ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
雲景は不思議な話を見聞きしたことだと思って、天下の重大事や将来の安否を聞きたいと思って、「それで、将軍ご兄弟と執事の間の不和は、どちらが道理にかなって一貫しているでしょうか」と尋ねると、「三条殿(直義)と執事の不仲は、この一、二ヶ月で起こるだろう。大
雲景は恐ろしく思いながら不思議なことだと思ってじっとしていると、第一の座にいた長老の山伏が、「これはどこからおいでの人か」と尋ねたので、案内の山伏がこれこれと申し上げる。するとこの老僧は会釈して、「それではこの間、京中のことを皆お聞きだろう。何事があ
またこの頃、またとない不思議なことがあった。出羽国羽黒という所に一人の山伏がいた。名を雲景と言った。珍しい体験をしたと言って、熊野の牛王宝印の起請文の裏に誓い文として書いて出した未来記があった。 雲景が諸国修行の全てを終えて、今年の春の頃から思い立って
こうしているところに将軍の御桟敷の辺りから、美しい女性が練貫の裾を高くとって、扇で幕を上げると見えたその時、大きな五、六寸角の柱で打ち付けてあった桟敷が傾いて、あれよあれよという間もなく上下四百五十mに渡って全部将棋倒しをするように一気にどっと倒れた。
今年多くの不吉な事が続く中で、洛中で田楽を楽しむことが常軌を逸していた。将軍がこれを好まれることが、他に類を見ない。そこで誰もが浮き足立って、朝夕このために金銭を浪費する。関東が滅びるに当たって高時が打ち興じていたが、北条一党は断絶してしまった。よくな
貞和五年(正平四年 一三四九)正月頃からその年の暮れまで。 貞和五年正月の頃から、流星や彗星が絶え間なく現れたので、どちらも慎みをおろそかにできないことであり、帝位への懸念、天下の異変、戦乱や疫病が起こるのではないかと、陰陽寮がひそかに奏上する
まず西国を平定するためにということで将軍の嫡男宮内大輔直冬を備前国へ下される。そもそもこの直冬というのは、昔将軍がお忍びで一夜お通いになった越前局という女性の腹に生まれた人ということで、初めは武蔵国東勝寺の小僧だったが、元服させて京に上らせた人である。
中でも言葉巧みに、例え話ももっともだと思われる事があったのは、ある時首楞厳経の講義が終わって異国や我が国の話になった時、吉侍者が左兵衛督に向かって、「昔、秦の始皇帝と申し上げた王に、二人の皇子がおられた。兄を扶蘇、弟を胡亥と言った。扶蘇は第一の皇子でい
この頃、左兵衛督直義朝臣は、将軍に代わって天下の実権を取られて後、もっぱら禅の教えに傾倒されて夢窓国師の弟子になり、天龍寺を建立して説法や法要に絶えずお招きになって、仏の供養や僧への布施の品物は人目を驚かさないということがなかった。 そこで夢窓国師の兄
この時、上杉伊豆守重能と畠山大蔵少輔直宗という人がいた。能力が乏しいのに官位は人より上であることを望み、功績は少ないが褒賞は人以上に得ようとしたので、師直と師泰が将軍兄弟の執事としてすべてを思い通りにしていることを妬んで、何かにつけて絶えずあら探しをし
これらはまだたいしたことではない。越後守師泰の悪行を伝え聞くと、思いも寄らぬことであった。東山の枝橋というところに山荘を造ろうというのでこの地の持ち主を誰かと尋ねると、北野神社の有力者である菅宰相有登卿の領地だということだったので、すぐに使者を立ててこ
そもそも富貴に驕り功績に驕って終わりが立派でないということは、世の常として誰でもあることだから、武蔵守師直がこの度吉野での戦いに勝って後、ますます心が驕って振る舞いがほしいままになり人の道をも顧みず世間の嘲りも気付かないことが多いのだった。 普通の決ま
貞和五年正月五日、四条畷の合戦で和田、楠の一族が皆滅んで、今は弟、次郎左衛門正儀だけが生き残っていると伝えられたので、このついでに残るところなく皆を滅ぼそうというので、高越後守師泰が三千余騎で石川河原に拠点の城を作って、互いに攻めたり攻められたりして合
そもそもこの北野天神の社殿というのは、承平四年八月一日に、笙の岩屋の日蔵上人が急死されたのを蔵王権現が左手にお乗せして閻魔王の宮殿にいらっしゃった時に、閻魔庁の第一の役人が一人の俱生神を付けてこの上人に六道をお見せした。鉄窟苦所というところに来てご覧に
そこで、楠の館も焼き払い、吉野の帝も捕らえ申し上げようということで、越後守師泰が六千余騎で正月八日和泉の堺を発って、石川河原にまず拠点の城を築く。武蔵守師直は三万余騎を率いて同じく十四日に平田を発って、吉野の麓へ押し寄せる。その軍勢がいよいよ吉野の郷に
