最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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そういうわけでダウンジャケットは買わないようにしている。
私の体感では3尺を飛ぶのは苦痛なのである。
柳田國男とて、あまり外来語は使いたくないというわけのわからないこだわりを、まさか半世紀以上を経てから押し付けられるとは思ってもみなかったろう。
【朗読】山の人生その25『山男は米を好む』柳田國男※赤き人への警告
我が先祖も、ともすると『国』という概念や『人種』という概念自体が曖昧で、何となく仲良くなった相手と子供を作っただけの事なのではないか…と思われてならない。
思えば今でも密林の中に太古の生活をしている人たちは確かにいるわけで…こういった種の山人が居ないと言い切るのも短絡的な気もする。
昔話で、一般人が手裏剣を持ち歩いていたという描写はあまり見ない為、一番ジェネレーションギャップ的なものを感じた。
モテない奴ほどしつこいという通説に、どうやら性別は関係ないらしいことを痛感させる。
【朗読】山の人生その21『山姥をはじめとする山の物の怪』柳田國男
『賛成はしないが理解したい』この姿勢自体が、何か次の時代にとって大切な概念になるのではないかと感じている。
私も傍目には…早朝の暗闇にうろつく山の物の怪の類と同じような存在なのだろう。
【朗読】山の人生その19『母神としての山の神』柳田國男※穢れについての考察
山の男は粗相に寛容なのだろうか?
自分の苗字そのままを柳田國男に言われるとさすがに何らかの縁を感じる。
平均値をはみ出た人は、案外江戸時代よりもずっと以前に生まれていた方がうまくいったのかもしれない。
【朗読】山の人生その16『深山の婚姻』柳田國男※日本人の自然崇拝心理
自然に対する共感心理の深さこそが日本人の日本人らしいところで、だから山の神やら天狗やら神隠し現象を、一種子供っぽい純粋さで…まことしやかに信じてしまった要因なのではないかと思うのだ。
そこには『薔薇色のドレス』を身に纏ったマリアが居たのです。
型紙?寸法? そんなものは無い、というかそんな概念自体が私には無い、定規自体使っていない。
【朗読】山の人生その15『神隠しに遭った者は生きている』柳田國男
日本の思想については系統立てて掴むことが出来ないので、それがとても土着的、太古の母系社会の名残が色濃いように思われる。
私はこの手の神、天狗、山の神、狐や狸だとか、宇宙人の事をあれこれ空想するのはすごく好きだが、現実的に『幽霊のせい』『悪霊のせい』『カルマ(業)のせい』にする文化そのものを好まない
幼い時の自分が幾度も姿を消した時も、これも昔であれば、我が両親も『呼ばわり山』へ行ったかもしれない。
夜間、狸が人間同様に信号待ちをしているところを見た!という話も聞いたことがある。
聖なる人と物の怪の中間ぐらいが私にとっての仙人であり…ややもすれば下品な印象すらある
『名古屋の秋葉大権現の怪異』だけは、単に秋葉大権現の火渡りだとか寺の話ばかりで、『急逝した若き神秘的な青年』の事はヒットしなかった。
全く以て勝手な思い込みだが、なんとなくこの件で、柳田國男が自分の仲間のような気がして嬉しい。
もっと言えば顔を洗っている瞬間なんかも、子供時代には『世界の外側』に感じたものだ。
かくれんぼをしたことのない層が国民の大半を占めるようになった時には『かくれんぼ』と名の付く妖怪、ないしは怪談が誕生することと思う。
【朗読】山の人生その6『山の神への嫁入り』柳田国男※母系社会への考察
ある意味我々もまだ古代人なのだと思う。
賢母として崇敬せられたのは、今で言う所の、言語を忘れるほどの重度の精神疾患から自力で立ち直り、言葉で『神の世界』をきちんと仲間(群れ全体)に説明できる、健康な子供の居る女性のみ、であったろうから… 案外シビアな世界だったと思う。
…ちなみに私は肉は食べないのだが。
よって私も、柳田国男先生の言う所の、『木曾の山奥で岩魚釣りをする不愛想なオヤジ』と同じような存在だろうなあ、と読みながら感じた次第であります。
サンカは案外、身近にいるのかもしれない。
そして柳田国男先生ご自身もまた言い回しが日本的である…どういうことかと言うとまず『主語が無い』部分が多々ある。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。
宇宙全体で一番移動速度が速いのが光(高速)であるとして、それすらも揺らすのが振動であると思うので、だから人体の中に音を発生させる器官が在るというのは即ち…人間には、過去も未来も変えられる力があるのではないか?と、考えている。
この領域になってくると、芸術と宗教と医療の境目なんかはもう無くなってくる。
朗読(稽古)をしていると、『ヒトは海の生き物の一種なのだろうな』という体感を得る事がよくある。