ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
その頃八幡から石塔右馬権頭を大将にして、愛曾伊勢守、矢野遠江守以下五千余騎で書写山坂本へ押し寄せようと下ったが、書写山坂本へは越後守が大勢で着いたということを聞いて、播磨の光明寺に陣を取って、さらに八幡へ加勢を求められた。 将軍はこのことをお聞きになっ
このような状況だったけれども、前陣は遠くて知らず、後陣には続く味方もいない。ただここを先途と戦う間に、陶山又次郎高直は脇の下、内兜、吹き返しの外れの三ヶ所を突かれて討たれてしまった。弟の又五郎はこれを見て、みごとによい敵と組み合って、刺し違えたいと思っ
越後守師泰はこの時まで三角城を攻め落とそうというので、依然として石見国にいたのだったが、師直のところから飛脚が来て、「摂津国、播磨国の間で合戦が迫っている。早くその国の合戦をさしおいて馳せ上れ。ひょっとして中国地方の者たちがこういう時の弱みにつけ込んで
将軍が都へお帰りになり桃井が合戦に敗れたので、もはや八幡の敵どもはほとんどが将軍のところに馳せ参ずるだろうと、多くの人々が予想を巡らせて、もはやこれまでと思われたのに、案に相違して、十五日の夜半に京都の軍勢はまた大半が逃げて八幡の軍勢に加わった。「これ
その後合戦が始まって、桃井の七千余騎が、仁木、細川の一万余騎と、白河を西へ追いかけ東へ追い散らして、七、八度ほど戦い合ったところ、討たれた者が三百人、傷を受けた者は数知れない。両陣は互いに戦い疲れて留まって息をついているところに、かねての打ち合わせどお
こうしているところに桃井の扇の一隊の中から、背丈二mを越える鬚黒の目を血走らせた男が緋縅の鎧に五枚兜の緒を締め鍬形の間に日月を描いた紅の扇を一杯に開いて夕日に輝かし、三mあまりに見える樫の棒を八角に削って両端に石突きを入れて右の小脇に構え、白川原毛の太
義詮が心細い気持ちで都を逃れて桂川を渡り、向明神を南へ通り過ぎようとなさったところに、物集女の前の西の丘の方角に馬煙が大きく立って、軍勢の多少はまだ見えないが、旗が二、三十流れ翻って小松原から駆け出してきた。義詮は、馬を留めて、「これはあるいは八幡から
観応二年(正平六年・一三五一)正月から同二月の末まで 取りあえずの謀がまとまったので、三条左兵衛督入道慧源と南朝との同盟が結ばれて、慧源は大和の越智のところにいらっしゃったので、和田、楠を初めとして大和、河内、和泉、紀伊国の宮方の人達が我も我もと三条
帝も熟考され、下座の諸卿も言葉を出さないまま、ややしばらくあったところに北畠准后禅閤が譬えを引いて、「昔秦の世がいよいよ傾こうとした時に、沛公は沛郡から立ち上がり項羽は楚から立った。六国の諸侯の秦に背く者は、その両将に付き従ったので、共にその武威が次第
左兵衛督入道は都を仁木、細川、高家の一族達に背かれて当てもなく出て行った。大和、河内、和泉、紀伊国は皆吉野の帝の命に服して、今更武家に従うだろうとも思えなかったので、沖にも着かず磯からも離れたような気がして、行く先を失ってしまった。越智伊賀守は、「これ
左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下ろうとした時に、ひそかに殺し申そうとする企てが樽と伝えられたので、その死を逃れるためにひそかに大和国へ逃げて、越智伊賀守を頼られたところ、近辺の村人が心を合わせて力添えして、道々を切り塞いであちこちに関所を作って、全く
将軍がいよいよ明日西国へ発たれると伝えられたその夜、左兵衛督入道慧源は、石塔右馬助頼房だけを連れて、どこへとも知れずお逃げになったのだった。これを聞いて世の中の心配する人は、「さあ、天下の乱が起こるぞ。高家一族は今に滅びるだろう」とささやいた。ことの事
中国地方はおおむね治まっているようだけれども、九州がまた蜂起したので九月二十九日、肥後国から都へ早馬で、「兵衛佐直冬が先月十三日当国に到着され、川尻肥後守幸俊の館に住まわれたところに、宅磨当太郎守直が加勢して国中で兵を集めたので、幕府方に味方する者たち
ある時、寄せ手の三吉の一隊の中に、日頃から手柄を示した強者三、四人が集まって相談して、「城の様子を見ると、今のように攻めたら、味方は兵糧が不足して持ちこたえられなくなっても、敵の軍勢が負けて逃げることはありそうにない。その上、備中、備後、安芸、周防の中
この頃、石見国の住人三角入道が兵衛佐直冬の命に従って国の中を平定して荘園を所領にして反逆の威勢を存分に示していると伝えられたので、事が大きくならないうちに討伐すべきだということで、越後守師泰が六月二十日都を発って道中で加わる軍勢を率いて石見国へ向かった
