って、「これは何と、私が討たれるべき罪は、いったい何だ。これは

  • 二 京勢重ねて南方発向の事 付けたり仁木没落の事 ~1~

    こうしているところに、和田、楠らが金剛山と国見から出て、渡辺の橋を切って落とし、誉田の城を攻めようとしているということで、和泉、河内から京都へ早馬を出して、急いで軍勢を派遣されたいと告げてきたので、先頃の数ヶ月の大手柄が一気に無駄になってしまうと、宰相

  • 一 新将軍帰洛の事 付けたり仁木義長を討たんと擬する事

    延文五年(正平十五年 一三六〇)五月末からその年の暮れ頃まで。 南朝方の敵軍を何事もなく退治したといって、将軍義詮朝臣が帰洛なさったので、京中の人々が喜び合うことはこの上ない。主上も大変に喜ばれて、手早い大手柄は全く以て殊勝であると勅使を出して仰

  • 十 吉野の御廟神霊の事 付けたり諸国の軍勢京都に還る事

    南朝方の皇居は金剛山の奥、観心寺という深山なので、容易に敵が気付くことのできる場所ではないけれども、前線の守りとして頼りにしておられた龍泉、赤坂も攻め落とされ、また昨日、一昨日まで味方していた兵達が今日は多く敵となったと伝えられたので、山の住人や木樵を

  • 九 平石の城軍の事 付けたり和田夜討ちの事

    今川上総守と佐々木六角判官入道崇永、弟の山内判官は、「龍泉山の戦に加わらなかったことは、面白くない」と思われたので、わざと他の軍勢を交えないで、五百余騎で同じ日の夕方平石の城へ押し寄せた。一矢射交わすやいなや、崖が高かったので、前の人の楯を梯子にして踏

  • 八 龍泉寺軍の事

    龍泉の城では、和田と楠などが相談して、初めは大和、河内の兵千余人を入れて置いたが、寄せ手が少しもこれを攻めようとしなかったので、「このままではむだに軍勢を置いても意味がない。散らして平地での戦にしよう」というので、龍泉の兵を皆呼び下ろして何ほどもない野

  • 七 銀嵩軍の事 付けたり曹娥・精衛の事 ~2~

    昔、漢の国に一人の貧しい人がいた。朝の炊事の煙も途絶えて粗末な家を訪ねてくる人もなかったので、辛いこの世を堪えて暮らせるような気持ちもないままに過ごしていたが、ある時、曹娥という一人の娘を連れて他国へ逃げて行った。洪河という川を渡ろうとすると、ちょうど

  • 七 銀嵩軍の事 付けたり曹娥・精衛の事 ~1~

    この頃、吉野の将軍の宮と申し上げたのは、故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹でいらっしゃる。ご幼少の頃から文武の両道いずれにも達者にお見えだったので、この宮こそまことに全国の動乱をも鎮められて、旧主先帝のご無念をもお晴らし申されるご器量でいらっし

  • 六 二度紀伊国軍の事 付けたり住吉の楠折るる事 ~2~

    こうしているところに、また住吉の神主津守国久がひそかに、「今月十二日の正午ごろに当社の神殿がしばらく鳴動した。その後庭先の楠が風もないのに中程から折れて、神殿に倒れかかった。しかし枝がたくさんに支えて宙に横たわったので、社殿は無事だった」と内々の奏上を

  • 六 二度紀伊国軍の事 付けたり住吉の楠折るる事 ~1~

    紀伊国の軍に寄せ手が多く討たれて、今は和佐山の陣でも味方は保ちがたいと言ったので、津々山の軍勢も尼崎の大将も、がっかりして顔色を変えた。しかし、仁木左京大夫義長一人は、「それは面白い。思った通りだ。いっそ同じことなら津々山や天王寺、住吉の軍勢どもも追い

  • 五 紀州龍門山軍の事

    四条中納言隆俊が紀伊国の軍勢三千余騎を率いて紀伊国最初峰に陣を取っていらっしゃるということが伝えられたので、その年、四月三日、畠山入道道誓の弟、尾張守義深を大将として、白旗の一隊、平の一隊、諏訪祝部、千葉の一族、杉原の一門等々全部で三万余騎が最初峰へ向

  • 四 新将軍南方進発の事 付けたり軍勢狼藉の事 ~2~

    さて、寄せ手はその年二月十三日、後陣の兵三万余騎を住吉、天王寺へ入れ替えさせて、後ろを心配ないようにして、先陣の軍勢二十万余騎は金剛山の北西に当たる津々山に上って陣を取る。敵味方の間はわずかに五㎞あまりを隔てている。互いに時を図ってまだ戦いが始まらない

  • 四 新将軍南方進発の事 付けたり軍勢狼藉の事 ~1~

    その頃、足利新征夷大将軍義詮朝臣は、延文四年十二月二十三日に都を発って、南方の正面へお向かいになる。付き従う人々には、まず一族細川相模守清氏、弟の左近大夫将監、同じく兵部大輔、同じく掃部助、同じく兵部少輔、尾張左衛門佐、仁木右京大夫、弟の弾正少弼、同じ

