「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
その頃八幡から石塔右馬権頭を大将にして、愛曾伊勢守、矢野遠江守以下五千余騎で書写山坂本へ押し寄せようと下ったが、書写山坂本へは越後守が大勢で着いたということを聞いて、播磨の光明寺に陣を取って、さらに八幡へ加勢を求められた。 将軍はこのことをお聞きになっ
このような状況だったけれども、前陣は遠くて知らず、後陣には続く味方もいない。ただここを先途と戦う間に、陶山又次郎高直は脇の下、内兜、吹き返しの外れの三ヶ所を突かれて討たれてしまった。弟の又五郎はこれを見て、みごとによい敵と組み合って、刺し違えたいと思っ
越後守師泰はこの時まで三角城を攻め落とそうというので、依然として石見国にいたのだったが、師直のところから飛脚が来て、「摂津国、播磨国の間で合戦が迫っている。早くその国の合戦をさしおいて馳せ上れ。ひょっとして中国地方の者たちがこういう時の弱みにつけ込んで
将軍が都へお帰りになり桃井が合戦に敗れたので、もはや八幡の敵どもはほとんどが将軍のところに馳せ参ずるだろうと、多くの人々が予想を巡らせて、もはやこれまでと思われたのに、案に相違して、十五日の夜半に京都の軍勢はまた大半が逃げて八幡の軍勢に加わった。「これ
その後合戦が始まって、桃井の七千余騎が、仁木、細川の一万余騎と、白河を西へ追いかけ東へ追い散らして、七、八度ほど戦い合ったところ、討たれた者が三百人、傷を受けた者は数知れない。両陣は互いに戦い疲れて留まって息をついているところに、かねての打ち合わせどお
こうしているところに桃井の扇の一隊の中から、背丈二mを越える鬚黒の目を血走らせた男が緋縅の鎧に五枚兜の緒を締め鍬形の間に日月を描いた紅の扇を一杯に開いて夕日に輝かし、三mあまりに見える樫の棒を八角に削って両端に石突きを入れて右の小脇に構え、白川原毛の太
義詮が心細い気持ちで都を逃れて桂川を渡り、向明神を南へ通り過ぎようとなさったところに、物集女の前の西の丘の方角に馬煙が大きく立って、軍勢の多少はまだ見えないが、旗が二、三十流れ翻って小松原から駆け出してきた。義詮は、馬を留めて、「これはあるいは八幡から
観応二年(正平六年・一三五一)正月から同二月の末まで 取りあえずの謀がまとまったので、三条左兵衛督入道慧源と南朝との同盟が結ばれて、慧源は大和の越智のところにいらっしゃったので、和田、楠を初めとして大和、河内、和泉、紀伊国の宮方の人達が我も我もと三条
帝も熟考され、下座の諸卿も言葉を出さないまま、ややしばらくあったところに北畠准后禅閤が譬えを引いて、「昔秦の世がいよいよ傾こうとした時に、沛公は沛郡から立ち上がり項羽は楚から立った。六国の諸侯の秦に背く者は、その両将に付き従ったので、共にその武威が次第
左兵衛督入道は都を仁木、細川、高家の一族達に背かれて当てもなく出て行った。大和、河内、和泉、紀伊国は皆吉野の帝の命に服して、今更武家に従うだろうとも思えなかったので、沖にも着かず磯からも離れたような気がして、行く先を失ってしまった。越智伊賀守は、「これ
左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下ろうとした時に、ひそかに殺し申そうとする企てが樽と伝えられたので、その死を逃れるためにひそかに大和国へ逃げて、越智伊賀守を頼られたところ、近辺の村人が心を合わせて力添えして、道々を切り塞いであちこちに関所を作って、全く
将軍がいよいよ明日西国へ発たれると伝えられたその夜、左兵衛督入道慧源は、石塔右馬助頼房だけを連れて、どこへとも知れずお逃げになったのだった。これを聞いて世の中の心配する人は、「さあ、天下の乱が起こるぞ。高家一族は今に滅びるだろう」とささやいた。ことの事
中国地方はおおむね治まっているようだけれども、九州がまた蜂起したので九月二十九日、肥後国から都へ早馬で、「兵衛佐直冬が先月十三日当国に到着され、川尻肥後守幸俊の館に住まわれたところに、宅磨当太郎守直が加勢して国中で兵を集めたので、幕府方に味方する者たち
ある時、寄せ手の三吉の一隊の中に、日頃から手柄を示した強者三、四人が集まって相談して、「城の様子を見ると、今のように攻めたら、味方は兵糧が不足して持ちこたえられなくなっても、敵の軍勢が負けて逃げることはありそうにない。その上、備中、備後、安芸、周防の中
この頃、石見国の住人三角入道が兵衛佐直冬の命に従って国の中を平定して荘園を所領にして反逆の威勢を存分に示していると伝えられたので、事が大きくならないうちに討伐すべきだということで、越後守師泰が六月二十日都を発って道中で加わる軍勢を率いて石見国へ向かった