右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を逃れて川尻肥後守幸俊のもとにいらっしゃったが、討ち申すように将軍から通知を出されたけれども、これは全く師直が言上したものであった。じっさいに将軍のお考えから始まった通知ではないと、誰も推し量ったので、後の災いを考えて、
観応元年(正平五年 一三五〇年)二月からその年の暮れまで 貞和六年二月二十七日に改元があって、観応に変わる。 前年八月十四日に武蔵守師直、越後守師泰らが将軍の御館を囲んで上杉伊豆守、畠山大蔵少輔を京から追い出して配所で死罪にした後、左兵衛督直義卿
その頃、年内にすぐに即位の大礼を行わなければならないという協議がなされた。この年三月七日に行うと通知されたが、大礼は執行できなかった。しかしながら引き延ばしてばかりいることはできないというので、行わなければならないということになった。そもそも大礼という
気の毒に、都ではあれほど高い薄檜皮の屋根の立て並ぶ立派な屋敷に、車馬は門前に群れをなし客は殿中に溢れて、華やかにお住まいだったのに、竹の網戸に松の垣、時雨も風も防げないので、袂の乾く暇もない。だから、どんな宿業でこういう目に遭うのかと我ながら恨めしく生
その頃、上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔宗直を、所領を没収し宿所を壊して、共に越前国へ流し遣られた。この人々は、いくら何でも死罪が行われるまでのことは決してあるまいと当てにしておられたのか、しばしの別れを悲しく思って、奥方や子供達も皆連れてお下りになったが
その頃直義は、世の中との交わりを止めて細川兵部大輔顕氏の錦小路堀川の宿所に移られたのだった。それでもなお師直、師泰は、直義がこのまま最後まで憤りを収められることはなさそうなので、自分たちのためによくなかろうと思って、ひそかになき者にしようと内々に相談し
その頃、三条殿は、師直、師泰の憤りが依然として深いので、天下の政務に関与できないでいた。将軍はもともと政務を人に任せておられたので、関東から左馬頭義詮を急いで上洛させられて、直義に代わって政務を行うように申しつけ、師直が諸事を補佐することに決まったのだ
このことがあった後は、ますます師直の権威が重くなって、三条殿の方の人々は顔を伏せ眉をひそめる。中でも右兵衛佐直冬は、中国の探題で備後の鞆におられたが、師直が近国の地頭や御家人に触れを出して討ち申し上げよと言い遣ったところ、その年の九月十三日、杉原又四郎
将軍も左兵衛督も、「師直、師泰がたとえ押し寄せて来ても、防戦一方になったならばかえって恥であろう。兵が門前で防ぐ間にご自害下さい」と、軽い武具だけ身に着けて、覚悟を決めておられた。師直と師泰は、一時の勢いでここまで来たけれども、さすがに押し寄せることは
そうしている頃、洛中では今にも合戦が起こりそうだということで慌ただしくなって、貞和五年八月十二日の夕方から、数万騎の兵が南北へ走り行き交う。馬の足音、鎧の音が鳴り止む暇もなかった。 まず三条殿へ行く人々には、𠮷良左京大夫満義、同じく上総三郎満貞、石塔中
師泰が執事の宿所に着いて、三条殿と合戦の計画があると噂が広まると、八月十一日の夕方に赤松入道円心と息子の律師則祐、弾正少弼氏範が七百余騎で武蔵守の館に向かう。師直は急いで会って、「三条殿が理由もなく私の一家を滅ぼそうとのお考えで、ことはすでに切迫してい
こういうことがあっている頃、師直、師泰らを処罰することについて、上杉、畠山の讒言がなおも執拗で、妙吉侍者がしきりに申し上げるので、将軍にお知らせしないで、左兵衛督がひそかに上杉、畠山、大高伊予守、粟飯原下総守、斉藤五郎左衛門入道の五、六人が相談されて、
雲景が重ねて、「それではすでに乱悪の世であって、下は上に背き、師直、師泰はわがままに振る舞うばかりで、天下は保てるのか」と尋ねると、「いや、そうはいかない。いかにも末世濁乱の世で、下はしばらくは勝って上を犯すだろう。しかしまた上を犯す罪は免れがたいの
それにしても三種の神器を我が国の宝として神代から伝わる璽だが、国を治め守るのもこの神器である。これは伝えることが大切だ。ところが今の帝はこの宝器を伝えることがないまま位に即いておられるのは、本当の帝位だとは言いにくい。それでも三つの重要な儀式を執り行わ
雲景が重ねて、「先代の高時が宿縁尽きて滅びて、どうして先帝は長く世をお治めにならなかったのですか」と尋ねると、「それはまた訳があるのです。先帝は、ずいぶん賢帝としての行いをしようとなさったけれども、実際は仁徳や民を撫で育てるというお考えが総じて無かっ
「ブログリーダー」を活用して、いかるのうたさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下