  • 三 和田、楠軍評定の事 付けたり諸卿分散の事

    この頃吉野の新帝は河内の天野という所を皇居としておいでだったので、楠左馬頭正儀と和田和泉守正武の二人は、天野の皇居に参上して、「畠山入道道誓が関東八ヶ国の軍勢を率いて二十万騎、すでに京都に着いているそうです。山陽道は播磨まで、山陰道は丹波まで、東海、東

  • 二 畠山道誓上洛の事

    思いのほかに世の中が穏やかであるにつけても、二人の英雄がいれば必ず争うものであるので、鎌倉の左馬頭殿と宰相中将殿との御仲は、きっと不和が生じるだろうと人々は気に懸けていた。これを聞いて畠山大夫入道道誓が左馬頭殿に向かって、「故左大臣殿がお亡くなりになっ

  • 一 宰相中将殿に将軍の宣旨を賜ふ事

    延文三年(正平十三年 一三五八)十二月から 延文五年五月末頃まで。 鎌倉贈左大臣尊氏公がお亡くなりになった折りに、世の人が心配することは深みに臨んで薄氷を踏むようであって、天下は直ぐにも転覆してしまうと見えていたところに、この人こそまことに

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~5~

    こういうことで、江戸と竹沢の忠功は抜群であると、ただちに所領数カ所の恩賞をいただいた。「あっぱれ武士の面目だ」とこれを羨む人もあり、また「汚い男の振る舞いだ」と批判する人もある。 竹沢はなおも謀叛の協力者を徹底的に探し出せと御陣に留められて、江戸の二人

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~4~

    その後竹沢は自分の力では討てないだろうと思ったので、畠山殿の所へ使いを遣って、「兵衛佐殿の隠れておられる場所を詳しく知っていますが、小勢では討ち洩らしてしまうと思われます。急いで一族の江戸遠江守と下野守を来させて下さい。彼らとよく相談して討ち申しましょ

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~3~

    九月十三夜は夕暮れの空が晴れて月も名前どおりの姿を現したので、今夜、明月の会に事寄せて佐殿を我が館へお招きして酒宴の折りに討ち申し上げようと企て、二心無い一族、郎等二百余人を呼び集め、自分の館の脇に隠して置いた。日が暮れると竹沢は急いで佐殿の所に参って

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~2~

    さてもこのことをどうしようかと、畠山入道道誓は日夜考えていたが、ある夜ひそかに竹沢右京亮を呼び寄せて、「そなたは先年武蔵野の合戦の時、あの義興の手下でいて忠義だったのだから、義興もきっとその昔のよしみを忘れていないと思われる。だからこの人をあざむいて討

  • 十 新田左兵衛佐義興自害の事 ~1~

    さて、尊氏卿が御逝去になった後、九州はこのように乱れたと言っても、東国はまだ静かであった。そこに故新田左中将義貞の息子の兵衛佐義興とその弟の武蔵少将義宗、故脇屋刑部卿義助の息子の義治の三人が、この三、四年間越後国に城郭を構え、国の半分を従えていたのを、

  • 九 菊池合戦の事 ~3~

    八月十六日の夜半に菊池はまず夜討ちに馴れた兵を三百人選りすぐって、山を越え水を渡って搦め手へ回す。本隊の兵七千余騎を三手に分けて、筑後川の岸に沿って川音に紛れて険しい山地を回って押し寄せた。正面の寄せ手がもう近づいただろうと思われる頃に、搦め手の兵三百

  • 九 菊池合戦の事 ~2~

    その頃、七月に征西将軍の宮を大将として、新田の一族と菊池の一門が太宰府へ攻め寄せると噂されたので、少弐は陣を構えて敵を待とうとして、大将太宰築後守頼尚、息子の築後新少弐忠資、甥の太宰築後守頼泰、朝井但馬守将監胤信、築後新左衛門頼信、窪能登太郎泰助、肥後

  • 九 菊池合戦の事 ~1~

    少弐と大友は菊池に九州を討ち従えられて、その支配の下に従うことを面白くなく思ったので、細川伊予守の下向を待って旗を挙げようと計画していたが、伊予守は崇徳院の御霊に罰せられて無駄死にしたと伝えられたので、勢いを失って動きを見せない。 こうしているところに

  • 八 崇徳院の事

    今年の春、筑紫の探題として将軍に派遣された一色左京大夫直氏と弟の修理大夫範光は、菊池肥前守武光に敗れて京都へ上られたところ、少弐、大友、島津、松浦、阿蘇、草野に至るまで皆宮方に味方して、筑紫九国の中には、ただ畠山治部大輔だけが日向の六笠城に籠もって将軍

  • 七 新待賢門院ならびに梶井宮御隠れの事

    同じ四月十八日、吉野の新待賢門院の女院がお亡くなりになった。一方の帝の国母でいらっしゃったので、帝を初め申し上げて全ての官吏が女院の御座所の月に涙を流し、後宮の露に嘆きの思いを寄せながら一体どういうことであろうかと涙を拭っていたところに、また同じ年五月

  • 六 将軍御逝去の事

    その年四月二十日、尊氏卿の背中に出来物ができてお加減が悪くおなりになったので、内科外科の医師が数多く集まり参上した。倉公や華陀のような医師が手を尽くし、さまざまな種類の薬を施し申したけれども、一向に効き目がない。陰陽寮の長官や効験のある高僧が集まって、

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