最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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その被造物は私たちと同じように飲み食いし、私たちと同じようにくだらないただの人間である、ただの神からの作り物に過ぎない、この点では本当に偶像であると感じている。
同国人にさっぱり理解してもらえない苦しみ、言葉は通じるのに話が通じない苦しみ、大勢の中で感じる異端の苦しみ…一番合理的な方法を解いているにもかかわらず、自分の属する国家集団が全く非合理的な結論に飛びついて自滅しようとしている有様を目の当たりにした預言者エレミヤ。
エレミヤ書はヨブ記に勝るとも劣らない、孤独の書物である。
それどころか美術品や芸術品は究極的には、所有者か、あるいはそれを欲しがる人にしか必要とされていないのではなかろうか? 一方で道端や川に捨てられているゴミ、至る所に散らばるゴミは、それが家電などの粗大ごみであれ包装用紙であれ缶であれ…実は世の中の大半の人に必要とされているモノなのである。
ビスクドール・ブリュジュン、マリア※個人的な内容、素敵な美術品をお迎えしました
さて、彼女…このお人形の名前はマリア。何故マリアなのか…?それは私にもわからないのです。彼女が自分でそう言ったのです。
なんで悪魔についてくどくど書いたのかというとそれもこれも山羊可愛さゆえである。動物に罪は無い。雄山羊を恐れるなかれ。…確かに、猛り狂う雄山羊は意外と狂暴そうではあるが。
特に、三人目の王である征服者ダリヨス王なんかは、ダニエルの祖国を侵略した王の国を、さらに侵略した王であるので、実はほとんど直接的にはダニエルとは関係ない立場の人間でさえあるのだが…それでもダニエルと独特の友情を保っている情景が、まるで銀幕映画でも観ているような感覚に陥り、癖になる。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。