ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
観応三年(正平七年 一三五二)閏二月上旬から同五月中旬頃まで 吉野殿が幕府と和睦された間は京も地方もしばらく静かだった。和睦がすぐに破れて合戦になった後、畿内、洛中はかろうじて朝廷の執政にしたがっていたと言っても、地方の至る所の武士たちは武力に従う
そうでなくてさえ霞んでいる花の木の間の月は、これが最後に見ることになるかと思う涙に、いつもよりもなお朧である。女院と皇后は、御簾の中や几帳の陰に臥し沈んでおられ、ここの馬道、あそこの局では声を隠さず泣き悲しんでいる。御車を夜明けの月の下に急がせ、東洞院
その頃、敵は都を逃げ出したけれども、吉野の帝は洛中へお入りになることもできず、ただ北畠入道准后と顕能父子だけが京都にいらっしゃって諸事の処理を担当され、その他の公卿殿上人はみな主上のいらっしゃる八幡でお仕えしておられる。 その月の二十三日、中院中将具忠
細川讃岐守は討たれた。陸奥守はどこへとも知れず逃げて行った。もはや重ねて戦うべき兵もいなくなったので、宰相中将義詮朝臣は、わずかに百四、五十騎で近江を目指してお逃げになる。下賀、高山の源氏達が示し合わせて勢多の橋を焼き落とした。舟はこちら側に一艘もない
六 吉野殿相公羽林と御和睦の事 付けたり住吉の松折るる事 ~3~
帝のお言葉がそのように下された以上は、つまらぬ者たちの言うことは全く聞く必要がないと、義詮朝臣を初めとして京都の軍勢はよもや出し抜かれるとは夢にも知らず油断していたところに、その月の二十七日の朝八時頃、中門右衛門督顕能が三千余騎で鳥羽から攻め寄せて、東
六 吉野殿相公羽林と御和睦の事 付けたり住吉の松折るる事 ~2~
情けないことの多かった正平六年の年が暮れて、新年の立春を迎えたけれども皇居はなお賀名生の山中であるので、白馬、踏歌の節会なども行われない。早朝の四方拝、三日の月奏だけが行われて、後七日の御修法は文観僧正がお受けして都の真言院で行われた。十五日が過ぎると
六 吉野殿相公羽林と御和睦の事 付けたり住吉の松折るる事 ~1~
足利宰相中将義詮朝臣は将軍が鎌倉へお下りになった時、京都守護のために残されていらっしゃったが、関東の合戦の結果がまだ伝わらず、京都は大変に手薄だった。このままではきっと、和田、楠に攻め寄せられて、あっさり京を落とされてしまうとお考えだったので、ひとまず
この後は高倉殿に付き従う侍は一人もない。牢のような屋敷の長く荒れていた所に警固の武士を付けられて、事ある毎に悲しい知らせばかりが耳に溢れて心を傷めさせるので、もはやこの辛い世を生きながらえて命があってもどうしようと思うのか。わが身さえ用のないものとお嘆
宇都宮はあちこちの合戦に勝って、後攻めに回るということが薩埵山の寄せ手に伝えられると、各軍勢が皆一様に、「なんと、後攻めの軍勢が近づかない前に薩埵山を攻め落とされるのがよいでしょう」と言ったけれども、傾く運に引かれたのか、石塔、上杉は一向に認めなかったの
宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可の勧めによって以前から将軍に心を寄せていたので、武蔵守師直の一族で三戸七郎という者がその近くに忍んでいたのを大将に取り立てて薩埵山の後攻め(薩埵山勢の敵の背後を攻めること)をしようと計画していたところ、上野の住人、大胡
将軍は八相山の合戦に勝って、すぐに上洛なさったのだが、十月十三日、また直義入道を処罰せよという宣旨が重ねて出されたので、翌日すぐに鎌倉へお下りになる。まったく洛中に軍勢を残さないというのも吉野方の敵に隙を突かれるに違いないと、宰相中将義詮朝臣を都の防備
その年八月十八日、征夷大将軍源二位大納言尊氏卿は、高倉入道左兵衛督追討の宣旨をお受けになって、近江国に到着して鏡の宿に陣を取る。都を発たれる時まではその軍勢はわずか三百騎にも足らなかったが、佐々木佐渡判官道誉、息子近江守秀綱は当国三千余騎を率いて馳せ参
