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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き https://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

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  • 六 遺勅にまかせ綸旨を成さるる事 付けたり義助黒丸城を攻め落とす事 ~2~

    この二、三年、越前の城三十余ヶ所は互いに戦って、合戦の止む時がなかった。中でも、湊城といって、北陸道七ヶ国の軍勢がついに攻め落とさなかった城は、義助の若党、畑六郎左衛門時能がわずかに二十三人で立て籠もった平城である。南帝ご即位の時で、天運が得られる時で

  • 六 遺勅にまかせ綸旨を成さるる事 付けたり義助黒丸城を攻め落とす事 ~1~

    同じ年十一月五日、南朝の群臣は皆で相談して先帝に追号を送った。ご在位の間執政に多く延喜の御代を手本としておられたので、もっともその縁が深いということで、後醍醐天皇と諡申し上げる。 新帝は幼帝でいらっしゃる上に、君がお亡くなりになった後は全ての官が摂政に

  • 五 南帝受禅の事

    同じ十月三日に伊勢神宮へ奉幣使をお遣わしになり、第七の皇子が天子の位にお即きになる。本来なら皇位を継がれる方が即位される時は様々な儀式があるはずである。 まず新帝が即位される日に三種の神器を伝えられてご即位の儀式がある。 その翌年の三月に、卜部宿禰と

  • 四 先帝崩御の事 ~2~

    天下が長く乱れていることは、末法の世の習いであるから、言っても仕方がない。延喜、天暦の頃以来、先帝ほどの聖主であり武徳を備えた帝は、これまでいらっしゃらなかったのだから、特別な事がなくても、尊い徳が今一度開花してお仕えして忠節を尽くす望みは叶えられない

  • 四 先帝崩御の事 ~1~

    南朝の年号延元三年(一三三八)八月九日から、吉野の主上はご病気になられたが、次第に重くおなりだった。薬師如来の霊験にお願いしてもその効果がなく、名医の薬も、お飲みになっても効き目がない。お体は日々お痩せになって、崩御の時も遠くないだろうと思われたので、

  • 三 法勝寺の塔炎上の事

    康永二年(一三四二)三月二十日に、岡崎の民家から急に失火して、すぐに焼け静まったけれども、わずかな細い火屑が遠く一㎞あまりを飛んで、法勝寺の五重の塔の上に落ちた。しばらくは灯籠の火のようで、消えもせず燃えもしないで見えていたが、寺中の僧たちが入り乱れて

  • 二 佐渡判官入道流刑の事 ~2~

    叡山の衆徒はこれを聞いて、「昔から今に到るまで、喧嘩が思いがけず起こることが多いと言っても、いまだに門主や座主の御所を焼き払い、僧たちを後ろ手に縛るなど、聞いたことがない。ただちに道誉と秀綱をもらい受けて、死罪にしなければならない」ということを朝廷へ申

  • 二 佐渡判官入道流刑の事 ~1~

    この頃特に時流に乗って羽振りの好さが人目を驚かすほどだった佐々木佐渡判官入道道誉の一族や若党達が、ばさらと言われる派手に贅を尽くした振る舞いで、西岡、東山で小鷹狩りをして帰った時に、妙法院の御前を通りかかって、後に従う下僕達に、南庭の紅葉の枝を折り採ら

  • 一 天下時勢粧の事

    暦応元年(延元三年・一三三八)八月(正しくは暦応二年八月)から 康永元年(公告三年・一三四三)三月頃)まで 暦応元年の末に全国の反乱勢力の全てが天皇の執政を助けて、大軍が一斉に立ち上がったので、今はいよいよ帝のご運が開けるかと見えたのだったが、北畠

  • 十三 結城入道地獄に堕つる事

    中でも結城上野入道が乗った船は、強風に吹かれて、渺々たる海上に揺られ漂うこと七日七夜である。いよいよ大海に沈むか、地獄の番人の国に落ちるかと思われたが、風が少し静まって、これも伊勢の安野津へ吹き寄せられた。ここで十日あまりが経った後、なお奥州へ下ろうと

  • 十二 奥州下向勢難風に遭ふ事

    吉野では、奥州の国司が阿部野で討たれ、春日少将が八幡の城を落とされて、兵士たちは皆力を落としていたが、新田殿が北国から攻め上るということが帝に伝えられていたのを頼りになされて、今か今かとお待ちになっているところに、この人も足羽で討たれたと伝わったので、

  • 十一 義貞の首獄門に懸くる事 付けたり勾当内侍のこと

    新田左中将の首が京都に着くと、「これは朝敵の最たるものであり、幕府にとっての敵の筆頭である」ということで、大路を引き回して獄門に掛けられる。この人は前帝の寵臣で、武人としての功績は世に広く及んでいたので、天下の拠り所としてその厚い志を大切に思い、その恩

  • 十 義助重ねて敗軍を集むる事

    脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸城へ帰って義貞の行方をお尋ねになると、始めの頃ははっきり知る人もなかったが、事の様子が次第にはっきりしてきて、「お討たれになったのだ」と話が一致したので、「日を措かずに黒丸へ押し寄せて、大将のお討たれになった場所で一緒に討

  • 九 義貞自害の事 ~2~

    戦いが終わって、氏家中務丞が尾張守の前に来て、「私が新田殿のご一族かと思われる敵を討ち取りました。誰とは名乗りませんでしたので、名は分かりませんが、馬、武具の様子、付き従っていた兵達が死骸を見て腹を切り討ち死にいたしましたことで、きっと並みの武者ではあ