右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を逃れて川尻肥後守幸俊のもとにいらっしゃったが、討ち申すように将軍から通知を出されたけれども、これは全く師直が言上したものであった。じっさいに将軍のお考えから始まった通知ではないと、誰も推し量ったので、後の災いを考えて、
観応元年(正平五年 一三五〇年)二月からその年の暮れまで 貞和六年二月二十七日に改元があって、観応に変わる。 前年八月十四日に武蔵守師直、越後守師泰らが将軍の御館を囲んで上杉伊豆守、畠山大蔵少輔を京から追い出して配所で死罪にした後、左兵衛督直義卿
その頃、年内にすぐに即位の大礼を行わなければならないという協議がなされた。この年三月七日に行うと通知されたが、大礼は執行できなかった。しかしながら引き延ばしてばかりいることはできないというので、行わなければならないということになった。そもそも大礼という
気の毒に、都ではあれほど高い薄檜皮の屋根の立て並ぶ立派な屋敷に、車馬は門前に群れをなし客は殿中に溢れて、華やかにお住まいだったのに、竹の網戸に松の垣、時雨も風も防げないので、袂の乾く暇もない。だから、どんな宿業でこういう目に遭うのかと我ながら恨めしく生
その頃、上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔宗直を、所領を没収し宿所を壊して、共に越前国へ流し遣られた。この人々は、いくら何でも死罪が行われるまでのことは決してあるまいと当てにしておられたのか、しばしの別れを悲しく思って、奥方や子供達も皆連れてお下りになったが
その頃直義は、世の中との交わりを止めて細川兵部大輔顕氏の錦小路堀川の宿所に移られたのだった。それでもなお師直、師泰は、直義がこのまま最後まで憤りを収められることはなさそうなので、自分たちのためによくなかろうと思って、ひそかになき者にしようと内々に相談し
その頃、三条殿は、師直、師泰の憤りが依然として深いので、天下の政務に関与できないでいた。将軍はもともと政務を人に任せておられたので、関東から左馬頭義詮を急いで上洛させられて、直義に代わって政務を行うように申しつけ、師直が諸事を補佐することに決まったのだ
このことがあった後は、ますます師直の権威が重くなって、三条殿の方の人々は顔を伏せ眉をひそめる。中でも右兵衛佐直冬は、中国の探題で備後の鞆におられたが、師直が近国の地頭や御家人に触れを出して討ち申し上げよと言い遣ったところ、その年の九月十三日、杉原又四郎
将軍も左兵衛督も、「師直、師泰がたとえ押し寄せて来ても、防戦一方になったならばかえって恥であろう。兵が門前で防ぐ間にご自害下さい」と、軽い武具だけ身に着けて、覚悟を決めておられた。師直と師泰は、一時の勢いでここまで来たけれども、さすがに押し寄せることは
そうしている頃、洛中では今にも合戦が起こりそうだということで慌ただしくなって、貞和五年八月十二日の夕方から、数万騎の兵が南北へ走り行き交う。馬の足音、鎧の音が鳴り止む暇もなかった。 まず三条殿へ行く人々には、𠮷良左京大夫満義、同じく上総三郎満貞、石塔中
師泰が執事の宿所に着いて、三条殿と合戦の計画があると噂が広まると、八月十一日の夕方に赤松入道円心と息子の律師則祐、弾正少弼氏範が七百余騎で武蔵守の館に向かう。師直は急いで会って、「三条殿が理由もなく私の一家を滅ぼそうとのお考えで、ことはすでに切迫してい
こういうことがあっている頃、師直、師泰らを処罰することについて、上杉、畠山の讒言がなおも執拗で、妙吉侍者がしきりに申し上げるので、将軍にお知らせしないで、左兵衛督がひそかに上杉、畠山、大高伊予守、粟飯原下総守、斉藤五郎左衛門入道の五、六人が相談されて、
雲景が重ねて、「それではすでに乱悪の世であって、下は上に背き、師直、師泰はわがままに振る舞うばかりで、天下は保てるのか」と尋ねると、「いや、そうはいかない。いかにも末世濁乱の世で、下はしばらくは勝って上を犯すだろう。しかしまた上を犯す罪は免れがたいの
それにしても三種の神器を我が国の宝として神代から伝わる璽だが、国を治め守るのもこの神器である。これは伝えることが大切だ。ところが今の帝はこの宝器を伝えることがないまま位に即いておられるのは、本当の帝位だとは言いにくい。それでも三つの重要な儀式を執り行わ
雲景が重ねて、「先代の高時が宿縁尽きて滅びて、どうして先帝は長く世をお治めにならなかったのですか」と尋ねると、「それはまた訳があるのです。先帝は、ずいぶん賢帝としての行いをしようとなさったけれども、実際は仁徳や民を撫で育てるというお考えが総じて無かっ
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