そもそもこれは誰の意見で高倉殿はこのように兄弟、叔父甥の合戦をしながら、一方で道に外れた者を誅殺し、世を鎮めようとお考えになったのかと探ってみると、禅・律宗寺院監督の奉行として使われていた藤原南家の儒者藤原少納言有範が、折々申していたことを採用なさった
その年七月の終わり、石塔入道、桃井右馬権頭直常の二人が高倉殿へ参って、「仁木、細川、土岐、佐々木が、皆自分の国へ逃げ帰って、謀叛を起こすようです。これもきっと将軍のご意向を受けたのか、宰相中将殿の指示書で軍勢を動かすか、でしょう。また、赤松律師が大塔の
観応二年(正平六年・一三五一)二月から翌三年閏二月末まで 志が合う時は胡と越も遠くない。まして同じように父母の保護から出て世の浮沈をともにして、一日も身辺を離れないものは、兄弟の仲である。一旦師直、師泰らの不義を罰するまでに至ったことはあったものの、ど
小清水の合戦の後、執事方の兵達はあちこちに散らばって、残る者はいないはいうものの、今朝松岡城を出るまでは、確かに六、七百騎もあると見えたのだが、この人々が討たれたのを見てどこへ逃げ隠れしたのか、今討たれた十四人の他は、その家来の下々に至るまで、一人もい
執事兄弟が武庫川を渡って、小さな堤の上に通りかかった時、三浦八郎左衛門の家来二人が走り寄って、「この遁世者の、顔を隠しているのは何者か。その笠を取れ」と言って、執事のかぶっていた蓮の葉笠を剥ぎ取って捨てると、頬被りが外れて片側の顔が少し見えたのを、三浦
その月の二十六日に、将軍がいよいよ和睦して上洛なさったので、執事兄弟も同じく時宗の僧に紛れて、死への道に馬を進める。折も折、春雨がしめやかに降って、数万の敵がそこかしこに待ち構えている中を通るので、あの者だと知られまいと蓮の葉笠を傾けて袖で顔を隠すけれ
高播磨守師冬は師直の養子だったが、将軍の三男左馬頭殿の執事にして鎌倉へ下ったので、上杉民部大輔と一緒に東国の管領であって、威勢を関東八ヶ国に振るっていた。 西国にこそこのように師直に背く者が多くても、東国はよもや問題はあるまい、ことが本当に難しいなら兵
こうしている時に、東の城門を荒っぽく叩く人がいた。人々が驚いて、「誰か」と尋ねると、昨夜逃げたと噂されていた饗庭命鶴丸の声で、「和睦になって、合戦は決してないでしょう。早まって自害なさるな」と叫んだ。「これは一体どういうことか」というので急いで城門を
小清水の戦に負けて退く兵二万余騎が、四方が四百mあまりほどもない松岡城へ我も我もと入り込んだので、沓の底に打つ釘のようにびっしりとなって、少しも身動きならないようなありさまだった。これではいけない、主だった人以外は中へ入ってはいけないと郎等や若党は皆外
それにしても、この合戦をいろいろと考えてみると、軍勢の多少、兵の優劣は、天地の差がある。どうしてこれ程簡単に負けることがあろうか。これはただ事ではないと思い合わせてみると、その前の夜、武蔵五郎と川津左衛門とが少しも違わず二人が見た夢こそ、不思議である。
石塔右馬頭の陣は、ここから一㎞あまり離れていたので、まだ味方が勝ったのを知らないで、「打出浜に旗が三本見えたのは、敵か味方か見てこい」と言われたので、原三郎左衛門義実がただ一騎駆けて向かいこれを見ると、三幅の小旗に赤い緒を両端に付けている。では、敵なの
その日の暮れ頃に、摂津国の守護赤松信濃守範資が使者を遣って、「八幡から石塔中務大輔と畠山阿波守国清、上杉蔵人大夫を大将として、七千余騎を光明寺方の敵の後ろを攻めるためということで差し下されたそうだ。前には光明寺方が城を固く守って、後ろに新しい大軍の敵が
戦のならいで、一騎でも軍勢が加わる時は人の心は勇み、一人でも減る時は兵の気が緩むものだから、寄せ手の軍勢が次第に減るのを見て、武蔵守の兵達はますます戦意が衰えて、皆陣幕の中で休んでいたところに、東南の方角から怪しい雲が湧き上がって風に乗って流れてくる。
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下