  • 九 義貞自害の事 ~1~

    燈明寺の前で三万余騎を七隊に分けて、七つの城の連絡を絶ち、まず攻めるための砦を作られた。前もっての手配として、「先陣の兵は城に向かって合戦し、後ろの足軽は櫓を作り塀を塗って砦を作り上げた後に、徐々に攻めることにしよう」と決められたが、平泉寺の衆徒の籠も

  • 八 義貞の馬属強ひの事

    閏七月二日、足羽の合戦をすると告げられると、国中の官軍が義貞の陣河合の庄に馳せ参じた。その軍勢はまるで雲霞のようだった。大将新田左中将義貞朝臣は赤地の錦の直垂に脇楯だけを付けて主殿から離れた詰め所の上座に座られると、脇屋右衛門佐は紺地の錦の直垂にちょっ

  • 七 義貞夢想の事 付けたり諸葛孔明が事

    それから七日目の夜、義貞朝臣は不思議な夢を見られた。場所は今の足羽辺りと思われる川縁で、義貞と高経とが向かい合って陣を張っている。まだ戦わないで数日を経たところ、義貞が急に長さ九十mほどの大蛇になって、地上に寝ていた。高経がこれを見て、兵を退き楯を捨て

  • 六 義貞重ねて黒丸合戦の事 付けたり平泉寺調伏の法の事

    義貞が京都への出発を急がれたのは、八幡の官軍を元気づけ、洛中の隙を狙おうとしたためである。ところが今、その打ち合わせに手違いが生じたからには、慌てずに越前の敵を全て討ち滅ぼして、再度吉野と打ち合わせてから京都の合戦をしようということで、義貞も義助も河合

  • 五 八幡炎上の事 ~2~

    この時、城中の官軍に、多田入道の部下に高木十郎、松山九郎といって名を知られた兵二人がいた。高木は、気持ちは強いが力が足らず、松山は力は世に優れていたが臆病だった。二人とも同じ城門を守っていたが、第一の門を敵に攻め破られて、第二の門でなお防いでいた。敵が

  • 五 八幡炎上の事 ~1~

    将軍はこのことをお聞きになって、「八幡の城をまだ攻め落とさずに兵達が戦いに疲れているところに、脇屋右衛門佐義助が山門と示し合わせて北国から上洛するらしいが、それはゆゆしい大事だ。その時になって退くようでは、南の敵が勝機として勢いづくだろう。まだ事が大き

  • 四 義貞山門に牒す同じく返牒の事

    児島備後守高徳が義貞朝臣に向かって、「先年京都の戦いの時に、官軍が叡山を攻略されたことは、全く戦いの雌雄を決したものではなく、ただ北国の敵に道を塞がれて兵糧に困窮したからです。今後もその時のようでしたら、かりに山上に陣を進められましても、また先年のよう

  • 三 宸筆の勅書義貞に下さるの事

    数日が経って、越後勢がすでに越前の河合に着くと、義貞の軍勢はますます強大になって、足羽の城を攻め落とすことは片手でもできると、皆が掌を指さすようなものだと思った。なるほど尾張守高経の忠義の心は奪いがたいけれども、小さな平城に三百余騎が立て籠もって三万余

  • 二 越後勢越前に越ゆる事

    そこで、越後の国はその国境が上野と接していて新田の一族が多くいた上に、元弘以後義貞朝臣が朝廷からの恩賞に所領として任されて長年になっていたので、国中の地頭、御家人がその治政に当たることも久しかった。義貞がいよいよ北国を平らげて京都へ攻め上ろうとしておら

  • 一 黒丸城初度軍の事 付けたり足羽度々軍のこと

    巻第二十 暦応元年(延元三年)(一三三八)五月から九月中旬まで 新田左中将義貞朝臣は、去る二月の初めに越前府中の合戦でお勝ちになった時、国中の敵の城七十余カ所を瞬く間に攻め落として、勢いがまた強大におなりになった。この時山門の衆徒は古いなじみで

  • 九 青野原軍の事 付けたり嚢沙背水の事 ~5~

    この頃、顕家卿と弟春日少将顕信朝臣はこの度南都から逃れた敗軍の兵を集めて和泉国へ討って出て、近隣を侵略しそのまま八幡山に陣を取って、京都を飲み込む勢いになった。これによって京都はまた大騒ぎをして、急いで討手の大将を差し向けようと厳しく命令を出されたが、

  • 九 青野原軍の事 付けたり嚢沙背水の事 ~4~

    その噂が京都にそのまま伝わったので、将軍は大変に驚かれて、急いで南都へ大軍を出して、「顕家卿を阻止せよ」といって討手の相談をされたが、自分が向かおうという人がなかったのだった。これはどうしようかと二人の将軍が適当な人を選考された時に、師直が、「何とし

  • 九 青野原軍の事 付けたり嚢沙背水の事~3~

    さて、国司の軍勢十万騎が、垂井、赤坂、青野原に溢れて、東西四㎞、南北二㎞に陣を張った。夜ごとの篝火を見渡すと、全天の星が落ちたように光っている。この時、越前国で新田義貞と義助が北陸道を平定して、天を動かし地を支配するようである。奥州勢がもし黒地川の陣を

  • 九 青野原軍の事 付けたり嚢沙背水の事 ~2~

    京都では、奥州勢が上洛するということがはやばやと伝えられていたけれども、土岐が美濃国にいるから、それでも一旦は食い止めるだろうと当てにしていたところに、頼遠はすでに青野原の合戦に敗れて行方知れずになったとも伝わり、あるいは討たれたという話もあったので、

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