そうして師直と楠の間が百mほどになった。これこそが求めていた敵だとはっきり見て、魯陽が二度も白骨を連ねて韓と戦った時の気持ちもこれ以上ではあるまいと勇み喜んで、千里を一歩で飛び掛かろうと気持ちばかりははやったけれども、今朝十時から午後五時まで三十回の戦
楠が上山を討ってその首を見ると、逞しく端正な男である。鎧を見ると、輪違いの紋を金属で透かし彫りにしている。「さては間違いなく武蔵守を討ったのだ。長年の願いを今日ついに果たしたのだ。これを見よ、方々」と言って、この首を宙に投げては受け取り、受け取っては手
いよいよ楠と武蔵守との間はわずかに五十mあまりの隔てになったので、あわや楠の多年の本望がここで遂げられるかと見えたところに、上山六郎左衛門が師直の前に駆けつけて塞がり、大音声を上げて、「八幡太郎殿からこれまで、源氏累代の執権として、武功を世に知られた高
これを見て、細川讃岐守頼春、今川五郎入道、高刑部大輔、高播磨守、南遠江守、同じく次郎左衛門尉、佐々木六角判官、同じく黒田判官、土岐周済房、同じく明智三郎、荻野尾張守朝忠、長九郎左衛門、勝田備前次郎、宇津木平三、曽我左衛門、多田院の御家人を初めとして武蔵
小旗の一隊は、初めから四条中納言隆資卿が偽って備えている見せかけの軍勢に対して、飯盛山に上って正面の軍勢の戦いをただ遠くから見下ろしていたが、楠の第二陣の勢いが戦い疲れて麓で休んでいるのを見て、小旗の一隊の中から、長崎九郎資宗、松田左近将監重明、弟七郎
そうしている中で、正月五日の早朝に、まず四条中納言隆資卿を大将として、和泉、紀伊国の野武士二万余騎を引き連れて、いろいろな色の旗を手に掲げて飯盛山に攻めかけた。これは、大旗、小旗の軍勢を麓に降ろさないで、楠を四条縄手へ攻め寄せさせようという策略だった。
師直、師泰は淀、八幡で年を越して、なおも諸国の兵が集まるのを待って河内へ向かおうと話し合っていたのだが、楠がすでに逆に攻めかかるために吉野へ参って暇乞いをし今日河内の往生院に着いたと伝えられたので、師泰がまず正月二日に淀を発って、二万余騎で和泉の堺に陣
京の軍勢が雲霞の如くに淀、八幡に着いたと伝わったので、楠帯刀正行と弟・正時一族は連れだって十二月二十七日吉野の皇居に参上し、四条中納言隆資を通して、「父正成が乏しい勢力で大敵の威勢をくじき、先帝のお心をお休め申し上げました後、天下は間もなく乱れて逆臣が
貞和四年(正平三年 一三四八)十二月頃から翌貞和五年四月頃まで 安部野の合戦は十一月二十六日の事だったので、渡辺の橋から押し落とされて流れる兵達五百余人が、死んでも仕方がない命を楠に助けられて河から引き上げられたけれども、秋の霜が体を傷め夜明けの氷
また大将山名伊豆守が切り傷や矢傷を七ヶ所も受けておられたので、兵達が前に立ってかばって、疵を吸い血を拭って少し時を過ごしたところに、楠の兵の中から年の頃二十歳ほどの若武者が和田新発意源秀と名乗って、洗い皮の鎧に大太刀小太刀二振りを腰に、百八十㎝の長刀を
去る九月十七日に河内国藤井寺の合戦で、細川陸奥守顕氏が戦いむなしく敗れて引き退いた後、楠帯刀左衛門正行は勢いに乗って都の周辺を常に侵略して奪っていったが、年内は寒気が甚だしくて兵達がみな指を落とし手がかじかむこともあるので、しばらくは措こうと放置してお
今年、昔安徳天皇が壇之浦で海底にお沈めになった宝剣が出てきたと、伊勢国から奏上した。その経緯をよくよく尋ねてみると、伊勢国の国崎神戸に、下野の阿闍梨円成という山法師がいる。伊勢神宮へ千日詣でを志していたので、毎日潮水で身を浄めて、一晩おきにお参りをして
楠帯刀正行は、父正成が先年湊川へ下った時に、「考えるところがあって、今度の合戦で私は必ず討ち死にをするだろう。お前は河内へ帰って、帝がどのようになられるかというご様子を、最後まで見届けよ」と言い含めたので、その教えを忘れず、この十余年自分が一人前になる
二 宮方の怨霊六本杉に会する事 付けたり医師評定の事 ~2~
四、五日経った後、足利左兵衛督の奥方が体調を崩して、和気と丹波両流の博士や内科外科の名医数十人を招かれて脈を取られると、ある者は、「お加減が悪いのは、風邪から起こったものですから、風邪を治す薬には、牛黄金虎丹と辰沙天麻円を合わせてお飲みになるのがよいで
二 宮方の怨霊六本杉に会する事 付けたり医師評定の事 ~1~
院の御所の妖怪だけでも世に稀な出来事と思って聞いたのに、また仁和寺に一つの怪異があった。嵯峨から京への帰りに通りかかった禅僧が、夕立に遭って立ち寄るところがなかったので、仁和寺の六本杉の木の下で雨の晴れ間を待っていたところ、そのまま日が暮れてしまったの
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下